ひなたぼっこ日記

マクロビオティックを実践中の主婦が綴る日々のあれこれ。

誕生~コトダマ~

2008-12-21 22:47:43 | マクロビ日記
私には宝物にしている言葉があります。

それは私が生まれた日、私を取り上げてくださった産婦人科の先生が、産まれたばかりの私を見て母に言った言葉です。

「この子は素晴らしい人生を歩むでしょう」

その言葉を聞いて母はとても嬉かったんだそうです。
母が私この話をしてくれたのは確か私が小学生高学年~中学生くらいの時だったと思いますが、話している時の母の顔は愛情と誇りに満ちていて、それを照れ笑いで隠していたなぁって事を覚えています。
「子供は3人生んだけど、こんな事を言ってもらえたのはあなただけなのよ」
と母に言われ、私も自分が母にとって特別な存在なような気がして嬉しかった。

愛とは与えるものでも貰うものでもなく、感じるもの。

そう、私が生まれた時、確かに私の周りは愛と祝福に満ちていた。
母は私を慈しんでくれた。
父は照れながら、不器用に私を愛してくれていた。

そして私も、この世界に生まれて嬉しかった。
生まれた瞬間の記憶はないけれど、今なぜかそう感じます。

この世界は本当は愛に満ちているのに、それを感じなくさせているのは、傷つくのを怖れて愛を感じる事をやめてしまった自分の心。
相手の感情を素直に感じる事は、愛情だけでなく敵意や憎しみなどの感情にも向き合う事もあります。
だから怖い。
でも怖がっていたら、何も受け取れない。

怖がって心の声を閉ざしていた私に沢山の友人が愛をもって接してくれました。
この無償の愛が段々と私の怖れを溶かし、少しずつ、私はみんなの愛を素直に受け取れるようになりました。
(それまでの私は「どうせ私は…」と常にマイナス思考でした)
すると今まであれほど怖れていた人々の敵意や憎悪が、実はそれほど怖いものではないという事に気がつきました。

でも愛を知ってしまったら、今度はみんなからの愛を失うのが怖くて怯えるようになりました。
「もっとみんなに愛される自分でなくちゃ」と頑張って日々緊張して、力尽きると時々ガス欠のように動けなくなって。
なんとかしてこの心の空虚さを埋めようともがいてました。
私は愛の尊さを感じつつも、昔と変わらず暴飲暴食で自分の体を痛めつけたり罪悪感で心を痛めたり、その痛みによって生きてる実感を得ていました。

誰かに愛されたい。
しかしいざ本当に愛を感じても満たされない心がまだあって。
どんなに愛されても、もっと!もっと!とまるで餓鬼のように愛を貪り続ける自分がいます。
なぜなら、私は自分で自分の事を愛してなかったから。
どんなに周りの人が愛してくれても、私は心のどこかで自分の事を「愛を受け取るに足らないちっぽけな存在」として卑下し、受け取る事を無意識に拒否していたのです。
なんてもったいない事をしていたんだろう…。

そう、私が生まれた時、確かに私の周りは愛と祝福に満ちていた。

小さな子供の頃、私はとても満ち足りていた。
それが成長し考える力が養われていくにつれ、誰かの怒りの矛先になったと思っては傷つき、たった一度の失敗でもう先はなくなったと落ち込み、こんなに傷つくくらいなら何も感じない方がマシだと思うようになっていった。
私さえ我慢すればみんな丸く収まる。
自分の思いを表に出さず、妥協し諦める事が大人になる事だと思っていた。
私はずっと我慢していた。

そしていつの間にか「私が愛されないのは、私に非があるから」と思うようになり、ずっと自分を責めていた。
でも…これは真実でもある。
私が愛を受け取れないのは、私に愛を受け取る意思がなかったからなのだから。

もう自分を責めるのはやめよう。

正しさに答えなんてないのだから。
その代わりに、自分の全てを許し、全ての人に愛されるに足る自分を受け入れよう。
私が怖れていたのは、「私は正しい」「何があってもい私は私を信じる」と自分を認める事だったのだ。

答えのない確信を根拠にするのが怖かった。
本当に私が今している事は間違っていないか?
誰かを傷つけていないか?
そんな不安から逃れるために「正しさ」にすがった。
世の中には何か目に見えない絶対的なもの(正義・真理)があって、それを探求すれば答えは見つかると思った。
そして私は自分で判断する事を放棄し、「正しさ」に判断を押し付けて、何かを選択する責任から逃れた。
でもその時一瞬答えが見つかったと思っても、正しさの裏には必ず誤りが表裏としてセットになっており、その価値の曖昧さでもって表裏はすぐ入れ替わってしまう。
正しさを必死に掴もうとして、その曖昧な基準ゆえに無限に自分を裁いていた。

私はこの曖昧さを受け入れる勇気をもとう。
確かなものなんてきっと何ひとつない。
もし確かなものがあるとしたら、それは私が「今ここにいる」という事だけ。
私が今心で感じていることは、私の中で真実だ。
例えその誰かの愛が私の勘違いだったとしても、私が愛を受け取ったと感じれば、それは私にとって真実だ。

愛とは与えるものでも貰うものでもなく、感じるもの。
世の中にはいい事も悪い事もどっちもある。
その全てを認め受け入れた時、私は無限の愛を感じることが出来るかもしれない。
そしてその愛があれば、きっとどんな困難があっても乗り越えられる気がする。

