
先だって、藤子不二雄A氏がなくなったこととは全然関係ないのだが(※1)、唐突ながら、『ドラえもん』についての野暮な、ものすごく野暮な指摘を一席。
まあ、あくまで子どものためのギャグ漫画なのだから、真剣に考察しようなんてのは無粋以外の何物でもない。
が、さすがは国民的漫画。そう、『ドラえもん』と言えば、国民的メジャー作品だけに、『サザエさん』と同様、その「ツッコミどころ」が話題にのぼることはけっこう多い。
たとえば、根本的な話として、ドラえもんのような異形の存在が平気で町を歩いていることに、誰も何とも言わないのはなぜかとか(※2)。それに、ドラえもんの未来テクノロジーに対し、誰も注目し利用しようという人たちが出てこないのも、なぜなんだろうとか。
あるいは、ジェンダー論的に静香の交友関係に難癖をつけたり。ジェンダー論的にその言葉遣いにも物申したり(※3)。のび太の先生のキャラクター造形にも問題があるぞとか(※4)。
かなり細かい、どうでもいい指摘だと、スネ夫の両親は、もともと他人同士のはずなのに、なぜお互いに似ているんだ?(※5)まさか近親婚か?とか。
それらはいずれも、「子ども漫画だから」の一言で片づけられてしまうようなツッコミどころだが、それでもあえて『ドラえもん』に大の大人が大真面目にツッコむという趣旨では、既によくまとまった、すぐれた先行文献がある(※6)。
本稿では、その本では取り上げられていたかはどうかは覚えていないが、下記の話題のみに絞って駄文を綴らせてもらおう。
それは、のび太の交友関係が成長しない件である。
例の「ドラえもんはのび太が作ったものだった」の私家版最終回にしても、オフィシャルの「結婚前夜」のバチェラーパーティー(スタッグパーティー)や「宇宙完全大百科」回(※7)の結婚写真にしても、のび太の交友関係はずーーーーっと、ジャイアン、スネ夫、静香、出木杉、だけなのである。誰も加えず、誰も去らず、小学校時代の数人とだけ、ずーーーっとつるみ続けている(※8)。
漫画なんだから、つまんないことにツッコむなと言われちゃえばそれっきりだが、現実に置き換えてみれば、異常である。
過疎地区ならともかく、都会で、小学校時代の友達だけとずーっと大人になるまでつるみ続けるなんてことは、普通は・・・まああり得ない(※9)。
設定上の舞台は東京都区部のはずで、主要キャラはジャイアン以外、みんなある程度裕福なホワイトカラー家庭だから(※10)、おそらくジャイアン以外は今日び大学まで進むだろう。
都区内の山の手在住ということであれば、勉学優秀な出木杉君や学者の娘である静香は、中学で国立か私立に進む可能性がじゅうぶんに高い。資産家の社長令息のスネ夫ももちろんそうだろう。
のび太は微妙なところだが、本人に中学受験する意志はなさそうだし、親もあまり期待していなさそうだから、無難に公立中→公立高のコースかな。
そしたら、スネ夫と静香と出木杉は国立または私立中学へ進み、のび太とジャイアンは地元の公立中へ、となり、高校受験の時には、たぶんサラリーマンの息子であるのび太はあまり深い考えなしに「何となく」で普通科を選ぶだろうが、ジャイアンは商店の跡取りということで、職業科に進むかもしれない。
だとしたら、たとえばーあくまでたとえばー以下のような進路が予測できるのではなかろうか(※11)。
・出木杉=筑駒、筑付あたりの一流中高から東大へ、さらにその後は霞が関キャリア組へ。
・静香=四谷雙葉、大妻本校、鷗友あたりの中高一貫お嬢様進学校から早慶上智あたりへ、さらにその後は士業や大学研究者、シンクタンク研究職、コンサルタントなどの何らかの知的職業へ。
・スネ夫=成城学園、成蹊あたりのお坊ちゃん向け中高一貫校からそのままエスカレーター大学へ、さらにその後は一般就職の数年間の「修行」を経てから父のオーナー企業の後継者に。
・のび太=地元公立中から中堅都立普通科を経て、大東亜クラスの中堅私大へ(※12)、さらにその後は何らかの就職をするが、キャラ的には営利企業の営業マンなどには向かないので、役所の事務あたりにもし就職できれば御の字か。
・ジャイアン=地元公立中から職業科の高校を出て、自営商店を継ぎ、時代の流れでコンビニフランチャイズ化。
と、このように、小学校を出た後はーのび&ジャイは中学を出た後はー各自バラバラになるはずだ。それが世の常だ。小学校の同じ教室にいた「仲間」とは、いずれみんなバラバラになる、そういったものだ。私ももちろんそうだった。
そしたら、アッパーなコースに進んだ者はアッパーなりに、そうでないコースの者はそうでないなりに、自分と近しいタイプの人間と出会い、そこで新たな交友関係を仕切り直すことになる(※13)。
改めて思い返してみれば、もともと地元の公立小や公立中なんて、人工的に区切った特定エリアの中で、たまたま同じ時期の4月から3月の間に生まれた子ども(※14)を一か所に集めているに過ぎない。だから、実はそんなのは、たとえば偶然同じ電車やバスに乗り合わせた、あるいは偶然同じ映画館で同じ上映回の時にいた程度の存在同士でしかないわけで、家庭環境も本人の性格・趣味も勉学・フィジカルのレベルもバラバラで当たり前である。身も蓋もないことを言ったら、クラスの「友情」、「団結」、「一体感」なんて、なくてもともとのフィクションであろう。
ハナから似たタイプ同士で惹かれ合うような関係ではない無作為の集団だからこそ、当然、衝突も起こりやすい。公立中→公立高コースの場合、中学までで多いいじめが、高校になると一気に少なくなる理由の一つとして、「中学まではいろんなレベルのいろんな人たちがゴッタ煮だが、高校は近いレベル同士、似たタイプ同士が集うので軋轢が起きにくい」ということが挙げられる(※15)。
さて。
余談はともかくとして。
かくして、のび太もスネ夫もジャイアンも静香も出木杉も、それぞれのレベルに見合った青春のステージで自分に相応の気が合う親友と出会ったに違いない(※16)。
やがて、自然の理として、交友関係はもっぱらそちら中心になり、高校の友人、大学の友人、そして社会人になってから知己を得た人々、といったつきあいがどんどん増える分、小学校時代の友人とつるむなどということは、ほぼ消滅するはずである(※17)。ハッキリ言って、一緒に遊ぶどころか、思い出すことさえほとんどなくなるに違いない。
それこそ、成人式の日に再会して(※18)ちょこっと挨拶程度の会話をするのが関の山なんじゃなかろうか(※19)。
同じ高校、同じ大学を出た同質的仲間であれば、その後の職業、社会的地位、収入など、さほど大きくは変わらないはずだが、同じ小学校出身、という程度の共通項では、当然ながら、大人になってからの職業、社会的地位、収入など、ピンキリであり、もはや「世界が違ってしまっている」ぐらいかもしれない(※20)。
『ドラえもん』世界の場合であれば、静香は静香で、のび太はのび太で、それぞれ高校時代、大学時代の友人と深くつきあい、やがて誰か自分の社会階層内で伴侶を見つけて、めいめいの人生を生きていくはずである(※21)。
結論として、のび太と静香は結婚しないし(※22)、コンビニフランチャイズオーナーのジャイアンとも財界二世のスネ夫ともキャリア官僚の出木杉とも大人になってからは全員まったくの没交渉になる、はずだ(※23)。
(※1)
長生きだった藤子A氏も遂に亡くなってしまい、トキワ荘グループの人たちも、存命者は主だったところだと、つのだじろうと鈴木伸一(小池さん)ぐらいになってしまったねえ、と嘆かずにはいられないわけだが。
さて。
世の中に、漫画家短命説というのがある。
漫画家は、締め切りに追われながら必死にアイディアを絞り出す過酷な職業だから、生活も不規則かつ不摂生になりやすく、それゆえ漫画家は短命な人が多いのだと。
