職場へ向かう時、一駅か二駅前で降りて、遠回りしながら、毎朝、約30分かけてひたすら歩く習慣をもう5年以上続けています。歩いていて、不思議と気持ちが落ち着く街並みもあれば、あまり好きになれない土地の‘気’を感じ取ってしまうこともあります。今にして思えば、これも気功の一種だったということになりそうです。たった一人の時間に、無心になってただ歩く・・その行為はどこか静謐で行を修めているような心境になることもあります。気功を習うようになってから気づいたことですが、自分自身も、「自然」の一部として、歩きながら、天や地の中に漂うように溶け込むことが出来たなら、この時間はもっと豊かなものになっていくのかもしれません。
私は彼のどこが好きなのでしょう?分かりません。言葉で表現することが出来ないのです。箇条書きにしてみてもいいけれど、してみたところで・・それで何かが解決するわけではありません。ヒトにはあらかじめ、誰にでも超能力が備わっているようです。何が好きで、何が嫌いか?調べてみるまでもなく、すでに知っているのですから。私にも、「彼が好きなんだ。」ということは何の疑いもなく分かっているのです。彼はとてもぶっ飛んでいる人で、私は彼をどうしても私の傍においておくことが出来ないのです。私にないものばかりを持っている人で、私には決して片時の安住をもくれない人です。だから・・でしょうか?彼に対する、私の憧れの気持ちは尋常なものではありません。それは、彼が持っていて、私にはないものへの強い憧れに通じる気持ちなのかもしれません。一緒にいると、私は自分の欠けている部分を全部フォローしてもらえそうでとても幸せな気持ちに包まれるのです。人生が苦しくなくなります。でも、本心を言うとフォローしてもらえなくてもいいのです。そんなことは瑣末なことです。彼が、私の人生に現実的に存在し続けていてくれるだけで、私は枯れることのない「至福の花」を抱え続けていられることになるのですから・・。そう!傍にい続けていて欲しい・・ということだけが、私の唯一にして最大の望みなのです。
私の気功の先生は「羅漢気功」の実践者です。羅漢とは平たく言えば、何事にも捉われない境地のことを表現しています。気功の気は生命エネルギー・功は鍛錬の意味ですので、気功は心身の鍛錬法ということになります。ところで、最近、「うつ病」に関するある講演会を聴講した際に、講演者である精神科医が、うつ病に陥りやすい人の特徴として、物事をとにかく悲観的に考えやすく、そのことに執着する傾向が強いとして、「悲観の執着」という表現を使っておられました。端的で象徴的なこの言葉があまりにも「言いえて妙」だったので、今でも深く印象に残っています。話を気功に戻します。日常的に羅漢気功に触れていると、物事に対する悲観と執着をいつの間にか忘れてしまうのです。悲観したり執着することがあっても長続きしません。悲観し続けることや執着し続けることに疲れてしまう・・といってもいいかもしれません。
私の気功の先生はつい最近、とてもいい夢を見られたそうです。こんなにいい夢は必ず現実とリンクするはず・・この夢が示す兆候は現実の世界でいつ実現するのだろうと楽しみに様子を伺っていらしたところ、数日後に、ある人との出会いがありました。その出会いは、件の夢が「予知夢」であったことを知らせるものでした。偶然にも出会ったその人は先生の現実世界での夢の実現を可能にするすべての条件を満たしている人だったのです。「あの夢はこのことを告げていたんだ!」と先生はひざを叩いて得心されたそうです。夢に見たことが現実となった後に、そのことを人に語るのはOKだけれど、夢が叶う前に、夢の内容を人に漏らすと、その夢は破裂してしまって実現しなくなるのだそうです。「秘すれば花」・・大事なことは自分の胸にしまって置くことが大事。迂闊に人に話してしまったら、夢は叶う前に雲散霧消してしまうようですから、くれぐれも気をつけましょう!
「見性成仏」という言葉があります。性は本質という意味です。見ることイコール成ることなのです。いい人に会い、いい音楽を聴き、いいものを見ることが如何に大切かということになります。けれど、生きていれば邪悪なものを見てしまうこともあります。そういう時は「理性」の力で、それが本当に邪悪なものなのか宇宙から降りてきたものなのかを判断して、いらないものなら「私は見ていない。」「私は聞いていない。」とそれを手放せばいいようです。そうすれば、もう、その邪悪なものは、私に作用する力をなくします。私がいらないと思ったものは、私に何の影響力も及ぼすことは出来ません。「見た」後に自分がなりたいものになればいい・・ということだそうです。