ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

「立憲主義」の否定ではない

2014年02月27日 | 憲法関係
憲法解釈変更、4野党が反対=民主「ナチスの手口」―参院審査会(時事通信) - goo ニュース

 参院憲法審査会は26日、憲法の役割などをテーマに討議を行った。安倍晋三首相が意欲を示す集団的自衛権の行使容認のための憲法解釈の変更について、民主、共産、結い、社民の野党4党は反対を表明。自民、みんな、日本維新の会の3党が理解を示した。公明党は、憲法解釈見直しについて明確な態度表明をしなかった。
 討議で民主党の小西洋之氏は「ワイマール憲法があっても人権弾圧を繰り広げたナチスの手口だ」などと首相の姿勢を厳しく批判。共産党の仁比聡平氏は「国会の多数獲得で解釈を自由勝手にできるというなら、憲法の最高規範性を失わせる」と指摘した。結いの党の川田龍平氏と社民党の福島瑞穂氏は「行政が憲法に従う立憲主義の否定」と訴えた。
 これに対し、自民党の丸川珠代氏は「安倍内閣が憲法の規範を無視してるとの批判は当たらない」と反論し、みんなの松田公太氏は「(安全保障を)いつまでも同盟国に頼るわけにはいかない。行使を認めない方がおかしい」と表明。維新の清水貴之氏は、憲法解釈の変更に賛同した上で「法律によって行使の要件を明確にすべきだ」との見解を示した。



 「ナチスの手口」だの「立憲主義の否定」だのと口々に安倍内閣の集団的自衛権の憲法解釈の変更を批判しますが、そういう抽象的でレッテル貼りの類のものではなく、政治家なら(特に安倍総理に「けんぽうクイズ」を出すほど、けんぽうがお得意のこにしくんにおかれましては)もっと中身のある具体的な批判ができないものかと思ってしまいます。彼らは皆、立憲主義の否定と言いますが、それでは「立憲主義」とは一体どのような概念なのでしょう。

 
 立憲主義とは、統治権の濫用から国民の自由・人権を守り、これらを確保するために、統治権を特定の機関に集中させることなく、権力を分立して、とりわけ国民の国政への参加を確保するという点に、その本質があります。つまり、立憲主義とは、国民の権利保障、権力分立、国民の国政参加という各要素から成り立つ概念です(大石眞『憲法講義Ⅰ』25頁以下)。それでは、とりわけ野党や一部マスコミが批判する安倍総理の「憲法解釈の最高責任者は私だ」発言は、この立憲主義の要請に反するものなのでしょうか。

 結論から言うと、私は上記の安倍総理の発言は立憲主義の要請と何ら矛盾することはない、つまり立憲主義に反しないと考えます。また、当然のことながら、安倍内閣が集団的自衛権の行使を容認することも立憲主義には反しません。その理由は以下の通りです。

 まず、そもそも安倍総理は、議会で多数を握れば憲法をどうにでもできるとは一言も言っていません。それに、小松一郎内閣法制局長官が指摘するように、憲法解釈について内閣として見解を示す際の最高責任者は内閣総理大臣に決まっています。内閣法制局は法の番人でも何でもありません。内閣府の一部局に過ぎません。憲法の番人は内閣法制局ではなく裁判所(正確には最高裁判所)です。

 内閣法制局設置法3条によれば、内閣法制局の役割とは、「一 閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて、内閣に上申すること。二 法律案及び政令案を立案し、内閣に上申すること。三 法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること。四 内外及び国際法制並びにその運用に関する調査研究を行うこと。五 その他法制一般に関すること。」であって、憲法の解釈について、これを専権的に決定できるなどとはどこにも規定されていません。

 したがって、そのような存在に過ぎない内閣法制局が、上司である内閣総理大臣を中心に構成される内閣に優先して憲法を解釈できると解するのは、下部組織による越権行為を許すようなものです。先ほど述べた立憲主義の要請からすれば、内閣の憲法解釈に誤りがある場合、これを正すのは最高裁判所の役目であって、内閣法制局ではありません。


 仮に集団的自衛権に関するこれでの解釈が何年にも亘り継承されてきたからといっても、それは集団的自衛権行使容認を否定する理由になりません。伝統的な解釈であればいかなる理由があっても変更することはできないなどと解釈する根拠のほうこそありません。

 とりわけ、国家の存亡に直結する安全保障に関する憲法解釈であれば、伝統的なものだからといって、現状のわが国の置かれている状況を無視し、これまでの憲法解釈を墨守することは自殺行為に等しいはずです。よって、確かに憲法解釈には安定性が担保されるべきですが、そうだからといって現実に即した解釈の変更まで認められないというのは論理の飛躍です。

 冷戦以後、安全保障環境は今さら説明するまでもなく劇的に変化し、従来の自衛権の行使に関する憲法解釈ではわが国を守ることはできないから集団的自衛権の解釈を変更すべきというのは、十分に合理的根拠があるものだといえます。集団的自衛権に限らず、硬直的な法解釈というものは、法に現実を合わせろと言っているようなもので、そうした考えは時として現実社会に混乱をもたらします。

 もちろん、どのような解釈も許容されるというのであれば立憲主義の否定という批判も当たっていますが、法の掲げる理想と現実の要請とをいかにして調和していくかという視点から、憲法は解釈されるべきだと思います。

 そうであれば、集団的自衛権の名の下、無制限に自衛隊の武力行使を容認するのは憲法違反ですが、憲法9条の下認められている専守防衛の理念の下、集団的自衛権が認められる場合を限定列挙し、これらに限って行使を許容するというかたちでの政府の集団的自衛権の解釈は、上記の法の掲げる理想と現実の要請との調和を図るかたちで集団的自衛権を解釈していると評価できます。

 また、こうした集団的自衛権の解釈は、国民の権利や自由を侵害するものでもありません。そして、これまで(最高)裁判所は集団的自衛権に関して憲法解釈(合憲・違憲の判断)を示したこともありません。百歩譲ってこれまで集団的自衛権は憲法上観念できないのに、これを行使しようという解釈であれば立憲主義の否定という批判も首肯できなくもないですが、上記のような価値判断にしたがい憲法解釈を変更するのであれば、何ら立憲主義の原則を損なうものではないでしょう。

 しかも、現在の議会制民主主義制度および違憲審査制度の下では、時の内閣の恣意によって憲法解釈が変更できるなどと考えることのほうが困難でしょう。なお、こにしくんは「ナチスの手口」と安倍内閣の方針を同視しますが、彼はどうやってナチスが権力を掌握していったのか、全く知らないのでしょう。また、彼らのロジックにしたがって安倍内閣が立憲主義を否定しているとすれば、内閣法制局長官を国会答弁から排除し、閣僚自ら憲法解釈を行うとしていた民主党のほうが、よほど立憲主義を否定していたといえるのではないですか。

 したがって、私は安倍総理の発言も集団的自衛権の解釈変更も立憲主義の原則に照らして何も問題ないものと考えます。

法律は必要だが、内容を精査すべき

2013年11月22日 | 憲法関係
遅きに失した?海江田氏の反対表明…秘密法案(読売新聞) - goo ニュース

 民主党の海江田代表は22日、党本部で緊急の記者会見を開き、安全保障の機密情報を漏えいした公務員らへの罰則を強化する特定秘密保護法案に反対する方針を示した。
 海江田氏は「与党と維新の会、みんなの党の修正協議の中身には問題が多く、このままでは賛成できない」と述べた。
 民主党は、特定秘密の指定が30年を超える場合に第三者機関の承認を得ることなどを盛り込んだ対案を衆院に提出しており、22日も与党との修正協議を行ったが、進展はなかった。海江田氏は法案に賛成に転じる条件として、「対案を全面的に受け入れてもらうことが必要だ」と述べた。
 与党は日本維新の会、みんなの党の賛成を得て、法案を26日に衆院通過させる方針だが、維新の会の松野頼久幹事長代行は「26日の衆院採決には応じられない。採決してきた場合は、了承が変わる可能性は大いにある」と慎重な審議を求めている。
 民主党は、与党時代に秘密保護法制を検討した経緯があり、党内では自民党などとの修正協議をまとめたうえで賛成するべきだとの声も強かったが、リベラル派議員を中心とした反対論が押し切った。維新の会やみんなの党が与党と協議して修正案をまとめたのに対し、民主党は野党内で足並みをそろえることができず、海江田氏の決断について、民主党内から「遅きに失した」(参院幹部)と批判の声も上がっている。



 いわゆる特定秘密法案ですが、私は法律の必要性は否定しませんが、法案の問題点をきちんと洗い出し、それらを逐次解決して、時の政府による恣意的な運用を防止し、国家の存立に必要不可欠な秘密の保全と知る権利の絶対的確保との調和を図るべきです。したがって、拙速に成立させるのではなく、マスコミ等で指摘されている問題点を克服してから、熟議を経て制定するべきです。


 現政府の言うように、確かに国家間で重要機密を交換する際には、それが漏洩しないような法整備が必要なのは当然です。国家間の関係も信頼がベースですから、信頼を破壊するようなことをしていては、国益に直結するような情報を提供してもらえない危険性は大いにあります。したがって、国家間の信頼関係を醸成し、日本の存立の一助になるのがこの法律という考えは首肯できます。

 しかし、法整備をすればただちに機密情報を(現在よりも)提供してもらえるわけではないでしょう。そのようなことは、鳩山政権以降の民主党政権時代を思い出せばすぐに分かることです。つまり、いかに法整備をしたところで、「政治(家)がヘボかったら意味がない」ということです。日本の場合、政治家のレベルの低下は目に余るものがあると思います。海外から有益な情報を提供してもらいたいなら、選挙制度をはじめとして、日本の政治力の底上げこそ、私には必須のことだと思えます。

