ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

私案 参議院議員選出方法

2009年05月31日 | 国政事情考察
 参議院はいわゆる「良識の府」、「理性の府」として、良識あり、理性ある国政審議の場として期待されている(昭和46年9月23日 参議院運営の改革に関する意見書)。

 しかし現状は、往々にしていわゆる審議引き延ばし、強行採決、物理的抵抗等の戦術がとられることが少なくない(同上)。参議院が衆議院の「カーボンコピー」と揶揄されて久しい。

 そもそもだが、被選挙権の年齢こそ違えど、衆議院議員と全く同じ方法で選出されて、「良識の府」、「理性の府」としての役割を期待できようか。

 そこで、私は参議院議員選出方法を変えることを提案したい。



 ここにおいて私の念頭に置かれるのは、参議院の旧来(と言っては語弊を招きかねないが。)の姿である「元老院」なしいは「貴族院」である。

 たとえば、現日本国憲法の精神に影響を与えたフランスでは、議院の構成は国民の選挙からなる「国民議会」(Assemblée nationale)と、下院と地方議会の議員約15万人が上院議員を選挙し、国民による直接選挙は行われない「元老院」(Sénateur)から成る。

 このフランスの制度は参考になると思う。



 次に、その「良識としての府」の役目を強調するために、選出するにあたり一定程度の知識を試す試験制度の導入を提案したい。

 試験の内容は、一次はマークシートなどの試験。マークシート試験は政治学入門的な比較的難易度は易しいものと、時事問題。二次は論述。最終である三次は面接と受験者同士でのディベート。それを経て合格した者が参議院の議席を獲得する。

 試験内容は、政治学の基本から政治史、政治思想史、地方自治、社会保障、安全保障、経済関係、時事問題など。レベルとしては大学の政治経済学部修了レベルとする。

 選挙権を審査する機関は、公平を確保するために、国家から全く独立した機関が行う。



 二つほど案を出してみたが、私としては後者の案の方が優れているものと考える。どうだろうか。

低脳な者ほど安易に規制に走る

2009年05月30日 | 二次元(児童ポルノ規制)
性暴力ゲーム規制強化へ、与党が流通歯止め検討チーム(読売新聞) - goo ニュース

 少女らをレイプして妊娠・中絶させる過程を疑似体験する日本製パソコンゲームソフトに、国際人権団体などが抗議を行っている問題で、自民党は29日、同種のゲームが多量に流通している状況に歯止めをかける方策を検討するチームを発足させた。
 公明党も今月中旬に検討チームを作っており、与党内で規制強化をめぐる議論が本格化しそうだ。
 自民党で29日に発足したのは「性暴力ゲームの規制に関する勉強会」。先進国のなかでも性暴力関係のゲームや児童ポルノへの規制が緩いと指摘されていることを踏まえ、関係省庁からヒアリングを実施。今後も会合を重ね、規制強化の必要性を検討していくことになった。
 出席した野田消費者相は「子どもを守るバリアが日本ではきわめてルーズだ」と指摘。座長の山谷えり子参院議員も「日本のコンテンツ産業をさらに発展させていくにも、こうしたゲームで信頼を損ねてはいけない」と話した。
 公明党も性暴力ゲームの問題を考える合同プロジェクトチームを今月中旬に発足。太田代表や国会議員らで秋葉原のゲームショップの視察を行い、有識者のヒアリングも行った。



 最近の風潮として、何か「危険」(と看做されるもの)が出てくると、馬鹿の一つ覚えみたく「規制しろ」という主張がされるが、臭いものには蓋のごとく規制をいくらしたところで、問題が解決するというものではないだろう。

 というか、先ほど「問題」と書いたが、そもそもこれが「問題」なのか、という時点で疑問が出てくる。そこで、問題としたら、一体何が「問題」なのか、私なりに分析してみた。


1、こうしたゲームの影響で、幼女に手を出す輩が増える(犯罪を助長する)。
2、子供の人権を侵害する。


 要は、この二つの理由に収斂されるだろう。したがって、以下、この二つの理由に絞って検討していくことにする。

 まず1について。

 これには古くから、犯罪学上において、対立する見解が存在している。

 それは、「注射針理論」と呼ばれる二つの理論による対立である。そのうちのひとつは、過激・暴力的な内容のゲームをプレイすることによって、犯罪が増加するという理論で、今回のマスコミならびに政府等の主張はこちらに近しいと思われる。もう一つの理論は、過激・暴力的な内容のゲームをプレイすることによって、人間は溜飲を下げているという理論(カタルシス説)だ。

 これは自分自身に関しての話だが、たとえば「多重人格探偵サイコ」のマンガを読んだことがあるが、これによって植木鉢に人の腕をいけようとは思わなかったし、他にも残虐な描写は多々あったけど、それによって人を殺してみたいとは思わなかった。「バイオハザード」シリーズもやったことがあるが、だからといって殺人欲求に駆られることはなかった。

 こういう人たちの理屈を敷衍させれば、テレビでボランティア活動や、マザーテレサの奉仕活動などを見せれば、視聴者は慈善的になる、ということになりそうだが、そんなのどこで証明されているのだろうか。

 これを言うならば、バラエティ番組などのなかには、いじめを助長するものや、食べ物を粗末に扱うものなどが多い。これらによる害悪性のほうが危険なはずである。

 私からしてみれば、「つくる会」の教科書で学習すると、戦争をしたくなる子供になる、というぐらい、馬鹿げた理屈でしかない。だいたい、こんな「エロゲー」をやったぐらいで性犯罪に走るような者がいたとしたら、このゲームをプレイしなくとも、そう遠くないうちに性犯罪者になっているだろう。



 2について。

 一体「誰の」人権が、このゲームによって侵害されているのか。仮に侵害されているとしたら、具体的にどういった具合で(つまり、いかなる理由によって)侵害されているのか。

 二次元のキャラに人権はない。これは当たり前のことである。では、ここで侵害されている「人権」とは一体誰の人権か。

 このゲームによって子供の人権が侵害されているとすれば、芸術作品や漫画、テレビ、映画、小説・・・。こういった媒体によって日常茶飯事に「誰かの」人権が侵害されていることになる。官能小説は女性の人権を侵害したことになるのか。ドラゴンボールの悟飯がセルに殴られることによって子供の人権が侵害されているのか。



 仮に、子供の人権が「侵害されるおそれ」があるから規制すべきという立場に立ったとしても、それによってこのゲームの規制を正当化することはできない。

 その理屈に立つならば、包丁も「人を殺す道具に使われるおそれがある」として規制されなければならないし、自虐史観に立った文献等も「日本を破壊するおそれがある」として規制されることを認めなければならない。



 最後に。ただの対処療法的に「規制」をしても、そもそも何が問題なのかという次元から議論をしなければ、ことの解決を図ることはできない、ということを忠告しておく。

 ところで、何か問題が発生すると規制論をすぐに出してくる者は、どんな立派な御託を並べていても、その素性にファシスト的性格を内在させている可能性が高いのではないか。民主主義国家では、規制は最後の最後に取りうる手段であるということを肝に銘じるべきだ。

スポーツ庁(笑)

2009年05月29日 | 国政事情考察
教育再生懇4次報告案 「信頼ある公教育」提言 スポーツ庁設置も(産経新聞) - goo ニュース

 政府の教育再生懇談会(座長・安西祐一郎慶応義塾塾長)がまとめた第4次報告案の全容が27日、明らかになった。「教育安心社会」を実現するため「信頼される公教育の確立」を打ち出し、同時に親の経済的な格差が教育を受ける機会に影響がないように、家庭の教育費負担の軽減などを提言。「スポーツ立国」の実現に向けスポーツ庁の設置も明記した。第4次報告案は28日の教育再生懇で河村建夫官房長官に手渡される予定だ。
 一方、スポーツ行政について「体育授業の充実、障害者スポーツの振興、企業スポーツへの支援、トップアスリートの育成など多岐にわたる」と記し、総合的なスポーツ振興策の必要性を強調。国と地方自治体の役割を明確にするためのスポーツ基本法の制定を盛り込んだ。



 はっきり言って馬鹿の極みだと思う。消費者庁も不要だが、こちらはもっと不要。これ以上官僚のポスト増やしてどうするのかと言いたい。

 五輪対策のためとか、さももっともらしい大義名分を掲げて、不要なこと(無駄)を作り出すのは官僚の常套手段だが、五輪対策をやりたいのなら、既存の省庁を使えばいい。文部科学省に任せればいいと思う。JOCに援助をすることなども考えられる。

 そして、企業スポーツへの税制上の優遇措置を任務に据えるというが、こんなこと、わざわざ政府が行うべきことだろうか。税制上の優遇措置をしたいなら、新たに官庁を設けなくとも可能である。無駄の理由の正当化としてもお粗末だ。

 企業のスポーツというのは、あくまでも企業が「自主的に」やっているものであって、企業経営が傾いてやっていけないのなら辞めればいいし、それが嫌なら他の企業にチームを譲渡すればいい。税制上の優遇措置まで敷いてやるべきことではない。完全に政策の優先順位を見誤っている。



