ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

児童ポルノ規制推進派のお粗末な論理

2009年06月28日 | 二次元(児童ポルノ規制)
児童ポルノ禁止法改正案、衆院委で審議入り(読売新聞) - goo ニュース

 児童買春・児童ポルノ禁止法改正案は26日の衆院法務委員会で、与党案と民主党案についてそれぞれ趣旨説明と質疑を行い、審議入りした。
 児童ポルノの「単純所持」を禁じる内容の与党案について、民主党は「一方的に画像を送りつけられるケースもある」と主張。買ったり何度も入手したりする行為を処罰する「取得罪」を新設する対案を提出している。



【衆院法務委員会】児ポ法改正審議(2009年6月26日)

【 自由民主党 葉梨康弘 議員 発言要旨 】

・メール、郵便、FAX、いかなる手段で児童ポルノを所持していても逮捕する
・電子メールに児童ポルノが添付されているかどうかは、ファイルを開く前に分かるはず
・電子メールがきたら児童ポルノだと思えばいい
・映画、出版物、大女優だろうと関係ない、今までの映画も本も写真も18歳以下のヌードなら全部捨てるように
・宮沢りえのサンタフェでも、法改正後は捨てないと逮捕する
・宮沢りえのサンタフェは見たことがないが、規制する
・過去作品のどれが児童ポルノかどうかは政府が調査して教えてくれるはず
・顔が幼くて制服を着ていれば児童ポルノだと判断される
・ジャニーズでも乳首が写っていたら児童ポルノだ
・児童ポルノかどうかは見た目でわかる。芸術性など考慮しない
・ハードディスクに入っている画像を何回開いたかで故意性を審査する
・写真や雑誌は、使い古されていたり手垢がたくさん付いていれば故意をみなす
・冤罪など起こらない。単純所持規制国での冤罪の事例も知らない
・自白は証拠の王様だ
・捜査官は善良なので、自白を強いて冤罪を生じさせるようなことはない
・冤罪の懸念なら、鞄に拳銃を入れられることだってある
・マンガやアニメやゲームは悪影響の研究をして三年後に規制する予定
・民主案は相続物に児童ポルノがあっても逮捕できないので困る


【 アグネス・チャン 日本ユニセフ協会大使 (参考人) 発言要旨 】
・東南アジアでの児童売買は日本人が撮影し販売している
・国民の9割がアンケートで「単純所持賛成」と答えている
・児童ポルノ法施行前(1999年)以前は、コンビニで児童ポルノが買えた
・児童ポルノの被害者は100万人いる
・外国は単純所持を禁止してない日本を責めている
・自分の後ろには児童ポルノの被害者がいる(「見えるでしょう?」と手で指し示す)
・宮沢りえの「サンタフェ」は児童ポルノだ
・18歳以下の水着グラビアなど必要ない。買っても見ても持ってもダメ
・自分はネットの反対派に脅迫されている




一方、規制慎重派もしくは反対派の意見・・・

【 社会民主党 保坂展人 議員 発言要旨 】
・宮沢りえのサンタフェが、児童を性虐待した結果の児童ポルノだとは思えない
・自公案の「性的な目的で所持」は、誰がそれを判断するのか
・三号児童ポルノ(衣服を一部または全部つけていない姿)かどうかを判断するのは困難
・自公案が成立すれば、ワイセツなものだけでなく芸術に相当する作品も破棄されてしまう
・芸術的な価値のある作品は児童ポルノにすべきではない
・マンガやアニメ等の創作物は児童ポルノから除外すべき


【 田島泰彦 上智大学教授 (参考人) 発言要旨 】
・あいまいな現行法の児童ポルノの定義を厳格化した民主案の方が望ましい
・諸外国では単純所持を禁止しているが、文学・科学・芸術的価値のあるものを除外する等限定的で、表現の自由にも配慮している
・アニメやゲームの創造物規制は表現の自由に反する




・・・。私には、後者の論者のほうが説得力があると思えてならないのだが。

 先日、どうして私がここで児童ポルノ規制強化に反対したかと言えば、規制推進派がこのように、何でもかんでも規制の網を広げようと画策しているからに他ならない。この一連の主張を眺めていると、規制をすることによって得られる利益と、それによって被る不利益を比較した場合、後者のデメリットのほうが遥かに大きいと思える。


 この規制推進派への批判は後日行う。

歴史観を放送しただけで訴えられる時代

2009年06月26日 | 偏向マスコミ
NHK番組で8千人が提訴 台湾支配報道は「捏造」(共同通信) - goo ニュース

 戦前の台湾に対する日本の植民地支配を報じたNHKのドキュメンタリー番組は「事実を捏造し、放送法違反に当たる」として、歴史研究者や視聴者ら8389人が25日、NHKに1人当たり1万円の損害賠償を求め東京地裁に提訴した。番組は4月5日放送のNHKスペシャル「シリーズ・JAPANデビュー」の第1回「アジアの“一等国”」。植民地時代の台湾について、台湾総督府文書や当時を知る住民への取材を基に構成した。



 世の中も末恐ろしくなったものだ(苦笑)。暇な人が8300人以上も存在したことには驚きだが、これもまた不景気だからなのだろうか。



 そもそもだが、この訴訟がもし、取材を受けた台湾人のみで構成されているなら、訴えた理由も理解できなくはないが、この8300人以上の「原告」らは、今回の放送に対してはあくまでもただの「視聴者」であって、それ以上でもそれ以下でもない。にもかかわらず、彼らはNHKによってどのような「損害」を受けたのか。

 だいたい、そんなにNHKが嫌なら見なければいいではないか。チャンネルはNHKだけではない。それをわざわざ視聴しておいて(「原告」の中には視聴すらしていない者もいようが)、「精神的苦痛を受けた」とは、自分で自分の体に包丁を刺しておきながら、包丁を売った店を訴えるようなもので、まったくもって荒唐無稽な主張である。

 しかもこれまでウヨクは以前の「チャンネル桜の「NHK告訴」について」でも指摘したように、サヨクの「靖国訴訟」や「9条訴訟」を徹頭徹尾、やれ政治運動だ、裁判の乱発だ、プロ市民は恥だ、などと批判してきたではないか。それと同じことをするのだから、もうお互い様ということになる。



 原告には150人の台湾人も含まれているというが(産経新聞)、昨年、最高裁で例の「女性国際戦犯法廷」を主催したバウ・ネットが、自分たちの意図した通りに番組が放送されなかったのは期待権の侵害だとして争った事件の上告審判決があった。

 そこで最高裁は「放送事業者がどのように番組の編集をするかは、放送事業者の自律的判断にゆだねられており、番組の編集段階における検討により最終的な放送の内容が当初企画されたものとは異なるものになったり、企画された番組自体放送に至らない可能性があることも当然のことと認識されているものと考えられることからすれば、放送事業者又は制作業者から素材収集のための取材を受けた取材対象者が、取材担当者の言動等によって、当該取材で得られた素材が一定の内容、方法により放送に使用されるものと期待し、あるいは信頼したとしても、その期待や信頼は原則として法的保護の対象とはならないというべきである。」とする初判断を示し、原告の請求を棄却したのは記憶に新しい。したがって、もはや番組編集に対する「期待権」を根拠に訴訟をするのであれば、敗訴が濃厚だろう。

 当たり前の話だが、番組制作に関する裁量権は、制作者つまり放送局側にある。そのように解しなければ、放送が特定の政治勢力のプロパガンダを垂れ流すだけのものになってしまう。時の権力者や為政者にとって都合の悪い放送ができなくなり、このことは我々の「知る権利」までも侵害されることを意味する。



 それから、今回のNHKの放送を、「捏造であるので放送法違反」と指摘する者もいるが、そのことをもって法廷闘争に持っていくことはお勧めできない。だいいち、「捏造」が一切存在しない放送(マスコミ)など、果たして存在するのか。もちろん、その程度の差はあれど、それを言うなら「チャンネル桜」で制作されている番組は、「捏造」の要素は皆無なのか。「チャンネル桜」もNHKと同様に、自分たちのイデオロギーにとって都合のいい「歴史観」だけを切り貼りして放送してはいないか。

 だいたい、NHKのこの放送が放送法違反ならば、チャンネル桜で流れている番組だって、自虐史観のサヨクからしてみれば明らかに放送法違反だろう(笑)。



 何が言いたいのかと言うと、一見すると簡単に白黒付け易いかに見える「歴史観」をめぐっての争いだが、その歴史観に関して、現在までも様々な見解が対立しており、見解が一致しておらず、議論が錯綜している。よって、一概に「これが正しい歴史だ」と証明することは意外にも難しい。歴史家の数だけ歴史があるとはよく言ったものだ。

 そのような「歴史観」を巡る対立が根底にある問題を、安易に裁判所に持ち込むと、そこで敗訴をした場合、構図的には自分たちの歴史観までもが「負けた」ような構図になり、かえって自虐史観論者に塩を送ることになってしまう可能性がある。だから私は歴史観を巡る争いを法廷に持ち込むことには賛同できない。

 そもそも、裁判所は、争点となっている事実に法を当て嵌めこれを解釈し、問題の解決を図る機関であって、歴史観について白黒つける場所ではない。今回の場合であれば、NHKが当該番組を放送したことによって、「原告」らが精神的苦痛を被ったのかどうかということと、当該番組が放送法違反であるか否かを判断する場であり、ウヨクはここに決して「歴史観」を持ち込んではならないし、勝訴の見込みがない分、持ち込むだけ悔しい思いをするだけだ。



 以前にも指摘したが、放送法はあくまでも罰則を想定していない倫理規定のようなもので、これに反したからといって直ちにサンクションが課されるわけではない。放送法で定める「罰則」に関する規定も、中立な放送をしなかったことに対して規定しているものではない。

 これまでも、「あるある大辞典」における健康法虚偽放送問題や、ウヨクの側にしてみればこれよりももっと悪質な確信犯であった、テレビ朝日が放送法の定める「不偏不党・政治的中立」に反する報道をした、いわゆる「椿事件」においても、放送法の「中立」規定違反だとする処分はされていない(当時のテレ朝幹部らが減俸等の処分を受けたが、これはあくまでもテレ朝自身による処分であって、放送法違反のサンクションとしての処分ではない)。

 しかもこれらは、客観的に「違反」が認定できるケースであったにもかかわらず、放送法違反に問われていない。それなのに、先に述べたように議論が錯綜している歴史観についての放送をしたNHKに放送法違反を問えようか。



 最後に話を戻して。もう一度問うが、「原告」らが被った「精神的苦痛」とは具体的に何か。私からしてみれば、彼らが被ったと主張する「精神的苦痛」は、サヨクプロ市民が首相の靖国神社参拝に対して法廷で主張した「宗教的人格権侵害による精神的苦痛」と同程度、いや、それ以下のようなものに思える。敢えて彼らが被ったとする苦痛の根拠となる人権に名前を付けるなら、「愛国的人格権」とでもなろうか(苦笑)。

 無論、このような「新しい人権」の認定に裁判所は非常に消極的だし、法的根拠不明ないしは本当に苦痛を被ったかすら怪しい苦痛という主張には、当然のごとく厳しい判断を下すであろう。台湾の人には申し訳ないが、これが司法というものなのである。

続 児童ポルノ(二次元)規制に関して

2009年06月21日 | 二次元(児童ポルノ規制)
児童ポルノ 与野党で法案の一本化を急げ(読売新聞社説一部抜粋)

 児童ポルノに類したマンガやアニメなどについても、欧米では規制する国が増えている。
 最近は、少女らをレイプして妊娠・中絶させる過程を疑似体験する日本製パソコンゲームソフトが国際的に出回り、英国議会などで批判された。
 この問題を受けて業界団体は、性暴力を扱うゲームソフトの製造販売を禁止することを決めた。
 児童ポルノのゲームなどに対する規制も、与党案は今後の検討課題として盛り込んでいる。「表現の自由」とのかねあいもあるが、児童保護の観点から積極的に議論すべきだ。




 前回までに児童ポルノ単純所持禁止問題について、客観的因果関係に基づいていない規制の危険性と、規制することによって児童を狙った性犯罪が減少するのか、という点について疑問を呈したが、今回は「二次元」の児童ポルノまでも規制する必要性、正当性について論じていきたいと思う。



 まず、今回の一連の「児童ポルノ規制」議論は要するに、「児童ポルノの被写体にされた被害者の映像が、いつまでも配布等され続け、被害者の精神を傷つけ続けるのを防ぐため」に出てきた話のはずである。

 それならば、単純所持で犯罪という法案には後述するように、相当の問題、欠陥が存在するにしても、規制の対象はあくまでも「三次元」、すなわち、現実に存在しているリアルな児童を対象とした「児童ポルノ」に限定した問題になるはずである。したがって、「二次元」の児童ポルノを議論の俎上に上げることは、立法者が規制法の拡大運用を意図していることになる。



 次に、これは前回も指摘したことだが、「児童ポルノに類したマンガやアニメ」を、この規制法の対象にする根拠は、一体どこにあるのだろうか。

 そもそも、「類した」という語句は、果たしてその射程をどこまで有しているのだろうか。

 実際到底あり得ない話だが、たとえばある法律で、ビールを規制の対象としたとする。その法律に「ビールに類した酒」という文言が挿入されれば、本来その法律はビール「のみを」規制の対象としていたはずが、暗黙のうちに発泡酒やその他の炭酸系アルコール飲料に規制が拡大解釈されていく危険性を孕む。このように、曖昧に規制の幅を広げられる文言というのは、規制する側としてみれば、実に都合の良い文言なのである。

 だいたい、マンガやアニメといった「二次元」は、よくある表現を使うのであれば「実在するいかなる人物、団体とも無関係です」という事になる。つまり、三次元の児童は実在するのに対して、二次元の児童は「フィクション」の存在ということだ。にもかかわらず、二次元の児童ポルノまでも規制の対象とする理由はどこにあるのか。

 すなわち、被害者が存在しない映像を配布したからといって、何故犯罪者にされなくてはいけないのか、ということだ。



 もし、「そこに児童ポルノがあるからだ」という理由で規制を正当化するならば、それは飲酒運転で捕まった運転手が、「酒があるから悪いんだ」というようなもので、児童ポルノとそれによって性犯罪に走ることになるという因果関係の証明を放棄したことになり、よって、あらゆるモノが規制の対象になってくる。

 このロジックに従えば、少なくとも、これだけ飲酒運転に対する厳罰化が進んだにもかかわらず飲酒運転が後を絶たないのだから、禁酒法が制定されて然るべきだろう。しかしながら、(飲酒による酔丁と危険運転との因果関係は科学的・客観的に証明されているにもかかわらず)こうした議論がされることはない。



 次に、問題を三次元の「児童ポルノ」(と看做されるモノ)に移して、これを「所持しているだけで」犯罪になるという議論は、犯罪の構成要件論をどのように理解しているのかも気になる。なお「構成要件」とは、簡単に言えば、刑法等で掲げられている個々の犯罪類型が規定している、犯罪の成立要件のことである。

 犯罪は、人間の行為によること、構成要件に該当すること、違法性を備えていること、そして有責性の4つによって成立するものである。このうち児童ポルノ単純所持罰則については、違法性と有責性が、特に問題になってくると思われる。


 たとえ一見して児童ポルノ単純所持と看做されるケースであっても、上記違法性と有責性が存在しなければ、単純所持のケースであってもその者に罰則を科すことはできない。つまり、違法性が阻却(そきゃく)される。

 違法性が阻却される理由は、具体的事情の下で、社会全体として許さざるを得ないと判断される場合であり、有責性が阻却される理由は、具体的事情の下で、行為者自身に非難を負わせることが妥当でないと判断される場合であり、これを児童ポルノ単純所持の問題について当て嵌めるれば、親が娘の入浴中の写真を記念に撮影するケースまで罰則をもって対応することは許されないということになる。


 当然のことながら、構成要件に該当しないものについては、絶対に犯罪になる可能性はないのだから、構成要件の解釈は厳格にして、罪刑法定主義を徹底しなければならない。だからこそ、先に述べたような「類推解釈」は厳として禁止されなければならない。したがって、読売新聞の主張は全くもってナンセンスということになる。

 思うに、たとえば名誉棄損的行為については、まず刑法230条の構成要件該当性について考え、それが公共の利害に関係する場合は違法性が阻却されるように、児童ポルノ単純所持についても同じような運用がされる必要性が、最低限あると言わなければならないだろう。



 結論は、三次元を規制対象とする児童ポルノ法が、その類推解釈によって二次元の児童ポルノまでも規制の射程に含むことは刑法の根底にある構成要件理論からして許されないし、二次元の児童ポルノは被害者が存在していないのだから規制を正当化することができない、更に、児童ポルノ(と看做されるモノ)の鑑賞等と、それによる幼女への性犯罪との因果関係が客観的に立証できていない下での法改正は許されない、ということだ。

二次元作品への安易な規制論について

2009年06月11日 | 二次元(児童ポルノ規制)
 前回「低脳な者ほど安易に規制に走る」において、いわゆる「凌辱系」ゲームへの安易な規制論に対して批判を加えたが、今回はその前回の記事への書き足しということで、前回の話の続きを書いていく。



 まず、規制推進派の中には、このようなゲーム等が青少年の手に渡ってしまうことを危惧している者もいるようだが(「アゴラ」に執筆されている松本徹三氏など)、手に渡ってしまうないしは目に触れてしまうという可能性だけで規制を正当化するロジックには、論理の飛躍があることを指摘しておく。

 仮に上記ロジックに従って、青少年(に限らず、人間一般について言えることだが。)に害を及ぼす可能性があるから規制せよ、というのであれば、この世の中に氾濫する殆どのモノ(この「モノ」には有体物だけではなく、無体物も含まれる。)に対する規制を正当化することができてしまう。

 以前も述べたが、このロジックが本当に正しいのならば、どうして殺人道具になりうる包丁の販売に対して、何の規制(ここで言う「規制」とは主として買う側に対する規制である。)も設けてはいないのか。暴力革命を肯定するマルクスの『資本論』には、どうして検閲がされないのか。子供に戦闘機などのオモチャを売ることには、どうして反対しないのか。こうした疑問、というよりは矛盾点が次々と思い浮かんでくる。



 「おそれ」や「可能性」で規制を正当化するということは、極めて危険なことである。なぜならば、これらは、人それぞれ判断基準が異なり、主観が大いに混ざる可能性のある指標だからだ。

 規制するということは、禁止するということと等しい。禁止ということは、もう二度とその禁止された対象に接触することが許されないということだ。つまり、自由の否定につながるものだ。

 ということは、今までその自由の恩恵に与ってきた者たちは、二度と同じ自由を享受することができない(ここで、その自由を今まで謳歌してきた者の多寡は関係ない)。規制とはそういうことである。規制が、こうした強力な作用を伴うものだからこそ、そこに主観的な要素によって判断できうる基準を入れるのは危険なことなのだ。

 だからこそ私はこれまで、仮に規制を正当化するならば、こうしたゲーム等によって性犯罪者予備軍が増えるという科学的に立証されたデータの提示(因果関係の証明)を求めてきたし、こうした主観に基づく規制が、自由をその制度の根幹とする民主主義社会に対する敵であると主張してきたのだ。



 そもそも、こうしたゲーム等が子供たちの手に渡らないように、これまで関係業界は懸命に知恵を絞ってきたと私は思っている。

 たとえば、こうしたゲームの購入には年齢を確認できる証明書の提示を求めるのをはじめ、いわゆる有害な情報から子供を守るために携帯に備えた「フィルタリング」もそうだ。しかし当然のことながら、いかに防衛策を敷いたところで、そこから零れていく事例はある。

 しかし、これこそが、こうしたゲームの愛好者の自由と、有害性故の社会からの隔離という、この相反するものが調和してきたものと言える。つまり、国家による規制という介入を極力避けつつも、愛好者の自由にも配慮した、非常にバランスの取れた「棲み分け」だったのだ。



 それから、諸外国ではこの手のモノには規制がかかっている、と言うが、それでは日本より遥かに強力な規制がかかっている諸外国では、その規制によって性犯罪が減少しているか。

 海外のサイトになるが「Rapes」によれば、人口1000人あたりの強姦数は、オーストラリアが3位、9位にアメリカ、13位にイギリスときて、日本は65か国中54位であった。アメリカやイギリスは、日本よりも遥かに厳しく児童ポルノ(とみなされる客体)を取り締まっている国である。

 いささか旧聞のデータであるが、1992年のアメリカにおける犯罪統計のデータによれば、殺人は22分に1件、強姦は5分に1件起こっている。対して日本では、2007年のデータによれば、2007年の年間強姦件数は1766件で、2003年時が2472件であるのに対して、減少すらしている。

 アメリカのは92年のデータであるので判断は保留したほうがいいが、強力な規制が敷かれている国を見習って日本も同じように規制をするべきだと言う論者は、この結果についてどう論評するのだろうか。



 そもそもだが、どんな趣味を持っていようと、その趣味を持つ集団から犯罪に走る者は必ず一定程度いるはずである。しかしそれは、その趣味を持っている集団ないしは個人が、必ずその趣味によって犯罪者になるということを意味しない。

 いやむしろ、絶対数としては、こうした「ロリコン気質」な男性が幼女に手を出すケースよりも、成人女性にしか性的興奮を覚えない男性が女性を強姦するケースのほうが、圧倒的に多いのではないか。

 しかも現実は逆のようで、今から40年以上前のことだが、1967年にデンマークでポルノを解禁したところ、性犯罪の件数が著明に減少したという事実も存在する。やはり私が以前述べた「カタルシス説」のほうが説得力がありそうでならない。



 最後に。「ソフ倫」がこのようなゲームに対して自主規制を行うとのことだが、この「自主」規制とやらも現実は、国家による介入がなされたのと変わりはないものと言える。

 というのは、今回の「自主」規制は、結局はソフ倫が自主的というかたちをとって規制に動きださなければ、国家による介入が待っていることは明白だからだ(しかも、「自主」規制をしたにもかかわらず、更に国家(特に公明)は規制をする気満々のようだが)。これはたとえるなら、背中にピストルを当てられた状態で、その者がピストルを突き付けている者の意見と異なる見解を言えないのと同じことだ。

チャンネル桜の「NHK告訴」について

2009年06月06日 | 偏向マスコミ
NHKを告訴 チャンネル桜

 これでウヨクの方たちは、サヨク市民に向かって「裁判を政治利用するな」と言えなくなりました。お互い様だからです。

 この「告訴」(笑)のきっかけになったのは、おそらくかの「アジアの一等国」の件だろうが、これの内容については私は見ていないし、関心もないから言及しない。



 私は以前にも「偏向番組の是正は当然」と書いたように、内容的に著しく偏っている場合には、それは是正されて然るべきものと考えている。しかし、それはあくまでも是正としての手段が、「国家権力」の力を頼らない場合だ。

 たとえNHKであっても、「表現の自由」は保障されている。もちろん、とは言っても一定の「限度」は存在する。しかしそれはたとえば免許制の公共電波を私物化して使用することはできないようにしたり、善良な性風俗に反しないようにするなど法的な規制は最低限にとどめるべきで、特定の歴史観に依拠した放送をしただけで裁判所という国家権力による介入を許すようでは、とても言論や表現活動の自由が保障された社会とは言えないだろう。

 当然、裁判所としてはこうしたことを承知しているだろうから、訴えを棄却することは間違いないだろう。もしくは却下すら考えられる。まぁアクションを起こし世論を動かすこと自体が目的、つまり政治運動が目的なのであれば、たとえ最高裁まで争って棄却されても意味はあるのだろうが。



 ここでウヨクはこう言うのだろう。放送法には番組の編集にあたり政治的に公平であること、見解が対立するものごとは多角的に放送するよう規定されている、と。

 しかし、この規定には罰則は設けられていない。そしてこの規定は強制力をもったものではなく、あくまでも自主規制的なもので、これに反したからといって直ちに何らかのサンクションが科されるわけではない。それに報道の自由の制限根拠となる「公共の福祉」(憲法13条)に、歴史観を放送しただけの番組が反するとは思えない。



 それに、たとえNHKの番組が歴史認識を著しく誤っているものであっても、言論には同じ言論によって対応すべきで、司法の力を借りてNHKの歴史認識を是正させるのは、これは非常に危険なことである。

 表現の自由はあらゆる自由に関係してくるものであり、我々が生活を送る上でも欠かせない自由である。私がこうやってネット上で自由に意見を述べられるのも、表現の自由が保障されているからである。

 たとえば、私は皇室と天皇陛下に敬意を持っており、日本にとってまさに掛け替えのない存在だと思っているが、天皇制に対して敵意を持っていたり、否定的な勢力を、国家権力によって封殺しようとは思わない。それはなぜか。