 この意味で、私は特定秘密法案に懐疑的なのです。いつまでも安倍内閣が続くわけではありません。また民主党のような連中が政権を握るかも知れません。そうした場合を考えると、時の政府の都合がいいように秘密を指定できたり、開示を無制限に延長できるような法律では、かえって国益を損じることにもなりかねません。



 情報は秘匿することも大事ですが、開示することもまた大事です。信頼ある国家として自国にとって有益な情報を入手するには、すすんで自国の情報も開示することが求められるのではないでしょうか。機密で雁字搦めの北朝鮮が自国に有利な情報を海外から多く入手できているとは思えません。周知のように、アメリカも基本的には情報の開示を行っています。

 誰だって自分にとって都合の悪い情報は隠したがります。それはこの法案を批判しているマスコミも同じです。だからこそ、情報を秘匿できる法律は、時の政府にとって都合の良いように解釈される余地はなくし、曖昧さを除去した法律にしなければならないのです。機密情報を逐一列挙して規定するのは困難でしょうが、この法律を作成するにあたっては、Aという情報を入手して公開するとαの条文に該当するから違法になるといったように、刑法のように行為者がどのような情報を入手したら罪にあたるかなどを、明確に透明性をもって規定すべきです。

 第三者機関が、ある情報が特定秘密に該当するか否かをチェックできるようにし、その第三者機関は政府から完全に独立し、選任は与党の推薦者、野党各党の推薦者、マスコミの推薦者、日弁連等法曹界の推薦者が各同数で構成される合議制の機関にすべきです。そして、政府による恣意的な法律の運用が見受けられた場合には、ただちにそうした運用をやめさせることができるような強制力を法律をもって担保すべきです。もちろん、情報の開示延長は政府の独断では不可能。これは最低限の条件です。



 特定秘密法案を作るにあたっては、現行法の不備を補うのが主であるべきです。機密の対象は外交および安全保障に限定し、かつ原発情報のように非開示が国民の生存を脅かしたり権利を侵害してはならないのは言うまでもないです。

 以上をクリアできないのであれば、この法案は政府の「知られたくない権利」を擁護するための法律でしかなくなるでしょう。

原発住民投票条例について

2012年06月19日 | 憲法関係
原発是非を問う住民投票、都議会が条例案否決へ(読売新聞) - goo ニュース

 東京都内で原子力発電所稼働の是非を問うため、市民グループが都へ直接請求した住民投票条例案を審議する都議会総務委員会が18日午後始まった。
 同条例案は否決される見通しだ。
 都議会公明党(23人)が同日、「都民だけで判断すべきではない」などとして反対を決定。すでに反対を打ち出している自民党(37人)などと合わせて過半数を超えるためだ。最大会派の民主党(50人)は自主投票、共産党(8人)と生活者ネットワーク・みらい(3人)は賛成する方針。



 原発に関する住民投票の是非を考える前に、まず、地方自治体の上位に位置づけられる国家の役割について少し考えておく必要があると思います。とはいえ、国家の役割について詳細に論じるのではなく、一般的に国家にはどのような役目が期待されているのか、という点に絞って、考えてみます。


 論者によって様々ですが、概して国家に期待されている役割とは、外交および国防政策の遂行、国内治安の維持・改善、そしてここで問題となっているエネルギー政策の画定・実行でしょう。前二者はともあれ、エネルギー政策までも国家の役目として考えるのは、エネルギーは国の産業・経済はもとより国防も含め、国(地方自治体も当然に含む。)のあらゆる政策における社会的基盤(インフラ)の最たるものだからです。

 したがって、そのような性質を有するエネルギーに関する問題を、地方自治体の一存で左右できるとなると、国家の存亡に関わる事態にもなりかねません。よって、石原が述べているように、エネルギー政策は地方自治の範疇に属するものではなく、国家の責任においてなされるべきものであると言えます。

 このように、エネルギー政策は国の基盤に関わる問題であるという理解を前提に考えると、原発の是非に関する住民投票というのは、地方自治の仕事にはなじまない性質の問題であるということになるでしょう。

 それでは、今度は原発に関し住民投票をすることの意義を考えてみたいと思います。



 まず、原発に関する住民投票はこれまでに前例がないわけではなく、96年には新潟県巻町で同様の条例により原発に関する住民投票が行われましたし、類似の事例では97年に沖縄における米軍基地の是非に関する住民投票というのもありました。

 しかしながら、まず効力の面では、これら住民投票の結果には法的拘束力はなく(というか、上に挙げた問題の性質上、法的拘束力を持たせるべきではありません。)、また条例の法的正当性という意味では、条例というかたちを採るものの地方自治法その他の法律上の根拠が欠けている点において是認できるものではありません。


 また、住民投票という手法を一概に否定するつもりはありませんが、住民投票というのは「いささかプリミティブな手法であって、扇動の具となりやすく、必ずしもつねに公正な主権者の意思を表わすとはかぎらない」から、「その実施にあたっては、(中略)当該事項が住民投票になじむかどうか、住民投票の結果が貫徹できる事項かどうかなどを十分吟味し、その意義と効果をあらかじめハッキリさせ」なくてはならないのです(原田尚彦『行政法要論』)。

 そして、住民投票の対象となる問題が、その地域だけで完結するような問題ではなく、その地域以外の広域的利害にも関係してくる場合もまた、そうした問題を住民投票で決するというのは不適切な場合であると言えます。

 こうした理解に立って考えると、原発の再稼働の是非というのは、原発が担っている役割等を考慮すると、住民投票にはなじまない案件と言えるでしょう。


 というのは、まず現在における国内の原発政策に関しては、一部勢力が自分たちのイデオロギー実現のための道具としてこれを利用しているように見受けられるし、そもそも先に挙げた理由により住民投票として一自治体の判断に委ねるべき問題ではないからです。

 また、仮にエネルギー政策について地方自治体にも決定する権限があるとしても、東京だけで原発の再稼働の是非を決定したとしても、そもそも東京には原発がないのだから、そのような投票を実施する意味はあるのかということも問われなければならないでしょう(実際、私がさきに挙げた「先例」は新潟のケースです)。



 したがって、石原が言うようにエネルギー政策は国家がその責任で遂行すべき問題であるから住民投票にはなじまないし、またエネルギー政策を国家の役割とは考えないとしても、原発の再稼働は東京都のみならず東京都以外の広域的な問題であるため、東京都だけでその是非を決めるべきではないから、やはり住民投票にはなじまない問題ということになります。 一言付言するのであれば、これは原発以外の問題にも言えることですが、政治的思惑から安易に住民投票に訴えるべきではありません。



 なお、この条例には外国人参政権容認の一里塚ともいえる、投票資格について永住外国人を含む16歳以上の男女としている点も看過できません。この点においても、この条例は欠陥を有しているといえ、否決は当然といえます。

文民統制への理解が欠けているマスコミ

2012年06月05日 | 憲法関係
新防衛相、「政治家より期待」の一方で不安も…(読売新聞) - goo ニュース

 野田再改造内閣で初の民間出身の防衛相に就任する森本敏・拓殖大教授は、防衛問題のエキスパートだ。
 田中防衛相は迷走発言を繰り返し、その前任の一川前防衛相も「素人大臣」の 烙印 ( らくいん ) を押され交代しただけに、防衛省内からは「政治家より期待できる」との声が上がったが、民間人が国の防衛をつかさどることへの不安ものぞいた。
 「防衛、外交の双方に知見があり、米国とのパイプもある。相手の話をよく聞いて物事を判断するタイプで、人柄は申し分ない」。ある自衛官は、自衛隊出身の森本氏に親近感と期待感をにじませた。別の自衛官も「防衛問題に不慣れな人が大臣になって混乱したので政治家よりよっぽど期待できる」と話した。
 ただ、民間人が国の防衛トップに就くことには、歓迎の声ばかりではなかった。ある自衛隊幹部は「国民の負託を受けていない民間人が、万が一の時に、自衛官を命の危険がある現場に行けと命令できるだろうか」と首をかしげる。



 森本敏氏の防衛相就任について、マスコミ、とりわけ左翼系マスコミが、またれいのごとく文民統制の意味をはき違えて批判していますね。また、憲法学者という連中の趨勢によると、憲法66条に言う「文民」とは、現在職業軍人ではなく、これまで職業軍人でなかった者とする説が多数のようですが、荒唐無稽な学説でしょう。

 そもそもですが、多くの憲法学者や護憲派左翼は、自衛隊そのものを憲法違反の存在として否定しておきながら、文民統制について語っている時点で、矛盾しているのです。自衛隊が憲法違反の存在なら、その同じ憲法がなぜ自衛隊について規定しているのか。

 すなわち、「文民」という概念が憲法上想定されているということは、同時に憲法は文民と対置する概念である「軍人」について当然に想定しているということです(そうでなければ、わざわざ「文民」を規定する意味がない)。しかしながら、自衛隊を違憲扱いする者から、これについての矛盾のない説得力のある答えを、私は聞いたことがありません。


 立憲主義国家における政治と軍事の関係とは、政治は軍事に優先し、軍権は政権(民権)に服すべきという原則に支配されるべきであって、軍の活動や組織は、常に国民生活に責任を負う政治部門の指示や監督に服さなければならないとするのが文民統制です(大石眞『憲法講義Ⅰ』)。したがって、ここから必然的に防衛大臣は過去に軍歴のあった者は排除されなければならないという結論はでてきません。


 ただし、ここで蔑ろにしてはならないのが、武力組織という実力部隊を統括する防衛大臣には、軍事、安全保障に関する的確かつ深い知識が求められているということです。というか、こういった知識を欠いた者が実力組織の統括をすることのほうが、正確に文民統制を作用させる上では遥かにマイナスでしょうし、そもそも危険です。石破茂氏の言葉を借りれば、「自分たちが理解できないものを、きちんと機能させるなんて、出来るはずがない」ということです。

