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「漱石と寅彦」

2014-01-19 11:29:49 | colloidナノ
大著述とは引用を拒むもの!否、拒まれているかの如く感じてはいるけれども、止す事も出来兼ねるもの。


呻吟した揚げ句のはてに眼にとまったものが、第7章「物質」であったがそれもまた大著述といえる。割愛止むなし。



①「万物は運動す」---但し概念に於いてのみ
ヘラクレイトスの曖昧屋」と呼んだ。

ヘラクレイトスは彼の流れを記述せず、測定せずにおいたのに反し、近代の科学は其の最大のエネルギーを捧げて感官印象の連繋を記述し、
摘要する手段として用いられ得る運動の各々の、又すべての形式の厳密なる調査と分析とに費やしたが故である。

②「三つの問題」
・運動する所のものとは何であるか?
・何故にそれは運動するか?
・如何にそれは運動するか?

先ず第一に、これらの疑問が概念的圏内に於いて問われているか、或いは知覚的圏内に於いて問われているかを決定せねばならない。前者、即ち科学がそれに依って私たちの感官印象の関係を記述する象徴的運動の世界に於いてだとすれば、これらの疑問は容易に答えられるのである。
運動する所のものは点であり、剛体であり、歪みの生ずる媒質であり、悉く幾何学的概念である。



③「物理学者は如何に物質を定義するか」
クラーク・マックスウエル「私たちは物質と言うものを、単にエネルギーが他の物質からそれへ伝達し、今度は他の物質にエネルギーを伝達するようなものであるとしてのみ知っている」
「またエネルギーとは、すべての自然現象に於いて、物質の一部分から他の部分へと絶えず移動しつつある所のものであるとしてのみ私たちは知っている」

サア・ウイリアム・トムスン(現ケルビン卿)とテイト教授の著名な自然哲学に関する論文
「私たちは勿論、形而上学者を満足させるような物質の定義を与えることは不可能であるが、自然科学者は、だが物質とは、感官に依って知覚され得るもの、或いは力に依って影響され得るもの、又は力を働かし得るものであると言うことを知って満足するであろう。これらの限定の中、後者は、そして真に前者もまた、事実の点に於いて感官の、恐らくすべての私たちの感官の、そして確かに「筋肉感官」の直接対象である力の観念を含んでいる。物質とは何であるか?と言う疑問を更に論ずることは、私たちは「物質の性質」に関する章に譲らねばならない」

テイト教授自身次のように言っている。
「私たちは物質とは何であるかを知らないし、又恐らく発見することは不可能である」
「物質の究極的性質に関する発見は、恐らく人間知識の範囲外であろう」

④「物質は空間を専有するか?」
ジョン・スチュアート・ミルの「感官印象の恒常的可能性」という物質の定義に頗る接近するのである。
然しさうすると、この物質の定義は、運動するところの物としての物質から私たちを全く引離してしまう。

困難を切り抜ける他の唯一の方法は、原子を、更に小さな原子で組成することである。
然し、此等のより小さな原子とは何であるか、それは幾何学的観念であるか、或いは、それらは更に小さな原子で組成されているのか、そして若しそうだとすれば、私たちは何処で停止すべきであるのか?その過程からジョナサン・スウィフトの句が思い出される。

「科学者はかく思う  蚤には自分にたかるもっと小さな蚤がある、 だがその蚤を又更に、もっと小さな蚤がかむ、  そして無限に続き行く、」と

私は蚤に関するスイフトの言葉を確かめることは出来ない、然しそれに依って科学的に現象を記述するすべての概念---分子、原子、端初原子---が、現象世界に於いて実在的存在を主張するということは、たとひそれ等が無限につづくにせよ、究極的に運動するものが幾何学的観念であると見做すこと、及び私たちの知覚的経験と矛盾する所の現象的存在を仮定することから、私たちを救い出しはしないだろうということは、全く確かに感じられるのである。
この点は本著者が科学的方法の基本的標準であるとしていた所のものを極めて明瞭に現していいる。即ち、概念は序を記述する手段として非常に価値があるかもしれないが、現象的存在はその知覚的な等価物が実際的に明らかに知覚の順されるまでは、如何なる概念にも帰されるべきではない。

概念的にはすべての運動は幾何学的観念の運動であり、その観念こそが普通知覚的運動と呼ばれる感官印象の変化を記述するに最も良いものとして選ばれたものである。



ここにもhow、whyも確かに登場したしその文脈も推し量ってみることもあるいは、できるかも知れない。その他にもスイフトを読んだ漱石などもなんとなく腑に落ちてくるような気がしてくる。