たしかに手塚先生も藤子F不二雄も石ノ森章太郎も赤塚不二夫も、いまだに存命でも全くおかしくないのに、軒並み50代から60代という、今日の平均寿命からしたら、かなり若い年齢で他界している。彼らより若い世代のさくらももこもそう。逆に彼らより上の世代の長谷川町子も、姉と妹がそれぞれ90以上という長生きだったのに一人だけ70代で亡くなっており、飲酒・喫煙・賭博といった不健康なこととは生涯無縁だったにもかかわらず、女性にしては短命だった(でももちろん、功成り名を遂げ、歴史に名を刻んだのだから、姉や妹よりずっと幸せな生涯だったと見なす人も多くて当然である)。
他に、ちばあきお、いそべみえこ、山田花子などは自死という特殊なケースだが、それら心を病んで自ら命を絶ってしまった痛ましい事例も含めて、漫画家は「命を削る」厳しい職業で、早世を運命づけられているのか、と思ってしまいそうになる。
が、もちろん例外はあるぞ、という反証も出てくるわけで。
大物では、田河水泡先生、横山隆一先生、水木しげる先生、そして藤子不二雄Aこと安孫子素雄氏も長寿だったではないかと。
藤子A氏の場合、ベジタリアンだったことと併せて、「明日にのばせることを今日やるな」というようなマイペース主義者だったところも精神衛生上良かったのかもしれない。なるほど、そういう意味では潔癖なぐらいに真面目すぎる完璧主義求道者だった相方の藤子F不二雄や師匠の手塚先生とは対照的だ。むしろ水木先生の寝ぼけ人生に近いかもね。フハッ。
と、それはさておき、アーチストを天才型と秀才型に分けた場合、いろいろ異論はあるかもしれないが、藤子F不二雄は天才型、藤子不二雄Aは秀才型ではないかと思う。
人づきあいが苦手で世間ずれしていなくて(「世間ずれ」の意味は世の中から「ズレている」ことではなく、世慣れしていて世渡り上手で狡猾という意味よ、念のため)、されど天才という藤子F不二雄に対し、『まんが道』シリーズで描かれた通り、いろいろな人と飲みに行ったりゴルフに行ったりして幅広く人づきあいをした「渉外担当」の藤子Aを、「ケン・フランクリン」になぞらえたがる人もあるかもしれない。
ケン・フランクリンとは、『刑事コロンボ/構想の死角』(1971)の登場人物で、「二人で一人」の作家コンビの、執筆ではなくマネジメントのほうを担当している人物である。
でも、藤子A氏の名誉のために、その見立ては否定せねばなるまい。藤子A氏は、たしかに藤子F氏に比べると凡人に見えるかもしれないが、ケン・フランクリンと違って、自身にもちゃんと著作のある人で、そして重要なポイントとして、『まんが道』や『少年時代』や『劇画毛沢東伝』はFにはおそらく描けない作品だということを強調しておくべきだろう(もちろん、逆にFの『おれ、夕子』や『流血鬼』、『未来ドロボウ』などは、Aには描けないだろう作品である)。
同じく、「もしかしたら、私も一歩間違っていたら、こんなふうになっていた??」なんて想像をして胸をしめつけられる人も多いだろう短編『明日は日曜日そしてまた明後日も・・・』などは、ニートという言葉も引きこもりという言葉もない70年代初頭に、今日の8050問題を見事に予言した恐るべき作品であり、今なお身につまされる、つらい作品でもある(ある程度のサラリーマン経験を持つAから、狭義の社会人生活を秒殺でドロップアウトしたFへの当てこすり作品?なんていう解釈も可能かもしれないが、それはさすがにうがった見方か)。こういう作品もまた、Fには描けない作品であろう。
そう。藤子Fは前に別稿でも触れた通り、何げにSF的・超自然的要素のない作品は最初期を除いてほとんど描けてない人なのだから(もちろん、FのほうにもAには描けないであろう傑作は多いわけで、どちらがすぐれているかとかいう単純な話ではない)。
また、藤子F不二雄の代表作の一つとして知られる『パーマン』は、もともと藤子不二雄Aの『わが名はXくん』、『マスクのXくん』をヒントにできた作品である。すなわち、『Xくん』なかりせば、『パーマン』もなかったのだ。
ちなみに、『まんが道』では、才野茂と満賀道雄は同じ高校に通っているが、史実では二人は別々の高校に通っていて、藤子Aは満賀と同じ普通科の高岡高校卒だが、藤子Fは意外にも工業高校卒らしい。
たしかに、後の『ドラえもん』の「ひみつ道具」をはじめ、藤子Aと違って機械に並々ならぬ関心があることから、なるほどとうなずけるところである。
(※2)
そんなことを言い出したら、オバQもブースカもアッチもロボコンもピョン吉もコロ助もみんなそうなんだが。
正太「これ、オバケのQちゃん。うちに置いてあげてよ」
ママ「オバケと猫と、どっちがご飯いっぱい食べるかしら」
いやいや(笑)。その前に言うことはないのか(笑)。
(※3)
静香が女子の友達と普通に遊んでいるようなまっとうな描写は連載後期になるほど少なくなり、まるでのび太ら男子とばかり遊んでいるように見えてしまうのは明らかに不自然で、現実の小学生女子の交友関係からすればあり得ない、と、ジェンダー論客たちから、その時代のリアルに即していない言葉遣い(いわゆる「てよだわ語」的語尾など)とともに批判の対象となってきたわけだが(たとえば斎藤美奈子氏あたり)、最近のアニメ版ではどうなのかは知らない。是正されているのだろうか。
なお、これは下記の注6の書籍で既に指摘されていることだが、そもそものび太のような「ダメな少年」が、静香のような「かわいい女の子」と結婚するという設定自体、男子読者にとっては「夢のある」設定であっても、女子読者にとっては少しもそうではない。とともに、かわいい静香と結婚=幸せ、ブスなジャイ子と結婚=不幸、という発想自体、改めて考えれば、大いに問題があるだろう。
(※4)
のび太の先生についても、現実にこんな先生いないよ、とツッコめるかもしれない。
いわゆる生活指導的なことはせず、たえず学業のことでガミガミ怒ってばっかり(と書くと、いや、のび太を褒めているシーン、励ましているシーンもあるよと言われそうだが、総体的に、という意味で)という、そんなスパルタ中学受験塾の教師みたいな小学校教員は現実にはいないだろう、と。
そこのところは、『ドラえもん』は学園ドラマではないので、教師は、ただ「権威者であり敵」という役割以外は何も与えられていない記号的存在に過ぎないのだ、と説明されるところであろう。
ちなみに、公立小学校の教員というのは、現実には中年女性の比率が高いのだが(要出典w)、F作品『ドラえもん』、『パーマン』、『ウメ星デンカ』、A作品『忍者ハットリくん』、『怪物くん』、合作『オバケのQ太郎』と、軒並み男性が担任なのは、両藤子とも、女性キャラを描くのが苦手で、極力描くのを避けたいという思いが無意識に出たから、なのだろうか(F作品『21エモン』の担任も男性だが、この作品の場合、小学校じゃなく中学校かもしれないので、ちょっと除外しておいた)。
(※5)
余談ながら、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ(1985~91)のツッコミどころとして、優先順位の高いツッコミポイントではないながら、パート3のリー・トンプソンへの指摘があろう。
だって、マーティの父親であるジョージ・マクフライと母親であるロレイン・マクフライ(旧姓ロレイン・ベインズ)は、もともと他人なんだもの(当たり前)。ジョージの先祖たるマクフライ家の家系と、ロレインの先祖たるベインズ家の家系は、それぞれ別個にさかのぼれるはず(当たり前)。
なのに、なぜ、パート3のマクフライ農場に、ロレインそっくりの人がいるんだ(笑)??