 自衛隊という実力組織のトップを担うには、某お笑い芸人と同姓同名の前(自己)防衛大臣よりも、自衛隊および安全保障について知悉している者の防衛大臣への任用こそ望ましいものです。

 自衛隊や安全保障の深い知識が養われるには、実際に現場で働くことが重要でしょうし、こうした実地で経験を積んだ者を防衛大臣に就かせたほうが、文民統制の正常な機能という点からは、むしろ好ましいと言えるでしょう。

 したがって、憲法66条の「文民」とは、現在職業軍人でない者と解釈すべきです。とはいえ、昨日自衛隊を辞めて明日防衛大臣になるというのでは問題でしょうから、元の職場との利害関係がある程度清算される期間は必要でしょうから、退役して何年経っているかという基準を設けることは考えてもいいでしょう。



 最後に、森本敏氏の防衛大臣就任について、少し意見を述べたいと思います。

 以上で述べた正常な文民統制上、防衛大臣に求められている資質という面では、森本氏に問題はないと思いますが、国家の基本である安全保障政策を統括する大臣を、国会議員からではなく民間人から起用するというのでは、政権与党であるにもかかわらず、民主党(現政府内)に防衛大臣に適任な人材が存在しないということを内外に表明したとも捉えられかねないので、この点が非常に懸念されるところです。

 個人的には、他の大臣と同様に、副大臣をそのまま昇格させるというかたちで渡辺周氏を防衛大臣にしたほうが問題が少なかったのではないかと思っています(長島昭久氏と同様に沖縄との裏方としての交渉責任者上、大臣に自動的に昇格させられないなどの事情があったかどうかは知りませんが)。



 ともあれ、森本氏の防衛大臣就任が文民統制上どうかよりも、田中直紀の凄まじいまでの自衛隊、安全保障についての無知のほうが、遥かに文民統制上問題があるというのは、このような難癖をつけてくる一部の連中を除いて共通了解事項だと思います。

財政民主主義の原則が泣く

2010年12月26日 | 憲法関係
朝鮮学校無償化手続き停止、文科省訴訟を危惧(読売新聞) - goo ニュース

 北朝鮮による韓国砲撃に伴い、朝鮮学校への高校授業料無償化の適用の審査手続きが停止されてから約1か月が過ぎ、政府内では、適用可否の判断を放置しておくと、訴訟に発展するとの懸念が強まっている。
 文部科学省は朝鮮学校への適用について「外交上の配慮は判断材料にしない」として審査基準を決め、11月30日まで申請受け付けを行い、全国10校の朝鮮学校から申請を受理。同省では約1か月かけて個別に審査し、年内にも適用を決める予定だったが、韓国砲撃を受け、11月24日に菅首相が手続き停止を指示し、審査は行われていない。
 今年度分の支給ができるのは来年3月末まで。授業料相当額として支給される就学支援金は低所得世帯への上積みがあり、学校指定後、さらに個人審査に2か月程度が必要とされる。このため、文科省は年明けにも審査を始めたい考えだが、高木文科相が24日に「今後の事態を慎重に見守っており、今のままではコメントできない」と述べるなど、メドは立っていない。行政手続法には「申請が到達した時は遅滞なく審査を開始しなければならない」との規定があり、事態が長引いて訴訟が起こされることを同省は危惧している。



 私は単純に、朝鮮学校の無償化というのは、財政民主主義の原則に反するのではないかと思っている。

 財政民主主義とは、国家の財政は国民生活に重大な影響を及ぼすものであるため、国家の財政によって国民が不当な負担を被ることのないように、財政に対し民主的コントロールを及ぼし、国民の権利を守るというものである。

 すなわち、財政民主主義とは、「国民の、国民による、国民のための財政」の実現を期するものである(高橋和之ら『憲法Ⅱ』)。つまり、国民の価値判断に照らして、国家による財政出動が認められないということになれば、そのようなものに税金を投入することは許されないことになる。

 以上を踏まえて、朝鮮学校の無償化というのは、朝鮮学校が北朝鮮の出先機関である朝鮮総連とべったりの関係であることから(朝鮮学校の人事権は総連にあるし、朝鮮学校単体では教科書の変更もできない)、財政民主主義の原則に照らし、無償化により朝鮮学校に税金を投入するのは許されないと考える。



 この議論と関係して、しばしば朝鮮学校を無償化するというのは、憲法89条に抵触するという批判が聞こえてくる。そこで、このことについても検討したい。

 憲法89条にはこうある。

「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」


 本件で問題となるのは後段部分(公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。)である。

 89条の「公の支配」の解釈については、次のようなものがある。

①「公の支配」とは、「その事業の予算を定め、その執行を監督し、さらに人事に関与するなど、その事業の根本的な方向に重大な影響を及ぼすことのできる権力を有すること」とする説。

②「公の支配」とは、①説のように公的機関が私的な事業に直接介入することを意味するのではなく、公金の支出に伴う使途の公的統制に服するということを意味するとする説(大石眞『憲法講義Ⅰ』)。


 ①説は、これにしたがうと私学助成も憲法違反となり、現実的な解釈とは言い難い。したがって①説は採用できないだろう(現に①説は学説上でもほとんど少数説にとどまっている)。ちなみに、私学助成の合憲性が争われた事例について、裁判所は私学助成を合憲としている(千葉地裁昭和61年5月28日判決)。

 結論から述べると、私には②説が現実的であると思われる。

 というのは、先に述べたとおり①説ではあまりに制限範囲が広がり過ぎて、教育を受ける権利の点から問題を孕むと思われるし、公の支配の概念が強すぎて、これでは私的事業に対して安易な公権力の介入を正当化してしまう危険性があるからだ。


 それに、朝鮮学校無償化の件では、②説でも十分に適用対象外の説明がつくからだ。

 なぜならば、朝鮮学校が「公金の支出に伴う使途の公的統制に服する」とは、とても考えられないからだ。

 北朝鮮は朝鮮学校無償化を、朝鮮学校支援と解釈している(産経新聞)。さらに、国交がない国である以上、そのような(しかも超独裁国家である)国である北朝鮮に公金を支出しても、これがきちんと子供の教育に行きわたっているのか、検証する術もない状態では、とてもではないが「公金の支出に伴う使途の公的統制に服」する可能性は考えられない。

 しかも、朝鮮学校のHPにはつい最近まで「朝鮮学校の運営は、朝鮮総聯の指導のもと教育会が責任を負っている。教育会は中央、県、学校単位で専従の活動家と同胞学父母を中心に組織されている。」と書かれていたという(【安藤慶太が斬る】だから北朝鮮は真っ当になれない 無償化での彼等の致命的勘違い)。


 このように、朝鮮学校に公金を支出しても、これを統制する手段をわが国は持っておらず、また公金の使途についても(北朝鮮という国家の体質からして)これについて虚偽の報告をする可能性も十分に考えられる。

 したがって、朝鮮学校の無償化は憲法89条後段に照らして許されないと解するほかない。

とてつもない欺瞞

2010年11月24日 | 憲法関係
防衛次官通達、「憲法上問題ない」…内閣法制局(読売新聞) - goo ニュース

 防衛省と内閣法制局は22日の参院予算委員会理事会で、政治的発言をする部外者を自衛隊関連行事に呼ばないよう求めた防衛次官の通達について、「憲法で保障された表現の自由等との関係で問題となるものではない」との見解を示した文書を提出した。
 文書は、「通達は隊員にあてて示されているもので、一般の国民の行為を規制しようとするものではない」と記している。



 これを欺瞞と言わずして一体何というのか。この通達が「民間人の」表現の自由を侵害することは明らかである。開いた口が塞がらない。

 以前、「恣意的な通達は許されない」で書いたように、通達というのは、行政内部での意思の統一を図り、国家意思の分裂を防ぐ目的をもって発せられるものである。したがって、民間人を直接拘束する法的な力は存在しないし、そもそも民間人を通達をもって拘束するのは許されない。

 この記事には「通達は隊員にあてて示されている」とあるが、それは通達なのだから当然であって、問題は、そうした通達によって、結果的に民間人の言論が規制されるという事態が生じているということである。

 確かに、表現の自由といえども絶対不可侵のものではないだろう。しかしながら、表現の自由とは「こわれ易く傷つき易い」権利(芦部信喜『憲法』)と言われ、民主主義を支えるのに欠かせないものとされる。したがって、表現の自由は可能な限り保障されなければならないとするのが憲法の立場であるとされる。

 また、確かに今回の通達の発端となった発言とされる、「一刻も早く菅政権をぶっつぶして」という挨拶はいささか過激なものであっただろう。しかし、この挨拶をもって「政治的発言」をするような団体ないしは個人を自衛隊の行事に参加させないよう通達を発するのは論理の飛躍も甚だしいものだ(何故ならば、民主党政権批判と政治的発言とでは両者の概念の幅は余りにも異なるため)。


 そもそもだ。当該通達の対象は自衛官であったとしても、「政治的発言(=民主党批判)をするような民間人」をターゲットにしたものであることに変わりはないのであるから、この通達は言うなれば自衛官をクッションとして通達と民間人の間に挟むだけに等しく、やはり結果として民間人の言論封殺をもたらすのは間違いないのだから、当該通達が憲法に照らして問題がないとするのは詭弁でしかない。


 だいたい、揚げ足取りになるが、仙谷氏は当該通達の意図について、「防衛省で規律を保持する」ためであると述べるが、ならば自衛隊基地の外で拡声器で基地内に聞こえるように「民主党政権なんかぶっ潰せ!」と叫ぶことだって自衛隊の「規律保持」の面からすれば大いに問題があると思うが、その意図からすればこのような場での「政治的発言」も通達によって封殺しなければならないだろう(この場合、公務執行妨害罪等別の犯罪になる可能性はあるが)。当然のことながら、自衛隊の基地の外で「反自衛隊」活動という政治活動をしている民間人も通達によって排除されなければならない。

 もっと言えば、いくら自衛官といっても、ネットや新聞報道、テレビ等で「民主党政権」に対する「政治的発言」をいくらでも耳にする機会があると思うが、こうした場合も民主党の理屈でいけば「規律保持」の面から問題があると言えるが、これらは良くて自衛隊基地内での、しかも民間人の「政治的発言」がダメな理由は一体何なのか?



