「あ」のつくあなたにあいみすゆー(I MISS YOU)第二章 ☆うきうきタベタカナーナカイヒラタキアイアイまったりお☆

このブログは北海道を愛するミッキーが、大好きなヒロイン達に、大切なものを紹介する、うきうきでまったりおなブログです。

「慣れ」てはいけない「心」。

2007-07-18 22:26:00 | Weblog
あーちゃんこんにちは。
更新ありがとう。あーちゃんの真っすぐな気持ちと切なる祈りが伝わってきました。
その心が届いて私の中に生まれた感じた気持ち真っすぐに書いてみたい。今回の新潟中越地震で九人もの尊い命が失われてしまった。それも七十歳を越える人生の大先輩ばかりだ。映像になる潰れた家屋。大体が趣がある瓦屋根の古い家だ。新聞の社説にこうあった。重い瓦屋根の古い家は地震に弱い。耐震補強をした方がいいのはわかっている。でも、費用がままならないのだ・・・というものだ。これは災害がただ天災のみにより起こるのでなく、人災も伴い起こるということの心を持つ人の記事なのだろう。
確かに経済的に耐震工事が厳しい高齢者家庭の事情が被災につながったという考えはうなづける気もする。でもそれだけでは何か心が足りない気がする。もちろん下敷きになった人の心はわからないのだけど、高齢者の方が災害の多い中で瓦屋根の古い家に住み続ける理由は経済的なことだけなのだろうか?というよりもし自分の親がそういう古い家に住み続けたとしたら、子供達はどう思うのかな?って心。あーちゃんなら理解してくれる気がするけど。
亡くなった方は七十歳以上の高齢者家庭とのことだから子供がいたとしたらきっと若くても三十代後半、ミッキーと同世代かそれより上だと思う。
まあ私は長く親元離れていたし、もし今の状態で親二人が落ち着いているなら、父母が今の家で住み続けたいということなら、別居はするかもしれないから、たいしたことは言えないけど、幸い両親は新しい家があるし、その心配はないから無責任だと言われるかもしれないけど、でももし親が古い家で地震の危険がある場所に住んでいたら、同居しようとか、親の家を耐震補強のリフォームしようとかは、考えると思う。将来お母さんの住むバリアフリーの平屋建ての家を立ててあげたいと思っているあーちゃんならわかってくれると思う。だから、今回の被災の話しを聞いた時に、私はまず家族のことを考えた。それとともに、家ということを考えた。あーちゃんはまだ自分の手で自分の家というものを持ったことはないはずだから、家というものへの愛着や思い入れというのはあるとしても、自ら買った建てた手に入れた人の気持ちの複雑さ、それこそ心と言えるかも、その心の奥深さは歴史思い出などともかく、家という存在はその人にとって大きいものだ。ましてや農家さんとかはそれに耕した開いた土地という重さも加わる。これは簡単に変えたり離れたりできるものではない。ましてやその土地と切り離せないような仕事生活をしてきた人なら尚更。その気持ちは私でもすごくよくわかる。
那須だ、八ヶ岳だと調子良いことを書いて、網走のことはどうしたの?冷たい人だなあって人は思うかもしれない。でも、私にだってあの網走の家は間違いなく私の夢のきっかけであり、遅き青春の思い出のかたまりだ。順調に行かないことが多くて悩むこと悩まされることも多かったけど、それゆえに、よりそんな五年間を支えてくれたあの家は私にとって今も重い存在であるのに変わりはない。たった五年の私でさえ家はそんな存在だから、一つひとつに他の人には解らない重い思いが詰まっているのが家なのだから、その家を変えるということは簡単なことではない気がする。
でも屋根の重い家が危険になるように家に身動きがとれなくなった人が危険になることもある。家は重い。思い出とともに重くなる。ただそれが危険信号を出した時に、1番大事な人命を本当に守るために家を変えらせる動かせる、人の心を動かせるものは、家族だ。家族の心だと思う。
私はきっと夏休みに網走の家に帰ったら、きっと神奈川に帰りたくない気持ちに一度は襲われるだろう。あの家には、私の夢の名残がたくさん詰まっているから。でもそんな私を動かしたのは家族の存在だ。例え離れていても家族はつながっている。何かの形で、その人ができうる精一杯の形でつながっている。だから私は帰って来たし、未来の家族との関係と自分の夢、人生を融和できる道はないかと考えるから、その道、それが叶う場所が見つからないかと、今求めて試行錯誤してる。
網走に帰りたいけど、そこに家族の一部がないのなら、きっと私には網走を離れる未来が待っている気がする。
家を動かす心が家族だとすれば、その人を動かす心はきっと愛だと思う。 私が愛する網走をそれでも離れたのは、愛が離れたのはでなく、家族のそばに一旦帰ろうとする心を育ててくれた、そした私の心を自然に引っ張ってくれた存在は、間違いなくあーちゃんが目の前に現れてくれたからだと思っている。あんなに重い瓦屋根のようなオホーツクへの心を動かした、あーちゃんの近くに少しでいいから近づきたいという心の動きだ。父母姉には申し訳ないけど、きっとそれだけじゃ足りなかった気がする。あーちゃんの笑顔の少しでも近くにいたい。そんな叶わない、でも少しだけ奇跡のような光があるような幸福な道があるかもしれないときっと感じたから私は動いたのだ。人を動かす気持ちが愛なのならば、きっと私はあーちゃんからもらった何かの愛に導かれて動いたのだろう。だから私を動かす心をくれたあーちゃんにやっぱり感謝なのです。ありがとうあーちゃん。

