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しんかがく 60

2012-07-27 09:00:00 | Tyndallナノ
 科学的思考は前科学的思考の発展したものである。空間概念は後者においてすでに基本的役割を演じているもので、前科学的思考における空間概念から話を始めなければならない。
 以下一部割愛「物理学の空間、エーテル、および場の問題」『アインシュタイン選集③』共立出版


 物理学者の意識の中ではごく最近まで空間は、もっぱら、それ自身は物理的現象にはなんら寄与するところのない、あらゆる出来事の受動的な容れ物であるに止まっていた。
光の波動論とファラデー・マックスウェルの電磁場の理論とともに、概念構成に新たな転回が起こったのである。

 すなわち、物体の存在しない空間中を波動として伝搬してゆく状態が存在し、この状態はある空間領域に局在している場と同様、その空間中に持ち込まれた荷電あるいは磁気に作用力を及ぼしうることが明らかにされた。
 
 19世紀の物理学者にとっては空間自体に物理的機能ないしは物理的状態を負わせることは全くばかげたことに思われたことであろう。
したがって、可秤的な物質モデルとして、全空間にゆきわたっていて、電磁気的にしたがってまた光学的過程の担い手となるべき媒質すなわちエーテルが考え出されたのであった。


 この状況を描写すれば次のようなものになったわけである。
:エーテルが空間を充たしており、その中を物質粒子あるいは可秤物質の原子が遊泳している:ただし物質が原子的構造をもつことは世紀の転換期に当たってすでに確実な実験上の結果になっていたのである。

 物体の相互作用は場を通じて行われるべきものである以上、重力の場もまたやはりエーテル中に存在していなければならない。しかしその当時には重力の場の法則はなんらはっきりした形をとっていなかった。

 エーテルの力学的性質は最初は獏としたものであった。そこに現れたのがH.A.ローレンツの見事な洞察であった。



:物理的空間とエーテルとは同じ一つのことの異なった表現にすぎず、場は空間の物理的状態にほかならない。


 リーマンの天才のみが、他に理解されることなく孤独のうちに前世紀の中葉ころ、すでに、一つの新しい空間概念の把握に迫っていた。

 この知的産物はそれがファラデー・マックスウェエルの電場の理論に先行するものであったが、それだけ一層驚嘆に値するものである。次に現れたのが、あらゆる慣性系の物理的同等性の認識を伴う相対性理論であった。電気力学あるいは光の伝搬の法則との関係から空間と時間とが分離できないものであるということになった。

 つまり物理空間は時間の次元を含む一つの4次元空間に拡大された。ただしこの特殊相対性理論の4次元空間は、ニュートンの空間と全く同様な意味で剛くかつ絶対的なものなのである。

 科学の方法として重きをなしてきた帰納的方法は、かっての科学の青春時代に対応していたかのように、その地位を模索的な演繹的方法にとって代えられた。経験と比較されうるような種々の結論にたどりつくためには、それ以前にすでにある種の理論的構成が十分練り上げられていなければならない。この場合にも経験的事実が全能の裁定者であることには変わりはない。

 理論家にとって目標に到達する道はそれ以外にはおよそありえない以上、むしろ空想することを彼に認めてやらねばならぬ。

:それは特殊相対性理論から一般相対性理論へ、さらにそこからその最後の末裔である統一的な場の理論へと導いてきた考え方である。このような説明には当然数学的記号を用いることを完全に避けるわけにはゆかないのである。以下割愛






ヒッグス粒子ってなあに?電場は、たとえ電荷がなくても存在していることに注意してください。たとえば+3の電荷と-3の電荷をぴったり重ねると矢印はきれいに消えますが、これは「電場がなくなった」のではなく、「電場が0という値をとっている」ということです。    
                    





しんかがく 59

2012-07-26 09:00:00 | Tyndallナノ
 卒業はしたけれども希望の助手にはなれず、“我がヴェーバーにはもう手紙を書いても無駄です”と書き送った頃、アインシュタインは就職活動のみならず結婚問題を抱えていた。

 その夏休みの家族達とのやりとりはあの手紙にも記されているけれども、「アインシュタイン」(デニス・ブライアン;鈴木主悦訳)では、こう記されている。

その夜、ホテルの部屋で、母親と2人きりで最終試験の結果について話したとき、アルバートはミレヴァが落第したと言った。パウリーネはさりげなく「それで、ミレヴァはどうなるの」と聞いた。アルバートは、いつもの率直な言い方でさりげなく答えた。「私の妻になる」。
 落胆したパウリーネはとても平然とはしていられず、大声をあげた。ベッドに身を投げ出して、枕に顔を伏せ、動揺した子供のように泣きじゃくった。1900年7月29日付の事である。

 不安で、戦争のさなかにいるような気分から逃れられるのは、勉強するときだけだった。
やがて彼は達成できないかもしれない生涯の研究----客観的な現実----に没頭しはじめた。
 世界は実際にはどのようなものか、その最小の要素から宇宙の全体像までを解明し、さらに、自然の法則は宇宙全体に画一的にあてはまるかどうかを突きとめたかった。


 若い恋人たちはときおり家庭教師をして生活費を稼いだ。
その間も、バラ色の将来を夢見ながら、2人が共同で自然界最大の神秘を発見し、金を稼いで自転車を買って、地方を旅行しようなどと考えていた。
                                      


 そのような頃であった。
毛細管現象(液体に関する理論)に関するアルバートの論文が権威ある学術雑誌「アナーレン・デア・フィジーク」(物理学年報;プランク)に掲載されるという知らせを受けて、彼とミレヴァは有頂天になんった。
 この論文は、熱力学の第2法則に関するルートヴィヒ・ボルツマンの研究に示唆を受けたものだったので、アインシュタインはオーストリアのこの偉大な物理学者に論文の写を送り、何か論評をしてくれることを期待した。
 他にもうれしいことがあった。チューリッヒ大学のアルフレート・クライナー教授が、アルバートの提出した学位論文---気体運動論---を承認してくれたのだ。



 丁度その頃、“留学の船中から”鏡子への手紙が出されている。

 雲の峰風なき海を渡りけり
それに続いて、時さんの呉れた万年筆は船中にて鉄棒へつかまって器械体操をなしたるために打ち壊し申候。洵に申訳無之おついでの節よろしく御伝可被下候。 10月8日



 先に見たfirst paperは、「Folgerungen aus den Capillaritätserscheinungen毛細管現象からの帰結」掲載通知は10月3日頃であったと思われる。

                                   
「・・・ところでニュートンの重力はアインシュタインにより一般相対論として再定義された。そのときアインシュタインは重力による時空の歪み(計量テンソル)を考え、その歪みにより力の発生の説明を行っている。この歪みは日常よく見かける毛細現象に譬えられる。

 例えば水表面はガラス壁のそばで平面からメニスカスに変形する。
そして一般相対性論の説明としてよく図1のような空間の変形イメージが用いられる。
 重力による空間(3次元)の歪みをメニスカスと同じような界面(2次元)における歪みとして、日常卑近なイメージになぞらえて解釈しようというわけである。

 アインシュタインがgravity wave重力(波)の直感的説明として、卑近な2次元界面を持ち出したのは達見であった。
ところで、はたしてアインシュタインは、本当にこの界面の歪みが2次元力を生み出すとまで見ぬいていたのだろうか。
 毛細現象を記述した1901年の彼のfirst paperからほぼ100年が過ぎた今、彼も見落としていた界面における2次元力の報告を行いたい。
 
 次元が下がっている分、力の発生の背景の機構が(空間の歪みと重畳原理)が手にとるようにわかるのである。


⇒「日本物理学会誌」54巻 ⑦1999 永山国昭「界面上の微粒子にはたらく普遍的2次元力」

要旨  界面や膜中に分散して存在する物体間には、表面張力を介して界面と平行な方向に力がはたらく。
これを横毛管力lateral capillary forcesと名づけ、精密に研究した。この力はスケールを問わずあらゆる物体間にはたらく普遍的な力で、2次元世界の重力または電気力に相当する。
 物体の大きさとぬれの性質に依存し、引力にも斥力にもなり、かつ微粒子に対しては距離依存性が逆1乗則に従う。また種々の力のバリエーションが生まれる。元来この力はモノが水面上で集まるという常識的事実の裏側に隠されていたもので、理論先行で始まったが、力の実測で科学となった。横毛管力は力の起源が目に見える形で理解されるので、重力理論の2次元モデルとしてもわかりやすい教育的素材を提供している。→Annalen der Physik 309(3), 513–523 (1901),


 その頃、2月9日付けで狩野君、大塚君、菅君、山川君の連名にてロンドンから近況を報告している。
①パリにて博覧会を1週間ばかり見たが一切何も分ないと思い給え。
②倫敦は烟と霧と馬糞で填っている。
③大幸勇吉の日本語などは僕にも分からないからね。こういう訳で語学その物は到底僕には卒業が出来ないから書物読の方に時間を使用する事にしてしまった。
④それからもう一つ狩野君と山川君と菅君に御願い申す。僕はもう熊本へ帰るのは御免蒙りたい。帰ったら第一で使ってくれないかね。


 この年の5月には、オストワルドの元で学んできた、あの池田菊苗との出会いがあっただし、その年の、9月11日には「リュッカー教授の講演」(原子説論争)を知り、寺田寅彦にその感動を知らせた直後に、池田から聞き及んでいたであろう「科学概論The Grammar of Science」(カール・ピアソン1857-1936)を買い求めて、あの大事業への契機としている。

 アインシュタインがそれを学んだのは翌年の2月頃であると推察される。

 それは後にオリンピア・アカデミーと称する事となるのだが、ベルンの地方紙に出した家庭教師の広告に応じて現れたソロヴィンが或る時、偉大な作家の作品を読み、彼等が扱った問題を討論しょうと提案した。
 「それはまったく素晴らしいアイデアだ!」とアインシュタインは喜んだ。
そこで最初にカールピアソンの「科学の大文法」(The Grammer of Science)とかエルンスト・マッハの力学等であった。・・・ポアンカレの著作「科学と仮説」等では激しい議論を戦わせた。

