ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

【再掲】 慰安婦問題について

2014年02月28日 | 歴史認識
河野談話 維新、検証機関設置を提案 自民国対委員長 「慎重に対応」(産経新聞) - goo ニュース

 慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の「河野洋平官房長官談話」をめぐり、日本維新の会は25日、衆院議院運営委員会の理事懇談会で、談話の根拠となった元慰安婦16人への聞き取り調査の内容を検証する機関を、国会内に設置するよう提案した。これに対し各党は持ち帰った。
 維新が検証機関を提案したのは、河野氏の参考人招致を実現させ、談話の見直しにつなげるのが狙い。ただ、自民党の佐藤勉国対委員長は25日の記者会見で「慎重に対応する。その答えはすぐに出せる、ということにはならない」と述べた。みんなの党の浅尾慶一郎幹事長は「歴史家に任せた方がよい」と語った。
 維新内には、衆院議運委の下に小委員会を設置し、審議を非公開とする「秘密会」の形式で、16人の証言をまとめた資料を政府に公開させる案が浮上。東京電力福島第1原発事故を検証した「国会事故調査委員会」のような調査機関を設置し、有識者らが加わる案も党内で検討されている。
 談話の検証は20日の衆院予算委員会で維新の山田宏衆院議員が要求し、菅義偉官房長官が「機密を保持する中で検討したい」と答弁。石原信雄元官房副長官は、元慰安婦の証言内容の裏付け調査は行わなかったと明らかにした。



(1)慰安婦とは、その役割

 慰安婦とは一体何なのか。慰安婦が戦時下においてどのような扱いを受けていたかを論じる文献は多かれど、意外にも慰安婦とはどんな存在だったのかを正面切って論じている文献は多くないと思われます。平たく言えば慰安婦とは、戦地における軍人の世話をする女性たちのことです。軍隊を組織するのは男たちであるので、慰安婦の目的は、戦地で過酷な状況下に置かれる男たる軍人の世話をすることによって、「軍規の維持」に貢献することです。

 残念なことに、戦地には、女性と酒がなければ必ず男である軍人は暴走してしまうのです。暴走した軍人は、現地で略奪や強姦などを行いかねません。現に1960年代にコンゴへ、ガーナやインドの軍隊が「国連軍」が派遣されていますが、彼らは国連が派遣した軍隊であるにもかかわらず、現地で略奪・強盗・強姦等の悪逆をはたらいています。そこでこのような事態を防止するために、予め民間業者に慰安婦募集を委託して、それによって連れてこられた女性たちが、慰安婦なのです。

 ところで、実は韓国にも「慰安婦」はいたのです(NHKの籾井会長の言葉を借りるまでもなく、慰安婦の存在は日本だけではなく、世界共通です)。有名な話ではありますが、韓国には在韓米軍専用の慰安婦が存在していたし、韓国人女性研究者が、2002年2月24日に立命館大学で行われたシンポジウムにおいて、韓国軍が慰安所を運営していたということを講演していたと、立命館大学講師(当時)であった山下英愛が、あの「週刊金曜日」において述べているのです。

 この韓国軍が運営していた慰安所は、朝鮮戦争当時に運営されていたものであるといいますが、韓国陸軍によれば、1954年3月までに4箇所で98人の慰安婦が、年間で20万人以上の兵士を相手にしていたのだといいます。日本軍の慰安婦に対する残酷性を指摘するのであれば、むしろこちらのほうが容易に、慰安婦の置かれた環境が苛酷であったことが想像できるでしょう。

 なお、慰安婦を擁護し必要以上に悲惨さを強調する者の中には、慰安婦の数を何十万人などと言っている者もいますが、少なくとも中国大陸に当時いた日本軍の兵士の数は100万人弱といわれており、これではどう考えても慰安婦の数と兵士の数がつり合いません。

