山本太郎議員を聴取 閣僚、与野党は批判の嵐…議員辞職要求も(産経新聞) - goo ニュース
山本太郎参院議員(無所属)が秋の園遊会で天皇陛下に手紙を渡した行為について1日、閣僚や与野党幹部から、「(天皇の)政治利用そのもので、議員辞職ものだ」(下村博文文部科学相)などと、批判が相次いだ。自民党の脇雅史参院幹事長は党役員連絡会で、山本氏が辞職しない場合は辞職勧告決議案の提出を検討すべきだとの考えを示した。
参院議院運営委員会は同日午前の理事会で、山本氏に対する処分をめぐり対応を協議。岩城光英委員長らが山本氏を国会内に呼び、事情を聴取した。山本氏はこの後、記者団に対し「マスコミが騒がなければ、政治利用といわれることはなかった。議会の沙汰があれば受け止める」と述べ、自ら辞職する考えがないことを強調した。
古屋圭司国家公安委員長は記者会見で「常軌を逸した行動だ。国民の多くが許されざる行為だと怒りをこめて思っているのではないか」と批判。新藤義孝総務相は「皇室へのマナーとして極めて違和感を覚える。国会議員ならば、新人とはいえ自覚を持って振る舞ってほしい」と語った。安倍晋三首相も周囲に「あれはないよな」と不快感を示したという。
与野党でも厳しい意見が上がり、自民党の石破茂幹事長は記者会見で「見過ごしてはならないことだ」と言明。公明党の井上義久幹事長は「極めて配慮に欠けた行為だ」と指摘した。
日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)は市役所で記者団に対し「日本の国民であれば法律に書いていなくてもやってはいけないことは分かる。しかも国会議員だ。信じられない」と批判を強めた。民主党の松原仁国対委員長も記者会見で「到底許されない」との認識を示した。
今回彼がとった行動を「天皇陛下の政治利用」と位置付けるならば、まずは何をもって「政治利用」となるのか、すなわち、「政治利用」の定義を行う必要があるかと思います。
とはいうものの、この定義は非常に難しいと思われますので、これまで天皇陛下の政治利用が問題になった事例を踏まえつつ、定義をするほかないでしょう。
ここではその具体例を逐一挙げることはしませんが、私なりに定義すれば、天皇陛下の政治利用とは、「天皇陛下の持っている影響力・権威を笠に着て、自身の政治的イデオロギーに対する正当性を確保・担保しようと試みること」と定義できるのではないでしょうか。
政治にイデオロギーはつきものですし、それに立脚して行われるのが政治でしょう。そして、利用とは、その字からも分かるように、何かを「用」いることにより、「利」益を得ることでしょう。こうした「政治」と「利用」の言葉の意味からも、天皇陛下の政治利用を上記のように定義することは妥当ではないかと考えます。
以上の定義と憲法上の天皇陛下の政治的中立性の要請を踏まえ、今回の彼のとった行動が天皇陛下の政治利用に該当するか否か、考えてみたいと思います。
まず、彼は政治家であり、その信条は脱原発です。ということは、渡した手紙の文面がどのようなものであれ、そこにおいて原発問題を取り上げている以上、その手紙には彼の政治的スタンス・イデオロギーが反映されていると考えるのが普通ではないでしょうか。
次に、マスコミも同席し、各方面から名士たちが招待された園遊会という場で、このような手紙を渡すという今回の彼の行動は、いわば「場を利用した」売名行為とまではいかないにせよ、自身の政治活動の宣伝行為と取られても仕方ないでしょう。
そして、天皇陛下に(直接)手渡すという行為は、少なくとも表面的には、天皇陛下の有する影響力・権威を「利用して」、政治を動かそうと試みたものと理解されるものです。
そもそも、さすがの彼も、天皇陛下に政治的権能が存在しないことは知っているでしょう。原発問題は政治がどうにかすべき問題です。そうである以上、政治的権能を有していない天皇陛下に手紙を渡しても、何か具体的に原発問題が進展するわけではないでしょう。というか、天皇陛下の政治的中立の要請を考えれば、このようなことで原発問題を動かすべきではありません。手紙を渡す相手を間違っています。渡すならば、せめて内閣総理大臣の安倍晋三氏に対してでしょう。
このように考えると、純粋な気持ちの発露からではなく、彼は「わざと」天皇陛下に対して手紙を渡すことで、その影響力を利用して、自分のやっていることの正当性にお墨付きを得ようとした(箔をつけようとした)、あるいは天皇陛下の存在を利用して原発問題を自分の描いたシナリオに沿って進めようとしたからこそ、彼はこうした行動をとったのではないでしょうか。
したがって、彼が今回やったことは、紛れもなく天皇陛下の政治利用といえるのではないでしょうか。少なくとも、政治利用とまで断言できないにしても、天皇陛下のお立場、園遊会の趣旨等を考えれば、TPOを弁えていないのは言うまでもなく、かつ極めて幼稚で不適切極まりない愚挙だったことは間違いありません。