 そもそも、これまで政府は「小さな政府」を目指し、地方分権を推進し、官僚機構のスリム化を進めてきたのではなかったか。厚生労働省の分割案しかり、総務省の分割案しかり、そして今回の「スポーツ庁」設置。脱官僚政治どころか、これではますます官僚の無駄遣いを許すことになり、国民の税金が「正しく」使われない。

 先にも述べたが、省庁を新たに設置するということは、それだけ官僚にポストを与えることになり、これまでの公務員制度改革等の流れに逆行するに等しい。私は観光庁も不要だと思っているぐらいだ。

 麻生内閣の内政は全く評価していない。定額給付金をはじめ、はっきり言って愚策のオンパレードだと思っている。その意味では早く総辞職して欲しいと思っている。麻生内閣の経済政策をはじめとした内政政策は、官僚主導のばら撒きポピュリズムでしかない。



 省庁の設置には、必ず官僚の利権争い(予算の奪い合い)が起こる。官僚は、絶対に既得権益を手放さない(だからこそ、道路公団民営化も、郵政民営化も激しい抵抗をした)。一度噛み付いたら離れないスッポンみたいなものだ。

 ということは、たとえ将来その政策や予算が不要になっても官僚は何かしらのもっともらしい言いわけをつけて、予算の獲得に励む。そこに国民の税金がつぎ込まれる。そこには、いつまで経っても無駄はなくならないという負のスパイラルが待っている。



 一体麻生内閣は、どこまで官僚に付け込まれた気が済むのだろうか。

一切の「人道支援」も断つべし

2009年05月27日 | 外交事情考察
厳しい安保理決議は不可避=北核実験でロシア(時事通信) - goo ニュース

 インタファクス通信によると、ロシア外務省筋は26日、核実験を強行した北朝鮮に対する国連安保理決議が厳しい内容になるとの見通しを示した。
 同筋は「安保理が厳しい決議を採択するのは不可避だ。この問題には安保理の威信がかかっている」と述べた。
 ただ、同筋は「(北朝鮮の)封鎖や孤立化、隔離を議題にすべきではない。対話の扉は常に開かれていなければならない」とも指摘した。 



 核実験の強行、そして度重なるミサイル発射という蛮行を繰り返してふんぞりかえっている北朝鮮に対しては、国際社会、最低でもわが国は、「人道支援」を含め一切の支援を断たなければならない。



 世界食糧計画(WFP)のドマルジュリ平壌事務所長は昨年10月22日、ソウルでの講演に際して公表した資料で、北朝鮮は「慢性的な食糧難」状態が一層悪化し「甚だしい食糧、生活の危機」になったと指摘し、更に、北朝鮮で配給を受けている層の中で、食糧が足りず山で動植物などを採っている人が、2003-05年の平均で50%程度だったのに対し、昨年は70%に増えたほか、都市居住者の8割は親せきから食糧を分けてもらいしのいでいると述べた(産経新聞)。

 確かにこのように、北朝鮮の食糧事情は非常に厳しい状態で、飢餓に直面しているのは、何の罪もない人たちであるから、国際社会が一切の人道支援を断てと主張するのは残酷のように思われるだろう。

 しかし、そもそも、これまでも幾度にもわたり北朝鮮にはWFPをはじめ、人道支援団体が食糧援助等をしてきたが、その結果はどうか。国際社会がいくら手を差し伸べても、あの国は「自分で立つ」ことはせず、民からふんだくったカネを先軍政治の名の下に、その殆どを軍事費に注ぎ込んでいる。これは「人道支援」が皮肉にも、「非人道的な」独裁政権の延命をさせてきたと言うほかない。



 人道支援が「正しく」効果を発揮するには、支援先の国家が開放状態になければならない。つまり、北朝鮮のような鎖国政策を取っている国家にやっても効果は見込めないということだ。

 かの国では、人道支援で国内に入ってきた食糧が、ヤミ市で公定価格の数百倍の値段で食料品などが流通するようになり、本当に飢餓から救いださなければならない市民の手に行き渡らない。たとえ行き渡ったとしても、それは些細なものだ。

 それでは、どうして飢餓は起こるのであろうか。それは国家体制が独裁体制によって成っているからだ。独裁体制では、今わが国で話題の「政権交代」も起こらない。

 政治体制の変化が起きない、ないしは国民から起こせないという状態では、そこでは一つの政策しかなされず、体制は硬直化して失政が繰り返されても、独裁体制だから政権が交代することもない。つまり、国民の声の反映しての政治という民主主義が敷かれていない北朝鮮は、体制内部から変化が起きない限り、飢餓で苦しむ国民がいなくなることはない。



 私が言いたいことは一つ。今回の蛮行を機に、国際社会は北を兵糧攻めにして疲弊させて、あの国に先軍政治や瀬戸際外交が何の得にもならないということを、痛感させることである。そのために、あらゆる支援を停止する。これこそが最善の方策であって、間違っても「笑み」を見せることがあってはならない。

 対話と圧力の時代は終わった。これからは圧力のみが北を動かす手段である。

裁判員制度について思うこと

2009年05月22日 | 国政事情考察
裁判員裁判の対象、初日は殺人未遂など起訴4件(読売新聞) - goo ニュース

 裁判員制度がスタートした21日、全国では殺人未遂や強盗致傷など4件の裁判員裁判対象事件が起訴され、国民の司法参加に向けて第一歩を踏み出した。
 4件については今後、争点や証拠を整理する公判前整理手続きで公判日程が決められた後、それぞれの地域に住む50~100人の裁判員候補者に、地裁から呼び出し状が送付されることになる。
  一方、この日は裁判所、検察庁、弁護士会の法曹3者の代表が東京都港区で共同記者会見に臨んだ。山崎敏充・最高裁事務総長は「安心して参加いただきたい」と呼びかけ、樋渡利秋・検事総長は「今日から刑事裁判は変わる」と宣言。宮崎誠・日本弁護士連合会会長は「被告の権利が保障された刑事手続きの実現に力を尽くす」と決意を述べた。



 裁判員制度については以前、「裁判員制度について」において述べた。今回も、ここと重複する箇所があるが、裁判員制度がはじまったこともあり、裁判員制度について思っていることを述べてみたい。



 裁判員制度は、平成16年5月28日に成立した「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律(裁判員法)」によって定められている。そして裁判員制度の趣旨として裁判員法1条には、「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資すること」ある。つまり平たく言えば、司法に国民の(生の)声を反映させることにより、国民に近い司法制度にしようというものであろう。

 しかし、裁判員裁判を行うにあたり、必要な条文は、刑法の総則の部分では正当防衛(36条)や責任能力(39条)など、各論の部分では殺人罪(199条)、傷害致死罪(205条)、通貨偽造罪(148条)など、合計20カ条ぐらいで、これに特別刑法を追加してもせいぜい30カ条ぐいらいである。第一に、これで国民にとって司法が身近になるとは思えない。

 そして、司法を国民にとって身近なものと実感して欲しいならば、やるべきことは法テラスの充実やADRの拡充など、国民からアクセスしやすい、すなわち、日常生活における諍いを迅速かつ手近なツールを使って解決できるようにすることである(「司法」の敷居を下げること)。見ず知らずの、自分には全く関係のない裁判に強制的に引っ張り出して司法を身近に感じて欲しいというのは発想としておかしい。



 先にも書いたとおり、裁判員裁判で使用する条文はせいぜい30カ条ぐらいで、思うに、これら規定のどれもが、国民が生活していくにあたって身近なことについてのものではないだろう。殺人や通貨偽造事件と、万引きや痴漢、どちらのほうが国民にとって「身近な」ことだろうか。

 司法に国民感覚を反映させたいのならば、後者に関する事件に国民を動員したほうがいいはずだ。なぜならば、後者の事件のほうが国民が生活する中で前者に比較して起こり易いし、前者と比較して経験している人も多いだろうからだ。こうした事件のほうが、裁く国民としても実感として裁きやすいのではないだろうか。

 裁判員法1条の言うように、開かれた司法にし、国民の社会常識を反映させられる司法にすることを本当に目指すのならば、職業裁判官の「鶴の一声」によって「民意」を潰してしまいかねない裁判員制度よりは、戦前から停止している陪審員制度を手直しして復活させたほうが、司法に民意を適切に反映できるものではないかと思う。

 加えて、裁判員は刑事事件の一審しか参加できないが、司法に国民の声を届かせたいならば、せめてニ審でも裁判員裁判を行うべきだったと言える。もしくは陪審制度は全員一般国民からなる陪審員によって構成されるのだから、こちらのほうがやはり国民感覚を裁判に反映させるには適していると思う。



 裁判員制度がスタートした21日、森法務大臣は、「これまでの『お上の裁判』から『民主社会の裁判』へと司法が大きく変わる」と意義を強調したというが、刑事事件だけを、しかも死刑または無期が法定されている事件のみを対象とする裁判員制度で、「お上の裁判」から「民主社会の裁判」へと司法が大きく変わるとは、私には到底思えない。

