ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

安心するのは時期尚早‐改正児ポ法

2014年05月24日 | 二次元(児童ポルノ規制)
児童ポルノ所持、罰則適用1年猶予…5党合意(読売新聞) - goo ニュース

 自民、公明、日本維新の会、民主、結いの5党は、子どものわいせつな写真や画像などの児童ポルノの所持について、罰則適用の猶予期間(1年間)を設けたうえで禁止することで大筋合意した。児童ポルノ禁止法改正案の今国会での成立を目指す。
 自民、公明、維新の会の3党は昨年5月、「自己の性的好奇心を満たす目的」で児童ポルノを所持した場合、「1年以下の懲役か100万円以下の罰金」を科す罰則規定を盛り込んだ児童ポルノ禁止法改正案を国会に提出したが、出版社団体などの反発で継続審議となっていた。
 5党は今回の合意を踏まえ、改正案を一部修正する。法施行日から1年間、罰則適用を見送るのは、すでに児童ポルノを持っている個人や、児童ポルノを扱っていた出版社、書店などが在庫を処分するなどの対応を取る時間を与える狙いがある。



 最近は忙しくてこのブログ自体ほとんど更新できていませんでしたが、これは看過できない報道です。しかし、「二次元規制はしない」という今回の報道を受け、一部からは安堵の声が聞こえていますが、安心するのは時期尚早だと思います。穿った見方をすれば、むしろそうした安堵感は法案推進派に隙を与えかねません。私は今回の改正は、本丸の二次元規制を行うための一里塚とみています。


 まず、今回の改正は現行法よりも規制を強化するものであります。そうしたことを考えると、96年に改正前の児ポ法が制定されたとき、各地の書店等で起こった騒動を想起せずにはいられません。すなわち、自主規制です。

 当時、法律の施行と同時に、大手書店からは18歳未満の登場人物の性描写が描かれたコミック類を一斉に売り場から撤去しました。これには制定前に二次元規制もされるのではないかとの憶測が業界に広がったからという背景がありますが、今回の改正議論において、マンガ類はおろか宮沢りえの写真集まで標的になった経緯を考えると、各地の書店で当時のような自主規制が再度行われる可能性は十分にあります。

 むしろ、この自主規制こそが厄介なのです。というのは、もし大手の書店が自主規制を始めるとなると、業界全体が右に倣えになるからです。そうなれば、結局法規制をしたのとほぼ同じ結果に至ることになります。しかも自主規制の厄介なところは、野放図に無制限に広がる危険性があるところです。

 そして、この自主規制こそが、法案推進派の狙いともいえるのではないでしょうか。すなわち、「今回は勘弁してやったんだ。次同じ問題が出てたら、どうなるか分かるよな?」という暗黙の圧力を示したとも受け取れます。

 そもそも、改正の経緯を見ている限り、推進派の本音は二次元規制にあるのは間違いないですし、隙あらばまたいつ息を吹き返すか分かりません。しかも、東京都の件の条例を見ればわかるように、児ポ法というかたちを採らなくとも、二次元規制はいくらでも可能なのです。したがって、条例レベルでも、今回の児ポ法改正が及ぼす影響を注視していく必要があります。


 
 しかも、単純所持が罰せられるという点では改悪に間違いありません。児童ポルノの定義の曖昧さもさることながら、罰則の条件の「自己の性的好奇心を満たす目的」で所持した場合という定義では、刑事罰を科すにはあまりに抽象的であり、これについては私のブログでもこれまで批判してきました。

 つまり、興奮、刺激、羞恥心という個人差の大きい心理的反応を基礎とするわいせつ概念が不明確であり、表現行為に対する恣意的処罰の危険性が出てくるというものです。このような抽象的な定義の場合、結局児童ポルノを所持していればこれを満たしていると判断されかねず、罰則としての条件を満たしていないものといえます。

 刑事罰を科す以上、公権力による恣意的な運用を防止するために、その発動においては明確かつ具体的な要件を設けるべきなのは、法治国家である以上当然のことです。しかし、何度も繰り返しますが、上のような定義ではそれを満たしていないのです。

 これについてはこれまでも弁護士らをはじめ方々から批判されてきたにもかかわらず、全く改善されないまま改正について合意されたのです。全く安堵をしていい理由などありません。

 公権力による恣意的な運用がなされる危険性は全く除去されていないという点につき、声を大にして言い続ける必要があります。

小保方晴子さんについて

2014年05月23日 | 倫理・道徳関係
STAPまた疑義…小保方氏側「理解できない」(読売新聞) - goo ニュース

 理化学研究所の調査委員会が研究不正があったと認定した STAP スタップ 細胞の論文問題で、理研内の一部の研究者から「調査委が調べなかった新たな疑義がある」との指摘が5月上旬、理研本部に寄せられていたことが分かった。
 理研本部は「すでに不正ははっきりしている」として、追加調査は不要としているが、外部有識者による理研改革委員会は22日、調査の徹底を求めた。

