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ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

「ザ・コーヴ」の独善性について

2010年07月05日 | 捕鯨問題
イルカ漁映画『ザ・コーヴ』が記録的スタート!全国で劇場が超満員で入場できないほどの盛況に - goo 映画

 日本でのイルカ漁を描いた映画『ザ・コーヴ』が、一時は抗議による上映中止に追い込まれながらも、7月3日に全国6か所で公開され、渋谷・シアター・イメージフォーラムでは7月3日(土)初日と4日(日)の2日間、全6回がすべて満席になる記録的なスタートとなった。
 配給元のアンプラグドによると、平日になっても動員は落ちず、月曜日の初回も90%以上の入りとなっている。各回とも開始時間の30分程度前から満席になり、常に数十人がチケットを購入できない状態だという。
 観客の年齢層は比較的若く、20代~30代がメイン、男性・女性の比率は、半々だという。カップルの姿も目立ち、デートムービーになっていることが特徴。初日には抗議活動も懸念されたが、その後はトラブルもなく、静かに上映が行われているそうだ。
 また大阪・第七藝術劇場でも立ち見の回が続出し、土日の全6回で充席率は96%となった。物販の売り上げも非常によく、パンフレットの平均購買率は観客の30%以上となっている。アンプラグドでは、急きょ公開が決まったこともあり、しばらくの間は変則的なタイムスケジュールになっているが、ロングランが見込める出だしとなったコメントしている。
 そのほか京都でも満席が続いており、ローカルでも映画『ザ・コーヴ』の認知度の高さが実証されたこととなった。今後、トークショーやティーチインなどを各劇場で実施が予定されている。全国での上映決定劇場は、7月5日時点で北海道・シアターキノが加わり25劇場となっている。



 私は上映自体には反対しないし、イルカ漁を否定するのも構わないと思う。それこそ「言論の自由」だからだ。よって、この映画を「反日だから許すな」という意味不明の主張にも与しない。しかし、この映画の製作者たちの根底に流れる独善性だけは断じて許すことができない。


 まず、私が腹が立ったのは、被写体の承諾さえも得ず、盗撮をし、挙句不法侵入まで犯すという、モラルが問われることはもとよりれっきとした法に抵触する行為をしておきながら、上映中止を求める声に対し、「言論の自由への冒涜」(リック・オバリー氏)とこれを批判することだ。

 言論の自由は確かに大切である。だからこそ私も、イルカ漁へ異議を唱える言論活動をやめろと言うつもりは毛頭ない。しかし、自らの自由を主張する前に、一方的に盗撮をし、不法侵入まで犯した自分たちの愚行を詫びるのが先なのではないか?言論の自由と言うのであれば、その権利を行使する代わりに迷惑を被る人たち(太地町の漁民ら)に配慮をまず見せるのが筋というものだ。


 次に、彼ら製作者サイドは、太地町のイルカ漁を「伝統でも文化でもない」(前出のオバリー氏)と言うが、これはあまりにも撮影対象への配慮の欠けるというものだ。それならば彼らは一体何をもって「文化、伝統」というものを定義するのか、教えてもらいたい。


 また、太地町のイルカ漁について「わたしの国(米国)では奴隷制度を伝統文化と主張してきた。伝統文化を変えることを恐れないでほしい」(オバリー氏)と和歌山での講演会で言ったらしいが、これはわが国の伝統、文化への最大の冒涜でしかない。(そもそも、彼は気付けてないようだが、すでに前者と後者の発言が矛盾している。)

 太地町の人たちの捕鯨は沖から離れて活動することは技術的に無理であったため、したがって乱獲することは不可能であるので資源の枯渇という問題は考えられないものである。このように、まさに自然と共生してやってきた捕鯨を、悪名高き奴隷制度と同列に並べてやめろというこのデリカシーのなさは許し難い。

 捕鯨文化論が専門の高橋順一教授によれば、教授が太地町を調査した研究結果について、太地のアイデンティティ認知の根幹に「捕鯨文化」があることを論証している。要するに、太地の人たちにとってイルカ漁は切っても切れない関係であり、それこそ帰属意識の根幹をなすものなのである。

 ここでもし、太地の人たちが捕鯨を中止「させられたら」、それは単に経済的な問題だけにとどまらず、アイデンティティ喪失、社会構造の崩壊という極めて深刻な事態を生じさせることになるが、彼ら製作者たちはそこまで考えが及んでいるのだろうか。