楽しいコメディ―なんだから、そんなことは気にするな、でいいのかな。
と、それはさておき、スネ夫に話を戻すと、スネ夫の両親は二人ともスネ夫と似た顔なのに、原始時代のスネ夫の祖先は、両親とも全く独自の顔で、スネ夫とは全然似ていなかったね。
(※6)
『読解!ドラえもん講座』(中川右介/文庫ぎんが堂/2019)
(※7)
これは初出が1990年だが、『亀有』59巻の「テレビでこんにちは!」(初出1988)のリモート飲み会予言や46巻の「よく学びよく遊べ!」(初出1985)の倍速視聴予言とともに、現在のウィキペディアやクラウドを予言していると思う。
(※8)
ちなみに、『ズッコケ三人組』シリーズも、『ドラえもん』と同じく、大人になっても小学生時代の仲間とだけずーーーっと関わり続ける作品である。
(※9)
慶応幼稚舎から慶応大に行った人みたいに6歳から22歳までずーっと同じ学校というんだったら、あり得なくもない?
いや、だとしても、中学から、高校から、そして大学からと、大量に新規の学友が途中参入してくるから、幼稚舎組も、それぞれ新規参入の友人らと人間関係を都度都度シャッフルしていくもので、幼稚舎以来ずーっとコイツらとだけつるんでいるんだ、なんていう視野の狭い人たちは案外少ないんじゃないかな、たぶん。知らんけど。
(※10)
出木杉君の家族環境はあまり登場しないが、立派な個室を持ち、大量の蔵書を持っているから、経済資本的にも文化資本的にもめぐまれた環境であることは間違いないだろう。
(※11)
原作通りの東京設定の場合ね。京阪神設定や中京設定だとどんな具合になるのか、誰か教えてほしいものである。
(※12)
高校はたまたま勢いで合格、大学は一浪の後、補欠合格、というのが前掲「宇宙完全大百科」のオフィシャル設定である。
(※13)
のび太も、おそらく高校生になったら、『桐島部活』の前田涼也にとっての武文のような同好の士(オタク親友)を得て、やりたくもない野球に無理やり参加させられていた小学校時代なんかより、ずっと楽しい学園生活を送っているだろうと信じたい。
(そして、大人になってからも長く交際する生涯の親友は、小学校の同級生であるジャイアンやスネ夫ではなく、そっちの高校時代の親友のほうだろう)
(※14)
厳密にいうと、ある年の4月2日から翌年の4月1日が一つの学年になる。
(※15)
それにもちろん、高校生になると、行動の自由度が一気に増すので、ぶっちゃけ、いじめなんかより遥かに楽しい遊びを覚え、いじめなんてしている場合じゃなくなるということもある(極端にひどい不良は、そもそも学校から勝手にいなくなってくれるし)。
語弊を恐れずに書くならば、だが(ちなみに、首都圏でよく言われる私立ならいじめがない、というのは幻想である。たしかに相対的比較で見ればマシではあるとしても)。
(※16)
だから当然、静香も後期原作や長編と違って、のび太や出木杉とばかり遊んでいるなどということはなく、普通に当たり前に女子たちの輪の中でガールズトークをしていたはずだ。
(※17)
あくまで大都市の場合だが。
(※18)
そもそも、のび太たちのように東京の山の手の子どもであれば、小学校時代を過ごした町と成人式時点で住んでいる町が違うというケースは珍しくも何ともない。
農村の人にはピンと来にくいかもしれないが、首都圏の小学生の住む家は、マイホームとは全然限らず、親が持ち家を取得する以前の、社宅だったり官舎だったり自腹賃貸アパートだったりとまちまちで、彼ら彼女らは中高生時代ぐらいに親がマイホームを手に入れると、それに伴って小学校時代を過ごした町を離れる、なんてことが非常に多い。
そしたら、成人式は、成人した時点で住民票のある市町村で出ることになるから、小学校の同窓生とは再会しようがないわな。
ちなみに、私事ながら、自分の場合は、私立中学に進学してから中2の時に引っ越したが、たまたま自治体をまたがない転居だったので、成人式で小学校の同級生と再会することは可能なはずだった。だが、成人式の日、どうしても外せない所用があって、欠席した。どうでもいい話だが。
と、それはさておき。
マイホームか否かの話で興味深いのは、『オバQ』における設定のゆらぎである。
『オバQ』の正ちゃんの家は、旧作の時は借家で、大家が家賃を値上げしようとする回があったり、マイホームを手に入れるべく土地を見に行く回があったりした。ところが、『新オバQ』では、オバケ新聞の三下(みくだり)さんゴシップの回で、正ちゃんが「うちのアパート」に住んでいる人として、三下さんを紹介している。
つまり、借家住まいの店子の身分から、一転してアパートオーナーになっているわけだ。正太パパに何があった?
