大学の授業にかかわる話題

授業日誌・キャリア・学びのスキルについて

24日(火)4の授業

2014年06月24日 18時15分13秒 | SIUの授業
オフィスワーク演習1

本日は先週実施した試験を返却しました。
同記事を細かく読み、設問の解説をしていきました。
イノベーションの目標は、市場開拓や企業・経済成長を目指すことです。
持続的イノベーションと
破壊的イノベーションとの違いは、
資料そのままです。

イノベーションについて、wikiには以下の記述がありました。
wikiからの引用も目につきました。

イノベーション
 イノベーション(innovation)とは、
物事の「新結合」「新機軸」「新しい切り口」「新しい捉え方」
「新しい活用法」(を創造する行為)のこと。
一般には新しい技術の発明と誤解されているが、
それだけでなく新しいアイデアから社会的意義のある新たな価値を創造し、
社会的に大きな変化をもたらす自発的な人・組織・社会の幅広い変革を意味する。
つまり、それまでのモノ・仕組みなどに対して
全く新しい技術や考え方を取り入れて
新たな価値を生み出して社会的に
大きな変化を起こすことを指す。

語源
英語の「innovation」は動詞「innovate」(革新する・刷新する)に
名詞語尾「-ation」が付いたもので、
「innovate」はラテン語の動詞「innovare」(リニューアルする)の
完了分詞形「innovatus」リニューアルされたもの)から由来している。
更に、「innovare」は「in-」(「内部へ」の方向を示す接頭辞)と
動詞「novare」(新しくする)に分解される。
動詞「novare」は形容詞の「novus」(新しい)から由来している。
「innovation」という語自体の用例は1440年から存在する。
日本で使われている技術革新という意味では
「technical innovation」あるいは「technological innovation」と言う[1]。

定義
イノベーションは、1911年に、
オーストリア出身の経済学者である
ヨーゼフ・シュンペーター[2]によって、初めて定義された。
シュンペーターはイノベーションを、
経済活動の中で生産手段や資源、
労働力などをそれまでとは異なる仕方で新結合することと定義した[3]。
そしてイノベーションのタイプとして、
①新しい財貨すなわち消費者の間でまだ知られていない財貨、あるいは
②新しい品質の財貨の生産新しい生産方法の導入、
③新しい販路の開拓、
④原料あるいは半製品の新しい供給源の獲得、
⑤新しい組織の実現、
という5つを挙げている。

日本での使われ方
これまで、イノベーションはよく「技術革新」や
「経営革新」或いは単に「革新」・「刷新」などと言い換えられてきた。
これは1958年の『経済白書』において、
イノベーションが技術革新と訳されたことに由来すると謂われている。
当時の経済発展の要因は技術そのものであった例が多く、
イノベーションは「技術革新」と訳されたのかもしれない。
しかし、イノベーションとは技術的な革新に留まらず、
世の中に普及する新しい概念を全般に指す言葉である。

新しいアイデアが世に現れて生活を大きく変えた例
熱機関 ⇒ 蒸気機関車・自動車・飛行機
半導体 ⇒ コンピュータ・インターネット・携帯電話・
     カーナビゲーション・現金自動預け払い機
分類
イノベーションはしばしば次の2つに分類される[4]。
プロダクトイノベーション(製品革新):
新製品の開発によって差別化を実現し競争優位を達成するイノベーション

プロセスイノベーション(工程革新・製法革新):
製造方法や工程の改良によって費用を削減し競争優位を達成するイノベーション

ただし、どちらも経済学的には生産関数の上方へのシフトで表され、
これらの区別は決定的なものではない
(ただし、後者は全要素生産性によってあらわされるとされる)。

脚注[編集]
^1 小稲義男 編代 『研究社 新英和大辞典』 (5版) 研究社、1980年、1089頁。
^2 ヨーゼフ・シュンペーター; 塩野谷祐一・東畑精一・中山伊知郎訳
『経済発展の理論』 岩波書店。[1]
^3 板倉宏昭 『経営学講義』 勁草書房、2010年、223頁。ISBN 978-4-326-50334-6。
^4 小田切宏之 『企業経済学』 東洋経済新報社、2010年、190頁。
 ISBN 978-4-492-81301-0。

