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続;「膠観」

2013-10-06 11:48:40 | アルケ・ミスト
カール・ポパー「客観的知識」の第6章「雲と時計」は終わった。


それは如何にも彼らしく、叩き台的な作品であるから、そこからの「推測と反駁」を期待させる言葉をもって終えてもいるのだ。

それではと言うわけでもないが、すこし記して参考に供しておきたい。

主役を務めた「コンプトン効果」は1923年の発見であるが、その翌年、つまり1924年には「ドブロイ波」の発見がある。彼は当然これを知っているのであるが、それは「コンプトン効果」とは真逆の関係性であるから、「物質波」とも呼ばれている。

さらに付記しておく。多分彼自身も身につけていたと思われる腕時計は、機械つまり振り子とかねじ巻き式の時計ではなく、ケイサン化合物由来の水晶であったと推測されよう。

そのメカニズムを差し置いて言えば、「雲と時計」は「雲時計」と言い直して置くべきであることとなる。
その事に彼が気づいていたかどうか、これは疑わしいといえる。


余録

久しぶりに熟睡したので生体リズムがリセットされた。

数日前から肩が凝り気がついてみると歯がしみる。そのせいかリズムが崩れていたのだ。

エナメル質ではなくて、象牙質その神経に係わることであるらしいと、目鼻をつけた。

直ちにドラッグストアまで足を伸ばした。そこのキャッチコピーを追わえて、一隅にある商品を手に取ってみた。

薬用成分;フッ素そして硝酸カリウム。さらに注目したのはケイサン化合物、その形態であった。

商品は絞られたけれども、気がつくとトライアルサイズというお得な品が目にとまった。

そこに記されている漫画を見て驚いた。
大好物の柑橘等が描かれているではないか。この夏も例年になく、ふんだんにお世話になった。


その全てがよみとれる、コロイドの世界にすんでいる。




続;「膠観」

2013-10-05 16:06:56 | アルケ・ミスト
しめくくりに、私は事態を要約させていただく。

世界は閉じた物理系---厳格な決定論的体系であれ、厳格に決定されていないものは何であれすべて偶然にもとづくものとする体系であれ---とみなすのは不満足であることをわれわれは見た。

このような世界観に立てば、人間の創造性は人間的自由は幻想にすぎない。

量子論的不確定性を利用しようとする試みも、不満足である。
なぜなら、それは自由よりも偶然に、熟慮的決定よりも同時的決定に導くからである。

それゆえ私はここに異なった世界観---物理的世界を開いた系とする世界観---を提示した。

これは、思考と誤り排除の過程としての生活の進化観と両立しうる。
またそれは、生物学的新奇性の発現と人間的知識ならびに人間的自由の成長とを合理的に---十分にではないけれども---理解しうるようにさせる。

すべてこれらのことを考慮に入れた、そしてコンプトンとデカルトとの問題に対する解決を与える、進化理論を概説しようと私は努めてきた。

それは余りにも月並みでかつまた同時に余りにも思弁的に事を処理している理論である。

テスト可能な帰結がそれから算出できると私は考えるけれども、私は自分の提出した解決が哲学者の探し求めてきたものでると主張するものではさらさらない。

しかし、コンプトンは、この理論がその欠点にもかかわらず彼の問題に対する一つの可能な解答---そしてさらなる前進にと導きうる解答---を提示している、といったであろうと、私は思う。(完)




続;「膠観」

2013-10-04 16:43:34 | アルケ・ミスト
すべてのこれらのものは、生活の余剰部分---試行と誤り排除の方法が依拠しているところの、ほとんど行き過ぎといえるほどの豊富な試行と錯誤---である。

63) たとえば、私の「推測と反駁」、特に312頁を参照されたい。
芸術家が、科学者と同じように、この試行錯誤の方法を実際に用いていることを知るのは、興味あることである。
画家はためしに少量の色を塗り、それが彼の解決しようとしている問題を解決しない場合には変更するために、その効果を批判的に評定すべく数歩引き下がって眺める。

64) たとえば,Ernst H. Gombrich、Meditations on Horse、1963、特に10頁;および同著者のArt and Illusion、1960,1962、(索引の「試行錯誤」の項)を参照。次の注65をも見られたい。