と、ついでのついでに、のび太の家も、『ゆうれい城』の冒頭の会話を見る限りだと借家である。が、過去にタイムトラベルすると、のび太の生まれた頃も、もっと昔ののび助が子どもの頃も、さらにもっと昔のハレー彗星の曽祖父の子ども時代も同じ場所に住んでいる。
別に親子代々、100年近く同じ家作を借り続けて悪いわけではないが、普通、100年も代々ずっと住んでいるといったら、持ち家だろう。
結局、正ちゃんの家の件と同じく、「設定のゆらぎ」なのかな。
(※19)
そこから再び友情の交流が復活する、なんてのは、重松清の世界だけじゃないのか、たぶん。上記の通り、私は成人式に行かなかったからよくわからんけど。
(※20)
そこで、唐突ながら、私は宮部みゆきの『ソロモンの偽証』のおかしさというか、作品設定の難しさを思い出す。
『ソロモンの偽証』と言えば、おもしろい部分も多々ある反面、無理のある部分も多くて、評価の難しい小説であった。分厚めの文庫本6冊という怒涛の長さで展開された「模擬裁判ごっこ」のオチがそんなんかい!!という怒りももっともだし、映画版のほうは原作改悪があまりにひどすぎた。成島出監督は、『八日目の蝉』の時とは真逆で、原作をここまでおとしめるかと、あきれるぐらいの改悪ぶりであった。
が、それはさておき、原作段階でそもそも無理がありまくったのが、「中学生でこんなに頭が切れるわけないだろ。現実の中学生を知らんのか。自分が中学生だった頃のことを忘れたのか。実際の中坊なんて、もっともっと『ガキ』だぞ」という件。
たしかに、『ソロモン』原作の中学生たち、とくに涼子、和彦、井上らのアタマのレベルは、高校生ならまだしも、中学生とするには、さすがに無理がある。しかし、そうであるにもかかわらず、高校でなく公立中学を舞台にせざるを得なかったのは、言うまでもなく、涼子や井上が一緒に通うような高校なら、逆に大出のような生徒は入学できるわけがないからである。
余談の余談だが、実は韓国版のドラマ『ソロモンの偽証』では、舞台を高校に変えていて、それゆえ涼子相当の役や和彦相当の役の頭の良さは多少正当化できているが、そのぶん、大出相当の生徒がなぜその学校にいるのかという説明が必要になってしまい、その説明のために、話が学校陰謀物語みたいなまわりくどい方向に行っちゃって、もう別物になってしまっている(苦笑)。まあ、それでも日本の映画版よりナンボかマシというあたり、いったい日本の映画版はどれだけひどかったんだということでもあるが。
(※21)
なお、忘れられがちなことながら、オフィシャルでも、「ガールフレンドカタログメーカー」の回では、高校時代に知り合う女性や社会人になってから知り合う女性の存在がちゃんと示唆されている。この設定が他の回でも普通に活かされていれば、と思うのだが。
このうち、「高校時代に知り合う女性」は、同級生設定なので同い年だが、「社会人になってから知り合う女性」は、たぶん年上だろう。後者のほうがずっと美人である。
余談の余談として、私はチャイコフスキーの作品37a『四季』という曲集のことは、この回で覚えた(笑)。
(※22)
ちなみに、出木杉と静香もたぶん結婚しないと思う。
仮に本文に書いた通りの進路だとすると、キャリア官僚は、その頭脳を見込まれて有力者の娘とお見合い結婚するというケースが多いから(もっともー官僚ではないがー安〇〇〇郎氏のように、東大卒の頭脳を見込まれて〇信〇の娘と結婚するも、生まれた子どもは出来損ないの失敗作品だった、なんていう事例もあるけど・・・)。
さらに余談の余談。
知る人ぞ知る、あの名作にして怪作『劇画オバQ』では、正ちゃんはよっちゃんではなく、まったく別の女性と結婚しており、その点では『ドラえもん』の公式未来設定よりリアリティがある(この作品自体、夢と現実は違うという厳しい事実をテーマにしている作品だから当然)。それとともに、幼なじみのよっちゃんが大人になった姿より実際に結婚した奥さんのほうがずっと美人であるというのも、現実とはそんなもんかなと、興味深い。
(※23)
だとしたら、それがどうした?という、それ以上でもそれ以下でもない話だが(笑)。
P.S.
以下は、上記の注5に関連した長い余談。
スネ夫両親の話もさることながら、のび太の家についても、のび太の顔は父の家系の顔なのか母の家系の顔なのか、考えてみると不思議である。
小学生のび太の顔を両親と見比べると、一見たしかに母親の玉子似である。
『グルメテーブルかけ』という回では、母方の祖母が病気になって玉子が見舞っているが(『ママのダイヤを盗みだせ』回の玉子の母、すなわちのび太の母方の祖母は実は存命だったのだ!←そういえば、母方の祖父はどんな人なんだろう?春日エリの母方の祖父なら知っているんだが)、そこにチラッと出てきた玉子の兄らしき人(のび太から見ると伯父さん)ものび太そっくりである。また、『正直太郎』に出てくる玉夫叔父さんも同系統の顔である。
一方で、のび助サイドでいうと、大人ののび助も、その弟のインドゾウ好きの叔父さんも、「現代人の生き方」を実践する月賦の叔父さんも、『プロポーズ作戦』に一回だけ出た叔母さんも、のび太にはあまり似ていないように見える(そういえば、『夢枕のおじいさん』でも「のび太が消えちゃう?』でも『タイムルーム』でも、きょうだいの存在が見えず、まるでのび助が一人息子のように見えるあたりは、けっこう雑な仕事だな(苦笑))。
ところが、『白ゆりのような女の子』や『タイムルーム/昔のカキの物語』の回などの少年のび助はのび太そっくりである
ハレー彗星のおじいさんやホラのびさんは、一見あまりのび太に似ていないが、戦国時代の狩人のご先祖や江戸時代ののび左衛門の息子なんて、のび太そっくりである。
かくして、結局、のび太の顔は野比家の系譜の顔なのか、片岡家(玉子の旧姓)の系譜の顔なのか、どっちなんだろう。
ただし・・・「のび太が玉子と同じ顔」というのは、眼鏡をかけた結果同じ顔に見えるだけで、裸眼の顔同士で比べると、あまり似ていない。『音のない世界』などで見られる眼鏡を外したのび太の顔は目が小さい地味な顔だが、『プロポーズ作戦』の裸眼の玉子は実はパッチリした目の美人である。
一方で、子どもの頃の父のび助と、それからのび太の息子のノビスケ、そして玄孫のセワシはみんな一見小学生ののび太にそっくりだが、彼らはみんな裸眼である。裸眼のはずの顔がメガネ込みののび太と同じ顔というのもよく考えると不思議なことではある。それに、先述ののび左衛門の息子も裸眼のはずなのに、やはり眼鏡をかけたのび太にそっくりである。あるいは、『石器時代の王さまに』の全裸の祖先みたいな人も。『ご先祖様がんばれ』の戦国時代の狩人の先祖は眼鏡をかけてたんだっけか?戦国期の山村で眼鏡が普及していたわけないか。
というわけで、野比の家系の人は、一見するとのび太に似ているようで、実は「裸眼の顔同士で」比べると、あまり似ていない場合が多いのかもしれない。
むしろ一見のび太に似ていなさそうな夢枕のおじいさんやハレー彗星のおじいさんのほうが、裸眼ののび太には似ていると言えそうだ。
ついでにもう一つ。のび太が大人になった姿というのは『りっぱなパパになるぞ』などで見る限り、眼鏡はかけておらず、父のび助に似ていて、どちらかというと恰幅が良くて、第一話をはじめとする最初期の未来像とは全く別人である。
セワシの「大阪理論」といえば、ツッコミどころだらけの粗雑さがしばしばウェブ上で槍玉になるが、しずかと結婚しノビスケの父になった未来改変後の大人のび太と、ジャイ子と結婚した改変前の大人のび太の風貌のあまりの違いは、単なる設定の揺らぎと言ってしまえばそれまでながら、やはり気になる。それで、「あのセワシの示した悲惨な未来写真は実は捏造?」なんていう深読みも生まれるのだろう。