脱原発を訴えるのは大いに結構です。しかし、これまで述べてきたように、今回の彼の行動は論外です。
山本太郎参院議員(無所属)が秋の園遊会で天皇陛下に手紙を渡した行為について1日、閣僚や与野党幹部から、「(天皇の)政治利用そのもので、議員辞職ものだ」(下村博文文部科学相)などと、批判が相次いだ。自民党の脇雅史参院幹事長は党役員連絡会で、山本氏が辞職しない場合は辞職勧告決議案の提出を検討すべきだとの考えを示した。
参院議院運営委員会は同日午前の理事会で、山本氏に対する処分をめぐり対応を協議。岩城光英委員長らが山本氏を国会内に呼び、事情を聴取した。山本氏はこの後、記者団に対し「マスコミが騒がなければ、政治利用といわれることはなかった。議会の沙汰があれば受け止める」と述べ、自ら辞職する考えがないことを強調した。
古屋圭司国家公安委員長は記者会見で「常軌を逸した行動だ。国民の多くが許されざる行為だと怒りをこめて思っているのではないか」と批判。新藤義孝総務相は「皇室へのマナーとして極めて違和感を覚える。国会議員ならば、新人とはいえ自覚を持って振る舞ってほしい」と語った。安倍晋三首相も周囲に「あれはないよな」と不快感を示したという。
与野党でも厳しい意見が上がり、自民党の石破茂幹事長は記者会見で「見過ごしてはならないことだ」と言明。公明党の井上義久幹事長は「極めて配慮に欠けた行為だ」と指摘した。
日本維新の会の橋下徹共同代表(大阪市長)は市役所で記者団に対し「日本の国民であれば法律に書いていなくてもやってはいけないことは分かる。しかも国会議員だ。信じられない」と批判を強めた。民主党の松原仁国対委員長も記者会見で「到底許されない」との認識を示した。
今回彼がとった行動を「天皇陛下の政治利用」と位置付けるならば、まずは何をもって「政治利用」となるのか、すなわち、「政治利用」の定義を行う必要があるかと思います。
とはいうものの、この定義は非常に難しいと思われますので、これまで天皇陛下の政治利用が問題になった事例を踏まえつつ、定義をするほかないでしょう。
ここではその具体例を逐一挙げることはしませんが、私なりに定義すれば、天皇陛下の政治利用とは、「天皇陛下の持っている影響力・権威を笠に着て、自身の政治的イデオロギーに対する正当性を確保・担保しようと試みること」と定義できるのではないでしょうか。
政治にイデオロギーはつきものですし、それに立脚して行われるのが政治でしょう。そして、利用とは、その字からも分かるように、何かを「用」いることにより、「利」益を得ることでしょう。こうした「政治」と「利用」の言葉の意味からも、天皇陛下の政治利用を上記のように定義することは妥当ではないかと考えます。
以上の定義と憲法上の天皇陛下の政治的中立性の要請を踏まえ、今回の彼のとった行動が天皇陛下の政治利用に該当するか否か、考えてみたいと思います。
まず、彼は政治家であり、その信条は脱原発です。ということは、渡した手紙の文面がどのようなものであれ、そこにおいて原発問題を取り上げている以上、その手紙には彼の政治的スタンス・イデオロギーが反映されていると考えるのが普通ではないでしょうか。
次に、マスコミも同席し、各方面から名士たちが招待された園遊会という場で、このような手紙を渡すという今回の彼の行動は、いわば「場を利用した」売名行為とまではいかないにせよ、自身の政治活動の宣伝行為と取られても仕方ないでしょう。
そして、天皇陛下に(直接)手渡すという行為は、少なくとも表面的には、天皇陛下の有する影響力・権威を「利用して」、政治を動かそうと試みたものと理解されるものです。
そもそも、さすがの彼も、天皇陛下に政治的権能が存在しないことは知っているでしょう。原発問題は政治がどうにかすべき問題です。そうである以上、政治的権能を有していない天皇陛下に手紙を渡しても、何か具体的に原発問題が進展するわけではないでしょう。というか、天皇陛下の政治的中立の要請を考えれば、このようなことで原発問題を動かすべきではありません。手紙を渡す相手を間違っています。渡すならば、せめて内閣総理大臣の安倍晋三氏に対してでしょう。
このように考えると、純粋な気持ちの発露からではなく、彼は「わざと」天皇陛下に対して手紙を渡すことで、その影響力を利用して、自分のやっていることの正当性にお墨付きを得ようとした(箔をつけようとした)、あるいは天皇陛下の存在を利用して原発問題を自分の描いたシナリオに沿って進めようとしたからこそ、彼はこうした行動をとったのではないでしょうか。
したがって、彼が今回やったことは、紛れもなく天皇陛下の政治利用といえるのではないでしょうか。少なくとも、政治利用とまで断言できないにしても、天皇陛下のお立場、園遊会の趣旨等を考えれば、TPOを弁えていないのは言うまでもなく、かつ極めて幼稚で不適切極まりない愚挙だったことは間違いありません。
脱原発を訴えるのは大いに結構です。しかし、これまで述べてきたように、今回の彼の行動は論外です。