身の程知らずの独り言

音楽的にも文学的にもダメダメな♀が、身の程もわきまえず、好き勝手な戯言(主に、中島みゆきさん)を記しております。

「あどけない話」と、"夜のゴンドラ" 1(「あどけない話」)

2019-09-23 21:14:00 | 中島みゆきさん(旅)
台風13号、15号、そして、17号。

被害にあわれた方には、お見舞い申し上げます。

これから書くことは、そんな台風に能天気に遭遇した話になります。

不謹慎で、すみません。m(_ _)m

遭遇した台風15号の復旧が完了してからUPしようと思っていたら、17号が発生してしまい、いつUPすればいいのかわからなくなったので、思いきってUPします。

タイミング悪くて、すみません。m(_ _)m

さらに、みゆきさんとは、ほとんど関係ないんです。

特に、この1(「あどけない話」)は。

でも、2にはチラリとは出てこられます、チラリっと。f(^_^;
 
タイトルの「あどけない話」も、みゆきさんの曲のタイトルではありません。

高村光太郎「智恵子抄」の「あどけない話」です。 

紛らわしくて、すみません。m(_ _)m

以下、その不謹慎な旅行記です。

今年は、少し遅めの夏休みを取って、福島県の安達太良山に行ってきました。

突然、何を書いてるんだ?と訝しく思われる方もおいででしょう。

実は、みゆき愛ほどではないですが、高村光太郎の詩も好きなんです。

授業で習った「道程」にひかれ、その後「智恵子抄」の詩の数々に魅了されました。
 
それで、学生時代から「あどけない話」に出てくる安達太良山に何回か登ってたんです。

智恵子が『ほんとの空』と言った安達太良山の空を見に。

高村光太郎詩集「智恵子抄」
「あどけない話」
『智恵子は東京には空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
~中略~
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。』

↑薬師岳にある「ほんとの空」記念碑

このことは、3年前に書いた
中島みゆき"歌跡"の旅へ《黒部2・アルペンルート》
にも少し書いてます。

そして、安達太良山に登る度に泊まっていたのが、山小屋には珍しく温泉がある、くろがね小屋でした。

そのくろがね小屋が来春、建て替えのため一時閉鎖する、という記事を読んで、もう一度、智恵子の『ほんとの空』が見たくなったんです。

勿論、くろがね小屋にも泊まるつもりで。

今は膝の調子も悪くないけど、建て替え後はどうかわからないので、今しかない!って感じですね。

サボり気味のストレッチも真面目にして、歩行の助けになるよう、ストックも購入して準備を整えました。

20代の頃は、夜行バスで東京、そのまま東北本線で二本松まで行き、二本松から岳温泉、岳温泉から奥岳までバスを乗り継ぎ、その足で一気にくろがね小屋まで登ったのですが、流石にそれは、無理。

なるべく身体に負担をかけないように、岳温泉で一泊して、くろがね小屋へ向かうことにしました。

後は交通手段。

今は、大阪から福島まで直行夜行バスが出ているのですが、12時間かかるし、、、。

新幹線乗り継ぐのも、時間がかかる。

飛行機は、高い、、、。

何とか少しでも安く、楽して行けないものかと色々検索してみると、飛行機とホテルを組み合わせたプランがありました。

飛行機往復より、ホテルプラスした方が安い!

但し、当初予定していた土日月(7.8.9)は、もう無理。

なので、日月火(8.9.10)の二泊三日で申し込みました。

その時は、台風が来るなどと思わずに。

ただ、くろがね小屋に予約を入れた時には、
"必ず天気予報は確認してください。
無理そうなら三日前くらいに連絡ください"
と言われました。

だから、予定の1週間前から二本松と安達太良山の天気を毎日チェックしていたんです。

すると、台風15号発生のニュースが。

進路予想を見ると関東から東北が通り道に。

これはダメだ。(>_<")

くろがね小屋には、すぐにキャンセルの連絡をしました。

小屋の方も
"仕方ないですね。"とあっさり承諾。

キャンセル料を尋ねても、
"いりません。
今度、天気のいい時に来てください"
と、明るく言ってくださいました。

旅行そのものは、申し込んだ際にカード決済してるので、行けるところまで行くことに決め、ホテルに延泊の打診をしました。

結果、連泊することになったホテルが、大当たりで大変助かりました。
 
9月8日出発。

台風を微塵も感じさせないギラギラの太陽を浴び、福島へ。

福島空港からバスと東北本線を乗り継ぎ、二本松到着が2時過ぎ。

ありがたいことに、空は薄曇りながら台風の気配はゼロ。

今回の旅行では、安達太良山登山以外にもいくつか目的がありました。

その一つが、二本松にある高村智恵子の生家と記念館。

『ほんとの空』がみたいと言いながら、智恵子自体にはそれほど関心がなかっので、今回はじめて、智恵子の生家や記念館があることを知ったのです。

これは、是非とも行ってみたい!と。

2日目以降の予定はどうなるかわからないので、二本松に着いた足で、高村智恵子を訪ねることにしました。

と、ここで高村智恵子について簡単に。

旧姓:長沼智恵子。
1886(明治19)
福島県二本松の造り酒屋の長女として生まれる。
1903(明治36)18歳。
日本女子大学入学。
油彩画に接し、洋画家を目指す。
1907(明治40)22歳。
大学卒業後も洋画家を目指し、東京に残る。
1911(明治44)26歳。
高村光太郎と出逢う。
1912(明治45)27歳。
初めての女性による女性のための文芸誌「青鞜」創刊号の表紙絵を描く。
1914(大正3)29歳。
高村光太郎と結婚。
1929(昭和4)44歳。
実家である長沼家破産。
1932(昭和7)47歳。
自殺未遂。
肋膜に病を抱え病気がちだったことに加え、実家の破産など精神的にも追い込まれ、統合失調症に。
1935(昭和10)50歳。
精神的な病状が悪化、ゼームス坂病院に入院。
1935(昭和13)10月5日没。53歳。
1941(昭和16)8月。
高村光太郎、詩集「智恵子抄」上梓。