「漱石と寅彦」

2014-01-13 13:51:27 | colloidナノ
「夏目漱石の「文学論」のなかの科学観について」そのキーワード的な言葉を拾えば、そこの要約にもある通り、“how”“why”そして「K.Pearson’s“The Grammar of Science(科学の文法)”を巡るお話である。


漱石が留学していた頃のピアソンは「分割表の適合度カイ二乗検定」つまりデータを用いて反証的に仮説の実証を行う方法を確立し、統計的な方法の応用を切り開いたと言われている。
彼はそのような話をUniversity Collegeにて聞いていた可能はある。



ここでの主題となる「科学の文法」は、1891年から1893年までの3年たらずのあいだに行われた38回に及ぶ一般大衆向けの最初の8回分の講義録が基となっている。



「科学の文法」は日本では1930年に『科学概論』として春秋社から世界大思想全集㊶として発行されたが何故か非売品であった。
現在、世界各国で基本的な文献とされてはいるが、閑却されているといえよう。


マッハ自身「感覚の分析」の第2版の序文で、第1版がピアソンに与えた影響を語っているが、ピアソンの面白いところは、この種の科学哲学を統計的方法という体系に基づいて実学化したところであると椿広計は語っている。


同じ頃にアインシュタインも1902年に友人ら4名とこの第2版を読んでいる。

漱石自身の反応は複雑であった。数ヶ月間自分が考えてきたことと同じだ!「Pearsonを巡る、忌々敷」と独白されるわけである。
立花論文ではこのような記述となっている。

漱石がピアソンの「科学の文法」を克明に読んで、そこから多くのことを学んだのに「文学論」にはピアソンの名は出ていない。漱石がピアソンから学んだものは思想ではなく、思想を表す表現であったからであろう。


自分の考えにも似ていたと感じている。それがこともあろう事か、池田菊苗が留学先のオストヴァルトからの感化でもありかつ、彼自身に芽生えていた意識でもあったのだから、期せずして時分の花でもあったのであろうか、つまりマッハ的な思潮の時代背景をそこに感じ取れる。


池田の後輩として後に東大の無機化学の教授となった柴田勇次の回想の中にも、「先生は学生時代の私にマッハ哲学の興味について語られたことがある。(中略)またあるときはオストヴァルトのエネルギー観についても語られた」と記されている。


それはともかくとして漱石は池田を契機にしてピアソンを読み込んだのであるが、注目すべきことはその数年後にはあの酔歩、つまりランダムウォークへと結実していくその道程でもあった。つまり統計科学の勃興期をも漱石は味読していることとなる。



「漱石と寅彦」を暫くは離れて「科学概論」へと視座を転じてみよう。









「漱石と寅彦」

2014-01-10 16:32:18 | colloidナノ
最新の「広報 まつやま」からの伝言は
“活力あふれる松山へ 躍動の2014”との見出しを付けて『瀬戸内海が全国初の国立公園に指定され80周年、道後温泉本館改築120周年、四国八十八ヶ所霊場開創1200年を迎える平成26年。とあった。

120年前と言えば正岡子規と夏目漱石との終生忘れえぬ愚陀仏庵で知られているけれども、今はそれも無くなった。ところで道後温泉本館の「坊ちゃん」の湯で知られているが、これもまた改築がなされるらしい。


さてその道後温泉が広く知られる背景には鎌倉の円覚寺にある。
1894年暮れから翌年1月7日までの15日間夏目金之助(漱石)が参禅している帰源院がそれである。

「昔、鎌倉の宗演和尚に参して、父母未生以前の面目はなんだと聞かれ、ガンと参った」

鏡子の言う「松山くんだりまで都おちした」のは、3ヶ月後であった。

「物心一如」、それが彼の哲学であることは自身、再度強調していることを思い出しておきたい。


その意味するところは、あたかも遍路を象徴するところの、同行二人に同じであろうか。因みにドウギョウ-ニニンと読ませる。

さて本タイトルを「漱石と寅彦」としたが、その由来するところは最新号の「化学史研究」によっている。

総説「化学史学会-創設から40年-」(亀山哲也)を一読してみれば、誠に異彩を放っているのが立花太郎の論文である。
その40年の歴史における分類を拒むかのように際立っている。

例えば

「夏目漱石の『文学論』のなかの科学観について」12巻167-177
「原子説論争に関するRucker教授の講演(1901)--「夏目漱石の『文学論』のなかの科学観」補記---25巻155-162
「初期のコロイド化学と寺田寅彦の物理学」25巻229-240等

しかしこの異彩さが、どこまで味読されたかは疑問である。
何故ならば蜜柑山を眺めては見たがその腑分けができかねて、味読を拒まれたのかもしれない。
あるいは、それは未だに未完のままなのであるか?と疑念は拭いきれない。