まあ、あくまで子どものためのギャグ漫画なのだから、真剣に考察しようなんてのは無粋以外の何物でもない。
が、さすがは国民的漫画。そう、『ドラえもん』と言えば、国民的メジャー作品だけに、『サザエさん』と同様、その「ツッコミどころ」が話題にのぼることはけっこう多い。
たとえば、根本的な話として、ドラえもんのような異形の存在が平気で町を歩いていることに、誰も何とも言わないのはなぜかとか(※2)。それに、ドラえもんの未来テクノロジーに対し、誰も注目し利用しようという人たちが出てこないのも、なぜなんだろうとか。
あるいは、ジェンダー論的に静香の交友関係に難癖をつけたり。ジェンダー論的にその言葉遣いにも物申したり(※3)。のび太の先生のキャラクター造形にも問題があるぞとか(※4)。
かなり細かい、どうでもいい指摘だと、スネ夫の両親は、もともと他人同士のはずなのに、なぜお互いに似ているんだ?(※5)まさか近親婚か?とか。
それらはいずれも、「子ども漫画だから」の一言で片づけられてしまうようなツッコミどころだが、それでもあえて『ドラえもん』に大の大人が大真面目にツッコむという趣旨では、既によくまとまった、すぐれた先行文献がある(※6)。
本稿では、その本では取り上げられていたかはどうかは覚えていないが、下記の話題のみに絞って駄文を綴らせてもらおう。
それは、のび太の交友関係が成長しない件である。
例の「ドラえもんはのび太が作ったものだった」の私家版最終回にしても、オフィシャルの「結婚前夜」のバチェラーパーティー(スタッグパーティー)や「宇宙完全大百科」回(※7)の結婚写真にしても、のび太の交友関係はずーーーーっと、ジャイアン、スネ夫、静香、出木杉、だけなのである。誰も加えず、誰も去らず、小学校時代の数人とだけ、ずーーーっとつるみ続けている(※8)。
漫画なんだから、つまんないことにツッコむなと言われちゃえばそれっきりだが、現実に置き換えてみれば、異常である。
過疎地区ならともかく、都会で、小学校時代の友達だけとずーっと大人になるまでつるみ続けるなんてことは、普通は・・・まああり得ない(※9)。
設定上の舞台は東京都区部のはずで、主要キャラはジャイアン以外、みんなある程度裕福なホワイトカラー家庭だから(※10)、おそらくジャイアン以外は今日び大学まで進むだろう。
都区内の山の手在住ということであれば、勉学優秀な出木杉君や学者の娘である静香は、中学で国立か私立に進む可能性がじゅうぶんに高い。資産家の社長令息のスネ夫ももちろんそうだろう。
のび太は微妙なところだが、本人に中学受験する意志はなさそうだし、親もあまり期待していなさそうだから、無難に公立中→公立高のコースかな。
そしたら、スネ夫と静香と出木杉は国立または私立中学へ進み、のび太とジャイアンは地元の公立中へ、となり、高校受験の時には、たぶんサラリーマンの息子であるのび太はあまり深い考えなしに「何となく」で普通科を選ぶだろうが、ジャイアンは商店の跡取りということで、職業科に進むかもしれない。
だとしたら、たとえばーあくまでたとえばー以下のような進路が予測できるのではなかろうか(※11)。
・出木杉=筑駒、筑付あたりの一流中高から東大へ、さらにその後は霞が関キャリア組へ。
・静香=四谷雙葉、大妻本校、鷗友あたりの中高一貫お嬢様進学校から早慶上智あたりへ、さらにその後は士業や大学研究者、シンクタンク研究職、コンサルタントなどの何らかの知的職業へ。
・スネ夫=成城学園、成蹊あたりのお坊ちゃん向け中高一貫校からそのままエスカレーター大学へ、さらにその後は一般就職の数年間の「修行」を経てから父のオーナー企業の後継者に。
・のび太=地元公立中から中堅都立普通科を経て、大東亜クラスの中堅私大へ(※12)、さらにその後は何らかの就職をするが、キャラ的には営利企業の営業マンなどには向かないので、役所の事務あたりにもし就職できれば御の字か。
・ジャイアン=地元公立中から職業科の高校を出て、自営商店を継ぎ、時代の流れでコンビニフランチャイズ化。
と、このように、小学校を出た後はーのび&ジャイは中学を出た後はー各自バラバラになるはずだ。それが世の常だ。小学校の同じ教室にいた「仲間」とは、いずれみんなバラバラになる、そういったものだ。私ももちろんそうだった。
そしたら、アッパーなコースに進んだ者はアッパーなりに、そうでないコースの者はそうでないなりに、自分と近しいタイプの人間と出会い、そこで新たな交友関係を仕切り直すことになる(※13)。
改めて思い返してみれば、もともと地元の公立小や公立中なんて、人工的に区切った特定エリアの中で、たまたま同じ時期の4月から3月の間に生まれた子ども(※14)を一か所に集めているに過ぎない。だから、実はそんなのは、たとえば偶然同じ電車やバスに乗り合わせた、あるいは偶然同じ映画館で同じ上映回の時にいた程度の存在同士でしかないわけで、家庭環境も本人の性格・趣味も勉学・フィジカルのレベルもバラバラで当たり前である。身も蓋もないことを言ったら、クラスの「友情」、「団結」、「一体感」なんて、なくてもともとのフィクションであろう。
ハナから似たタイプ同士で惹かれ合うような関係ではない無作為の集団だからこそ、当然、衝突も起こりやすい。公立中→公立高コースの場合、中学までで多いいじめが、高校になると一気に少なくなる理由の一つとして、「中学まではいろんなレベルのいろんな人たちがゴッタ煮だが、高校は近いレベル同士、似たタイプ同士が集うので軋轢が起きにくい」ということが挙げられる(※15)。
さて。
余談はともかくとして。
かくして、のび太もスネ夫もジャイアンも静香も出木杉も、それぞれのレベルに見合った青春のステージで自分に相応の気が合う親友と出会ったに違いない(※16)。
やがて、自然の理として、交友関係はもっぱらそちら中心になり、高校の友人、大学の友人、そして社会人になってから知己を得た人々、といったつきあいがどんどん増える分、小学校時代の友人とつるむなどということは、ほぼ消滅するはずである(※17)。ハッキリ言って、一緒に遊ぶどころか、思い出すことさえほとんどなくなるに違いない。
それこそ、成人式の日に再会して(※18)ちょこっと挨拶程度の会話をするのが関の山なんじゃなかろうか(※19)。
同じ高校、同じ大学を出た同質的仲間であれば、その後の職業、社会的地位、収入など、さほど大きくは変わらないはずだが、同じ小学校出身、という程度の共通項では、当然ながら、大人になってからの職業、社会的地位、収入など、ピンキリであり、もはや「世界が違ってしまっている」ぐらいかもしれない(※20)。
『ドラえもん』世界の場合であれば、静香は静香で、のび太はのび太で、それぞれ高校時代、大学時代の友人と深くつきあい、やがて誰か自分の社会階層内で伴侶を見つけて、めいめいの人生を生きていくはずである(※21)。
結論として、のび太と静香は結婚しないし(※22)、コンビニフランチャイズオーナーのジャイアンとも財界二世のスネ夫ともキャリア官僚の出木杉とも大人になってからは全員まったくの没交渉になる、はずだ(※23)。
(※1)
長生きだった藤子A氏も遂に亡くなってしまい、トキワ荘グループの人たちも、存命者は主だったところだと、つのだじろうと鈴木伸一(小池さん)ぐらいになってしまったねえ、と嘆かずにはいられないわけだが。
さて。
世の中に、漫画家短命説というのがある。
漫画家は、締め切りに追われながら必死にアイディアを絞り出す過酷な職業だから、生活も不規則かつ不摂生になりやすく、それゆえ漫画家は短命な人が多いのだと。