 なぜならば、民事事件や窃盗や軽犯罪法違反、迷惑防止条例違反(主に痴漢行為)といった、国民が生活するにあたり身近で起こりうる事件については今までどおり職業裁判官のみからなる裁判を行うからだ。よって、森大臣の発言はいささか大袈裟に過ぎやしないか。

 ところで、裁判員制度はいわゆる「司法制度改革」の一環として実現したことだが、そもそも、国民(の多く)は刑事裁判について、年金制度や政治とカネの問題のように、何か多大な不満を募らせていただろうか。今さら言っても仕方ないが、刑事裁判に(もしくは司法それ自体に対し)多大な不満が募っていないのならば、敢えてわざわざ裁判員制度を導入する必要もなかったのではないか。

 少なくとも、私はこれまでの職業裁判官のみで行ってきた刑事裁判に格別不満は持っていない。国民感覚とまるでかけ離れた無茶苦茶な裁判がされてきたとも思わない。なのにどうしてこういう無駄なことをするのか分からない。未だに半数近くの国民は、裁判員裁判に参加したくないと回答しているではないか(産経新聞の世論調査によれば、45.8%の国民は「参加したくない」と回答している)。なのに敢えて行う必要性を見いだせない。



 それから、国民の感覚で重大事件が審理でき、しかも判決まで出せるのならば、どうして司法試験を超難関試験にしているのだろうか。医師や教師などのように、「プロ」でなければできないからこそ資格制にし、しかも合格率も(新司法試験が導入される前の旧司法試験ではあるが)2~3%という狭き門ではなかったのか。

 国民の感覚でも裁け、しかも出した判決が確定し、死刑まで宣告できるのならば、司法試験をこれほどまでに高いハードルにしておく意味も薄れてくる。裁判員制度をきっかけに、ロースクール出身者でなければ受験できないという司法試験の仕組みも改革して欲しい。それかやはり「餅は餅屋」のごとく、裁判はプロに任せておくかにして欲しい。



 最後に、私の憂慮の一つに、裁判員裁判が実施されることによって、死刑制度廃止論が活気づくのではないかというのがある。

 人間というのは勝手なもので、他人がそれをやるならいいけど自分がやるのは嫌、という考えがある。こうした考え方は多かれ少なかれ多くの人が持っているものであると思われ、これが裁判員制度と交わるとき、死刑制度廃止論が一気に盛り上がるのではないかという危機感がある。

 すなわち、今まで死刑制度賛成だとしても、いざ自分が死刑判決を出す側に回った途端、やっぱり死刑はどうなの、って思うようになる人が結構多く出てくるのではないかということだ。これは死刑制度廃止派に格好の死刑制度への攻撃材料を提供することになる。死刑制度に対する世論のブレこそ、裁判員制度を実施するにあたり私が心配していることである。



 もう既に裁判員制度は実施されているので時既に遅しだが、やはり裁判は法律のプロに任せたほうがいいと思ってしまう。

新型インフルエンザ ヒステリックになり過ぎやしないか

2009年05月19日 | 消費、環境、食品問題
休校生徒のカラオケ「お断り」 近畿の店「感染防止」(朝日新聞) - goo ニュース

 休校中の18歳未満の生徒らの「入店お断り」――。近畿2府2県で94店舗を展開するカラオケ店「ジャンボカラオケ広場」(本部・京都市)は18日から、新型の豚インフルエンザの影響で休校となった学校の生徒・児童の入店を断り始めた。同社は「お客様同士の感染を防ぐため」としている。大阪では、ほかの大手カラオケチェーンでも同様の動きが広がっている。
 同社によると、密閉空間のカラオケルームは完全に消毒できないといい、18歳未満に絞ったのは「感染者のほとんどが高校生以下だから」。休校中の子供らに自宅待機を呼びかける行政の協力にもなると判断した。



 私は医学については全くの門外漢なので、専門的なことを言うことはできないが、今までいわゆる「新型インフルエンザ」に対する政府ならびに国民の反応は、いささか過剰ではないかと感じていた。今回はこのことについて述べてみたい。



 まず記事についてだが、高校生を中心に感染が広がっていることの理由は現在でも不明なそうだが、1918年のスペイン風邪のパンデミックの際も、若年層を中心に死亡率が高かったというデータもあることから、アメリカ疾病対策センターがアメリカの医学誌ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシンに発表した論文によると、「高齢者には何らかの免疫があるのでは」とあるという(産経新聞)。

 したがって、必ずしも医学的に若年層のウイルス感染について因果関係が明らかになったわけではないが、行政が学校に対し休校措置を取らせたことは評価できる。しかし、10代の子たちだ。遊び盛りに決まっている。せっかく学校が休みになったのだから、友達を連れてどこかに遊びに行きたいと思うのが自然だろう。私が高校生ぐらいなら、絶対同じことをしている。

 一方で、店側の対応も理解できる。もし自分の店で感染拡大などと報じられれば、しかもカラオケ店にいくら学校が休みとは平日の昼間から入店さえておいてそうなったら、社会的非難は相当なものであろうからだ。カラオケ店もそこまで責任は負いたくないというものだ。



 ここで本題だが、私は今回の日本政府ならびに国民の新型インフルエンザへの対応は、過剰なものではないかと思っている。一面ではこの過剰さが、日本の医療の進歩や経済発展を助けて、日本独自の文化に貢献しているということも言えよう。

 以前、とある本に書いてあったが、欧米の人間は、インフルエンザを風邪の一種として捉え(現にそうだと思うが)、インフルエンザだからといっていちいち特別な薬を買い求めることもなく、家で寝ていれば治るという感覚なのだそうな。これに対して日本人は、仕事や社会生活に支障が出ることを最小限にするために、少しでも早くインフルエンザを治そうと、特別な薬を買い求める。ここに日本人の勤勉さ、根の真面目さを見てとれる、とあった。



 しかし、今回のインフルエンザは政府の専門家諮問委員会によると、「感染力、病原性などからみて、新型インフルエンザは季節性インフルエンザと大きく変わることはない。」とのことで、いわば冬場に流行るインフルエンザのようなものということだ。

 それでは、毎年のように気温が下がり大気が乾燥し始める冬場に流行するインフルエンザに、我々はここまで反応しているだろうか。確かに、「新型」ということで原因不明という印象を与え、恐怖心を増長し易いとは思うが、医学に詳しくない私でさえ、インフルエンザウイルスは医療の進歩に応じてウイルス自体も進化し、両者がイタチごっこのような状態であることは知っている。つまり、ウイルスは常に進化を遂げており、それは今回に限ってのことではない。

 しかも、冒頭で挙げたスペイン風邪のときは、医学の進歩具合、衛生管理状態、国民の生活環境も、今とは比較にならないほど劣悪なもので、そうだからこそ、全世界で4000万人余りが死亡し、日本でも30万人もの犠牲者を出したのではないか。だが、現在と当時ではこれら諸条件は全く異なっている。さらにこのインフルエンザにもタミフルといったこれまでの抗インフルエンザ薬が効くとのことなので、そこまで無暗に心配し、過剰な対応はする必要ないと思う。



 今回は先述した真面目さが裏目に出てはいはしないか。不謹慎な言い方だが、騒ぎすぎのように見える。先日、薬局にシャンプーを買いに行った時、マスクが売り切れていているのをまの当たりにした。しかも直後に50代ぐらいの女性がきて、マスクを買い求めようとしていて、店員に品切れと言われていた。1973年に起きたオイルショックで、トイレットペーパーを買い求める光景は、このようなものだったのだろうか。

 今、我々の周辺には「除菌グッズ」や「抗菌」を売りにした商品があふれている。公共施設だけでなく、家の室内も除菌、抗菌処理は当たり前であって、不衛生な環境に対して、「精神的な」免疫が著しく低くなってしまったと思う。それはもはや潔癖の域に差し掛かっているとさえ思える。

 しかし、人間は菌との共存によって自身の免疫力を高め、進化を遂げてきた生き物である。赤ん坊や子供も多くの菌と触れ合うことによって免疫力が強化され、風邪を引かなくなったり、ちょっとやそっとのことで腹を下したりしなくなる。それを、汚いから、不衛生だからといって神経質になっていたのでは、それこそ逆に人間にとって危ない事態を招くことになるのではないか。とはいっても、菌とウイルスは別物ではあるが。



 特に、最近では食品や環境問題、果ては政治とカネにまつわる話まで、潔癖なまでに「汚いもの」を嫌う風潮が強まっているように感じられる。不衛生が良いとは全く言う気はないが、弱毒性のインフルエンザにここまで反応するのも、行き過ぎであると言いたい。

 病原菌に不明な点が多いのならば、国家が水際で拡大阻止を図り、国民も十分に警戒する必要があるのは当然だ。しかし同時に、過剰な対応は物事の本質を見えなくさせ、本当に必要な措置を冷静に考えることをできなくさせる。我々はもう少し、このインフルエンザに対して「鈍感」になってもいいのではないか。

