ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

検察が実現しようとした「社会正義」

2010年10月03日 | 国政事情考察
供述対立、「隠避」立証に高い壁…最高検は自信(読売新聞) - goo ニュース

 郵便不正事件で押収された証拠品のフロッピーディスク(FD)改ざんを巡り、大阪地検特捜部の当時のトップが逮捕された犯人隠避事件。最高検は、今後の起訴や公判維持に自信をみせるが、前部長らは全面否認を貫く構えで、専門家からは「立証は容易でない」との声も上がっている。
 「当然(有罪を)立証できるという認識のもとに逮捕している」
 1日夜、前特捜部長・大坪弘道(57)と前副部長・佐賀元明(49)両容疑者の逮捕を受けた記者会見。最高検の伊藤鉄男次長検事(62)は、事件の立証に強い自信をのぞかせた。
 立証の「核」となっているのは、主任検事・前田恒彦容疑者(43)(証拠隠滅容疑で逮捕)の供述だ。前田容疑者は、FDの改ざんが「故意」だったことを認め、大坪、佐賀両容疑者にも「改ざんが故意だと報告した」と供述。前田容疑者から改ざんを打ち明けられた同僚検事らの供述も、これと一致しているという。



 今回の調書改竄の件だが、検察に非があるのは言うまでもない。しかし、検察批判一辺倒でいいのだろうか。つまり、検察批判だけで、今回の事件から教訓は得られるのか。

 確かに、こうした前代未聞の不祥事を起こした検察へメスを入れることで事件の裏を暴くことも必要だろうが、これよりも今必要なのは、どうしてこのような事件が起こったのかということについて、事件当時の社会的背景や国民世論といった点からの検討ではないだろうか。

 というのは、検察がこうしたキャリア官僚や大物政治家、もしくは時代の寵児のような人物を捕まえるときには、その当時の社会的風潮や国民のその対象についての認識等が大きなファクターを占めていると思われるからだ。

 すなわち、これこそが、しばしば検察について説明する際に使われる枕詞である「社会正義の実現」というやつではなかろうか。私は今回の事件は、検察がこの社会正義を実現しようがしたために起こった事件であると考えている。(とは言うものの、もちろんこれだけが原因だとは言わないが。)



 しかしながら、検察が当時の時代の風潮や国民世論をバックに実現しようとする社会正義が、常に法と符号するとは限らない。すなわち、社会正義=法、ではないということだ。

 こうした点から考えると、村木氏の事件が起こった当時の時代背景としては、マスコミや政治家をはじめとした官僚バッシングの嵐と、政治とカネに対して批判的ないしは否定的な、潔癖とも言うべき世論が根強く存在していた。

 上記のように考えると、今回の事件というのは、検察が起こした、当時の社会的風潮に乗っかったものであると言える。つまり、検察は検察なりに(当時の)社会正義を実現した結果であったのだ。



 とは言うものの、この仮説からは、どうしてターゲットが村木氏なのかということは説明できない。

 そこで思うに、検察としては、ターゲットは官僚であれば、(少しグレーっぽいことをしている者であれば)誰でもよかったのではないだろうか。そこで「目を付けられた」のが、今回の村木氏だった、と。



 したがって、私としては、今回の件は、単に検察を徹底批判するだけでは著しく不十分であると考える。上記の仮説に従って考えれば、今回の事件はマスコミが煽り、我々が社会正義の実現を求め、検察がこれを実行した事件と言えるからだ。

 要するに、マスコミも村木氏の事件についての報道だけでなく、あらゆる事件に対する自分たちの報道姿勢そのものが度を弁え、適切なものだったのか再考する必要があるし、国民も物の見方が両極端になっていないか、考えなおす必要があると思われる。



 今回の事件を検察だけのせいにして終えるならば、もう一度同じ過ちを繰り返すことになるだろう。

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