 そのような「文化」を、奴隷制度と同列に並べることは、彼らがこの映画を、自分たちのプロパガンダを垂れ流すための道具にしているということを証明する。要するに、最初から自分たちのイデオロギーが結果ありき的に存在し、それを都合よく垂れ流すための映画なのだから、被写体への理解もイルカ漁への配慮も全くないのは当然ということになる。だからこうした失礼な発言が口をついて出てくる。


 なので、水銀値がどうのという主張も、全く説得力を持たない。おそらく、こうした主張も、ただイルカ漁反対の姿勢に終始するとプロパガンダ映画丸出しになるので、少しでもその意図を紛らわすために科学を装ってるにすぎず、こんなものは二次的な理由に過ぎない。

 だいたい、本当に水銀値が危険ならば、それを主張すればいいだけであって、こんな映画を製作する必要はないだろう。それに、太地の人たちは彼らが心配するまでもなく、長生きなのである(笑)。



 ところで、今回の「騒動」を過去の「YASUKUNI」と同じものとする議論があるが、それは全く的外れだ。

 というのは、私は「YASUKUNI」を観てきたが、それはもう確かに酷いメチャクチャな映画だった。しかし、少なくとも被写体に撮影許可は得ていたし、不法侵入したりすることなく、最低限のマナーというか法に抵触するような真似はしていなかった。また、監督も左翼染みていたが、被写体への配慮はそれなりにしていた。

 これに対して今回のは、全くそうしたことがないのは既に述べたとおりだし、「YASUKUNI」のときは、この作品が文化庁が税金を出すに値するものなのか、という点が争点だったのに対し、今回のは製作者側のあまりに一方的な態度と、異なる文化に対し土足で踏み入り、自分たちのエゴを押し通そうとするという、このデリカシーのなさが問題なのであって、全く事情が異なる。



 私は製作者側のデリカシーの無さと、そこから垣間見える文化帝国主義的な独善とに、心底嫌悪感を覚えるものである。

番外編 欧米人もしていた捕鯨と鯨食

2010年07月04日 | 捕鯨問題
映画「ザ・コーヴ」封切り 「是非問うなら見てから」(朝日新聞) - goo ニュース

 和歌山県太地町のイルカ漁を扱った米映画「ザ・コーヴ」の一般公開が3日、仙台や東京、大阪など全国6映画館で始まった。当初は6月26日公開予定だったが、保守系団体の抗議予告で3館が降り、一部上映館を替えて1週間遅れの封切りとなった。
 シアター・イメージフォーラム(東京都渋谷区)では午後1時の初回を前に、正午ごろには、東京都内の保守系市民団体のメンバー約30人が劇場前に集まり、拡声機で「反日映画は許さない」などと次々に叫んだ。現場に駆けつけた上映を支持する評論家と口論になり、制服姿の警官10人ほどともみ合いになるなど、現場は一時騒然とした。



 これまで太地町を中心にわが国の捕鯨について書いてきたが、ここでは番外編として、捕鯨反対を訴える欧米人も過去には鯨肉を進んで食していたことを紹介したい。


 しばしば、捕鯨反対を主張する国は欧米諸国が多いので、白人のエゴなどという批判が見受けられるが、同じ白人のノルウェーは熱心な捕鯨国(しかも商業捕鯨をしている。)なので、こうした批判は的外れだ。

 しかしながら確かに、彼ら欧米人から反捕鯨の主張をされることには拭い難い違和感があるのもまた事実だ。というのは、彼らも昔は捕鯨を、しかも資源量を考慮することなく、乱獲的に行ってきたからだ。

 歴史的に見れば、捕鯨を他の諸国にも広げたバスク人であるが、彼らは食肉を目的としてセミ鯨を捕獲していた。つまり、スペイン人やフランス人も過去には鯨を食べていたのである。

 それだけではない。スペイン、アイスランド、ポルトガル、ノルウェーには過去もしくは現在において鯨を食べる食文化があるし、欧米人の捕鯨船の乗組員は船上で鯨肉を食べていたという記録が残っている。フランスの内陸部では、鯨の皮の塩漬けが売られていたりした。