 慰安婦の中には当時の平均的な日本人の月給の何十倍も稼ぐ者もいたというから、これでは他の大多数の慰安婦は仕事にあぶれてしまいます。そもそも、こんなに慰安婦がいても、むしろ足手まといであって、兵士の本職である戦闘行為に支障が出るのは明らかです。



(2)「軍の強制」という証拠について

 慰安婦の募集に際し、軍による強制があったと主張する方は未だにたくさんいますが、やはり文書なり物的証拠がない以上、慰安婦が強制連行されたとは言えないでしょう。

 このようなことを言うと、「証拠は終戦時に軍によって処分されている」と言いだす人もいますが、敢えて言いますが、だから何だというのでしょう?それでは、韓国や中国、ロシアはそうした自国にとって都合の悪い「黒歴史」を一切抹殺していないとでも思っているのでしょうか。

 もし本当に彼らの言うように終戦後に軍が強制連行があったとする物的証拠を処分していたとしても、自称元慰安婦の証言だけに基づき謝罪をしてしまうのは愚の骨頂です。なぜならば、証言というのは、あくまでも「事実そのもの」の存在を直接的に証明するために利用されるべきものではなく、そのようなことがあったということを裏付ける補足証拠のうちの一つに位置付けられるべきだからです。

 証言をそのように位置づけないと、たとえば痴漢事件に置き換えて考えてみれば明らかなように、被害者と称する者の証言一つで有罪が確定しまうことになり、これでは法治国家の体をなしていません。証言というのは、事実そういうことがあったらしいということを補足的に証明する証拠に留まるべきです。

とはいえ、実際に痴漢を行った加害者が発覚をおそれ、物的証拠を処分してしまうかも知れません。しかしながら、訴訟上ではもしそういう疑念があるならば加害者が物的証拠を隠滅したという事実を証明しなければなりません。これをさきほどの慰安婦のことに置き換えれば、終戦後軍が処分した書類等の中に本当に慰安婦強制連行に関する書類等があったということを(強制連行があったと主張する側が)証明する必要があるでしょう。

 そして、その証明ができなければ、痴漢なり慰安婦の強制連行なり、そうしたことはなかったと判断するのが近代法治国家間同士のあるべき問題処理の姿です。そうしなければ、証言一つで際限なく被害者を生み出すことができ、そうなってしまうと当事者間の法的関係はいつまでも安定しません。そのような状態に一石を投じるのが、今回の河野談話見直しの動きであると評価できますので、私は河野談話見直しの動きを支持します。

 また、慰安婦が強制連行されてきたと主張する人たちは、軍が慰安婦の募集に関与していたという「事実」を挙げます。

 しかしながら、彼らがときたま「従軍」慰安婦などと呼ぶように、慰安婦が軍の管理下に置かれていたのは今さら言うまでもありません(ただし、当時は「従軍慰安婦」という言葉は存在せず、これは戦後朝日新聞らが作った造語です)。軍人の性の処理をする慰安婦が軍の管理下に置かれていないほうがむしろ不自然ですし、それこそ不埒者による甘言を弄した拉致まがいの「連行」も起こりやすいともいえます。

 そしてまた、軍が民間業者に委託して慰安婦の募集を行っていたという「軍の関与」(こちらについての物的証拠は多数あります)と、軍が強制的に慰安婦を連行してこいとの方針だったという意味での「軍の関与」とでは、全く意味が異なることは誰でも分かるでしょう。

 にもかかわらず、故意に両者を混同し、軍が慰安所の運営に関与していたと結論付けるのは誤りです。後者、すなわち軍が強制的に慰安婦を連行したという物的証拠があるのなら、それを証明する責任は、強制連行があったと主張する側にあります。「なかったこと」を証明する悪魔の証明はほぼ不可能なのですから。

 それではまたこのようなことを言うと、「慰安婦の中には騙されて連れてこられたり、身売りに出されたりした者もいた」と反論するのでしょうが、そのことと軍の関与の肯否とは別問題です。騙されて連れて来られたり身売りに出されて慰安婦になった人がいたとしても、それはその人ないしはその家族と民間業者の問題であって、軍の関与があったかどうかとは別の次元の話です。