また彼の暫定的試行---色の小斑点とか筆のひとなで---の予期せぬまたは偶然的な効果が彼の問題を変え、新しい副次的問題や新しい問題を生み出しうる。
芸術的目的や芸術的規準(論理学の諸法則と同じように、身体外的な制御体系となりうる)の進化も、試行錯誤の方法によって進むのである。

ここでわれわれはしばらく、物理的決定論の問題と、いまだかつて音楽を聞いたことがないのだが、モーツアルトの歌劇やベートヴェンの交響曲を「作曲」しうるであろうツンボの物理学者の例を回顧できよう。

私はこれらを、物理的決定論の容認できぬ帰結として提示した。
モーツアルトとベートヴェンは、部分的には、彼らの「趣味」、彼らの音楽評価の体系によって制御される。
しかしこの体系は型にはまった融通のきかぬものではなく、むしろ柔軟なものである。
それは新しい着想に反応し、新しい試行と錯誤によって---おそらくは偶然的な誤り、意図せぬ不協和音によってさえ---修正されうる。

65)科学的生産と芸術的生産との密接な類似性については、「人間の自由」の序文頁以下、および先の注60で言及した「人間の自由」74頁における論評を参照。


続;「膠観」

2013-10-03 10:54:02 | アルケ・ミスト
ⅩⅩⅣ  284-286

追考として、私は最後の一点を付け加えたいと思う。

自然淘汰ということのゆえに、進化が「功利主義的」結果と呼びうるものに---つまりわれわれが生き延びるのをたすけるうえで有用な適応に---導きうるだけだと考えるのは、誤りであろう。

柔軟な制御を具えた体系において制御する系と制御される系とが相互作用するのとまったく同様に、われわれの暫定的解決はわれわれの問題と、そしてまたわれわれの目的と、相互作用する。

このことは、われわれの目的が変わりうること、そして目的の選択が一つの問題となりうること、異なった諸目的がが競合しえ、新しい諸目的が発明されえ、試行と誤り排除の方法によって制御されうること、を意味する。

たしかに、もし新しい目的が生存の目的と衝突するならば、この新しい目的は自然淘汰によって排除されるかもしれない。多くの変異が致死的なものであり、したがって自殺的なものであることは、よく知られている。そして自殺的な目的の多くの例がある。他の目的は生存に関しておそらく中立的である。

最初は生存にとって助成的な多くの目的が、のちには自律的になり、生存にとって対立的にさえなりうる。
たとえば、勇気において他をしのごうとする、エヴェレストに登ろうとする、新大陸を発見しようとする、最初の月訪問者になろうとする野心、あるいはある新しい真理を発見しようとする野心、などがそれである。

他の諸目的は、そもそもの初めから、生存の目的と独立な、自律的な出発をなしうる。

芸術家の諸目的はおそらくこの種のものであり、あるいはある宗教的目的もそうであって、これらの目的を大事にする人たちによっては、これらの目的は生存よりもずっと重要なものになりうる。


続;「膠観」

2013-10-02 16:46:35 | アルケ・ミスト

その制御はふたたび「柔軟な」種類のものであろう。
事実われわれすべては---特にピアノやヴァイオリンなどの楽器を演じる人たちは---身体が必ずしもわれわれの欲するように動かないこと、そしてわれわれの不成功から、われわれの制御につきまとうこれらの限界を考慮に入れて、われわれの目的をいかに修正するかを学ばなければならないこと、を知っている。

われわれはある程度まで自由であるけれども、われわれがなしうることに制限を設ける諸条件---物理的その他の---がつねに存在する。(もちろん、譲歩する前に、われわれはこれらの限界を乗り越えようと試みることができる)。

それゆえ、デカルトと同様に、私は二元論的世界観を採用する。
もちろん私は二種類の相互作用する実体について語るのを勧めるものではない。

しかし二種類の相互作用する状態(または出来事)、物理化学的状態と心的状態とを区別することは有益であり正当であると考える。

さらに、もしわれわれがこれら二種類の状態だけを区別するのであれば、われわれはなおわれわれの世界観を余りにも狭くとっていると私は主張する。

少なくともわれわれはまた有機体の産出物、特にわれわれの心の産出物で、われわれの心と、したがってわれわれの物理的環境と相互作用するところの加工品を区別するべきである。