一人で盛り上がって書いてきてしまったが、題名に書いた「慣れ」てはいけない心ということから説明がずれてしまったかな。すみません。
題名を書いた時に思った気持ちはね・・・。
あーちゃんの今日の文章を見てね。私は少し災害というものに対して慣れてしまっていなかったかなっていう気持ちをあーちゃんの文章を見て少し反省したから。数年前の中越地震があり、何となくまた新潟に地震なのかっていう感覚。台風にしても、地球温暖化が進み異常気象が当たり前になり始めている時代の中で仕方がないのかもという感覚。そして何かの時に災害の直接な被害地ではないようだからと家族仲間の安否を強く気遣う気持ちが薄れている感覚。
そんな何となく慣れていた自分の心をあーちゃんの真っすぐな心がそれでいいの?って言ってくれた気がしたから。
あーちゃんのとった被災地を想う気持ち、遠くの家族の安否を直ぐさま気遣う行動。二十代半ば、北に移り住んだ頃は何か日本で災害が起こると、近くにいるすべての仲間に手紙を書いた。親に一本電話を入れた。ずっとそれは当たり前のこっだった。便りがないのは元気のしるしとことわざにはあったけど、もし本当に便りができないほどの大ピンチが来てたらそれは大変なことに思えて、やっぱりそんな時には便りをとっていた。昔はすべての仲間のバースデーには手紙一枚必ず書いてた。もし何かのピンチの状態にいて、誰からも誕生日さえ忘れられていると思えてしまうような時期に仲間がいたとしたらたった一枚の手紙に救われるかもしれない。自分がもしそんな立場にいたらという気持ちになって手紙を書いた。でも最近はそういう気持ちにも、どこかまあ私がしなくても誰かがしてるだろうという気持ちに慣れてた。
慣れるということは人生にとって大切なこともある。例えば絶望に思える状況を希望に変えることだってそれはピンチの状況に慣れたからできるようになる場合あるから。
でもやっぱり慣れてはいけないこと、心はある。
あーちゃんにそのこと再度見せてもらいました。ありがとね。あーちゃんの真っすぐさはいつも自分の奥に眠る真っすぐさを思い出させる。やっぱりあーちゃんは私の特別な大切な人なんです。
私はその気持ちにお返しできてるのかな?無理して出来ることじゃないけど、素直な気持ちは真っすぐここで伝えていきます。その中の小さな言葉でいいから、何かがあーちゃんの心の素敵な部分に小さな化学反応を起こしてくれたらいいな。
まずは私も今目の前にいる家族に小さな何かでいいから心を届けたいと思います。

末筆ながら、新潟被災地のライフラインが早く復活して、日常生活が取り戻せることを祈ります。そしてお亡くなりになられた方のご冥福を心からお祈り致します!

あーちゃんいつもありがとう。ではお休みなさい!

ミッキー