 このように、当該通達はこれを正当視できる理由は皆無である。したがって、こんなファシズム紛いの通達は速やかに撤回しなければならない。撤回しないならば、民主党はファシズム政党だと堂々と表明しなければならない。

恣意的な通達は許されない

2010年11月18日 | 憲法関係
政治的発言する部外者「呼ぶな」は妥当…仙谷氏(読売新聞) - goo ニュース

 仙谷官房長官は17日午前の記者会見で、防衛省が中江公人次官名で政治的な発言をする部外者を関連行事に来賓などで呼ばないよう求める通達を出したことについて、妥当な対応だったとの考えを示した。
 仙谷長官は「自衛隊員の政治的な中立性が確保されなければならない。防衛相の責任の下に必要な対応がとられたと認識している」と語った。
 通達のきっかけとなった3日の航空自衛隊入間基地の航空祭で地元代表者が述べた「民主党政権は早くつぶれてほしい」との発言に関しては、「非常に荒々しい政治的発言であることは間違いない。どこまで許されるのかということだ」と論評した。



 通達とは、監督行政庁が、組織上の監督権にもとづいて所管の下級行政庁に対し、法律の解釈や裁量判断の具体的指針等を示して、行政上の扱いの統一を期すために発する「行政組織内部での」命令である(原田尚彦『行政法要論』)。したがって、通達は行政機関を拘束するだけで、直接国民(私人)を拘束するものではない(南博方『行政法』)。

 よって、たとえ通達に違反した行為を国民がしたとしても、そうした行為を通達を根拠に罰することができないのは当然である。通達とはあくまでも行政内部でのみ効力を有し、組織の一体性を保持し、国家意思の分裂を防ぐために発せられるものだからである。



 以上が通達に関する前提知識である。確かに、通達が発せられることにより、間接的に国民の権利ないし自由が制約される場合というのは考えられよう。通達によって従来の法解釈を変更することができるのは当然であり、それによって国民に不利益が生じても構わないとするのが判例・通説の考え方である。

 しかしながら、今回の通達の場合、事情が異なる。何故ならば、通達の目的が行政組織内の一体性を保持し、国家意思の分裂を防ぐことにあるにもかかわらず、今回の通達はそうした目的に照らし関係のない国民の意思表示を妨害するために発せられているからだ。

 また、通達は法律などのように、国会による審議を必要としないし、法律による授権も不要である。そのような性質の通達をもって、いかに自衛隊の敷地内という制限があるとはいえ国民の発言を制約するというのは、法治国家のやることではない。尖閣の件といい、民主党というのは日本を法治国家だと考えていないようだ。

 今回の通達に関し仙谷氏は、「シビリアンコントロール(文民統制)の上から防衛省で規律を保持することは、防衛相の責務だ」(産経新聞)と述べたというが、そもそもシビリアン・コントロールの対象になるのは軍事力であって国民ではないし、たとえ自衛隊の敷地内であっても私人たる国民がそこにおいて政治的な発言をすることと自衛隊の規律の維持とは関係のない話だ。彼の説明は詭弁である。

 今回の政府の対応は、通達の本来の目的から大きく逸したものであり、通達という手軽な手段を用いて、自分たちに都合の悪い言論を封殺しようとするものにほかならない。



 ところで、何をもって「政治的発言」とするのか。すなわち、「政治的発言」の定義とはどのようなものか、また、具体的にいかなる発言が政治的発言に該当するのか、ということだ。そして、そもそも、通達は政治的発言をしそうな団体は出席させないように、との内容のようだが、そのような発言をしそうか否かを一体どうやって判断せよというのか。

 たとえば、以前橋下知事は「口ばっかりで、人の悪口ばっかり言っているような朝日新聞のような大人が増えれば、日本はだめになる」と、伊丹市の陸上自衛隊伊丹駐屯地で開かれた陸上自衛隊中部方面創隊48周年記念行事で発言したが、このような発言は通達にある「政治的発言」に該当するのか。

 思うに、政治的発言というなら、自衛隊の行事等で、「昨今は北朝鮮の核実験や中国の軍事力増強等、日本の周辺では軍事的な脅威が・・・」云々と述べるのも、政治的発言と言えるのではないか。特定の政党、政権、政治家等を批判することだけが政治的な色彩を帯びた発言ということにはならないはずだ。

 しかしながら、アバウトに「政治的発言」と一緒くたにして、こうした発言をしそうな個人または団体の出席を禁止するとなれば、自衛隊の行事等における挨拶それ自身の意味をも没却させかねないことになる。

 それとも、現政権は「民主党政権は早く潰れて欲しい」と言われたら、それに同調する自衛隊員が大勢出て、クーデターでも起こるとでも考えているのか?そのように考えるとすれば、何か思い当たるフシがあるのか?(笑)だとしたら、民間人の発言にいちいち反応して無茶な通達を出して言論統制に走るのよりも、自分たちの政治姿勢を顧みるのが先ではないのか?


 このように考えるならば、今回の通達は先述したように、自分たち=民主党政権にとって都合の悪い言論を封殺しようとするものにほかならないものであり、そうした意図をもって発せられているのは明白だ。もし、今回の通達の契機となった発言が、民主党の提灯持ち的なものであったとしたら、それでもなお、民主党は同じように政治的発言だとし、これを問題視して通達を発しただろうか。

 彼らの言う「政治的発言」とは、要するに自分たちを批判ないしは敵視する発言に対して適用されるものであるのは、通達を指示した北沢氏が、かかる発言に対し激怒したことがきっかけになっていること、ならびに、「自民党内閣の時にこういう事があったら、私は多分同じような事を為さるんだろうという風に思っております。」と答弁していることからしても明らかだろう。

 なお、当該批判をした民間人は、自民党政権のときも自民党政権批判を繰り返していたのだ(自民党、衛藤氏)が、当然のごとく自民党政権はこのような通達を出してはいない。



 民主党に言っておきたいが、未来永劫あなたたちが政権与党であることは万に一つもない。にもかかわらず、将来自分たちの首を絞めるような通達を発することのデメリットを考えているのか。もし、いつの将来か自民党が政権を取って、この通達を根拠に、自民党政権を批判した者を自民党政権が自衛隊の式典から締め出しても、当然民主党は自民党の肩を持つのだろうな?まぁ、それまで民主党という政党が存在していれば、の話ではあるが(笑)




 最後に、参考として、阿比留瑠比記者のブログに当該「発言」の詳細が掲載されていたので、ここにも掲載する。以下、発言内容。


 入間基地航空祭おめでとうございます。また、普段国防の任に当たられている自衛隊の皆さん、いつも大変ご苦労さまです。祝賀会の主催者として、一言ご挨拶申し上げます。本日は、極めて天気もよく絶好の航空祭日和となりました。これも國分基地指令の日頃の行いのなせるものだと思います。

 私も、随分昔から、入間基地航空祭には、参加をさせて戴いておりますが、このように天気がいいのは、あまり記憶にありません。本当に良かったと思います。

 さて、現在の日本は、大変な状況になっていると思います。尖閣諸島などの問題を思うとき私は、非常に不安になるわけであります。自衛隊は、遭難救難や災害救助が仕事だと思っている世代が増えてきています。早く日本をなんとかしないといけない。民主党には、もっとしっかりしてもらわないといけない。

 他方で、戦後から日本の経済的繁栄などを思うとき、これらが先人の努力・犠牲によってなされたことを思い起こすべきであります。そのように考える時に、靖国神社に参拝するなどは当たり前のことだと思います。靖国神社には、日本人の魂が宿っている。菅内閣は誰一人参拝していない。これでは、日本の防衛を任せられない。

 自衛隊の最高指揮官が誰か皆さんご存知ですか。そうです内閣総理大臣です。その自衛隊の最高指揮官である菅総理は、靖国神社に参拝していません。国のために命を捧げた、英霊に敬意を表さないのは、一国の総理大臣として、適当でない。菅総理は、自衛隊の最高指揮官であるが、このような指揮官の下で誰が一生懸命働けるんですか。自衛隊員は、身を挺して任務にあたれない。皆さん、どう思われますか。

 領土問題がこじれたのは、民主党の責任である。菅政権は冷静だと言われているが、何もしないだけである。柳腰外交、中国になめられている等の現状に対する対応がなされていない。このままでは、尖閣諸島と北方領土が危ない。こんな内閣は間違っている。まだ、自民党政権の内閣の方がまともだった。現政権の顔ぶれは、左翼ばかりである。みんなで、一刻も早く菅政権をぶっつぶして、昔の自民党政権に戻しましょう。皆さんそうでしょう。民主党政権では国がもたない。

菅直人「首相」という間違い

2010年06月05日 | 憲法関係
新首相、郵政法案成立に全力 普天間は日米合意を基礎に(共同通信) - goo ニュース

 菅直人新首相は4日夕、首相選出後初めての記者会見で、今国会で焦点となっている郵政改革法案に関し「成立を期すとした3党合意に沿って全力を挙げたい」と明言、米軍普天間飛行場移設問題に関しては「日米間の合意をふまえ、沖縄の負担軽減を重視し、腰を据えて取り組む」と強調した。政府や党の人事に関しては「官邸の一体性、内閣の一体性、党の全員参加を可能にする人事をつくる」と強調した。



