(続き)
(イグノラビムス)象徴化するが、現象の世界ではない私たちの概念的図表が、現象の世界に投射されている限り、又幾何学的観念、及び他の純粋に概念的な限界に対応する実在性を発見しようと試みられている限り、私たちは無智であるし、又将来も無智であろうと考えられる。
そんなことをしている限り、私たちの知覚的経験を概念的速記法に依って説明するのではなく、記述するにある科学の目的は誤れているのである。
一度、感官印象の変化は実在的であり、運動と機構とは記述的概念であるという事が明瞭に認識されたならばヂュ・ポア・レイモン兄弟の第一、第三の問題と、彼らのイグノラビムスの叫聲とは無意味なものになってくる。機構が純粋に概念的記述であるとすれば、物質と力と「隔たった作用」とは、魔法使いと青い牛乳のような問題である。
概念に於いて運動するものは幾何学的観念であり、運動すると考えられるが故にそれは運動するのである。
如何にそれは運動するかということが、極めて重要な問題となってくるが、それは私たちの過去の経験を記述し、未来の経験を預言する可く、私たちの機構の調整される手段だからである。此の運動が如何にしてというのが、次に転じねばならぬ点である。
運動の法則は、最も広い意味に於いて、すべての物理的科学を包含している---恐らく何であれ、すべての科学と言っても言い過ぎではないかも知れない。
すべての法則は、フォン・ヘルムホルツの説明する所に依れば、究極的に運動の法則中に吸収されねばならない。形質遺伝というような、あれ程複雑した現象すらも、ヘッケルの主張では、根底に於いて運動の転移である。
変化が如何に生ずるかを記述する科学の力が強ければ、科学は充分何故にということを無視することが出来るのである。
少なくとも心理学が、その立ち留まっている所に立ち留まる限り、科学はエミール・ヂュポア・イレエモンの第二のイグノラビムスすら受理するに充分な程先へは進まないであろうが、意識とは何であるか、又何故感官印象の順序が存在するだろうかという事に関しては、科学は今の所、「イグノラビムス」といって満足している。
摘要
物質の概念は、物理学者や、「常識的」哲学者連中の著述の中の定義を探した所で、矢張り曖昧であることが解る。
それに関する困難さは、概念的象徴の現実的ではあるが、知覚できない存在を主張することから生ずるように思われる。
感官印象の変化は、外的知覚に対する適当な名称であり、運動とはこの変化の私たちの概念的な記録の適当な名称である。
知覚に関して、「何が運動するのか」及び「何故に運動するのか」と言う疑問は馬鹿げたものだと解った。
概念の領域にあっては、運動する物体は単に記述出来る運動を伴った幾何学的な概念に過ぎない。
ヂュポア・レイモンのイグノラビムスと言う三つの叫びに就いて言えば、制限された意味に於いて、唯第二のものだけが科学的に価値があり、その他のものは訳のわからぬものである。と言うのは物質、力、及び「隔遠作用」等は現実的世界の実在的問題を言い表す言葉でないことが解ったからである。
失敗は成功の元とは言えども、正に失敗続きのアインシュタインが博士論文を仕上げた。
丁度その時に生涯の恩人ともなるマルセル・グロスマンの父の計らいで、スイス特許局の二級技師としての斡旋に応募したのは1901年末、12月18日であった。
その論文は『毛細管現象からの推論』として知られている。(マックスプランク編集の「物理学年報」4巻513-523)
その時の願書から、生活の様子が読み取れよう。
「1900年秋から1901年春まで、私はチューリッヒで家庭教師をして過ごしました。この時期にそれと並行して、物理学の勉学を完全なものにし、私の最初の科学論文を作成致しました。1901年5月15日から7月15日まで、ヴィンテルト工業学校で臨時の数学教師として勤務致しました。1901年9月15日以来、シャフハウゼンで家庭教師をしています。