たしかに手塚先生も藤子F不二雄も石ノ森章太郎も赤塚不二夫も、いまだに存命でも全くおかしくないのに、軒並み50代から60代という、今日の平均寿命からしたら、かなり若い年齢で他界している。彼らより若い世代のさくらももこもそう。逆に彼らより上の世代の長谷川町子も、姉と妹がそれぞれ90以上という長生きだったのに一人だけ70代で亡くなっており、飲酒・喫煙・賭博といった不健康なこととは生涯無縁だったにもかかわらず、女性にしては短命だった(でももちろん、功成り名を遂げ、歴史に名を刻んだのだから、姉や妹よりずっと幸せな生涯だったと見なす人も多くて当然である)。
他に、ちばあきお、いそべみえこ、山田花子などは自死という特殊なケースだが、それら心を病んで自ら命を絶ってしまった痛ましい事例も含めて、漫画家は「命を削る」厳しい職業で、早世を運命づけられているのか、と思ってしまいそうになる。
が、もちろん例外はあるぞ、という反証も出てくるわけで。
大物では、田河水泡先生、横山隆一先生、水木しげる先生、そして藤子不二雄Aこと安孫子素雄氏も長寿だったではないかと。
藤子A氏の場合、ベジタリアンだったことと併せて、「明日にのばせることを今日やるな」というようなマイペース主義者だったところも精神衛生上良かったのかもしれない。なるほど、そういう意味では潔癖なぐらいに真面目すぎる完璧主義求道者だった相方の藤子F不二雄や師匠の手塚先生とは対照的だ。むしろ水木先生の寝ぼけ人生に近いかもね。フハッ。
と、それはさておき、アーチストを天才型と秀才型に分けた場合、いろいろ異論はあるかもしれないが、藤子F不二雄は天才型、藤子不二雄Aは秀才型ではないかと思う。
人づきあいが苦手で世間ずれしていなくて(「世間ずれ」の意味は世の中から「ズレている」ことではなく、世慣れしていて世渡り上手で狡猾という意味よ、念のため)、されど天才という藤子F不二雄に対し、『まんが道』シリーズで描かれた通り、いろいろな人と飲みに行ったりゴルフに行ったりして幅広く人づきあいをした「渉外担当」の藤子Aを、「ケン・フランクリン」になぞらえたがる人もあるかもしれない。
ケン・フランクリンとは、『刑事コロンボ/構想の死角』(1971)の登場人物で、「二人で一人」の作家コンビの、執筆ではなくマネジメントのほうを担当している人物である。
でも、藤子A氏の名誉のために、その見立ては否定せねばなるまい。藤子A氏は、たしかに藤子F氏に比べると凡人に見えるかもしれないが、ケン・フランクリンと違って、自身にもちゃんと著作のある人で、そして重要なポイントとして、『まんが道』や『少年時代』や『劇画毛沢東伝』はFにはおそらく描けない作品だということを強調しておくべきだろう(もちろん、逆にFの『おれ、夕子』や『流血鬼』、『未来ドロボウ』などは、Aには描けないだろう作品である)。
同じく、「もしかしたら、私も一歩間違っていたら、こんなふうになっていた??」なんて想像をして胸をしめつけられる人も多いだろう短編『明日は日曜日そしてまた明後日も・・・』などは、ニートという言葉も引きこもりという言葉もない70年代初頭に、今日の8050問題を見事に予言した恐るべき作品であり、今なお身につまされる、つらい作品でもある(ある程度のサラリーマン経験を持つAから、狭義の社会人生活を秒殺でドロップアウトしたFへの当てこすり作品?なんていう解釈も可能かもしれないが、それはさすがにうがった見方か)。こういう作品もまた、Fには描けない作品であろう。
そう。藤子Fは前に別稿でも触れた通り、何げにSF的・超自然的要素のない作品は最初期を除いてほとんど描けてない人なのだから(もちろん、FのほうにもAには描けないであろう傑作は多いわけで、どちらがすぐれているかとかいう単純な話ではない)。
また、藤子F不二雄の代表作の一つとして知られる『パーマン』は、もともと藤子不二雄Aの『わが名はXくん』、『マスクのXくん』をヒントにできた作品である。すなわち、『Xくん』なかりせば、『パーマン』もなかったのだ。
ちなみに、『まんが道』では、才野茂と満賀道雄は同じ高校に通っているが、史実では二人は別々の高校に通っていて、藤子Aは満賀と同じ普通科の高岡高校卒だが、藤子Fは意外にも工業高校卒らしい。
たしかに、後の『ドラえもん』の「ひみつ道具」をはじめ、藤子Aと違って機械に並々ならぬ関心があることから、なるほどとうなずけるところである。
(※2)
そんなことを言い出したら、オバQもブースカもアッチもロボコンもピョン吉もコロ助もみんなそうなんだが。
正太「これ、オバケのQちゃん。うちに置いてあげてよ」
ママ「オバケと猫と、どっちがご飯いっぱい食べるかしら」
いやいや(笑)。その前に言うことはないのか(笑)。
(※3)
静香が女子の友達と普通に遊んでいるようなまっとうな描写は連載後期になるほど少なくなり、まるでのび太ら男子とばかり遊んでいるように見えてしまうのは明らかに不自然で、現実の小学生女子の交友関係からすればあり得ない、と、ジェンダー論客たちから、その時代のリアルに即していない言葉遣い(いわゆる「てよだわ語」的語尾など)とともに批判の対象となってきたわけだが(たとえば斎藤美奈子氏あたり)、最近のアニメ版ではどうなのかは知らない。是正されているのだろうか。
なお、これは下記の注6の書籍で既に指摘されていることだが、そもそものび太のような「ダメな少年」が、静香のような「かわいい女の子」と結婚するという設定自体、男子読者にとっては「夢のある」設定であっても、女子読者にとっては少しもそうではない。とともに、かわいい静香と結婚=幸せ、ブスなジャイ子と結婚=不幸、という発想自体、改めて考えれば、大いに問題があるだろう。
(※4)
のび太の先生についても、現実にこんな先生いないよ、とツッコめるかもしれない。
いわゆる生活指導的なことはせず、たえず学業のことでガミガミ怒ってばっかり(と書くと、いや、のび太を褒めているシーン、励ましているシーンもあるよと言われそうだが、総体的に、という意味で)という、そんなスパルタ中学受験塾の教師みたいな小学校教員は現実にはいないだろう、と。
そこのところは、『ドラえもん』は学園ドラマではないので、教師は、ただ「権威者であり敵」という役割以外は何も与えられていない記号的存在に過ぎないのだ、と説明されるところであろう。
ちなみに、公立小学校の教員というのは、現実には中年女性の比率が高いのだが(要出典w)、F作品『ドラえもん』、『パーマン』、『ウメ星デンカ』、A作品『忍者ハットリくん』、『怪物くん』、合作『オバケのQ太郎』と、軒並み男性が担任なのは、両藤子とも、女性キャラを描くのが苦手で、極力描くのを避けたいという思いが無意識に出たから、なのだろうか(F作品『21エモン』の担任も男性だが、この作品の場合、小学校じゃなく中学校かもしれないので、ちょっと除外しておいた)。
(※5)
余談ながら、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ(1985~91)のツッコミどころとして、優先順位の高いツッコミポイントではないながら、パート3のリー・トンプソンへの指摘があろう。
だって、マーティの父親であるジョージ・マクフライと母親であるロレイン・マクフライ(旧姓ロレイン・ベインズ)は、もともと他人なんだもの(当たり前)。ジョージの先祖たるマクフライ家の家系と、ロレインの先祖たるベインズ家の家系は、それぞれ別個にさかのぼれるはず(当たり前)。
なのに、なぜ、パート3のマクフライ農場に、ロレインそっくりの人がいるんだ(笑)??