日本を破壊する二人の鳩山 その1 鳩山邦夫

2009年05月19日 | 社会保障関係
鳩山総務相「西川社長を許すつもりは全くない」(朝日新聞) - goo ニュース

 鳩山総務相は17日に千葉市で開かれた全国郵便局長会(全特)の総会に出席し、かんぽの宿売却問題にからんで日本郵政・西川善文社長の経営を厳しく批判した。「今までも許さなかったし、これからも許すつもりは全くない」と述べ、社長続投を認めない姿勢をはっきり示した。
 鳩山氏は、日本郵政がかんぽの宿をオリックス不動産に109億円で一括売却を決めたことは「国民共有の財産を無にする絶対に許し難い行為だ」と発言。「郵政文化を邪魔する者とは正義感をもって闘い抜く」とも語った。



 今、日本を破壊する二人の鳩山がいる。一人は先日民主党の代表に再選した鳩山由紀夫、二人目がその弟の鳩山邦夫である。邦夫の「かんぽの宿売却」問題に関する見解は、全く賛同できない。

 まず、たとえ日本郵政の株を100%財務大臣が所有しているとはいっても、すでに民営化されて株式会社になった会社の人事について、どうして邦夫(政府)が口をはさむことができようか。確かに日本郵政の人事の認可権は総務大臣である邦夫が握っているが、すでに民営化された企業であるのだから、人事に関し口を挟むべきではない。

 それに日本郵政は、取締役候補の決定権を社外取締役が過半数を占める指名委員会が握っている。その指名委員会は、これまで郵政民営化を推進してきた西川善文社長の実績を評価し、続投方針を認めている。したがって、たとえ人事の認可権を総務相が有していようと、それは天皇の国事行為のように、実質的には日本郵政の決定を尊重して追認するような、形式的なものでなければならないはずだ。この認可権は、「総務省は君臨すれども統治せず」と表現できよう。



 そもそも「かんぽの宿」は、竹中平蔵氏によれば、現在でも毎年約50億円規模の赤字を計上している。今年政府が閣議決定した答弁書によれば、「ラフレさいたま」(埼玉県)が約15億6700万円、「かんぽの宿青梅」(東京都)が約7億3000万円の赤字を計上したという。

 したがって、それがたとえ「国民共有の財産」であっても、赤字を垂れ流し、その運営に国民の税金が投入されていることからして、民間への売却は当然であって、非難されるものでは決してない。だいたい、赤字ということは、利用者がいないもしくは限りなく少ないということだ。官僚支配を脱却し、行政のスリム化を図り無駄をなくすには、赤字を垂れ流しているものは売却し、手放すのが摂理である。

 また、邦夫はかんぽの宿を「国民共有の財産」というが、当の国民自身が利用していないのだから、売却することの何が悪いのか、理解できない。財産であっても、それが家計を圧迫していれば、手放すのは当たり前の発想であると思うのだが。赤字施設の放置は、また官僚による天下りや不正の温床を与えることになり、速やかに売却し、赤字を最小限に抑えなければならない。



 ここでこの問題のそもそもの発端について思いだしてみると、事の発端は、日本郵政がかんぽの宿売却にあたり、売却先として規制改革会議の議長を務めたオリックスの宮内義彦会長の名があがっていることをとらえて、野党が「出来レースだ」と批判したことだ。

 しかしながら、これも竹中氏曰く、郵政民営化のプロセスに規制改革会議が関係したことはないし、基本方針を決めたのは経済財政諮問会議であり、制度設計は内閣官房の準備室が行った。その際にいくつかの委員会も作られたが、宮内氏がそのメンバーになったことはなかったのだという。

 ここで思うに、邦夫の論理にしたがえば、政府の会議に民間人が参加した場合、その民間人は会議内容に関する経済活動を制限ないしは禁止されなければならないことになるが、これが果たして有効なことなのか。赤字施設を売却するならば、売却先の選択肢は極力広くしておいたほうがいいのではないか。

 それに、邦夫の理屈が通ってしまえば、会議に参加することによって経済活動の一部が結果として制約されてしまうのだから、民間人で政府の会議に参加しようと思う人など、いなくなってしまうのではないか。それでは政府に優秀なブレーンが終結する機会を、政府自らが排除してしまうことになる。これは果たして国政上、プラスになる話だろうか。



 かんぽの宿一括売却は、かんぽの宿という資産の価値を極力維持したまま、そして短期間に行う上で不可欠の選択だったと考えている。ちまちま売却を行っていれば、その間、かんぽの宿の負債は拡大し、ますます国民に負担としてのしかかってくるからだ。

 野党は刑事告発までしたそうだが、それがオリックスということの、一体何が批判される理由なのか、見当がつかない。だいたい、ここまでの不良資産を一括して買い受ける民間企業など、そう多くはない。一括での買い手が見つかった分、まだよかったと言えるのではないか。



 邦夫は、「ベルトコンベアー式に」死刑囚を処刑していたときが、一番好感が持てたし、「ためになる仕事」をしていたと思う。邦夫の発想は、結局今までの古い体質の、旧態依然の自民党のそれであって、官僚による支配を助長するだけである。鳩山邦夫総務相の速やかな解任を要求する。

どのような「調査」を行ったのか、公表せよ

2009年05月17日 | 国政事情考察
世論調査:首相にふさわしいのは鳩山氏34%麻生氏21%(毎日新聞)

 16日の民主党代表選で鳩山由紀夫氏が選出されたのを受け、毎日新聞は16、17日、緊急の全国世論調査を実施した。麻生太郎首相と鳩山氏のどちらが首相にふさわしいかを聞いたところ、鳩山氏との回答が34%で、麻生首相の21%を上回った。
 衆院選で自民、民主のどちらに勝ってほしいかの質問でも、民主は2月の51%を上回った。政党支持率では民主が30%(前回24%)、自民が23%(前回27%)と逆転。民主は2月の29%とほぼ同じレベルまで回復した。「支持政党なし」の無党派層は37%だった。
 ただ、鳩山代表に期待するかどうかの質問では「期待する」と「期待しない」がともに49%で拮抗(きっこう)。小沢氏の辞任と鳩山代表の就任で民主党に対する評価が変わったかについても「変わらない」が68%に達した。秘書が逮捕・起訴された西松建設事件に関する小沢氏の説明不足や、鳩山氏に「小沢後継」イメージが強いことが影響しているとみられる。



 そりゃあ鳩山の支持が麻生の支持を逆転するだろう。だいたい、直後の世論調査でも、西松献金以降の小沢対麻生と同じ結果だったら、代表の首を挿げ替えた意味がないというものだ。そして本気で政権奪取を狙っているのだから、民主もそこまで馬鹿ではない。

 今までの麻生の支持上昇は、完全に内閣の功績ではなく、単に敵失によるもので、その「敵」が代表を替えて(表面的にせよ)リニューアルしたのだから、こうした結果になることなど、少しニュースを見ている人なら容易に予想がつきそうなものであって、格別騒ぐ理由もない。民主も、これは国民からの「ご祝儀」、アメリカで言えば「ハネムーン」だと思ったほうがいい。



 ところで気になるのは、毎回何か政治的な変化が起こったときや、何か国民生活に関わる案件が国会で争点になっていると、マスコミは決まって「世論調査」という名の社会調査を行うが、これはいかなる「やり方」によって、なされているのだろうか。

 特に今回、この毎日が行った調査は、調査のやり方、サンプル数、男女別回答率、有効回答数等といった、調査を行うにあたり、そこから得られた結果を客観的に判断するためのモノサシが示されていない。ただ単に「緊急の全国世論調査を実施した」とあるだけだ。しかしまぁ恐らく、調査は電話で行ったのであろうことは見当がつかなくもないが(共同通信が同様の調査を行っているが、それは電話でしたものである。朝日も同様の調査をしているが、それもまた電話によるものであった)。



 確かに、緊急的に記事を出すのならば、ここまで細かく載せることは難しいのだろうが、データがきちんと公表されない限り、麻生内閣を庇うつもりは全くないが、こうした「世論調査」の結果をいくら叩きだされても、これを信頼することはできない。

 第一、そもそも、最初にも述べたが、こうした結果になることぐらい誰でも予想できそうなものだ。にもかかわらずそうしたものを、数字を出すことによっていかにも中立公正を装い、政権攻撃の材料にしようとするところが、いかにもマスコミらしいと言えばマスコミらしいが。調査などあえてやらずとも、最初から結果などはっきりしていように。



 それから、この記事ではさらっとしか触れられていないが、今回の民主党の一連の流れにおいて、民主党の評価が、「上がった」が17%に対して、「下がった」と回答したのも13%いたという、こちらの数字の拮抗のほうが、個人的には興味深いものがある。

 つまりこれは今回の代表選の結果は、小沢から鳩山に、ただ代表の「顔」が変わっただけで、実質は小沢の傀儡体制であるのではないかという国民の根強い不信のあらわれであって、だから民主党の評価アップが芳しくないという結果が出たのだろう。それが「変わらない」の68%という数字にも反映されている。