私は、勤務当初の2ヶ月間に、同地で、気体運動論のテーマで博士論文を作成し、一ヶ月前に、チューリッヒ大学哲学部第二分科に提出致しました。」
丁度その頃の漱石は、「近頃は英学者なんてものになるのは馬鹿らしいような気がする」(藤代禎輔あて6月19日)
9月にはあの有名な“コスモポリタン”の所感を述べた手紙を、寺田寅彦に送った。
そして、12月18日には正岡子規あての最後の書簡を送った。相撲や伊藤侯爵(マーキス・アイトー)等に触れたあと。
「・・・・僕はまた移ったよ。五乞閑地不得閑ゴタビカンチヲイテカンヲエズ、三十五年七処移サンジュウゴネンシチショウニウツルなんと三十五年に七度居を移す位な事では自慢にならない。僕なんか英吉利へ来てからもう五返目だ。今度の処は御婆さんが二人、退職軍人大佐という御爺さんが一人、まるで老人国へ島流しやられたような仕合さ。この婆さんがミルトンやシェークスピアを読んでいておまけに仏蘭西語をペラペラ弁ずるのだからちょっと恐縮する。『夏目さん、この句の出処をご存知ですか』などと仰せられる事がある。『あなたは大変英語がお上手ですが、よほどおちいさい時分から御習いなすったんでしょう』などと持ち上げられた事もある。人豈自ら知らざらんや。冗談言っちゃいけないと申したくなる。こちらへ来てお世辞を真に受けていると大変な事になる。男はさほどでもないが、女なんかはよく“wonderful”などと愚にもつかないお世辞をいう。下手な方に“wonderful”ですかと皮肉をいうこともある。・・・・今や濃霧窓に迫って書斎昼暗く時針1時を報ぜんとして撫腹ハラヲブシ食を欲する事頻りなり。この美しき数句を千金の掉尾として筆を擱く。12月18日
正岡子規の直筆書簡発見 編集の新聞廃刊惜しむ大室一也 2014年3月29日15時32分朝日新聞デジタル
人生如斯(かくのごとき)ものかと観じ候(人生こんなものかと観念)――。俳人・正岡子規(1867~1902)直筆の書簡が五島美術館(東京都世田谷区)で見つかった。正岡子規の直筆書簡発見 編集の新聞廃刊惜しむ
(イグノラビムス)象徴化するが、現象の世界ではない私たちの概念的図表が、現象の世界に投射されている限り、又幾何学的観念、及び他の純粋に概念的な限界に対応する実在性を発見しようと試みられている限り、私たちは無智であるし、又将来も無智であろうと考えられる。
そんなことをしている限り、私たちの知覚的経験を概念的速記法に依って説明するのではなく、記述するにある科学の目的は誤れているのである。
一度、感官印象の変化は実在的であり、運動と機構とは記述的概念であるという事が明瞭に認識されたならばヂュ・ポア・レイモン兄弟の第一、第三の問題と、彼らのイグノラビムスの叫聲とは無意味なものになってくる。機構が純粋に概念的記述であるとすれば、物質と力と「隔たった作用」とは、魔法使いと青い牛乳のような問題である。
概念に於いて運動するものは幾何学的観念であり、運動すると考えられるが故にそれは運動するのである。
如何にそれは運動するかということが、極めて重要な問題となってくるが、それは私たちの過去の経験を記述し、未来の経験を預言する可く、私たちの機構の調整される手段だからである。此の運動が如何にしてというのが、次に転じねばならぬ点である。
運動の法則は、最も広い意味に於いて、すべての物理的科学を包含している---恐らく何であれ、すべての科学と言っても言い過ぎではないかも知れない。
すべての法則は、フォン・ヘルムホルツの説明する所に依れば、究極的に運動の法則中に吸収されねばならない。形質遺伝というような、あれ程複雑した現象すらも、ヘッケルの主張では、根底に於いて運動の転移である。
変化が如何に生ずるかを記述する科学の力が強ければ、科学は充分何故にということを無視することが出来るのである。