 ここでは熱平衡理論、熱力学の基礎理論、熱の一般的分子理論、さらにアインシュタインの学位論文「分子の大きさの新しい決定」について、またのちにノーベル賞を受けることになった光の放出と変化に関する2つの画期的な論文、さらに相対論を懐胎しえている運動物体の電気力学に及んでいた。→「青春のアインシュタイン」(M. フリュキガー;金子務訳)




 オリンピアにみるソロヴィンを始めとするハビヒトらの至福の時は、「楽しき貧困とは何とすばらしいのだ!」あのエピクロスの言葉に帰結しているのだ。
 





しんかがく 58

2012-07-25 09:00:00 | Tyndallナノ
 「奇蹟」と称えられるほどの業績であるが故であろうか、そのミッシング・リンクとされる空白の期間が囁かれている。


 お大雑把に言えば、その始まりは1900年でありその終は1905年と言えるのだから、あの「余が最も不愉快なる2年、否それに続くこと、3年余り」と重なり、思われれくるのも道理というものであろう。
 それをある人は“大変不思議な時間であった”と表現している。

 それに先立つ「アインシュタイン16歳の夢」(戸田盛和著;岩波書店)等を見ておこう。

アルバートはすでに15歳で、まもなく徴兵されることになっていた。(今度はドイツを離れてイタリアへ行くこととなった父親の事業)

 アルバートは一人でミュンヘンに残ることになった。
当時の法律では、ドイツの健康な若い男子は(15歳)すべて兵役を終えなければ国を離れることはできなかった。

 15歳にして神経過敏で、感情の起伏がはなはだしく、自分は見捨てられていると感じていたのだ。

 医者は彼の様子に気がつき、どこにでも提出できる診断書をつくって、アルバートは家族のもとで静養して健康を取り戻さなければ間違いなく神経衰弱になるだろうと記した。
さらに有利な口実をつくるために、アルバートは数学の教師に診断書を見せた。
・・・・・アインシュタインは数学の成績がきわめてよく、これ以上教えられることはないという手紙を書いてくれた。
 これが、学校から逃れるパスポートになるかもしれない。アルバートは2通の手紙をたずさえて校長のところへ行き、うまくやってのけた。彼は学校からも国からも解放された。


 このわずか6ヶ月でアルバートはすっかり変わったのを見て、妹のマヤはすっかり驚いた。
神経質で無口な夢想家は、愛想がよくて社交性があり、しかも鋭いユーモアのセンスをもちあわせた青年に変身した。

 
 社交的な集まりで居間が話し声や音楽でにぎわっているときも、アルバートは自室にこもって勉強するのではなく、ペンとインク壺とノートをたずさえてパーテイの会場にいた。彼がソファに座りこみ、インク壺を肘掛けにそっと置いて、まわりの騒ぎがまったく気にならない様子で勉強を始めるのを見て、マヤは面白がったものだ。

 アルバートが大好きだった叔父のカエサル・コッホは、アルバートから送られたエッセイを誇らしげに見せた。
それは、電気と磁気とエーテルのあいだに関係があるかどうかを確認する実験について書かれていた。

 アルバートがチューリッヒ・ポリテクニックの受験に失敗すると、おおいに期待していた2人の叔父の衝撃も大きかった。
アルバートはフランス語と化学と生物で失敗したが・・ アルバートの非凡な才能に気がついたのは2人の叔父だけではなかった。
 ポリテクニックで物理学を教えるハインリヒ・ヴェーバー教授は数学と科学の高得点に驚いて、アルバートに自分の講義を受けるようにすすめた。校長のアルビン・ヘルツオークは、アルバートが16歳で、入学試験を受ける普通の学生より2歳若いことに気がつき、それも考慮に入れたうえで、翌年に入学を許可すると約束した。

 アーラウの州立高校には自由の精神がもなぎっていた。
ここで彼はミュンヘンのギムナジウムとまったくちがう、生き生きとした自由の精神を楽しむことができました。

 彼は「自伝スケッチ」のなかで、次のように述べています。
アーラウでの1年のあいだに、私には次のような疑問が生まれました。

 “もしも光速度で光の波を追いかけたら、光の波は静止して見えるだろうか。まさかそのようなことがおこるとは思えない”という疑問です。

 そのころアインシュタインは、光が電磁波(電気的・磁気的な波)であるという説をつきつめて考えはじめ、コッホ叔父さんにも手紙で意見を求めていたので、光の波を追いかけたらどう見えるかという夢想も、そこから出てきたのでしょう。

 しかしこの問題はこの後も長くつきまとって、「特殊相対性理論」へと発展したのです。
この理論が発表される1905年までの約10年間,彼は心の中でずっとこの疑問をつきつめていったのです。

 なお、この「自伝ノート」はチューリッヒ工科大学のときの学友であったマルセル・グロスマンという数学者と追悼し、感謝の気持ちをこめてアインシュタインが書いたものです。

 アーラウでアインスタインが光の波について疑問をもったのは、光の電磁波説が当時の学界の大きな話題であったからだと思われます。19世紀の終わりごろの物理学には、最も基礎的な物理学と考えられていたものが2つありました。それはニュートンの力学とマクスウェルの電磁気学です。

 ここで電磁気学の基礎を築いたマイケル・ファラデーに触れておくことが良いでしょう。

 はじめはデイヴィーの指導もあり、化学的な研究が多かったようですが、やがてファラデーは独自の研究と実験を展開するようになりました。
1800年にヴォルタが電池を発明してからは持続した電流が得られるようになり、電流や磁気に関する研究がさかんになって、ファラデーはその先端の仕事にたずさわることになります。

 ファラデーは、電磁誘導の現象などの発見(1831年)によって電気力と磁気力(磁力)を統一したことになりますが、自然の力はたがいに関係があるのではないかと考えていました。
 彼は重力と電気とのあいだに、磁場と電流のあいだのような関係があるのではないかと実験を試みましたが、残念ながら成功しませんでした。もしもこのような試みに成功していれば、彼はアインシュタインに先んじて重力と電磁力との統一をなしとげていたかもしれません。

 自然界には重力、電磁力のほかに核力などという基本的な力があります。これらのあいだの関係の探求、すなわち自然力の統一という問題は物理学の基礎的な問の一つです。

 マクスウェルはファラデーが書いた「電気学の実験的研究」に強く啓発されました。ファラデーが言葉で書いたところを数学にうつしかえながら、電磁気学の体系を作り上げたのはマクスウェルでした。
 マクスウェルはファラデーにならって「場」という用語を使いました。
それは空間のある部分が、ある種の力を現すことができる物理的な緊張状態を表すものです。
 本質的には、マクスウェルはファラデーの電磁誘導の法則(磁場の変化は電場を生じるという法則。変圧器の原理)をその逆の命題に拡張して、電場と磁場の対称性を明らかにしたしました。
 つまり、電場の変化は磁場を作るという法則(変位電流)をたて、電場と磁場を統一して、電磁気学を創設したのです。

 電磁波は、この理論の結果としてマクスウェルによって予言されたものです。
彼の論文を見るとわずか2ページぐらいで、簡潔に電磁波を予言しています。そして予言された電磁波の伝わる速さが、測定されている光の速度に大変近いので、光そのもの(放射線や、もしもあればその他の放射も)が、電磁場の法則にしたがって電磁波のなかを波の形で伝わる電磁場の変動であるという強力な根拠を得たのでした。

 電磁現象において、マクスウェルはケルヴィン卿から熱伝導との類推などの示唆を受けましたが、マクスウェルはファラデーの電気力線、磁力線の考えを数学的に追求して、最終的には1873年に「電気及び磁気について」をまとめあげました。

 学業成績は物理、幾何それからバイオリン音楽はAであった。
1900年、7月チューリッヒ連邦工科大学を卒業したが、大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバー (Heinrich Friedrich Weber)と不仲であったためにか、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得ていたとも。

 「アインシュタイン 愛の手紙」(アルバート・アインシュタイン ミレヴァ・マリッチ;大貫昌子訳:岩波書店)その序を少し引用しておこう。

・・・彼の手紙はアインシュタインとヴェーバーの間に巻おこりはじめていた衝突についても、新し光を投げかけている。
そもそもヴェーバーの指導を受ける学生の場合、普通は彼ら自身が実験室で手がける実験に研究の焦点が絞られるものだが、アインシュタインはもっぱら机上で考えるだけ、自分で実験をやるより他人の発表した実験結果に頼っていたのだ。
・・・・・もちろん教授のヴェーバーにしてみれば、ともすれば近道ばかりするこの型破りな学生に、しだいに不満を感じるようになったにちがいない。この反目の結果アインシュタインは、第一回目の卒論書きをあきらめたが、少なくともアインシュタインの感じではその間、この若者が卒業後職を探すのを、ヴェーバーはことごとに邪魔をしたのである。
 ②1898年2月16日   親愛なるマリッチ嬢 ・・・・フルヴィッツは偏微分以外の微分方程式とフーリエ級数、そして変分と2重積分について幾つか講義してくれました。ヘルツオグの物質の強度についての説明は明確でよかったが、力学の方はやや深さが足りませんでした。まこれだけ大勢の“マスプロ講義”では、それもしかたのないことでしょう。
 ヴェーバーの熱(温度、熱量、熱的諸量、気体力学)についての講義は出色でした。彼の授業の一回一回が楽しみです。フィードラーは今、射影幾何学の講義をしているところです。彼は頭脳明晰だし、深みもあるんだが、あいもかわらずがさつな人間で、おまけに何を考えているのかわからないところもあります。端的に言えば大学者だが、残念ながら恐ろしい衒学者でもあるということになるでしょう。その他宿題の多い大切なコースは数論だけです。といっても少しずつ自習すれば追いつけますよ。・・・アルバート・アインシュタイン

