「奇蹟」と称えられるほどの業績であるが故であろうか、そのミッシング・リンクとされる空白の期間が囁かれている。
お大雑把に言えば、その始まりは1900年でありその終は1905年と言えるのだから、あの「余が最も不愉快なる2年、否それに続くこと、3年余り」と重なり、思われれくるのも道理というものであろう。
それをある人は“大変不思議な時間であった”と表現している。
それに先立つ「アインシュタイン16歳の夢」(戸田盛和著;岩波書店)等を見ておこう。
アルバートはすでに15歳で、まもなく徴兵されることになっていた。(今度はドイツを離れてイタリアへ行くこととなった父親の事業)
アルバートは一人でミュンヘンに残ることになった。
当時の法律では、ドイツの健康な若い男子は(15歳)すべて兵役を終えなければ国を離れることはできなかった。
15歳にして神経過敏で、感情の起伏がはなはだしく、自分は見捨てられていると感じていたのだ。
医者は彼の様子に気がつき、どこにでも提出できる診断書をつくって、アルバートは家族のもとで静養して健康を取り戻さなければ間違いなく神経衰弱になるだろうと記した。
さらに有利な口実をつくるために、アルバートは数学の教師に診断書を見せた。
・・・・・アインシュタインは数学の成績がきわめてよく、これ以上教えられることはないという手紙を書いてくれた。
これが、学校から逃れるパスポートになるかもしれない。アルバートは2通の手紙をたずさえて校長のところへ行き、うまくやってのけた。彼は学校からも国からも解放された。
このわずか6ヶ月でアルバートはすっかり変わったのを見て、妹のマヤはすっかり驚いた。
神経質で無口な夢想家は、愛想がよくて社交性があり、しかも鋭いユーモアのセンスをもちあわせた青年に変身した。

社交的な集まりで居間が話し声や音楽でにぎわっているときも、アルバートは自室にこもって勉強するのではなく、ペンとインク壺とノートをたずさえてパーテイの会場にいた。彼がソファに座りこみ、インク壺を肘掛けにそっと置いて、まわりの騒ぎがまったく気にならない様子で勉強を始めるのを見て、マヤは面白がったものだ。
アルバートが大好きだった叔父のカエサル・コッホは、アルバートから送られたエッセイを誇らしげに見せた。
それは、電気と磁気とエーテルのあいだに関係があるかどうかを確認する実験について書かれていた。
アルバートがチューリッヒ・ポリテクニックの受験に失敗すると、おおいに期待していた2人の叔父の衝撃も大きかった。
アルバートはフランス語と化学と生物で失敗したが・・ アルバートの非凡な才能に気がついたのは2人の叔父だけではなかった。
ポリテクニックで物理学を教えるハインリヒ・ヴェーバー教授は数学と科学の高得点に驚いて、アルバートに自分の講義を受けるようにすすめた。校長のアルビン・ヘルツオークは、アルバートが16歳で、入学試験を受ける普通の学生より2歳若いことに気がつき、それも考慮に入れたうえで、翌年に入学を許可すると約束した。
アーラウの州立高校には自由の精神がもなぎっていた。
ここで彼はミュンヘンのギムナジウムとまったくちがう、生き生きとした自由の精神を楽しむことができました。
彼は「自伝スケッチ」のなかで、次のように述べています。
アーラウでの1年のあいだに、私には次のような疑問が生まれました。
“もしも光速度で光の波を追いかけたら、光の波は静止して見えるだろうか。まさかそのようなことがおこるとは思えない”という疑問です。
そのころアインシュタインは、光が電磁波(電気的・磁気的な波)であるという説をつきつめて考えはじめ、コッホ叔父さんにも手紙で意見を求めていたので、光の波を追いかけたらどう見えるかという夢想も、そこから出てきたのでしょう。
しかしこの問題はこの後も長くつきまとって、「特殊相対性理論」へと発展したのです。
この理論が発表される1905年までの約10年間,彼は心の中でずっとこの疑問をつきつめていったのです。
なお、この「自伝ノート」はチューリッヒ工科大学のときの学友であったマルセル・グロスマンという数学者と追悼し、感謝の気持ちをこめてアインシュタインが書いたものです。