備考;「現代化学」2013年2月号『森鴎外のキュリー夫人への関心』立花太郎



余はその蜜柑を必要とする。(論文の概要は次回以降、適宜言及されることとなろう)

それは恰も同行二人と形容されているような、それらの延長線のうたかたの如く、過去並びに未来へと拡散・浸透する同時代性の構築に是非とも不可欠な視座を与えかつ新たな展望をもたらすとの期待もある。
温故知新である。

さて120年前と言えば、志願しての日清戦争従軍記者となった子規が思い出される。
しかしそれから10年をおいて日露戦争、さらに10年後には第一次世界大戦と、正しく富国強兵が競われてくるのが、時流となってしまった。

欧州情勢へと眼を転じればその根っこを見せ付けられることとなるのだが割愛しておく、けれども初代総理大臣である伊藤博文は松下村塾の出身として知られるけれども彼は道後の出身であると、ご先祖に触れている。
彼とビスマルクの名前だけは記しておかねばなるまい。

1913年から1915年まで、つまり英仏の戦争状態のさなかマイケル・ファラデーとその師ハンフリー・デイビーらはその大陸を大旅行した。
そこからの見聞はマイケル・ファラデーにとっては極めて大きな収穫ともなった。


80年前には寺田寅彦が漱石のもとへと還っていった。
中間子仮説が湯川秀樹によって学会発表があり、さらに付け加えれば寅彦の愛弟子である中谷宇一郎の「雪の研究」その第一報も忘れられない。




   蜜柑山くもひかるみち事始め      膠一

孤独な先駆者

2013-04-19 09:00:00 | colloidナノ
1898年に他の2人の人がオックスフォードで重要な発見をしている。

J.S.ホールデン(父)は、ヘモグロビンと一酸化炭素の結合物の形成と、高濃度の酸素下でその解離についての研究を発表した。
凝固したタンパク質でさえ(尿素液中に)溶解し、死んだヒキガエルでさえ、飽和の尿素液中に浸しておくと、透明になって数時間でばらばらになる。

1900年以降は、イギリスでの生化学の歴史は、もっと連続的で、その一部を私の1959年のホプキンズ記念講演でとり上げておいた。

しかし、この種の考察で述べておかおかなければならない人がもう一人あって、それはトウデイクムである。

彼についての貴重な多くの知識が、デイクソンの脳についての章ですでに述べられている。

デイクソンの述べたことをさらに拡げる点ではごくわずかしかつけ加えることができないが、これらの点の多くは、ヘンリー・デール卿から個人的に教えていただいたことである。

この講演で話そうと思っていた2点についての彼はみごとな例となっている。

1つは、これらの先駆者の、聖人にも似たような科学への献身である。
トウデイクムは以下のように書いている。

評価の高い発見という形で賞を望んでもよいかもしれないが、もっとも偉大な天才にも保証されていない。
しかし、この問題に関して大切なのは、病的な発酵について理解し、経験によってとか、偶然に発見された手段とは違って、合理的な手段によってこれに対処することは、身体のすべての組織、器官、体液とそれらからのありとあらゆる産物の化学的組織についての完全な知識を得て初めて可能になるという点が病理学者の考えにさらに深く浸透したことである。

オットー・ローゼンハイム博士の努力のおかげで、彼の業績を示す脳の一部が現在もロンドンに保存されていると知って喜ばしい。

ハーデンの著書からの以前の引用の場合と同じように、この人の生涯から教えられたもう一つの点は、過去における科学上の論争がどれほどの程度にまで人びとをかり立てたかという点である。
現在でさえ、正当化されない懐疑が存在していると思うが、これは過去の恨みなのではない。
ヘンリー・デール卿は、トウデイクムがドイツとイギリスのこの分野の指導者から攻撃され、告発され、嘲笑されたと書いている。

たとえば、ガムギーは、パンとバターの代わりに構造式を与えてもよいだろうと言い。
ホッペ=ザイラーは「明らかに誤りだ」と言い、メーりーはトウデイクム氏の生かじりの知識がつづくのは、生理化学での流行病だと言った。

----この種のことがすべて、人びとの心の中で1908年までもつづいていた様子をヘンリー卿は記述している----そして、ローゼンハイムがみごとに示したように、この間もずっとトウデイクムが正しかったのである。

彼への研究費がとうとう中止されるようにないり、耳鼻咽喉科の開業にもどるようになったのはこのような批判の騒ぎのためである。

これらすべてのことにもかかわらず、ヴィクトリア風の家の階段を半分ほど上がったところにある温室で、一人の助手と自分の研究を続けた。
ある劇的な事件についての個人的な記憶を、ヘンリー卿は次のように書いている。