 結局、この世論調査はただ分かり切っていることを、数字を用いることによって(人は数字をもって説明されると、それが信頼できるものと思ってしまう)表示しただけで、このような世論調査は無意味である。強いて意味を見出すのならば、マスコミの反麻生キャンペーンの好材料が得られた、という点においてだけだろうか。

ピースボートの「護衛」依頼について

2009年05月16日 | 倫理・道徳関係
「反対、でも守って」 ピースボート、海自が護衛 ソマリア沖(産経新聞) - goo ニュース

 海賊対策のためアフリカ・ソマリア沖に展開中の海上自衛隊の護衛艦が、民間国際交流団体「ピースボート」の船旅の旅客船を護衛したことが13日、分かった。ピースボートは海賊対策での海自派遣に反対しており、主張とのギャップは議論を呼びそうだ。
 海自の護衛艦2隻は11日から13日にかけ、ソマリア沖・アデン湾を航行する日本関係船舶7隻を護衛。うち1隻がピースボートの船旅の旅客船だった。ピースボートは社民党の辻元清美衆院議員が早稲田大在学中の昭和58年に設立。船旅は寄港地の非政府組織(NGO)や学生らとの交流などを目的としている。
 ピースボート事務局によると、船旅の企画・実施会社が護衛任務を調整する国土交通省海賊対策連絡調整室と安全対策を協議し、海自が護衛する船団に入ることが決まったという。
 ピースボートは市民団体による海自派遣反対の共同声明にも名を連ねている。事務局の担当者は「海上保安庁ではなく海自が派遣されているのは残念だが、主張とは別に参加者の安全が第一。(企画・実施会社が)護衛を依頼した判断を尊重する」と話している。



 産経は「議論を呼びそうだ」と書いていることからして、この問題に火をつけたいと考えているようだが、十中八九、「議論を呼ぶ」ことにはならないだろう。

 安倍晋三氏はこのことについてピースボートは「恥を知れ」とメールマガジンで批判したそうだが、安倍氏が言うほど内容は単純なものではないと思う。

 まず、この船旅にはお金さえ支払えば参加できることなどからして、乗船する参加者のみながみな、海自の派遣反対ではないだろうし、そもそも、どんなに「サヨク」で、彼らの主張や態度が気に入らないとしても、国民の生命と財産を守ることが国家の役目である以上、護衛を依頼されたら「お前らは私たちの政策に反対したから守ってやらん!」とは言えないだろ。



 とは言うものの、ピースボート(というかサヨク)がご都合主義で二枚舌なのはここでも何度も指摘したことだし、私も腹にすえかねるものがある。だから安倍氏の批判もよく理解できる。

 たとえば阪神大震災のとき、自衛隊は憲法9条に反して違憲の存在だから否定されなればならないと言っていた浦部法穂という憲法学者は、政府に対し、「何故自衛隊を使わないんだ!」と文句を言ったという。この他にも、人権保護に熱心なくせに拉致問題には冷淡だったりと、彼らが言っていることとやっていることがまるでかみ合っていないのは周知のことだ。



 しかし、だ。これで仮に自衛隊による護衛を「依頼」したにもかかわらず護衛を受けられず、もし5年前のイラク人質事件のようなことにでもなったとしたら、安倍氏が上記メールマガジンで言うような、「自衛隊員を貶める活動を行い隊員の諸君や家族を苦しめ」ることを、やるに違いない。

 そうしたら、せっかく世論の多くの支持を得て自衛隊を派遣しても、国内のこうした自衛隊バッシングに影響されて、今後の自衛隊の活動に支障が生じることも考えられる。これこそ、彼らの思うつぼになってしまうのではないか。

 ここは、彼らの護衛をむしろきちんとこなし、「自衛隊はたとえ反対者に対してでも、温かく手を差し伸べる」という構図にしたほうが、したがって国益に資することになると考える。いたずらに彼らのイデオロギーに引っ張られ、バッシングすることは、かえって彼らを増長させかねない。

 たとえ誰であっても、助けを求めてきたら手を差し伸べる。これこそ武士道が息づく日本の自衛隊のあるべき姿ではないだろうか。



 しかしながら最後に。今回の彼ら「護憲派」の矛盾によって、憲法9条が国際的には何の役にも立たないことを、彼らが身をもって証明したことは逆説的に評価したい。もし本当に憲法9条を信じているならば、船のマストに憲法9条の条文でも掲げれば、あらゆる危害から免れ、平和を享受できように。

 これを機に、護憲派には現実的な安全保障論を展開することを期待したい。

理想と現実

2009年05月05日 | 憲法関係
「私、憲法です。リストラになるってホントですか?」(朝日新聞)

 憲法くんは問いかける。「私のこと『現実に合わない』と変えようとする人がいます。でも、私って理想でしょ。現実は理想に近づけるよう日々努力するものじゃないんでしょうか?」



 一見すると、最もらしく聞こえてしまうから厄介だ。こういう喩えをされると、ダイエットして「理想」のプロポーションになる、というのと憲法が同列のように捉えてしまいかねない(苦笑)。

 確かに憲法のある一面において、それが理想を語っているということも否定できないが、憲法が理想を体現したものであると理解することは、誤解を恐れずに言えば、非常に危険なことなのである。



 それはなぜかというと、以前も述べたように、憲法は国家の基本法であり、あらゆる法の頂点に君臨するものである。ハンス・ケルゼン風に言えば、憲法は根本規範(Grundnorm)なのである。つまり、憲法に反するあらゆる法規は無効になり(憲法98条)、憲法に反することは許されない。

 憲法が理想を体現したものとなると、法体系の頂点が理想で固められた存在となるので、憲法の下位法は全て憲法の理想と一致したものでなければならなくなる。しかし、スレンダーな体が理想でも現実には贅肉がついているというように、現実と理想が異なってくる現象は往々にして起こりうることである。

 だが、法律をはじめとした憲法の下位に位置づけられる法規は、現実への対応を余儀なくされることが多々ある。法の支配(rule of law)を実効たらしめるには、現実に即した柔軟で迅速な法の制定、改正が不可欠である(現在起こっている経済・金融危機に対する政府の対応や、自衛隊の海外派遣等を想像せよ)。

 つまり、常に理想である憲法に合わせていることはできないし、理想とはそれが今現実にならないからこそ理想なのであって、その理想に現実を合わせて対応しろというのは、無理なことを注文していることになる。憲法が理想を体現したものであるという理解を全面に押し出すと、現実における対応が極めて困難な状況になり、憲法が説く理想に反して、現実社会において大きな混乱が起こるだろう。



 憲法とは、ダイエットに励む女性が掲げる理想のボディと同じものではなく、国家の基本法という性格を有する以上、現実に根ざしたものでなければ、そもそも憲法が有効に作用しないというものだろう。したがって、現実離れした条文に改正のメスを入れるのは当然なのである。もっともダイエットだって、無茶なダイエットが体を壊すことになるので、現実的な減量を提案するだろう。

 では逆に、ドイツでは憲法である基本法が制定以来52回も改正されているが、ドイツはその度に理想から遠ざかっていると言えるのか。そしてドイツがその度に「危険な国」へと舵を切っていると断言できるのか。憲法を改正することすなわち理想の放棄ではないだろうに。



 憲法が制定された当時の国際環境ならびに国内事情と、現在とでは大きく異なっている。つまり、憲法が掲げる理想と、その現実とのギャップが拡大しているということになる。

 しかし、先に述べたように憲法は単に理想が羅列された文章なのではなく、国家の基本法としての性格を有するため、理想ばかりを高々と掲げていればいいというわけではなく、現実に即した改正も必要なのだ。憲法を現実も見据えた法典に変えることは、実は立憲主義の維持のためにも重要なことなのだ。そのためには、ときには理想が現実に譲歩しなければならないこともある。

護憲派に問う。「平和」とはどういう状態か?