 ほとんど指摘がないのが意外なのだが、彼はまだ正式には「首相」ではない。これは憲法上明らかなことであって、菅直人支持者であっても同意しなければならない事実である。


 というのは、憲法上、内閣総理大臣に就任するには、

国会による首相の「指名」(憲法67条)を受け、
                     ↓
現内閣である鳩山由紀夫内閣を経由して行われる衆議院議員議長による天皇陛下への奏上がされ(国会法65条2項)、
                     ↓
天皇陛下による内閣総理大臣の「任命」(憲法6条1項)


というプロセスを経て、はじめて内閣総理大臣になるのである。

 もちろん、天皇陛下には君臨すれども統治せずの原則が妥当するから、天皇陛下ご自身に首相の選択権は存在しない。

 よって、天皇陛下による任命は形式的なものとはいえ、これを経ていない人物に、「首相」という形容詞をつけることは、正確に言えば間違っているのである。


 現在の菅直人について正確に表現するならば、彼は民主党の代表ではあっても、いまだ総理大臣ではなく、かといって国会で指名されたのであるから、総理と代表の間とでも言おうか(苦笑)。


 いずれにせよ、彼を「首相」と呼ぶのはいささか早計である。強いて彼を形容するならば、菅直人「民主党代表」か、菅直人「新首相」のいずれかであろう。あたかも菅「首相」が誕生したかのようなマスコミの表現は、情報の受け取り手に誤解をさせるものである。

百地の矛盾と小林の指摘

2010年03月31日 | 憲法関係
 はじめに断っておくが、この日記は百地章日大教授その人に対する人格攻撃ではない。あくまでも、百地教授の「矛盾」を糾すのが目的である。その際に小林よしのり氏の指摘を参考にするまでである。


 百地教授といえば、女系天皇容認に向けた皇室典範改正に反対する急先鋒である(たとえば、『憲法の常識 常識の憲法』85頁以下で、女系天皇容認論への批判を展開している)。他方小林氏は、『天皇論』において「女系容認」を表明するなど(同書375頁)、両者の主張は対立している。なお天皇に関する議論は、本題と直接関係ないため割愛する。


 百地教授は、天皇は男系で継承していくべきとして、「皇位の世襲は男系でも女系でもよい」とした、平成13年の福田康夫元官房長官の政府答弁を批判している。

 もっとも、この批判自体はさして問題ではない。問題なのは、この政府答弁に対する批判の論理構成と、彼のこれまでの「集団的自衛権」に関する政府答弁への批判における論理構成との矛盾である。

 まず、現在発売中の「WiLL」5月号での百地教授の論稿「外国人参政権園部元判事の俗論」209頁を見てみよう。

 ここにおいて百地教授は、皇位の世襲に関する政府見解は、金森徳次郎国務大臣から加藤紘一官房長官にいたるまで、すべからく男系男子であるとしていたにもかかわらず、突如として福田康夫官房長官が上記のような答弁をしたとする。

 当然、男系派の百地教授は福田氏の政府答弁を批判する。その批判の内容は以下のとおり。

 すなわち、憲法の条文上「男系でなければならない」という縛りこそないものの、これまでの政府見解の基調は、「憲法第2条の世襲は男系を意味する」ものであった、ということである。それにもかかわらず、突如としてこれまでの政府見解と異なる上記の福田氏の政府答弁は、女系天皇を容認するものでありけしからんという(上記論稿208~209頁)。

 しかしながら、百地教授は、集団的自衛権の行使について、先ほど挙げた『憲法の常識 常識の憲法』123~125頁にかけて、以下のような内容で批判を展開している。

 すなわち、集団的自衛権の行使が許されないとなると、同盟国アメリカの艦船が目の前で攻撃されていても自衛隊は助けることができない等の不備があり、そうした事態を招かないためにも「集団的自衛権の行使は現行憲法下でも可能であると、すみやかに政府見解を変える必要があろう。」(同書125頁)。



 さて、こうして百地教授の「政府見解」に対する姿勢について、異なる問題についてではあれ並べてみたが、こうしてみると、彼の矛盾が如実に露呈していることが分かるであろう。

 つまり、「皇統は男系とする」政府見解に対しては、これを変えることに激しく抵抗する反面、集団的自衛権については「すみやかに変える必要」があると述べることは、明らかにダブルスタンダードではないか、ということだ。

 ここで小林氏は「SAPIO」2010年4月14・4月21日号71頁において、「これが憲法違反というなら、集団的自衛権の政府見解も変えられないことになる!そんな馬鹿な話があるか!政府見解は一番新しいのが有効だろう。」と述べているが、まさにそのとおりであると思う。


 それでは、天皇の継承に関するこれまでの政府見解を後世大事にしてこれを変えることを頑なに拒否する男系主義者たちは、集団的自衛権についても、これまでの政府見解である「持っていても行使できない」とする見解を後世大事にするのか。少なくとも、百地教授ご自身はこの矛盾についてどのような回答を示すのか、気になるところである。

 もっとも、皇位は男系とするとしたこれまでの政府見解を、これを変えることは憲法2条に反する、という論理構成を採った場合についての矛盾であり、こうしたスタンスでない限り、集団的自衛権と皇位の継承に関する政府見解とについて異なった見解を持っていても、それは問題のないことであるということが、この議論での前提になっていることを、最後に指摘しておきたい。

「傍論」とは何か?

2010年01月22日 | 憲法関係
外国人参政権への反対明言=亀井氏(時事通信) - goo ニュース

 亀井静香金融・郵政改革担当相(国民新党代表)は22日午前の衆院予算委員会で、永住外国人に地方参政権を付与する法案について、「国民新党も、わたしとしても反対だ」と改めて反対を明言した。小池百合子氏(自民)に対する答弁。 



 外国人参政権の是非に関する議論でしばしば反対派が言う、「付与しても違憲ではない」とした園部裁判官の傍論は法的な意味を持たない、という主張。それでは、そもそも「傍論」とは一体何なのだろうか。そこで今回はこの「傍論」の意味について考えてみる。


 まず、傍論についての前提問題として、判例(なお、「判例」と「裁判例」も、実は意味が異なる。前者は後に続く訴訟において何らかの規範的な拘束力を有する裁判例、つまり「先例」としての価値を有するものであり、特に最高裁判所の判決を指すのに対し、後者は単にある訴訟について判示した内容やその集積という程度のものである。)にはいかなる拘束力が存在するのだろうか。もし判例に一切の拘束力が存在しなければ、傍論について論じる意味もないことから問題になる。


 判例の先例拘束性に関しては以下のような見解がある。


①判例には法律上の拘束力ではなく事実上の拘束力があるとする見解(現在の通説的見解と思われる)

→最高裁の判決と異なる判決を下級審がしたところで、それは上級審で破棄されるおそれが強いため、最高裁の判決にしたがって判決をする、という程度で、事実上の拘束力しか判例は有さない。

②判例には法律上の拘束力が存在するとする見解(現在の有力説と思われる)

→この見解は憲法32条(罪刑法定主義)等を根拠にする。ただし、下級審が最高裁の判決と異なる判決をしたとしても、それは破棄されるという程度にとどまるとする。


 なお、判例に法源(裁判官が裁判を行う際に判断の基準とするもの。)としての性質があるという点では、現在において異論はないと思われる。すなわち、法律や条例といった制定された法だけが法ではなく、慣習や判例も広く法とみなしているということである。


 それでは、本論である「傍論」とは一体何かについて考えていく。

 まず、「傍論」(obiter dictum(オビタ・ディクタム))と対をなす概念は一体何か?それは、「判決理由(あるいは判旨)ratio decidendi(レイシオ・デジデンダイ)」と呼ばれるものである。

 「判決理由」とは、判決主文(請求の当否を判断する結論部分。判決文で言うところの「〇〇に金××円を支払え」などといった部分。)の判断を導き出すのに不可欠な理由部分であり、判決文に書かれていることの中で真に判例となるもの、すなわち、先の判例の拘束力のところで述べた後に続く裁判例を拘束する力を有する部分のことである。

 これに対して「傍論」とは、判決文中の裁判官の意見のうち、判決理由に該当しない部分を指す。後の裁判例に影響を及ぼすこともあり得るが、上記の判決理由とは異なり、先例としての拘束力を有する部分ではない。



 ここまで行った判決理由と傍論の区別に関する議論は、先例の法源性または規範的拘束力を肯定することにより、はじめて意味を有するものである。

 ここで、判例の先例拘束性について通説的見解である、判例は事実上の拘束力を有するとする見解に立つ。そうすると、上記の傍論と判決理由の区別はより一層峻別されたものになってくる。

 というのは、この見解を採った場合、判例が先例としての拘束力を有する部分は、先例の事実と直接に関わる部分、すなわち、判決理由のみであるという結論に至るからである。



 それでは具体的な検討に入って、外国人参政権について「付与しても違憲ではない」と判示したとされる、くだんの平成7年判決について、上記の議論を踏まえて簡潔に検討してみる。

 これまで行ってきた傍論に関する解釈を前提に平成7年判決の渦中の部分を考えてみると、平成7年判決は、国政レベルで定住外国人に被選挙権を認めないことは憲法15条の規定に反すると主張した原告の請求に対し、「本件上告を棄却する。」と主文で述べている。

 そして、その判決理由として、「地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。」と判示している。

 つまり、上記の部分が主文を導くために提示された判決理由である。ということは、平成7年判決は上記の部分につき、先例としての拘束力が存在するということになる。よって、園部裁判官が提示した「付与しても違憲ではない」との部分は、傍論であり先例としての拘束力は有しないということになる。


