ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

契約の成立について

2012年06月21日 | 民事法関係
NHKが講談社を提訴 ドラマ化許諾契約めぐり(朝日新聞) - goo ニュース

 辻村深月さんの小説「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」のドラマ化を進めていたNHKは21日、原作を出版した講談社がドラマ化の許諾契約を一方的に解除し、制作中止に追い込まれたとして、同社を相手取り、約5900万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。
 訴状によると、NHKはBSプレミアムでドラマ化を企画し、今年5月から4回放送する予定だった。昨年11月に出版元の講談社と映像化の許諾契約を結んだ。だが同社は今年2月、辻村さんがドラマの脚本に納得していないことなどを理由に、契約の白紙撤回を伝えたという。
 講談社は「脚本における原作の改変が著者の意向に大きく反していたことから、NHKと話し合いを続けたが、合意に至らずドラマ化を見送りたい旨を伝えた。このような事態になり、大変残念です」とのコメントを発表した。



 民法上、契約は当事者の意思の合致により成立するものとされています。テレビの売買契約を例にとって考えてみると、売主が「このテレビを売ります」(申込)と言い、これに対して買主が「このテレビを買います」(承諾)と応じれば、その時点でテレビの売買契約が成立したことになります。

 このように、民法上、売買契約をはじめとした契約の成立について書面(契約書)を要求しているものは基本的には保証契約(民法446条2項)以外はなく、したがってこの記事のような口頭での約束でも契約としては法的に有効に成立します。


 この事件に関する詳しい事情は分かりませんが、他のマスコミの報道によれば、NHKは「テレビドラマの制作では番組完成後に契約書を作成する慣行があると指摘」しているといいます(産経新聞)。

 もしそうであれば、契約においては、その契約が締結される当事者間で通用している慣習(たとえば商慣習)を尊重することになるので(民法92条)、NHKの主張がドラマ制作現場の実態(慣習)に合致しているものであれば、たとえ契約書が存在していなくとも、また上記の民法上の原則からしても、契約は有効に成立していたと解することになるでしょう。

 したがって、講談社はNHKに対し契約の不当破棄をしたことになり、損害賠償責任を負うことになるかも知れません。しかし、この損害賠償責任は不法行為に基づくもの(民法709条)でしょうか、あるいは債務不履行に基づくもの(同415条)でしょうか。

 作者の承諾を得られないことによる契約の履行不能と考えれば債務不履行責任でしょうし、もし講談社側が作者の承諾を得られないことを認識していれば不法行為責任でも責任追及は可能かもしれません。


 しかしながら、NHKの側も、作者の承諾を得られるという確約を講談社の側から得ていたならまだしも、そのような確約もないまま本格的にドラマの制作を始めていたとすると、たとえ上記のような業界の慣習があったとしても、NHKは軽率の誹りを免れないでしょうから、6000万円の損害賠償全額が認められる可能性はほぼ皆無でしょう。

 したがって、たとえば講談社がNHKに対し、絶対に作者の承諾を得ると確約していたり、あるいはその見込みもないのにそのことをNHK側に敢えて知らせず損害を生じさせることを目的にドラマ化の承諾をしていたなどといった特別な事情でもない限り、大幅な過失相殺がなされることでしょう。

 なお、仮に講談社の主張するように契約は成立していなかったとしても、講談社は信義誠実の原則(民法1条2項)に基づき、契約交渉の不当破棄をしたとしてNHKに対し損害賠償責任を負う可能性もあります。

 これは簡単に言うと、契約の交渉段階で、交渉の相手方に契約が有効に成立するという信頼(期待)を生じさせた者は、その信頼を不当に裏切ることは許されず、かかる信頼を裏切った場合には損害賠償責任を負うというものです。契約交渉の不当破棄が損害賠償責任を生じさせるという法理は、判例上も学説上も容認されています。