2009年05月05日 | 憲法9条
憲法記念日で街頭活動や集会(中国新聞) - goo ニュース

 憲法記念日の3日、広島市内で憲法をテーマにした街頭活動や集会があった。
 市民団体「第九条の会ヒロシマ」(岡本三夫世話人代表)は中区の原爆ドーム前で、九条改正の賛否を問うシール投票を実施。444人が参加し、86.9%にあたる386人が改正反対にシールを張った。
 安芸区矢野町の主婦西塔文子さん(50)は「戦争の歯止めになる九条は平和を守るのに有効だ」と主張した。
 


 戦争がない状態すなわち平和、という理解が、この記事にあるコメントからも、そして護憲派の発想からも受け取れる。しかし、彼らのテクストの中では、戦争とは日本が一方的に仕掛け、そして平和とは日本が戦争をしない状態ということに理解されているきらいがある。よって、このテクストでは「平和を回復するための戦争」というケースを想定することができない。

 しかし、本当の意味の「平和」とは、「生命・身体・財産の危機がない状態」のことを言うのではないか。銃声が響かず、ミサイルが飛んでいない状態が平和というよりも。日本に対しミサイルを撃ち込んだり、特殊部隊を潜入させる程度の能力を持つ国なら複数存在する。北朝鮮、中国などがそうだ。

 仮に上記のような事態になったら、日本は「平和」を回復するため(=目の前にある脅威を排除するために)に戦争(戦闘行為)を起こすことは、果たして「平和」に背くことなのだうか。これさえも否定し、座して死を待つのが平和なのか。



 戦争と平和を対立する概念として把握(戦争か平和)するよりも、平和を脅かされたらどうするのか、戦争と一口に言っても、平和を取り戻すための戦争もあるのではないか。こう考える必要がある。

 これは国内治安の問題に置き換えてみれば、すぐにわかる。どんなに凶悪犯が跋扈しても、それに対する実力行使を否定するのが「治安のよい状態」だという人は、まずいない。護憲派は、「警察が存在しなければ他人を罪人視することもないし、犯罪もおきない」と考えるだろうか。だがもちろん「治安回復のための実力行使」という名分を使えば何をしても許されるということはない。軍事力もそれは同じことだ。

 つまり、こちらが武器を棄てたとしても、相手もそれに倣って武器を捨てるということは必ずしも成立しないし、武器を棄てることが平和かというと、決してそうではない。そのことは、9条を持っていながら、その日本に向かってミサイルを発射して憚らない国が存在していることからして、明らかなはずなのだが。



 では、軍備がなければ他国から敵視されることもないし戦争することもない、ということになるのか。そしてこれこそが真の平和なのか。

 しかしながら、軍備がなければ敵視されないというのは、完全に因果関係を間違えた考え方である。たとえば中国や韓国は、「日本に軍備があるから」という理由で、尖閣諸島や竹島の領有権を主張しているわけではない。軍備の有無とは関係なく、利害の対立が生じることが戦争の原因なのである。

 そして、この発想を敷衍すれば、それではどうして社民党や共産党には警備員がいるのか、ということになる。彼らの発想からしてみれば、これは紛れもなく相手から敵視され、危険な行為のはずである。言っていることとやっていることがまるで矛盾しているではないか。



 こうして論理矛盾が露呈してくると彼らはこう言ってくる。「それならお前は戦争に行く用意があるのか」と。

 これに対しては、「それならお前は一方的な殺戮行為を受忍する覚悟があるのか」と問いたい。

 確かに中には、「殺すより殺される方がマシだ」と、本多勝一のようなことを言い放つ者もいるだろうが、そんなことをいう者でも、私が殴りつければおそらく怒るだろう(笑)。一方的に殴られる覚悟はなくても、一方的に殺される覚悟はあるらしい。護憲派とは不思議な人種である。

 もし仮に「殺すより殺される方がマシだ」という信念を確固として持っていても、その信念を他人(他の日本人)に押し付ける権利を、彼らがどこから引っ張り出してきたのかという問題は残る。彼らだけが嬲り殺されるだけであるなら勝手にどうぞということになるが、これを憲法9条の求める姿として、他の者に押し付けることに結果としてなっているのだから、黙っているわけにはいかない。

 彼らが自分のイデオロギーに殉じることを他者に強いるのであれば、彼らが嫌う「昭和の軍部」と何が違うのというのか。そんな「平和」を私は求めたくない。平和を得るには、それが侵害されたときには断固として武力をもって排除するという姿勢がなければならない。



 今回も、私叔する思想家である神名龍子さんのご意見を参考(というかほぼ引用!?。神名さんすみません・・・)にさせていただきました。神名さんの論考にはいつも感心しております。これからもどうかその健筆と鋭い洞察力を如何なく発揮されることを楽しみにしています。

護憲派の通らない論理

2009年05月05日 | 憲法関係
自民、憲法審査会の早期始動を=共産、社民は改憲阻止に全力(時事通信) - goo ニュース

 憲法記念日の3日、与野党幹部が各地で開催された集会に出席し、改憲、護憲の立場からそれぞれの見解を表明した。自民党は、2007年5月の国民投票法成立に伴い衆参両院に設置された憲法審査会を早期に始動すべきだと主張。共産、社民両党は改憲を阻止する考えを強調した。
 自民党の小池百合子元防衛相は都内で開かれた改憲派の集会で、野党各党の反対で憲法審査会での論議が始まらないことに不満を示し、「審査会の空転は国会議員、政党の不作為だ」と民主党を批判。自民党の伊吹文明元幹事長も京都市内の討論会で「(憲法改正に)賛成と反対の意見を持ち寄らないと議論が始まらない」と審査会の早期始動を求めた。
 これに対し、共産党の志位和夫委員長は都内で開かれた護憲派集会で「審査会を始動させて、憲法改正原案を作ろうという動きが起こっている。こうした逆流を許さず、憲法9条を守る揺るぎない国民的多数派を作ろう」と呼び掛けた。
 社民党の福島瑞穂党首も同じ集会で「憲法を変えようという野望を捨てない自公政権を許すわけにはいかない。審査会を動かさないために全力を挙げる」と強調した。



 予てから批判しているが、護憲派は正々堂々と同じ土俵に上がって勝負をするという気がないらしい。護憲派の取っている「戦法」は卑怯である。志位は審査会すら始動させないと言う。福島も審査会を動かさないために全力を挙げると言う。しかしそれは通らない論理というものだ。なお憲法審査会とは、「日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査するため、各議院」に設置されるものである(国会法102条の6)。

 憲法審査会は、平成19年8月7日同条の規定により衆議院に設置されることになっている。しかしながら野党の不毛な反対によって、「現時点では本審査会の員数、議事手続等の詳細を定める「衆議院憲法審査会規程(仮称)」は制定されておらず、委員の選任もなされていません。」(衆議院HP)という惨憺たる状態だ。

 そもそも、審査会が始動したことによって、憲法改正に直結するわけではない。憲法改正に至るまでには多くのステップを踏まなければならない。その詳細については内閣府の「国民投票法」って何だろう?を参照して欲しい。

 にもかかわらず、審査会の始動すら、なかば力ずくで阻止しようとするこれら護憲政党は、護憲の名の下に国民の最大の権利である国民投票権の行使すらさせないというのが、果たして彼らが守ろうとしている憲法の理念に照らして適っていることなのか、考えてもらいたい。憲法制定権力は国民に帰属する(通説)という考えに従えば、憲法審査会の早期始動(始動可能年から既に2年も経過している。)は国民と憲法との関係からして、当然のことである。



 憲法改正に反対ならそれで結構。だが、改正するかしないかを最終的に決定するのは国民である。そうであるならば、国民の代表者で組織される国会に所属する議員らは、自分たちの中で改正賛成・反対だのと言い争うのではなく、定められたルールに則って、憲法改正の発議を行い、憲法の運命は国民に委ねなければならない。

 その結果、たとえ護憲派が守ろうとしている憲法9条が改正されたとしても、それが国民の意思であるし、改正されなかったら、それが国民の意思である。しかし、今護憲政党のしていることは、相手の手足を縛り、口を塞いでいるようなものだ。そしてそれを平和や人権の名の下に正当化しようとしている。民主主義とは相いれない、極めて野蛮な行為だ。これら護憲政党の卑怯なやり方こそ糾弾されなければならない。



 ところで福島は、「憲法を変えようという野望を捨てない自公政権」と言うが、たとえ自公政権がそのような「野望」とやらを持っていても、憲法を変えるか変えないかを最終的に判断するのは国民である。つまり、国民が自公の「野望」に対し、ノーを突きつければ、その「野望」が実現することはない。こんなことは一度でも憲法に目を通したことがある人だったら誰でも分かりそうなものだが、彼女のオツムでは理解できないらしい。

 思うに、護憲政党の腹の内は、国民を見下し、下に観る考え方、つまり、自分たちこそが本当に憲法の意味を理解しているインテリであり、憲法について理解のない国民の投票によって憲法が変えられるのは危険である、と。だから国民の最大の権利行使である国民投票すらさせない。

 もし国民の憲法観を信頼しているならば、正々堂々と憲法改正案を与党や民主に提出させ、その上で現憲法の正当性ならびに正統性を説き、国民のマジョリティーを形成するのが、健全な護憲政党の姿というものだ。だが、今彼らがやっていることは全くもって理解し難い暴挙である。だから最初に「卑怯」と言ったのだ。



 今年の憲法記念日に産経新聞の「昭和正論座」に掲載された香山健一氏の以下の言葉は、まさに正論である。


 「いかなる憲法にせよ、その条文を絶対神聖にして批判すべからざるものとし、その改正について論ずることをタブーとするとき、その精神態度は一瞬にして反動的、独裁的なものに転化してしまうことになる。」

 「憲法改正をタブー視し、それに関する言論・思想の自由を蹂躙しながら、護憲について論ずることは、思考力の極端な衰弱か、しからずんば途方もない偽善としか言いようがない」


 この論考が掲載されたのは今から34年も前である。しかし、今こうして見てみると、現在の護憲政党にまるっきり当てはまる。彼らがその「進歩的」な思想とは裏腹に、香山氏の指摘は、彼らの態度がいかに進歩していないか、如実に現わしている。

 護憲を訴えたいなら、対立する主張にも耳を傾けなければならない。現憲法を絶対視し、これを変えることをタブー視することは、彼らが嫌悪してやまない戦前の軍国主義と同じ発想であることを指摘しておく。