 結論は以上である。しかしながら、私は判決理由と傍論とで事実上の影響力に差はないと思うので、あまりこの解釈はお勧めしない。

「一票の格差」判決について

2009年09月30日 | 憲法関係
参院選「1票の格差」、最高裁が「合憲」と判断(読売新聞) - goo ニュース

 議員1人当たりの有権者数の格差(1票の格差)が最大4・86倍だった2007年7月の参院選挙区選の定数配分は選挙権の平等を保障した憲法に違反するとして、東京都と神奈川県の有権者11人が、各都県の選挙管理委員会に選挙無効(やり直し)を求めた訴訟の上告審判決が30日、最高裁大法廷(裁判長・竹崎博允長官)であった。
 大法廷は定数配分を合憲と判断、請求を棄却した1審・東京高裁判決を支持し、原告の上告を棄却した。一方、判決の多数意見は「格差縮小には選挙制度の仕組み自体の見直しが必要。国会が投票価値の平等の重要性を十分に踏まえ、速やかに検討することが望まれる」とも指摘した。
 合憲の結論は15人の裁判官のうち10人の多数意見。残る5人の裁判官は違憲の反対意見を述べた。
 参院選定数訴訟の大法廷判決は8回目だが、多数意見で、現行制度の仕組みの見直しの必要性に踏み込んだのは初めて。



 これはすなわち、「投票価値の平等まで憲法が保障していると言えるのか」という問題に尽きるのかと思う。

 まず、日本の選挙制度は選挙区制を採用している。ということは、選挙区について割り振り等を決めるのは立法府である国会であるのだから、国会によるある程度の裁量は認められなければならない。したがって、選挙区制についての裁量を国会が全く持ってはならないという議論は否定される(深入りすれば、選挙区制は合憲かという議論になるだろうが、これは割愛する)。

 選挙権は権利である。権利であるならば、それは等しく保障されなければならない。同時に、選挙権の行使による国民の意思は極力正確に反映されなければならない。したがって、選挙権の平等は憲法14条の要請するところである。よって、憲法は投票価値の平等まで保障していると言っていい。

 最高裁も昭和51年4月14日判決において、「憲法14条1項に定める法の下の平等は、選挙権に関しては、国民はすべて政治的価値において平等であるべきとする徹底した平等化を志向するもの」であると述べている。



 今回の判決文によると、「本件選挙時点での議員1人当たりの選挙人数の較差は,最大は鳥取県と神奈川県の1対4.86であるが,それ以外に4倍を超えるのは大阪,北海道,兵庫,東京,福岡の5選挙区に及び,また鳥取県を基準として3倍を超えている選挙区は15選挙区に及んでいる。また,議員1人当たりの選挙人数較差が3倍を超える地域をみると,鳥取,島根,高知,福井,徳島の5選挙区(その選挙人数の合計は約307万人)に対し,上述の神奈川,大阪,北海道,兵庫,東京の5選挙区(その選挙人数の合計は約3387万人)に達するに至っているのである。」という。当然のことながら、これをどう評価するかということである。

 この現実は、実質的に一人一票であるはずの選挙権が、ある地域では一人四票投票できているということに等しい。このことは先に示した昭和51年判決の見解と正面からぶつかることになる。私としては、先の51年判決に照らし、この格差は違憲としてしかるべきであったものだと思う。 



 それでは、過去に裁判所は一体どの程度の一票の格差までを容認していたのか。以下に記載してみた。


最高裁昭和51年4月14日判決
一票の格差・・・5:1=憲法の選挙権平等の原則に反する

最高裁昭和58年11月7日判決
一票の格差・・・2.92:1=合憲

最高裁昭和60年7月17日判決
一票の格差・・・3.94:1=憲法の選挙権平等の原則に反する

最高裁平成5年1月20日判決
一票の格差・・・3.18:1=憲法の選挙権平等の原則に反する

最高裁平成11年11月10日判決
一票の格差・・・2.3:1=合憲

再考査平成19年6月13日判決
一票の格差・・・2.064:1=合憲


 ということで、裁判所はおおよその相場として、限度を3倍程度としているものと考えられてきたと思われるが、今回の大法廷判決によって、この相場が一気に塗り替えられたと言える。


 ところで、原告らは選挙のやり直しを求めたが、これが認められなかったのは至極当然と言っていい。この原告らの請求を認めていれば、選挙の蒸し返しが可能になってしい、多くの混乱が生じてしまう。

 このことについて先の昭和51年判決は事情判決の法理を援用しつつ、「本件選挙は憲法に違反する議員定数配分規定に基づいて行われた点において違法である旨を判示するにとどめ、選挙自体はこれを無効としないこととするのが、相当であ」るとしているが、これは上記理由からして正しい。



 今回の判決は形式的には合憲としたが、実質的に見れば違憲と宣言したに等しい。したがって速やかな選挙制度見直しが求められる。



なお、当該判決はこちらにて全文読めます。

至極妥当な判決

2009年07月16日 | 憲法関係
国歌起立斉唱、教職員は義務…横浜地裁(読売新聞) - goo ニュース

 卒業式や入学式で、教職員に国旗に向かっての起立や国歌斉唱を強制するのは思想の自由を妨げ、憲法違反だとして、神奈川県立学校の教職員ら135人が県を相手取り、いずれの義務もないことの確認を求めた訴訟の判決が16日、横浜地裁であった。
 吉田健司裁判長(深見敏正裁判長代読)は「教職員らには生徒への国歌斉唱の指導や式の円滑な進行のため、起立斉唱の命令に従う義務がある」と述べ、請求を棄却した。原告は控訴する方針。
 判決は、式典での起立斉唱は儀礼的な行為だと指摘し、起立斉唱の命令は特定の思想の強要ではない、とした。
 同県教委は2004年、県立学校長に対し、起立斉唱の指導の徹底を求める通知を出した。同県の松沢成文知事は「極めて妥当な判決」とコメントした。



 至極妥当かつ当然の判決として歓迎したい。公務員たる教職員についての国旗・国歌に対する私の見解は「上田知事の発言について」ならびに「『君が代』伴奏拒否判決の研究」において詳述したのでそちらに譲るとして、今回は別の視点からこの問題について論じてみようと思う。

 上記読売新聞の記事では少し情報が不足するので、毎日新聞の記事と東京新聞の記事を参考にしたい。

毎日新聞「国旗国歌訴訟:県立学校教職員の請求棄却 横浜地裁

 判決は、国歌ピアノ伴奏を拒否した音楽教諭への処分を「合憲」とした最高裁判決(07年2月)を踏襲。学校行事での起立斉唱は出席者にとって「通常、想定・期待される儀礼的行為」で、通知に基づき校長が出す起立斉唱の職務命令は「教職員の世界観・歴史観・信念を否定するとは言えない」と判断した。
 問題とされた通知(04年11月30日付)は、教育長名で各校長にあてた「国旗の掲揚及び国歌の斉唱の指導の徹底について」。教職員側は「起立斉唱は『敬意』という内心を表明する行為。それを命じるのは自由を不当に制約する」と主張したが、判決は「内心に影響を与え得ることは否定できないとしても、公務員として適法な職務命令に従う義務がある」などと退けた。
 会見した大川隆司・弁護団長は「最高裁判決をなぞった月並みの猿まね判決。国民の常識と正反対だ」と批判した。


東京新聞「『違う考え認める学校に』 原告教諭通知で現場息苦しく

 湘南地区の県立高校で社会科を教える竹下雅悦教諭(50)は、そんな思いから裁判に参加した。高校教師になったのは一九八三年。赴任先の入学式や卒業式で、君が代斉唱の際に不起立を貫いてきた。
 日の丸への違和感を抱いたきっかけは、父の戦争体験。戦時中、父がスパイと思い込み処刑した中国人が、無実の農民だと学生時代に読んだ文献で知った。父は事実を知らず、最期まで日の丸や君が代を愛した。竹下さんは「父のような人を多く生んだ教育の象徴である日の丸・君が代を敬うことはできない」と話す。
 裁判で県側は「起立斉唱は儀式的行為にすぎず、個人の内心に踏み込むものではない」と主張する。
 しかし、竹下さんは県教委の通知後、現場の雰囲気が変わったと感じる。県教委は不起立教員の氏名収集を、県の審査会で二度も不適当とされたにもかかわらず続ける。現場には息苦しさが漂う。
 竹下さんの学校には日本国籍以外の生徒も少なくない。生徒には国旗国歌を敬う自由と、そうでない自由が許されることを教える。
 「生徒に画一的な思想を押しつける意図が、個人の権利を保障する憲法や民主主義の基本を学ぶ学校にあってはならない。判決もそうあってほしい」



 唐突だが、最高裁と下級審の関係とはどのようなものか。

 わが国はイギリスやフランスなどと異なり、判例に法規範性を認められないと考えているのが支配的な見解である。つまり、判例は法とイコールではない。しかし、下級審と最高裁の関係は、下級審は原則として最高裁(上級審)の判例に拘束される。だからこそ判例違背を理由に上告ができる。

 ところが、原告側の弁護団長は「最高裁判決をなぞった月並みの猿まね判決。」と言う。これは上記の理解からすれば到底容認できない発言だ。

 まず、先例としての類似事件に関する判例が最高裁から既に出ているのだから、下級審たる横浜地裁はこれに拘束される。したがって、この最高裁判例に反する法解釈は許されない。それから思うに、この横浜地裁の判決に対し、「最高裁判決をなぞった月並みの猿まね判決。」という程度のコメントしか弁護団長ができないとすれば、原告側が負けるのも不思議はないだろう。



 次に東京新聞の記事だが、「日の丸への違和感を抱いたきっかけは、父の戦争体験。戦時中、父がスパイと思い込み処刑した中国人が、無実の農民だと学生時代に読んだ文献で知った。父は事実を知らず、最期まで日の丸や君が代を愛した。竹下さんは「父のような人を多く生んだ教育の象徴である日の丸・君が代を敬うことはできない」」から、国旗を掲揚し、国歌を斉唱できないというのは、滅茶苦茶な主張であり、この理由によって不起立をすることは、これもまた到底容認できない。