ガムギー教授は、1907年にスイスでの隠退地からやってきて生理学会の会合に出席していた。この会は、教授の教室で開かれていて、故A.D.ワラー博士は、この著名な先輩の帰りに感激して、会の通常の進行からはずれて、大勢の人の拍手を受けながら、この会の座長をするよにガムギー教授を招いた。
この会の予定表にあったオットー・ローゼンハイムがたまたま講演することとなった。
この講演では、副腎の脂質に関して、議論の生じそうにない点がとり上げられた。
ローゼンハイムが発表し終わると、ガムギー博士が立って、ヨーロッパ風の礼儀深さで、この研究の興味深さと重要さについて賞賛し、それについて聴衆からの討論を求めるのが私の楽しい義務であるとか、そういうことを述べた。

危険信号を安全に通過したように見うけられた。
しかし、この先輩はまだ立ったままでいたが、明らかに昔の記憶がかき立てられて、顔色が、もじゃもじゃの白髪との対比を強くしはじめた。「しかし、席につく前に、この機会を逃さないで、ローゼンハイム博士がプロタゴンの主題について今までに発表したすべての文は、まったく真実でなく、完全に不当なものだという私の信念を述べておきたいと思います」と絶叫した。

そして、ついに、震えながら席に坐った後、彼が次の講演者を紹介するために立ち直るまで沈黙が長く、重苦しく続いた。

ガムギー博士が死去されたのは、この会の後間もなくのことであった。




補記
複合脂質化学の父J.LW.Thudichum

しかし,何といっても初期の複合脂質の化学において最も重要な貢献をしたのはThudichum(1828~1901)である。
彼は多くのリン脂質画分を得,彼の師Justus Freiherr von Liebigユストゥス・フォン・リービッヒ男爵から貰った元素分析装置を用いて注意深い分析を行い,NIP比をリン脂質の同定にとりいれ,かつ脳からケファリン(Gr・Kephale=頭)(ホスファチジルエタノールアミンとホスファチジルセリンの混合物)を分離した。
この時,レシチンとケファリンの分離に溶媒による分画法をとりいれた。これは複合脂質の化学では初めてであった。

これら複合脂質についての研究は1811年にフランスのVauquelinによりはじめて行われた。
すなわち彼は脳からエタノールにより抽出した物質中に,リンが結合した脂質様物質を見いだした。
その当時,エーテルは一般的な溶媒でなく,また今日よく用いられているクロロホルムはまだ合成されていなかった。
同じような物質がCouerbe(1834)やFemy(1841)により得られた。
これらは後にLiebreich(1865)が命名したプロタゴン画分(後述)であった。

文献  「油化学」第28巻第1号(1979)講座  脂質 (XI)  林陽 近畿大学理工学部化学教室 (東大阪市小若江)



孤独な先駆者

2013-04-18 09:00:00 | colloidナノ
1860年と痛風に関心を向けてみることにしよう。

この年は、アルフレッド・ベアリング・ガロド卿1819-1907の「痛風とリウマチ性痛風の研究」の初版が出版された年である。

私は1867年の第3版をいちばんよく知っているが、この研究を検討してみることは、現在の誰にとっても、過去における痛風の発作の激しい状況についての啓示となるであろう。

約200年以前に、シデナムが、痛風は貧しい人ではなくて金持ちにおこることを指摘している。

現在でも痛風はおこっているが、ガロドの本の写真を見れば、最近では、そこに記述されているような不具にするほどの激しさに達することは少ないことがわかる。

ガロドは、自分の患者の血液中の尿酸の量を注意深く研究した。

この間、血液から得た血清中の尿酸の微量検出法を開発して、生化学者としてのみごとな能力を示した。

この方法は、現代のクロマトグラフィー法の先がけと見なすことができるので、それについての彼の記述はきわめて詳細にわたっている。

全操作は、直径約10センチ㍍の長さの「験査具または鉛筆の先のような棒で押しつけておいた洗ってない粗麻布が亜麻布からの」糸を1本か2本この液にひたす。
この皿を2、3日マントルピースにこのような平たい皿が並んでいるのを憶えているとその子息が私に話してくれた。

アルフレッド・ガロドは、ロンドンのキングス・カレッジ病院の治療教授で、その病院では相談医でもあった。

彼も、イースト・アングリア地方の出であることは興味深い、彼はイヴスウイッチで生まれ、イブスウイッチ中学校で学んだが、この学校へはチャールズ・シェリントン卿も、ウオルゼーもある時期学んだことがあった。

ガロドは、ロンドン大学で医学博士号を得て、キングス・カレッジ病院へ行く前は、ユニヴァーシテイ・カレッジにいた。彼の偉大な業績の1つは、薬物学に関する著書である。


アルフレッド・ガロドの4男が、セント・バーソロミュー病院の医師のアーチバルド・E・ガロド卿で、彼は1920年にウィリアム・オスラー卿の後継者として内科の欽定教授となったのだから、この家族は、遺伝的に生化学に関係があり、この人がオックスフォードにいた頃に、私は親密に交際する機会に恵まれた。