 とはいえ、以上は報道されている情報のみに依拠した考えですので、当然、NHKが敗訴する可能性も否定できません。

原発住民投票条例について

2012年06月19日 | 憲法関係
原発是非を問う住民投票、都議会が条例案否決へ(読売新聞) - goo ニュース

 東京都内で原子力発電所稼働の是非を問うため、市民グループが都へ直接請求した住民投票条例案を審議する都議会総務委員会が18日午後始まった。
 同条例案は否決される見通しだ。
 都議会公明党(23人)が同日、「都民だけで判断すべきではない」などとして反対を決定。すでに反対を打ち出している自民党(37人)などと合わせて過半数を超えるためだ。最大会派の民主党(50人)は自主投票、共産党(8人)と生活者ネットワーク・みらい(3人)は賛成する方針。



 原発に関する住民投票の是非を考える前に、まず、地方自治体の上位に位置づけられる国家の役割について少し考えておく必要があると思います。とはいえ、国家の役割について詳細に論じるのではなく、一般的に国家にはどのような役目が期待されているのか、という点に絞って、考えてみます。


 論者によって様々ですが、概して国家に期待されている役割とは、外交および国防政策の遂行、国内治安の維持・改善、そしてここで問題となっているエネルギー政策の画定・実行でしょう。前二者はともあれ、エネルギー政策までも国家の役目として考えるのは、エネルギーは国の産業・経済はもとより国防も含め、国(地方自治体も当然に含む。)のあらゆる政策における社会的基盤(インフラ)の最たるものだからです。

 したがって、そのような性質を有するエネルギーに関する問題を、地方自治体の一存で左右できるとなると、国家の存亡に関わる事態にもなりかねません。よって、石原が述べているように、エネルギー政策は地方自治の範疇に属するものではなく、国家の責任においてなされるべきものであると言えます。

 このように、エネルギー政策は国の基盤に関わる問題であるという理解を前提に考えると、原発の是非に関する住民投票というのは、地方自治の仕事にはなじまない性質の問題であるということになるでしょう。

 それでは、今度は原発に関し住民投票をすることの意義を考えてみたいと思います。



 まず、原発に関する住民投票はこれまでに前例がないわけではなく、96年には新潟県巻町で同様の条例により原発に関する住民投票が行われましたし、類似の事例では97年に沖縄における米軍基地の是非に関する住民投票というのもありました。

 しかしながら、まず効力の面では、これら住民投票の結果には法的拘束力はなく(というか、上に挙げた問題の性質上、法的拘束力を持たせるべきではありません。)、また条例の法的正当性という意味では、条例というかたちを採るものの地方自治法その他の法律上の根拠が欠けている点において是認できるものではありません。


 また、住民投票という手法を一概に否定するつもりはありませんが、住民投票というのは「いささかプリミティブな手法であって、扇動の具となりやすく、必ずしもつねに公正な主権者の意思を表わすとはかぎらない」から、「その実施にあたっては、(中略)当該事項が住民投票になじむかどうか、住民投票の結果が貫徹できる事項かどうかなどを十分吟味し、その意義と効果をあらかじめハッキリさせ」なくてはならないのです(原田尚彦『行政法要論』)。

 そして、住民投票の対象となる問題が、その地域だけで完結するような問題ではなく、その地域以外の広域的利害にも関係してくる場合もまた、そうした問題を住民投票で決するというのは不適切な場合であると言えます。

 こうした理解に立って考えると、原発の再稼働の是非というのは、原発が担っている役割等を考慮すると、住民投票にはなじまない案件と言えるでしょう。


 というのは、まず現在における国内の原発政策に関しては、一部勢力が自分たちのイデオロギー実現のための道具としてこれを利用しているように見受けられるし、そもそも先に挙げた理由により住民投票として一自治体の判断に委ねるべき問題ではないからです。

 また、仮にエネルギー政策について地方自治体にも決定する権限があるとしても、東京だけで原発の再稼働の是非を決定したとしても、そもそも東京には原発がないのだから、そのような投票を実施する意味はあるのかということも問われなければならないでしょう(実際、私がさきに挙げた「先例」は新潟のケースです)。



 したがって、石原が言うようにエネルギー政策は国家がその責任で遂行すべき問題であるから住民投票にはなじまないし、またエネルギー政策を国家の役割とは考えないとしても、原発の再稼働は東京都のみならず東京都以外の広域的な問題であるため、東京都だけでその是非を決めるべきではないから、やはり住民投票にはなじまない問題ということになります。 一言付言するのであれば、これは原発以外の問題にも言えることですが、政治的思惑から安易に住民投票に訴えるべきではありません。



