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ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

中井は万死に値する

2010年11月30日 | その他
非礼の極み 民主・中井前国家公安委員長が秋篠宮ご夫妻に不平…「早く座れよ」 議会開設120年記念式典(産経新聞)

 11月29日の議会開設120年記念式典で、民主党の中井洽前国家公安委員長が、来賓の秋篠宮ご夫妻が天皇、皇后両陛下のご入場まで起立されたのを見て「早く座れよ。こっちも座れないじゃないか」と不平を漏らしていたことが30日、分かった。自民党は「懲罰の対象になりうる著しく品を欠く発言だ」と問題視している。西岡武夫参院議長も事実関係を調査する意向を示した。
 複数の国会議員によると、秋篠宮ご夫妻は式典会場の参院本会議場に入られ、天皇、皇后両陛下のご入場まで約5分間起立して待たれた。国会議員も立っていたところ、中井氏は1分半ほどで「早く座れよ」などとぼやき始めた。それほど大声ではなかったが、議場は静まっており、周囲に響き渡ったという。
 みんなの党の桜内文城参院議員は30日にブログで「想像を絶することが起こった。これでは国会崩壊だ。1人の国民として今回の野次は決して許すことはできない」と批判した。
 中井氏は30日、産経新聞の取材に「『早く座らないとだれも座れないよ』と言ったかもしれないが、秋篠宮さまに向けて言うはずがない。副議長らに言った」と釈明した。



 中井は万死に値する。本当なら今すぐにでも自害して然るべき暴言であり、断じて許されるものではない。中井には一刻も早く死をもって詫びをしてもらいたい。

 中井は前国家公安委員長であることから、認証式において陛下から閣僚として認証されていたはずだが、皇室に対して敬意を表明できないクズならば、皇居に足を踏み入れていいわけがなく、したがって閣僚就任を辞するべきであったのは言うまでもない。

 繰り返すが、この中井の暴言は万死に値する。自民党をはじめとした野党(共産、社民等を除く)には徹底的に、この男が自害するまで袋叩きにしてもらいたい。



 と、感情はさておき、私には中途半端な気持ちで出席して、このような子供染みた野次を飛ばすクズ議員よりも、共産党のほうが筋は通っていて、今回の件ではまだ好感が持てた。中井は十分にクズであることが証明されたが、このバカに加え、他の半数にのぼる議員が式典を欠席したというのは、看過できない話である。


 そもそもだ。議会開設120周年式典を欠席するということは、これは国民主権の原理からしても非常に問題がある。なぜならば、議会を構成する国会議員は、国民の信託によって選出されているのであり、彼らが活躍する議会の誕生を祝えないというのは、つまり国民主権を蔑にしているということを意味する。

 確かに、病気等で出席ができなかった者もいるかも知れない。しかし、半数もの連中が病気で欠席しているわけがない。読売新聞によれば、民主党の連中が欠席した理由とは、「統一地方選に向けた地元会合を優先した」「陳情を受けていた」、とのことだが、前者の理由は本当にこの政党は選挙の亡者だなと思わせ、後者の理由は、どうせ陳情を受けたところで処理なんかしないくせに、といったところか。



 また、何よりも解せないのが、閣僚の中にも欠席者が相次いでいたということである。確かに民主党というのは国賊ばかりなのだが、国民および国家の象徴である天皇陛下もご出席されている式典に欠席しているのは、さきほども言ったように国民に対する非礼に等しいし、何よりも、菅から閣僚は日米軍事演習が終わるまでは在京していろとの指示が出されている以上、彼らは出席しようと思えば出席できたはずだ。

 にもかかわらず、閣僚という立場でありながら欠席した以上、まさに彼らには欠席したことへの「説明責任」があるのは言うまでもない。これこそ議会制民主主義の軽視である。



 小沢に率いられて何百人もの大所帯で中国の国家主席様にはおべっかつかいに行くのに、自国の国家元首には何の敬意も払わない。だから民主は国賊・売国なのだ。

 それにしても、自衛隊の式典において「俺は歩きたくないんだ」と言う議員がいたり、「早く座れ。座れないじゃないか」と言う議員がいたり、物理法則的に考えられない方向に吹っ飛んで車椅子で登院する議員がいたり・・・。民主党の連中というのは、頭だけでなく足腰も弱いんですね(嘲笑)。

お知らせ

2009年09月26日 | その他
 当ブログにお立ち寄りくださいまして誠に有難うございます。今回、私よりお知らせがございます。

 ここ最近、私情のため、ブログの更新が非常に不定期かつ難しい状態にあります。できれば一週間に一回、最低でも10日に一回は更新をしていきたいと考えていますが、ブログ作成のための時間獲得が困難な時期ですので、ご容赦頂きますよう宜しくお願い申し上げます。

 民主党政権になり、書きたいことは山積しているのですが(苦笑)。しかしながら、時間がなかなか作れないもので・・・。

 極力定期的に更新ができるよう鋭意努力してまいりますので、これからも当ブログのご愛顧お願いいたします。

再掲論文 外国人参政権について

2009年04月23日 | その他
「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」 鳩山兄発言“炎上”(産経新聞) - goo ニュース

 民主党の鳩山由紀夫幹事長が、インターネットの動画サイト「ニコニコ動画」に出演し、永住外国人への地方参政権付与が必要だとの認識を示した上で、「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」と発言したことが、インターネット掲示板などで“騒動”となっている。
 鳩山幹事長は17日の出演で、「日本人が自信を失っている。自信を失うことで、他の国の血が入ってくることを認めない社会になりつつある」と指摘。「定住外国人は税金を納め、地域に根を生やし、一生懸命頑張っている。その人たちに(地方政治への)参政権ぐらい当然付与されるべきだと思っている」と自説を展開した。
 さらに「日本列島は日本人だけの所有物じゃない。もっと多くの方に喜んでもらえるような土壌にしなくてはだめだ」と断言した。
 一連の発言に対し、ネットユーザーは敏感に反応。産経デジタルが運営するニュースサイト「イザ!」では、「根を生やして生活していることを参政権付与に結びつけるのは、安っぽい同情論」「この人が上にいる限り絶対に民主党を応援できません」「同様の権利が欲しいなら帰化すればいい」という批判のコメントが殺到している。大型掲示板「2ちゃんねる」でも、この内容を取り上げた「スレッド」が乱立した。
 ニコニコ動画は動画配信サイトで、利用者が投稿したコメントが表示される「コメント機能」が特徴。政治家や芸能人が出演する「ニコニコ生放送」というコーナーもある。



 外国人参政権について、これまでここでも幾度か取り上げたが、今回はそれらを一挙に纏めて、外国人参政権導入賛成派の主張を崩しておく。


1、法的に外国人に参政権を付与できるか
2、外国人参政権の裏事情
3、請願権を行使すればいい
4、外国人参政権と人権擁護法案の関係
5、おわりに


1、法的に外国人に参政権を付与できるか

 最初に、外国人に参政権を付与することは現実的に可能なのかどうか、しばしば賛成派がリーディングケースとして持ち出す、最高裁平成7年2月28日判決を中心に、考えてきたいと思う。

 まず、外国人参政権付与に賛成の論者たちは、しばしば「日本に居住している外国人も、納税をしているのだから、参政権を付与すべきだ」と言う。しかし、これは全くの筋違いの発想だと言っておく。
 納税の見返りは、水道や警察といった公共サービスの享受であって、参政権が納税の見返りに付与されているのではない。もし参政権が納税の見返りに付与されるという理解を採るならば、それは戦前の制限選挙と同じであるだけではなく、それこそ20歳以上の国民に選挙権を平等に付与した法の趣旨(普通選挙の実施)に真っ向から対立してしまう。

 次に、永住外国人や特別永住者に限って参政権を付与したとしても、彼らの本籍は日本ではなく海外の国である。つまり、彼らは祖国と日本に二重に参政権を持っていることになる。このことは、「地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすもの」と判示した、さきの判決の趣旨にも背くことになりはしないか。

 では、参政権付与賛成論者がしばしば引用する、前記の最高裁判決(平成7年2月28日)の検討に入っていこう。

 この判決で最高裁は確かに、外国人に参政権を付与することは憲法上禁止されているものではない、と述べているが、同時に、参政権を付与しなくとも、それが「違憲の問題を生ずるものではない」とも述べている。つまり、積極的に外国人に参政権を認めたものではないし(現に主文では、日本国民のみに参政権を付与するとした地方自治法11条等が憲法に反しているとして上告した原告の請求を棄却している)、ましてやそれを立法の不作為と断じているのではない、ということは、まず押さえておきたい。

 加えて、この判決で最高裁が先例として引用している最高裁昭和53年10月4日判決(マクリーン事件)では、「わが国の政治的意思決定又はその実施に影響を及ぼす活動」には、外国人の人権は保障されないとしている。
 ということは、たとえ地方自治に限るといえども、「地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすもの」と平成7年判決も判示している以上、外国人に参政権が与えられないのは、むしろ当然のことと言っていい。

 そもそも、本来ならばこの平成7年判決を、外国人参政権への道を開いたリーディング・ケースとして捉えること自体が間違っているのだ。
 なぜならば、少し長くなるが、同判決で最高裁は、「地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の官吏は・・・(憲法の)国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすものであることをも併せて考えると、憲法九三条二項に言う「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、(九三条二項は)我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その他議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない」とはっきりと述べているからだ。

 賛成論者が引用する箇所は、園部裁判官が個人的心情の発露から書いた傍論部分に過ぎないのである(このことは、のちの朝日新聞のインタビューで、園部氏本人が述べている)。なお、後にも先にも、最高裁が正面切って外国人参政権を認めた事例は存在しない。