彼の兄は34歳という若さで死んだが、その頃すでにロイヤル・インスティテューションのフーレリア教授であった。

アーチバルド・E・ガロドは、いくつかの希な病気、とくに生まれたときから黒い尿を排泄することがあるアルカプトン尿症や、ブドウ酒色に尿に関連した先天性ヘマトポルフィリン症の研究を基礎として、代謝の先天的欠陥という概念を発展させた。

彼は正しくまたきわめて早い時期に、代謝について、ひとまとめにした考えを抱いてはならないこと、および、これらのそれぞれの場合について、遺伝的な欠陥にもとづく酵素の欠損があるという理論を発展させた。

この点で、欠損が病気の原因になることがある点を彼は実際に証明したのだが、この考えは、1920年代になってさえ、当時まだすべての病気について「細菌」説が浸みこんでいた医学関係の人たちに、ビタミン欠乏症に関連して、ゴーランド・ホプキンズが納得させようと努めていた考えなのである。

現在よく知られているように、ガロドの研究は、ビードルその他の人たちによって発展させられて、その意義は大きく、現在分子生物学の伝承の1部となっているほどである。


アーチバルド・E・ガロドとF・ゴーランド・ホプキンズ卿の2人は、ホプキンズがロンドンのガイ病院にいた頃に、尿中のウロビリンについて一緒に研究していたのだから、この2人を関連づけて述べるのは自然なことであろう。

彼が1899年にケンブリッジへ移るまでの期間については、ホプキンズを孤独な先駆者の1人として数えるべきであろう。

ガロドとのこの研究があったばかりでなく、チョウの羽の色素についてのみごとな研究があり、この色素を彼は尿酸の誘導体と考えた。
それ以後、これらの羽の中の物質の祖型が尿酸でなはなくて、プテリジンであるとウィーランドが示したことから、多大の関心を集めた。

プテリジンは葉酸の成分としてきわめて重要になった。中でも、生化学的な反応での、メチル基の転移に重要な関係がある。



孤独な先駆者

2013-04-17 09:00:00 | colloidナノ
ロイヤル・ソサエテイと王立内科医学会の会員であったベンス=ジョーンズ博士1814-1873が、「最初の化学と医学との関係を確立した」プラウド博士への謝意を表しながら講演したセント・ジョージ病院での話が1850年に出版された。


マッキルウェイン教授が指摘しているように、1854年から1865年の間に、尿の分析についていくつかの本が他にも刊行された。
ベンス=ジョーンズの本は、尿を実際に分析している人のために詳細にわたって記述されているだけではなかった。

この本のある章には、尿中の異常なタンパク質を検出する方法について記述されていた。

これは、尿からアルコールで沈殿し、沸騰中の水に溶け、冷却すると沈殿するという異常な性質のタンパク質性の物質であった。

このものは、硝酸を用いた通常の方法では見逃されることがあり、骨髄のガンである骨髄腫の患者から得られた。

このタンパク質の奇妙な物理化学的性質は、その後、生化学者の関心を呼びつづけ、そして1911年に、F.ゴーランド・ホプキンズが、H.サヴォリとともの、ベンズ=ジョーンズ・タンパク質尿症の三例についての研究を発表した。

この異常な溶解性が、コロイド全般について光を投げかけるであろうとホプキンズが考えていたことを私は記憶している。

広範なものになったにちがいないこの研究は、その役には立たなかったが、ホプキンズの本能的感覚は、明白に正当化された。

それは、免疫タンパク質の神秘を解明しようとして、この特殊な一群のタンパク質のペプチド鎖について、現在、ますます多く研究されるようになってきているからである。

ペンス=ジョーンズ博士の生涯の個人的な詳細については、彼もイースト・アングリア地方、つまり、サフォーク州、べクルズ郡のトリントン・ホールの出身であることに注目してよい。

ケンブリッジ大学トリニテイ・カレッジへ入り1849年に医学博士になり、やがてロンドンのセント・ジョージ病院の常勤医になったが、ここで自分の生涯の大部分を過ごした。

ある時期、ロイヤル・インスティテューションの所長になり、「おだやかな基質の人」と記録されている。

最近の注釈からすると、ベンス=ジョーンズ・タンパク質の実際の発見者は、ウィリアム・マッキンタイアーであったらしいが、この人は当時52歳で市立療養研究所の医師であった。