 アメリカでは、第一次大戦中、牛肉の価格高騰のため、鯨肉を食べることを奨励していた。1917年だけで北太平洋から1000頭の鯨肉が流入し、サンフランシスコでは美味と評判で人気があった。1918年には、アメリカの商務省が32の調理法を乗せた鯨肉奨励の文書を発表している。


 さらに、19世紀から20世紀にかけて、欧米での鯨油の使用は革命的な変化を遂げる。それまでは鯨油は主に繊維産業用のソフトソープ等に使用されてきたが、油が一般的に脂肪酸とグリセリンからできていることに着目して、爆弾の原料として使用された。

 1856年、メアリー・ローレンスという人物は、約5カ月の間捕鯨(イルカ漁)を行っており、イルカ肉をフライにしたりソーセージにしたりして調理していた。いわく、イルカのソーセージは豚肉のソーセージのように美味しく、メアリーはイルカが非常に美味であったと日記に残している。実は、イルカ食というのは日本だけではなく、現在でも世界各地でみられるものなのである。アイヌの人たちもイルカ漁を行っていた。

 また、1929年には鯨油100%のマーガリンが開発されるなどした。なお、当初は鯨を食べるということへの抵抗が欧米人の間であったため、マーガリンの原料に鯨が使用されていることは秘密にされた。1930年代には、鯨油をめぐって列強間で熾烈な駆け引きが繰り広げられ、鯨油の争奪戦が起こった。

 このように、鯨の利用を、日本と同じく、いやそれ以上に今まで欧米各国は行ってきたわけだ。したがって、仮に「今は」捕鯨をしていなくても、そもそも捕鯨反対運動の一因となった個体数の減少には欧米各国も無関係ではないことは周知のとおりである。

わが国における捕鯨について(2)―太地町を中心に―

2010年07月04日 | 捕鯨問題
「ザ・コーヴ」上映 6映画館で開始(スポーツニッポン) - goo ニュース

 和歌山県太地町のイルカ漁を批判的に取り上げ、抗議や街宣活動の影響で一時、公開が危ぶまれた米映画「ザ・コーヴ」の上映が3日、青森・八戸、仙台、東京、横浜、大阪、京都の6映画館で始まった。
 東京・渋谷の映画館前では一時、上映反対グループが「漁師さんをいじめるな」などと書かれたプラカードを掲げ、警察官がグループを取り囲んで警戒したが、大きな混乱はなかった。
 観賞した大学院生(24)は「イルカ漁を知って賛否を考えるきっかけにはなるのでは」と一定の評価。一方、太地町の三軒一高町長は「表現の自由はあるが、一方でルールや漁師の人権もあるんじゃないか。上映は残念」。同町漁協の組合員も「漁協は金もなく人もいないから、映画に反論する手段がない。普段通りに生活しているだけなのに…。太地町は力のある映画や団体に揺さぶられている」と悔しさをあらわにした。今後、ほかに18館でも上映される予定になっている。



 さて、その1からの続きである。

8 アメリカによる乱獲により荒廃する太地

 先述したように、江戸末期には欧米から近代化された捕鯨船が軒を連ねてやってくるようになり、太地町では慢性的な鯨の不漁が続いた。当時の太地町を訪れた者の記録によれば、村は貧困が蔓延し荒廃していたという。

 今でもほとんど同じであるが、当時の太地での捕鯨というのは、沖合の黒潮に乗って回遊してくる鯨を、その回遊ルートから離れた沖合で捕獲しているに過ぎなかった。

 太地の鯨組は陸での解体、流通等とのルートから離れて活動することは技術的に無理であったため、必然的にアメリカの捕鯨船と並んで捕鯨することはできず、したがって乱獲することは不可能であるので資源の枯渇という問題は考えられなかった。

 要するに、アメリカの乱獲により資源量が激減し、太地の捕鯨は存続の危機に立たされることになった。そこで起こった悲劇が、先述した「大背美流れ」である。


9 近代化する捕鯨

 こうした中、当時の捕鯨の最先端であったノルウェー式捕鯨(120トン程度の鋼鉄船に鯨を仕留めるための捕鯨砲を搭載し、基地から50~100マイル沿岸で操業する。)が、やがて日本にも上陸する。このノルウェー式の捕鯨をはじめて日本で本格的に導入したのが、山口県議会議員であった岡十郎である。1899年(明治32年)のことであった。