 なお、この条例には外国人参政権容認の一里塚ともいえる、投票資格について永住外国人を含む16歳以上の男女としている点も看過できません。この点においても、この条例は欠陥を有しているといえ、否決は当然といえます。

お前を食わせる生活保護はねぇ!問題について

2012年06月05日 | 民事法関係
 次長課長の河本の母が、生活保護を受けていた問題がありました。自分の息子が次長なり課長なりしているのだから、母親は税金のお世話にならずに息子から援助を受けるべきでしたね(笑)

 これについて、あまり民法的視点から論じているものを見ないので、少しばかり民法的観点から、お前を食わせる生活保護はねぇ!問題について今さらながら考えてみたいと思います。


 民法では877条以下で、扶養義務について定めています。民法上、直系血族および兄弟姉妹は当然に扶養義務を負うものとされています。また、3親等内の親族間であっても、特別の事情が存在する場合には、家庭裁判所の審判により扶養義務を負う場合があります。

 河本の場合、問題になったのは、子が老親を扶養する義務についてです(親族扶養)。この場合において子が老親に対して負う義務の程度は、生活扶助義務であるといわれています。これは、自分(子)の身分相応の生活を犠牲することなく、権利者(老親)の最低生活を支援すれば足りるという程度の義務のことです。

 したがって、河本には民法上、自分の経済力をもって母親の生活を援助する義務があったということになります。



 ここで問題になるのが、民法上の扶養義務(これを私的扶養といいます。)と生活保護等の社会保障制度(これを公的扶養といいます。)では、一体どちらが優先して適用されるのか、ということです。このことについて生活保護法4条2項は以下のように規定しています。

 「民法に定める扶養義務者の扶養及び他の法律に定める扶養は、すべてこの法律(生活保護法)に優先して行われるものとする。」

 すなわち、私的扶養が可能であればこちらが優先し、公的扶養は私的扶養が不可能な場合に限りなされるものであるということです。これを公的扶養の補充性の原則と言ったりします。

 私的扶養が家族をはじめとした血のつながった者同士での扶養であるのに対し、公的扶養とは赤の他人の税金で生活の援助を受けるものなのだから、この原則は当然のものと言えるでしょう。


 よって、河本は十分な経済力を有し、母親を支援することが可能であったのだから、河本の母は、河本との親子関係が絶縁状態であったなど特別な事情のない限り生活保護を受給する資格は本来はなかったのです。

 したがって、彼女の受給した金銭は、いわば不当な利得として返還義務を負うべきであると、個人的には考えています。この場合、資力等を考慮すると、返還義務を負うのは河本本人ということになるでしょう。


 また、河本の母親も、行政に生活保護を請求するのではなく、まずは息子に援助を頼むべきだったのです。これは民法上、扶養請求権として承認されていますし、扶養がなされなかった過去の分まで遡って請求することが可能と解されています。



 このように、民法的観点から考えると、河本の母が受給していた生活保護は扶養のお金ではなくて、不要なお金だったということになり、生活保護と民法上の扶養義務との関係からして、不当な利得を得ていたということができそうです。

文民統制への理解が欠けているマスコミ

2012年06月05日 | 憲法関係
新防衛相、「政治家より期待」の一方で不安も…(読売新聞) - goo ニュース

 野田再改造内閣で初の民間出身の防衛相に就任する森本敏・拓殖大教授は、防衛問題のエキスパートだ。
 田中防衛相は迷走発言を繰り返し、その前任の一川前防衛相も「素人大臣」の 烙印 ( らくいん ) を押され交代しただけに、防衛省内からは「政治家より期待できる」との声が上がったが、民間人が国の防衛をつかさどることへの不安ものぞいた。
 「防衛、外交の双方に知見があり、米国とのパイプもある。相手の話をよく聞いて物事を判断するタイプで、人柄は申し分ない」。ある自衛官は、自衛隊出身の森本氏に親近感と期待感をにじませた。別の自衛官も「防衛問題に不慣れな人が大臣になって混乱したので政治家よりよっぽど期待できる」と話した。
 ただ、民間人が国の防衛トップに就くことには、歓迎の声ばかりではなかった。ある自衛隊幹部は「国民の負託を受けていない民間人が、万が一の時に、自衛官を命の危険がある現場に行けと命令できるだろうか」と首をかしげる。