1845年に、トマス・ワトソン博士の治療を受けている患者を診察するためにハーリー街へ呼ばれて、尿中の異常なタンパク質の挙動についての正確な実験結果とともに、この病気について大切な点を多数観察した。

この材料の一部、さらに研究するためにベンス=ジョーンズ博士のところへ送られた。

このような事情とはいえ、ベンス=ジョーンズはすぐれた能力のある科学者であったにちがいない。
彼の能力は、1966年にロイヤル・インスティテューションでの講演に述べられている、別の研究にも示されている。


投薬後の組織への薬剤の分布の様子を研究したいと考えて、キニンが紫外線下で青い蛍光を出すという事実を利用したが、これは今日の用語では指標としてこの性質を利用したことになる。

驚いたことには、動物の組織の大部分は、それ自体で蛍光を示すことを見出し、これに関係した物質を「動物のキノイジン」と名づけ、彼はこの物質がキニン自体の化学的性質を多数共通にしているものと考えた。

これは、興味深い先駆的研究である。
生化学の分野でしばしばあてはまることだが、この性質のある物質がいくつも存在していることがわかっていて、その1つはチアミンが環状化合物を形成して生じるものでチオクロムと呼ばれ、キニン自体よりも蛍光は強い。


孤独な先駆者

2013-04-16 09:00:00 | colloidナノ
少し後、1835年になって、グラスゴーのアンドルー・ブキャナン1798-1882は血液の凝固を研究していた。

いわば忙しい生活のさ中に、自分の診察室の奥で、血液の凝固には2種類の成分が必要であることを見出した。

彼の観察の基本的な点は、水腫からの液は凝固しないで長期間安定であるのに、凝固血液の洗液を加えると速やかに凝固するという事実であった。

この主題は、いくつかの論文の形で詳しく発表され、ゴーランド・ホプキンズが常に指摘していたように、彼の事実の一部を再発見したドルパットのシュミットの一派の水準に近いところまで達していた。

アンドレー・ブキャナンは、もちろん、グラスゴーではたいへん尊敬されていて、生理学の教授の段階をへて、最終的には外科学の教授になり、1845年に切石術(膀胱結石の除去手術)のための器具を開発し、外科学の分野でも有名であった。

グラスゴーで生まれたが、父親は商人で母親はエジンバラの人であった。
グラスゴー中学校で教育を受け、グラスゴー大学に1811年に入学し、1822年に医学博士を得た。
後にパリへ留学し、イタリアを訪れ、「グラスゴー医学雑誌」を創刊した。
彼への追悼の辞の1つに、次のような文がある。

背が高く、少しまえかがみで、頭は大きく、立派で小きざみに動いていた。
考え深そうで、洗練され、人のよさそうな顔つきで、友人との挨拶で欠かしたことのない優しさと、心のこもった楽しげな表情をたたえていて、失われることのない上品さと礼儀正しさ、自分の目的への心からの誠実さ、寛大さ、公明さは学問上の友人との交際にきわだっていて、彼と知り合うようになった人のすべてが彼を愛し、信頼していた。

高度に知的な面での能力のうえに、子供にみられる単純さと無邪気さを合わせそなえていた。



孤独な先駆者

2013-04-15 09:00:00 | colloidナノ
リービッヒがこの問題に化学的な研究で救いを与えようとしていたことがわかっているが、新しい事実を考察するときには十分気をつけるようにとの警告とするべきであろう。

ある意味で科学者にとって、本物のジレンマがここに存在していた。

実験的な事実の検討にあたっては、批判を極限まで推進しなければならなかった。同時に、ある程度の偏見のなさが要請されたが、これは彼のうけた訓練とはほとんど逆のものであった。

その後展開された論争で、リービッヒの論文は、理論的だが誤っていて、これに対して、パストウールの論文は明確で簡明で、「もし自分の見出した事実以上に述べないとしたら、生命のないところに発酵はない」。

事実、M.トラウベは正しい解答を提示したが、ほとんど注目されなかった。
高圧のもとで酵母からしぼり出された液が発酵を遂行することをブフナーが1897年に明らかにするまでは、生物がこの過程を行なう酵素を合成するということが、一般に承認されるようにはならなかった。

ヨーロッパ大陸でいろいろの興奮をあおったこれらの事情を頭において、1900年以前にイギリスでどんなことが果たされたかという質問に答えることになるが、その答えは、連続的な努力としてはほとんど何もなかったということになる。

しかしながら、何人かは、実際に、かなり重要な先駆的観察をしている。
とくに興味深いのは、これらの先駆者のほとんどが、医学の修練を受けていたことである。この人たちは、患者を助けたいと望んでいて、自分たちの医療の間で明らかになったことに真摯な好奇心を抱いていた。