本日は、41名の出席でした。


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24日(火)2の授業

2014年06月24日 13時10分24秒 | SIUの授業
マーケティング

本日は、検定問題だけをやりました。
「マーチャンダイジング」という難しい用語が出てきました。
抽象的な概念です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/には、以下の説明がありました。

本日はノートを回収し、問題9について確認しました。


マーチャンダイジング (merchandising) とは、一般的には、
消費者の欲求・要求に適う商品を、
適切な数量、適切な価格、適切なタイミング等で提供するための企業活動のこと[1][2]。
「商品政策」「商品化計画」。
「MD」と略されることもある[3]。

概説[編集]
マーケティング活動のひとつ[4]として位置づけられることが多い。
ただし、マーチャンダイジングという言葉が
主として使われる場は、アカデミックな場ではなく、
実際の商業の場なので、
多義的で流動的に用いられている[5]。
例えば百貨店業界でのマーチャンダイジングの実態は、
仕入れ、販売、管理などの業務フローについての
マネジメント・コントロールであり、
マーチャンダイジングは経営マネジメントの概念のひとつとして
捉えるべき[6]ともされる。
メーカーで製造された「製品 (Product)」が
小売業で扱われると、同一物でありながら
「商品 (Merchandise)」へと呼び名が変わる。
そこからもMerchandisingという概念は、
基本的には小売業と関連のある概念[7]ともされる。
製造業においては「商品計画」に類似する
「製品計画」という言葉が用いられているが、
これは指し示す範囲が異なっているともされる。
近年のマーチャンダイジングにおいては、
POSは重要なツールとなっている[8]。
マーチャンダイジングを行っているのは、
消費者と直接接する小売業者であることが多い。
だが、メーカー、卸売業、小売業などが一丸となって共同で行うこともあり、
これは「チーム・マーチャンダイジング」などと呼ばれる。
例えばイトーヨーカ堂の「チームMD」などが知られる[9]。

諸定義
マーチャンダイジングには様々な定義が存在し、
論者によって異なりもすれば、また時代とともに変遷もしている。
「Merchandising」は「Merchandise」に由来すると言われている。
Merchandiseには動詞と名詞があり、
動詞ならば「取引する」「商う」「販売を促進する」という意味であり、
それにingを付けて動名詞化したものとすれば、
売買活動、商いの活動を指すようになった[10][11]、ともされる。
古くはNystromが、アパレル分野でのマーチャンダイジングの定義を行い、
「マーチャンダイジングとは、注意深い計画、
優れたスタイリングと生産、または選択と仕入、
及び効果的販売」としたという(1932年)[12]。
全米マーケティング協会(AMA)の定義は
以下のように改訂、変遷してきている[13]という。
1948年 「適切な商品やサービスを、適性な場所、
時期、数量、価格によって、顧客に提供するための計画、活動」
1960年 「企業のマーケティング目標を達成するために特定の商品、
サービスを最も役に立つ場所と時期と価格で、
数量を扱うことに関し計画し管理すること」
2008年現在 「インストア・ディスプレイを展開するメーカーの販促活動、
および、小売業における商品(アイテム)と商品ラインの明確化」
しかも現在AMAではマーチャンダイジングを、
小売業だけでなく製造業にも適用される活動であり、
小売業では売場のアイテムレベルと
店舗のラインレベルの複数のレベルがある、としているという。
ビジュアル・マーチャンダイジング
店舗、商品演出において、マーチャンダイジングを
視覚的に訴求しようとする手法を特に
「ビジュアル・マーチャンダイジング」
(略称:VMD=visual merchandising)という。
商品陳列の視覚効果を狙ったビジュアルプレゼンテーションは
その一要素であるが、VMDはより幅広い内容と活動を含んでいる。
店舗の統一コンセプトに基づき、品揃えや店舗デザイン、
プロモーション、陳列方法などを連動させ、
客の視点にたった見やすく買いやすい売り場を
総合的に作っていくことが目標となる[14]。