楽しいコメディ―なんだから、そんなことは気にするな、でいいのかな。
と、それはさておき、スネ夫に話を戻すと、スネ夫の両親は二人ともスネ夫と似た顔なのに、原始時代のスネ夫の祖先は、両親とも全く独自の顔で、スネ夫とは全然似ていなかったね。
(※6)
『読解!ドラえもん講座』(中川右介/文庫ぎんが堂/2019)
(※7)
これは初出が1990年だが、『亀有』59巻の「テレビでこんにちは!」(初出1988)のリモート飲み会予言や46巻の「よく学びよく遊べ!」(初出1985)の倍速視聴予言とともに、現在のウィキペディアやクラウドを予言していると思う。
(※8)
ちなみに、『ズッコケ三人組』シリーズも、『ドラえもん』と同じく、大人になっても小学生時代の仲間とだけずーーーっと関わり続ける作品である。
(※9)
慶応幼稚舎から慶応大に行った人みたいに6歳から22歳までずーっと同じ学校というんだったら、あり得なくもない?
いや、だとしても、中学から、高校から、そして大学からと、大量に新規の学友が途中参入してくるから、幼稚舎組も、それぞれ新規参入の友人らと人間関係を都度都度シャッフルしていくもので、幼稚舎以来ずーっとコイツらとだけつるんでいるんだ、なんていう視野の狭い人たちは案外少ないんじゃないかな、たぶん。知らんけど。
(※10)
出木杉君の家族環境はあまり登場しないが、立派な個室を持ち、大量の蔵書を持っているから、経済資本的にも文化資本的にもめぐまれた環境であることは間違いないだろう。
(※11)
原作通りの東京設定の場合ね。京阪神設定や中京設定だとどんな具合になるのか、誰か教えてほしいものである。
(※12)
高校はたまたま勢いで合格、大学は一浪の後、補欠合格、というのが前掲「宇宙完全大百科」のオフィシャル設定である。
(※13)
のび太も、おそらく高校生になったら、『桐島部活』の前田涼也にとっての武文のような同好の士(オタク親友)を得て、やりたくもない野球に無理やり参加させられていた小学校時代なんかより、ずっと楽しい学園生活を送っているだろうと信じたい。
(そして、大人になってからも長く交際する生涯の親友は、小学校の同級生であるジャイアンやスネ夫ではなく、そっちの高校時代の親友のほうだろう)
(※14)
厳密にいうと、ある年の4月2日から翌年の4月1日が一つの学年になる。
(※15)
それにもちろん、高校生になると、行動の自由度が一気に増すので、ぶっちゃけ、いじめなんかより遥かに楽しい遊びを覚え、いじめなんてしている場合じゃなくなるということもある(極端にひどい不良は、そもそも学校から勝手にいなくなってくれるし)。
語弊を恐れずに書くならば、だが(ちなみに、首都圏でよく言われる私立ならいじめがない、というのは幻想である。たしかに相対的比較で見ればマシではあるとしても)。
(※16)
だから当然、静香も後期原作や長編と違って、のび太や出木杉とばかり遊んでいるなどということはなく、普通に当たり前に女子たちの輪の中でガールズトークをしていたはずだ。
(※17)
あくまで大都市の場合だが。
(※18)
そもそも、のび太たちのように東京の山の手の子どもであれば、小学校時代を過ごした町と成人式時点で住んでいる町が違うというケースは珍しくも何ともない。
農村の人にはピンと来にくいかもしれないが、首都圏の小学生の住む家は、マイホームとは全然限らず、親が持ち家を取得する以前の、社宅だったり官舎だったり自腹賃貸アパートだったりとまちまちで、彼ら彼女らは中高生時代ぐらいに親がマイホームを手に入れると、それに伴って小学校時代を過ごした町を離れる、なんてことが非常に多い。
そしたら、成人式は、成人した時点で住民票のある市町村で出ることになるから、小学校の同窓生とは再会しようがないわな。
ちなみに、私事ながら、自分の場合は、私立中学に進学してから中2の時に引っ越したが、たまたま自治体をまたがない転居だったので、成人式で小学校の同級生と再会することは可能なはずだった。だが、成人式の日、どうしても外せない所用があって、欠席した。どうでもいい話だが。
と、それはさておき。
マイホームか否かの話で興味深いのは、『オバQ』における設定のゆらぎである。
『オバQ』の正ちゃんの家は、旧作の時は借家で、大家が家賃を値上げしようとする回があったり、マイホームを手に入れるべく土地を見に行く回があったりした。ところが、『新オバQ』では、オバケ新聞の三下(みくだり)さんゴシップの回で、正ちゃんが「うちのアパート」に住んでいる人として、三下さんを紹介している。
つまり、借家住まいの店子の身分から、一転してアパートオーナーになっているわけだ。正太パパに何があった?