これらの加工品はしばしば「単なる物体の一片」、「単なる道具」であるが、それらは動物的レベルにおいてさえ時として完璧な芸術作品である。

また人間的レベルにおいては、われわれの心の産出物はしばしば「一片の物体」----たとえば印のつけられた紙片---よりはるか以上のものである。
なぜなら、これらの紙片は討論の状態、知識の成長の状態を表しており、それらを生み出すのを助けたほとんどの心による把握を、あるいはすべての心による把握さえ、はるかにこえているからである。

それゆえ、われわれは単なる二元論者でなく、多元論者でなければならない。


そしてわれわれが物理的世界にしばしば無意識的に生み出した大きな変化は、人間の心によっておそらくは部分的にしか把握されない抽象的規則や抽象的観念が山をも動かしうることを示すものであるということを、認識しなければならない。


続;「膠観」

2013-10-01 20:37:35 | アルケ・ミスト
ⅩⅩⅢ 282-284

ここに提示した進化理論は、われわれの第二の主要問題---古典的なデカルト的良心問題---に対する直接的な解決をもたらす。
それは、心または意識の進化について、またそれによって心の機能について、あることを述べることにより(「心」または「意識」とは何かを語ることなく)問題を解決する。

われわれは意識がごく幼少の頃から成長すると仮定しなければならない。

おそらくその最初の形態は、有機体が刺激性の物体から逃れるといった解決すべき問題をもつときの最初の形態は、有機体が刺激性の物体から逃れるといった解決すべき問題をもつときに経験する漠とした焦燥感であろう。
この点がどうであれ、意識は可能な反応の仕方---可能な試行錯誤運動とそれらの可能な結果---を予知し始めるときに、進化的意識を、そして増大する意識を、帯びるであろう。


意識的状態または意識的状態の系列は、制御の誤り排除の---通常は、(初期の)行動(つまり運動)の排除---システムとして機能しうる、とわれわれは今やいえる。

この観点からすれば、意識は多くの相互作用的な制御の一つとして現れる。

そしてもしわれわれが本のなかに具現された制御システム---理論、法則の体系、および「意味の世界」を構成するすべてのもの---を想起させるならば、意識がハイアラーキーにおける最高の制御体系だとはほとんどいえない。

なぜなら、それらはこれらの身体外的な言語的体系によってきわめて広範に制御されるからである。---たとえそれらの身体外的な体系が意識によって生み出されるものだといえるにしても。
しかし意識はかなりの程度まで物理的状態を制御する。
法または社会体系がわれわれによって生み出されながら、しかもわれわれを制御し、いかなる合理的意味においてもわれわれと「同等」ないし「類似」ではないが、しかしわれわれに相互作用するのとまったく同様に、意識の状態(「心」は身体を制御し、身体と相互作用する

したがって、そこには一連の類似的な諸関係がある。

われわれの身体的意味の世界が意識に関係しているごとく、意識に行動する個体の有機的の行動と関係している。

そして個体の有機体の行動はその身体に、つまり生理学的体系と解かされた個体有機体に、同じように關係づけられている。

後者は有機体の進化系列---個々の有機体がいわばその最新の尖兵をなすところの---に同じように関係づけられる。

個々の有機体は門によって探り針として実験的に急造されるが、しかし門の運命を大幅に制御するごとく、有機体の行動は生理学的体系によって探り針として実験的に急造されるが、しかしこの体系の運命を大幅に制御する。

われわれの意識状態はわれわれの行動に同じように関係づけられる。
意識状態は、行動の蓋然的な帰結を試行錯誤によって算出し、われわれの行動を見越す。
したがって意識は、制御するだけでなく、徹底的に調べ、熟慮する

この理論がデカルトの問題に対するほとんど瑣末な解答を与えるものであることが、今や明らかになる。

「心」とはなんであるかを語ることなく、この理論は直接的に次のような結論に導く。

すなわち、われわれの心的状態はわれわれの物理的運動(のあるもの)を制御するものであり、心的活動と有機体の他の諸機能とのあいだにはあるやりとり、あるフィードバック、それゆえある相互作用がある、と。