少なくとも心理学が、その立ち留まっている所に立ち留まる限り、科学はエミール・ヂュポア・イレエモンの第二のイグノラビムスすら受理するに充分な程先へは進まないであろうが、意識とは何であるか、又何故感官印象の順序が存在するだろうかという事に関しては、科学は今の所、「イグノラビムス」といって満足している。
摘要
物質の概念は、物理学者や、「常識的」哲学者連中の著述の中の定義を探した所で、矢張り曖昧であることが解る。
それに関する困難さは、概念的象徴の現実的ではあるが、知覚できない存在を主張することから生ずるように思われる。
感官印象の変化は、外的知覚に対する適当な名称であり、運動とはこの変化の私たちの概念的な記録の適当な名称である。
知覚に関して、「何が運動するのか」及び「何故に運動するのか」と言う疑問は馬鹿げたものだと解った。
概念の領域にあっては、運動する物体は単に記述出来る運動を伴った幾何学的な概念に過ぎない。
ヂュポア・レイモンのイグノラビムスと言う三つの叫びに就いて言えば、制限された意味に於いて、唯第二のものだけが科学的に価値があり、その他のものは訳のわからぬものである。と言うのは物質、力、及び「隔遠作用」等は現実的世界の実在的問題を言い表す言葉でないことが解ったからである。
失敗は成功の元とは言えども、正に失敗続きのアインシュタインが博士論文を仕上げた。
丁度その時に生涯の恩人ともなるマルセル・グロスマンの父の計らいで、スイス特許局の二級技師としての斡旋に応募したのは1901年末、12月18日であった。
その論文は『毛細管現象からの推論』として知られている。(マックスプランク編集の「物理学年報」4巻513-523)
その時の願書から、生活の様子が読み取れよう。
「1900年秋から1901年春まで、私はチューリッヒで家庭教師をして過ごしました。この時期にそれと並行して、物理学の勉学を完全なものにし、私の最初の科学論文を作成致しました。1901年5月15日から7月15日まで、ヴィンテルト工業学校で臨時の数学教師として勤務致しました。1901年9月15日以来、シャフハウゼンで家庭教師をしています。
私は、勤務当初の2ヶ月間に、同地で、気体運動論のテーマで博士論文を作成し、一ヶ月前に、チューリッヒ大学哲学部第二分科に提出致しました。」
丁度その頃の漱石は、「近頃は英学者なんてものになるのは馬鹿らしいような気がする」(藤代禎輔あて6月19日)
9月にはあの有名な“コスモポリタン”の所感を述べた手紙を、寺田寅彦に送った。
そして、12月18日には正岡子規あての最後の書簡を送った。相撲や伊藤侯爵(マーキス・アイトー)等に触れたあと。
「・・・・僕はまた移ったよ。五乞閑地不得閑ゴタビカンチヲイテカンヲエズ、三十五年七処移サンジュウゴネンシチショウニウツルなんと三十五年に七度居を移す位な事では自慢にならない。僕なんか英吉利へ来てからもう五返目だ。今度の処は御婆さんが二人、退職軍人大佐という御爺さんが一人、まるで老人国へ島流しやられたような仕合さ。この婆さんがミルトンやシェークスピアを読んでいておまけに仏蘭西語をペラペラ弁ずるのだからちょっと恐縮する。『夏目さん、この句の出処をご存知ですか』などと仰せられる事がある。『あなたは大変英語がお上手ですが、よほどおちいさい時分から御習いなすったんでしょう』などと持ち上げられた事もある。人豈自ら知らざらんや。冗談言っちゃいけないと申したくなる。こちらへ来てお世辞を真に受けていると大変な事になる。男はさほどでもないが、女なんかはよく“wonderful”などと愚にもつかないお世辞をいう。下手な方に“wonderful”ですかと皮肉をいうこともある。・・・・今や濃霧窓に迫って書斎昼暗く時針1時を報ぜんとして撫腹ハラヲブシ食を欲する事頻りなり。この美しき数句を千金の掉尾として筆を擱く。12月18日

人生如斯(かくのごとき)ものかと観じ候(人生こんなものかと観念)――。俳人・正岡子規(1867~1902)直筆の書簡が五島美術館(東京都世田谷区)で見つかった。正岡子規の直筆書簡発見 編集の新聞廃刊惜しむ