⑭1900年7月29日  最愛のドクサル ベッドの中で書いているから この手紙は読みにくい でも僕は書くのを止めない 僕の豆狸が楽しみながら それを読んでくれるようにと!・・・・・君の山猿より  二伸 これは「マヤからのキス」です。我がヴェーバーにはもう手紙を書いても無駄です。彼は田舎に行ってしまうそうだから。
   

㉔1901年3月23日  愛するドクサル 休暇最初の日だというのに、もう君から生きている“しるし”を受け取りました。いささかびっくりしています。
リーケのところの状況は思わしくなく、その職の方はもうほとんど諦めました。僕の邪魔をするこんな格好のチャンスを、ヴェーバーが見逃すわけがないでしょう。君の忠告に従い、いくら陰で画策をこらしたってうまくいくはずがない、とヴェーバーに手紙で言ってやりました。それだけでなく、僕の就職が決まるも決まらないも彼の推薦ひとつだとも。オストワルドが何を書くか、興味津々です。・・・山猿拝

㉕1901年3月27日 かわいい子猫ちゃん  手紙ほんとうにありがとう。そしてその中に秘められてきた真実の愛も。お返しに君の星だけ、君にふさわしいだけ、心の底からのキスと抱擁を送ります。
 リーケに断られたことについては別に意外ではなく、ぜったいヴェーバーの画策によるものと確信しています。断りの口実はいかにも信じられないようなものだし、もう一つの職のことにもまったく触れられていないんだから。
 こうした状況下では、もうほかの教授連に手紙を書いたってむだでしょう。どうせある時点で僕についてヴェーバーに意見を求めるにきまっているし、彼はまた悪い推薦状しか書かないことがわかっている以上はね。
 かくなるうえはアーラウとミュンヘンで習ったことのある先生たちを頼ることにし、何よりも助手の職をイタリアで探すことにしましょう。・・・君のアルバート

㉗1901年4月10日  愛する子猫ちゃん ・・・・オストワルドは返事をよこさず、僕が助力を頼んだシュトウツトガルトの教授からも音沙汰なし。イタリアでの見通しもご同様だが、もう腹立ちも忘れまったく気落ちもしていません。・・・・君のアルバート

㊳1901年7月7日  愛するドクサル  ・・・・僕らの将来について、僕は次のような覚悟をしたんだ。どんなつまらない仕事でもいいから、僕は今すぐ職を探すことにしよう。それがどんなに低い地位であろうと、僕の学問目標や自尊心などかなぐり捨てて受けるつもりだ。そして職が見つかりしだい君と結婚して、ここでいっしょに暮らそう。・・・・
君のアルバート

㊼1901年12月19日 僕の愛するひと  またもや良いニュース!だが待てよ。まずはおくればせながら、昨日の君の誕生日おめでとう。また忘れてしまってごめんね。しかし今は僕の言うことに耳をすませ、僕の喜びいっぱいの抱擁とキスを受けてほしい。
 ハラーから特許局で新しく作った職にすぐ申込書を出すようにと、直接に親切な手紙をもらったんだ!もう疑う余地もない。グロスマンなどもう祝いを言ってくれたぐらいだ。何とかして彼に僕の感謝の念を表すため、論文を彼に献じることにしよう。









しんかがく 57

2012-07-24 09:00:00 | Tyndallナノ
 単に1905年と言えば、その歴史に通じていなくともアルベルト・アインシュタインを、思い出す人も少なからずいる。

1905年の3大科学論文はどれをとっても、重大なノーベル賞級の大研究なのであった。
いずれもそのころもっとも権威のある物理学雑誌で、マックス・プランクらが編集していた「物理学年報」の第17巻を飾ったのである。
 第一弾は、光を一定のエネルギーをもった粒子とみなし、それらが自由に空間を飛び交うという光量子仮説を述べた論文『光の発生と変換に関する一つの発見法的視点について』であり、編集部受理が3月17日だった。
 このあと堰を切ったように第二弾、第3弾と投稿される。
すなわち、まず水に浮いた花粉粒子の不規則運動を、水分子の不規則運動から統計的に説明を与えたブラウン運動論『静止流体中に浮遊する粒子の、熱の分子運動論から要求される運動』は5月11日編集部受理。掉尾を飾る特殊相対性理論の論文『運動物体の電気力学について』は6月30日の受理。


「世界でもっとも美しい10の物理方程式」(ロバート・P・クリース/吉田三知世・訳)


第7章は「方程式のセレブ」E=mc²

その説明:エネルギーと質量は、質量に光速の2乗を掛けたものとエネルギーが等しくなるという関係で、互いに変換可能である。との説明が添えられている。
本文で目に止まったのは、「ダライ・ラマはこれを『私が知っている唯一の科学方程式』と呼ぶ。

第8章には「金の卵」アインシュタインの一般相対性理論の方程式である。
説明:時空連続体は物質の運動を決定し、物質は時空連続体の湾曲を決定する。

 本文を少し見ておこう。
人間の思考が達成した最も偉大な成果のひとつ・・・J・J・トムソン
 今でもそうだが、この理論は、わたしには、人間が行った自然についての思考がなし遂げた最大の偉業、哲学による看破、物理学の直感、そして数学の技量が、最も驚異的なかたちで結びついたものだと思われた。
 だがこの理論は、経験とは極めて希薄な結びつきしかなかった。
この理論はまるで、離れたところから眺めて、楽しみ賞賛すべき偉大な芸術作品のようだとわたしには感じられる。 Max Bornマックス・ボルン 


 
1+1=2は数学のおとぎ話がですと始まった、「はじめに」を割愛したけれども、「おわりに」は記しておく。


①方程式は単なる科学のツールではなく、「社会的な生命」とでも呼ぶべきものをもっていることもわかる。
アインシュタインのE=mc²と一般性相対性理論の重力の方程式は空間と時間についての人間の認識を根本的なレベルで変貌させた。
②科学的概念とはどのようなものかということである。それがあのニュートンが見出した、「金魚鉢のような世界」の例えであるが、概念とは決定的なものではなく、何かを指示するすものでしかない。哲学者は「形式指示」とよぶ。
「ある項にマイナスの符号を付けようとする---しかし、付けると理論がパリティ保存則に反するようになってしまうのであきらめる。もっとたくさんの粒子についての項を加えようとする----だが、それは禁じられいる。というのも、その理論は現状繰り込み不可能になっているので、無限個のパラメーターが必要だからだ。一個の粒子を、その理論が適用されないものとして除外しておこうとする---するとその法則は、解釈不能な確率を持つようになってしまう。今度は、別の項を引き算しようとする---と、すべての粒子は虚空へと消え去ってしまった!等。以下省略
③科学は非常に情緒的なプロセスだということだ。科学のプロセスを頭脳的活動の部分と情緒的な部分に分けることは可能だ---しかも、目的によってはそれらが有用なこともある---が、

 だが、わたしたちが感動を覚える対象は、これらの旅を通して学んだことそのもだけにとどまらない。
それよりも一層奥深いものに対しても、賛嘆の念を抱かずにはおれない。感動を覚える瞬間に、自分と自然との結びつきを垣間見ることがある。そんな瞬間には、自然は変化しうるものであり、人間はその変化の一翼を担っているのだということが垣間見られる。



 
 すでに言及したが、アインシュタインは1901年と1902年には分子間の力について2つの論文をかいている。しかしこれらは価値のない仕事であったと自ら評価している。
1903年と1904年には3つの、統計力学に関する論文を発表している。以下略 「アインシュタイン26歳の奇跡の3大業績」(和田純夫著ベレ出版)


 アインシュタインは、1902年から1909年までの8年間を大学でなく特許局で過ごした。
初めから大学にいないことで底の浅い論文製造に追われることなく、好きな問題に没頭できたと述懐している。
 長官のハラーは優れた方法論者で特許審査に関しては、「申請してくる発明者の考えはすべて間違いではないか、と批判的に考えよ」と督励していた。
アインシュタインは実務に素早く慣れて、2年間の試用期間ののち本採用された。明るいユーモアをもって同僚たちと、役所の義務を「靴屋の仕事」、役所を「世俗の僧院」、役人を「特許とりの下僕」と呼んでいた。→「人物20世紀」講談社




しんかがく 56

2012-07-23 09:00:00 | Tyndallナノ
「文学論(下)」(岩波文庫)の解説は亀井俊介。

 「学問から創作へ」・・・・さて、2年間にわたる講義もなかば過ぎた頃までに、漱石のなかでは自分自身の創作への欲求がたかまっていたのであろうか。
もちろんそういう欲求は彼に本来的にあったものなのだろうが、コスモポリタンの学問に進む過程で、それは抑制されていた。そのため鬱積していた欲求が、捌け口を求めていたといえるように思う。


 しかも注目したいのは、作家として出発した漱石は、「猫」を長編として書きつぐ一方で、「漾虚集」にまとめられる短編小説をぞくぞくと、というよりほとんど一挙に発表し、まさに“驚異の一年”を実現することである。
 そうして「坊ちゃん」「草枕」「二百十日」が続き、これらは「鶉籠」にまとめられる。驚異の連続である。

 作品の大量な噴出ぶりだけが驚異なだけではない。その多彩さにも目を見張らせられる。「漾虚集」七篇を見てみよう。


「倫敦塔」 二年の留学中ただ一度倫敦塔ロンドンとうを見物した事がある。その後ご再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるが断ことわった。一度で得た記憶を二返目へんめに打壊ぶちこわすのは惜しい、三みたび目に拭ぬぐい去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。
 行ったのは着後間まもないうちの事である。その頃は方角もよく分らんし、地理などは固もとより知らん。まるで御殿場ごてんばの兎うさぎが急に日本橋の真中まんなかへ抛ほうり出されたような心持ちであった。表へ出れば人の波にさらわれるかと思い、家うちに帰れば汽車が自分の部屋に衝突しはせぬかと疑い、朝夕あさゆう安き心はなかった。この響き、この群集の中に二年住んでいたら吾わが神経の繊維せんいもついには鍋なべの中の麩海苔ふのりのごとくべとべとになるだろうとマクス・ノルダウの退化論を今さらのごとく大真理と思う折さえあった。・・・