 ところで、参政権は人権の一つである。これは異論の余地はない。だが、外国人にも保障される人権とは、人権の中でも前国家的に認められるものに限定される。この理解は、判例・通説にもなっている性質説にも適ったものである。
 では、参政権とは前国家的に認められるものであろうか。思うに、国民は国家があってはじめて政治への参画ができるのであって、国家のない状態で参政権を付与しても、それは何の意味も持たないのではないか。言葉遊びのように聞こえるかも知れないが、「国政に参加する」から、参政権なのではなかろうか。
 よって、参政権は前国家的権利ではないので、外国人には参政権の保障は及ばないという結論になる。換言すれば、国家の構成員であることを前提にして行使されるのが、参政権なのである。



2、外国人参政権の裏事情

(1)相互主義のウソ

 中国情報局の記事によれば、次のような、外国人参政権付与が実は全く相互主義ではないという実情が浮かび上がる。以下、一部抜粋。

 野党・ハンナラ党の圧勝で終わった今回の統一地方選挙では、韓国に居住する約20万人の外国人のうち、6726人に選挙権が与えられた。内訳は大陸系の華人が5人、台湾系の華人が6511人、日本人が51人、米国人が8人などだった。
 選挙権の付与は、韓国の永住権を獲得して3年以上が経過した19歳以上の外国人に限定されている。永住権を得るためには、同国で200万ドル以上の投資を行ってきたことや定められた以上の年収があることなど厳しい条件が設定された。

 さぞや韓国の外国人参政権制度はご立派かと思いきや、これの一体どこが相互主義の精神なのか?日本の法案では、年収による制限はおろか、一定の要件(特別永住者など)を満たせば、それだけで付与を許すものである。いかに両国とも単に「外国人参政権」という言葉で一括りにできても、その内容がアンフェアなのか、これだけでもよく分かりそうなものだが、更に平成14年3月の産経新聞の記事によれば、こうも書いてあったという。

 在日韓国人への参政権付与を求めている韓国だが、韓国内の永住外国人に選挙権を与えるとする条項が1日までに選挙法改正案から削除された。
 先月28日に開かれた国会本会議で、選挙法改正案から取り除かれ通過した。本会議前の審議で憲法第一条の「主権は国民にある」との規定に反するとして満場一致で削除された。
 韓国での外国人参政権問題は、金大中大統領が日本政府に在日韓国人への参政権付与を要求してきたことや韓国の「世界化」を目的に推進。国会政治特別委員会で導入に合意していた。

 実は、彼らの国も、今の日本の反対派とほぼ同じような理屈で、外国人参政権付与に反対していたのだ。これだけでも、相互主義などという言葉が真っ赤なウソだということが、よく分かる。

 ところで、上記の中国情報局の記事によれば、台湾系の華人6500人以上に参政権が付与されたとあるが、その台湾では外国人参政権は、国政・地方問わず実現していない。韓国の方たちよ、日本に相互主義を求めるなら、台湾にも同じように相互主義を理由に、参政権付与を主張してください。

(2)帰化を要求するのは酷だのウソ

 産経新聞記者である阿比留瑠比氏によれば、過去平成14年~18年にかけての帰化の事情は次のとおり。

        帰化申請者数   うち韓国・朝鮮籍の者  不許可者数
 平成14年 1万3344人    9188人       107人
   15年 1万5666人   1万1778人      150人
   16年 1万6790人   1万1031人      148人
   17年 1万4666人    9689人       166人
   18年 1万5340人    8531人       255人

 このように、帰化を申請すれば、よほどのことがない限り許されている。世界には、日本以上に帰化の要件の厳しい国は数多くあるが、これでもまだ、参政権が欲しければ帰化を要求することが、酷だと言えるのか?なお、強制連行云々に関しては、詳しい論評が出ているので、そちらを参照されたい。

(3)公明党が積極的に旗を振る理由

 外国人参政権に反対する会によれば、公明が参政権付与に関し、同じ与党である自民党が消極的(ないしは反対)であるにも関わらず、これほどに積極的に動いている理由には、次のような事情が存在するためであるという。以下、当該サイトの静岡新聞2004.10.26 3面「論壇」より抜粋。

 『在日外国人の参政権問題は金大中氏が大統領時代に、池田大作創価学会名誉会長に求め、「布教禁止措置を解く」との合意ができたとされている』『布教に国境はないとするのは結構だが、その国境取り払いを、自分の政党を使って実現しようとするのは政教分離(憲法二〇条)の原則に反する』

 なるほど、公明の支持母体である創価学会がこのような裏取引を行っていたのであるなら、公明が積極的に外国人参政権を実現させようと、自民との間に溝ができるリスクをも省みずに動く理由がよくわかる。



3、請願権を行使すればいい

 ところで、実は既に憲法上、外国人も政治に参加する手立ては「請願権」という権利によって保障されているのだ。

 請願権について憲法16条は、「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別的待遇も受けない」と規定している。「何人も」と規定してあることからも分かるように、請願権は日本人のみならず、外国人であってもその行使は許されるとされる(なお、未成年者も請願権を行使できる)。
 
 請願権とは、地方公共団体を含む国家機関に対し、要望や苦情を述べる権利である。請願権は関係機関を拘束する力はないが、請願を受けた機関は、請願を受理し、誠実に処理する義務を負うとされている。
 請願権の行使としての請願署名の紹介件数は、2002年の当時の数字ではあるが、年間約6000万人以上にのぼるという(ちなみに共産党がトップの件数を誇る)。その内訳に外国人がどれだけ含まれているかは定かではないが、まず間違いなくこの中に外国人が含まれていると考えて差し支えないだろう。

 請願の処理の仕方は、請願法で定められた規定をクリアし、適法な請願の要件を満たしていれば、国会の各議院や地方議会は請願を審査し、採択をし、執行機関が措置をすることがよしと認められれば、これを執行機関に送付することになっている。

 しばしば外国人参政権推進派は、「政治に外国人の声も届けるべきだ」と主張しているように思われるが、もう既に請願権という、憲法上保障された権利によって、外国人であっても、自身の主張を政治の場に反映させるための権利は確保されている。このように、外国人参政権を導入しなくとも、請願権を通じて政治に参画する権利はある。ゆえに請願権は参政権の一種と理解されている。

 政治の場に、自分たちが直接選んだ人間を送り込む選挙権と、既に選挙された人間に対し物申すだけの請願権とは、そもそもその性質が違うと指摘されるかもしれないが、全く外国人が日本の、しかも地方政治でさえも口をさしはさむことは許さないとされているわけではなく、一定の範囲で政治に参画し、意見を言う機会が確保されている以上、外国人の参政権を認める必要はなおのことないと思う。
 
 選挙権とは、その国に所属している国民のみが行使を許された、外国人には認められない特権であると思う。しかし、外国人であっても日本国内に居住する以上、何らかのかたちで政治の影響を受けるのだから、物申すことぐらいは許されたっていい。そこで、この両者のバランスを取るのに請願権が一役買っている。私はこう理解している。



4、外国人参政権と人権擁護法案の関係

 外国人参政権法案と並ぶ稀代の悪法である「人権擁護法案」の法制化に向けた動きが、参院選での自民党敗退、安倍内閣退陣によってか、俄かに活発になっている。そこで今回は、人権擁護法案と外国人参政権法案を同時進行で論じることの「裏の思惑」を、勝手に邪推してみる。

 いわずもがな、人権擁護法案で問題となっている点のひとつが、人権擁護委員に国籍条項が存在しない、というものである。人権擁護委員という機関自体は、人権擁護委員法という、今から約60年近く前に制定された法律によって既に存在しているが、この人権擁護委員就任要件のひとつに、「市町村の議会の議員の選挙権を有する住民」(人権擁護委員法6条3項)という規定があるのはご存知だろうか。つまり、地方議会の選挙権を有していない者は、人権擁護委員になれないというのが、今の法律上の決まりなのだ。

 もう賢明な方ならばお分かりいただけるだろうが、外国人参政権法案による選挙権の付与範囲は地方議会の選挙権である。ということは、外国人参政権法案と人権擁護法案を同時進行で進めて、外国人参政権法案が成立すれば、人権擁護法案が成立したのと同時に既存の人権擁護委員法6条3項の要件も満たせるということだ。

 換言すれば、仮に人権擁護法案が廃案になっても、同法案よりは批判が強くない外国人参政権法案だけでも成立させられれば(両法案どちらが成立可能性が高いかを考えると、外国人参政権法案の方が、メディア規制条項など、左右マスコミから総スカンを喰らうようなものもないので、成立させ易いと思う)、既存の人権擁護委員法の規定に基づいて人権擁護委員に外国人を就任させることは可能となってしまう。

 こうなれば、外国人参政権法案が成立した後に、人権擁護法案の国籍条項の危険性を訴えても、もはや人権擁護委員に外国人が就任できる要件が揃ってしまった以上、無駄ということにもなりかねない(人権擁護法案における人権委員に国籍条件が欠けていても、これを是認したとみなされてしまう)。いわば、外堀を埋められて既成事実を作られるようなものだ。

 外国人参政権法案と人権擁護法案は決して別ものではない。どちらも一蓮托生の稀代の悪法である。反対派は是非このことにも注意を払って欲しい。



5、おわりに

 外国人参政権に言う「外国人」とは、間違いなく在日朝鮮人のことである。もちろん在日朝鮮人の全員が反日で日本嫌いであるとは思わないし、そうでないことも知っている。しかし、残念なことにその多くが反日思想を持っていることは疑いようのない事実だ(同じ在日朝鮮人であっても、総連は反対しているというが)。少なくとも、今回外国人参政権取得に熱心な民団などはそうであろう。祖国に国籍を置きながらせっせと反日活動に勤しむ人たちに参政権を付与するぐらいなら、日本国民の選挙権を下げたほうがまだいいと思うのは私だけだろうか。

私のスタンス

2009年03月07日 | その他
 ここをご覧になっている方ならもはや語らずも自明のことかも知れませんが、政治ネタを扱うブログとしては、この際自分の立ち位置を鮮明にしておいたほうがいいと思い、今回は私のスタンスについて書かせていただきます。



・憲法
→改正は当然のことと考えている。特に天皇を国家元首として明記し、9条を改正するのは絶対に不可欠のことであると認識している。硬性憲法から軟性憲法にする必要がある。