まず最初にウオラストン(1766-1828)について述べよう。

1797年に、痛風の白っぽい沈着物の1つに、尿酸を見出した。
1810年に、腎石中に、シスチンというアミノ酸を見出した。このアミノ酸に硫黄が含まれているという観察の証明は、1837年まで待たなければならななった。
この物質の身体の中での由来は、8年後メルナーが正常な皮膚の成分であることを示すまでは明らかでなかった。
事実、毛髪からシスチンの6方晶形のみごとな結晶を調整するのは、学生実験の主題となった。

ウオラストンは変わった経歴の持ち主であった。
ノーフォーク州のイースト・デレハムで生まれ、1872年に先任フェローになた後、1793年に医学博士号を得た。

彼は、ギリシャ語とヘブライ語でのタンクレッド奨学生でもあった。
1794年にロイヤル・ソサエティ会員になり、1795年に王立内科医学会の会員になった。

生涯の初期にハンテイントンとベリ・セント・エドマンズで開業医であった点に注目したい。

しかし1800年にこの仕事から退き、貴金属の分野での純粋に金属学的な科学的研究にとりくみ、そのために自分だけのための個人向けの実験室を利用した。

現在は、彼は白金からパラジウムの分離の例など、この面でよく知られている。

1802年にロイヤル・ソサエティの最高の賞であるコプリー・メダルを受けるほど著名になった。

彼の生化学的な観察がその初期の経歴から生まれたこと、また、研究的な本能といったものがあったことは明らかである。


孤独な先駆者

2013-04-14 09:00:00 | colloidナノ
19世紀生化学の孤独な先駆者   ルドルフ・ピータース卿

この時期のイギリスの生化学をとり上げる前に、この主題についてのヨーロッパでの背景についていくつか述べておくべきであろう。

前世紀以前の成果について、また、いろいろな形の生気論と機械論の間の移り変わりがどれほど長くつづいたかについての概観を知るには、マイケル・フォスターの「生理学の歴史」(1901)を読むようにすすめてよいであろう。

ヨーロッパでは、生化学的なはっきりとした活動があった。

「泥くさい」化学という軽蔑の言葉が当時存在していたが、ヨーロッパではこのような軽蔑はなかったようなのに、当時のイギリスにはよく見られた。

その中できわだった例外は、リーズ大学のコーエン教授で、彼のおかげでH.D.ダーキン、H.S.レーバー,H.レイストリックなどのすぐれた生化学者が養成された。

つまり、1827年のヴェーラーによる尿素の合成、糖とそれに関連する物質についてのクロード・ベルナールのすべての研究、および、臨床的な立場から病理学を研究する必要性についての彼の考えを指摘することができる。

ベルナールの書いた内容の大部分は今日でも近代的なものである。

フロルカン教授が引用している以下の文を、その例に挙げてよいであろう。

「生命の特性は、実際のところは、体系化された物質の物理化学的性質以外の何ものでもない」
「生物に見られる物理化学的性質は、外界で生起しているものと同じであると考え、体内での現象を、外界にあるとする作用因子で説明したいとする点に、大きな誤りがある。生物現象を研究室にもちこんで研究しなければならないのに、生物を研究室の結果から考察する化学者が陥ったのはこの間違いである」

クロード・ベルナールは、化学的に活動している細胞系に、生物としての体制という事実がいろいろな差を押しつけていることをはっきりと理解していた。

ヨーロッパでは、リービッヒとパストウールとの間で有名な論争があったが、これについては、ハーデンの「アルコール発酵」の序論で知ることができる。

三人の研究者が独立して1837年に生物の存在が発酵に関係しているという考えに到達するまで、誰もこの点に気がつかなかった理由は、はっきりしない。

たまたまこの年はヴィクトリア女王が即位された年であった。
この人たちの考えに反対する感情の強さは「年報」に発表された風刺文で見てとれるが、これをハーデンは以下のような文でみごとに記述している。


ベルセーリウスの軽蔑につづいて、やがて、ヴェーラーとリービッヒの皮肉が付け加えられた。
一方では、すでに述べた3人の研究者の発表によって、また他方、科学アカデミーの要請のもとに、カニャール・ラトウールの結論の正確さを確かめて満足したテユルバンの報告に刺激されて、ヴェーラーは手のこんだ風刺文を書いて、リービッヒに送ったところ、彼はとても気に入って、自分で二、三加筆して、テユルバンの論文の翻訳のすぐ後につづけて、「年報」に掲載した。

この中では、酵母は、かなり詳しく解剖的な現実味を加えて記述されていて、卵から生じ、蒸留器のような形をした小さな動物へと発達して、その動物が糖を食料としてとり込み、炭酸とアルコールへと消化し、これらは別々に排泄されるが、これらの全過程が簡単に顕微鏡で追跡できるとされていた。


現代生化学

2013-04-13 09:00:00 | colloidナノ
生理化学と生化学

生命と化学の研究のその後の発展で、シュヴァンの重要な観察事実が確認されたが、細胞の化学での発酵の役割の理解は、単純には発達しなかった。

発酵の研究はだんだんと体系的にとり上げられるようになっていったが、細胞の化学のほうは無視された。

この点についての明白な説明は、シュヴァンが明晰に提案したような、発酵と細胞の化学的変化とを関連づける研究のための条件が熟していなかったというであろう。

この説明は、われわれが今日この問題を眺めるときには妥当なものであろう。

しかし、前世紀の40年代の研究者にも同じように考えられていたであろうか?