紀行文の形をとりながら、文飾豊かな筆致で、ロンドン塔における過去の出来事に思いをはせ、現実と幻想とを交叉させる。

「カーライル博物館」 公園の片隅に通りがかりの人を相手に演説をしている者がある。向うから来た釜形かまがたの尖とがった帽子を被かずいて古ぼけた外套がいとうを猫背ねこぜに着た爺じいさんがそこへ歩みを佇とどめて演説者を見る。演説者はぴたりと演説をやめてつかつかとこの村夫子そんぷうしのたたずめる前に出て来る。二人の視線がひたと行き当る。演説者は濁りたる田舎調子いなかぢょうしにて御前はカーライルじゃないかと問う。いかにもわしはカーライルじゃと村夫子が答える。チェルシーの哲人セージと人が言囃いいはやすのは御前の事かと問う。なるほど世間ではわしの事をチェルシーの哲人セージと云うようじゃ。セージと云うは鳥の名だに、人間のセージとは珍らしいなと演説者はからからと笑う。村夫子はなるほど猫も杓子しゃくしも同じ人間じゃのにことさらに哲人セージなどと異名いみょうをつけるのは、あれは鳥じゃと渾名あだなすると同じようなものだのう。人間はやはり当り前の人間で善よかりそうなものだのに。と答えてこれもからからと笑う。

やはり紀行文である。はるかに飾り気のない写実的な文章で、博物館の何でもない見物を飄逸に語る。


「幻影の盾」  一心不乱と云う事を、目に見えぬ怪力をかり、縹緲ひょうびょうたる背景の前に写し出そうと考えて、この趣向を得た。これを日本の物語に書き下おろさなかったのはこの趣向とわが国の風俗が調和すまいと思うたからである。浅学にて古代騎士の状況に通ぜず、従って叙事妥当を欠き、描景真相を失する所が多かろう、読者の誨おしえを待つ。

一転して凝りに凝った懐古調の美文になり、古き“遠き世”に時代をとって、敵味方に別れた騎士と姫との不可能の恋の成就、“一心不乱”の超自然の力を語る。

「琴のそら音」  「珍らしいね、久しく来なかったじゃないか」と津田君が出過ぎた洋灯ランプの穂を細めながら尋ねた。
 津田君がこう云いった時、余よははち切れて膝頭ひざがしらの出そうなズボンの上で、相馬焼そうまやきの茶碗ちゃわんの糸底いとそこを三本指でぐるぐる廻しながら考えた。なるほど珍らしいに相違ない、この正月に顔を合せたぎり、花盛りの今日きょうまで津田君の下宿を訪問した事はない。
現代の東京を舞台とし、現代的な若者の会話を通して、幽霊のありやなしやといったことをめぐる軽い調子の現代の怪談になっている。

「一夜」  「美くしき多くの人の、美くしき多くの夢を……」と髯ひげある人が二たび三たび微吟びぎんして、あとは思案の体ていである。灯ひに写る床柱とこばしらにもたれたる直なおき背せの、この時少しく前にかがんで、両手に抱いだく膝頭ひざがしらに険けわしき山が出来る。佳句かくを得て佳句を続つぎ能あたわざるを恨うらみてか、黒くゆるやかに引ける眉まゆの下より安からぬ眼の色が光る。

やはり現代の東京を舞台とし、三人の男女の“夢”をめぐる一夜の語らいを再現しただけの趣のスケッチだが、そのスケッチ風の文章に入念な味わいを加え、散文詩とでもいえそうな作品に仕上がっている。

「薤露行」  世に伝うるマロリーの『アーサー物語』は簡浄素樸そぼくという点において珍重すべき書物ではあるが古代のものだから一部の小説として見ると散漫の譏そしりは免がれぬ。まして材をその一局部に取って纏まとまったものを書こうとすると到底万事原著による訳には行かぬ。従ってこの篇の如きも作者の随意に事実を前後したり、場合を創造したり、性格を書き直したりしてかなり小説に近いものに改めてしもうた。主意はこんな事が面白いから書いて見ようというので、マロリーが面白いからマロリーを紹介しようというのではない。そのつもりで読まれん事を希望する。

懐古調の強い文章に戻り、騎士ランスロットと王妃ギニヴィアとの不倫関係を中心に、愛の種々相とでもいったものを、極めて絵画的に描いて見せる。

「趣味と遺伝」  陽気のせいで神も気違きちがいになる。「人を屠ほふりて餓うえたる犬を救え」と雲の裡うちより叫ぶ声が、逆さかしまに日本海を撼うごかして満洲の果まで響き渡った時、日人と露人ははっと応こたえて百里に余る一大屠場とじょうを朔北さくほくの野やに開いた。すると渺々びょうびょうたる平原の尽くる下より、眼にあまる狗ごうくの群むれが、腥なまぐさき風を横に截きり縦に裂いて、四つ足の銃丸を一度に打ち出したように飛んで来た。狂える神が小躍こおどりして「血を啜すすれ」と云うを合図に、ぺらぺらと吐くほのおの舌は暗き大地を照らして咽喉のどを越す血潮の湧わき返る音が聞えた。今度は黒雲の端はじを踏み鳴らして「肉を食くらえ」と神が号さけぶと「肉を食え! 肉を食え!」と犬共も一度に咆ほえ立てる。やがてめりめりと腕を食い切る、深い口をあけて耳の根まで胴にかぶりつく。一つの脛すねを啣くわえて左右から引き合う。ようやくの事肉は大半平げたと思うと、また羃々べきべきたる雲を貫つらぬいて恐しい神の声がした。「肉の後には骨をしゃぶれ」と云う。すわこそ骨だ。犬の歯は肉よりも骨を噛かむに適している。狂う神の作った犬には狂った道具が具そなわっている。今日の振舞を予期して工夫してくれた歯じゃ。鳴らせ鳴らせと牙きばを鳴らして骨にかかる。ある者は摧くじいて髄ずいを吸い、ある者は砕いて地に塗まみる。歯の立たぬ者は横にこいて牙きばを磨とぐ。

著者自身を思わせる“西片町の学者”が語り手になり、日露戦争という時勢をおもてに押し出しながら、恋愛や趣味が遺伝するものかどうかといった問題をくりひろげてみせる。文章は写実性を強め、旅順攻略戦で死んだ友人の最期を語るあたりは、語り手の空想であるわけだが迫力がある。


内容も文章も、なんと多方面に展開していることか。→青空文庫参照




『人物20世紀』(講談社)における記事は、“ちょうど明治の文学界は転換期にあった。日露戦争とともに時代が転換しているのに歩調を合わせて、自然主義文学運動が台頭していたのである。人の心にある美や夢を追い出して、“現実暴露の悲哀”を喜ぼうとしていた。しかし、それに満足できずあきたらない思いでいた人々が、夏目漱石の登場にいっせいに拍手をおくったのである。


しんかがく 55

2012-07-20 09:00:00 | Tyndallナノ
 こう暑くては猫と雖遣り切れない。皮を脱いで、肉を脱いで骨丈で涼みたいものだと英吉利のシドニー・スミスとか云う人が苦しがったと云う話がある。たとひ骨丈にならなくとも好いから、責めて此淡灰色の斑入の毛衣丈は一寸洗ひ張りでもするか、もしくは当分の中質にでも入れたい様な気がする。


 衣食は先ず大目に見て勘弁するとした所で、生存上直接の利害もない所迄此調子で押して行くのは毫も合点が行かぬ。第一頭の毛などと云うものは自然に生えてくるものだから、放って置く方が尤も簡便で当人の為になるだろうと思うのに、彼等は入らぬ算段をして種々雑多な恰好をこしらえて得意である。・・・・

 是で見ると人間は余程猫より閑なもので退屈のあまり斯様ないたづらを考案して楽しんで居るものと察せられる。但可笑しいのは此閑人がよると障ると多忙だ多忙だと触れて廻るのみならず、其顔色が如何にも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われる程こせついて居る。・・・

「ホヽヽヽ面白い事許り・・・・」と細君形相を崩して笑って居ると、格子戸のベルが・・

 茲へ東風君さへきてくれば、主人の家に出入りする変人は悉く網羅し盡したと迄はいかずとも、少なくとも吾輩の無聊を慰むるに足る程の頭数は御揃いになったと云わねばならぬ。
 幸いにして苦沙彌先生門下の猫児となって朝夕虎皮の前に侍るので先生は無論の事迷亭、寒月乃至東風抔と云う広い東京にさへ余り例のない一騎当千の豪傑連の挙止動作を寝ながら拝見するのは吾輩にとって千載一遇の光栄である。・・・・


「どうも御無沙汰を致しました。暫く」とお辞儀をする東風君の頭を見ると、先日のごとく矢張り綺麗に光って居る。頭丈で評すると何か緞帳役者の様にも見えるが、・・


 「今度はいつ御催しがありますか」「7、8両月は休んで9月には何か賑やかにやりたいと思って居ります。何か面白い趣向は御座いますまいか」「左用」「東風君僕の創作を一つやらないか」と今度は寒月君が相手になる。
 「君の創作なら面白いものだろうが、一体何かね」「脚本さ」「脚本はえらい。喜劇かい悲劇かい」「なに喜劇でも悲劇でもないさ。近頃は旧劇とか新劇とか大部やかましいから、僕も一つ新基軸を出して俳劇と云うのを作って見たのさ」「俳劇ってどんなもんだい」「俳句趣味の劇と云うのを詰めて俳劇の2字にしたのさ」「それで其趣向と云うのは?」