 岡は「日本遠洋漁業株式会社」を設立し、捕鯨砲等の資材はノルウェーから取り寄せ、捕鯨砲の技術が当時の日本にはなかったため、ノルウェー人を雇い、後継の日本人を育成していった。岡はこの新技術と日本の伝統的な捕鯨文化との融合を目指した。

 新技術の導入に伴い、岡の試みは大成功し、各地にあった不況に苦しんでいた鯨組を次々と吸収しつつも、そこでのノウハウ(解体技術や輸送技術等)は旧来のままを維持した。

 太地には1905年(明治38年)に東洋漁業が事務所を開設し、翌年には神戸市に本拠を有する帝國水産が参入し、後に後者が前者を吸収した。こうした近代技術を持った会社の登場により、太地の鯨組の人々は再び職を取り戻し、村に活気が戻った。こうした会社の登場は、経済的効果のみでなく、太地の伝統であった捕鯨文化も再び活気づけた。


10 新技術の弊害

 しかしながら、岡の導入した新技術には同時に次のような弊害も生じさせた。すなわち、新技術による大規模な捕鯨によって、他の漁に支障が出始めたのだ。

 たとえば、解剖時の血や脂が海を汚染し、イワシやカツオなどの漁業に影響が出ているという苦情である。このような苦情は各地の漁村で提起されたものの、こうした苦情に対し捕鯨産業は迷信であると一蹴し、相手にしなかった。そのため、漁民らの不満は高まり、青森県ではホッキ貝の漁師らが捕鯨会社の関連施設を焼き打ちするという事件まで起きている。


11 乱獲による捕鯨数の減少

 新技術の導入により、これまで活動範囲の限られていた捕鯨から、沖合にまで出て捕鯨が可能になった。そのため、捕鯨数は劇的に増加した。そこで次第に、鯨資源の枯渇が危惧されてくるようになる。

 こうした危惧を受けて岡は、鯨資源の枯渇は心配ないと述べ、不安を収めようとした。一方で、いざという場合に備え、1909年(明治42年)に捕鯨会社により「日本捕鯨水産組合」が設立され、捕鯨の自主規制に乗り出した。

 当時の自主規制は捕鯨産業の発展を優先し過ぎたため効果的ではなかったものの、1900年前後は世界各地で捕鯨を規制する動きが活発になり始めたところで、その中でも日本の規制は世界をリードするものであったという。


12 軍部と一体化した捕鯨

 時代は少し下り1930年代になると、日本も欧米と同じように、鯨油の獲得を中心にした捕鯨に、一時的ではあるが、シフトしていく(なお、以前からも鯨油は取っていたものの、あくまでも目的は食肉であった)。

 1930年代といえば、「最後のフロンティア」として、列強各国はこぞって南氷洋に捕鯨のため出て行った。日本もまた例外ではなく、南氷洋に捕鯨をするため船を向かわせた。とは言うものの、当時南氷洋で捕鯨をしていた各国と比べると、日本の捕鯨量は南氷洋全体で12.7%の3万894頭であった。なお、当時南氷洋で主に捕鯨をしていた国はイギリスとノルウェーであったという。太地の捕鯨船も南氷洋に向かった。

 この時代はそれまでの捕鯨と異なり、捕鯨船が軍用タンカーに建造可能な仕様にされるなどして、戦争の準備と捕鯨が一体化していたので、捕鯨船建造について海軍が支援を行っていた。また、鯨油を活発に輸出し、不足していた外貨獲得に貢献した。


その3に続く。

わが国における捕鯨について(1)―太地町を中心に―

2010年07月04日 | 捕鯨問題
「ザ・コーヴ」公開初日、渋谷では全回満席に(読売新聞) - goo ニュース

 和歌山県太地町のイルカ漁を隠し撮りした米ドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」の上映が3日、東京、大阪など全国6館で始まった。
 抗議活動に備え警察官が警備にあたる映画館もあったが、東京・渋谷のシアター・イメージフォーラムでは全回満席になるなど、関心の高さをうかがわせた。
 同館では、午後1時から3回上映が行われ、約100の客席がすべて満席。正午ごろに同館前で、上映阻止を訴える団体と上映を支持する人々の小競り合いが見られるなど一時騒然となったが、その後は大きな混乱もなく、初日を終えた。映画を見終わった東京都内の大学生(18)は「イルカが日本で捕獲され、水族館に送られていることなど知らなかった。論議されるべき問題だと思う」と話した。
 この映画の配給会社アンプラグドの加藤武史社長は「きょう一日無事上映ができてほっとしている。これから、映画の内容についての実のある議論が始められると思う」と話している。
 またこの日の夜、東京・新宿のライブハウスで、上映を支援するジャーナリストらが参加した公開討論会が開かれ、上映の是非について語り合った。