この点を検討してみると、当時の研究の大多数は、ベリセーリウスと特にリービッヒの指導のもとに、発酵が生命に何らかの関係があるという提案を完全に否認していたことがわかる。

その考えとは逆に、長年の間、リービッヒは発酵は腐敗と同類の純粋に化学的な過程であるという考えを支持していた。

このような状況のもとでは、シュヴァンの考えがとり上げられないで、初めは細胞説と無関係に発酵の研究が発展したことも、驚くにあたらない。


生理学----生命の科学---は、細胞説と化学を基礎にして、40年代に変革を遂げた。

リービッヒは化学の重要性には十分に気づいていながら、明らかに、生理学にとっての細胞説の重要性を理解していなかったことに注意してみるは興味深い。

リービッヒは、有機化学の理論的な考察への道を見出すことができないときに、農業、医学、産業への化学の応用をより深く探求し始めた。

当時、生理学も化学も双方に大きな変化があった。
ベリセーリウスがあれほど残念に思い、リービッヒには理解されなかった、無機化学と有機化学の分類はより高い立場から統一することができたからである。

有機化学の性格も変わった。
植物と動物の器官内での化学的過程をとり扱うのをやめて、これは生理化学の任務となり、有機化学は炭素化合物の性質を研究した。


生化学の発達のうえで、リービッヒとパストウールの論争の意義を最初に理解した人の一人が、ドイツのブドウ酒業者のモリッツ・トラウベであるというのはおそらく似合いのことで、彼は、自分のための個人的な実験室をつくり、発酵についての重要な実験的および理論的論文を発表している。

彼は、1861年にすでに、化学的な過程と生物は、大部分酵素の作用にもとづいていることを理解して、この事実から、彼は生命の化学は正確な発酵の理論なしにはまったく理解できないであろうと信じるようになった。


ホッペ=ザイラーは70年代に考えるようになった。
1876年に、キューネは、「組み込まれていない」発酵素と「酵素」と改めて命名した。
ブフナーが、「酵母細胞の抽出液が発酵を遂行できる」と示した1897年に、発酵素と酵素の間に区別がないという実験的な証明が得られた。

この発見で、トラウベの表現では、それだけが生化学的研究の基礎となりうる正しい発酵の理論あるいは酵素作用について研究できるようになった。
同時に、この事実の理解で、細胞内での化学的変化を研究する鍵が与えられた。


要約してみると、学問としての生化学は、初期には、まだ統一されていた化学の一分野であった。

無機化学から有機化学が分離したことが、同時に生化学の化学全体からの分離を始めることとなった。
この段階では、生化学と有機化学とを区別することはほとんど不可能であった。

前世紀の40年代に事情が変わって、その頃には、有機化学が体系的に農学、医学、産業の問題に応用され始めた。
重要な社会的要因がこの過程を推進していた。

産業革命の急激な発展は、食品の生産に新しい問題をつくり出し、化学は、サトウダイコンと発酵の産業に浸透しはじめていた。

これらすべての事情の結果、生理的および病理的条件のもとで、生体物質の化学的変化を理解する必要性がいちじるしく増大した。
哲学的な考えも、同じ程度に重要な役割を演じた。

生化学の生理学からの分離は1870年から1880年頃に始まった。

このことへの興味ある文書が、1877-78年に「生理化学雑誌Zeitschrift fur physiologische Chemie」が刊行されたときのプリューガーとホッペ=ザイラーとの論争の中に見出される。

プルーガーは、「生理学紀要Archiv fur Physiologie」の編集者で、新しい雑誌の刊行を、決して漠然としたものとはいえない言葉で非難した。
彼は生理化学は、生命に関する統一的学問、つまり生理学の分割不可能な一部をなすものと考えていた。

この新しい雑誌はまだその名称として生理化学の名を掲げていたが、ホッペ=ザイラーは、次の序文で次のように指摘しているが、その意義は大きい、「生化学は・・・・その最初の頃の自然なまた必要であった分析的な創始期の状態から学問へと発展してきた・・・・」