 とは言え、余談ですが、私は当人の意思に反して(それがただちに軍の強制を意味すると解するのは論理の飛躍です。)慰安婦になった人がいたのではないかという点まで否定するものではありません。それは辛かったと思いますし、心ならずして慰安婦になった人には同情できる面もあるでしょう。

 しかしながら、(これが慰安婦の実際の姿の全てとまでは断言しませんし、できませんが)慰安婦の中には日本の軍人と恋に落ち、駆け落ちをしたといったエピソードや、家を建てられるほどの大金を手にした慰安婦がいたともいいます(こうしたエピソードの多くも聞き取り調査ですけどね(苦笑))。

 それならば、せめてこうした話も紹介させるべきだし、「客観的な歴史認識」の確立を追求するなら、紹介しなければならないものでしょう。



(3)まとめ

 つまり、慰安婦とは残念ながら朝日新聞らが思い描くような姿ではなかったようです。以下、この話のまとめです。

①日本政府は慰安婦に対する謝罪や補償を既に終えている(慰安婦問題は解決済み)。

②法的に日本政府の責任を追及するのは不可能。にもかかわらず未だにこのようなことを主張するのは、政治運動の一環としてである。

③「軍の関与」=強制連行ではないし、そもそも強制連行自体客観的証拠によって立証されていない。

④日本政府を糾弾する韓国にも慰安所はあった。

⑤慰安婦の置かれていた環境は決して苛酷なものではなく、むしろ給料的にもよいものであった(ただし、一部で不祥事があったことは否定できない)。

「立憲主義」の否定ではない

2014年02月27日 | 憲法関係
憲法解釈変更、4野党が反対=民主「ナチスの手口」―参院審査会(時事通信) - goo ニュース

 参院憲法審査会は26日、憲法の役割などをテーマに討議を行った。安倍晋三首相が意欲を示す集団的自衛権の行使容認のための憲法解釈の変更について、民主、共産、結い、社民の野党4党は反対を表明。自民、みんな、日本維新の会の3党が理解を示した。公明党は、憲法解釈見直しについて明確な態度表明をしなかった。
 討議で民主党の小西洋之氏は「ワイマール憲法があっても人権弾圧を繰り広げたナチスの手口だ」などと首相の姿勢を厳しく批判。共産党の仁比聡平氏は「国会の多数獲得で解釈を自由勝手にできるというなら、憲法の最高規範性を失わせる」と指摘した。結いの党の川田龍平氏と社民党の福島瑞穂氏は「行政が憲法に従う立憲主義の否定」と訴えた。
 これに対し、自民党の丸川珠代氏は「安倍内閣が憲法の規範を無視してるとの批判は当たらない」と反論し、みんなの松田公太氏は「(安全保障を)いつまでも同盟国に頼るわけにはいかない。行使を認めない方がおかしい」と表明。維新の清水貴之氏は、憲法解釈の変更に賛同した上で「法律によって行使の要件を明確にすべきだ」との見解を示した。



 「ナチスの手口」だの「立憲主義の否定」だのと口々に安倍内閣の集団的自衛権の憲法解釈の変更を批判しますが、そういう抽象的でレッテル貼りの類のものではなく、政治家なら(特に安倍総理に「けんぽうクイズ」を出すほど、けんぽうがお得意のこにしくんにおかれましては)もっと中身のある具体的な批判ができないものかと思ってしまいます。彼らは皆、立憲主義の否定と言いますが、それでは「立憲主義」とは一体どのような概念なのでしょう。