・天皇
→女系天皇は断じて認められない。天皇は1300年以上にわたり、男系で維持されてきたことにこそ価値がある。皇室に人権、平等という近代的価値観は不要。天皇の存在価値の一つは、国民としてのまとまりを生じさせることにある。だからこそ、大東亜戦争も終わりにすることができたのだ。


・安全保障
→基本的には日米同盟維持だが、現実的対応としては、非核三原則は「つくらず」以外は破棄して、アメリカの核による抑止力を具現化するべき。攻撃的兵器保有も早急に実施すべき。いろいろな制約があるのは承知だが、基本的には日本核武装賛成である。


・外交
→日米関係を基盤として展開してゆくことに異論はないが、外交の背景には必ず軍事力があるのが世の常で、このことはナポレオンの「外交は華麗な衣装を纏った軍事である」という言葉に端的に現わされている。よって、日本が自立的な外交を展開するためにも、軍事力の強化は必須である。


・靖国神社
→国立の無宗教の追悼施設というものはそもそも形容矛盾であり、税金の無駄。日本の戦没者追悼施設は明治より靖国神社である。戦没者は日本という国家のために散華していったのだから、国家の指導者が靖国神社を参拝し頭を垂れるのは当然のこと。天皇陛下の靖国神社御親拝再開が望ましい。


・歴史認識
→日本の戦争への謝罪はもう不要。周辺国への賠償も解決済み。大東亜戦争においてわが国は、確かに侵略的側面をもった行動もしたが、それはあくまでも一部であり、未だに喧しく言われるようなものではない。従軍慰安婦や南京事件は非常に眉唾ものであり、鵜呑みにできないのは言うまでもない。


・教育
→学力テストには賛成。教育だけを競争原理から外すことはできない。教育に必要なのは行き過ぎた平等ではなく、克己心の涵養ではないか。学校行事における国旗・国歌の掲揚・伴奏は当然であって、思想・良心の自由を持ち出す問題ではない。


・社会保障
→「大きな政府」はこれからの時代において不適合な存在。社会保障としては、セーフティネットの完備は必要だが、たとえば、年金の財源を消費税で充てるといった発想には与しない。増税による社会保障充実策は好ましくない。


・経済
→政府による市場への介入は極力控えるべき。自由な競争こそが経済を発展させることは、共産主義国家の失敗からも明らかなはずだ。規制が不要だとは言わないが、その程度は必要最小限に留めるべき。


・雇用
→製造業派遣は維持すべし。これを維持しなければ国内企業は海外に拠点を移すことを加速することになり、それは国内産業の衰退を意味し、ひいては結局雇用需要の縮小をもたらすことになる。ただし、保険制度の充実は不可欠である。


・環境
→日本は環境技術においては世界でもトップクラスである。これを活用して環境保全を図るべきなのは言うまでもないが、これを利用して外交を展開していくべき。つまり、無償でノウハウを提供するのではなく、常にその見返りを求めて環境政策を実施すべき。


・国会議員
→国のために死ねない国会議員は税金の無駄なので即刻退場すべし。

年末のご挨拶

2008年12月28日 | その他
 今回のエントリーをもちまして、当ブログの今年最後のエントリーとさせていただきます。本年は昨年と異なり、飛躍的にアクセス数ならびに閲覧数がアップし、大変嬉しく思うと同時に、これからも皆様にご訪問してもらえるよう、知識のアウトプットに必要なインプットのほうもしっかりとしていかねばと思い、身の引き締まる思いです。そこで、本当は種明かしをするようであまり気乗りはしないのですが、私が本年読んできた本(雑誌は除く。)を一挙にご紹介させていただいて、本年最後のエントリーとさせていただきます(未読のものも若干含みます)。



『ハイエク 知識社会の自由主義』(池田信夫、PHP新書)
『日本経済を学ぶ』(岩田規久男、ちくま新書)
『竹島は日韓どちらのものか』(下條正男、文春新書)
『神道の常識がわかる小事典』(三橋健、PHP新書)
『コンサルタントの「質問力」』(野口吉昭、PHPビジネス新書)
『安心社会から信頼社会へ』(山岸俊男、中公新書)
『ワインの文化史』(ジャン=フランソワ・ゴーティエ著、八木尚子訳、白水社)
『新訳 ヴェニスの商人』(シェイクスピア、角川文庫)

『戦略論体系②クラウゼヴィッツ』(戦略研究学会編集、川村康之編著)
『大地の咆哮』(杉本信行、PHP)
『歪められる日本現代史』(秦郁彦、PHP)
『五〇〇億ドルでできること』(ビョルン・ロンボルグ編、小林紀子訳、バジリコ)
『消費者民法のすすめ』(石田喜久夫、田中康弘、法律文化社)
『フランス革命の省察』(エドマンド・バーク著、半澤孝麿訳、みすず書房)
『アナーキー・国家・ユートピア』(R・ノージック、島津格訳)
『デリダ 脱構築』(高橋哲哉、講談社)

『日本語のゆくえ』(吉本隆明、光文社)
『暴走老人!』(藤原智美、文藝春秋)
『マンガ 餃子屋と高級フレンチでは、どちらが儲かるか?』(武井宏文、林總、ダイヤモンド社)
『クローズド・ノート』(雫井脩介、角川文庫)



 こうやって挙げてみると、全然読書量が足りていませんね。しかも偏食気味のラインナップですね(苦笑)。基本的に小説は読まない(読んだとしても年に一冊程度。)ので、文章力がいかんせんなく、当ブログでもそれが如実に反映してしまっていることと痛感しております。来年は偏食気味な読書をやめ、幅広く本を手にとっていこうと思います。



 当ブログを訪問される皆様にとって来年が、本年よりもよりよい一年になることを祈りつつ、本年最後のエントリーを終えたいと思います。来年も、ご指導ご鞭撻のほど、どうか宜しくお願いします。それでは皆様、よいお年を。失礼します。

再掲 私の憲法9条改正論

2008年11月28日 | その他
私の憲法9条改正はシンプルである。9条1項は残し、2項を削除する。これだけである。同じような提案は、確か西尾幹二先生もされていたと思う(少し内容は異なっていると思うが)し、改憲派の百地章先生も、「憲法第9条の改正はあくまで2項のみにとどめ、1項の平和主義つまり侵略戦争の放棄はそのまま維持すべきであろう」とし、「1項による歯止めは必要である」と述べている(『憲法の常識 常識の憲法』129頁)。では、どうしてこの結論なのか。

 まず、世論の賛成を得るという点でこの案は適切だと思う。最近、マスコミが相次いで行った世論調査などによれば、そこでの9条改正に関する聞き方は、この見解に立てば、おかしな(故意に?)聞き方である。

 9条改正と言っても、他国を侵略する意図であったり、好き勝手に戦争をはじめるための布石のためであったり、ましてや徴兵制を敷くための一歩でもない。9条改正の必要性は、日本が「いざという時」に、国民の生命と財産を護り、日本という国を護れるようにするというのが、その目的であって、思うに、世論の多くは9条改正の意図を勘違いしているのではないか(サヨク護憲マスコミによる故意の世論ミスリードである。だから朝日新聞の行った世論調査の結果で、9条改正反対の主な理由が「日本の平和に役立っているから」などというものが多数を占めてしまうのではないか。この認識が誤ったものであるということは、シーレーン上で日本籍の船舶が海賊に襲撃されたにもかかわらず、何の対処もできなかったという最近の事例からも明らかである)。

 よって、「平和主義を定めた9条の改正を・・・」などという聞き方は論外であって、これでは反対が増えるに決まっているし、以前から述べているように、9条の改正の是非を本当に知りたいのならば、1項と2項を分けて聞く必要があろう。

 サヨク護憲マスコミが世論を誤解させている証左として、以前琉球新報が「世論は9条改正反対」と喜び勇んで書いた社説の論拠であった共同通信社による9条に関するアンケートは、以下のようなものだった。


問7 憲法9条は戦争を放棄し、戦力を持たないことを定めています。あなたは、憲法9条を改正する必要があると思いますか、そうは思いませんか。


 これでは改正反対が増えるのは、作成者でなくとも分かりそうなものであって、このような質問事項の作成は、世論を自身にとって都合のいいような結果に導こうとするやり方であって、改正派の趣旨を無視したものである。政府・与党の行おうとしている9条改正とはいっても、1項の戦争放棄の理念は継承し、2項の戦力不保持を見直そうというものであって、このようなアンケートをいくら繰り返し行って同じような結果を出したところで、この結果は護憲派の主張の正当性の論拠たりえないのは言うまでもなく、ましてや世論を誤解させているという意味では、罪ですらある。

 したがって世論は、戦争放棄の理念は守り抜くが、現実にそぐわない戦力の不保持には反対という意見が、本当ならば多数を占めていいのではないか。世論の多数がこの国際情勢の中、日本が非武装中立であるべきなどと考えるだろうか。サヨクのバイアスのかかった姑息な世論調査の結果になど惑わされずに、毅然とその改正の必要性を説くべきだ。なお、砂川事件最高裁判決において、最高裁は「わが憲法の平和主義も決して無防備、無抵抗を定めたものではない」と述べている。



 この案を支持する理由の第二は、現在の9条を普通の人が読めば、明らかに軍隊は憲法違反ということになるからである。それこそが2項の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という箇所である。9条制定の経緯などは、西修先生の多くの著書に詳しく書かれているため、ここでは触れないが、この箇所が存在している限り、自衛隊の合憲論争という、もはや神学論争にも等しい無益な議論に終止符が打てない。

9条の解釈をめぐる(私から見れば)不毛な論争が、戦後日本の安全保障政策において影を落としていたのは否定できない。現に卑近な事例を取ってみても、湾岸戦争時、非武装中立を唱える旧社会党が野党第一党の座にあったため、クウェートに自衛隊を派遣できず、日本は世界の顰蹙を買った。その後、今では考えられないような紆余曲折を経て、漸くPKO協力法が制定された。このような政治の不要な混乱に、憲法9条の解釈をめぐる対立があったことは明らかだ。

