大著述とは引用を拒むもの!否、拒まれているかの如く感じてはいるけれども、止す事も出来兼ねるもの。
呻吟した揚げ句のはてに眼にとまったものが、第7章「物質」であったがそれもまた大著述といえる。割愛止むなし。
①「万物は運動す」---但し概念に於いてのみ
「ヘラクレイトスの曖昧屋」と呼んだ。
ヘラクレイトスは彼の流れを記述せず、測定せずにおいたのに反し、近代の科学は其の最大のエネルギーを捧げて感官印象の連繋を記述し、
摘要する手段として用いられ得る運動の各々の、又すべての形式の厳密なる調査と分析とに費やしたが故である。
②「三つの問題」
・運動する所のものとは何であるか?
・何故にそれは運動するか?
・如何にそれは運動するか?
先ず第一に、これらの疑問が概念的圏内に於いて問われているか、或いは知覚的圏内に於いて問われているかを決定せねばならない。前者、即ち科学がそれに依って私たちの感官印象の関係を記述する象徴的運動の世界に於いてだとすれば、これらの疑問は容易に答えられるのである。
運動する所のものは点であり、剛体であり、歪みの生ずる媒質であり、悉く幾何学的概念である。
③「物理学者は如何に物質を定義するか」
クラーク・マックスウエル「私たちは物質と言うものを、単にエネルギーが他の物質からそれへ伝達し、今度は他の物質にエネルギーを伝達するようなものであるとしてのみ知っている」
「またエネルギーとは、すべての自然現象に於いて、物質の一部分から他の部分へと絶えず移動しつつある所のものであるとしてのみ私たちは知っている」
サア・ウイリアム・トムスン(現ケルビン卿)とテイト教授の著名な自然哲学に関する論文
「私たちは勿論、形而上学者を満足させるような物質の定義を与えることは不可能であるが、自然科学者は、だが物質とは、感官に依って知覚され得るもの、或いは力に依って影響され得るもの、又は力を働かし得るものであると言うことを知って満足するであろう。これらの限定の中、後者は、そして真に前者もまた、事実の点に於いて感官の、恐らくすべての私たちの感官の、そして確かに「筋肉感官」の直接対象である力の観念を含んでいる。物質とは何であるか?と言う疑問を更に論ずることは、私たちは「物質の性質」に関する章に譲らねばならない」
テイト教授自身次のように言っている。
「私たちは物質とは何であるかを知らないし、又恐らく発見することは不可能である」
「物質の究極的性質に関する発見は、恐らく人間知識の範囲外であろう」
④「物質は空間を専有するか?」
ジョン・スチュアート・ミルの「感官印象の恒常的可能性」という物質の定義に頗る接近するのである。
然しさうすると、この物質の定義は、運動するところの物としての物質から私たちを全く引離してしまう。
困難を切り抜ける他の唯一の方法は、原子を、更に小さな原子で組成することである。
然し、此等のより小さな原子とは何であるか、それは幾何学的観念であるか、或いは、それらは更に小さな原子で組成されているのか、そして若しそうだとすれば、私たちは何処で停止すべきであるのか?その過程からジョナサン・スウィフトの句が思い出される。
「科学者はかく思う 蚤には自分にたかるもっと小さな蚤がある、 だがその蚤を又更に、もっと小さな蚤がかむ、 そして無限に続き行く、」と
私は蚤に関するスイフトの言葉を確かめることは出来ない、然しそれに依って科学的に現象を記述するすべての概念---分子、原子、端初原子---が、現象世界に於いて実在的存在を主張するということは、たとひそれ等が無限につづくにせよ、究極的に運動するものが幾何学的観念であると見做すこと、及び私たちの知覚的経験と矛盾する所の現象的存在を仮定することから、私たちを救い出しはしないだろうということは、全く確かに感じられるのである。
この点は本著者が科学的方法の基本的標準であるとしていた所のものを極めて明瞭に現していいる。即ち、概念は序を記述する手段として非常に価値があるかもしれないが、現象的存在はその知覚的な等価物が実際的に明らかに知覚の順されるまでは、如何なる概念にも帰されるべきではない。
概念的にはすべての運動は幾何学的観念の運動であり、その観念こそが普通知覚的運動と呼ばれる感官印象の変化を記述するに最も良いものとして選ばれたものである。
ここにもhow、whyも確かに登場したしその文脈も推し量ってみることもあるいは、できるかも知れない。その他にもスイフトを読んだ漱石などもなんとなく腑に落ちてくるような気がしてくる。
呻吟した揚げ句のはてに眼にとまったものが、第7章「物質」であったがそれもまた大著述といえる。割愛止むなし。
①「万物は運動す」---但し概念に於いてのみ
「ヘラクレイトスの曖昧屋」と呼んだ。
ヘラクレイトスは彼の流れを記述せず、測定せずにおいたのに反し、近代の科学は其の最大のエネルギーを捧げて感官印象の連繋を記述し、
摘要する手段として用いられ得る運動の各々の、又すべての形式の厳密なる調査と分析とに費やしたが故である。
②「三つの問題」
・運動する所のものとは何であるか?