「憲法記念日」に寄せて―現憲法下における体制と反体制とは―

2009年05月03日 | 憲法関係
9条改正 反対64%、賛成26% 朝日新聞世論調査(朝日新聞)

 3日の憲法記念日を前に、朝日新聞社が実施した全国世論調査(電話)によると、憲法9条を「変えない方がよい」が64%に達し、「変える方がよい」は26%にとどまった。憲法改正が「必要」とする人は53%いるが、その中で9条を「変える方がよい」とする人は42%、「変えない方がよい」が49%だった。
 調査は4月18、19日に実施した。
 9条に対する意見は、安倍内閣時代の07年4月に「変えない方がよい」49%、「変える方がよい」33%だったのが、福田内閣のもとでの昨年4月調査では66%対23%と差が大きく広がった。今回も昨年から大きな変化はなかった。
 9条を「変える方がよい」と答えた人(全体の26%)に、どのように変えるのがよいかを二つの選択肢で聞くと、「いまある自衛隊の存在を書き込むのにとどめる」が50%、「自衛隊をほかの国のような軍隊と定める」が44%と意見が分かれた。
 憲法全体について聞いた質問では、「改正必要」が53%で、「必要ない」33%を上回った。07年は58%対27%、昨年は56%対31%だった。



 このような世論調査の欺瞞性については昨年の憲法記念日に「最近の朝日は看過できない その2」において論破したように、9条の1項と2項を一緒くたにして質問をしているため、改憲派の改憲案である、9条1項は残し、2項の戦力不保持という規定を変えて、自衛隊を自衛軍とするという主張への賛否を正確に反映できていないため、こうした「世論調査」をいくら繰り返したところで無意味である。

 私の論理を裏付けるものとして、先日内閣府が行った、ソマリア沖への自衛隊派遣についての世論調査では、東アフリカ・ソマリア沖の海賊対策に自衛隊が参加することについて、「取り組んでいくべきだ」が27.8%、「どちらかと言えば取り組むべきだ」が35.3%で、「肯定派」が6割を超えた(毎日新聞)。

 さらに、このとき内閣府が同時に行った世論調査では、自衛隊の印象について、「良い印象を持っている」との回答が80.9%、もし日本が外国から侵略された場合、どうするか聞いたところ、「何らかの方法で自衛隊を支援する」と答えた者の割合が48.9%と最も高かったこと、日本の安全を守るためにはどのような方法をとるべきかという質問においては、「現状どおり日米の安全保障体制と自衛隊で日本の安全を守る」と答えた者の割合が72.1%を記録したことなどからも言えよう。

 つまり、多くの国民の意識は、自衛隊を憲法違反の存在とは捉えておらず(この時点で国民の多くが朝日の世論調査のような考えだとしても、「9条の会」のような考えにも、同時に与しないということになる。)、ただ、9条の「戦争の放棄」は変えるべきではない、と考えているという姿が見えてくる。こうした国民の多くの考え方は、2年前の憲法記念日に当の朝日自身が述べたように、「国民の多くは『憲法か、自衛隊か』と対立的にはとらえていない」のである。

 だからこそ、9条の1項と2項を一緒くたにした聞き方をしたら、国民の多くは「9条を変えるべきではない」と回答するに決まっている。私だって9条1項の侵略戦争の放棄についての条項は残すべきだと思っているぐらいだ。これでは、国民はいつになっても改憲派の正確な主張を知ることができない。

 なので、この世論調査の結果を、「9条の会」などの「護憲カルト集団」が自身の主張の正当化のための根拠として用いることはできない。「9条の会」をはじめとした多くの護憲派と呼ばれる者達は、自衛隊の縮小と日米安保撤廃を望んでいる。

 しかし上記の内閣府の世論調査によれば、「日米安全保障条約をやめ,自衛隊も縮小または廃止する」と答えた者の割合が4.7%にとどまっており、自衛隊の防衛力についても、「今の程度でよい」と答えた者の割合が61.8%と、サイレント・マジョリティーは決して「9条原理主義」ではないことが分かる。したがって、9条護憲派がこの調査結果をもって、「自分たちが正しい」と言うことは、世論を読み違えているということになる。



 唐突だが、「憲法」とは一体何か。それは国家の基本法である。ドイツでは憲法のことを「ボン基本法」と呼んでいる。「基本法」ということは、それが国家の最高法規であって、ゆえに法のヒエラルキーの頂点に君臨し、憲法に反する法は全て無効になる(憲法98条において、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と規定されていることからも、このことが窺えよう)。

 何が言いたいのか。つまり、日本においては、実は我々のような立場が「反体制」であって、国家に存在する法の頂点を死守しようとしている左翼・リベラル勢力こそが「体制派」なのである。

 現在の憲法は、作成したのがGHQの中でも特にリベラルで、当時アメリカで一定の影響力を持っていた「ニューディール左派」であったぐらいなので、左翼・リベラル=体制派にとって実に都合よく出来ている。人間、自分たちに都合のいいものは守ろうとするに決まっている。



 たとえば労働三権(憲法28条)。神戸大学の大内伸哉教授によれば、労働三権すべてを憲法レベルで保障したのは、日本国憲法制定当時ではどこにもなく、日本だけであり、アメリカでは現在でも労働三権は憲法よりも下位の法律レベルで保障されるにとどまっているという。

 それから改正条項(憲法96条)。憲法を改正するには、「各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。」憲法改正を発議するだけで、このハードルの高さである。これもまた、護憲を標榜する左翼・リベラル勢力にとって実に都合がいい。だからこそ、55年体制下では、社会党が各院の3分の1以上を占めていたから、憲法改正が実現できなかった。

 そして何と言っても、憲法9条。

 このように、国家の基本法たる憲法が左翼・リベラル勢力にとって非常に都合のいいシロモノである以上、これに抗う我々のような改憲派こそが、体制に立ち向かう勢力であって、世間で認識されているような、体制=保守・右派、反体制=左翼・リベラルという構図との齟齬がここで明らかになった。



  憲法9条に関して言えば、あの条文を一般人が素直に読めば、通説の言うように自衛隊を否定し、一切の軍事力は違憲ということになりかねない。このような、軍事力に関して非常にシビアな(というか否定的な)憲法が法体系の頂点に君臨している以上、自衛隊法や○○特措法などの下位法でいくら自衛隊を普通の国の軍隊と同列にしようと、そこには必然的な限界が内包されている。

 だから、政府や改憲派は当面の間、解釈改憲(いかに9条を骨抜きにするか。)によってこれを乗り切ってきたが、ソマリア沖への自衛隊派遣や北朝鮮のミサイル問題等を見ていると、これも限界になっているように思える。

 はっきり言って、本当のところ、左翼・リベラル勢力にとって、このような下位法による9条の骨抜きなど、痛くもかゆくもないのだろう。だって、憲法という法のヒエラルキーの頂点は、常に自分たちの味方なのだから。

 だからこそ、護憲派勢力は違法状態を故意に作出してまでも、国民投票法によって規定された憲法審議会の開催を引き延ばしているのだろう。おそらく体制派=護憲派は、私がさきに述べたようなサイレント・マジョリティーの考えは理解し、これを一番恐れている。なので、わざとあのような姑息な聞き方をして、憲法改正議論の熱を冷まそうとしているのだろう。

 結局のところ、改憲派ができることはと言えば、その改憲の真意をきちんと正確に国民に伝え、9条に関する上記のような誤解を解き、粘り強く説得を続けるのしかないのだろう。



 こういうことをいつも書いてきて思ったことがある。それは、正義とは、正しいことを言っていることではなく、顔の皮が厚く、声がデカイ勢力が正義になるのだ、ということだ。

朝日に新潮を批判する資格なし

2009年05月02日 | 偏向マスコミ
朝日支局襲撃誤報、新潮が社長・前編集長ら減俸3か月(読売新聞) - goo ニュース

 1987年5月の朝日新聞阪神支局襲撃事件などを巡って、「実行犯」を名乗った島村征憲氏(65)の手記を週刊新潮が掲載した問題で、出版元の新潮社(東京都新宿区)が1日、手記が誤報だったことに関する社内処分として、佐藤隆信・社長や、早川清・前週刊新潮編集長(4月20日付で交代)ら役員9人全員の役員報酬を1日付で減俸にしたことがわかった。
 同社広報宣伝部によると、減俸はいずれも3か月間で、佐藤社長と早川前編集長は20%、残る7人は10%。
 同社は、この処分について社内に掲示するなど社員に知らせただけで、誌上での公表や記者会見などでの発表をしていない。
 これについて、広報宣伝部は、週刊新潮4月23日号に「『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に 騙 ( だま ) された」とする記事を掲載したとして、「読者や関係者に対するけじめは済んでいる」としている。



 「週刊新潮」の取材が裏付け作業を怠り、軽率だったというのは言うまでもないが、朝日は新潮を批判する資格はない。朝日は4月17付社説において、「週刊新潮―「騙された」ではすまぬ 」と、新潮側の軽率な行動を厳しく批判したが、では、朝日は新潮にそのように居丈高になって物言える立場なのだろうか。