出典[編集]
^1 広辞苑
^ 大辞林
^2 『衣料品MD(マーチャンダイジング)の成功方程式』他
^3 大辞林
^4 宮副謙司,2008年,「マーチャンダイジングの捉え方について」(東京大学COEものづくり経営研究センター MMMRC Discussion Paper No.193, p.1
^5 宮副謙司、同論文 p.1
^6 宮副謙司、同論文 p.7
^7 『小売業「超POSマーチャンダイジング革命」の具体策―価格破壊時代に勝残る』
^8 関連書:村上 豊道『ヨーカ堂グループのマーチャンダイジング革命―効率売り場で高利益を生み出す「戦略型MD」導入の実際』ぱる出版、1998
^9 小山周三『現代の百貨店』日本経済新聞社、2001年
^10 宮副謙司、同論文 p.4
^11 宮副謙司、同論文 p.4
^12 宮副謙司、同論文 p.1
^13 朝日新聞社. “コトバンク/ビジュアル・マーチャンダイジング”. 2013年4月28日閲覧。

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昭和と平成のライフスタイル比較

2014年06月23日 14時36分54秒 | 学習支援・研究
数十年でこんなに変わった!
昭和と平成のライフスタイル比較

ナナピ
2014年6月15日 12時00分
(2014年6月15日 14時11分 更新)


[拡大写真]

最近、世代間のギャップを面白く見る番組が大人気のようです。
変化の中にいると気づきにくいのですが、
ふと客観的に見てみると、数十年で驚くくらい
ライフスタイルは変化しています。
ここでは昭和後期と平成の文化の面白い違いを、
懐かしさを感じながら見てみましょう。

学校編
◎ 石油ストーブが激減し、ファンヒーターやエアコンが普及
昔は、暑さはひたすら我慢して寒さは石油ストーブで
というのが普通でしたが、最近は
安全性を考えてファンヒーターやエアコンが導入されているそうです。
近年の夏の異常な暑さに対処して
エアコンを使用するようになり、
そのまま冬もエアコンを使うようになったケースが多いそうです。

◎ ブルマーが無くなり、ショートパンツになった
平成生まれの人は、ブルマーを履いた事が無いと思います。
筆者は女性ですが、少し上の世代からブルマーが廃止され、
とても嬉しかったのを覚えています。

生活編
◎ 公衆電話が激減し、携帯電話が普及
子供の頃には当たり前のようにあった公衆電話。
現在では限られた街中や、公共施設でしか見かけなくなりました。
上の図のように、たった13年で設置台数が半分以下になり、
それと同時に携帯電話が普及しました。
もう活躍の場が無いのかと思われる公衆電話ですが、
東日本大震災では携帯電話やPHSが壊滅状態で、
唯一繋がっていたのは公衆電話や住宅の固定電話だけでした。
有事には頼もしく、さらにお年寄りの需要もあります。
残っている公衆電話達にはまだまだ頑張って欲しいと思います。

◎ 切符や現金の出番が減り、ICカードや電子マネーが普及
自動改札では、ICカードのみ対応のものが増えてきました。
通勤・帰宅ラッシュの際には、皆がすいすいカードをタッチして進む光景が
当たり前になっています。遠出する時や
地方の路線では切符を購入する事があるので、
懐かしく思う人も多いのではないでしょうか。
WAONを始めとする電子マネーは、
コンビニや自動販売機で大活躍です。
お会計が一瞬で済むので、とてもスマートですね。

◎ 8センチCDが無くなり、CD自体も売れにくくなった
平成初期にはよく見かけた8センチCDですが、
最近はほとんど見なくなりました。
CDのサイズにバリエーションがあると店頭で陳列しにくいので
敬遠されたというのが衰退の理由だそうです。
さらにCD自体も売上が伸びず、
音楽データをダウンロードするのが主流になっています。
iPodの普及が最も大きな理由と言えるでしょう。…