 私は以前も述べたが、個人が内心において国旗・国歌に対してどのような思想を持っていてもいいし、それに国家が干渉できないのは当然のことである。しかし、彼らは「公務員」なのである。これを忘れてはならない。

 しかもこの教師の主張のおかしさは、国の国旗・国歌に対する指導方針を「生徒に画一的な思想を押しつける」と言うが、それでは、上記のような「思想」を根拠に、式典において不起立をすることは、生徒に対して「画一的な思想を押しつける」ということにはならないのか。

 さらに、この教師の父親の体験と国旗・国歌とは、実は全く関係のない話であろう。無実の中国人を殺害したことと、その父親が日の丸を愛していたこととは、国旗・国歌を否定するにあたり、一体何のつながりがあるのか、全く分からない。そもそも、日の丸が父親に無実の中国人を殺せと命じたのではなかろう。それなのにどうしてこうした論理の飛躍甚だしい解釈ができるのだろうか。

 この教師の脳内論理に従うと、国旗・国歌に敬意を表するようになると、戦争をしたくなり、罪のない人を殺したくなるということになるが、そのような事実は証明されている、いや、証明できるのであろうか。それでは、国旗・国歌が世界中からなくなれば、世界は平和になるのか。このように、この教師の不起立の理由は、取り合うだけ馬鹿らしくなる荒唐無稽な主張でしかない。

 むしろ私としては、こうした教師こそ、密室の教室において、自己のイデオロギーを授業の名の下垂れ流し、生徒に「画一的な思想を押しつけて」いるのではないかとすら思う。



 毎度毎度のことで申し訳ないが、こういう類の訴訟を起こす人たちは往々にして、「自由」や「権利」の意味を履き違えている。彼らは自分たちの都合のいいときだけ自由や権利を継ぎ接ぎして主張し、普段は声高に自由や権利を主張するのに、自分たちと相容れない相手には途端に偏狭なスタンスを取る。

 自由、権利は大切。それを言うならどうして「つくる会」の歴史教科書には反対するのか。憲法改正の国民投票法案にどうして反対したのか。この裁判において彼らが主張した意味で「自由」や「権利」を解釈すれば、当然これらも自由や権利の下、許されなければならなくなるはずだ。

 ご都合主義の二枚舌の連中は、自由や権利を騙る資格はない。これだけは肝に銘じておかねばならない。



 最後に、横浜地裁は、起立や斉唱は「式典の出席者にとって通常想定され、期待される儀礼的な行為」で、県教委が起立や斉唱を命じても「原告らの世界観や歴史観を否定するものではない」(朝日新聞)と判示したそうだが、これこそむしろ「国民の常識」に適った判断ではないかと思う(「常識」とはどういうものなのか、という問題があるが)。

 公務員であるならば、国家の方針に従うのが筋だ。それが嫌なら上田知事ではないが、辞めればいいのである。己の立場を忘れて自由を振りかざすのは、傍から見ていて滑稽でしかない。

理想と現実

2009年05月05日 | 憲法関係
「私、憲法です。リストラになるってホントですか?」(朝日新聞)

 憲法くんは問いかける。「私のこと『現実に合わない』と変えようとする人がいます。でも、私って理想でしょ。現実は理想に近づけるよう日々努力するものじゃないんでしょうか?」



 一見すると、最もらしく聞こえてしまうから厄介だ。こういう喩えをされると、ダイエットして「理想」のプロポーションになる、というのと憲法が同列のように捉えてしまいかねない(苦笑)。

 確かに憲法のある一面において、それが理想を語っているということも否定できないが、憲法が理想を体現したものであると理解することは、誤解を恐れずに言えば、非常に危険なことなのである。



 それはなぜかというと、以前も述べたように、憲法は国家の基本法であり、あらゆる法の頂点に君臨するものである。ハンス・ケルゼン風に言えば、憲法は根本規範(Grundnorm)なのである。つまり、憲法に反するあらゆる法規は無効になり(憲法98条)、憲法に反することは許されない。

 憲法が理想を体現したものとなると、法体系の頂点が理想で固められた存在となるので、憲法の下位法は全て憲法の理想と一致したものでなければならなくなる。しかし、スレンダーな体が理想でも現実には贅肉がついているというように、現実と理想が異なってくる現象は往々にして起こりうることである。

 だが、法律をはじめとした憲法の下位に位置づけられる法規は、現実への対応を余儀なくされることが多々ある。法の支配(rule of law)を実効たらしめるには、現実に即した柔軟で迅速な法の制定、改正が不可欠である(現在起こっている経済・金融危機に対する政府の対応や、自衛隊の海外派遣等を想像せよ)。

 つまり、常に理想である憲法に合わせていることはできないし、理想とはそれが今現実にならないからこそ理想なのであって、その理想に現実を合わせて対応しろというのは、無理なことを注文していることになる。憲法が理想を体現したものであるという理解を全面に押し出すと、現実における対応が極めて困難な状況になり、憲法が説く理想に反して、現実社会において大きな混乱が起こるだろう。



 憲法とは、ダイエットに励む女性が掲げる理想のボディと同じものではなく、国家の基本法という性格を有する以上、現実に根ざしたものでなければ、そもそも憲法が有効に作用しないというものだろう。したがって、現実離れした条文に改正のメスを入れるのは当然なのである。もっともダイエットだって、無茶なダイエットが体を壊すことになるので、現実的な減量を提案するだろう。

 では逆に、ドイツでは憲法である基本法が制定以来52回も改正されているが、ドイツはその度に理想から遠ざかっていると言えるのか。そしてドイツがその度に「危険な国」へと舵を切っていると断言できるのか。憲法を改正することすなわち理想の放棄ではないだろうに。



 憲法が制定された当時の国際環境ならびに国内事情と、現在とでは大きく異なっている。つまり、憲法が掲げる理想と、その現実とのギャップが拡大しているということになる。

 しかし、先に述べたように憲法は単に理想が羅列された文章なのではなく、国家の基本法としての性格を有するため、理想ばかりを高々と掲げていればいいというわけではなく、現実に即した改正も必要なのだ。憲法を現実も見据えた法典に変えることは、実は立憲主義の維持のためにも重要なことなのだ。そのためには、ときには理想が現実に譲歩しなければならないこともある。

護憲派の通らない論理

2009年05月05日 | 憲法関係
自民、憲法審査会の早期始動を=共産、社民は改憲阻止に全力(時事通信) - goo ニュース

 憲法記念日の3日、与野党幹部が各地で開催された集会に出席し、改憲、護憲の立場からそれぞれの見解を表明した。自民党は、2007年5月の国民投票法成立に伴い衆参両院に設置された憲法審査会を早期に始動すべきだと主張。共産、社民両党は改憲を阻止する考えを強調した。
 自民党の小池百合子元防衛相は都内で開かれた改憲派の集会で、野党各党の反対で憲法審査会での論議が始まらないことに不満を示し、「審査会の空転は国会議員、政党の不作為だ」と民主党を批判。自民党の伊吹文明元幹事長も京都市内の討論会で「(憲法改正に)賛成と反対の意見を持ち寄らないと議論が始まらない」と審査会の早期始動を求めた。
 これに対し、共産党の志位和夫委員長は都内で開かれた護憲派集会で「審査会を始動させて、憲法改正原案を作ろうという動きが起こっている。こうした逆流を許さず、憲法9条を守る揺るぎない国民的多数派を作ろう」と呼び掛けた。
 社民党の福島瑞穂党首も同じ集会で「憲法を変えようという野望を捨てない自公政権を許すわけにはいかない。審査会を動かさないために全力を挙げる」と強調した。



 予てから批判しているが、護憲派は正々堂々と同じ土俵に上がって勝負をするという気がないらしい。護憲派の取っている「戦法」は卑怯である。志位は審査会すら始動させないと言う。福島も審査会を動かさないために全力を挙げると言う。しかしそれは通らない論理というものだ。なお憲法審査会とは、「日本国憲法及び日本国憲法に密接に関連する基本法制について広範かつ総合的に調査を行い、憲法改正原案、日本国憲法に係る改正の発議又は国民投票に関する法律案等を審査するため、各議院」に設置されるものである(国会法102条の6)。

 憲法審査会は、平成19年8月7日同条の規定により衆議院に設置されることになっている。しかしながら野党の不毛な反対によって、「現時点では本審査会の員数、議事手続等の詳細を定める「衆議院憲法審査会規程(仮称)」は制定されておらず、委員の選任もなされていません。」(衆議院HP)という惨憺たる状態だ。

 そもそも、審査会が始動したことによって、憲法改正に直結するわけではない。憲法改正に至るまでには多くのステップを踏まなければならない。その詳細については内閣府の「国民投票法」って何だろう?を参照して欲しい。

 にもかかわらず、審査会の始動すら、なかば力ずくで阻止しようとするこれら護憲政党は、護憲の名の下に国民の最大の権利である国民投票権の行使すらさせないというのが、果たして彼らが守ろうとしている憲法の理念に照らして適っていることなのか、考えてもらいたい。憲法制定権力は国民に帰属する(通説)という考えに従えば、憲法審査会の早期始動(始動可能年から既に2年も経過している。)は国民と憲法との関係からして、当然のことである。



 憲法改正に反対ならそれで結構。だが、改正するかしないかを最終的に決定するのは国民である。そうであるならば、国民の代表者で組織される国会に所属する議員らは、自分たちの中で改正賛成・反対だのと言い争うのではなく、定められたルールに則って、憲法改正の発議を行い、憲法の運命は国民に委ねなければならない。

 その結果、たとえ護憲派が守ろうとしている憲法9条が改正されたとしても、それが国民の意思であるし、改正されなかったら、それが国民の意思である。しかし、今護憲政党のしていることは、相手の手足を縛り、口を塞いでいるようなものだ。そしてそれを平和や人権の名の下に正当化しようとしている。民主主義とは相いれない、極めて野蛮な行為だ。これら護憲政党の卑怯なやり方こそ糾弾されなければならない。