そうして勇気を出して自分の中の曖昧さを受け入れた時、その曖昧さが持っている「何でも受け入れる力」に気がつきました。
正義と悪、光と闇、愛を与える事と貰う事、そういう相反するもの両方を受け入れた時、それは「愛」へと昇華するんだと思う。
愛とはただ受容する力の事なのかもしれない。

そう、私が生まれた時、確かに私の周りは愛と祝福に満ちていた。
そして今も私は沢山の愛に包まれていると感じている。

私は今、素晴らしい人生を歩んでいます。




太陽が一番短い日、冬至はいわば陰極まって陽となる転換地点です。
そんな特別な日に特別な思いを書き記しておきたいと思いました。

私を支えて下さったすべての人やものに感謝を込めて。

みぃにゃん


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28 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ありがとう (リョウエン)
2008-12-22 21:35:47
誕生おめでとう☆
たくさんの愛をありがとう。

いろいろ思うことがあるのですが
言葉にできるのがこれだけです(笑)。
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Unknown (komoKon)
2008-12-22 22:45:40
自分が通った似た道のことを思い返しながら読みました。みいにゃんさんとの出会いに感謝です。
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泣けました・・・ (なごみ)
2008-12-23 00:46:28
愛はあると思えばそこに存在するし、
ないと思えば消えてなくなるもの。

この世には正解なんてどこにもないし、
そして間違いもないの。

みぃにゃんのアセンション完了♪
アセンションはやっぱアセンないのがいいね~(笑)
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素敵! (mickysuke)
2008-12-23 23:20:49
私も全く同じことを思っています。
しかも、何故自分だけこんな思いをしているんだろう?
という疑念も出てきてしまいます。

人って、もしかしたらみんなそういう思いを持っていて、感じ方が人それぞれ違うんだと思います。

私も基本、ネガティブな人なんで、他人がとっても
優秀に思え、幸せに見えてしまいます。
でも、私だってきっと、他人から見たら幸せそうに
見えるのかもしれない。

その繰り返しなんでしょうね。

私も、「どうせわたしなんて・・」人間です。
こう見えても(笑)
でも、最近、ほんの少しずつですが、私、がんばってんじゃんって思えるようになってきました。
まだまだ甘々ですけどね。

お互いに、本当の幸せを見つけられそうだね!
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リョウエンさんへ (みぃにゃん)
2008-12-23 23:28:28
どうも私は好き好んで回りくどい道を選んでいるようです(笑)
生まれ変わったからって今までの生活は何も変わらないのだけど、未来に対するワクワク度はUPしたかな。



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komoKonさんへ (みぃにゃん)
2008-12-23 23:31:00
komoKonさんも似た葛藤を抱えてらした時期があったのですね。
悩んだからこそ、今のキラキラ輝いてるkomoKonさんがいらっしゃのですね。
私も出会えて嬉しいです。
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なごみねえさんへ (みぃにゃん)
2008-12-23 23:47:08
は~い、泣きながら書きました(照)

様々な葛藤の中で、もう自分が本当にやりたい事には薄々気づいていたのだけど、それを「自分が選択する」という事だけが出来ない状態が続いていて。

今回の記事は私にとってイニシエーション(通過儀礼)の思いを込めて書きました。

「ユルい」は「ゆるし」に繋がる。
これもにいさんの言葉です♪

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mickysukeさんへ (みぃにゃん)
2008-12-23 23:55:13
幸せはあなたが気づいた瞬間から「今ここ」にある。

過去でも未来でもない、今を丁寧に生きるって事が大切なんだよなぁって思います。
過去の傷、未来への不安に振り回されて今が疎かになってしまうのはもったいないです。

でも、悩んだからこそ見えてきたものだっていっぱいあるのだから、つまりはなんでもOK!なわけで(笑)
今まで自分が思い描いていた「幸せ像」すら幻想だった事に最近気づいた私です…。
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Unknown (chisa)
2008-12-25 14:15:29
みぃにゃんさん、こんにちは。
実家が江戸川区仲間といえば覚えているかな?
みぃにゃんさんのブログ、時々拝見していましたが
足跡も残さず失礼していてごめんなさい。

私も最近まったく同じことを思っていたので
素敵な記事に共感し感動し
思わずコメしたくなりました。

>愛とは与えるものでも貰うものでもなく、感じるもの。

「幸せ」って、なるものでも掴みにいくものでも無いと確信しています。
「幸せとは“今ここにある”ことに気づく」
ことだと思います。(どんな状況でも)
光があれば陰もある・・・それが事実で
そこには善も悪もない。
「幸せ」に気づいたら「感謝」が生まれ
「感謝の気持ち」を持ち続けていると
「愛」を感じることができる。
「愛」を信じることができる。

頑張る人の記事も↓共感していました♪
私も頑張る人の条件にピッタリ当てはまる人間なん
ですよ。(自己評価が低い)
でも、自分の事を認めてあげるようにしてから
頑張らなくなってきたかな(笑)
“無駄に頑張る”って言葉にそうそう
まさにその通り!って思いました。
「頑張らない」とは向上心を無くしたり投げやりに
なったりすことでなくて
意気込んでいる(気負う)のを止めて
「肩の力を抜いていこうぜ!」って感じかな?って
思っています。
「幸せ」への認識の変化に伴い
「頑張らない人」へ
自然にシフトしてきているように感じています。

私は、今までの人生もこれからの人生も

私が私で良かったと思えるんです。

みぃにゃんさんも そうですよね。
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OK (なかなか)
2008-12-27 01:09:04
素晴らしい☆
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