食生活編
◎ イタリアンが普及した
どこへ行っても、個人店からチェーン店まで、
イタリア料理店がある街がほとんどです。
実はここ30年ほどで店舗数は3倍近くに増えていて、
その分レベルも高くなっていると言われています。
ここまでイタリアンが浸透した理由として、
フレンチよりカジュアルで行きやすい、
元々パスタやピザに親しみがあるというものがあります。

◎ ラーメン店が激戦化
昭和時代には、しょうゆ・みそ・しお・とんこつ位しか
知られていなかったラーメンですが、
平成に入ってからは魚介系・担々麺・つけ麺、
最近ではWスープ・トマトラーメンなど、
多種多様になっています。ラーメン博物館や、
ラーメンガイドブックなどの増加が、
大きく影響したと言われています。

おわりに
こうやって改めて見てみると、時の流れに驚かされます。
昔の良さも味わいながら、
どんどん便利になる生活環境にうまく
適応して生活して行くのが理想的ですね。

(著:nanapiユーザー・tsubaki 編集:nanapi編集部)

http://www.excite.co.jp/News/column_g/20140615/Nanapi_00006971.htmlより

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教育力-PBLについて

2014年06月23日 13時54分11秒 | 学習支援・研究
はじめによんでください

問題にもとづく学習(PBL)の研究
The anthropological study of the Problem-Based Learning in Japan: An Introduction
池田光穂, Mitsubishi Ikeda

まず、PBL(Problem-Based Learning:問題にもとづく学習)が
何かについてその概略を知りたい方は
以下の説明を読んでください。

問題にもとづく学習(PBL)

【ミニマム定義】
PBLのミニマムな定義は
「学習のために問題を使用する」(ウッズ 2001:xi)
ということである。

【方法論的定義】
PBLを方法論という観点からここで定義すると
「少数の学習者が問題解決のために、
議論と学習の反復を通して学ぶチュートリアル形式の学習」である。
ここでいうチュートリアル(tutorial)とは、
学生と助言者であるチューターが集まる討論形式の授業のことをいう。

【目的による定義】
またPBLをこの手法が最終的にめざす目的という観点から定義すると
「膨大な基礎知識と豊かな実務経験をもち、
複雑に入り組んだ医療の現場で永続的かつ適切に働かせる技能者――
ここでは医療者を想定――の知識と技能を確立・維持させるための
成人教育(andragogy)の技法のひとつ」ということになる。

**

さて、このPBL手法とは、
[歴史を領有して正統性を誇示する論者が言うほど]大昔からあったものではない。
PBLの歴史は高々40年足らずである。
PBLが発達する背景にはより深くて広い、
社会経済文化的要因が絡んでいる。
(1)医学校[大学院]における臨床医学教育が徹底しておこなわれ、
(2)教育において認知心理学の知見が導入されはじめ、かつ
(3)社会科学での事例研究から、
それをビジネスレベルで応用し資本主義経営システムを洗練した形で
教授するビジネススクール[これも大学院]が確立している
北米大陸において独自に形成されたものである。

PBLのその後のヨーロッパやアジアでの展開は、
その「中心地」からの影響を受けたものであると考えることができる。
このことは、PBLを説明する実践家や理論家が表明し、
また彼/彼女らが執筆する文献の随所にみられることである。

PBLのプロトタイプは、1969年カナダのマックマスター大学にいた
ハワード・バロッズ(Howard Barrows)、
1980年ハーバード大学のNew Pathway構想という、
それぞれの医学校でおこなわれた教育に起源をもつ。
マックマスターの教育システムはほどんどが
PBLのみのもので、ハーバードのものは
講義とPBLを組み合わせたもので、
後者はしばしばハイブリッド型PBLと言われることがある。
(前者はPBLの正統性を主張するゆえに、
当事者たちは「ほんもののPBL[authentic PBL]」と呼んでいる)

医学教育ではPBLのみの有効性について焦点が当てられることが多いが、
医学教育においては、この教育手法の他に、
複数選択問題形式(Multiple Choice Question, MCQ)、
客観的構造化臨床試験(Objective Structured Clinical Examination, OSCE)、
ならびに臓器系統別統合カリキュラムなどの技法が
同時に開発されて、今日に至っていることを忘れてはならない。