 ところで福島は、「憲法を変えようという野望を捨てない自公政権」と言うが、たとえ自公政権がそのような「野望」とやらを持っていても、憲法を変えるか変えないかを最終的に判断するのは国民である。つまり、国民が自公の「野望」に対し、ノーを突きつければ、その「野望」が実現することはない。こんなことは一度でも憲法に目を通したことがある人だったら誰でも分かりそうなものだが、彼女のオツムでは理解できないらしい。

 思うに、護憲政党の腹の内は、国民を見下し、下に観る考え方、つまり、自分たちこそが本当に憲法の意味を理解しているインテリであり、憲法について理解のない国民の投票によって憲法が変えられるのは危険である、と。だから国民の最大の権利行使である国民投票すらさせない。

 もし国民の憲法観を信頼しているならば、正々堂々と憲法改正案を与党や民主に提出させ、その上で現憲法の正当性ならびに正統性を説き、国民のマジョリティーを形成するのが、健全な護憲政党の姿というものだ。だが、今彼らがやっていることは全くもって理解し難い暴挙である。だから最初に「卑怯」と言ったのだ。



 今年の憲法記念日に産経新聞の「昭和正論座」に掲載された香山健一氏の以下の言葉は、まさに正論である。


 「いかなる憲法にせよ、その条文を絶対神聖にして批判すべからざるものとし、その改正について論ずることをタブーとするとき、その精神態度は一瞬にして反動的、独裁的なものに転化してしまうことになる。」

 「憲法改正をタブー視し、それに関する言論・思想の自由を蹂躙しながら、護憲について論ずることは、思考力の極端な衰弱か、しからずんば途方もない偽善としか言いようがない」


 この論考が掲載されたのは今から34年も前である。しかし、今こうして見てみると、現在の護憲政党にまるっきり当てはまる。彼らがその「進歩的」な思想とは裏腹に、香山氏の指摘は、彼らの態度がいかに進歩していないか、如実に現わしている。

 護憲を訴えたいなら、対立する主張にも耳を傾けなければならない。現憲法を絶対視し、これを変えることをタブー視することは、彼らが嫌悪してやまない戦前の軍国主義と同じ発想であることを指摘しておく。

「憲法記念日」に寄せて―現憲法下における体制と反体制とは―

2009年05月03日 | 憲法関係
9条改正 反対64%、賛成26% 朝日新聞世論調査(朝日新聞)

 3日の憲法記念日を前に、朝日新聞社が実施した全国世論調査(電話)によると、憲法9条を「変えない方がよい」が64%に達し、「変える方がよい」は26%にとどまった。憲法改正が「必要」とする人は53%いるが、その中で9条を「変える方がよい」とする人は42%、「変えない方がよい」が49%だった。
 調査は4月18、19日に実施した。
 9条に対する意見は、安倍内閣時代の07年4月に「変えない方がよい」49%、「変える方がよい」33%だったのが、福田内閣のもとでの昨年4月調査では66%対23%と差が大きく広がった。今回も昨年から大きな変化はなかった。
 9条を「変える方がよい」と答えた人(全体の26%)に、どのように変えるのがよいかを二つの選択肢で聞くと、「いまある自衛隊の存在を書き込むのにとどめる」が50%、「自衛隊をほかの国のような軍隊と定める」が44%と意見が分かれた。
 憲法全体について聞いた質問では、「改正必要」が53%で、「必要ない」33%を上回った。07年は58%対27%、昨年は56%対31%だった。



 このような世論調査の欺瞞性については昨年の憲法記念日に「最近の朝日は看過できない その2」において論破したように、9条の1項と2項を一緒くたにして質問をしているため、改憲派の改憲案である、9条1項は残し、2項の戦力不保持という規定を変えて、自衛隊を自衛軍とするという主張への賛否を正確に反映できていないため、こうした「世論調査」をいくら繰り返したところで無意味である。

 私の論理を裏付けるものとして、先日内閣府が行った、ソマリア沖への自衛隊派遣についての世論調査では、東アフリカ・ソマリア沖の海賊対策に自衛隊が参加することについて、「取り組んでいくべきだ」が27.8%、「どちらかと言えば取り組むべきだ」が35.3%で、「肯定派」が6割を超えた(毎日新聞)。

 さらに、このとき内閣府が同時に行った世論調査では、自衛隊の印象について、「良い印象を持っている」との回答が80.9%、もし日本が外国から侵略された場合、どうするか聞いたところ、「何らかの方法で自衛隊を支援する」と答えた者の割合が48.9%と最も高かったこと、日本の安全を守るためにはどのような方法をとるべきかという質問においては、「現状どおり日米の安全保障体制と自衛隊で日本の安全を守る」と答えた者の割合が72.1%を記録したことなどからも言えよう。

 つまり、多くの国民の意識は、自衛隊を憲法違反の存在とは捉えておらず(この時点で国民の多くが朝日の世論調査のような考えだとしても、「9条の会」のような考えにも、同時に与しないということになる。)、ただ、9条の「戦争の放棄」は変えるべきではない、と考えているという姿が見えてくる。こうした国民の多くの考え方は、2年前の憲法記念日に当の朝日自身が述べたように、「国民の多くは『憲法か、自衛隊か』と対立的にはとらえていない」のである。

 だからこそ、9条の1項と2項を一緒くたにした聞き方をしたら、国民の多くは「9条を変えるべきではない」と回答するに決まっている。私だって9条1項の侵略戦争の放棄についての条項は残すべきだと思っているぐらいだ。これでは、国民はいつになっても改憲派の正確な主張を知ることができない。

 なので、この世論調査の結果を、「9条の会」などの「護憲カルト集団」が自身の主張の正当化のための根拠として用いることはできない。「9条の会」をはじめとした多くの護憲派と呼ばれる者達は、自衛隊の縮小と日米安保撤廃を望んでいる。

 しかし上記の内閣府の世論調査によれば、「日米安全保障条約をやめ,自衛隊も縮小または廃止する」と答えた者の割合が4.7%にとどまっており、自衛隊の防衛力についても、「今の程度でよい」と答えた者の割合が61.8%と、サイレント・マジョリティーは決して「9条原理主義」ではないことが分かる。したがって、9条護憲派がこの調査結果をもって、「自分たちが正しい」と言うことは、世論を読み違えているということになる。



 唐突だが、「憲法」とは一体何か。それは国家の基本法である。ドイツでは憲法のことを「ボン基本法」と呼んでいる。「基本法」ということは、それが国家の最高法規であって、ゆえに法のヒエラルキーの頂点に君臨し、憲法に反する法は全て無効になる(憲法98条において、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と規定されていることからも、このことが窺えよう)。

 何が言いたいのか。つまり、日本においては、実は我々のような立場が「反体制」であって、国家に存在する法の頂点を死守しようとしている左翼・リベラル勢力こそが「体制派」なのである。

 現在の憲法は、作成したのがGHQの中でも特にリベラルで、当時アメリカで一定の影響力を持っていた「ニューディール左派」であったぐらいなので、左翼・リベラル=体制派にとって実に都合よく出来ている。人間、自分たちに都合のいいものは守ろうとするに決まっている。



 たとえば労働三権(憲法28条)。神戸大学の大内伸哉教授によれば、労働三権すべてを憲法レベルで保障したのは、日本国憲法制定当時ではどこにもなく、日本だけであり、アメリカでは現在でも労働三権は憲法よりも下位の法律レベルで保障されるにとどまっているという。

 それから改正条項(憲法96条)。憲法を改正するには、「各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。」憲法改正を発議するだけで、このハードルの高さである。これもまた、護憲を標榜する左翼・リベラル勢力にとって実に都合がいい。だからこそ、55年体制下では、社会党が各院の3分の1以上を占めていたから、憲法改正が実現できなかった。

 そして何と言っても、憲法9条。

 このように、国家の基本法たる憲法が左翼・リベラル勢力にとって非常に都合のいいシロモノである以上、これに抗う我々のような改憲派こそが、体制に立ち向かう勢力であって、世間で認識されているような、体制=保守・右派、反体制=左翼・リベラルという構図との齟齬がここで明らかになった。



  憲法9条に関して言えば、あの条文を一般人が素直に読めば、通説の言うように自衛隊を否定し、一切の軍事力は違憲ということになりかねない。このような、軍事力に関して非常にシビアな(というか否定的な)憲法が法体系の頂点に君臨している以上、自衛隊法や○○特措法などの下位法でいくら自衛隊を普通の国の軍隊と同列にしようと、そこには必然的な限界が内包されている。

 だから、政府や改憲派は当面の間、解釈改憲(いかに9条を骨抜きにするか。)によってこれを乗り切ってきたが、ソマリア沖への自衛隊派遣や北朝鮮のミサイル問題等を見ていると、これも限界になっているように思える。

 はっきり言って、本当のところ、左翼・リベラル勢力にとって、このような下位法による9条の骨抜きなど、痛くもかゆくもないのだろう。だって、憲法という法のヒエラルキーの頂点は、常に自分たちの味方なのだから。

 だからこそ、護憲派勢力は違法状態を故意に作出してまでも、国民投票法によって規定された憲法審議会の開催を引き延ばしているのだろう。おそらく体制派=護憲派は、私がさきに述べたようなサイレント・マジョリティーの考えは理解し、これを一番恐れている。なので、わざとあのような姑息な聞き方をして、憲法改正議論の熱を冷まそうとしているのだろう。

 結局のところ、改憲派ができることはと言えば、その改憲の真意をきちんと正確に国民に伝え、9条に関する上記のような誤解を解き、粘り強く説得を続けるのしかないのだろう。



 こういうことをいつも書いてきて思ったことがある。それは、正義とは、正しいことを言っていることではなく、顔の皮が厚く、声がデカイ勢力が正義になるのだ、ということだ。