 
 立憲主義とは、統治権の濫用から国民の自由・人権を守り、これらを確保するために、統治権を特定の機関に集中させることなく、権力を分立して、とりわけ国民の国政への参加を確保するという点に、その本質があります。つまり、立憲主義とは、国民の権利保障、権力分立、国民の国政参加という各要素から成り立つ概念です(大石眞『憲法講義Ⅰ』25頁以下)。それでは、とりわけ野党や一部マスコミが批判する安倍総理の「憲法解釈の最高責任者は私だ」発言は、この立憲主義の要請に反するものなのでしょうか。

 結論から言うと、私は上記の安倍総理の発言は立憲主義の要請と何ら矛盾することはない、つまり立憲主義に反しないと考えます。また、当然のことながら、安倍内閣が集団的自衛権の行使を容認することも立憲主義には反しません。その理由は以下の通りです。

 まず、そもそも安倍総理は、議会で多数を握れば憲法をどうにでもできるとは一言も言っていません。それに、小松一郎内閣法制局長官が指摘するように、憲法解釈について内閣として見解を示す際の最高責任者は内閣総理大臣に決まっています。内閣法制局は法の番人でも何でもありません。内閣府の一部局に過ぎません。憲法の番人は内閣法制局ではなく裁判所(正確には最高裁判所)です。

 内閣法制局設置法3条によれば、内閣法制局の役割とは、「一 閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて、内閣に上申すること。二 法律案及び政令案を立案し、内閣に上申すること。三 法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること。四 内外及び国際法制並びにその運用に関する調査研究を行うこと。五 その他法制一般に関すること。」であって、憲法の解釈について、これを専権的に決定できるなどとはどこにも規定されていません。

 したがって、そのような存在に過ぎない内閣法制局が、上司である内閣総理大臣を中心に構成される内閣に優先して憲法を解釈できると解するのは、下部組織による越権行為を許すようなものです。先ほど述べた立憲主義の要請からすれば、内閣の憲法解釈に誤りがある場合、これを正すのは最高裁判所の役目であって、内閣法制局ではありません。


 仮に集団的自衛権に関するこれでの解釈が何年にも亘り継承されてきたからといっても、それは集団的自衛権行使容認を否定する理由になりません。伝統的な解釈であればいかなる理由があっても変更することはできないなどと解釈する根拠のほうこそありません。

 とりわけ、国家の存亡に直結する安全保障に関する憲法解釈であれば、伝統的なものだからといって、現状のわが国の置かれている状況を無視し、これまでの憲法解釈を墨守することは自殺行為に等しいはずです。よって、確かに憲法解釈には安定性が担保されるべきですが、そうだからといって現実に即した解釈の変更まで認められないというのは論理の飛躍です。

 冷戦以後、安全保障環境は今さら説明するまでもなく劇的に変化し、従来の自衛権の行使に関する憲法解釈ではわが国を守ることはできないから集団的自衛権の解釈を変更すべきというのは、十分に合理的根拠があるものだといえます。集団的自衛権に限らず、硬直的な法解釈というものは、法に現実を合わせろと言っているようなもので、そうした考えは時として現実社会に混乱をもたらします。

 もちろん、どのような解釈も許容されるというのであれば立憲主義の否定という批判も当たっていますが、法の掲げる理想と現実の要請とをいかにして調和していくかという視点から、憲法は解釈されるべきだと思います。

 そうであれば、集団的自衛権の名の下、無制限に自衛隊の武力行使を容認するのは憲法違反ですが、憲法9条の下認められている専守防衛の理念の下、集団的自衛権が認められる場合を限定列挙し、これらに限って行使を許容するというかたちでの政府の集団的自衛権の解釈は、上記の法の掲げる理想と現実の要請との調和を図るかたちで集団的自衛権を解釈していると評価できます。

 また、こうした集団的自衛権の解釈は、国民の権利や自由を侵害するものでもありません。そして、これまで(最高)裁判所は集団的自衛権に関して憲法解釈(合憲・違憲の判断)を示したこともありません。百歩譲ってこれまで集団的自衛権は憲法上観念できないのに、これを行使しようという解釈であれば立憲主義の否定という批判も首肯できなくもないですが、上記のような価値判断にしたがい憲法解釈を変更するのであれば、何ら立憲主義の原則を損なうものではないでしょう。