PBLは、このような時代背景をもって、
医学教育の現場の教育者たちによる教育技法への改善要求から生まれてきた。
PBLが、それまでの系統教育に代替すべき最良の手法であるかどうかは、
賛否両論あり、またPBLの教育を受けた医学生が、
系統教育の学生よりも「よい医師」になるかどうかについての確固とした証拠は存在しない。
ただPBLで教育を受けた学生のほうが
授業の満足度が高いことでは、両者の主張は一致している。

以上のことをまとめると、
現在の大学・大学院教育におけるPBL手法の導入には
次の3つの立場があると思われる。
(1)大学・大学院教育をPBL中心におこなうべきだと考える根本派
  (radicalist-fundamentals)
(2)PBLに多くの可能性を信じながら従来の古典的系統学習も併存すべきと考える折衷派
  (eclectics)
(3)PBLの学習への改善効果に懐疑し、PBLの導入に異議をとなえる反対派
  (oppositionist)

これらの対立は、ただたんに大学ならびに大学院における
世俗的な勢力分布について指摘しているだけではない。
これらの意見を表明する人たちがPBLをどのように理解し、
またそれによって今後の医学教育がどのように
変わろうとしているのについて、行動を通して、
それらが何であるのかを示唆しているのである。

http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/061205PBL.htmlより


問題にもとづく学習
PBL, Problem Based Learning
解説:池田光穂

【定義】
学習者自身が中心となり、反省的反復の作業をともないながら、
実践される少人数グループの教育手法ことを、
「問題にもとづく学習」とよぶ。
PBLとは, Problem Based Learningのアクロニム(頭文字による略記法)である。
医学・歯学・看護学・環境科学・法律実践・工学などのように
実践の場での問題解決などが職業的スキルとして重要視される教育課程で
しばしば採用される。

ややこしいことに、具体的な学習課題を立てて
少人数グループでプロジェクトを完遂させる
「プロジェクトにもとづく学習」もまたPBL、
すなわち Project-Based Learning と呼ばれて、
しばしば混乱することがある。
「プロジェクトにもとづく学習」は、
これまで実習や演習と呼ばれてきた学習課題のより発展形態だと考えればよく、
ほとんどあらゆる学問分野の教育課程で採用することが可能である。
[→プロジェクトにもとづく学習]

問題(problem)が与えられてもプロジェクト(problem)が
与えられても、少人数グループ学習では具体的な課題について洞察、
観察、対話、交渉、反省、学習の再構築という過程が見られる点で、
奇しくも2つのPBLは共通点が多く、また、
その教育理論の検討においても協働できる可能性が高いところが興味深い。

問題にもとづく学習は、一種のブランドあるいは
確立された手法として理解されることが多いので、
英語によるアクロニム(頭文字による略記法)により、
PBL(ぴー・びー・える)と簡略ないしは、
ジャーゴン(内輪で流通する語彙)でよばれることがある。

PBLという教育手法をよきものとして唱道する人たちは、
PBLに対比的な教育手法のことを「系統的学習」と呼び、
批判的ニュアンスをこめて解説することがある。
後者、すなわち系統的学習とは、
これまでの教育の現場で長年採用されてきた手法のことである。
(→別項で、「状況的学習」に対する「古典的学習」の対比を説明しているので、参照してください)

PBLによる教育の牙城であるマックマスター大学ではPBLを次のように定義している。

PBL is any learning environment in which the problem drives the learning.
That is, before students learn some knowledge they are given a problem.
The problem is posed so that the students discover
that they need to learn some new knowledge before
they can solve the problem.
[出典 2006年11月28日]

また、同ページでは、PBLによる教育の主要な3つの特徴として、
小グループ・自発性・自己評価による問題にもとづいた学習
(Small group, self-directed, self-assessed PBL)という点をあげている。
マックマスター大学における学生中心の学習法が、
SGL、SDL、PBL(小グループ学習・自発的学習・問題にもとづく学習)という
三本柱からなりたっていると言っても過言ではない。