 慶応大学の小林節先生ではないが、これでは「憲法守って国滅ぶ」と揶揄されても、それは強ち的外れではない。いや、そればかりか、本当にそのような事態になりかねない。これこそ本当に憂慮すべき問題である。



 ところで、独立国家であれば当然に自国を防衛するための自衛権がある。個別的自衛権、集団的自衛権ともに国連憲章51条において認められている、国家固有の権利である。つまり、当然に日本も個別的自衛権、集団的自衛権ともに有してはいるが、集団的自衛権に関しては、その1で述べたような解釈を取っている。

 集団的自衛権に関しては、国際司法裁判所はニカラグア事件判決において、集団的自衛権が行使可能な要件として、自国と連帯関係のある国家が、第三国から武力攻撃を受けたことを宣言し、かつ、攻撃を受けた国家が、支援・援助を要請していることを挙げ、集団的自衛権を国際慣習上確立された権利であるとしている。

 先日、報告書を提出した柳井俊二前駐米大使を座長とする「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」で検討された集団的自衛権行使のパターンは、(1)米国を狙った弾道ミサイルをミサイル防衛システムで迎撃、(2)公海上で並走中の米軍艦船が攻撃された際の海上自衛隊艦隊による反撃、(3)一緒に活動する多国籍軍への攻撃に対する反撃(4)国連平和維持活動で妨害を排除するための武器使用-の4類型であったが、これらはいずれも円滑な日米同盟運営のためにも容認すべき範囲の集団的自衛権であろう。

 ここで「容認すべき範囲」という表現を用いているように、私は無制限に自衛権の範囲を拡大しようとするものではない。そこには一定の限界があるし、一定の限界があるべきである。その意味で、だからこそ憲法9条を改正し、自衛権の範囲を明確にし、そこに一定の歯止めをかけるべきなのである。憲法9条下で自衛隊、自衛権をグレーゾーンのまま置いておくほうが、逆に有事となった際に無制限に軍事力の範囲が拡大し、おかしな方向へ向かうのではないかと考えている。

 それならば日本が他国から武力侵攻しないという確約を取り付けてくればいいと批判されそうだが、そのような確約が一定の状況下では無意味なものになることは歴史が証明している。たとえば、日本は戦前ソ連の南下を恐れて1940年、「日ソ中立条約」を結んだが、1945年8月、日本が降伏する直前になって火事場泥棒的に一方的に同条約を無視して対日宣戦布告をし、北方領土を占領したではないか。日ソ中立条約を締結した当時、ソ連側はスターリン自身が日本側代表松岡洋右を駅まで送迎し、条約締結を熱烈に歓迎したにもかかわらずに、だ。

 この史実が証明しているのは、たとえ武力侵攻しないという確約を取り付けても、国際情勢やその後の国内事情の変化によって、そんなものは容易に反故されかねないということだ。当時の軍国主義的な日本政府ですらソ連が条約を無視し、対日宣戦布告をしたということは衝撃的であったのだ。

 そもそも、現在の日本政府に対日宣戦布告は絶対にしないという確約を取り付けるほど外交力があうとは思えないが(外交力も結局は軍事力が決定的な影響を持っている)、仮にそのような確約を取り付けても、決して非武装に甘んじることは許されないのだ。いや、むしろ、そのような確約を取り付けたからには、相手方に確約を反故させないよう、強力な軍事力をもって常に威嚇する必要すらあろう。なぜなら、相手方はたとえ日本に武力侵攻しないと「口先で」明言しても、日本に武力侵攻するメリットありと判断すれば、攻撃を仕掛けてくるのであるから(戦前のソ連がいい例だ)。逆に、そのときに非武装でいたほうが、無駄な被害を出すはずだ。



 そして、趣旨が若干ずれてしまうが、非核三原則の法制化にも反対である。核武装論者である私としては、日本が自前で核戦力を保持することに賛成であるが、それはNPT体制、日米原子力協定、国内世論等によって実質的に不可能であると思うので、そこまでは主張しないが、非核三原則は「つくらず」以外は全て撤廃すべきである。もちろん、非核三原則が有効な現在でも、暗黙裡のうちに在日米軍が核戦力を日本国内に入れているだろうが。

 では、どうして非核三原則の法制化に反対かと言うと、法制化してしまうと、それは現在の宣言程度の非核三原則に比べ、国家を拘束する力が増し、日本の安全保障政策の変更が非常に難しくなってしまうからだ。しかも法制化したということは、「日本は核はどんなときでも持たないし使いませんよ」と宣言してしまうことになり、これは安全保障政策上、極めてデメリットの多いことである。

 自衛権は、「いざという時になったら容赦しないぞ」という事前の軍事力による威嚇力もその中に含まれるべきで、それをみすみす放棄し、自分の手の内を公開してしまうようなことは、愚策としか言いようがない。
 国家を強盗にとられかねない非常に不適切な喩えだが、ピストルを振りかざして強迫する強盗が、「このピストルには弾が入ってしませんよ」と言ってしまえば、その強盗の計画は失敗するだろう。しかし、たとえ弾が入っていなくとも、「撃たれる可能性がある」と相手方に認識させることが、強盗成功への重要なファクターである。この喩えを先ほどの非核三原則法制化に当て嵌めたら、日本が蒙る不利益が分かるはずだ。

 核武装論に関してついでに言えば、日本が唯一の被爆国だから核を持ってはならないという理屈は、全く説得力がない。むしろ私は、唯一の被爆国だからこそ、そのような惨禍が二度と起こらぬよう、あらゆる軍事力をもって、日本を防衛すべきであると思う。日本が核を持ちませんと言ったところで、周辺国も「そうですね、核はいけないですね」となっているか?それどころか、北朝鮮など堂々と日本を敵国視し、核実験に勤しんでいるではないか。というか、核はいけないと言っておきながら、電力の多くを原子力で賄うことに矛盾を感じないのか。しかも、核反対派の多くは「エコ論者」であると思われるが、原子力が地球環境にやさしいクリーンな電力供給手段というこの矛盾。



 話を元に戻して最後に。私が言いたいことは、所詮憲法9条を守ったところで、周辺国はこれに同調しないし、そうである以上、日本がこれからも平和裏にやっていける可能性はない。憲法9条を守り、自衛権を否定しても、それはその時だけ味わえる、まるで薬物によってハイ状態になるような一時的な自己満足にすぎない。国家は国民の生命と財産、領土と主権を守るために、天災に備えて非常食を備えておくように、常に「いざ」という時のために、準備を怠ってはならないのだ。それが自衛権行使のための軍事力であり、憲法9条の改正であるのだ。

再掲論文 靖国神社参拝に関して

2008年11月27日 | その他
1、はじめに―日本国憲法における政教分離原則

 日本国憲法における政教分離原則とは、憲法20条2項後段の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」という文言と、同条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とする条文からなるとされている。また、政教分離の原則は、89条の「宗教上の組織若しくは団体」に対する公金の支出を禁止する条文によって、その分離を財政面からも規定している。 

2、訴訟における争点の検証

、内閣総理大臣の靖国神社参拝は、憲法の規定する政教分離原則に反するか否か。
、原告らの言う「宗教的人格権」は成立するか否か。
、内閣総理大臣の靖国神社参拝は、国家賠償法1条1項の「職務を行うについて」に該当するか否か。
、原告らの法益の侵害があったと認められるか否か(精神的苦痛による損害賠償請求は可能かどうか)。

内閣総理大臣の靖国神社参拝は、憲法の規定する政教分離原則に反するか否か。

 国やそれに準ずる機関の行為が政教分離規定に反するか否かを判断するにおいて裁判所で用いられている方法として、目的・効果基準がある。そこで、目的(本件参拝が宗教的意義を持つか。)・効果(本件参拝が靖国神社に対する援助・助長・促進になり、原告らの信教の自由を圧迫・干渉することになったか。)基準に照らして本件参拝の合憲性を検討すると、3つの判断基準において判断することになる。

①内閣総理大臣よる本件参拝はわが国の社会的・文化的諸条件に照らし、相当とされる限度を越えるものか(本件参拝が宗教的意義を持つものかどうか)。

 愛媛玉串料訴訟最高裁判決での反対意見において可部恒雄裁判官が述べているように「政教分離原則は、国家の宗教的中立性を要求するものではあるが国家と宗教とのかかわり合いを全く許さないものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的・効果にかんがみ、そのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を越えるものと認められる場合に」憲法違反となるものである。
 このように政教分離原則を緩やかに解するならば、同判決において同じく反対意見を述べた三好達裁判官の指摘するように、「祖国や父母、妻子、同胞等を守るために一命を捧げた戦没者を追悼し、慰霊することは」、「国民一般としての当然の行為」であって、「このような追悼、慰霊は、祖国や世界の平和を祈念し、また、配偶者や肉親を失った遺族を慰めることでもあ」って、「人間自然の普遍的な情感である」と言える。これは、三好裁判官自身も述べているように、昭和60年に中曽根康弘内閣の下で設置されたいわゆる靖国懇のまとめた報告書の内容に近い。
 また、松山地裁で提起された靖国参拝訴訟において国は、昭和53年の、福田赳夫首相が靖国神社へ参拝したときの政府統一見解をほぼ踏襲したものと見られる、「内閣総理大臣その他の国務大臣の地位にある者であっても、私人として憲法上信教の自由が保障されていることは言うまもない」ということを主張している。内閣総理大臣が本件参拝において第一に依拠すべきなのは政府統一見解であるのだから、その統一見解で本件参拝を違憲ではないとしている以上、本件参拝について何ら躊躇する必要はないとも言える(百地章『靖国と憲法』成文堂、144頁参照)。
 したがって、本件参拝は小泉氏の私的な信条の発露から、戦没者の慰霊と遺族への慰謝を行ったという世俗的な性質に留まると解すべきであって、本件参拝が宗教的意義を有し、社会的・文化的諸条件に照らし、相当とされる限度を越えるものとは言えない。

