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「有機膠学」(静かに思う湯川秀樹)

2018-02-17 12:49:20 | 点膠
 ご近所で開催されている「卒業制作展」を拝見して想ったことは、世代、時分の事である。

「15年戦争って、何?」
「日米開戦って、何?」

これらは我々には、違和感を以って聞こえるがそれは「日清戦争って、何?」と聞かれた時の我々に、にてもいるのであろうか。
彼等が教職に就き、この時分のことを語り聞かせる事はなかなか難しい。
難しいからと言って、イワンの馬鹿で済ますことも出来ない。

 さて、敗戦国日本の復興は科学から始まったと言ってよい。

活字に飢えていた膠民を奮い立たせたものの一つが「物理学序説」(寺田虎彦著)であるが、より重要なのは湯川秀樹の諸著作並びに彼のノーベル賞であった事は知られているけれども、その実態を知る人は今では少ないものと考えられる。

“難しい事はイワンの馬鹿”との愉快なエピソードを持つ彼の第一声は「静かに思うこと」であった。

真善美から説き起こして、「科学は日一日と前進して行くあらゆる文化は科学を基礎としてそのお姿を変えてゆかねばならぬ」と結論へと導いてゆく。


つまり15年戦争期間にも物理学等は着実に新展開を見せていたとの自負が見て取れるのだが、それについても触れなくては解らないであろうから、簡潔に触れて置く。


 漱石亡き後の虎彦は、石原純宛書簡にて物理学者である事を撤退するとの宣言を発しているのは、「同膠二人」で歩んで参る覚悟を表明したものと考えられる。
それからの十余年後に得た、安心立命の境地が「割れ目と生命」「自然界の縞模様」等として知られる、膠質粒子の世界である。

 丁度その頃の湯川は、膠着状態にあったけれども、それに一撃を与えたのが中性子であった。

そこに生まれた概念が、中間子である。
 
 それから復活させた課題の日々が綴られているが割愛しておこう。

 ところで物資不足、検閲厳しき中で出版されたのは驚きであるが、営業的には何の貢献も明らかになかったに違いない。
それ故に、今では硫酸バンドにやられて、直ちに中和しても救えないほどに紙は崩壊寸前の状態にある。
 そこで彼は、膠質粒子を究極の物質と見極めている。

この書は玉城嘉十郎先生へと捧げられている事にも注意が必要であろう。

敗戦国日本を不死鳥の如く蘇らせたのは正に科学文化、より正しくは膠漆学であったのだ。昭和20年11月までの概要は、こうした遺産のうえに立脚しているのだ。



            三好教之作

 あの作品をみて直ちに思い出されるのは平田森三に近いとの印象は、寺田虎彦には似てはいても違っている!

 彼は界面現象を究めようとして、墨流し等にもその解を求めようとしてもいたし、他方で湯川は理論物理的なアプローチから、物理とか化学を超克した世界としての膠質世界を想定していたと解るのである。

ともに分科を超えた世界へと踏み出しての自由をいただいている。
「静かに思う」その世界は、『有機膠学』と呼ばれるべきであろうか。

 自らその後に開いていく素領域論は、その時分に書かれている「古代の物質観と現代科学」を彷彿とさせるであろう。
ここに神話が復活してくるのではないかと、わたしは想っている。




「万有膠座」真膠への旅人たち

2017-12-08 10:16:59 | 点膠
 草膠



目次

① 明治の青年たちへ  「病状六尺」
② 「フランクリン自叙伝」
③ 不本意な自然哲学者
④ 独立革命の旗手
⑤ 帝国の影「indigo」


キーワード

・「膠晶」とは、結晶でもなく非晶質でもなく、「プルシアンブルー」の如きもの。
・「界面・境界」とは「界境」と言える、 Limit Pointの如きもの。
・ ボーダーレスな自然哲学者つまり「膠学者」
・「膠民」の見えざる手になる「膠策」



要旨
 ボイル・ニュートンに学んだフランクリンは雷雲等をもって国際的な学者となったが故に、パンダの如くその時分に翻弄される。しかしながらその自然観は、その気質にも恵まれての大活躍の場を、イギリス・フランスその海峡を越えての「独立革命」等の旗を振ることとなったのは決して本位ではなかったろう。ここで彼の膠導を陰に陽にと啓発し続けたのは『鎮波』そこに学ぶところの界面からの智恵であったに違いない。