マックマスター大学で編纂された教科書(ウッズ 2001)には、
PBLと系統的学習の対比の例が面白おかしく描かれている。

すなわち、「ここに故障したトースターがあります、
これを直してください。でなければ、少しばかり要求を譲歩して、
ちょっとでも使えるようにしてね」という問題提起が、
PBLであるとすると。系統学習ないしは系統的学習では、
物理の授業で、電気に関する一般的説明があり、
それが熱エネルギーにどのように変換されるかの学習をして、
電気一般の勉強のあとに、実用的な電気機器に関する説明があり、
家庭の電気製品がどのような規格化されているのか、
またテスターのメーターの読み方の講釈があり・・・という、
体系的な勉強の総決算の延長上に故障したトースターの修理の問題――
それも例題ないしは勉強の応用問題として――が出てくると考えるわけだ。

ここまでくると、PBLがなぜ日本の多くの大学で、
とくに医学教育においてもっとも最初に取り入れられたのかがよくわかる。
しかしながらPBLが重要視されるのは、
人間の病気をトースターの比喩で見るという不遜にあるのではなく、
医学教育におけるより深刻な問題に直面しているからである。

【PBLが必要になる社会的背景】

医学教育においてPBLが重要視されるようになった背景にあるのは、
EBM(証拠にもとづく医療)にみられる
医学的実践の科学化や正確化への社会的要求と、
社会と患者のニーズに適切に応えることという内部的な制度的要求という、
医学・医療に求められている2つの重要な要求がある。
ではなぜ、PBLが具体的に重要になるのであろうか。

生物医学的知見の急速な変容(イノベーション)により、
臨床医学的実践には常に新しい知識と技法がもとめられるようになったこと。
これにより、医療者に対する期待される人間像は、
家父長的権威者でも、また実験的科学者でもなく、
つねに学習と研鑽を積む一方で
患者との良好なコミュニケーションをもちうる患者の対話者になったということだ。

このような医療者になるための資質とはなんであろうか。
それはまず(1)現役であるかぎり、患者の本復と幸福を願いつつ、
そのための情報収集に勤しみ、かつ生物医学の知識に精通し、
それを前向きに学習しつづけること。
そして(2)現代医療の現場が完全にチームで動くことを必然としたために、
個人がもつ技量をより適切にチーム全体の資質の向上に振り向ける
コミュニケーション能力をもつことである。
(3)よき医療者としてチームのために果たすためには、
チームのための滅私奉公的な発想から距離を置き、
[近代人として]プライバシーもち人間として
円熟するための自己反省能力が必要になる。

このように、PBLが現代人としての我々に投げかけるものは、
専門家として社会に寄与しうる期待される新しい人間像にほかならない。

【PBLの今後】

それが当事者ないしは人間社会に十全のすばらしきものであるかどうかは、
疑問の余地がある。しかし、
我々が抱える最大の問題は、そのようなテーマすら
PBLの学習課題になるというパラドックスなのだ。
つまりPBLは、現代において
[少なくともそのフレームの内側においては]
無敵の学習法であるということになる。

また、他方で、問題解決に取り組んでいる現場ではつねに、
PBLでおこなうことが実践されているというふうに解釈することもできる。
従って、PBLについてそれほど反省的意識をもたない人は
「PBL、PBLと叫んでも進取なことはない、当たり前のことさ」と、
意外と臨床の現場で起こりつつある地殻変動に対して
鈍感な人がいることも故なしとはいえない。
(→現場力に関する議論を参照のこと)

他方、PBLの弱点は以下のようなことにある。
1.チューターなどのマンパワーが必要
 (意外とPBLの教育現場は労働集約的なところがある)。
2.系統学習に比べると学習者へのプレッシャーをかけないので、
  学習集団に対して均質な学習効果を予想することが困難。
3.学習者がもっている価値観や文化的背景がグループ学習の形成や運営に
  どのような効果を及ぼすかが不透明
 (もちろん、それはチューターがおこなうべきであるので、質の高いチュートリアルの開発が急務)

