ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

またしても出た「ねじれ」判決

2008年04月18日 | 憲法9条
「空自イラク派遣は憲法9条に違反」 名古屋高裁判断

 自衛隊イラク派遣の違憲確認と派遣差し止めを求めた集団訴訟の控訴審判決が17日、名古屋高裁であり、青山邦夫裁判長は、航空自衛隊が行っている現在のイラクでの活動について「憲法9条1項に違反する活動を含んでいる」との判断を示した。首都バグダッドは「戦闘地域」に該当すると認定。多国籍軍の空輸は武力行使を禁じた同法と憲法に違反すると結論づけた。原告が求めた派遣差し止めと慰謝料支払いについては原告敗訴の一審・名古屋地裁判決を支持し、控訴をいずれも棄却した。
 全国各地で起こされたイラク派遣をめぐる訴訟は、一部は最高裁決定もすでに出ているが、違憲判断が示されたのは初めて。このため、「敗訴」したものの、原告側は上告しない方針を表明している。「勝訴」した国は上告できないため、違憲判断を示した今回の高裁判決が確定する見通しだ。
 判決はまず、現在のイラク情勢について検討。「イラク国内での戦闘は、実質的には03年3月当初のイラク攻撃の延長で、多国籍軍対武装勢力の国際的な戦闘だ」と指摘した。特にバグダッドについて「まさに国際的な武力紛争の一環として行われている人を殺傷し物を破壊する行為が現に行われている地域」として、イラク特措法の「戦闘地域」に該当すると認定した。
 そのうえで、「現代戦において輸送等の補給活動も戦闘行為の重要な要素だ」と述べ、空自の活動のうち「少なくとも多国籍軍の武装兵員を戦闘地域であるバグダッドに空輸するものは、他国による武力行使と一体化した行動で、自らも武力の行使を行ったとの評価を受けざるを得ない」と判断。「武力行使を禁じたイラク特措法に違反し、憲法9条に違反する活動を含んでいる」と結論づけた。
 さらに判決は、原告側が請求の根拠として主張した「平和的生存権」についても言及。「9条に違反するような国の行為、すなわち戦争の遂行などによって個人の生命、自由が侵害される場合や、戦争への加担・協力を強制される場合には、その違憲行為の差止請求や損害賠償請求などの方法により裁判所に救済を求めることができる場合がある」との見解を示し、平和的生存権には具体的権利性があると判示した。
 ただ一方で、今回のイラク派遣は「原告らの生命、自由が侵害されるまでの事態は生じていない」と平和的生存権の侵害を否定し、差し止め請求や違憲確認はいずれも不適法な訴えだとして退けた。





 全く別の意味で「画期的」な判決である。このニュースを見たとき、思わず自分の目を疑ってしまった。この裁判官は一体何を考えているのだろうか。もはや論理的に喝破する気にもなれない。おかしな人がいるもんだ。いや、おかしな論理にはおかしいと言うのが間違いを糾す一歩だと思うので、やはりこの狂った判決を批判せねばならない。



 まず、原告の請求を棄却しておきながら、原告の意に沿う判決をするというのは、全くもって背理しているのであり、これは国側の上告を封じるためになされた「姑息な」手法としか言いようがない。

 この記事にも書いてあるように、「一部は最高裁決定もすでに出ているが、違憲判断が示されたのは初めて」であるので、ここで国側に上告されると、高裁判決の意味が没却されかねないから、こういう手に出たのだろう。



 この判決を書いた裁判長に聞きたいのだが、この程度の自衛隊の活動で「憲法違反」なら、日本が戦争になったときに自衛隊を動かし敵を撃退するのは、紛れもなく「憲法違反」になると思うのだが、裁判長は自衛隊を一体どう定義しているのか。

 以前にも書いたが、憲法9条の起草者とされるケーディス氏は、9条は座して死を待つよう命じている規定ではなく、日本が他国から武力攻撃を受けた場合、それを武力をもって撃退することは当然可能であると述べているのである。

 はっきり言うが、自衛隊は戦争になったときのための存在であるのだが、この裁判長の論理でいけば、イラク派遣が違憲である以上、当然戦争時に自衛隊をもって日本を防衛することも憲法に反するということになる。ならば、自衛隊など税金の無駄以外のなにものでもないので、それならばいっそ自衛隊を解体してしまえばいい。使えない軍隊に多額の税金をつぎ込んでいるなんて、それでは自衛隊は軍事オタク用の「実物大のオモチャ」ではないか。この裁判長にとって「自衛隊」とは何なのか、是非聞いてみたい。



 そもそも、原告らは自分たちの主張していた「平和的生存権」とやらは認められていないので「敗訴」をしているのにもかかわらず、何故「画期的判決」という垂れ幕まで出して喜んでいるのか(平和的生存権の侵害の有無こそが、本件訴訟のメーンポイントではなかったか)。

 ということは、最初から「平和的生存権の侵害」とやらは、実は訴訟を起こすためだけの「口実」であって(訴訟は「法律上の争訟」でなければならないため)、本当は「政治運動」のために、司法をかき回しただけではないのか。したがって、恐らく、これをもってこの一連の「運動」は、見る見るうちに収束に向かっていくだろう。



 靖国参拝訴訟福岡地裁判決につづき、また司法が「政治運動屋」によって汚され、司法自身もこれに加担した事件であり、これは司法の自殺行為を意味するものである。

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