 理研関係者によると、英科学誌ネイチャーに掲載された2本のSTAP論文に対し、数件の疑義の指摘があった。小保方晴子ユニットリーダーらが所属する理研発生・再生科学総合研究センターの研究者の一部が、自主的に2本の論文を調べ直したという。
 2本の論文のうち、1本はマウスのSTAP細胞の作製を示す論文で、もう1本はその成果を土台にして、極めて高い万能性を持つことを補足した論文だった。
 調査委が4月1日、画像データに 捏造 ねつぞう 、改ざんがあったと発表したのは、土台となった論文だけだったが、新たな疑義の対象には、STAP細胞が胎盤に変化する能力があることを示した補足論文の画像データも含まれている。
 この画像はSTAP細胞がES細胞(胚性幹細胞)など従来の万能細胞よりも、受精卵に近い状態に戻ることを示す重要なデータ。理研はSTAP細胞が存在する可能性を示す根拠として、検証実験で確かめる方針を明らかにしていた。



 
 私は疑義が出てマスコミから批判され出した当初は、小保方さんを応援していました。しかし、今思うと、当初は散々リケジョの星だの持ち上げておきながら、疑義が続出した途端に原口元総務大臣ばりの高速手のひら返しで批判しだしたマスコミに対する反発でしかなかったように思えてきました。以下、自分の考えを整理するために、小保方晴子さんについて少し書いてみたいと思います。


 私の小保方さんへの応援の思いが失望の念に変わったのは、4月9日に彼女が行った記者会見を見てからでした。記者会見を見ての私の率直な印象というか感想は、科学による証明をあきらめて、同情論で世論を味方につけた上で、不正認定を行った理研との法律・弁論による論争に持っていこうとしているな、というものです。

 科学者であるならば、法律家みたいに理屈をこねくり回す(=理研の調査の方法・内容について論理を並べて反論する)のではなく、みんな言っているように、STAP細胞の再現実験に成功してみせればいいのです。もっとも、法律家のように詭弁を弄したのは、件の弁護士の入れ知恵でしょうが。

 誰も頼んでいないのに、あれだけ威勢よく記者会見で断言したんです。しかも、再現実験が見たいならどこへでも行くとまで言ったのだから、四の五の言っていないでSTAP細胞を作ればいいと思います。そうすれば、下手に法律論紛いに詭弁を弄して理研を非難するよりも、よほど効果的かつ絶対的な反証になります。私を含めた批判者を一気に黙らせることもできますし、小保方さん自身の汚名も晴れます。

 それなのに、どうして彼女は一向に再現実験をして見せようとしないのでしょう。今は体調が悪くてそれどころではない、とか、そういうことは理由になりません。体調が優れないのも、すべて私のような批判者がいるからでしょう。痴漢冤罪のように、ないものをないと立証する悪魔の証明ではないのです。「STAP細胞はある」ということを、口先だけではなく、実験して証明して見せれば問題のすべては春先の淡雪のようにすぐに消えてなくなくのです。

 むしろ、小保方さん側の言動をみていると、悪魔の証明を課しているのは小保方さん側でしょう。これはやり方として卑怯です。いとも簡単に万能細胞ができると意気揚々と論文を公表したのですし、まずもって証明責任を課せられるのは「あると言っている側」です。とはいえ、現在の状況を見ている限り、小保方さんは「限りなくクロに近いグレー」であるのは間違いないでしょう。


 また、厳しい言い方をしますと、実際にSTAP細胞があるかないか以前に、本人も杜撰と認めていますが、こういう非常に杜撰な、否、杜撰では済まされない捏造の類の論文を公表することは研究者として失格なのです。これは、同じ研究者(理系も文系も関係なく)にとって、いい迷惑です。彼女のやったことは、研究者に対する冒涜と言っても私は過言ではないと思います。

 現在の彼女の置かれている状況は、将棋で言えば完全に積んだ状態です。潔く研究者を辞めるべきです。少なくとも今回の研究からは手を引くべきです。それが「研究者」としてのケジメのつけ方です。もっとも、あの程度の研究ノートしか本当に書けないとするならば、研究者の職自体から身を引くべきともいえます。「若手だから」と擁護する向きもありますが、若手といっても30歳です。これぐらいの責任の取り方はするべきです。



 この期に及んで、まだ理研の処分の適否について批判を加える小保方さんサイドを見ていると、みっともない真似はよせと言いたくなります。理研の決定にどうやって反論するべきか。法律論ではありません。何度も言うように、衆目が納得する再現実験をして見せればいいのです。

 もしSTAP細胞が実際にあって再現実験に成功したとしても、杜撰な論文を公表した責任をとって、その上で職を辞する。当然、共著者も責任を取って最低限の身の処し方としてこの研究から手を引く。きついことを承知で書きましたが、これが小保方さんの採るべき道だと思います。