「根が俳句趣味からくるのだから、余り長ったらしくて、毒悪なのはよくないと思って一幕物にして置いた。」「成程」「先ず道具立てから話すが、・・・舞台の真中へ大きな柳を一本植え付けてね。夫から其柳の幹から一本の枝を右の方へヌッと出させて、其枝へ鳥を一羽とまらせる」「鳥がジッとして居ればいいが」「何わけは有りません、鳥の足を糸で枝に縛り付けて置くんです。で其下へ行水盥を出しましてね。美人が横向きになって手拭いを使って居るんです」「そいつは少しデカダンだね。第一誰が其女になるんだい」「何是れもすぐ出来ます。美術学校のモデルを雇ってくるんです」「そりゃ警視庁が八釜敷く云ひそうだな」「だって興行さえしなければ構わんじゃありませんか。そんな事を兎や角居った日にや学校で裸体画の写生なんざ出来っこありません」「然しあれは稽古の為だから、只見て居るのとは少し違うよ」「先生方がそんな事を云った日には日本もまだ駄目です。絵画だって、演劇だって、おなじ芸術です」と寒月君大いに気炎を吹く。

 「まあ議論はいいが、夫からどうするのだい」と東風君、ことに依ると、遣る了見と見えて筋を聞きたがる。

 「所へ花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い燈芯入の帽子を被って、透綾の羽織に、薩摩飛白の尻端折りの半靴と云うこしらえで出てくる。着付けは陸軍の御用達見た様だけれども俳人だから可也悠々として腹の中では句案に余念のない体であるかなくちゃいけない。・・・・・大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びて居る。はっと思って上を見ると長い柳の枝に鳥が一羽とまって女の行水を見下ろして居る。そこで虚子先生大いに俳味に感動したと云う思い入れが50秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かな、と大きな声で一句を朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。


 -----どうだろう、こう云う趣向は、お気に入りませんかね。君御宮になるより虚子になる方が余程いいぜ」

 東風君は何だか物足らぬと云う顔付きで「あんまり、あっけない様だ。もう少し人情を加味した事件が欲しい様だ」と真面目に答える。
今迄比較的大人しくして居た迷亭はそう何時迄も黙って居る様な男ではない。「だったそれ丈で俳劇はすさまじいね。上田敏君の説によると俳味とか滑稽とか云うものは消極的で亡国の音だそうだが、敏君丈あってうまい事を云ったよ。そんな詰まらない物をやって見給え。夫こそ上田君から笑われる許りだ。第一劇だか茶番だか何だかあまり消極的で分からないじゃないか。失礼だが寒月君は矢張り実験室で珠を磨いている方がいい。俳劇なんぞ百作ったって、亡国の音じゃ駄目だ」

 寒月君は少々憤として、「そんなに消極的でしょうか。私は中々積極的な積もりなんですが」どっちでも構わん事を弁解しかける。
「虚子がですね。虚子先生が女に惚れる烏かなと烏を捕らえて女に惚れさした所が大いに積極的だろうと思ひます」「こりゃ新説だね。是非御講釈を伺いましょう」「理学士として考えて見ると烏が女に惚れるなどと言い放って少しも無理には聞こえません」「そうかしら」と主人が疑った調子で割り込んだが寒月は一向頓着しない。「何故無理に聞こえないかと云うと、是れは心理的に説明するとよく分かります。実を云うと惚れるとか惚れないとか云うのは俳人其人に存する感情で烏とは没交渉の沙汰であります。然る所あの烏は惚れているなと感じるのは、つまり烏がどうのこうのと云うのと云う訳じゃない、必竟自分が惚れて居るんでさあ。虚子自身が美しい女の行水して居る所を見てはっと思う途端にずっと惚れ込んだに相違ないです。さあ自分が惚れた眼で烏が枝の上で動きもしないで下を見つめて居るのを見たものだから、はヽあ、あいつも俺と同じく参っているなと勘違いをしたのです。
 勘違いには相違ないですがそこが文学的で且つ積極的な所なんです。自分丈感じた事を、断りもなく烏の上に拡張して知らん顔して済まして居る所なんぞは、余程積極主義じゃありませんか。どうです先生」
「なるほど御名論だね、虚子に聞かしたら驚くに違いない。説明丈は積極だが、実際あの劇をやられた日には、見物人は慥かに消極になるよ。ねえ東風君」「へえどうも消極過ぎる様に思ひます」と真面目な顔をして答えた。


 あの「fに伴う幻惑」には、滑稽趣味の様々な紹介がなされているのだが、その非人情と名づけるべきもの、道徳抜きの文学に於いて、俳文学にもふれている。更には知的分子の除去の段においても触れているので引用しておこう。

 たまたま、評家に攻撃の余地を与えるは知的分子を除去せしむるに足るべき他の特長を欠くが故なり。もし何物か他に此欠点を補うものあらば決して真正の評家より非難せらるるの虞なきものとす。真正なる批評は誦読の際直下に会得したるものを退いて解剖せるに過ぎず。直下に会得せしむる際に知的分子の不用意にも入り込めぬ位に評家に心を他に誘い得ば、如何に不条理なりとも不合理なりとも遂に真正の評家より非難せらるべきにあらず。而して文学は比類の作品にて充満する事又一点の疑いなきに似たり。
 此種の除去が行わるる文学の種別に至りては余白なければ略す。
かの俳文学の如きは誠に個中の消息を伝えて遺憾なきものというべし。俗人は知的に意味が解し難きが故に面白からずと云う。されどある俳句に至っては分からぬが故に文学的価値ありとさえ云ひ得べし。







しんかがく 54

2012-07-19 09:00:00 | Tyndallナノ
 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

他人事の如く案内していくようにも、想えるわたし自身。

 どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶して居る。吾輩はここで始めて人間というものを見た。然もあとで聞くとそれは書生という人間の中で一番獰悪な種族であったそうだ。・・・・

 ふと気が付いて見ると書生は居ない。沢山居った兄弟が一疋も見えぬ。肝心の母親さへ姿を隠して仕舞った。其上今迄の所とは違って無暗に明るい。眼を明いて居られぬ位だ。果てな何でも容子が可笑しいと、のそのそ這い出して見ると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ捨てられたのである。

 ここまでの文脈は、いらない子として生まれ落ちた金之助と重なってきても、可笑しくはない。これ以降にも・・・夏目漱石そのもう一人の幻影ともいえる。

 何でもよいから食物のある所迄あるこうと決心をしてそろりそろりと池を左に廻り始めた。・・・・此処へ這入ったら、どうにかなると思って竹垣の崩れた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もし此竹垣が破れて居なかったなら、吾輩は遂に路傍に餓死したかも知れんのである。一樹の陰とはよく云ったものだ。

 此垣根の穴は今日に至る迄吾輩が隣家の三毛を訪問する時の通路になって居る。


 吾輩は人間と同居して彼等を観察すればする程、彼等は我儘なものだと断言せざるを得ない様になった。

 いくら人間だって、そういつ迄も栄える事もあるまい。まあ気を永く猫の時節を待つがよかろう。

 我儘で思い出したから一寸吾輩の家の主人が此我儘で失敗した話をし様。
元来此主人は何といって人に勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやってはほととぎすへ投書をしたり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、ときによると弓に凝ったり、謡を習ったり、又あるときはヴァイオリン抔をブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になって居らん。

 「どうも甘くかけないものだね。人のを見ると何でもない様だが自ら筆をとって見ると今更の様に六づかしく感ずる」
「そう初めから上手くはかけないさ、第一室内の想像許りで絵がかける訳のものではない。
 昔し以太利の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。絵をかくなら何でも自然其物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然は是一幅の大活画なりと。どうだ君も絵らしい絵をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるのかい。ちっとも知らなかった。成程こりや尤もだ。実に其の通りだ」と主人は無暗に感心して居る。金縁の裏には嘲ける様な笑いが見えた。・・・それから猫の絵を描いていくドラマはおいても、その頃に見た夢には触れておこう。

 主人は夢の裡迄水彩画の未練を背負ってあるいて居ると見える。・・・主人が水彩画を夢に見た翌日例の金縁眼鏡の美学者が久し振りで主人を訪問した。「絵はどうかね」「君の忠告に従って写生を力めて居るが、成程写生をすると今迄気のつかなかった物の形や、色の精細な変化抔がよく分かる様だ。西洋では昔から写生を主張した結果今日の様に発達したものと思われる。さすがアンドレア・デル・サルトだ」

 美学者は笑いながら「実は君、あれは出鱈目だよ」と頭を掻く。
「何が」と主人はまだ嘘はられた事に気がつかない。「何がって君の頻りに感服して居るアンドレア・デル・サルトさ。あれは僕の一寸捏造した話だ。君がそんなに真面目に信じ様とは思わなかったハヽヽヽヽ」と大喜悦の体である。

 「いや時々冗談を言うと人が真に受けるので大いに滑稽的美観を挑発するのは面白い。
先達てある学生にニコラス・ニックルベーがギボンに忠告して彼の一世の大著述なる仏国革命史を仏語で書くのをやめにして英文で出版させたと言ったら、其学生が又馬鹿に記憶の善い男で、日本文学界の演説会で真面目に僕の話した通りを繰り返したのは滑稽であった。・・


 「滑稽的美観」とは如何にも金之助ではなくて、漱石枕流を思わせるではないか。
それを「文学論」に認めるのは愉快でもあるから一部を引用しておこう。
                                     



 「第二篇 文学的内容の数量的変化」の「第三章 fに伴う幻惑」


②次に考えるべきは善悪の抽出なりとす。ここに読者が必ず然かずべしと云うにあらず、ただ然か成し得ると云うのみ。従って前の如く実際と誦讀の上に全然反対の結果を生ずうとは断言し難し。例えば藤村操氏が身を躍らして華厳の淵に沈み、又は昔時のEmpedoclesが噴火坑より逆しまに飛び入るが如し。
・・・去れども今一人の高襟者流が自転車にまたがりて意気揚揚と進み来る途端に俄然車を覆して転倒せる場合を想像せよ。吾人は傍観してこれを笑うべきか、或いは駆せて之を扶起せざるべからざるか。観る人の半数以上は必ずこれを一笑に附して滑稽化することを憚らざるべし。
 此場合に於いては直接経験の際も猶間接経験の時とは反対の結果に到達するに過ぎず。尤も徳義心は人に因って其強弱の度を異にするが故に其抽出も亦人によりて幾分の差等あるを免れず。・・・・