②内閣総理大臣による本件参拝が靖国神社への援助・助長・促進につながったか。本件参拝によって原告らの信教の自由が圧迫・干渉されたか。

 本件参拝に対する訴訟において、原告らがしばしば主張するところによれば、「内閣総理大臣による本件参拝等によって」、靖国神社のホームページへのアクセス数が急増し、靖国神社への参拝者数が増加したことをもって、本件参拝が靖国神社への援助・助長・促進につながったと結論づける。
 確かに、靖国神社にこのような効果がもたらされたのは客観的にも証明されており否定できないことではある。しかし、原告らの上記の理論を敷衍させれば、このような効果がもたらされたことにより靖国神社が他の宗教団体と比較して憲法20条1項後段にいう「特権」を得る地位に至ったということになるが、では、内閣総理大臣の行う宗教とのかかわり合いをマスコミがつぶさに報道しそのことによって報道された宗教団体の訪問者が増加し、ホームページアクセス数なども増加すれば、靖国神社「だけが」、特権を付与されたという結果を導き出せないことになり、特定の宗教団体だけが特権を得たという結果にならないと思われる。そもそも、「特権」というのは、一部の者に限って認められている優越的な地位である。
 よって、このような表面的な結果のみをもって靖国神社が他の宗教団体に比べ宗教の援助・助長・促進という効果を得たと主張するのは、余りに論拠薄弱であると考えられる。
 次に、本件参拝によって原告らの信教の自由が圧迫・干渉される結果となったか否かについてであるが、このことは最高裁判決平成18年6月23日が指摘しているように、「人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活等に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではない」のであり、しかも、本件参拝によって国及びその機関から不利益な扱い又は宗教上の強制もしくは制止が行われたという事実は認められないということは多くの裁判所の認めるところであり(福岡地裁判決平成16・4・7等)、よって本件参拝によって原告らの信教の自由が圧迫・干渉を受けたということはできない。

③本件参拝によって、国家と宗教団体との中立性が害されたか。

 本件参拝によって国家と宗教団体との中立性が害されたと言うことはできない。なぜならば、たとえば「東京都慰霊堂における関東大震災遭難者と東京大空襲犠牲者のための仏式慰霊祭への都知事らの参列、横浜市英連邦墓地におけるキリスト教、ヒンズー教、ユダヤ教、イスラム教、仏教共同の英連邦追悼式とそれへの外務大臣、神奈川県知事らの参列」といった行為も同時に、国及びその機関は行っているからである(百地章『政教分離とは何か―争点の解明―』成文堂、134頁参照)。
 それでは何をもって「中立」というかであるが、これに関しては判例でも繰り返し述べているように、政教分離原則は「国家と宗教のかかわり合いを全く許さない」ものではないので、百地教授が著書で指摘しているこれら行為に対し、少なくとも憲法違反であるとして訴訟が提起されてはいないのであるから、のは憲法の言う政教分離を通しての中立性の要請とは、両者の過度のかかわりを禁止したにとどまり、国家行為にまったく宗教的要素の無味乾燥を要請しているものではない明らかであると思われる。
 加えて、国が問題となる宗教団体に付与した金銭の多寡も、中立性の基準としては機能しないと考えられる。仮に金銭の多寡が中立性の基準となるならば、本件参拝によって小泉氏が支出した献花料3万円に比べ、宗教系私立学校への助成金のほうが圧倒的に多いのは明白であるので(たとえば、平成16年度、文部科学省が関西学院大学に補助金として交付した金額は約24億8500万円である。)、同時にこちらも憲法違反とされなければ論理的な整合性は取れていないことになるからである。

、原告らの言う「宗教的人格権」は成立するか否か。

 政教分離原則から宗教的人格権を導き出すにあたり、その具体的内容、根拠が不明確であり、同権を信教の自由と異なった独自の人権と解するならば、どのような点に独自性が認められるのか、という点においても明確な説明がなされていないし、宗教的人格権という、漠然かつ抽象的で、各人の主観的側面いかんによっていくらでも定義可能なものを法的に保護するに値するものとすると、憲法の定める違憲審査制が恣意的に運用されてしまう危険性も払拭できない。これは、松山地裁に提起された靖国参拝訴訟のように、憲法13条(幸福追求の権利)を根拠として宗教的人格権を主張する場合も同様であると思われる。
 宗教的人格権に関しては、「実定法上の根拠を欠くものであり、その内容も主観的、抽象的なものであって、憲法上の人権として保障されているものとは解し難いから」、「その前提を欠き失当である」と判示した福岡地裁判決(平16・4・7)の指摘するとおりであろう。

、内閣総理大臣の靖国神社参拝は、国家賠償法1条1項の「職務を行うについて」に該当するか否か。

 この点に関しては本旨から若干逸脱する可能性があるので簡潔に述べるに留めておく。
 国家賠償法1条1項の適用が認められるためには、まず本件参拝が「職務を行うについて」なされたものと認定されなければならない。この点、多くの判決は本件参拝が「職務を行うについて」なされたものと認めるところであるが(東京高裁判決平成17年9月29日は、本件参拝を「内閣総理大臣の職務行為として行われた」と「評価することは困難というほかない」として、本件参拝を職務行為と認定しなかった。)、後に述べるとおり原告らに損害は発生していないとして、国家賠償法による損害賠償責任を認めなかった。
 なお、本件参拝が公用車を使用し、SPを同行させた等の理由をもって職務上のものであるとする主張が見られるが、「閣僚の場合、警備上の都合、緊急時の連絡の必要性等」(昭和53年時の政府統一見解)から、これら措置は当然のことであって、これをもって本件参拝を職務上のことと判断するのは、極めて粗雑な理論である

、原告らの法益の侵害があったと認められるか否か(精神的苦痛による損害賠償請求は可能かどうか)。

 本件参拝に関する訴訟は形式的には損害賠償請求というかたちをとっている。本件参拝において国に対する国家賠償法による損害の補填が認められるためには、①本件参拝が事実行われたこと、②本件参拝が違法であること、③本件参拝が被告の故意によること(過失による参拝など考えられない)、④原告らに損害が発生したこと、⑤本件参拝と損害との間の因果関係、⑥本件参拝が「職務を行うについて」なされたこと、という要件を全て満たさなければならない。多くの判決は①と⑥を認定しても、上記の最高裁判決が言うように「他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできない」のである以上、精神的苦痛による損害賠償請求が認められないのは明らかである。よって、民法709条による損害賠償請求もなしえない。

3、結語

 政教分離原則とは、人権規定なのではなく政教分離原則という制度を定めることによって信教の自由を保障するという、いわゆる制度的保障にとどまるのであって、そこから各々の主観的感覚に拠るところの大きい宗教的人格権と呼ばれる人権規定を導き出すことは、違憲判断を極めて恣意的なものにしてしまう可能性も否定できず、現実的には不可能であると考えられる。
 そして、過剰な政教分離を実行していくと、かえって他者の信教の自由を侵害してしまう可能性もある。たとえば、本件参拝を日本遺族会等は強力に支持をしてきたが、本件参拝に厳格に政教分離を適用すれば、間接的であっても遺族会の人たちの信教の自由の侵害ということにはならないだろうか。本件参拝に関する訴訟では、靖国神社に対し小泉氏の参拝を受け入れないようにしろという請求もあったが、たとえ内閣総理大臣であっても信教の自由等の自由は等しく保障されなければならないのだから、このような請求は過剰な政教分離を主張するあまり、被告の信教の自由を侵害しているものと言える。
 繰り返し述べるが、要するに、政教分離とは、小嶋和司先生が、「民間信仰の表現としての地蔵や庚申塚が公有地の隅に存することも容認しないほど憲法は不寛容と解するべきか」と嘆かれているように、全く国家又はその機関が宗教と接触するのを禁止するものではなく、国家が特定の宗教と結びつくことを禁止しているに過ぎない規定であると考える。
 次に、政教分離原則のもと国家行為の違憲性を判断するにおいて、かねてから「社会通念に従って客観的に判断すべき」という基準も設けられている。ところで、内閣総理大臣の靖国神社参拝についての世論の動向は、平成13年に共同通信社の行った調査では参拝賛成が74%にものぼり、昨年の終戦記念日の小泉氏の参拝について同社が行った調査でも「参拝してよかった」との回答は51.5%を記録したという。ということは、裁判所が判断すべき社会通念を形成する一つの論拠であると思われる世論は、内閣総理大臣の靖国神社参拝に否定的な者がマジョリティーを占めているとは言えない以上、「社会通念に従って」判断すれば、一概に違憲とは言えないであろう。
 それから、津地鎮祭最高裁判決が言うように、「多くの国民は」、様々な宗教を「使い分けしてさしたる矛盾を感ずることがないような宗教意識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心は必ずしも高いものとはいい難い」のであれば、なおさら本件参拝は世俗的なものにとどまると解することはできないか。
 の②のところで論じた、本件参拝が靖国神社の宗教を援助・助長・促進する結果になったのは、内閣総理大臣による靖国神社参拝自体はそれ程関係ないのではないかということを付言しておきたい。というのは、今年1月6日、安倍晋三前首相が明治神宮を参拝したが、その後明治神宮の参拝者数が増加したという話は聞かない。更に、昨年8月5日、小泉氏は広島の原爆者追悼式出席の前に、山口県萩市にある吉田松陰を祀ってある松陰神社に参拝したが、その後松陰神社の参拝者数が増加したという話も聞いたことがない。つまり、靖国神社に上記のような効果がもたらされた背景には、内閣総理大臣による参拝以外の別の要因があるものと考えられる。
 そこで考えられるのは、マスコミによる首相靖国参拝に関する報道である。上記の安倍前首相の明治神宮参拝には殆ど紙面や時間などを裂かなかったにも関わらず、首相の靖国参拝については明治神宮のそれと比べても、費やされた時間、報道された規模、それによって国民がその情報に触れる機会の多さ等、どれをとってみても勝っていると言える。要するに、靖国神社に上記のような効果がもたらされた原因は、内閣総理大臣にあるのではなく、マスコミの報道合戦によるものが多いと思われる。
 最後に。どういうわけか厳格な政教分離基準というものは、神道にだけ、それも靖国神社にだけ適用される傾向にあるようなのである。愛媛玉串料訴訟最高裁判決において可部裁判官が反対意見のなかで述べているように、これは「徒らに国家神道の影に怯える」がゆえに「すべて、戦前・戦中の神社崇拝強制の歴史を背景とする、神道批判の結論が先行する」ためなのではないだろうか。福岡地裁判決はまさにこれを裏付けるかのように、政教分離規定は「神道を念頭においた規定である」と明言している。しかしながら、GHQの憲法起草者たちは国家と神道を分離させたいわゆる「神道指令」とは異なり、という現行憲法の政教分離原則は国家と教会の分離、すなわち「国家と宗教団体」との分離を念頭に置いていた(百地章『憲法の常識 常識の憲法』文春新書、183頁参照)。