・何故にそれは運動するか?
・如何にそれは運動するか?
先ず第一に、これらの疑問が概念的圏内に於いて問われているか、或いは知覚的圏内に於いて問われているかを決定せねばならない。前者、即ち科学がそれに依って私たちの感官印象の関係を記述する象徴的運動の世界に於いてだとすれば、これらの疑問は容易に答えられるのである。
運動する所のものは点であり、剛体であり、歪みの生ずる媒質であり、悉く幾何学的概念である。
③「物理学者は如何に物質を定義するか」
クラーク・マックスウエル「私たちは物質と言うものを、単にエネルギーが他の物質からそれへ伝達し、今度は他の物質にエネルギーを伝達するようなものであるとしてのみ知っている」
「またエネルギーとは、すべての自然現象に於いて、物質の一部分から他の部分へと絶えず移動しつつある所のものであるとしてのみ私たちは知っている」
サア・ウイリアム・トムスン(現ケルビン卿)とテイト教授の著名な自然哲学に関する論文
「私たちは勿論、形而上学者を満足させるような物質の定義を与えることは不可能であるが、自然科学者は、だが物質とは、感官に依って知覚され得るもの、或いは力に依って影響され得るもの、又は力を働かし得るものであると言うことを知って満足するであろう。これらの限定の中、後者は、そして真に前者もまた、事実の点に於いて感官の、恐らくすべての私たちの感官の、そして確かに「筋肉感官」の直接対象である力の観念を含んでいる。物質とは何であるか?と言う疑問を更に論ずることは、私たちは「物質の性質」に関する章に譲らねばならない」
テイト教授自身次のように言っている。
「私たちは物質とは何であるかを知らないし、又恐らく発見することは不可能である」
「物質の究極的性質に関する発見は、恐らく人間知識の範囲外であろう」
④「物質は空間を専有するか?」
ジョン・スチュアート・ミルの「感官印象の恒常的可能性」という物質の定義に頗る接近するのである。
然しさうすると、この物質の定義は、運動するところの物としての物質から私たちを全く引離してしまう。
困難を切り抜ける他の唯一の方法は、原子を、更に小さな原子で組成することである。
然し、此等のより小さな原子とは何であるか、それは幾何学的観念であるか、或いは、それらは更に小さな原子で組成されているのか、そして若しそうだとすれば、私たちは何処で停止すべきであるのか?その過程からジョナサン・スウィフトの句が思い出される。
「科学者はかく思う 蚤には自分にたかるもっと小さな蚤がある、 だがその蚤を又更に、もっと小さな蚤がかむ、 そして無限に続き行く、」と
私は蚤に関するスイフトの言葉を確かめることは出来ない、然しそれに依って科学的に現象を記述するすべての概念---分子、原子、端初原子---が、現象世界に於いて実在的存在を主張するということは、たとひそれ等が無限につづくにせよ、究極的に運動するものが幾何学的観念であると見做すこと、及び私たちの知覚的経験と矛盾する所の現象的存在を仮定することから、私たちを救い出しはしないだろうということは、全く確かに感じられるのである。
この点は本著者が科学的方法の基本的標準であるとしていた所のものを極めて明瞭に現していいる。即ち、概念は序を記述する手段として非常に価値があるかもしれないが、現象的存在はその知覚的な等価物が実際的に明らかに知覚の順されるまでは、如何なる概念にも帰されるべきではない。
概念的にはすべての運動は幾何学的観念の運動であり、その観念こそが普通知覚的運動と呼ばれる感官印象の変化を記述するに最も良いものとして選ばれたものである。
ここにもhow、whyも確かに登場したしその文脈も推し量ってみることもあるいは、できるかも知れない。その他にもスイフトを読んだ漱石などもなんとなく腑に落ちてくるような気がしてくる。