 文学賞翫の上に於いて全然此分子を除去せんとすれば所詮“Art for art”派(純藝術派)の説に帰すること必然の勢いとす。
其派の人々に何故かかる物を書きしやと問えば、ただ面白しと感じたるが故のみと答ふ、而して藝術家の本領はここにて盡きたりと云う。
 愛読者も亦これを以て面白しと云うの外何等の理由を附することなし。ここに於いてか道徳家対藝術家の扮擾絶ゆることなし。


 とまれ、自身をひきて滑稽を話すまでになってきたのだ。余裕派の誕生とも言えるその瞬間は「文学論」に兆し、「猫」にて著されたと言えるのだ。


 

しんかがく 53

2012-07-18 09:58:16 | Tyndallナノ
㉒少康 それでもいい按配に翌る37年の4、5月頃から大分よくなって参りまして、段々こんな無茶なことをしないようになりました。その代わり前から貧乏だったのが、この年には一層つまって了つて、どうにもかうにも参りません。
 そこでたしか秋から帝大一高の外に明大へ1週に2時ずつ出るようになって、その2、30円の金でも余程当時の私たちの生活にはたしになりました。けれどもそれでも元より楽になったとは申しされません。よく大学なんかよして了ひたいと申して居ましたが、それでも学校にはキチンキチンとでたようです。・・・
 36年の暮れ頃からしきりに何かを描いていたのですが、私が一番不思議に思うのは絵のことです。

・・・ほんの小康を得たという程度で、37,8・9と続いて、一進一退の状態でしたが、本当によくなったと思ったのは40年に今の早稲田の家に越してからで、それから大正2年迄は、まずまず出ないと言ってよかったようでありましょう。
 其間にあたまの代わりに胃を悪くして了ひまして、それがとうとう死病になって了つたのでございます。・・・

 7月頃、私の父が高利貸しにせめられて困るから、どうか借用証書に判をついて呉れないか、迷惑はかけない積もりだからとたって頼みましたが、判をつくのだけはいやだと申してきっぱりと断りました。
 しかし金は何とかして上げなければならない。殊に最初の頼みではあり、こん度ばかりはといふので、手元にはないのでやむを得ず菅さんから250円程用立てて戴いて、そっくりそれを父の手に渡して、一時を凌いで貰いました。
 こんな時には随分親切に骨を折る方でしたが、しかし苦しい中にも丸善から本を買うのだけは、よして下さいとは言えず、足りないときは黙って質屋通いなどして、どうやら凌ぎをつけて居ました。
 尤も夏目の方でも不断は家の暮らし向きなどには口を出すではなし、自分も本を買う外お小遣いを使うではなし、お客が見えたってそんなわけですからおもてなしも出来ないのですが、・・・貧乏な中にも比較的楽なのでした。

㉓「猫」の家」  37年の春から夏へかけて大分よくなりまして、・・・・段々重苦しい靄が晴れて来るような有様でした。
 ところが面白いことに思いますのは、頭の調子がよくなって来るに連れて、大学の講義のノートの字が目立って小さくなって行くことです。・・・・今宅に残っています当時の「文学論」の講義のノートを見ますと、最初は中判の洋罫紙に、罫からはみ出しそうな大きな字で横様に書いて居るのが、終い頃になると、振り仮名活字のような小さい字になって居ります。・・・・

 この6、7月、夏の始め頃かと覚えて居ります。どこからともなく生まれていくらもたたない小猫が家の中に入って来ました。
猫嫌いのわたくしはすぐに外へつまみ出すのですが、いくらつまみ出しても、いつかしらん又家の中に上がって来て居ます。・・・「この猫はどうしたんだい」・・・・「何だか知らないけれども家へ入って来て仕方がないから、誰かに頼んで捨てて来て貰おうと思っているのです」・・「そんなに入って来るんなら置いてやったらいいじゃないか」


 ところが或る時、よく家に来るいつものお婆さんの按摩が参りました。
膝に来る猫を抱き上げて仔細にしらべ上げて居ましたが、突然、「奥様、此の猫は全身足の爪まで黒うございますが、これは珍しい福猫でございますよ。飼ってお置きになるときっとお家が繁昌致します」


 言われて見れば全くそのとほりで,殊に福猫が飛び込んで来たと言われて見れば何となく嬉しくもあるので、折角来たのを捨ててはそこは現金なもので、其の日から前のような虐待もしなくなり、悪戯が過ぎると御飯もやらないなんかと因業なことをしたのが、今度はあべこべに私が自分から進んで、女中のやったご飯の上におかかをかけてやったりして、大分待遇が違って参りました。・・・

・・犬塚さんの帽子と外套が・・・ニッケルの懐中時計が見えない。
・・・・鈴木三重吉さんの、それはそれは長い情の籠った手紙が、机の上に置いてあったのですが、それの一端が机の上に残って障子の外へ漏れ出ているという騒ぎ。それを伝わって行くと、すぐ前の木戸をぬけ、やがてその又次の木戸をぬけて、畑の中迄つながっているのだから並大抵の長さじゃありません。そうして畑の中で終わるところに大きな大便がたんまり垂れてあって、その手紙の一番先でちょんと拭いてあるのですから、泥棒の度胸と言い用意と言い、それの御役に立つ為に机の上からズルズルに連れて行かれた手紙の長さと言い、みんな揃って申し分がありませんでした。・・・

㉔「猫」の話  此の年の暮頃からどう気が向いたものか、突然物を書き始めました。
 「ホトトギス」の正月号に「吾輩は猫である」の第1回、「帝国文学」の正月号に「倫敦塔」、「学燈」に「カーライル博物館」といった具合に書き続け様に書きました。
創作方面のことは私にはよくわかりませんが、別に本職に小説を書くという気もなかったところへ、長い間書きたくて堪らなかったのをこらへていた形だったので、書き出せば殆ど一気呵成に続け様に書いたようです。
 これから翌年にかけて「猫」の続きを書き、「幻影の盾」だとか、「一夜」だとか、「薤露行」だとか、其の翌年にも、「猫」の続きの外に、「坊ちゃん」は「草枕」などを書きまして、殆ど毎月どこかの雑誌に何か発表しないことはなかった位でしたが、書いているのを見ているといかにも楽しそうで、夜なんぞも一番おそくて12時1時頃で、大概は学校から帰って来て、夕食後10時頃迄に苦もなく書いて了ふ有様でした。・・・・

 それが晩年になりますと、書けなくなったのか、書きづらいものを書いたせいか、或いは妙にこり出したのか、ともかく私にはよくその辺のことはわかりませんが、山のように書き損ねの原稿紙を出して、後でそれに手習いなんかをして居りました。そうして書く量も晩年には一日に新聞一回分ときめて居たようですが、此の頃から見ると随分違ったものです。
・・・
 その頃よく宅にいらした方々は、寺田寅彦さん、野間真綱さん、高浜虚子さん、橋口貢さん、それから野村伝四さんなどでした。
「猫」の中に書かれている生活資料の方は大体私が詳しい積もりですが、文章のことは高浜さんなどの方が、ずっと詳しくご存知の筈です。・・・・

 大体「猫」は最初からあんな長編にする積もりは自分にはなかったのでしょう。
「ホトトギス」に発表して見ると、みんなが面白いといってほめそやすし、自分でもあんなものならいくらでも書けるというわけで、後が見たいという読者の注文と、虚子さんあたりにすすめられて、2年もつづけてあんな風にかいたものでありましょう。その頃のそういうことは虚子さんが一番よくご存知の筈です。
 「猫」で最初に戴いた原稿料は、しめて12、3円位のものだったと覚えて居ります。


 矢張り此の春だったと思って居りますが、教科書の出版をしている開成館から、英語の本を編纂したから見てなおしてくれないかと申して参りまして、それに筆を入れてやりました。
 お礼に40円かいくらかのお金を貰いましたので、それを私に下さいませんかといって、私が横取りをして了ひました。
というのは長女の筆子が7つになったのに、これ迄苦しい一方で晴れ着一枚作ってやらなかったのが気になっていたので、早速そのお金で紋付を染めてやろうと思ったのです。そこで日頃の願いがかなったので、喜び勇んですぐに三越へかけつけて紋付を注文いたしました。・・・


 文章会というのは、大体「ホトトギス」の写生文中心に、皆さんが文章をもちよって読みくらをして、互いに批評し合うものでした。
「猫」などもしばしばこの席上で読まれて、しかも読み手は夏目は下手だとあって、虚子さんがお読みになり、それを聞いていて自分のものなのに、夏目迄一緒になって笑いこけている事などもありました。・・

 「先生は人の前歯のかけたのを書いちゃいけませんね」と抗議を申し込まれたものです。
すると夏目は、「何も君だとわかっているわけじゃないからいいじゃないか」と申すのですが、寺田さんは寺田さんで、「だって気がとがめて仕方がないから、出来ることなら書かないで貰いたいものですね」とひどく気にしていらしたことがあります。


 寒月のモデルだと専ら噂されてる寺田さんなんかは、今でもそれを大層いやがってらして、つい此の間もこの「思い出」を御覧になってのお話に、僕は生前先生にも悪いことをしたおぼえがはない、又奥さんにも恨まれるようなことをした覚えは毛頭ないのに、「猫」の話が出る度に飛んだ悪名をきせられてひどい目にあって居る。
 教室なども「猫」の話が出ると、寒月がそこに居るといわぬばかりに学生なんかが見るんで堪らないとこぼしておられたことがありましたが、それこそ今更取り消すわけにも行かず困ったことでございます。