4、補足説明

・A級戦犯

 靖国神社に合祀されている、いわゆるA級戦犯を含む戦犯とされた者たちに関して、政府は国内法上戦犯ではないとの答弁書を昨年10月26日閣議決定している。答弁書は「(東京裁判などで連合国戦争犯罪法廷が科した)刑は、わが国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」と指摘している。
 そして刑死者たちは、国内法上は他の戦没者らと同様に「法務死」とされ、戦傷病者戦没者遺族等援護法による遺族年金等もすべて平等の扱いを受けている。そして、このような扱いは昭和28年当時、自由党、改進党、右派・左派社会党らが賛成し、圧倒的多数をもって決定されている。
 更に、サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)11条(極東国際軍事裁判所並びに国内外の他の連合国戦争犯罪法廷の諸判決を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。)によって日本が独立を回復した後も、1860名もの「戦犯」が依然として服役していたが、彼らを早期に釈放しようと国民運動が起こり、その署名数は4000万以上にのぼったと言われている。
 もとより、国際法上は平和条約の締約によってはじめて戦争状態が終結するのであって、その意味ではいわゆるA級戦犯らが連合国による裁判を受けていたときは、日本は停戦状態なだけであって、まだ戦争は終結していなかったのだから、連合国の裁判によって処刑された者たちも「戦争中に亡くなった」と解釈することが可能であって、よって靖国神社に合祀されても不自然ではない。

・靖国神社

 1869年(明治2年)に戊辰戦争で亡くなった方々の魂を慰めるのを目的に明治政府によって建立された神社。前身は「東京招魂社」。明治12年に明治天皇の命名で現在の名称に変更。「靖国」とは、「国を安らかにし、穏やかで平安にする」という意味。
 靖国神社には、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、満州事変、支那事変、大東亜戦争などで日本のために戦われた方々の霊、246万6000余柱(御霊は人ではなく柱と数える)が英霊として祀られている。この中には、坂本竜馬、吉田松陰、高杉晋作も含まれている。
 しばしば「靖国神社は国家のために死んだ者しか祀っていない」という批判がなされるが、実は靖国神社には本殿に向かって左側に「鎮霊社」という世界中のあらゆる戦死者をお祀りしてある建物がある。加えて、戦没馬慰霊塔、鳩魂塔(きゅうこんとう)、軍犬慰霊像という戦争で死んだ動物たちも祀られている。ちなみに、海外の要人も靖国神社へ参拝をしている。一例を挙げてみる。

①昭和31年4月、張道潘中華民国立法院院長一行が参拝
②昭和35年3月、ビルマのウ・ヌー前首相が参拝
③昭和36年12月、アルゼンチンのフロンデシ大統領夫妻
④昭和38年6月、タイのプミポン国王夫妻が参拝
⑤昭和40年3月、西ドイツ練習艦隊士官候補生50人が参拝
⑥昭和41年1月、フランス練習艦隊の乗組員達が参拝
⑦昭和44年4月、在日米軍海軍司令官スミス少将以下25人が参拝
⑧昭和55年11月、チベット・ラマ教法王ダライ・ラマ14世が参拝
⑨昭和56年6月、インドネシアのアラムシャ・R・プラウィネガラ宗教大臣が参拝し、「アジア民族独立の歴史は日本の日露戦争勝利に勇気づけられた」と語った。

 さらに、昨年6月7日、李登輝元総統が靖国神社へ参拝したことは記憶に新しい。
 なお、アメリカのアーリントン墓地には、ジェイコブ・スミス将軍という、フィリピンでの戦闘で、敵側の10歳以上の人間を皆殺しにするように命じたため、軍法会議で有罪となった人物が埋葬されているが、今や各国首脳がアメリカを訪問したとき、アーリントン墓地に赴き、献花するのは慣行となっている
 韓国にも、毎年6月6日に「顕忠日」という、韓国のために戦い亡くなった愛国者を大統領が追悼する日がある。朝鮮日報2006年6月7日の社説によれば、「顕忠日は国のために亡くなった人たちに、その犠牲を無駄にすることなく、こんな誇らしい国を作り上げたと報告する日」だという。

・日本政府は戦前に神社神道を強制したか

 一般的に戦前の日本は神道を事実上の「国教」として扱っていたと考えられているが、これは誤りである。伊藤弘文の名で刊行した大日本帝国憲法の注釈書『憲法義解』には、「国教を以て偏信を強ふるは尤人知自然の発達と学術競進の運歩を障害する者」とあり、国教制を文明に逆行するものと考えていた
 よって、日本政府ははじめから神社参拝等を強制しようとは考えていなかった。神社参拝強制が特に問題となったのは満州事変以降であるし、憲法起草者であった伊藤や井上毅らは、「臣民ノ義務」に神道儀式への参列義務まで含めて考えてかなった。つまり、神社神道強制とは、戦前のごくわずかな一部の時期になされたに過ぎなかった。神道が国家的保護を受けていたというが、それはあくまで布教活動や葬儀などの宗教活動を禁止した上での措置であった。しかも、神社への国家の財政援助は微々たるものであったという。
 戦前・戦中における国家権力による宗教に対する弾圧・干渉を言うならば、苛酷な迫害を受けたものとして、神道系宗派の一派である大本教などもあったのだ

筑紫哲也の死

2008年11月09日 | その他
ニュースキャスター・筑紫哲也さん、肺がんで死去(読売新聞) - goo ニュース

ニュースキャスターの 筑紫哲也さんが7日午後1時50分、肺がんのため東京都内の病院で亡くなった。
 73歳だった。告別式は近親者のみで行い、後日「お別れの会」を開く。喪主は妻、房子さん。
 大分県出身。早稲田大卒業後、1959年に朝日新聞社に入社。政治部記者、ワシントン特派員などを経て、84年に「朝日ジャーナル」編集長に就任。「新人類」「元気印」などの流行語を生み出した。78年から82年にかけて、記者活動のかたわら、「日曜夕刊!こちらデスク」(テレビ朝日系)のキャスターも務めた。
 89年に朝日新聞社を退社、TBS系「筑紫哲也NEWS23」のキャスターに転じた。雑誌的な切り口や街頭インタビュー、コラムコーナー「多事争論」など、従来の報道番組にはなかったスタイルで、テレビ朝日系「ニュースステーション」の久米宏さんとともに、新しい形のニュースキャスターとして人気を集めた。



 いわずもがな「ニュース23」のあの人である。私はイデオロギー的には大嫌いな人物であったし、亡くなった今でもその評価に全く変更はない。彼が「23」中で行ってきた数々の偏向報道を決して忘れないし、忘れてはならない。あれは「ニュース」ではなく、「プロパガンダ23」であったと思っている。しかし、亡くなった故人に対し今さらあれこれ批判をしてもしょうがない。今は冥福を祈るのみである。合掌。

 かつて読売新聞のエース級の記者と持て囃された黒田清は、ジャーナリズムの基本は弱者の立場を代弁することであると述べたというが、このジャーナリズムの定義にしたがえば、彼は一級のジャーナリストであったのかもしれない。

 彼が熱心に追った「弱者」とされる人たちの中には、弱者を装った運動家(慰安婦を支援する団体などが好例だ)も(彼の意図からか)多く紛れ込んでいただろうが、その報道姿勢が多くの人を、いい意味でも悪い意味でも動かしてきたのは事実だろう。

 私は彼のイデオロギーは最初にも述べたとおり大嫌いであったが、彼の人柄はなかなか評価していた。それは彼が亡くなってからの一連の報道でも明らかになっているが。人柄も評価できないただ他者を口汚く罵るだけの自称「保守」のウヨクオタクよりは、よほど彼のほうが私は好感が持てた。

 今回彼の訃報にふれてネット上では彼の死を喜ぶような馬鹿者が多々見られたが、そのような者に「保守」や「右翼」を名乗られるほど不愉快なことはない。筑紫哲也の死を心の中でどのように思おうがそれは勝手だが、人の死に際してそれを喜び死者を罵倒するような書き込みをするなどということは、右翼か左翼か以前に、人間として最低なことであり、言語道断である。

 このような人物は金輪際、靖国神社参拝賛成などと口にするべきではない。死者に鞭打つような真似は野蛮な人間の行うことであって、祖国を想い散華した英霊を崇敬するような人間の行うことではない。今回筑紫の死に際し、死者となった彼にくだらないバッシングを浴びせる者は、いわゆるA級戦犯に対し未だに下品な批判を浴びせて憚らないサヨクと一緒である。しばしばサヨクもウヨクも極端なものになるとその根っこは同じというが、まさにそのとおりなのだろう。もっとも、筑紫の死を喜ぶような書き込みを行っている者に、そこまでの思想性は感じられないが。

 亡くなった人は、どんな人でも同じ。筑紫のイデオロギーを批判するのは死後においてもいくらでもしてもいいが、その者に対し鞭打つような、しかも遺族の方が悲しむようなバッシングは厳に慎むべきだ。