アーラウでアインスタインが光の波について疑問をもったのは、光の電磁波説が当時の学界の大きな話題であったからだと思われます。19世紀の終わりごろの物理学には、最も基礎的な物理学と考えられていたものが2つありました。それはニュートンの力学とマクスウェルの電磁気学です。
ここで電磁気学の基礎を築いたマイケル・ファラデーに触れておくことが良いでしょう。
はじめはデイヴィーの指導もあり、化学的な研究が多かったようですが、やがてファラデーは独自の研究と実験を展開するようになりました。
1800年にヴォルタが電池を発明してからは持続した電流が得られるようになり、電流や磁気に関する研究がさかんになって、ファラデーはその先端の仕事にたずさわることになります。
ファラデーは、
電磁誘導の現象などの発見(1831年)によって電気力と磁気力(磁力)を統一したことになりますが、自然の力はたがいに関係があるのではないかと考えていました。
彼は重力と電気とのあいだに、磁場と電流のあいだのような関係があるのではないかと実験を試みましたが、残念ながら成功しませんでした。もしもこのような試みに成功していれば、彼はアインシュタインに先んじて重力と電磁力との統一をなしとげていたかもしれません。
自然界には重力、電磁力のほかに核力などという基本的な力があります。これらのあいだの関係の探求、すなわち自然力の統一という問題は物理学の基礎的な問の一つです。
マクスウェルはファラデーが書いた「電気学の実験的研究」に強く啓発されました。ファラデーが言葉で書いたところを数学にうつしかえながら、電磁気学の体系を作り上げたのはマクスウェルでした。
マクスウェルはファラデーにならって「場」という用語を使いました。
それは空間のある部分が、ある種の力を現すことができる物理的な緊張状態を表すものです。
本質的には、マクスウェルはファラデーの電磁誘導の法則(磁場の変化は電場を生じるという法則。変圧器の原理)をその逆の命題に拡張して、電場と磁場の対称性を明らかにしたしました。
つまり、電場の変化は磁場を作るという法則(変位電流)をたて、電場と磁場を統一して、電磁気学を創設したのです。
電磁波は、この理論の結果としてマクスウェルによって予言されたものです。
彼の論文を見るとわずか2ページぐらいで、簡潔に電磁波を予言しています。そして予言された電磁波の伝わる速さが、測定されている光の速度に大変近いので、光そのもの(放射線や、もしもあればその他の放射も)が、電磁場の法則にしたがって電磁波のなかを波の形で伝わる電磁場の変動であるという強力な根拠を得たのでした。
電磁現象において、マクスウェルはケルヴィン卿から熱伝導との類推などの示唆を受けましたが、マクスウェルはファラデーの電気力線、磁力線の考えを数学的に追求して、最終的には1873年に「電気及び磁気について」をまとめあげました。
学業成績は物理、幾何それからバイオリン音楽はAであった。
1900年、7月チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバー (Heinrich Friedrich Weber)と不仲であったためにか、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得ていたとも。
「アインシュタイン 愛の手紙」(アルバート・アインシュタイン ミレヴァ・マリッチ;大貫昌子訳:岩波書店)その序を少し引用しておこう。

・・・彼の手紙はアインシュタインとヴェーバーの間に巻おこりはじめていた衝突についても、新し光を投げかけている。
そもそもヴェーバーの指導を受ける学生の場合、普通は彼ら自身が実験室で手がける実験に研究の焦点が絞られるものだが、アインシュタインはもっぱら机上で考えるだけ、自分で実験をやるより他人の発表した実験結果に頼っていたのだ。
・・・・・もちろん教授のヴェーバーにしてみれば、ともすれば近道ばかりするこの型破りな学生に、しだいに不満を感じるようになったにちがいない。この反目の結果アインシュタインは、第一回目の卒論書きをあきらめたが、少なくともアインシュタインの感じではその間、この若者が卒業後職を探すのを、ヴェーバーはことごとに邪魔をしたのである。
②1898年2月16日 親愛なるマリッチ嬢 ・・・・フルヴィッツは偏微分以外の微分方程式とフーリエ級数、そして変分と2重積分について幾つか講義してくれました。ヘルツオグの物質の強度についての説明は明確でよかったが、力学の方はやや深さが足りませんでした。まこれだけ大勢の“マスプロ講義”では、それもしかたのないことでしょう。
ヴェーバーの熱(温度、熱量、熱的諸量、気体力学)についての講義は出色でした。彼の授業の一回一回が楽しみです。フィードラーは今、射影幾何学の講義をしているところです。彼は頭脳明晰だし、深みもあるんだが、あいもかわらずがさつな人間で、おまけに何を考えているのかわからないところもあります。端的に言えば大学者だが、残念ながら恐ろしい衒学者でもあるということになるでしょう。その他宿題の多い大切なコースは数論だけです。といっても少しずつ自習すれば追いつけますよ。・・・アルバート・アインシュタイン
⑭1900年7月29日 最愛のドクサル ベッドの中で書いているから この手紙は読みにくい でも僕は書くのを止めない 僕の豆狸が楽しみながら それを読んでくれるようにと!・・・・・君の山猿より 二伸 これは「マヤからのキス」です。我がヴェーバーにはもう手紙を書いても無駄です。彼は田舎に行ってしまうそうだから。
㉔1901年3月23日 愛するドクサル 休暇最初の日だというのに、もう君から生きている“しるし”を受け取りました。いささかびっくりしています。
リーケのところの状況は思わしくなく、その職の方はもうほとんど諦めました。僕の邪魔をするこんな格好のチャンスを、ヴェーバーが見逃すわけがないでしょう。君の忠告に従い、いくら陰で画策をこらしたってうまくいくはずがない、とヴェーバーに手紙で言ってやりました。それだけでなく、僕の就職が決まるも決まらないも彼の推薦ひとつだとも。オストワルドが何を書くか、興味津々です。・・・山猿拝
㉕1901年3月27日 かわいい子猫ちゃん 手紙ほんとうにありがとう。そしてその中に秘められてきた真実の愛も。お返しに君の星だけ、君にふさわしいだけ、心の底からのキスと抱擁を送ります。
リーケに断られたことについては別に意外ではなく、ぜったいヴェーバーの画策によるものと確信しています。断りの口実はいかにも信じられないようなものだし、もう一つの職のことにもまったく触れられていないんだから。
こうした状況下では、もうほかの教授連に手紙を書いたってむだでしょう。どうせある時点で僕についてヴェーバーに意見を求めるにきまっているし、彼はまた悪い推薦状しか書かないことがわかっている以上はね。
かくなるうえはアーラウとミュンヘンで習ったことのある先生たちを頼ることにし、何よりも助手の職をイタリアで探すことにしましょう。・・・君のアルバート
㉗1901年4月10日 愛する子猫ちゃん ・・・・オストワルドは返事をよこさず、僕が助力を頼んだシュトウツトガルトの教授からも音沙汰なし。イタリアでの見通しもご同様だが、もう腹立ちも忘れまったく気落ちもしていません。・・・・君のアルバート
㊳1901年7月7日 愛するドクサル ・・・・僕らの将来について、僕は次のような覚悟をしたんだ。どんなつまらない仕事でもいいから、僕は今すぐ職を探すことにしよう。それがどんなに低い地位であろうと、僕の学問目標や自尊心などかなぐり捨てて受けるつもりだ。そして職が見つかりしだい君と結婚して、ここでいっしょに暮らそう。・・・・
君のアルバート
㊼1901年12月19日 僕の愛するひと またもや良いニュース!だが待てよ。まずはおくればせながら、昨日の君の誕生日おめでとう。また忘れてしまってごめんね。しかし今は僕の言うことに耳をすませ、僕の喜びいっぱいの抱擁とキスを受けてほしい。
ハラーから特許局で新しく作った職にすぐ申込書を出すようにと、直接に親切な手紙をもらったんだ!もう疑う余地もない。グロスマンなどもう祝いを言ってくれたぐらいだ。何とかして彼に僕の感謝の念を表すため、論文を彼に献じることにしよう。