 あの中に出て来る重要な人物では、迷亭などという人物は誰をモデルにしたものか私には見当はつきませんが、大方、自分のもって居る性格を、あのものぐさなむっつり屋の変人苦沙彌と軽口屋の江戸っ児迷亭とに2つに分けて書いたものとでありましょう。
 実際夏目にはそうした二面がありまして、冗談をいったり軽口を言ったりすると際限のないところがありましたが、・・・・迷亭の話振りを読むと、私はいつもこの(福岡)叔父を思い出します。
 この叔父も可哀そうに、去年蒲田にもっている工場の職工の為に、六郷川迄誘き出されて虐殺されました。
虐殺する日、職工は工場で刃を研いでいたそうですが、恨みも何もないのにただ血を見たさの余りやった兇行らしく、職工もつかまって1週間目位に自責の余り獄中で自殺してしまいました。

㉕有難い泥棒  漸く少しずつ原稿料が入って参るようにまりましたから、今迄苦しい苦しいで随分倹約に倹約を重ねて来て居りましたのでの何もありませんので、そろそろ入り用のものを買い調えて、客に出す座布団をこしらえるやら、洋服をこしらえるやら致しました。・・・

 丁度4月のまだうそ寒い頃のことでありました。私は明け方近くになって、抱いている添乳をしていた赤ちゃんが目をさまして乳を呑むので、私も目がさめました。何となく様子が変なのでじろじろ四辺を見廻しますと、・・・・貴夫泥棒が入ったようよと申しましたので、夏目もびっくりして目をさまします。起き上がってさて夜着の尻にかけておいた例の一張羅の銘仙を引っかけようとすると、それがないではありませんか。おやといって驚いてなほ見れば、シャツもない、ズボン下もない、帯もない、夏目のものは一切合財ない始末です。・・・・

 其時の私の身なりなんかと来たらばみじめにも滑稽なものであったでありましょう。
交番に届けますと、盗難にあった品書きを出せとあって、安物ばかりですけれど品数が多いので大変です。それに一々金高を書けというのだからいよいよもって厄介です。
 一週間ばかり致しますと、警察の方が玄関先へおいでになって、此の間の泥棒がつかまったから、明日の朝浅草の日本堤警察署へ出頭しろというのです。いかめしく命令するように言う傍には、若いいやにやさ男が、礼儀もなく懐手をして立っています。
 夏目も私も玄関に出て行って、多分そのやさ男を刑事だろうと考えたので、丁寧にお辞儀を致しました。
それから巡査が届けの品書きを出して、盗まれた品はこうこうだろうというようなことをいうと、その若い男が品書きをのぞき込みます。すると巡査が貴様はだまっていろと恐ろしい剣幕で叱りつけます。
 変だと思いましたら、それが当の泥棒君だったのには呆れて了ひました。・・・


 帰って来て驚いたことには、何もかも一週間ばかりのうちにきれいになっていることでした。
夏目の一張羅の綿入れが、さあ手をお通しなさいといはぬばかりに、ちゃんと対の袷に縫いなおされ居ます。・・・

殊に有難かったのは私の曰く付きの古コートがなほっていることでした。曰く付きと申しますのは、裾のやぶけた仕方のないコートを、・・・・白木屋へ買い物に行ったものです。すると入口のところで番頭がコートをお預かり致しましょうと申します。私はぬがされてはとんだ恥晒しなので、いいえ、よござんすよとお断ります。・・・どうしても脱いでくれろというのです。・・・・それを丁寧に畳んでくれたりするので、愈々もってそのえらい代物に赤面したことがあります。
その曰く付きのコートが、これ又至極手際よく裾なほしが出来て、すぐ様どこへでも着て出られるよになtっているのだから有り難がらざるを得ません。・・・





  
 

しんかがく 52

2012-07-17 09:00:00 | Tyndallナノ
序ながら、「文学論」が生まれ出る過程を垣間見ておきたい。

“余が最も不愉快なる2年、否それに続くこと,3年有余”、つまり1900年から1905年半ば、世紀を超えての英国留学から帰朝して、東京大学での「文学論」の講義を終えた7月頃までのこととなる。


 その頃を中心にして、その舞台裏というべき台所からの視線は、夏目鏡子「漱石の思い出」から少し引用しておこう。
この書は漱石の13回忌を前にして松岡譲の求めに応じて、語り聞かせた事である。


⑬洋行からが、あの最も不愉快なる2年間となる。
 私たちは横浜迄見送りました。プロセイン号という外国船で、日本人の客といっては、芳賀さん藤城さん、それに夏目の3人でした。それは9月8日のことでした。立つ前短冊に

               秋風の一人を吹くや海の上

の一句を認めて残して行きましたが、洋行から帰って来て、私の部屋に入るなり、床の間の横にかけておいた短冊を外して、どういう気かびりびりに裂いて捨てて了ひました。
この洋行を転機として、私ども一家の上に暗い影がさすようになってまいりました。      
                                       



⑭筆の日記 この日記は一年の余りも続いたかと思います。どうしてやめたか私もおぼえて居りませんが、いつの間にやら中断のままになって了ひました。帰朝した時はそれが全部纏まってカバンの中から出て参りましたが、その後どうなったものか今では行方が知れません。

⑮留守中の生活 其頃の私の生活費というのは、休職月給として下りる25円が全部でして、その中から例の製艦費の2円50銭を差し引いて渡されるのだから、いくら物価が安い当時にあっても心細いことといったらありません。だから一寸した臨時費がかかりますと、それはもうこの22円50銭の外へはみ出して了ふのです。これで家賃が出ないからどうやら助かったようなものの、子供2人を抱えて女中との4人暮らしでどうやらやって来たのだから、随分苦しい思ひも致しました。
 そんなわけではありありましたが、貰ってるのは貰っているのですから、税務署に莫迦正直に年収300円の届出をすると、何故急にこんなに月給がへったのだと叱られて笑ったことがありましたが、それでも年3円の所得税をおさめていたものです。

 父が官職を辞さなければならなんかったのはどういう理由からだったか私にはわかりませんが、何でも前の大隈内閣か何かの時代大分尽くしていたのを、内閣が代わっても・・・
其頃はつくづく官吏の浮き草稼業にはこりていたようでした。
 それからというもの運が向いていまいりません。職はなし、前の相場の穴はあり、それを何とかして埋めなければというので、手を出せば出す程よくない。

⑯白紙の報告書 夏目がロンドンの気候の悪いせいか、何だか妙にあたまが悪くて、此の分だと一生このあたまは使えないようになるのじゃないかなどと大変悲観したことをいって来たのは、たしか帰る年の春ではなかったかと思っています。・・・・・
 文部省へ毎年一回づつか、研究報告をしなければならいのだそうですが、夏目は莫迦正直に、一生懸命で勉強はしているものの研究というものにはまだ目鼻がつかない。だから報告しろたって報告するものがない。・・・
 あたまを外へ向けたらと思ってる矢先、医者や宿の主婦がしきりに戸外の運動をすすめるので、自分でもその気になって、勉強の方は一時そっちのけにして、宿の主婦のすすめで自転車乗りを始めたそうです。・・・
 いよいよ日本へかえるということになって旅費を受け取ると、無闇矢鱈と書物を買い込む。その無鉄砲さ加減、傍で見ていてはらはらするので、今にあの分では旅費をみんな書物に替えて了ふに違いないとあって、犬塚さんが気をきかして、郵船会社へ行ってその旅費のうちからともかくも船賃だけは払って、切符を取っておいて下すったということを伺いました。

⑰帰朝 1月の28日だたかと思いますが、今神戸へ上陸した、何時の汽車にのるという電報が初めて届きました。・・・
 一緒の船で帰って来られた方だといって、青山脳病院の斉藤さん外2,3人のお医者さん方がおいでになりました。見たところ洋行前と別に変わった様子もなく、ただおそろしく高いダブル・カラーをしてきちんと身についた洋服を着ているのが物珍しいようでした。明治36年1月末のことでございます。



⑱黒板の似顔  狩野さん大塚さんなどの肝煎りで、望みどおり熊本には帰らないで、東京に居て一高の教鞭をとることになりましたが、それだけでは生活にも困ろうとあって、文科大学の講師といふことになって、小泉八雲先生の丁度後にいることになりました。・・・当人甚だ不服でして、狩野さんや大塚さんに抗議を持ち込んで居たようです。

 そこで文科大学の学長に会いに行ったようです。帰って来ての話に、いくらあったら暮らせるかとのことだったので、100円位ならと言って来たと申しますから、私もこれ迄2年半ばかりの間、ともかく25円でやって来たのだから、100円でやっていけないとは申しませんが、いづれにしても苦しいでせようと申したことでした。其頃月給は両方合わせて120円位でしたが、ちょいちょいお借りした金をかへしていたので、本当の手に入るものはいくらもないのでした。・・・

「今日教室へ入ると、黒板にダブル・カラーをつけて、頭をぐっと高くそらしたおれの顔がかいてあったよ」と笑いながら申しますから、・・・

其頃の夏目は所謂ハイカラで、先の細い沓をはいて、爪先ですつすつと廊下を気取って歩いていたものだとかということです。・・

⑲別居 ・・・「つまり両方で神経衰弱なんだ。帰りたいというなら、そんならかへって来るがいい。が、大体中根の家では子供を甘やかせて我儘に育て過ぎる。だから鏡子なんぞもあのとほり我儘で、自分のやりたい放題をやる」とか申しますので、兄さんも「外の姉妹はどうか知らんが、鏡子さんはあんたの奥さんじゃないか。細君のことなら強情であろうと我儘であろうと、自分のいいように教育したらいいじゃないか」とか何とか言ったような按配だったそうです。・・