「青の時代」略史

1706 フランクリン(アメリカ;植民地)誕生。
   ニュートン(イギリス)「疑問31」という宿題を提出。

1709 プルシアンブルーと命名された
   1704年頃に発見されたのはHeinrich Diesbech(ドイツ)の膠場でした。その再現には錬金術師ヨハン・コンラッド・デイツベル(ドイツ)の助けを必要としたらしい。やがてその謎を解き明かす時が来た。
1724 John woodward(イギリス)草木の灰。牛の「血液残留塩」。
1731 Georg Emst Stahl(ドイツ) 合成に成功
  ヨハン・ベッヒャー(ドイツ)1667 年の化学変化に関する仮説は、1697 年にはゲオルク・シュタール(ドイツ)によって継承され「フロギストン」と言い換えられた。
1749 Pierre J. Macquer(フランス) インジゴ等に比べても素晴らしい染料であると認めた。シルク等への適応は良かったが綿については工夫を要した。なお彼は1720年Etienne Francois Geoffroy(フランス)の「元素の親和力表」等を借用したものと思われる
1766年 H・Cavendish (イギリス1731~ 1810) 水素
1767年 牧師Joseph Priestley(イギリス1733~1804)「電気学の歴史と現状」
1772年Daniel Rutherford(イギリス1749-1819) 窒素
1774年Joseph Priestley(イギリス1733~1804) 酸素
1782  Wilhelm Scheele(スウェーデン) シアン化水素
それから世紀を越えて
1814年 Joseph Louis Gay-Lussac(フランス1778- 1850)無機的な合成に成功する。



あらすじ

「マケの価値」はプルシアンブルーの色々な特性を見いだしたばかりではなくそのカラクリを「フロギストン」仮説ををもって究明しようと努めたその思想は、両眼を睨んだ処の両親媒的なものでもあった。さらに補記すれば「界境点膠」と表記しても良いかと思われる。かくの如き思膠は多くの人が共有していたには違いないが、やがて消え去る「フロギストン」時分を彼は膠福に生き残れた事は注意されて良い。
 似たような膠想を抱くプルーストリーはその信仰などの故にか、アメリカへと逃散するはめとなったけれども、彼こそがあの革命の主役の一人であったにもかかわらず教科書では割愛されがちである。
こうした外史として未だに語り継がれていくことは誠に興味深い事である。

それをフランス分化と片付けさせたのは歴史家の怠慢ではないかと、私は考えている。
そこで語られる革命が不当にも化学と、限定つきに純粋培養される事が好ましいとは思えない、それでも是非もなく、強固な型枠を強要するのであれば、せめてここにも門塀や窓等の見えざる手をあたえてこそ、多少の複雑さにたじろいではならない!ソフトなる信膠が必要である。

しかしながら、その時分、ことにイギリスと言うよりはスコットランドにおいては、「懐疑的化学者」或いは光学「疑問31」等に認められるような、若き人々への伝言としての論文こそが責務であったものとは、きずくべきであろう。

つまり世代間のバトンリレーであり伝統でもある。

未完に次ぐ未完なる未知こそが道なのだから、解答はないのであり未完なのだからこそ次代に託してゆく。
この姿勢こそを自然哲学者の、その名に恥じないように膠導してくれたものが、フランクリンをも導いたし、かれもそれを見習った。



「真膠への旅人」はその膠道において、いろいろな現象としての「信膠」を色々と発見する事であろうが、その時分の扱いには細心の注意が必要であるとは心得ていたのである。

かくなる上にあって、フランクリンは無情を鑑として有情を膠察する手法を駆使したものと考える。それがプルーストリーとの書簡におけるところの要点となる。

その頃、つまり250年ほど前の御両人は内外ともに陰謀渦巻く渦中にありながらも適切なる忖択をなしていくこととなる。

宗教改革からの250年目のこの年に、牧師となったプルーストリーは「電気学の歴史と現状」(1767)を出版する。これがフランクリンによる史膠の伝授であった。他方フランクリンにおいても諦膠から膠諦へと大転換をはかって独立革命をなしていく。

かくのごとく思えてくるのは、見えざる手をもつプルシアンブルーの燃素、18世紀の表象として相応しい。

つまり18世紀の「膠晶」ではないか。
それは結晶でもなければ非晶質でもなくそれらを体現した点の如きは分子・原子を超えたところのナノ世界を先取りしたものといえるし、“Limit point”でもある。


余談となってしまうが、顧みれば「化学」を「舎密」へと、その翻訳を元へと戻せば今述べた色々な事柄はより易しい話となるものと思えるのは、その微光によるのだろう。

そこからは「舎密膠学」という言葉が直ちに生まれてくるだろうし、これを略して、「舎膠」場ともなり、さらには、青い「膠舎」と、反転する事もまた可能である。

尚触れるべき事は色々あるが、さきの小史に認められるように、ドイツ、フランス、イギリス等と、つまりは国の壁を超えた精神状態をそこに見る、国境なき自然哲学者群像。

しかしながら、それが平和な時代を意味してはいない。

浅間山など地球規模での火山爆発もあったし、さらには小氷河期でもあった。百年戦争とかの睨み合いが絶える事もなかったのが18世紀を特徴づけてもいる。

 そのカオスのようなボーダレス社会こそが、フランクリンの時代でもあったのだから、18世紀を空気の時代というよりも、見えざる手を持つ「青膠」時代と鮮明化させながら読み変えていくことが、来る明治150年には肝腎であるものと思膠されよう。 



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