と、ついでのついでに、のび太の家も、『ゆうれい城』の冒頭の会話を見る限りだと借家である。が、過去にタイムトラベルすると、のび太の生まれた頃も、もっと昔ののび助が子どもの頃も、さらにもっと昔のハレー彗星の曽祖父の子ども時代も同じ場所に住んでいる。
別に親子代々、100年近く同じ家作を借り続けて悪いわけではないが、普通、100年も代々ずっと住んでいるといったら、持ち家だろう。
結局、正ちゃんの家の件と同じく、「設定のゆらぎ」なのかな。
(※19)
そこから再び友情の交流が復活する、なんてのは、重松清の世界だけじゃないのか、たぶん。上記の通り、私は成人式に行かなかったからよくわからんけど。
(※20)
そこで、唐突ながら、私は宮部みゆきの『ソロモンの偽証』のおかしさというか、作品設定の難しさを思い出す。
『ソロモンの偽証』と言えば、おもしろい部分も多々ある反面、無理のある部分も多くて、評価の難しい小説であった。分厚めの文庫本6冊という怒涛の長さで展開された「模擬裁判ごっこ」のオチがそんなんかい!!という怒りももっともだし、映画版のほうは原作改悪があまりにひどすぎた。成島出監督は、『八日目の蝉』の時とは真逆で、原作をここまでおとしめるかと、あきれるぐらいの改悪ぶりであった。
が、それはさておき、原作段階でそもそも無理がありまくったのが、「中学生でこんなに頭が切れるわけないだろ。現実の中学生を知らんのか。自分が中学生だった頃のことを忘れたのか。実際の中坊なんて、もっともっと『ガキ』だぞ」という件。
たしかに、『ソロモン』原作の中学生たち、とくに涼子、和彦、井上らのアタマのレベルは、高校生ならまだしも、中学生とするには、さすがに無理がある。しかし、そうであるにもかかわらず、高校でなく公立中学を舞台にせざるを得なかったのは、言うまでもなく、涼子や井上が一緒に通うような高校なら、逆に大出のような生徒は入学できるわけがないからである。
余談の余談だが、実は韓国版のドラマ『ソロモンの偽証』では、舞台を高校に変えていて、それゆえ涼子相当の役や和彦相当の役の頭の良さは多少正当化できているが、そのぶん、大出相当の生徒がなぜその学校にいるのかという説明が必要になってしまい、その説明のために、話が学校陰謀物語みたいなまわりくどい方向に行っちゃって、もう別物になってしまっている(苦笑)。まあ、それでも日本の映画版よりナンボかマシというあたり、いったい日本の映画版はどれだけひどかったんだということでもあるが。
(※21)
なお、忘れられがちなことながら、オフィシャルでも、「ガールフレンドカタログメーカー」の回では、高校時代に知り合う女性や社会人になってから知り合う女性の存在がちゃんと示唆されている。この設定が他の回でも普通に活かされていれば、と思うのだが。
このうち、「高校時代に知り合う女性」は、同級生設定なので同い年だが、「社会人になってから知り合う女性」は、たぶん年上だろう。後者のほうがずっと美人である。
余談の余談として、私はチャイコフスキーの作品37a『四季』という曲集のことは、この回で覚えた(笑)。
(※22)
ちなみに、出木杉と静香もたぶん結婚しないと思う。
仮に本文に書いた通りの進路だとすると、キャリア官僚は、その頭脳を見込まれて有力者の娘とお見合い結婚するというケースが多いから(もっともー官僚ではないがー安〇〇〇郎氏のように、東大卒の頭脳を見込まれて〇信〇の娘と結婚するも、生まれた子どもは出来損ないの失敗作品だった、なんていう事例もあるけど・・・)。
さらに余談の余談。
知る人ぞ知る、あの名作にして怪作『劇画オバQ』では、正ちゃんはよっちゃんではなく、まったく別の女性と結婚しており、その点では『ドラえもん』の公式未来設定よりリアリティがある(この作品自体、夢と現実は違うという厳しい事実をテーマにしている作品だから当然)。それとともに、幼なじみのよっちゃんが大人になった姿より実際に結婚した奥さんのほうがずっと美人であるというのも、現実とはそんなもんかなと、興味深い。
(※23)
だとしたら、それがどうした?という、それ以上でもそれ以下でもない話だが(笑)。
P.S.
以下は、上記の注5に関連した長い余談。
スネ夫両親の話もさることながら、のび太の家についても、のび太の顔は父の家系の顔なのか母の家系の顔なのか、考えてみると不思議である。
小学生のび太の顔を両親と見比べると、一見たしかに母親の玉子似である。
『グルメテーブルかけ』という回では、母方の祖母が病気になって玉子が見舞っているが(『ママのダイヤを盗みだせ』回の玉子の母、すなわちのび太の母方の祖母は実は存命だったのだ!←そういえば、母方の祖父はどんな人なんだろう?春日エリの母方の祖父なら知っているんだが)、そこにチラッと出てきた玉子の兄らしき人(のび太から見ると伯父さん)ものび太そっくりである。また、『正直太郎』に出てくる玉夫叔父さんも同系統の顔である。
一方で、のび助サイドでいうと、大人ののび助も、その弟のインドゾウ好きの叔父さんも、「現代人の生き方」を実践する月賦の叔父さんも、『プロポーズ作戦』に一回だけ出た叔母さんも、のび太にはあまり似ていないように見える(そういえば、『夢枕のおじいさん』でも「のび太が消えちゃう?』でも『タイムルーム』でも、きょうだいの存在が見えず、まるでのび助が一人息子のように見えるあたりは、けっこう雑な仕事だな(苦笑))。
ところが、『白ゆりのような女の子』や『タイムルーム/昔のカキの物語』の回などの少年のび助はのび太そっくりである
ハレー彗星のおじいさんやホラのびさんは、一見あまりのび太に似ていないが、戦国時代の狩人のご先祖や江戸時代ののび左衛門の息子なんて、のび太そっくりである。
かくして、結局、のび太の顔は野比家の系譜の顔なのか、片岡家(玉子の旧姓)の系譜の顔なのか、どっちなんだろう。
ただし・・・「のび太が玉子と同じ顔」というのは、眼鏡をかけた結果同じ顔に見えるだけで、裸眼の顔同士で比べると、あまり似ていない。『音のない世界』などで見られる眼鏡を外したのび太の顔は目が小さい地味な顔だが、『プロポーズ作戦』の裸眼の玉子は実はパッチリした目の美人である。
一方で、子どもの頃の父のび助と、それからのび太の息子のノビスケ、そして玄孫のセワシはみんな一見小学生ののび太にそっくりだが、彼らはみんな裸眼である。裸眼のはずの顔がメガネ込みののび太と同じ顔というのもよく考えると不思議なことではある。それに、先述ののび左衛門の息子も裸眼のはずなのに、やはり眼鏡をかけたのび太にそっくりである。あるいは、『石器時代の王さまに』の全裸の祖先みたいな人も。『ご先祖様がんばれ』の戦国時代の狩人の先祖は眼鏡をかけてたんだっけか?戦国期の山村で眼鏡が普及していたわけないか。
というわけで、野比の家系の人は、一見するとのび太に似ているようで、実は「裸眼の顔同士で」比べると、あまり似ていない場合が多いのかもしれない。
むしろ一見のび太に似ていなさそうな夢枕のおじいさんやハレー彗星のおじいさんのほうが、裸眼ののび太には似ていると言えそうだ。
ついでにもう一つ。のび太が大人になった姿というのは『りっぱなパパになるぞ』などで見る限り、眼鏡はかけておらず、父のび助に似ていて、どちらかというと恰幅が良くて、第一話をはじめとする最初期の未来像とは全く別人である。
セワシの「大阪理論」といえば、ツッコミどころだらけの粗雑さがしばしばウェブ上で槍玉になるが、しずかと結婚しノビスケの父になった未来改変後の大人のび太と、ジャイ子と結婚した改変前の大人のび太の風貌のあまりの違いは、単なる設定の揺らぎと言ってしまえばそれまでながら、やはり気になる。それで、「あのセワシの示した悲惨な未来写真は実は捏造?」なんていう深読みも生まれるのだろう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます