随所随縁

所に随(したが)い、縁に随い、時に随い、想いに随い、書き留めていきたい。

制服の効用について(その2)

2005-02-14 20:58:40 | Weblog
昨日の記事で、「制服の効用」として、一に「カッコよさ」、二に「機能性・象徴性」を上げました。そして最後が「公私の切り替え」だと思っています。これは簡単に言えば、「制服を着ることで”よし、働くぞ”という気分に切り替わる」という意味です。

IT技術の発展により、出張先でメールを受け取ったり、受発注のデータなどが検索できるようになりました。職種によっては、会議や客先訪問以外は、自宅で仕事ができるようにもなっています。事業所の方でもそれを見越して、机の数を減らしたりしています。一方では、「サービス残業」などと言われるように、夜遅くまで働いて会社に泊まったり、自宅へ仕事を持ち帰ったりしています。「IT技術により生産性が上がった」などと言われていますが、実は、労働時間と余暇時間の区別があいまいになっただけで、いわゆる生産性(単位時間あたりの生産高)はあがっていないのではないでしょうか。

たぶん、人間はDNA的に、「24時間遊び続ける」ことも「24時間働き続ける」こともできないのでは、と思います。特に、働く方については、職場での緊張感を維持できるのは8時間~10時間くらいが限度でしょう。そして、「だらだらと16時間働く」より「集中して8時間働く」方が、生産性の面でも、精神面でも有効だと思います。そんな意味で制服は「労働と余暇」「パブリックとプライベート」「公と私」の切り替えを、自分にも、世間にも明示するために必要ではないかと思っています。

「公と私の切り替え」について、こんなエピソードがあります。ルネサンス期のイタリアの思想家、マキャベリが、「君主論」を執筆するときの様子を、友人に宛てて、次のように書いています。塩野七生さんの本からの孫引きになりますが・・・

「(やりがいのあった外交官の仕事を失い、隠居後の単調な生活を嘆いて)・・・夜が来ると、家に戻る。そして書斎に入る。入る前に、泥や何かで汚れた毎日の服を脱ぎ、官服を身に着ける。礼儀をわきまえた服装に身をととのえてから、古の宮廷に参上する・・・・・」

マキャベリは、「君主論」を執筆するために、歴史上の様々な宮廷を空想し、様々な君主へ想像上のインタビューを行い、思索を重ねたのですが、空想上の古の宮廷に参上するために、わざわざ「官服(外交官の制服)」に着替えているのです。実際は薄汚い書斎に、ひとりで原稿用紙を前にうんうん唸っているのであって、誰が見ているわけでもなし、官服などに着替える必要はないはずです。そして、マキャベリは「礼儀をわきまえた服装に身を整え・・」とも言っています。マキャベリにとって、官服は、「君主論」を執筆するための当然の礼儀と考えていたのでしょう。そして官服に着替えることで、隠居の身分から、(空想上の)外交官へ切り替えていたのでしょう。ここまでくると、制服の効用の域を超えていますが、仕事に対する、あるいは服装に対するマキャベリのセンスは見習いたいなと思っています。

ということで、サービス残業が増えるにしたがい、切り替えが曖昧になって、「家で仕事をして、会社で遊ぶ」ようなことになっていないでしょうか。そういう意味での制服の効用を見直す必要があるのではないかと思っています。