関電は即刻控訴を

2014年05月23日 | 消費、環境、食品問題
「司法生きてた」勝訴に歓声=原発ゼロへ原告期待―大飯原発差し止め判決(時事通信) - goo ニュース

「差し止め認める」「司法は生きていた」。21日午後3時、福井市の福井地裁前。関西電力大飯原発差し止め訴訟の判決直後、飛び出してきた弁護士が二つの垂れ幕を掲げた瞬間、法廷に入りきれなかった原告らから大歓声が上がった。続いて開かれた原告団の集会で「判決の意義は計り知れない」と声明が発表されると、集まった約110人から大きな拍手が湧き起こった。
 全国の原発差し止め訴訟で、弁護団同士の連携を図っている脱原発弁護団全国連絡会共同代表の河合弘之弁護士(70)は、「42年弁護士をしているが、判決を聞いて泣いたのは初めて。輝かしい成果だ」と感慨深い様子で語った。
 原告で福井市の翻訳業小野寺和彦さん(59)は「全国の原発の再稼働差し止め訴訟で勝訴するために、大きな力になる」と期待を膨らませた。
 福島県富岡町から水戸市に避難し、原告団に加わった木田節子さん(60)は「裁判官の一言一言は、デモや集会の発言の総まとめのようだった。福島のことを忘れていない、たくさんの人の思いが通じた」と声を詰まらせながら話した。
 集会に参加した福井県敦賀市の主婦戸嶋久美子さん(49)には7歳の娘がいる。「大人たちが原発をやめる決断をしないといけない。子どもたちに負の遺産を残してはいけない」と語った。
 福井市の無職石黒弘基さん(69)は「歴史的な瞬間だ」と感激し、「政府は判決を謙虚に受け止めるべきだ。原発は1基も動かす必要はない」と求めた。




 大飯原発差止め訴訟の判決要旨を読みました。結論ありきの、公平の対極にある判決という感想を持ちました。


まず現在の原発の在り方について:

 原発を将来なくすべきかどうかは措くとして、自然エネルギー分では原発の発電量を補えないのは数値上客観的に明らかなのですから、電力源として原発を当面は使用するというのは現実的な判断、というか致し方ない選択だと思います。

 今の電力割合は非常に歪だと思います。銀行預金で譬えるなら、ある特定の銀行に自分のほぼ全ての現金を預金しているような状態です。この場合、この銀行が破たんしたらどうなるでしょう。電力政策もこれと発想は同じだと思います。

 電力はお金と同じように生きていくうえでなくてはならないものだから、それを確保する手段が一つ潰れたとしても生活していけるように、他の手段を常に複数確保しておく必要があるのではないかと思います。銀行でいえば複数の銀行に預金をすること、電力政策でいえば火力、水力、そして原子力をベストミックスで運用していくことです。

 しかし、今の電力事情は火力にもっぱら依存している状態です。「火力発電銀行」が潰れたら(=停止したら)、生活を続けるのは困難になってしまいます。ただでさえ、現在火力発電所はフル稼働(と言われている)です。こうした状態で「万が一」、火力発電所が停止したらどうるのでしょう。福井地裁は原発の「万が一」は強調する一方で、火力発電所の「万が一」には無関心のようです。

 そもそも、現在の発電事情は、ただただ電気を生むだけのために、他に回したほうが効率的なエネルギー使用になる貴重なエネルギーを浪費してしまっていると思います。これは単純にもったいないことだと思います。しかも、その燃料は海外からの輸入に頼らざるを得ないわけです。だからこそ関電は、裁判において「国富の流出」を主張したのです。



次に「国富の流失」について:

 にもかかわらず福井地裁は、「このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている」と、何ら客観的なデータにもとづかない、「文学的な表現」(中川亮弁護士:彼はこの判決を支持していますが。)を述べるにすぎません。

 こうした文章というのは、「読み物としての判決」としては及第点としても、「問題解決としての判決」としては失格です。

 火力発電のフル稼働による「国富の流出」は、このようなセンチメンタルな文章で語るべき問題ではありません。現在のようなことが今後も続くようであれば、日本の景気回復の腰を折りかねませんし、単純に国内で回るべきお金が外国に流出しているのだから、人々の雇用環境にも影響してくる話ではないのでしょうか。

 福井地裁は、「原発の危険性」については、ゼロリスク論に立脚しつつ詳細に検討する一方で、もう一方の秤に乗せるべき「コスト増加の継続による国富の流出」については、上のような情緒的な表現を示すだけで、詳細に検討した痕跡は判決文には見当たりません。冒頭で私が「公平の対極にある」と批判したのは、まさにこうした理由からです。



 念のため述べておきますが、私は裁判所が「原発の危険性」と「コスト増加の継続による国富の流出」の両者を詳細に検討した結果、大飯原発停止は正当との結論に至ったのであれば、それはそれでいいと考えています。しかし、本判決を読む限り、いわば「コストとベネフィット」を、両者の意見等を斟酌して詳細に検討した結果、大飯原発停止との結論に至ったものとはどうしても思えません。

 したがって、関電が控訴をしたのは当然のことであると考えます。控訴審では司法の天秤が正常に機能することを期待します。