ご紹介

2008年09月14日 | その他
 今回は社会や政治に関する考察ではなく、私の私淑する中村粲獨協大学名誉教授の論文をご紹介したいと思います。中村先生の著書や論文はどれも必読に値するものばかりであるのは周知ですが、今回ご紹介する月刊誌「WILL」10月号に掲載された「やむなし、竹島砲爆撃」も必読のものであります。

 一見すればタイトルこそ過激ですが、書かれている内容は極めて精緻かつ論理的であります。先生の当該論文の評価は各自にお任せしますが、念のため一応補足しておきますが、先生は竹島を爆破して沈めてしまおうと主張しているものでも、ましてや韓国と戦争をはじめよと主張しているものでもない、ということだけ述べておきます。

 私もかねてから、竹島問題は、日本側が軍事的なアクションを起こさなければ永遠に平行線(韓国が不法占拠を続けたまま)であると考えており、先生のご見解はまさに的を射ているものであります。

 ただし、先生のご見解に恐縮ながら敢えて意見を述べさせていただくならば、竹島にある韓国軍のレーダーや軍事関連施設を爆破してしまうと、先生は戦争の危険性はないと述べておられますが、私は戦争の危険性が極めて高くなると思います。日韓での戦争をアメリカは間違いなく反対するでしょうし、それによって得をするのは中国や北朝鮮といった、本来日本が真に警戒すべき存在であると思うのです。なので、あくまでも軍事的威嚇行為にとどめ、それによって国際社会の関心を惹きつけ、一気に国際司法裁判所に持ち込むというのが無難なのではないかと思います。

 しかしながら、先生のご見解は今の敗北に敗北を重ねている日本の外交に一石を投じるものであり、珠玉のものであるのは間違いありません。よって、一読をお薦めする次第であります。

ご無沙汰しておりました

2008年08月25日 | その他
 ご無沙汰しておりました。ここ最近、私用に忙殺されていたためブログの更新が滞っていました。また私の拙い記事にコメントを下さった方々にもご返信ができない状態となっていたことをお詫びいたします。近日中にご返信させていただく所存でありますので、今しばらくお待ちいただきたいと思います。申し訳ございません。



 さて、ここ最近の政治・社会にまつわる出来事を眺めていて、自分なりに気になったものをいくつか取り上げ、少しばかり私見を述べさせていただきます。



 福田首相の靖国神社不参拝。

 もう半月近く前になるが、ご存知のとおり福田首相は予め明言はしていたものの、やはり終戦記念日に靖国神社に参拝しなかった。首相をはじめとした閣僚の靖国神社参拝に全面的に賛成はするが、行く行かないはさすがに本人の自由意思に委ねるべきだと考えるので、彼の不参拝を批判するつもりはない。

 そもそも、英霊に敬意と感謝を表するつもりのない者をいやいやながら連れ出し、参拝させるというのは、靖国を想う者であるならば、それは英霊方や遺族の方々に失礼であると思わなければならないはずである。よってこの二つが、彼の靖国神社不参拝を(残念とは思うものの)批判することはしない理由である。

 しかしながら、靖国神社に参拝をしないならば、せめて未だに遺族の下へ還らぬ、アジア各地に眠る多くの旧日本兵の遺骨や遺品の回収作業に精を出すべきではないだろうか。このような作業を遺族の方々がやっていても、そこには自ずから限界があるのであり、政府が先陣を切ってやらなければ、いつまで経っても残された遺族の方々の「戦争」は終わらないし、それこそ戦没者の冥福を祈る土壌が整わないと思う。政府が国民を戦場に駆り出した以上、(言い方は悪いが)その後始末も責任をもって行うべきだ。



 これはここ最近のものではなく、大分前(昨年12月)のものであるが、「R25」という雑誌に「ところで「保守主義」ってどんな主義なの?」という記事が掲載されていたのだが、これがあまりにもお粗末であるということを、今後の保守のためにも指摘しておきたい。

 この記事でインタビューを受けている中岡望氏に「保守」の定義とやらをじっくり訊いてみたいとは思うが、限られた時間と紙面の中でこれほどのものを説明せよと言われたのだから、氏の説明が大味になってしまっているのは致し方ないとしても、いささか酷いものがある。

 まず、氏は保守主義者は「伝統と社会秩序を重んじ、緩やかな社会変革を主張しています」と言う。これはこれで保守の説明としては決して間違ってはいない。保守主義の祖とされるエドマンド・バークも、その主著『フランス革命の省察』のなかで、保守は革命(revolution)は断固として否定するが、改革(evolution)は必要であると述べていることからしても、これは頷けるものである。

 ではこれのどこが問題かと言うと、このような考え方はハイエクも共有している、ということである。確かに氏はハイエクを「保守主義者」というカテゴリーに分類はしているが、実はそのハイエク自身が「なぜ私は保守主義者ではないか」という論文を1960年に執筆しており、その中で自身が保守と看做されることに関して異議を唱えている。おそらく氏がハイエクを保守主義者と看做した(勘違いした)のは、保守党のマーガレット・サッチャーがハイエクを信奉していたからであろう。

 もし氏の理論を当て嵌めて保守を定義するならば、昔のイギリスのホイッグ党(現イギリスの自由党)も保守政党ということになってしまう(バークは下院議員当選前にホイッグ党左派のロッキンガム伯爵の秘書になっているのだが)。保守とは本来、自由を擁護するものなのである。だからこそバークはアメリカの独立運動を支持したし、ハイエクも自身をさきの論文の中で「古きホイッグ」と位置づけているのだ。

 それから、「保守思想の一部であるナショナリズム」という表現があるが、ナショナリズムは保守だけでなく、同時にリベラルの一部でもあると思うのだが。ナショナリズムは保守ないしは右翼だけの専売特許ではなく、リベラルや左翼にも存在している。このことは韓国のノムヒョン前政権や、ベネズエラのチャベス政権等を見れば分かりそうなものだ。



 さきの議論を踏まえて現在の日本の「保守」を考えてみると、それが本来の「保守」とはかけ離れた、日本独自のものであるということが分かる。まず、保守を自称するならば、徒に過去のものだからといって「保守」してはいけないはずだ。しかしながら、日本の保守には「変えるべきもの」と「保守すべきもの」の分別がきちんとついているのかと思う場合が(挙げることは避けるが)多々ある。

 次に、日本の保守は多分にセンチメンタリズムの要素が強く、懐古趣味的な傾向が強いことも特徴として挙げられるだろう。これでは保守主義ではなく、ただのロマン主義である。確かに、今の日本は昔(それがどのくらい昔なのかは一概には言えない)の日本に学ぶべき面もあるだろうが、昔の日本だって負の側面はあるし、それを他山の石としなければならない面もある。何でもかんでも昔の日本のようにすれば、現在の日本が抱えている問題が解決できるというものではないだろう。そこは絶対に守るべき一線のはずである。これができないと、徒に戦前の日本を美化してしまうために、客観的に歴史を見ることができない。

 保守であるがゆえに昔の日本を善く見たいとするあまり、懐古趣味的なロマン主義に走る傾向があるのは理解できるが、日本の保守は、本来の保守の妨げとなる懐古趣味と決別をしなければならない。



 以上が、最近私が思っていたこと(の一部)です。

どうして今のようなスタンスになったのか

2008年06月14日 | その他
 今回は他にも書きたいことは多々あるのですが、どうして自分が今のような思想的(と言えば、何やら崇高なものに聞こえてしまいますが、決してそんなことはなく陳腐なものですが)スタンスになったのか、ということについて話をしたいと思います。

 思えばこのブログを始めてから、こうした自身に関わることを話したことは今までなかったと思います。けれども、やはり当ブログをご覧になられる方々には、このブログの管理人がどういう人間なのか、たまには少しぐらい自分の人間味の伝わるような(?)内容のエントリーも書いたほうがいいなと思い、このようなことを書き出す次第であります。



 そうですね、どこから話せばいいでしょうか。お恥ずかしながら、自分が今のように政治なり社会の出来事に関心を抱くようになったのは、つい最近からなんです。それまでは、本当に左翼がかった(もしかしたら今でも!?)、けれども別にそういったものには興味もない、限りなくノンポリに近い左翼かぶれみたいなもんでした。

 新聞はどれを読んだって同じだし、むしろ、「産経新聞って何?」っていう程度のものでしたから・・・。だから朝日新聞を取ったと思ったら、適当に読売も取ってみれば、毎日を取ったりもしていました(苦笑)。まぁ、殆どまともに読んでなんかいなかったんですけどね(笑)。



 けれども、人間、思わぬところで転機が訪れるものなのですね。自分の中で転機は大きく分けて3つありました。

 まず一つ目の転機は、高校時代に中国に修学旅行に行ったことです。ここで(悪名高き)「抗日戦争記念館」(字は合っているでしょうか)に行き、そこでの色々な展示内容に、高校生ながら疑問を持ったのです。「さすがにこれはないだろ」みたいな。しかし当時の自分には、それのどこがどう変で、だからおかしいみたいな具体的なことを言えるような知識はなく(今も怪しいですが・・・)、ただ漠然と、「あり得ない!」って思っているだけで、心中もやもやしていただけですが・・・。
 ここで中学時代、高校時代の社会科教師に、日本軍はとんでもない悪逆非道なことをしてきたんだと、視覚から聴覚と駆使されて刷り込まれた考えに、どこか強力な違和感を抱くようになりました。

 第二の転機は、小泉総理の靖国神社参拝です。初めて小泉氏が靖国神社を参拝したのは、自分が高校生の時だったのですが、その時のマスコミの騒ぎようを、事情の分からずテレビを観ながらでしたが、「どうしてこんなにこの人たちは騒いでいるのだろう?」と思ったのです。「別にただ神社に手を合わせに行くだけなのに、変な感じ」と思ったのを、今でも覚えています。ここで、先ほどの修学旅行の時の違和感と、この違和感がリンクして、(当時は左翼という言葉の意味すらろくに知りませんでしたが)左翼的なものに違和感を更に強めました。