 しかも、現在の議会制民主主義制度および違憲審査制度の下では、時の内閣の恣意によって憲法解釈が変更できるなどと考えることのほうが困難でしょう。なお、こにしくんは「ナチスの手口」と安倍内閣の方針を同視しますが、彼はどうやってナチスが権力を掌握していったのか、全く知らないのでしょう。また、彼らのロジックにしたがって安倍内閣が立憲主義を否定しているとすれば、内閣法制局長官を国会答弁から排除し、閣僚自ら憲法解釈を行うとしていた民主党のほうが、よほど立憲主義を否定していたといえるのではないですか。

 したがって、私は安倍総理の発言も集団的自衛権の解釈変更も立憲主義の原則に照らして何も問題ないものと考えます。

朝日や毎日に籾井氏を批判する資格なし!

2014年02月24日 | 偏向マスコミ
籾井氏「失言したのでしょうか」 NHK経営委で発言(朝日新聞) - goo ニュース

 就任会見での政治的中立性を疑われる発言が問題になっている籾井勝人・NHK会長は、今月12日に開かれたNHK経営委員会で、「私は大変な失言をしたのでしょうか」と述べ、発言自体には問題がないとの認識を示していた。25日以降に公開予定の経営委員会の議事録案の概要から、明らかになった。
 籾井氏は、美馬のゆり委員に発言問題の収拾策を問われて、「私的意見を会見で述べたことは大変申し訳ない」と陳謝しつつ、「私の発言の真意とはほど遠い報道がなされている。会見録を通読して欲しい」と強調。美馬氏が既読だと応じると、「それでもなおかつ私は大変な失言をしたのでしょうか」と述べた。
 それに対し、美馬氏が「発言がどうだったかではなく、今後組織としてどう対応していくのかを聞いている」と再質問。籾井氏は「放送で信頼を回復していくことが長い目で見た方向。営業の収入減は、営業でカバーするのが一番の方法。対策をどうするかは、正直よくわかりません」と発言した。



 卒業式等の学校行事において、国旗を掲揚し国歌を斉唱することに反対する教師にはエールを送り、かたや籾井氏の発言は問題視する。同時に百田氏と長谷川氏の経営委員の適格性を問題視する。朝日と毎日のこの二枚舌は一体何なのでしょう。

 要するに、橋下市長をはじめ、多くの方が指摘するように、朝日・毎日は自分たちの見解と相いれないから、政治的中立性が害されると騒いでいるに過ぎないのは明らかですが、政治的中立性を言うなら、私は今回のNHKの件よりも、上で挙げた教師の行為のほうが、遥かに問題だと考えます。

 というのは、籾井氏らの場合、確かに自分たちの政治的スタンスを表明はしましたが、それを職務(=NHKの放送)に反映はさせていませんが、国旗・国歌に反対する教師は、自身の政治的主張を思いっきり職務に持ち込み、学校行事の場を政治運動のための場に利用しているからです。しかも、こういった教師の行為は、教育ならびに公務員の政治的中立の要請に明確に反しています。したがって、政治的中立性を言うのであれば、朝日・毎日はこちらのほうこそ問題にすべきなのですが、こちらは彼らと同じ立場のケースですから、問題視しません。こういう態度を世の中ではダブルスタンダード、もしくは二枚舌と言うのです。


