ご近所で開催されている「卒業制作展」を拝見して想ったことは、世代、時分の事である。
「15年戦争って、何?」
「日米開戦って、何?」
これらは我々には、違和感を以って聞こえるがそれは「日清戦争って、何?」と聞かれた時の我々に、にてもいるのであろうか。
彼等が教職に就き、この時分のことを語り聞かせる事はなかなか難しい。
難しいからと言って、イワンの馬鹿で済ますことも出来ない。
さて、敗戦国日本の復興は科学から始まったと言ってよい。
活字に飢えていた膠民を奮い立たせたものの一つが「物理学序説」(寺田虎彦著)であるが、より重要なのは湯川秀樹の諸著作並びに彼のノーベル賞であった事は知られているけれども、その実態を知る人は今では少ないものと考えられる。
“難しい事はイワンの馬鹿”との愉快なエピソードを持つ彼の第一声は「静かに思うこと」であった。
真善美から説き起こして、「科学は日一日と前進して行くあらゆる文化は科学を基礎としてそのお姿を変えてゆかねばならぬ」と結論へと導いてゆく。
つまり15年戦争期間にも物理学等は着実に新展開を見せていたとの自負が見て取れるのだが、それについても触れなくては解らないであろうから、簡潔に触れて置く。
漱石亡き後の虎彦は、石原純宛書簡にて物理学者である事を撤退するとの宣言を発しているのは、「同膠二人」で歩んで参る覚悟を表明したものと考えられる。
それからの十余年後に得た、安心立命の境地が「割れ目と生命」「自然界の縞模様」等として知られる、膠質粒子の世界である。
丁度その頃の湯川は、膠着状態にあったけれども、それに一撃を与えたのが中性子であった。
そこに生まれた概念が、中間子である。
それから復活させた課題の日々が綴られているが割愛しておこう。
ところで物資不足、検閲厳しき中で出版されたのは驚きであるが、営業的には何の貢献も明らかになかったに違いない。
それ故に、今では硫酸バンドにやられて、直ちに中和しても救えないほどに紙は崩壊寸前の状態にある。
そこで彼は、膠質粒子を究極の物質と見極めている。
この書は玉城嘉十郎先生へと捧げられている事にも注意が必要であろう。
敗戦国日本を不死鳥の如く蘇らせたのは正に科学文化、より正しくは膠漆学であったのだ。昭和20年11月までの概要は、こうした遺産のうえに立脚しているのだ。
三好教之作
あの作品をみて直ちに思い出されるのは平田森三に近いとの印象は、寺田虎彦には似てはいても違っている!
彼は界面現象を究めようとして、墨流し等にもその解を求めようとしてもいたし、他方で湯川は理論物理的なアプローチから、物理とか化学を超克した世界としての膠質世界を想定していたと解るのである。
ともに分科を超えた世界へと踏み出しての自由をいただいている。
「静かに思う」その世界は、『有機膠学』と呼ばれるべきであろうか。
自らその後に開いていく素領域論は、その時分に書かれている「古代の物質観と現代科学」を彷彿とさせるであろう。
ここに神話が復活してくるのではないかと、わたしは想っている。
「15年戦争って、何?」
「日米開戦って、何?」
これらは我々には、違和感を以って聞こえるがそれは「日清戦争って、何?」と聞かれた時の我々に、にてもいるのであろうか。
彼等が教職に就き、この時分のことを語り聞かせる事はなかなか難しい。
難しいからと言って、イワンの馬鹿で済ますことも出来ない。
さて、敗戦国日本の復興は科学から始まったと言ってよい。
活字に飢えていた膠民を奮い立たせたものの一つが「物理学序説」(寺田虎彦著)であるが、より重要なのは湯川秀樹の諸著作並びに彼のノーベル賞であった事は知られているけれども、その実態を知る人は今では少ないものと考えられる。
“難しい事はイワンの馬鹿”との愉快なエピソードを持つ彼の第一声は「静かに思うこと」であった。
真善美から説き起こして、「科学は日一日と前進して行くあらゆる文化は科学を基礎としてそのお姿を変えてゆかねばならぬ」と結論へと導いてゆく。
つまり15年戦争期間にも物理学等は着実に新展開を見せていたとの自負が見て取れるのだが、それについても触れなくては解らないであろうから、簡潔に触れて置く。
漱石亡き後の虎彦は、石原純宛書簡にて物理学者である事を撤退するとの宣言を発しているのは、「同膠二人」で歩んで参る覚悟を表明したものと考えられる。
それからの十余年後に得た、安心立命の境地が「割れ目と生命」「自然界の縞模様」等として知られる、膠質粒子の世界である。
丁度その頃の湯川は、膠着状態にあったけれども、それに一撃を与えたのが中性子であった。
そこに生まれた概念が、中間子である。
それから復活させた課題の日々が綴られているが割愛しておこう。
ところで物資不足、検閲厳しき中で出版されたのは驚きであるが、営業的には何の貢献も明らかになかったに違いない。
それ故に、今では硫酸バンドにやられて、直ちに中和しても救えないほどに紙は崩壊寸前の状態にある。
そこで彼は、膠質粒子を究極の物質と見極めている。
この書は玉城嘉十郎先生へと捧げられている事にも注意が必要であろう。
敗戦国日本を不死鳥の如く蘇らせたのは正に科学文化、より正しくは膠漆学であったのだ。昭和20年11月までの概要は、こうした遺産のうえに立脚しているのだ。

あの作品をみて直ちに思い出されるのは平田森三に近いとの印象は、寺田虎彦には似てはいても違っている!
彼は界面現象を究めようとして、墨流し等にもその解を求めようとしてもいたし、他方で湯川は理論物理的なアプローチから、物理とか化学を超克した世界としての膠質世界を想定していたと解るのである。
ともに分科を超えた世界へと踏み出しての自由をいただいている。
「静かに思う」その世界は、『有機膠学』と呼ばれるべきであろうか。
自らその後に開いていく素領域論は、その時分に書かれている「古代の物質観と現代科学」を彷彿とさせるであろう。
ここに神話が復活してくるのではないかと、わたしは想っている。