 答えは簡単だ。私が逆の立場なら私の自由が侵害されるからだ。規制をしたり国家権力に頼る場合、それら権力が自分の側にあるのなら都合はいい(「権力の追い風に乗っている状態」とでも表現しようか)。しかしその権力がもし自分の側に向いたらどうなるか。そうなれば、偏向した言論は規制すべきという今までの自分の主張によって自分の首を絞めることになる。

 権力に頼る規制とは、常に自分もその餌食になりかねないという意味で、諸刃の刃で極めて危ういものなのだ。だからこそ憲法によって国家権力に縛りをかけるのだ。国家権力を縛ることを主たる目的にするのが「法の支配」なのである(ハイエク)。

 しかし、彼らウヨクにはこの大切を理解いている者がいない(もちろん、サヨクにもいない)。特定の歴史認識に立って番組を制作しただけで裁判にかけられる(裁判にかけるのは国家ではなく国民だが。)ようでは、ある一定の勢力(声のデカイ連中)にとって都合のいい歴史観しかNHKの電波に流れないことになる。これではバウ・ネットのときと同じだ。



 思うに私としては、放送法の上記規定はあくまでも自主規制なのであるから、イデオロギー的に大いに左に偏って、自虐史観的な放送をしても全く構わないと思う。

 そのかわり、そこでバランスを取るために保守派もしくはウヨクの主張も堂々と電波に流れるようにしたらいい。日本は侵略国家でない、核武装せよ、こういった主張も同じように放送する。

 左の力が強すぎるのは現行憲法も影響しているが、それ以上に右の力が弱いからだ。両者の発言力がフェアでなければ健全な自由は担保されないと思う。その意味ではチャンネル桜の意味は非常に大きい。

 しかし、言論活動の自由を行使したまでのNHKに対し、国家権力によってその放送活動に介入しようとするのは、これ本来の保守の行うべきことではない。少なくとも、「保守」を自称するチャンネル桜の取るべき手段ではない。

 本来の「保守」のあるべき姿勢というのは、自由の大切さを説き、国家に対して常に懐疑の目を向けることだ。これは一見してリベラルそのもののように見えるが、保守は「国」の伝統と文化を守り、住まう「国」を自分たちの代だけのものとせず、それは先人たち、そして未来の子孫たちに受け継ぐものと見る点で全く異なる。



 果たして「告訴」(笑)までする必要は一体どこにあるのか。最近の保守を自称するウヨクは、中川昭一の朦朧記者会見を庇ったり、今回のように告訴に踏み切るなど、ついていけないと思うときが多々あるのが心配だ。

 ともあれ、やはりウヨクとサヨクの発想は同根だと改めて実感しましたよ(嘲)

杉村太蔵出馬断念からみる立候補の過酷

2009年06月05日 | 国政事情考察
杉村氏に「潔さ感じる」=自民・武部氏(時事通信) - goo ニュース

 自民党の武部勤元幹事長は4日午後、同党の杉村太蔵衆院議員が次期衆院選への出馬断念を表明したことについて、党本部で記者団に対し「勢いある自民党を象徴する青年政治家として期待をかけていた。さわやかな潔さを感じる」と述べた。
 武部氏は、杉村氏が2005年9月に初当選した当時の幹事長で、杉村氏が立候補するに当たって面接した。



 政治に情緒論を持ち込むのは避けるべきことだというのは承知しているが、自民もつくづく冷たいものだと思う。4年前の郵政選挙直後は、この武部氏はじめ自民は、その年の立党50年式典において、宣言を杉村太蔵が総選挙で初当選した83人を代表して読み上げ、彼に最後の締めまでやらせたではないか。そこまでやらせておきながら、次回選挙は厳しいから公認しないとは、まるで使い捨てのボロ雑巾みたいではないか。

 確かに次回選挙は与党にとって厳しいものになろうから、極力有力な候補を立てて乗り切りたいと思うだろう。しかし、言っちゃ悪いが、どうせ勝てない戦なのだから、それならいっそ最後までこのボロ雑巾のケツを拭いてやるぐらいしてやれよ、と。こんなこと思ったのは私だけかも知れないが、小泉構造改革よりも、こちらのほうがよほど「弱者切り捨て」のように見えたぞ。