 森本敏氏の防衛相就任について、マスコミ、とりわけ左翼系マスコミが、またれいのごとく文民統制の意味をはき違えて批判していますね。また、憲法学者という連中の趨勢によると、憲法66条に言う「文民」とは、現在職業軍人ではなく、これまで職業軍人でなかった者とする説が多数のようですが、荒唐無稽な学説でしょう。

 そもそもですが、多くの憲法学者や護憲派左翼は、自衛隊そのものを憲法違反の存在として否定しておきながら、文民統制について語っている時点で、矛盾しているのです。自衛隊が憲法違反の存在なら、その同じ憲法がなぜ自衛隊について規定しているのか。

 すなわち、「文民」という概念が憲法上想定されているということは、同時に憲法は文民と対置する概念である「軍人」について当然に想定しているということです(そうでなければ、わざわざ「文民」を規定する意味がない)。しかしながら、自衛隊を違憲扱いする者から、これについての矛盾のない説得力のある答えを、私は聞いたことがありません。


 立憲主義国家における政治と軍事の関係とは、政治は軍事に優先し、軍権は政権(民権)に服すべきという原則に支配されるべきであって、軍の活動や組織は、常に国民生活に責任を負う政治部門の指示や監督に服さなければならないとするのが文民統制です(大石眞『憲法講義Ⅰ』)。したがって、ここから必然的に防衛大臣は過去に軍歴のあった者は排除されなければならないという結論はでてきません。


 ただし、ここで蔑ろにしてはならないのが、武力組織という実力部隊を統括する防衛大臣には、軍事、安全保障に関する的確かつ深い知識が求められているということです。というか、こういった知識を欠いた者が実力組織の統括をすることのほうが、正確に文民統制を作用させる上では遥かにマイナスでしょうし、そもそも危険です。石破茂氏の言葉を借りれば、「自分たちが理解できないものを、きちんと機能させるなんて、出来るはずがない」ということです。

 自衛隊という実力組織のトップを担うには、某お笑い芸人と同姓同名の前(自己)防衛大臣よりも、自衛隊および安全保障について知悉している者の防衛大臣への任用こそ望ましいものです。

 自衛隊や安全保障の深い知識が養われるには、実際に現場で働くことが重要でしょうし、こうした実地で経験を積んだ者を防衛大臣に就かせたほうが、文民統制の正常な機能という点からは、むしろ好ましいと言えるでしょう。

 したがって、憲法66条の「文民」とは、現在職業軍人でない者と解釈すべきです。とはいえ、昨日自衛隊を辞めて明日防衛大臣になるというのでは問題でしょうから、元の職場との利害関係がある程度清算される期間は必要でしょうから、退役して何年経っているかという基準を設けることは考えてもいいでしょう。



 最後に、森本敏氏の防衛大臣就任について、少し意見を述べたいと思います。

 以上で述べた正常な文民統制上、防衛大臣に求められている資質という面では、森本氏に問題はないと思いますが、国家の基本である安全保障政策を統括する大臣を、国会議員からではなく民間人から起用するというのでは、政権与党であるにもかかわらず、民主党(現政府内)に防衛大臣に適任な人材が存在しないということを内外に表明したとも捉えられかねないので、この点が非常に懸念されるところです。

 個人的には、他の大臣と同様に、副大臣をそのまま昇格させるというかたちで渡辺周氏を防衛大臣にしたほうが問題が少なかったのではないかと思っています(長島昭久氏と同様に沖縄との裏方としての交渉責任者上、大臣に自動的に昇格させられないなどの事情があったかどうかは知りませんが)。



 ともあれ、森本氏の防衛大臣就任が文民統制上どうかよりも、田中直紀の凄まじいまでの自衛隊、安全保障についての無知のほうが、遥かに文民統制上問題があるというのは、このような難癖をつけてくる一部の連中を除いて共通了解事項だと思います。