62) いくつかの場所で示唆したように、心的状態と物理的状態との「相互作用」の容認は、デカルトの問題の唯一の満足な解決を与える、と私は推測する。注43をも参照のこと。私はここで次のことを付け加えておきたい。すなわち、自我の(あるいは人の時空的位置および同一性の)意識がきわめて弱い、あるいは欠如している、心的状態または意識状態(たとえば夢における)が存在すると仮定するまっとうな理由があると私は考えている、と。それゆえ、自我の十分な意識が後の発展であり、心身問題をこの意識形態(または意識的「意志」があたかも唯一のものであったかのうように定式化するのはあやまりであると考えるのは道理にかなっていると思われる。


続;「膠観」

2013-09-30 17:38:13 | アルケ・ミスト
存在する、と私は考える。

そして私はわれわれの図の中央に子供の風船、あるいはもっと良いものでは、シャボン玉を置くことを提案する。

実際これは、パース的体系および柔軟制御の「ソフト」な体系のきわめて素朴な、多くの点ですぐれた実例またはモデルであることが判明する。

シャボン玉は、それぞれ雲であり相互に制御しあう二つの部分系から成り立っている。
空気がなければシャボン玉なつぶれるであろう。そして石鹸水の一滴だけとなるであろう。

シャボン膜がなければ、空気は制御されないであろう。
それは混じり合い、系として存在しなくなる。それゆえ、制御は相互的である。それは柔軟で、フィード・バックの性格をもっている。

しかし制御される系(空気)と制御している系(膜)とを区別することは可能である。
閉じ込められた空気は、閉じ込めている膜よりもずっと雲らしいだけでなく、もし膜が除去されれば物理的な(自己相互作用する)系であることをやめる。

これに対して膜は、空気が取り除かれたあとでも、異なった形状でではあるが、なお物理系といえる水滴をなすであろう。

気温を正確な時計やコンピューターのような「ハードウェア」系とくらべるならば、もちろんわれわれは(パースの観点にしたがって)これらのハードウェア系でさえ雲によって制御された雲であるというべきであろう。
しかしこれらの「ハード」系は、分子熱運動とゆらぎの雲的な効果をできるだけ最小化する目的で作られている。

それらは、雲であるけれども、制御メカニズムがすべての雲的な効果をできるだけ抑える、または補正するように考案されている。このことは、偶然的な試行錯誤メカニズムを模したメカニズムを備えたコンピュータについてさえいえる。

われわれのシャボン玉はこの点で異なっており、また有機体にいっそうにていると思われる。
分子効果は排除されず、皮膜---系を「開かれた」ものにさせておき、また環境的諸影響に対してその「組織」にいわば内蔵されている仕方で「反応」することのできる浸透性のある壁---によって閉じ込められている系の働きに本質的に寄与する。


61)浸透性のある壁または皮膜は、すべての生物学的系の特徴と思われる。(これは生物学的個体化の現象と結びつけられいるかもしれない)。皮膜と気泡が原始的有機体であるという考えの前史については、C.H.Kahn、Anaximander、1960、pp.111ff.を参照されたい

シャボン玉は熱線に当たると、(温室のように)熱を吸収し、閉じ込められた空気が膨張し、シャボン玉を浮動性に保つ。

しかし、あらゆる類似性またはアナロジーの使用におけるごとく、われわれは限界に気をつけなければならない。

少なくともある有機体においては、分子的ゆらぎが明らかに増幅され、試行錯誤運動を誘発するように用いられることを、われわれは指摘できよう。

ともあれ、増幅器はすべての有機体において重要な役割を演じるように思われる。(この点で有機体はマスター・スイッチと増幅器をカスケード、およびリレーを具えたあるコンピューターと似ている)。
しかしシャボン玉にはいかなる増幅器もない。


この点がどうであるにせよ、われわれのシャボン玉は、他の雲的な系によって柔軟にまたソフトに制御される自然の物質的な雲的系が存在することを示すものである。(ついでながら、シャボン玉の皮膜は、いうまでもなく、有機物質から作られる必要はない。大きな分子を含まなければならないであろうけれども)。

続;「膠観」

2013-09-29 13:44:47 | アルケ・ミスト
ⅩⅩⅡ  279-281

ここで私は、最後に非常に単純な解決に達したけれども私をひどく苦しませた問題にたちもどることにする。

その問題とは、こうである。
柔軟制御が存在することをわれわれは示せるのであろうか。柔軟制御の実例または物理的モデルと解せるような非有機的物理系が自然のなかに存在するであろうか。

この問いには、デカルトやコンプトンのようなマスター・スイッチ・モデルを用いる多くの物理学者によって、またヒュームやシュリックのように完全な決定論と純粋な偶然とのあいだにいかなる中間的存在をも認めない多くの哲学者によって、暗黙的に否定的な答えが与えられた。

たしかに、サイバネティックス論者やコンピューター技術者たちは、ハード・ウェアから出来ているがきわめて柔軟な制御を取り込んでいるコンピューターを構成するのに最近成功してきた。
たとえば、フィードバックによって点検または評価される(自動パイロットまた自動指向装置の仕方で)、誤りであれば排除される偶然的試行のためのメカニズムを内蔵したコンピューターがそれである。

しかしこれらの体系は、私が柔軟制御と呼んだものを取り込んではいるものの、本質的にはマスター・スイッチの複雑なリレーから成り立っている。
ところが、私が求めていたものは、パース的非決定論の単純な物理的モデルであった。
ある他の雲らし雲によって---いささか雲らしさの少ない雲によってであるが---制御される、熱運動における非常に雲らしい雲に似た純粋に物理的な体系である。

右方に時計、左方に雲をもつ、われわれの先の雲と時計の配列に立ちもどるならば、われわれが探しているものは有機体またはわれわれの蚊柱のような、しかし生きていない、中間物である。
つまり柔軟に、そしていわば「ソフトに」制御された純物理的な体系である。

制御されるべき雲がガスだと仮定しよう。
そうするとわれわれは、すぐに混じり合い、一つの物理的体系を構成しなくなってしまう制御されていないガスを最左方に置ける。

われわれは最右方に、ガスで満たされた鉄シリンダーを置く。これはわれわれの「ハード」制御、「融通のきかない」制御の例である。
その中間に、しかしずっと左方寄りに、われわれの蚊柱にような多少とも「ソフトに」制御された多くの体系や、太陽のような引力によってひとまとまりを保ったガスのごとき微粒子の巨大な球がある。(もし制御が完全でなく、多くの微粒子が逃れるとしても、われわれは気にしない)。

惑星は運動において融通のきかぬ制御を受けているといえるのであろう。----もちろん、比較的にいえば、であるが。
というのは、惑星でさえ雲であり、すべては銀河であり星団であって、星団の星団だからである。

だが、有機的体系や微粒子のかかる巨大な体系を別にして、何らかの「ソフト」に制御された小さな物理系が存在するであろうか。



続;「膠観」

2013-09-28 19:29:19 | アルケ・ミスト
ⅩⅩⅠ  278-279

しかし、コンプトンはこう主張する。
アメーバの行動は合理的でないが、アインシュタインの行動は合理的だとわれわれは仮定できる;それゆえ、結局、そこにはある相違があるはずだ、と。

57) 「人間の自由」91頁、および「科学の人間的意味」73頁を参照。

相違があることを私は認める。
彼ら両者のほとんどがランダムな、または雲様な試行錯誤運動の方法は基本的に非常に異なったものではないにしても、誤りに対する彼らの態度には大きな相違がある。アインシュタインはアメーバと異なり、新しい解決が彼にもたらされたときにはいつでも、そのアラを探し、その解決の誤りを看破しようと、最善をつくして意識的に努力する。彼は自分自身の解決に批判的に対処した。

58) H.S.ジェニングスの前掲書334頁以下、349頁以下を参照。問題解決をする魚の見事な実例は、K.Z.Lorenz、King Selomon’s Ring、1952、pp.37f.〔「ソロモンの指輪日高敏隆訳、早川書房、1963年〕によって叙述されている。

自分自身の考えに対するこの意識的に批判的な態度が、アインシュタインの方法とアメーバの方法とのあいだの一つの真に重要な相違だと私は考える。
それが、より厳しい批判に耐えうると思われるあれこれの仮説をより注意深く検査する以前に、数百の仮説を不適切なものとして早急に拒否することをアインシュタインに可能にさせたのである。

物理学者のジョン・アーチバルト・ホイラーが最近いったように、「われわれの全問題は、できるだけ早く誤りをおかすことである

59) John A. Wheeler、American Scientist、44、1956、p.360〔ホイラー(1911- )はアメリカの原子物理学者でプリンストン大学教授。この言葉は「推測と反駁」の扉にモットーとして掲げられている〕。 