 第三の転機は、2004年4月に起こったイラクでの人質事件です。これが思えば決定打でしたね。人質やその家族の余りに身勝手、利己的な主張に怒りを覚えたのです。ここで確信しました。「あー、自分が今まで良しと思っていたものは、こうも酷いものだったのか」と。この当時、教職の授業で、講義中に左翼発言ばかりをしている学生に吐き気を感じたのをよく覚えてします(笑)。
 ここで、保守系の友人とイラク人質事件について議論するうちに、今までの自分のスタンスがどんどん塗り替えられていきましたね。それからは遮二無二になって新聞(大手5紙)を読み漁り、関連する書物を読み漁り、自分の現在のような考えをするようになる素地を身に付けたつもりです。



 あとは、天皇陛下に対する紙面での言葉遣いの違いにも驚きましたね。無知だった自分は、朝日新聞も皇室には敬意を持って接しており、皇室の大切さを理解しているものだと思っていたのに、他紙(産経、読売)と比較してみたら、その酷さに逆の意味で目からウロコが落ちました。
 本当に恥ずかしいのですが、当時の自分は左翼も皇室には敬意を払い、尊崇の念を抱いているものだとばかり思っていたのです。そうしたら、ネット上では皇室や天皇陛下を否定するサイトとかがあったのに、卒倒しそうになりました。本当に無知は恐いですね。



 別に、産経こそがオピニオンペーパーだ、とか言うつもりは更々ないですが、間違いなく自分の政治、社会に対する見方を(いい意味で)変化させてくれたのは、産経でしょうね。産経の日米同盟至上主義や時たま飛び出す復古主義的過ぎる論調や、若者を小馬鹿にしたような論調には賛同できないですが、という留保付きではありますが。



 自分は、ガチガチの保守でも右翼でもない、と一応自分の中では思っています。今の「保守」と呼ばれる派の中で自分を定義するならば、その中でも比較的リベラルなポジションにいると思います。ここで言うリベラルとは、今のようなエセリベやネオリベのようなリベラルではなく、自由主義的なリベラルという意味です(バークとトクヴィルを合わせたような・・・)。保守主義の祖であるバークも自由というものを重要視していたように、本来保守こそ自由という意味でのリベラルにもっと寛容になってもいいのではないか、というのが持論ですので、自分はその持論をこのブログでは貫徹させているつもりです。
 ここに関しては話せば長くなるので、自分で話し出しておきながら勝手とは思いますが割愛させていただきます。ただ、自分はこういう視点に立って物事を見ています、ということを伝えたかっただけですので・・・。


 まとまらない話で恐縮ですが、こういう紆余曲折(?)を経て、今のような考えに至ったわけであります。

 追伸:ただのアンチサヨクのウヨクが一番嫌いです。

私事で恐縮ですが

2008年04月22日 | その他
 いつも当ブログにアクセスしていただき、本当にありがとうございます。私事で大変恐縮なのですが、お蔭様で当ブログも4月19日をもって一年を迎えることができました。

 これまで書いてきた記事は118件にのぼりました。どれもこれも内容など大変拙く、かつ読みにくいものでお恥ずかしいですが、ここまで続けられたのも、ひとえに皆様が当ブログにアクセスをしてくれたおかげです。

 これからも当ブログを末永くご愛読していただければ幸いです。

 アクセスしてくれた皆様、本当に感謝致します。ありがとうございました。

紀元節

2008年02月11日 | その他
 今日は紀元節です。初代天皇とされる神武天皇が即位し、国を建てたとされる日です。よって、今日で皇紀2668年元旦です。おめでたい日です。

 戦後、政府は紀元節を建国の日として復活させようとしましたが、GHQの圧力によってそれは叶いませんでしたが、建国記念の日を制定しようとする国民運動によって、1967年、ようやく復活するに至ったという話は有名です。
 ちなみに皮肉ながら、戦後建国の日を復活させようとしたのは、今の社民党の前身である日本社会党が政権を執っていたときなのです(片山哲内閣)。

 本日は、建国を祝い、国のあり方を考えたいものです。そして、もっと政府には建国記念の日の重要性を、自らの身をもって示していただきたいです。せめて、平成17年から途絶えている政府後援の奉祝行事の復活は果たしてもらいたいものです。

 天皇を中心とした日本の弥栄を祈って。

左傾化するウィキペディア

2008年02月09日 | その他
 ただの雑感です、今回は。

 ウィキペディアは私もしばしば利用するし、それなりに有用な媒体だが、一部の記事、特に政治的なものや思想的なものを扱った記事は、中立を標榜するウィキの建前とは遠く離れた編集がなされていると思うことが、結構ある。

 人によって、どれが「中立」なのかはそれぞれ違うだろうが、たとえばウィキの朝日新聞の項目は保護をされているが、産経新聞の項目は保護されていないため、未だに編集合戦が続いているように見える。何故、朝日新聞の項目は保護されて、産経新聞の項目は保護されないのか。

 これだけではない。自分の経験上、左翼的な団体・人物などを扱った項目にはすぐに「中立的な観点から疑問」と表示されるが、保守的な団体・人物を扱った項目は、露骨に中立性を害した文が掲載されていても、まずもってその表示はされていないように見える(全てではないだろうが)。しかも、「これは左翼的な人にとっては気に入らない内容だな」と思う箇所は、すぐさま加筆依頼や削除がされてしまっている。

 ウィキが正常に「百科事典」の役割を果たしているのは、科学的な分野とか、ごく僅かに限定されているように思う。人物評などは、疑わしい、胡散臭いものが結構ある。歴史認識など見るに堪えないものもある(英語版の慰安婦Comfort womanの項目など)。この点は池田信夫blogが詳しい。氏によれば、「同一人物が複数の匿名IPを使ってrevertを繰り返している」のだという。ウィキが左傾化するのも納得。

 ネット上では「ネットウヨク」という言葉ができるほど右派系勢力が強いと思われがちだけど、このように「ネットサヨク」も地味に頑張っているのでした(苦笑)。

お寒い論壇

2007年12月24日 | その他
 今回は何か特異な事件なりを取り上げて意見を述べるのではなく、左右の論壇状況を嘆くだけです。今からここに書いていくことは、その殆どが筆者の愚かな視点から見えている状況を書きなぐるだけです。

 最近特に、左右の言論空間の閉鎖性ならびに、言うなればその金太郎飴的に、いつまで経っても同じことばかりを、同じメンツが言い続けている論壇に辟易し、食傷しているのです。右はひたすらに「朝日新聞死ね!」、「反日分子を許すな!」の繰り返し。左は「日本は過去の侵略を謝罪しろ!」、「憲法9条擁護!」の繰り返し。しかもそれを「いつもの人たち」が、「いつものトーンで」繰り返し繰り返し、来る日も来る日も言い続けています。

 同じことを繰り返すことにも一定の価値は認めます。しかし、個人的にはもう飽きたのです。いつも同じメンツを揃え、同じことを、ちょっと言葉のニュアンスを変えて主張してるだけ。昨今の論壇は私にとってこう見えるのです。
 思うに、これではいつまで経っても双方は平行線で、中身のある、有意味な議論ってできないんだろうなぁ。これって、両者とも国家にとってマイナスでしかないのでは。

 しかもこのテの「信者」の方々は、彼ら同じメンツが主張しつづけていることを、それを何の検証もなしに自分の中に入れて、それをそっくりそのまま自分の口から吐き出して、悦に入ってるように見えるのです。これじゃあ、永久に進歩は期待できません。自分の頭で考えることを怠ってるように見えるのです。何かこう、長いものに巻かれていればいい、強いものの上に乗っかっていればいい、そんなふうに映るのです。特に最近それは右に顕著に見える傾向のように思えるのです。

 右の期待のエース、安倍氏が思ってた以上に国民の支持を受けず、右の期待とは裏腹に政治の表舞台から姿を消した。私の杞憂でしょうが、この数年間に、左は右の言うような「お花畑しか見えていない人々」も未だにいることは事実ですが、彼らはお花畑から理論武装し力をつけてきたように思うのです。

 しかしながら、翻って右はどうか。末端の者はただの「アンチ左翼」に成り果て、中国・韓国という言葉が出ると条件反射のごとく批判する輩に成り下がってしまったように思うのです。しかも彼らは視野が恐ろしいほど狭い。これではとてもじゃないですが、右の論壇の将来はお寒いもののように思えてしまい、期待できないです。

 何が言いたいのかと言うと、言論空間というのは、右ばかりが力をつけてもダメだし、左にばかりスライドしてもダメになる。ということはバランスを保つ必要がある。左が力をつけてきているように思える中、右はこのような有様でいいのか。右は左への強力な対立軸を育てることができているのか、ということです。左右問わず、もっと考えて欲しい。自分の頭を使って物事を判断してもらいたい。誰かの言っていることの受け売りではなく、それを一回自分の中で咀嚼し、検証して欲しい。

 互いに自分たちの意見に賛同してくれるイエスマンばかりを取り揃えて、その中で、あーでもない、こーでもない、と言っていても、それでは国は良くならないし、自分たちの目指す方向へ舵を切ることもできない。閉鎖的な空間で互いの悪口を言い合っていても、ことは前進しません。
 自分の立ち位置を定め、そこから動かず、その立ち位置が右であっても、立ち位置からして賛同できないものには、それが同じ右の主張であっても容赦なくノーを突きつける。これが大切なんだと思います。



 以上、乱文を承知で思いつくまま、言葉を並べて書いてみました。

 かく言う自分も不甲斐ない限りですし、人様のことを偉そうに言えるものではありません。ただ、これは自分に言い聞かすためにも書きました。要するに、左右の垣根を越え議論を積み重ねることによって、アウフヘーベンしていくことが大事なんだと思います。



 今年の新規投稿はこれで終了にします。ブログを始めてから今までに多くの方々に訪問して頂きました。この場を借りて御礼申し上げます。ありがとうございました。皆様の健康をお祈りしております。それでは良いお年を。失礼します。