 私がそのように思うのは、かの有名な、「教科書誤報事件」である。これは、1982年6月26日、朝日をはじめとするマスコミ各社が、「文部省が教科書検定において、高等学校用の日本史教科書の記述を、“侵略”から“進出”へと改めさせた」と一斉に報じたという事件である。しかし、これはその後、発端となった実教出版の「世界史」の、「華北へ侵略」を「華北に進出」と書き換えた記述は存在せず、誤報であったことが判明し、マスコミはその対応に追われた。

 そこで朝日がとった対応は以下のようなものだった。


 「今回問題となった箇所については、当該教科書の『原稿本』が入手できなかったこと、関係者への確認取材の際に、相手が『侵略→進出』への書き換えがあったと証言したことなどから、表の一部に間違いを生じてしまいました。」(1982年9月19日付朝刊)


 つまり、資料も手に入らなかったし、嘘の証言もあったので、それを鵜呑みにして報道してしまったのだから、誤報であっても仕方ない、と言いたいのだ。朝日は、裏を取るという、ジャーナリズムの基本中の基本を怠ったがために誤報を出す事態になったのに、そのことを悪びれることなく、さも「相手が悪い」と言わんばかりの言いわけをしていたのだ。

 しかもこれだけでなく、「ことの本質は文部省の検定の姿勢や検定全体の流れにある」と述べ、誤報の責任を、その被害者である相手方(文部省)に転嫁するようなことまで述べている。こんな朝日が新潮を批判できようか。



 もし、新潮があのとき朝日が使った同じ言いわけを展開して、責任転嫁を図ったら、朝日は批判を強めたに違いない。だが、世間では、朝日のような人間を、ご都合主義、二枚舌、他人に厳しく自分に甘い、と言う。

 自分たちも過去に大誤報をしでかしておきながら、そのときは責任を被害者になすりつけて逃げたのに、新潮に対しては、「騙された」ではすまぬ とは、朝日新聞というのは随分と顔の皮が厚い方が多いようで(嘲)。

草逮捕は当然

2009年05月02日 | 民事法関係
東京区検、草なぎさんを起訴猶予 「反省している」(共同通信) - goo ニュース

 東京区検は1日、東京・港区の公園で全裸になったとして公然わいせつ容疑で現行犯逮捕された人気グループSMAPのメンバー草なぎ剛さん(34)を起訴猶予処分とした。同区検によると、反省し社会的制裁も受けていることなどが理由。捜査関係者によると、草なぎさんは逮捕当時、かなり酒に酔った状態だった、としている。



 草逮捕について、一部では逮捕自体を不当と批判したり、家宅捜索は行き過ぎだという批判が出ているが、これら警察の行動は当然であり、批判される筋合いは一切ない。



 まず、今回彼がしでかした「公然猥褻罪」だが、これは刑法174条において、「公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。 」と規定されており、公然猥褻罪の構成要件は以下のとおり。

 まず、「公然」だが、最高裁昭和32年5月22日判決によれば、「公然」とは、不特定または多人数が認識できる状態をいう。そして、行為者が自身の行為を猥褻行為と認識していてはじめて同罪は成立するのではなく、その認識可能性を満たしていればよい。

 この公然性の要件に照らして本件を考えると、草が全裸になって騒いでいたのは、深夜とはいえ公的な場所である公園である。公園という場所柄、判例の言う不特定または多数人が認識できる状態を満たす。したがって公然性の要件は充足される。

 次に、「猥褻な行為」とは何かだが、最高裁昭和26年5月10日判決によれば、「猥褻行為」とは、徒に性欲を興奮または刺激せしめ、且つ、普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するものと定義される。つまり一般人がその者の行為を見て、恥じらいをおぼえ、一般人の性に関する考え方に照らし、性欲を刺激する可能性があれば成立する。

 この猥褻な行為の要件に照らして本件を考えてみると、草は衣服を脱ぎ、全裸になっていたのであるから、猥褻な行為の要件は満たしていると言える。大の大人が全裸でいる姿を目の当たりにしたら、そこが銭湯でもない限り、性的に恥じらいを覚えることは当然だ。

 このように、完全に公然猥褻罪の構成要件を満たしている以上、逮捕されるのは十分ありえ、警察が不当逮捕したという批判はまるで的外れだということが分かる。しかも草は近隣住民からの通報を受けて現場に駆け付けた警察官に対し、「裸でいて何が悪い!」などと言って、警察が騒ぎをやめて衣服を着るよう説得したことに対して反発しているのだから、逮捕されるのは当たり前ではないか。



 次に、草宅の家宅捜索についてだが、最初に、捜索の要件について述べておく。

 警察による捜索について、刑事訴訟法218条において、「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、裁判官の発する令状により、差押、捜索又は検証をすることができる。」と規定されている。

 一般に、捜索に必要な要件として、犯罪の嫌疑の存在、差押対象物の存在、事件との関連性、が挙げられる。そして最前提の要件として、裁判所の発する捜索許可状が必要になる。

 これら要件を今回の件に照らしてみると、犯罪の嫌疑の存在は既に証明されているのでクリア、事件との関係性については、最高裁昭和33年7月29日判決において、「本件に関係ありと思料せられる一切の文書及び物件」と記載された令状を、「明示として欠くるところはない」と判示していることから、今回の件においてもこの要件はクリアしているだろう。差押対象物の存在については、刑事訴訟法222条1項において、「押収すべき物の存在を認めるに足りる状況」を要求しているが、これは外部からは判断し辛いものなので、この判断については保留する。

 よって、おそらくは一応、捜索の要件を充足した上での捜索であったと思われるので、確かに公然猥褻罪で家宅捜索をするケースは稀であろうが、法が禁止しているわけではないので、家宅捜索自体を非難することもできない。

 ところで、肝心の家宅捜索を行った理由は、弁護士の落合洋司氏が述べているように、動機の解明、常習性の有無の確認といったところであると思う。続いて落合弁護士は、「この種の犯罪は、一種の性癖に基づくことが多く、また、常習的に行われることも少なくないもので、自宅や勤務先等の捜索により、そういった事情に関係する証拠が押収できれば、ということで、赤坂警察署としても、慎重を期して行ったのではないかと思います。」と述べているが、これもまた同感である。



 起訴猶予という決定については、刑事訴訟法248条で、「犯人の性格、年齢及び境遇、犯罪の軽重及び情状並びに犯罪後の情況により訴追を必要としないときは、公訴を提起しないことができる。」と規定されており、起訴猶予を採用している。草の逮捕前の行動ならびに逮捕後の反省、社会的制裁の程度等から判断して、これは妥当な判断だと思われる。



 だいたい、あれで逮捕に踏み切っていなければ、警察の「甘さ」を批判されておかしくない。上記のとおり公然猥褻罪の構成要件を充足している上、さらに衣服を着るよう注意をした警察に対し、抵抗をする発言をしたのであるから、警察が逮捕をするのは当然である。

 もし警察がこれにもかかわらず逮捕をしなかったならば、私ならば、警察は芸能人に甘いのかと思ってしまう。



 ここからは法律論を離れた私見だが、草は確かに日々強いストレスの下で生活を送っていたのだろう。だからその憂さを酒で晴らしたかったのかもしれない。

 しかし、そのような強いストレスの下で生活をしているのは彼だけではないし、だからといって深夜の公園で裸になって騒ぐことが、それによって正当化されるわけではないだろう。いかなる理由があったにせよ、犯罪を犯したことに変わりはない以上、逮捕されることも不自然ではない。

 そしていつも思うのだが、芸能界というのは、売れっ子には本当に甘い、甘甘の世界だと思う。私も彼はもう十分に社会的な制裁を受けたと思うのでこれ以上批判をする必要はないと思っているが、これがもし、普通の社会人だったら、会社をクビになってもおかしくない。学生だって停学処分だろう。

 にもかかわらず、売れっ子の国民的アイドルということ「だけで」、早く帰ってきてというファンなどのコメントが垂れ流され、揚句、逮捕は不当だと騒ぐ人たち。これに同調するかたちで、早くも7月のドラマから芸能界復帰。いやいや、芸能人であっても悪いことすれば捕まるし、何らかの制裁を受けるのは当然。

 彼が深夜の公園で全裸になって騒いで警察に捕まってこれが報道されて、しかも前科一犯となったということで十分に彼は罰を受けているが、もう少し、周囲は彼の行った行動に、シビアな目を向けてもいいのではないか。復帰ありきで、頑張って、というのは、犯罪者に対する対応としては甘すぎやしないか。芸能界にこういう空気があり、芸能界のこういう甘さを社会が許してしまっていることは、由々しき問題なのではないか。



 「大人として恥ずかしい。」彼はこう言った。そう、大人として、いや、常識ある人間として、非常に恥ずかしい行動をしてしまったのだ。草自身が口にしたこの言葉を、草は悪くないと嘯く人たちは、どう捉えたのだろうか。