1 基礎知識

 この作品(のようなもの。)では、和歌山県太地町のイルカ漁を盗撮しているわけだが、まず、イルカと鯨の違いをご存知だろうか。イルカと鯨は同じクジラ目という種類に分類される、れっきとした仲間なのである。

 それでは、鯨とイルカの違いはというと、成長した体の大きさが4メートル以下のものをイルカ、それ以上のものを鯨として区別しているという。これは英語圏でも同じで、4メートル以上のものをwhale、4メートル以下のものをdolphinと呼んでいるという。そこで以下では、イルカ漁も含めて捕鯨と言う。


 前振りはこれぐらいにして本題に入ろう。


2 縄文時代から行われている捕鯨

 太地町で行われている捕鯨であるが、それでは日本ではいつの時代から捕鯨を行っていたのだろうか。捕鯨の規模等については諸説あるが、どの説も縄文時代から捕鯨が行われていたということでは一致している。

 たとえば、1982年に石川県鳳至郡能都町間脇遺跡から大量のイルカや鯨の骨が出土しているし、横浜市の称名寺遺跡などからもイルカの骨が出土している。なお、当時の人たちはイルカの骨を使い、アワビ採取のための銛などを作っていたという。

 それでは、具体的にどのような捕鯨が行われていたのか。考古学者等の研究によると、見解は錯綜しているものの、大型の鯨を捕獲していた可能性は低いものの、小型の鯨類、すなわちイルカは縄文時代から積極的に捕獲されていたとする。中型や大型クラスの鯨は、たとえば死んで座礁している「流れ鯨」などを捕獲していたと考えられている。


3 太地町ではいつから捕鯨があったのか?

 逐一時代ごとに検証しているとキリがないので、時代は下り、和歌山県太地町では長元8年(1035年)には捕鯨に関する記述が残っていることから、少なくとも今から1000年近く前より捕鯨は行われていたと推測される。

 太地は、鯨の回遊の道に面し、地形的に鯨が陸に近寄ってくることが多かったので、これも納得できる。すなわち、太地はそれ自体が捕鯨に非常に適した地理的条件を有していたということだ。


4 捕鯨技術の進展(江戸時代まで)

 捕鯨技術の進歩により、中型クラスの鯨なら積極的に捕獲ができるようになると、各地では捕鯨の専門家集団(鯨組)が出てくる。太地のある紀州では、文禄元年(1592年)に「尾佐津」と称する組が登場し、遅れて太地においても慶長11年(1606年)に、領主の和田氏が「刺手組」という捕鯨集団を組織している。なお、鯨組の詳細については割愛する(鯨組については、小松正之『クジラと日本人』(青春新書、2002年)を参照)。

 太地に刺手組ができた当初は、1つの組(5組あった。)に40人程度がおり、4~5隻の船でゴンドウ鯨、マッコウ鯨、セミ鯨等を捕獲していたという。しかしながら、当時の技術では中型の鯨を捕るのがせいぜいで、死んでしまうと水中に沈んでいくタイプのザトウ鯨やイワシ鯨は捕獲できなかった。そこで開発されたのが「網捕り式捕鯨」である。

 この捕鯨は、17世紀後半に登場してきたもので、鯨を巨大な網で取り囲み、動きを封じてから仕留め、鯨が沈んでしまう前に持双船舟が挟み込むようにして鯨を浮かせ、浜に運ぶというものであった。太地では、和田頼治が蜘蛛の糸に引っ掛かったセミを見て思いついたと伝承されているという。


5 豊穣の神としての鯨

 古くから日本では、鯨は重要な生活資源であると同時に、自然界からやってくる特別な存在として認識されていた。このような考え方は、鯨を豊穣の神、すなわちエビス様として捉える信仰に結び付く。

 たとえば、鯨組においては、鯨そのものが莫大な利益をもたらすことから(当時は朝廷等に献納されていたし、鯨一頭で7つの村が栄えるとまで言われていた。)、あるいは鯨はエビス様の贈り物と考えられていた。