ホイラーの問題は、批判的態度を意識的に採用することによって解決される。
これは合理的態度または合理性のこれまでの最高の形態だと私は考える。

科学者の試行錯誤はもろもろの仮説から成り立っている。彼は仮説を言葉で、しばしば書き物で定式化する。
しかるのちに彼は、これらの仮説のどれかを批判し、実験的にテストすることによって---その仮説のうちに不備欠点を見出そうと試みることができる。
もしその仮説が、少なくとも競合的な諸仮説と同様に、これらの批判とこれらのテストに耐えないとすれば、その仮説は排除されるであろう。

60) われわれは一組の競合的な諸仮説のうちから「最良の」もの---真理の探求のために捧げられた批判的議論の光に照らして「最良の」もの---を選べるにすぎないということは、議論の光に照らして「真理にもっとも近づいて」いると思われる仮説を選ぶということを意味する。私の「推測と反駁」の第10章を参照。また「人間の自由」Ⅶ頁以下および特に(エネルギー保存の原理について論じられている)74頁をも見られたい。

原始人やアメーバの場合は、これと異なる。
そこでは、いかなる批判もなく、したがって自然淘汰が誤った仮説や期待を保持したり信じている有機体を排除することによって、それらの仮説や期待を排除するということがきわめてしばしば生じる。
それゆえわれわれは、批判的または合理的方法は、われわれの代わりにわれわれの仮説を死なせることにある。ということができる。
それは、身体外的進化の一ケースである。






続;「膠観」

2013-09-27 17:42:54 | アルケ・ミスト
ⅩⅩ 276-277

以上がきわめて手短な理論の概略である。
もちろん、それはもっと多くの精緻化を必要とする。しかし私は一つの点をもう少し詳しく説明しょうと思う。

つまり、(第ⅩⅧ節のテーゼ(1)から(3)で)私が使った「問題」および「問題解決」という用語、とりわけわれわれは客観的または非心理学的意味において問題を語りうるという私の主張、についてである。

この点は重要である。
というのは、進化は明らかに意識的な過程ではないからである。

多くの生物学者は、ある種の器官の進化はある種の問題を解決するものだという。
たとえば眼の進化は、運動している動物に、堅固な物に衝突する前に方向を変えるよう時宜にかなった警告を与えるという問題を解決する。

この種の問題に対するこの種の解決が意識的に探求されたのだとは、誰も主張しない。しからば、問題解決について語るのは、まったく比喩ではあるまいか。


私はそうは考えない。
むしろ事態はこうである。われわれが問題について語る場合、われわれはほとんどつねに後知恵からそうしているのである。

問題に取り組んでいる人は、自分の問題が何であるかを(彼が解決を見出すまでは)はっきり述べることがほとんどできない。
また、たとえ彼が自分の問題を説明できるとしても、彼はそれを思い違いしうる。

このことは、科学者についてさえいえる。
科学者は自分たちの問題をはっきり自覚しようと意識的に試みる少数の人たちなのだけれども。
たとえば、ケプラーの意識的な問題は、世界秩序の調和を発見することであった。

しかし彼が解決した問題は、一組の二体惑星系における運動の数学的叙述であった、とわれわれはいうことができる。

同じように、シュレーディンガーは、彼が(時間から独立の)シュレーディンガー方程式を見出すことによって解決した問題について、思い違いしていた。
彼はシュレーディンガー波を、電荷の変化する連続的な場の電荷密度波であると考えた。
のちにマックス・ボルンはシュレーディンガー波振幅の統計的解釈---シュレーディンガーに衝撃を与え、彼が生きているあいだじゅう嫌った解釈---を与えた。

シュレーディンガーは一つの問題を解決した---しかしその問題は、彼が解決したと自分で考えた問題ではなかった。
このことをわれわれは今日、後知恵によって知っている。

しかし、われわれが解決しようと試みる問題について最も意識的であるのは、科学にあいてであることは明らかである。

それゆえ、他のケースにも後知恵を用い、アメーバはある問題を解決する(アメーバは何らかの意味においてその問題に気づいていると仮定する必要はないが)ということは、不適当ではないはずである。

アメーバからアインシュタインまでは、ほんの一歩にすぎない。