これ以降の発展的議論は、池田光穂「問題にもとづく学習(PBL)の研究
学部教育の改善について」などを参照してください。

文献その他

ウッズ、ドナルド・R(Donald R. Woods) 2001[1994]
『判断能力を高める主体的学習』新道幸恵 訳、東京:医学書院

グリーネ、ゴードン(Gordon M. Greene)編 2005
『臨床能力をきたえるハワイ大学式PBLマニュアル』黒川清監修 徳田安春ほか編訳、東京:羊土社

吉田一郎・大西弘高 編著 2004 
『実践 PBL チュートリアルガイド』東京:南山堂

サイト内リンク
池田光穂「問題にもとづく学習(PBL)の研究」
池田光穂「PBL(問題にもとづく学習)で社会科学を学ぶ」
状況的学習
古典的学習
最近接発達領域(ZPD)
現場力
学部教育の改善について
べんきょうしただけではなにもわ からない。うごいてみることがだいじです
ものづくり・創造性教育のためのPBL入門
保健医療社会学における「問題にもとづく学習」手法の可能性について

http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/061127pbl.htmlより

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資料を何度も作り直させる上司を、どう思いますか?

2014年06月22日 14時07分46秒 | キャリア支援
資料を何度も作り直させる上司は三流以下
誠 Biz.ID
2014年6月13日 15時00分
(2014年6月13日 15時42分 更新)


画像:ITmedia

チームで仕事をする際に避けられないのは「仕事の依頼」です。

自分が仕事の依頼をすることもあれば、
誰かから仕事を依頼されることもあるでしょう。
チームワークが難しい1つの理由に、
優秀なプレイヤーは、必ずしも優秀な
ワン・オブ・チームメイトではないという点が挙げられるでしょう。
それが顕著に出る例になります。

同時にこれは、組織における「教育」という側面に密接に関わっています。
日本企業の多くは小さいタスクを新人や後輩に任せることで、成長を促しながら
実業務の負荷分散を行っていくという役割分担をしていることが多いからです。

今日はこの点を絡めながら、話を進めてみようと思います。

何を作ってほしいのか分からない三流以下の上司
さて、仕事を依頼された中で納得できなかったのは
「要件を明確に共有してくれない」ことです。
例えば、資料作成の依頼があるとします。
ダメダメな上司は誰に対して使う資料なのか、
どの資料のどこの部分に使うのか、
どのようなイメージなのか何が発生するのかを共有しません。

そこで、僕が自分なりに気をきかせて要点を抑え、
シコシコ作った資料を持っていくと、

「あー、違うんだよなぁ。こんな感じが欲しかったんだよ。
作りなおしてもらえる?」

なんてことを平気で言います。
こちらに要求する粒度(※)や表現について、
事前情報が与えられていないにも関わらず、
それを求めていたのです。
でも、僕はエスパーじゃない!

※粒度(granularity)=荒さ、あるいは細かさの度合いを表す言葉。
コンピュータプログラミングにおいては、
プログラマの頭の中で問題となる箇所や
用途と関連のある箇所をピックアップしやすい状態に保守し続けること。
(IT用語辞典)


アジェンダの前提が変われば、
丁寧に作った資料もすべて作り直し。
同時に、彼らはそこで発生する手戻りのコストを依頼した相手に負わせ、
そこに対する反省がありません。
他のタスクが出来たであろうリソースの機会損失を考えると、
明らかなチームとしての工数のロスです。
マネジメント力のなさを感じます。

さらには、こちらのセンスがないかのような言い方をする人までいます。
こういう人たちは「明確な要件をお互いに共有する」ことに
手間暇をかける姿勢がに足りません。
自分の頭の中のイメージをサラっと伝えて、
それが相手に十分に伝わると思っているのか、
スマホの同期のように脳内シンクロができていると思っているのです。…

さて、「明確な要件」というのを先に挙げた資料で言うと、
「どのようなアウトプットの形に落とし込まれるか」になります。

具体的には、
・その資料がなぜ必要なのか?(背景)
・誰に対して見せる資料なのか?(目的)
・何を説明しようとしている資料なのか?(内容)
・どのように表現してほしいのか?(アウトプットのフレームワーク)
を、明確にするということです。