 今回のNHKの件も、本来ならば籾井氏の場合、長谷川氏の場合、そして百田氏の場合、それぞれ事情や経緯が異なるのですから、分けて考えるべきなのです。

 すなわち、籾井氏の場合、確かに彼の件の発言は記者会見という職務の場でなされたものですが、秦郁彦氏によれば、「質疑に移ると、記者団はNHK会長の守備範囲とは言いにくい政治的イシューばかりを選び、集中砲火を浴びせ」、特に悪質極まりない毎日の記者が「揚げ足を取るようだが」とまで言い、再三、質問をかわす籾井氏に政治的発言をするように誘導していったのです(秦郁彦「一途に思い込んだ正義の厄介さ」(産経新聞「正論」))。また、そもそも籾井氏は、「個人的見解」と断りつつ、件の発言をし、「放送法を順守したい」とまで述べました。つまり、籾井氏は政治的発言をしたものの、それはあくまでも「私見」に過ぎず、職務に持ち込むつもりはないとはっきりと述べています。にもかかわらず、朝日・毎日の偏向マスコミは、上記のような教師は問題視せず、籾井氏の発言は問題視します。明らかに矛盾しています。

 長谷川氏の場合などは、籾井氏の場合よりも遥かに問題のないものです。長谷川氏については右翼の幹部への追悼文が問題視されていますが、これはNHKの経営委員に就任する前のことですし、それを今になって蒸し返す意味が分かりません。朝日・毎日に是非訊いてみたいです。もし長谷川氏がNHKに行く途中で「赤旗」を読んでいたり、松井やよりの追悼文を書いていても、同じように問題視したのですか、と。結局、自分たちが気に入らないから騒いでいるだけです。

 ただ、百田氏の場合は、少し考えさせられます。彼の場合、都知事選での特定候補の応援演説はまだしも(これについても同じで、朝日・毎日は共産推薦の宇都宮氏もしくは脱原発派の細川氏の応援ならきっと問題視しなかったのでしょうね。)、対立候補を「人間のクズ」と罵倒しました。これはその表現の攻撃性等を考えると、安倍総理が「私も某夕刊紙からクズと言われている」などと、つまらない冗談でお茶を濁してはいけないと思います。ましてや、言論人であれば、言葉の選択には人一倍気を遣うべきです。さらに、百田氏は最近安倍総理との対談本が出版されるなど、さすがに政治との距離が近すぎます。したがって、個人的には百田氏は罷免をされても仕方ないと考えます。


 とはいえ、3人のケースいずれも職務上なされたものではないのでNHKの政治的中立性とやらが脅かされることはありません。そもそも、政治的中立性とは何なのでしょう。一個人が、政治について(価値)中立なんてことは絶対にないし、まずもってあり得ないと思います(靖国参拝や特定秘密保護法の問題を質問しておきながら、「政治的中立性が害される」とはよく言えたものだと、朝日・毎日のその悪質性には怒りを禁じ得ません。)。

 私は、NHKに求められるのは、経営委員個人の政治的中立性などというものではなく、「NHKの組織としての」「政治的中立性」ではないかと考えます。人の集合体である組織であれば、全体の総和として中立に近づけることは可能でしょう。

 だいたい、経営委員は百田氏と長谷川氏だけではないわけでしょう。彼らと籾井氏の3人だけでNHKを朝日・毎日が懸念するように右傾化できるわけないじゃないですか。数の論理からして当たり前です。むしろ、私の政治的立場からすれば、今までのNHKの報道姿勢は左傾化しすぎていたので、このような保守派の人物を経営陣に迎え入れることにより、左に行き過ぎた振り子を戻し、NHKの組織としての政治的バランスを保つべきだと考えます。

 つまり、各個人がどういう政治的スタンスなのかなどというのは些末な問題であって、NHKを構成する各人によってNHKが組織として政治的中立性を確保できればいいのです。もっと言えば、NHKの件で問題とされるべきは、政治的中立性よりも政治的独立性のほうです。政治的独立性が担保されなければ、時の政権のマイクに成り下がるのは明らかです。経営委員各自がどういった思想の持ち主なのかよりも、政治的独立性が担保されないほうが遥かに危険でしょう。



 政治的に中立とは程遠い朝日・毎日の偏向マスコミのような連中に、政治的中立性を求める資格はありません!