 だから鯨は、これが捕れたときには鯨組で独占するのではなく、村中で鯨を分け合って豊穣をお祝いした。お祝いの席では、捕鯨に携わった人たちが集まり、豊穣を感謝する儀式が行われていた。

 また、鯨の肉や皮は、鯨組の最下層の者から、地方の神社や寺院、さらに藩の関係者にまで無償で配られたという。それから、鯨はイワシを運んで来てくれる有難い存在としても認識されていた。

 捕鯨技術の進歩等により、鯨はやがて、一部の富裕層の食べ物から、庶民までが口にできるようになっていったのである。


6 母子鯨は捕るな―大背美流れという惨事―

 鯨類の最も強い関係は母子関係と言われており、子鯨は4カ月は母鯨に依存し、なかにはこれが数年にもおよぶ種類もあるという。したがって、危険に見舞われると母鯨は子鯨を必死に守ろうとしたりするため、母子鯨の捕獲は非常に危険な作業であった。

 なので古くから、鯨が子を思う気持ちは人間と同じであると認識されてきた。しかしながら、捕鯨で生計を立てる漁村では、母子鯨はまたとないチャンスであり、経済的理由から歓迎された。

 太地町には「大背美流れ」という事件が言い伝えられている。これは1878年(明治11年)、太地の漁民が鯨の不漁で悩まされていたときに起こった惨事である。なお、なぜ当時太地では不漁に悩まされていたかというと、太地の人たちが捕っていたセミクジラを、沖合でアメリカの捕鯨船が大量に捕獲していたからである。しかし、日本の伝統的捕鯨では捕獲対象は陸の近くの鯨に限定されていた。

 しかし、太地の人にとって鯨の不漁は死活問題であり、当時は12月ということもあり、鯨が捕れなければ年が越せないという事態にもなりかねない。そこへ子連れのセミクジラが泳いでいるのが見つかった。とは言うものの、当時の天候は非常に悪く、捕鯨に適しているとは言えないし、また、上記の理由により母子鯨は捕ってはならないと言い伝えられていたことから、漁を断念すべきとの声もあった。

 しかし、背に腹は代えられぬということで漁に出た。ところが、これが大惨事を招くことになった。悪天候も手伝って、漁に出た124名が死亡するという痛ましい結果になった。これが「大背美流れ」である。これは現在においても、日本捕鯨史上最悪の遭難事故として記録されている。


7 鯨を弔う

 日常的に残酷な捕鯨に従事する鯨組は、痛みや愛情という点から鯨を捉え、捕えた鯨は丁寧に埋葬して弔うことにしていた。とりわけ母子鯨や母体から胎児が見つかった鯨については、手厚く葬られていた。たとえば、土佐では7日間の間供養が行われ、番人が昼夜を通し付き添っていた。全国には130を超える鯨の墓が建立されているという。

 また、捕獲した鯨に戒名を付けることもあった。戒名を与え、過去帳を作成して定期的に法要を行うところもある。たとえば、愛媛県東宇和郡明浜町(現西予市)の金剛寺の過去帳には、将軍や大名につける位の高い戒名が付けられた鯨が眠っている。太地町にも鯨の墓は存在する。



その2へ続く。

小松正之の嘆く声が聞こえてきそうだ

2008年01月30日 | 捕鯨問題
 捕鯨をめぐる日本とオーストラリアの関係が、どうやら外交問題にまで発展する可能性があるのだという。以下、毎日新聞の記事より引用。



 日本が南極海で実施する調査捕鯨が、豪州との間で深刻な外交問題に発展する恐れが出てきた。31日に来日するスミス豪外相と高村正彦外相の会談でも、捕鯨問題が議題になる見通しだ。今年に入って豪州などの環境保護団体の活動家による妨害行為も続いている。文化の違いなどが根底にあり、打開策を見いだすのは容易でない。
 「調査捕鯨は公海上の合法的な活動。妨害行為は関係者の身体・生命を危うくする許しがたい違法行為だ」。福田康夫首相は23日の参院本会議で、保護団体の抗議活動を批判した。22日にクリーン豪貿易相と会談した高村外相は「良好な日豪関係に悪影響を与えないようにする点で合意した」と強調したが、欧米メディアは鯨が血を流す映像などを繰り返し報じており、在外日本大使館や水産庁にも抗議が相次いでいる。
 国際捕鯨委員会(IWC、加盟78カ国)の色分けは捕鯨反対42カ国に対し賛成36カ国。日本は支持拡大に努めるとともに、今年3月のIWC中間会合で「感情的対立ではなく、科学的データに基づく資源管理につながる冷静な議論を求める」(外務省幹部)方針だ。
 ただ、7月の北海道洞爺湖サミットを控え、政府内から「主要国はクジラを環境保護のシンボルと位置づけている。捕鯨文化を守るメリットに比べ、失う国益が大きすぎる」との見方も出ている。