 だいたい、これって国民を舐めていると思う。自民の腹の内としては、4年前は小泉人気もあって国民は与党に注目していたから、こういうの(杉村)でも公認しても何とかなるんじゃないかって思っていたのではないか。選挙の応援演説などにも彼を差し向けていたではないか。構図としては、使えるだけ使い倒して御役御免といったところか。まるで最近の一発屋のお笑い芸人に対するテレビ局のようだ。



 ここまで書いたが、私は全く杉村の肩を持つつもりはない。それどころか、こういう人間が当選できてしまうのはおかしいと思っている。が、私の中での彼の位置づけは、民主の姫井や横峯よりは上である。要するに今の参議院議員も相当に次元の低い連中ばかりが集まっているということだ。だからこそ前回のエントリーにおいて、参議院の改革を主張したのだ。



 ところで、今やたらと争点化されているものに、いわゆる「世襲制限」というものがある。

 これが出てきた背景はこうだ。つまり一言で言ってしまえば、世襲で当選している議員は「使えない」ということだ。

 しかし、以前にも述べたように、世襲議員と言っても親が政治家だからといって自動的に国会議員になれるわけではないし、だいたいそういった議員に投票をしているのは国民自身である。

 そもそも、世襲議員の体たらくが目に余るからといって、それなら世襲議員の出馬に制限をかけようという発想そのものが、貧弱かつ問題の根本的解決に至らない発想であるということを指摘しておく。そして以前にも言ったが、低脳な者ほど安易な規制に走るものだ。


 どうして世襲議員が選挙で有利な構図が出来上がってしまっているのか。ここにメスを入れなければ問題の本質に迫ることはできない。

 地盤・看板・鞄。確かにこれらも世襲議員が有利な構図に一役も二役も買っていると思う。その意味では親と同じ選挙区から出馬できないようにする措置は有効なように見える。しかし、それ以上に重要な問題点が見逃されている。それは立候補のハードルの高さだ。

 日本の選挙では立候補するには、それまで働いていた職場を辞め、膨大な選挙資金を確保し、かつ選挙運動に必要なマンパワーを確保しなければならない。しかし、ここまでしても落選してしまえば、費やしたカネは戻ってこないし、何よりも元の職場に復帰することもできない。ここに立候補のハードルの高さの問題がある。

 つまり、選挙に立候補するというのは、普通の人間からしてみれば(自分に有力な篤志家でもバックにいなければ)とてつもなくリスキーな賭けなのだ。だからこそ、上記3つの「バン」が揃っている世襲議員は選挙を有利に展開できるのだ。



 世の中には才能があるのにそれを発揮することができる機会に恵まれていない人がごまんといる。それは政治とて同じことで、明確な政治のビジョンを持ち、弁舌も政策力にも優れているのに、資金面での不安や職場を辞めるというリスクを考え、立候補を躊躇する人もいるはずだ。

 それならば上記問題点を改善することこそ、政治に活力を起こさせ、新しい風を吹き込むのに必要不可欠なことだ。



 イギリスなどでは、サラリーマンが休職して議員になり、落選したら復職できることが制度的に担保されているという。つまり、選挙に立候補してたとえ落選しても、職場復帰という「セーフティネット」が存在するため、無職になるというリスクを背負込まずにすむ。

 このように、立候補するためのハードルが非常に高く、そのため競争原理が働かず、上記3つの「バン」を備えた者ばかりが目立つようになり、選挙が終わり蓋を開けてみると、結局「いつもの人たち」しか残らない構図になる。選挙で政策論争が起こらなければそこは無風状態となる。実は競争原理が一番必要なのは、選挙なのではないか。

 政治家の子息等であっても憲法において参政権が保障されているのだから、自分の親と同じ選挙区から立候補してもそれは自由である。それならば、世襲議員を制限するのではなく、先に述べたような世襲議員にとって有利な現在の選挙制度(というか現状)を改革し、新人候補とベテラン候補双方が政策論争を展開でき、政策の優劣によって投票ができるという仕組みに近づけることこそが肝要ではないだろうか。



 しかしながら私個人の考えとしては、次回選挙は有権者はみんなで投票所で白票を入れ、「該当者なし」の意思表示をしたほうが、国会は本当の意味で危機感を持つのではないかと思っている。

 杉村太蔵のような「ヒラリーマン」でも、政治に志を持つ者こそ、立候補をして国会に変化を与えるような制度改革が待たれる。