このうちのどれかに対する認識の共有が欠如した時点で「ズレ」が発生します。

「ズレ」は後になればなるほど、修正に時間がかかる
誰かに仕事を依頼するとき、
「ズレをいかに事前に修正しておくか」というのが重要になります。
にもかかわらず、依頼する側もされた側も、
着手する前にそのズレを確認、
修正にかかるコストを払おうとしない傾向があります。

自分から依頼主を選ぶことはできないので、
せめて依頼主に対して執拗に確認する手間を惜しんではいけません。
ウザがられようとひるんではいけません。
それがスムーズに仕事を終わらせる生命線と言えるからです。

逆に、自分が依頼するときには、
クドイぐらいにその点を共有するのがちょうど良いです。
それほどまでに「パッと依頼して、
自分が欲しいものがサクッと上がってくる」ことは少ないのです。

「ズレ」は後になればなるほど、
修正に必要な時間が莫大に増えます。
僕はこれを分度器のイメージで捉えています。
仮に、30度のズレでも、始点(着手)から離れる(時間の経過)ほどに、
距離(ズレの大きさ)は拡大していきます。
60度のズレであればもっと広がります。
だからこそ着手の際にズレをなくす必要があるのです。

この事実に対して認識が甘い人が
「仕事を依頼するのが下手な人」の正体です。
もっと言えば「他人と仕事するのが下手な人」の特徴なのです。
彼らに振り回されないために、また、
他人を振り回さないために、
要件を共有する精度を上げる必要があるのです。

新人くんや後輩ちゃんたちと接するときの「ズレ」
とは言いつつも、一定の条件下であれば執拗に要件を確認する必要はなくなってきます。
例えば、ずっと一緒に仕事をしていれば上司が
どんな成果物を欲しがるのかを大体理解できますし、
会社において求められる成果物が
どのようなものかを経験から把握できるようになります。

これは、経験により漏れている要件を自分で
補完して成果物を作成できるようになってくるためです。

ただし、例外があります。…
それが新人や後輩の存在です。
彼らに丁寧に説明したつもりでも、
欲しかったイメージやクオリティの成果物が上がってこない。
そのわりには時間がかかる。
本音を言えば「なんでこんなことが出来ないんだ?」と
思うこともあるかもしれません。

そんなときには、今回の「ズレ」の視点を確認してみてください。

自分が要求した成果物と、
相手がイメージしている成果物にズレがないか? 
それを補うために必要な知識と経験に関して、
自分と相手の習熟度にレベルの差はないか? 
プレゼンテーションソフトや
表計算ソフトのスキルにギャップはないか?

このズレを意識しないで彼らに要求することは、
苦痛を与えているだけに過ぎません。
補完する知識と共有が自分のレベルに達成していないのなら、
そのズレをなくすためにもっと細やかに情報提供してあげれば良いでしょう。
ソフトを使うスキルが低いのであれば、
徐々に覚えるまで目をつぶる必要が出てくるでしょう。
時間が許すなら教えてあげても良いでしょう。

純然なアウトプットを見ることは大事ですが、
こちらには彼らに改善してほしいポイントを指摘する必要と責任があります。
進捗報告を彼らにしてもらうのは、
達成度を確認するためだけではありません。
成果物が迷走し始めたときになるべく早い段階で矯正するためなのです。
何が進捗を遅らせている要因なのかを把握するための材料なのです。

新人や後輩に接するときは、この視点を絶対に忘れてはいけません。
自分を育ててくれた先輩がやってくれたことを、
そのままマネしているだけですが。

僕が他人と関わるときに大事にしていることの中に
「差分」があります。それは
ポジティブであり、ネガティブな意味でもあります。
良い方向に転がりそうな差分はそのまま拡大してもらう。
自分に出来ないことをやってくれるその人の魅力。
悪い方向に転がりそうな差分は極力なくしていく。
ディスコミュニケーションやスキル不足などがそうです。

チームワークとは「違い」とどのように向き合うか、
という姿勢そのものだと僕は考えています。
(ファーレンハイト)

http://www.excite.co.jp/News/it_lf/20140613/Itmedia_bizid_20140613067.htmlより

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