⑳小刀細工 「そんならどうかお帰りになって、皆さんに仰言って下さい。夏目が精神病ときまればなほ更のこと私はこの家をどきません。私が不貞をしたとか何とかいうのでなはく、謂はば私に落度はないのです。・・・・」
 涙を流して母にくれぐれも決心の程を打ち明けて頼みましたので、母もそれ程にいふならと快く肯つてくれました。今其当時のことを思い出して見ましても、どうしてあんなところに居たものかと、むしろぞっとする位ですが、本当に其時は生きるか死ぬかの境に立っていたようなもので、自分では全く一生懸命で死に物狂いだったのです。・・・其頃だったと覚えて居りますが、1つには家にばっかり居て勉強しているのいけないと思ひまして、寺田寅彦さんや高浜虚子さんにお願いして、出来るだけ遊びにいらして連れ出して下さるようにとお頼みしたことがありました。・・

㉑離縁の手紙 ・・・こんなことを数え立てたらまだまだあるであろましょう。
・・・其頃書斎に入って見ると、机の上に墨黒々と半紙にこういう意味の文句が書いてのせてありました。----予の周囲のもの悉く皆狂人なり。それが為め予も亦狂人の真似をせざるべからず。故に周囲の狂人の全快をまって、予も佯狂をやめるもおそからず----気味の悪いたらありませんでした。
 なんでも此の頃でしたでしょう。又私を里へかへそうというので、父に引き取れと手紙をかったものです。・・・・しかし若しどうあっても鏡子がいやだから離縁なさろうというのなら、裁判所に願い出して下さいとこう出たのです。そう書いたこともチャンと私はしっているのですし、又その手紙を夏目が読んだことも知っているのですが、・・・すまして居ました。                                
                                         


 







しんかがく 51

2012-07-13 09:00:00 | Tyndallナノ
『F.とideal』

概要  意識の焦点的観念をFとすれば、Fは個人の一刻の焦点的観念でもあり、個人の集合体である一代の焦点的観念でもある。
 Fは実現されることが願われ、実現されると、実現される方法によって、道徳行為となり、詩歌・文章となる。
  理想はこのFにある。
 Fの性質は体の状態、社会的伝統、物質的環境、知的発達に依存する。
  我々は自分の幼児からFの推移をたどり、これを批判するときは、必ず現在を標準とする。
 Fの推移には一定の軌跡があって法則を示すとしても、その法則は進歩の法則とはいえないから、それを評価することはできない。
 またFは社会的伝統、物質的環境等によって決定されるゆえ、そうした条件を異にするFは比較を許さない。
  知性の発達に基づくFはFの高下深浅を定める標準となるが、これを定めるには程度と質の二つの標準がある。


F.トideal(翻訳機)
 ○Fノ種類
 ①F of moment of consciousness(意識の瞬間のF)
 ②F of a period of social evolution(社会進化周期のF)
 ③F of a period of individual life(個々の人生の周期のF)

 ○1,2ハ文芸ノpsychology及ビ開化ノ篇デ述ベタリ。

   余ハ進ンデindividual lifeニモ亦Fアルコトヲ主張ス。
   小児ノトキハ食物、玩具、遊戯、人形、竹馬等ガFトナル。少年ノ時ハ格闘、冒険、青年ノ時ハ少女、夫ヨリ以上ハ色々ナリmoney、power、fame、
  truth、衆生済度ニ至ツテ限ナシ

 ○Fハrealiseセンコトヲ欲ス。
  之ガ形象トナレバartトナル(imitationヲモ含ム)之ヲ人ノ上ニ行ヘバ道徳的意味ヲ有ス之ヲimaginaryニrealiseスレバ詩歌文章トナル。
  故ニidealハ此Fニ存ス。


 ○F.ノ性質ハorganic condition、socil tradition、physical environment、intellectual devel
 ニdependス。
 ①小児ノFハorganic conditionニテ定マル饑時ノFハ食ニアルガ如シ
 ②日本人ハ忠君愛国西洋人ハ富国云々ノ如シ。英国ノfootball
 ③田舎ノ人ハ田舎ノF.アリ。都会ノ人ハ都会ノFアリ。山ノ人ハ山ノFアリ海ノ人ハ海ノFアリ。
 ④学者政治家思考家ノFノ如シ

 ○吾人ハ自己ノ幼時ヨリノFノ変遷ヲtrace.シテ、之ヲ判スルニ必ズ現在ヲ標準トスベシ。昔ハアンナ気デアッタ、昔ハアンナコトヲシタト過去ヲ回想スルトキ此過去ノFヲ批判スルニ必ズ現在ノ標準ヲ用ユ。
 換言スレバ吾人ハ一定ノ法則ニヨリ過去ヨリ現在ニ進歩シ来リタル物ト思フ。即チFガ単ニ変化シタルノミニテ進化ヲモ何モ意味セザルトキニ於テスラ進歩ナリト信ズルガ故ニ過去ノFヲ皆軽蔑スルナリ。
 茲ニ老人アリテ日夕茶湯ヲ嗜ムトスレバ彼ガ現今ノFハ茶ノ湯ニアルヲ以テ彼ハ茶ノ湯コソ嗜ム価値アリトナス過去ニ嗜ミタル者ハ嗜ム価値ナカリシ者ヲ嗜ミタリトナス。
去ル程ニ少年ノ恋トイヒ、青年ノ酒ト云フテ見テ之ヲ笑フ若イ内ハ杯ト云フ。其理由トスル所ハ単ニ己レモ過去ニハカカルFアリキ去レドモ今ヤナシ。余ハ過去ヨリ今日迄ハ非ナリ彼等モ経験ヲ積ムニ従ヒ今日己等ノ嗜ム所ハ是ニシテ彼等ノ嗜ム所ハ非ナリ彼等モ経験ヲ積ムニ従ヒ今日己等ノ嗜ム所ヲ棄テテ昔ヲ顧ミテ馬鹿馬鹿敷感ズルコトアルベシト成程少年青年此時期ニ達スルハ事実ナルベシ而モ是単ニorganic conditionノ変化ヨリ生ズル嗜好ノ変化ニトドマッテ進歩ニモ何ニモアラズ餅ヲ好ム者ノ酒ヲ好ム者ヲ笑フガ如シ。
 病気ノ時ノFハ医者ナリ医者ガ甚ダ恋シキナリ。此Fハ至当ナリト思フ。全快ノ暁ニハ何故ニ医者ニ左程依頼センヤ己レニモ疑ハシキナリ然モ是Fノ進歩ニモ何ニモアラズ自己ノorganic conditionノ変化ノミ。organic conditionハmoodヲモtemperamentヲモ含ム。是ニ於テ淵明ノ詩ヲ愛スル者ハ杜甫ノ激楚ヲ好マズ。暫ク仮定セン、杜ヨリ入ツテ現ニ淵明ヲ好ム者ハ自己ノ嗜好上ノ経歴ヨリ推シテ淵ヲ高シトセン、vice versaナリ
仮令一定ノ行路アリテlawヲ示ストスルモ単ニchangeスルlawニテ進歩ノlawニアラザル故ニ毫モ高下スル能ハザルナリ


 ○social traditionノchange。 昔時撃剣ガハヤリ今ハ弓道ガハヤル其影響ニテ甲モ昔ハ撃剣ヲ嗜ミ今ハ弓術ヲ嗜ム。現在ヲ土台ニシテ昔ハ撃剣ナンドヤッタコオトガアッタガ馬鹿々々シイ、弓術ノ方ガ面白イト、然モ弓術ト剣術ノ趣味ノ高下ニハ関係セズ単ニ趣味ガ甲ヨリ乙ニ移リタル迄ナリ
 social traditionノdifference。英国ニテハfootball、boatraceガ盛ナリ英国ノ甲ハ之ヲ嗜ムガ為ニ日本人ノ柔術ヲ嗜ムヲ見テ趣味発達セズト云ヒ得ルノ理ナシ

 ○physical enviroment。山中ニ生レタル人ハ山ノFアレドモ海ノFナシ海辺ニ生レタル人ハ海ノFアレドモ海(原)ノFナシ二ノFヲ比較シ(得)ベキ材料ナキナリ。
Fハphysical enviroment(山ト海)ナルgiven phenomenaヨリ生ズ此given phenomenaガ異ナル以上ハ之ヲ比較スベキ権利ナキナリ。
之ヲ比較センニハdifferent planeニアル者ヲsame planeに引キ直サザル可ラズ。之ヲ引キ直セバsubjective feelingニテmeasureセザル可ラズ然モ此feelingガdiffrent categoryニ属スル以上ハ矢張リdifferent planeニアル故比較ニナラズsame categoryニ属スルナラバ比較シ得ベキモ遂ニlawトナス能ハズ。feelingハorganic conditionニテ定マレバナリ高下ヲ定ムベキニアラザアレバナリ。
子規ノ自白子規三十五年二月

 ○最後ニintellectual developmentヨリ来ルF.以下略
  
  
『東西文学ノ違』
概要 西洋の演劇はつきつめると知的愉悦に帰着するが、日本の演劇の狙いは変化であって、単調を破るのが楽しみである。知的愉悦を犠牲にして、感情的愉悦もしくは美的愉悦を求める。西洋の自然観はその裏面の主意や存在論的意味を重視するのに対し、日本人は自然を自然として渇仰し、その存在論的意味などは必要としない。西洋の詩は世間的で俗世間を超脱することができないが、日本、支那には自然に親しむ詩が多く、西洋の詩は善悪と浮世から離れない。
参照 「文学論」第四編、第五章。「草枕」の冒頭。「余が「草枕」明治39年10月26日付けの鈴木三重吉宛の書簡。明治39年8月31日付けの高浜虚子宛の書簡。「自然を離れんとする芸術」(「新日本画譜」序)「鑑賞の統一と独立」

○potryの中に見られる数行を拾い書き留めておこう。
 日本支那ハnatureニシタシム詩ガ多イ。Human interestハ善悪トカ浮世トカヲ離レヌカラデアル
 西洋ノハaction、thought、人情ヲ歌ツタノガ多イ。日本人ナラ論文カ散文ニスベキ者ヲ彼等ハ悉ク詩ニスル




吾人ノ詩ハ悠然見南山デ尽キテ居ル