ひとり井戸端会議

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靖国神社参拝問題解決私案

2008年08月31日 | 靖国神社関係
 今回は、現首相には関係のない話ではあろうが、靖国神社参拝問題の解決へのための私案を提示してみたい。なお、首相ならびに閣僚、国会議員等の靖国神社参拝への合憲性に関しては、「内閣総理大臣の靖国参拝に関して」において詳細に検討をしたので、ここでは触れないことにする。



 最初に、私がこの私案を考えるにあたり参考にしたのは、元上海総領事の故杉本信行氏の『大地の咆哮』(PHP、2006年)第12章「靖国神社参拝問題」であることを述べておく。筆者の靖国神社参拝への見解にはいくつか賛同しかねる箇所があったのも事実ではあるが、いわんとしていることの概ねには賛同できたため、これを参考に私案を考えたのである。

 靖国神社参拝問題に関して、日本側が取り得る手段は次のようなものであろう。①中国・韓国の批判に配慮し、参拝を中止する、②靖国神社参拝は憲法違反であるとして参拝を中止する、③靖国神社参拝に他国が容喙することは内政干渉であるとして、批判を突っぱねて参拝を継続する、④国際社会に参拝の正当性を粘り強くアピールしながら、参拝を継続する。



 まず①の案は全く賛同できない。というのは、杉本氏も上記著書の中で述べているが、中国・韓国の批判に屈するかたちで参拝を中止すれば、日本という国は「国の面子を捨てる国」であると誤解され、日本という国は声高に過去のことを盾にしてバッシングをすれば折れる国であると看做される可能性があるためである。このことはひいては国際テロリストがこのような日本側の対応を見て、在外邦人等を人質にしたりして、日本に対し経済的・政治的な要求を突きつけてくる可能性を惹起することにもつながりかねない。他国の要求に従えば、その場しのぎ的には関係の悪化は免れるだろうが、その後日本が蒙るであろうデメリットは甚大なものであろう。



 ②に関しては上記リンク先で論じつくしているのでここでの言及は不要である。③の見解は近時の保守派に多いように見受けられる。確かに中国や韓国の執拗なまでの、それも日本人の素朴な民族感情や文化へ土足で踏み込み、これらを蹂躙するような批判が相次げば、こう言いたくなるのも大いに理解できる。しかしながら、このような批判をしているだけでは、互いに終始水掛け論的に批判し合うだけになり、事態の進展・打開をするにあたり生産的なものとは言えない。今や韓国はともあれ、中国は日本にとって経済的にも政治的にも切っても切れない存在であり、中国へ進出している日本企業にとっては死活的なステークホルダーである。にもかかわらず上記のような主張に固執することは、日本にとっても決して有益なことではないし、日本の国益にも反するものである。よって③の見解にも賛同できない。



 ということで残った選択肢は④であるが、これはそう容易なことではない。何しろ時間がかかるし、もしかしたらいくら説得し、説明を尽くしても国際社会はこれを受け入れないかも知れない。しかし、少なくとも先述した①~③の選択肢の中では一番現実的で妥当なものであると思う。ここで重要なのはその説明の内容と仕方であるが、ここで鍵となるのが本殿左横にある「鎮霊社」である。鎮霊社とは靖国神社社務所が発行しているパンフレット「やすくに大百科」によれば、「靖国神社本殿に祀られていない方々の御霊と、世界各国すべての戦死者や戦争で亡くなられた方々の霊が祀られてい」る場所とある。

 杉本氏も上記著書で述べているように、首相が靖国神社に参拝するときには、あわせて鎮霊社も参拝することによって、中国や韓国が言う「靖国参拝は過去の戦争の美化である」という批判を打ち消し、靖国神社には純粋に大東亜戦争で亡くなった人たちの慰霊・追悼のために参拝していることを強調する。靖国神社参拝の目的は、靖国神社が合祀している個々の御とは関係なく、あくまで祖国や同胞のために犠牲になった戦没者一般を追悼することであり、そして二度と悲惨な戦争を起こさないという平和への思いを込めて参拝していることを説明する。
 その上で政府は神社一般は日本古来から続く民族的な感情を基礎とした鎮霊・鎮魂の場所であることを説明し、日本国民の多くは靖国神社こそが戦没者追悼のための施設として相応しいと考えているということを丁寧に説明する。

 ただし、このときにしてはならないのは、いわゆるA級戦犯を、現在も日本国政府は戦争犯罪人と認識しているということを表明することである。この認識は1952年の戦傷病者戦没者遺族等援護法の制定経緯や、靖国神社に合祀されているいわゆるA級戦犯を含む戦犯とされた者たちに関し、政府が一昨年10月26日に国内法上戦犯ではないとの答弁書を閣議決定していることと矛盾してしまう上に、このことに言及することはわざわざ火中の栗を拾うことになり、要らぬ議論を巻き起こす可能性が考えられるからである。あくまで問題とされるいわゆるA級戦犯は、靖国神社に祀られている246万6千余柱のうちのわずか14名であり、この14名の「ためだけに」首相が靖国神社に足を運び、参拝しているわけではない、ということも重ねて強調しておく必要があろう。
 杉本氏の上記著作によれば、日本遺族会も1986年5月31日に、戦犯の合祀の意味について「靖国神社も国民も、戦犯と呼ばれる人々を特別に顕彰する意図はなく、一軍人として、一公人としての立場において国に殉じたものとして合祀しているのである。これはわが国の民族習俗に基づくもので、民族信仰ともいえる」との声明を出しているのだという。



 これは余談であるが、いわゆるA級戦犯を今も犯罪者のごとく扱う人たちは、たとえば強盗という犯罪を犯したがその後刑期を全うして出てきた人がいるとして、その人をまだ犯罪者扱いして罵り、しかも永久的に非難の対象にすることについてはどう答えるのだろうか。A級戦犯を悪の権化のような存在に祀り上げようとする者たちの多くは左翼であろうが、彼らは犯罪加害者であっても刑期を完了すれば犯罪者ではなくなり、社会に復帰してこれまでどおりの生活を行う資格なり権利があると、今まで繰り返し主張してきたような気がするが、このこととA級戦犯への対応は矛盾しているのではないか。



 いささか楽観的であるかも知れないが、説明を尽くしていれば、いずれそれが日の目を見るときがくるはずだ。いや、仮にその日が来ないとしても、粘り強く繰り返し参拝の正当性を主張し続ければ、少なくとも変な誤解を招き、それが一人歩きして更なる誤解を招くということはなくなるであろうから、深く掘り下げて丁寧に説明することには意味があると思われる。

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