「あ」のつくあなたにあいみすゆー(I MISS YOU)第二章 ☆うきうきタベタカナーナカイヒラタキアイアイまったりお☆

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七夕豆知識・・・今年の私の誕生日は旧暦の七夕だった。

2010-07-07 20:50:28 | Weblog
七夕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
節句
人日 (1月7日)
上巳 (3月3日)
端午 (5月5日)
七夕(7月7日)
重陽 (9月9日)




七夕(しちせき、たなばた)は、日本 、中国 、台湾 、ベトナム 、韓国 などにおける節供 、節日 の一つ。旧暦の7月7日 の夜 のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆 が7月か8月に分かれるように7月7日 又は月遅れ の8月7日 に分かれて七夕祭り が行われる。五節句 の一つにも数えられる。

古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や棚幡と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。

元来、中国 での行事であったものが奈良時代 に伝わり、元からあった日本 の棚機津女(たなばたつめ)の伝説 と合わさって生まれた言葉である。

時期




中国
元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦 の7月7日 (旧暦) である。中国暦 において7月 は秋 の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月 すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気 では立秋 前後の時期に相当する。
日本
日本 では、天保暦 (和暦 )など旧暦 7月7日であり、7月15日 (旧暦) に行われるお盆に合わせたお盆行事の一環として行う意味合いが強かった。明治 6年(1873年 )の改暦後は、お盆時期が7月と8月に分かれ、七夕もグレゴリオ暦 (新暦 )の7月7日(行事によっては7月6日 の夜)に行う地域と、旧暦風(月遅れ)お盆の8月7日(東日本・北海道 と仙台 に多い)に行う地域とに分かれた。また、現在でも旧暦の7月7日に行う地域もある。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない。
グレゴリオ暦 の7月7日は夏 だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋 以降であるので、古来の七夕は秋 の季語 である。多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨 の最中なので雨の日が多く、旧暦のころからあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つといわれる。

統計では、旧暦で晴れる確率は約53%(東京)であり、[七夕の夜空]七夕の東京の夜空 は晴れる確率が特別に高いというわけではない。しかし、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくい。新暦では、晴れる確率は約26%(東京)と低く、そのうえ月齢 が一定しないために、晴れていても月明かりの影響によって天の川 が見えない年もある。したがって、天の川 が見える確率は、旧暦の七夕の方がかなり高いといえる。

七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」または「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。

起源
日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆 )に、中国 から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠 (きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会 (お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊 (祖先の霊)が宿る依代 である。

七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢 時代の崔寔 が書いた『四民月令 』に書物を虫干し にしたことが記されているが、七夕の風俗を記したものとしては東晋 に葛洪 が記した『西京雑記 』に「漢彩女常以七月七日穿七孔針于襟褸、人倶習之」と記録されたものが初見である。

織女と牽牛の伝説は『文選 』の中の漢 の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。その後、南北朝時代 の『荊楚歳時記 』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。また六朝 ・梁代 の殷芸 (いんうん)が著した『小説 』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令廣義 』七月令にある逸文 )という一節があり、これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている

日本語「たなばた」の語源は『古事記 』でアメノワカヒコ が死にアヂスキタカヒコネ が来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀 』葦原中国平定 の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。日本では奈良時代 に節気の行事として宮中にて行われていた。また、『萬葉集 』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

本来、宮中行事であったが、織姫が織物などの女子の手習い事などに長けていたため、江戸時代 に手習い事の願掛け として一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。

織女星と牽牛星の伝説
説話
こと座 の1等星ベガ は、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座 のアルタイル である。夏彦もまた働き者であり、天帝 は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。このため天帝は怒り、二人を天の川 を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからかやってきたカササギ が橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。
古典文学として上記のようなストーリーとなった七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。それらは地方劇で上演され、戯曲 の題材となった。その中で有名なものに京劇 などで演じられる『天河配』がある。その内容は牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となるが、やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母 によって天の川の東西に引き裂かれるというものであり、羽衣伝説 のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。

星空
織女 や牽牛 という星の名称は 春秋戦国時代 の『詩経 』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。前漢 の『史記 』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿 のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイル は河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。

中国や日本で使われていた太陰太陽暦 では、必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。ただし、近年の日本国内では光害 の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。

グレゴリオ暦 (新暦 )では、月の満ち欠けは毎年異なる ため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。

風習
殆どの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂 付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。
全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越 の大祓 に設置される茅の輪 の両脇の笹竹に因んで江戸時代 から始まったもので、日本以外では見られない。「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説 にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。

イモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成女 の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。

このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っていると

地域によっては雨乞い や虫送り の行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道 では七夕の日に「ローソクもらい (ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台 などでは七夕の日にそうめん を食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。

近年の台湾 では、バレンタインデー と同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。

他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。

イベントとしての「七夕まつり」については次の項を参照。

日本の七夕祭り
1687年 (貞享 4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿 』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、・・・太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、・・・・青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂 でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政 十二年の頃より」、『諸事留』には「天保 十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑 の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢 の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。
現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿 や山車 などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本 を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火 という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。

七夕の廃止と再生
日本における七夕は、明治6年1月4日、明治政府により、太政官布告第一号「今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廃シ神武天皇即位日天長節ノ両日ヲ以テ自今祝日ト被定候事」をもって廃止された。
そのため、それ以降の七夕飾りは、北斎 の富嶽百景「七夕の不二」や広重 の名所江戸百景「市中繁栄七夕祭」・不二三十六景「大江戸市中七夕祭」に見えるような「笹ぼうき」が天のすすを払う如く屋根の上に飾られることがなくなり、竿竹が笹ぼうきから外された上、軒下に立て飾られるようになった。

また、江戸時代まで継承されてきた、「古事類苑 」歳時部に見える「七夕七遊」は、七遊びの1つとして恒例化されてきた「七調子管弦」が、仏教 やイスラム に由来する雅楽 の調子の廃絶に伴い六調子しか演奏できなくなったことで、継承が難しくなった。

2009年7月、関東三大七夕まつりの一つと称される千葉県 茂原市 の茂原七夕まつり は、55回目にちなんで五節句・七夕の再生を実施した。広重の浮世絵 に見える笹ぼうきの七夕飾りは千葉県立長生高等学校 社会科研究部によって復元された。また、七夕七遊は、廃絶した性 調を性 氏の作曲で加えることにより、七調子管弦を欠くことなく再現された。この再現は明治以降初めてと評価されている。

旧暦の七夕
国立天文台 では2001年から、「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、旧暦7月7日を「伝統的七夕」と呼び、その日の新暦での日付を広く報じている。ただ、「旧暦」は現在は公には使われていないのに国の機関が「旧暦」で定義することはできないため、「伝統的七夕」の日は、旧暦7月7日に近い日として、「二十四節気 の処暑 (しょしょ=太陽黄経 が150度になる瞬間=8月23日 頃)を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い朔 (さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」と定義している。この定義によれば、早くて新暦の7月31日、遅くとも8月30日までに該当する。
国立天文台が公表している「伝統的七夕」(旧七夕)の日付(日本標準時 )。

2006-07-31
2007-08-19
2008-08-07
2009-08-26
2010-08-16
2011-08-06
2012-08-24
以下、国立天文台では未発表だが、計算により求めた旧七夕の日付。

2013-08-13
2014-08-02
2015-08-20
2016-08-09
2017-08-28
2018-08-17
2019-08-07
2020-08-25

以上七夕豆知識でした。