 かつて水産庁に、捕鯨推進派のタフ・ネゴシエーターと呼ばれた小松正之博士がいた。彼は欧米諸国の捕鯨問題へのダブルスタンダードを痛烈に批判し、その姿勢はニューヨーク・タイムズから「日本では出る杭は打たれるが、小松は打たれても引っ込まない杭だ」と評されたという。

 小松博士は、アメリカの先住民族マカや、イヌイットの捕鯨は許されて(しかも、日本近海に生息する鯨よりも、イヌイットらの捕獲する鯨のほうが絶滅の危機にあるにも関わらず)、日本の捕鯨は許さないというのは、明らかにダブルスタンダードだと、科学的根拠をもって国際会議などの場で言い続けてきた。小松博士は「海にはゴキブリ並みに鯨がいる」とも発言し、捕鯨議論を盛り上げたりもした。

 ちなみに、小松博士は、ニューズウィーク2005年10月26日号、「世界が尊敬する日本人100人」のうちの一人に数えられている。捕鯨反対の国で刊行される雑誌にもかかわらず。



 ところで・・・

>国際捕鯨委員会(IWC、加盟78カ国)の色分けは捕鯨反対42カ国に対し賛成36カ国

 とあるが、この委員会、実は過去に全く捕鯨をしたことのない国、果ては内陸国まで加盟しており、その多くが捕鯨反対の国のロビィングによって支配されているという状況なのだ。日本も今まで以上に、日本の味方を多く獲得できるよう、開発援助等をちらつかせ、積極的にロビィングをし、根回しをていくべきだ。

 

 それから・・・

>政府内から「主要国はクジラを環境保護のシンボルと位置づけている。捕鯨文化を守るメリットに比べ、失う国益が大きすぎる」

 どこの誰かは知らないが、彼(彼女?)の言う「国益」とは具体的に一体何なのか?日本の文化を犠牲にしてまで得る「国益」とやらは、そんなに魅力あるものなのか?こういうことを言ってのける人間は、恐らく首相らの靖国参拝にも反対するために、似たようなことを言っていたのだろう。

 どこかの国から圧力を掛けられたからと言って、自分の所属する国の文化までも犠牲にしてその国に尻尾を振ろうとする人間が国家を動かす機関に存在している限り、日本が、「国際社会において、名誉ある地位を占め」る(憲法前文)ことはできないだろう。

反捕鯨派は本当に正しいのか。

2007年05月30日 | 捕鯨問題
 アメリカのアンカレジで、28日から国際捕鯨委員会(IWC)年次総会が始まりました。昨年6月の総会では、IWCは本来の趣旨から逸脱し、機能不全に陥っており、「商業捕鯨禁止は不要である」という決議案を、1票差ではあるものの採択されました。今までの硬直しきったIWCから見れば、これは極めて異例であり、画期的なことだと思います。しかしながら、ヨーロッパ諸国を中心とした「反捕鯨派」もこれに危機感を持ったのか、キプロスやクロアチア、ギリシャなど、反捕鯨国を加盟させ、巻き返しを図ろうとしています。

 捕鯨は難しい問題だと思います。IWC(国際捕鯨委員会)では、捕鯨推進、反対問わず各国の利害が複雑に絡み合っていますし。
 しかしながら、今は捕鯨反対の態度をとっている国(イギリス、アメリカなど)も過去には鯨油や鯨のひげを目的として世界中で個体数を顧ない捕鯨を行っていました。イギリスに至っては鯨に止まらず、過去にはタスマニア諸島の先住民族のタスマニアアボリジニを、スポーツとしての人間狩り等によって19世紀に絶滅させたというとんでもないことをしています。それを正当化する理由として、今でも捕鯨反対の国が主張する「知性の有無」を挙げていました。