以上、智恵子の本当に簡単な略歴でした。

それでは、智恵子の生家と記念館に。

上記のように、智恵子の生家は「花霞」という銘柄のお酒を造る、「米屋」という屋号の大きな造り酒屋でした。

智恵子の弟の代で破産して手放したはずですが、店舗兼住居の堂々たる旧家がそのまま残っていたんですね。

まず、そのことに感動。

そして、幸運なことに、生家の二階の智恵子の部屋が期間限定公開中だったんです。

旧家の二階に上がれることって、滅多にないのでテンションUP!

二階に上がると、智恵子と家人の部屋が三部屋ありました。

ただ、間取り図には、杜氏部屋と女中部屋も二階となっているのに、土壁で行き止まりになっている???

降りて、もう一度一階部分をよく見ると、杜氏部屋へ上がる階段と女中部屋へ上がる階段がそれぞれありました。

家人と使用人、男と女。

きっちり区切るのは、当たり前かもしれませんが、そのために階段が3ヶ所あるというのは、なんとも贅沢な気がします。

「智恵子の半生」で光太郎が 
『彼女は裕福な豪家に育ったのであるが、或いはその為か、金銭には実に淡白で、貧乏の恐ろしさを知らなかった。』と書いていたのを思い出しました。 

確かに、ちゃんとした豪家で育ったんですね。

この豪家は、病気がちだった智恵子にとって避難場所でもあったようです。

光太郎は、「智恵子の半生」で病弱な智恵子を
『田舎の空気を吸って来なければ身体が保(も)たないのであった。
彼女はよく東京には空が無いといって嘆いた。』
と書いています。
 
これが、「あどけない話」の基ですね。

上記に続けて、
『私の「あどけない話」という小詩がある。』
と続け、「あどけない話」を載せていますから。
 
下は、裏庭に面した座敷にあった機織り機で、そんな帰省中に智恵子が習っていたものです。

『ー 私は口をむすんで粘土をいぢる。
 ー 智恵子はトンカラ機を織る。』
(「同棲同類」)
と光太郎が詠んだ智恵子の機織りのルーツです。

智恵子が東京の家で、
"トンカラ機を織って"いたのは、送ってもらった別あつらえの機織り機だそうです。

やはり、豪家ですね。

裏庭から道を挟んで、智恵子記念館があります。

戦火を逃れた初期の油絵や雑誌「青鞜」の表紙絵など智恵子の芸術家としての軌跡が、光太郎の詩とともに、響き合うように展示されています。

特に、精神を病んでゼームス坂病院に入院してから作成された数々の"切紙絵"の素朴な美しさは、胸に迫りました。

智恵子は、その"切紙絵"を自分の仕事とし、毎日作成に没頭していたそうです。

それは、看護してくれていた姪の春子にも見せず、見舞いに来る光太郎にだけ見せるために。

光太郎は、"切紙絵"を見せる時の智恵子の
『恥ずかしそうな、うれしそな顔が忘れられない』
と、綴っています。
 
その"切紙絵"の実物を見れたことに感無量。

その余韻に浸りながら記念館を後にすると思っていたら、最後に出入口にあった智恵子の言葉に、ガツンとやられました。

光太郎が描く智恵子は、人見知りで、優雅で、無口で、控え目で、一途なかわいい女性。

私もそのイメージで、高村智恵子をとらえていました。

智恵子の言葉を読むまでは。

「世の中の習慣なんて、どうせ人間のこさえたものでしょう。
それにしばられて一生涯自分の心を偽って暮らすのはつまらないことですわ。
わたしの一生はわたしがきめればいいんですもの、たった一度きりしかない生涯ですもの
高村智恵子」

正直に書くと、上記は後から検索したものです。 

写メ禁止で、書き写す時間がなかったので、一字一句合っているのかは自信がありませんが、同じものだと思います。

この言葉を見て、今まで、光太郎を通してしか見ることのできなかった智恵子の本当の姿が見えたような気がしました。
 
確かに、「智恵子の半生」で
『彼女はやさしかったが勝気であった』
と光太郎は書いています。

しかし、その勝ち気さは、全てのことを自分の胸に納める勝ち気さだと書かれています。

曖昧さや妥協も許さない勝ち気さ。

それゆえ、四六時中張りつめた弦のようになって、それに耐えきれなくなったのだ、と。

だから、こんなに、自分を強く持った人だとは思ってなかったんです。

平塚らいてうらの「青鞜」創刊号の表紙絵を描いているので、女性の自立や女性運動には関心はあったんでしょうけど、そのイメージってなかったんですよね。

光太郎を通したイメージしかなかったから。

ああ、でも、よく考えたら、だから、光太郎との愛を貫いたんですよね。

自分で決めて、一途に。

精神を病んでも、光太郎に見せるためだけに、切紙絵を作り続けたんでしょうね。

この言葉は、胸にズシンと響きました。

そして、頭の中では、
『♪彼女の人生 いつでも晴れ』
(「彼女の生き方」)
と、みゆきさんの歌声が響きました。(笑)

そんな智恵子の言葉を書きたくて、長々と書いてしまいました。f(^^;

旅の1日目前半で、十分長尺になってしまった。

ここで区切ります。

夜のゴンドラは、2で。

中途半端で、すみません。m(_ _)m

それでも、長々と読んでいただき、本当にありがとうございます。(^^)

では、2でまた。(^-^)
 
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