 そもそもとして、IWCは「鯨資源の継続的な利用」を目的として設立されたので、本来は反捕鯨機関ではなかったはずですが、アメリカ政府とグリーン・ピースによってその趣旨は変質してしまったのです。ベトナム戦争当時、アメリカのベトナムへの枯葉剤使用などによって環境が汚染され、国内からも環境保護の声が高まりました。そこで、ホワイトハウスは自然保護を打ち出し、自国に対する国際的非難を避けようとしたのです。そこで槍玉にあがったのが鯨だったのです。
 1972年のストックホルム国連人間環境会議において、アメリカ政府はグリーン・ピースの関係者などを送り込むことによって、そこでベトナム戦争におけるアメリカの環境破壊が非難されるはずであったにも関わらず、「いかに鯨を保護するか」に問題は擦り替えられ、そこからIWCの活動内容も反捕鯨へと一気にシフトすることになったのです。

 日本の捕鯨は、アメリカやイギリスが行っていた捕鯨とは全くその質を異にします。縄文・弥生時代から鯨をいただくという文化もありましたが、江戸時代、日本は鎖国政策をとっていたため、遠洋漁業はできず、捕鯨は専ら沿岸でしか行われませんでした。
 対してアメリカが1854年に江戸幕府と締結した日米和親条約の目的は、日本近海での鯨油などを目的とした大量捕鯨でありました。その証拠として、当時日本近海ではアメリカやイギリスの漁船を、鯨のひげや歯、鯨油を目的として大量に派遣してきており、そのため鯨の個体数は激減しました。しかも、鯨油を目的としたアメリカなどの捕鯨は、鯨を捕獲したら母船の上で油を搾り、搾りかすは全て海に捨てていたのです。現在、日本の捕鯨を「野蛮な行為」と非難するなら、これなど野蛮の風上にも置けないでしょう。

 要するに、アメリカやイギリスなどの捕鯨反対派の国は、自分たちでせっせと鯨を乱獲し、資源を枯渇させておきながら、その責任を、伝統文化として現在でも捕鯨を行っている国に対して転嫁させているだけです。

 自分たちの文化と相容れないからといって、一方的に他の文化を「野蛮だ」「劣っている」と罵り、そう見なすことがいかに愚かなことか。反捕鯨派の主張は、国際化社会の流れに真っ向から逆らう、極めて偏狭で利己的でエゴイスティックなものだと言わざるを得ません。
 イヌイットの生肉を食うことに対してした非難と、その性質は全く変わっていません。いつまで経っても、自分たちがいつも一番で、それと違うものは野蛮で愚かとしか見れていないのでしょう。様々な異文化を尊重できずに、環境保護を押し付けるのは、ヒトラーがユダヤ人に対してしたことと何ら変わらないものです。

 これは既に以前から行われている反捕鯨国に対しての疑問なのですが、なぜ鯨はダメで牛や豚は殺しても食べてもいいのでしょうか。極論を言えば、人間が生きていくためには(いや、生き物が生きるというのは)、植物も含めて他の生き物の生命の犠牲が伴うものです。もし、反捕鯨派の主張を広く当てはめれば、人間は生きていけません。けれども、それを広く当てはめてしまうと、こういった結果になるので、反捕鯨を正当化するために「鯨は可愛い」「鯨は頭がいい」「鯨は絶滅が危惧されている」と言うのではないのでしょうか。

 本来、生き物の命に重いも軽いもないはずです。鯨も牛も豚にも等しく命は与えられています。鯨だって鰯などの中小型魚類を捕食して生きています。では、反捕鯨派は鰯などの個体数が激減したら(現に減っていますが。)鯨に対して捕鯨推進派に対するのと同じ批判をするのでしょうか(苦笑)。

 人間は、他の生き物から命をいただいて生きています。生き物の命をいただくことに対して、有り難味を感じ、感謝をし、粗末にしないことが何よりも重要なのではないのでしょうか。これを前提としない議論など、空しいだけです。

 最後に。日本を代表し、捕鯨を訴えてきた小松正之農学博士も指摘するように、IWCはアメリカの先住民などの捕鯨は認める反面、日本の捕鯨は認めないというダブルスタンダードを堂々と行い、自分たちの価値観こそが正義であり、これに反するものは許さないという、欧米の「文化帝国主義」の現れが、他ならぬIWCなのです。

 日本は科学的根拠を提示し、粛々と捕鯨を行えばいいのです。