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みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-28 10:31:48 | アルケ・ミスト
ギリシャ時代の原始化学の集大成には、何ものかの少量が、大量のものに作用してこれを貴金属に変えるという考え、後に卑金属から貴金属への変質projectionと呼ばれる過程が、すでに完全に存在していて、少量のもの(後の「賢者の石」に対応する)の作用は、酵母maza、azymonの作用に似ていると考えられる傾向があった。それで、ゾシモス(300年頃)にとっては、この変質の効果は発酵であった。
変質というこの同じ考えが、紀元前1世紀という早い時期に中国で見出せるというのは格別な、しかしほとんど知られていない事実である。
しかし、西方へ伝達されたのか、中間に共通の起源があったと考えるべきかは確かではない。
中国の文献と、ギリシャ・ビザンチンの記録から、冶金の「発酵素」の考えが、アラブの錬金術に伝えられ、そこでは、すべての記録----つまり、ジャービル全集とイブン・ウマイル、また「哲学者の群」と11世紀の「明盤と塩の書」----にこれが示されている。それから、1300年頃にケベルへ、また14世紀初期のヴィラノヴァ全集へと伝えられ、その中でマッサmassaが発酵素としての賢者の石についての普通の表現となり、そこでも金や銀がその組織の中の成分として必要だと考えられていた。
事実、語源の恣意的な解釈によれば、錬金術alchemiaはalchymum(無酵母パン、azymon)から由来するとされ、そのため偽アルベルトウスの14世紀初期のビザンチン・ギリシャの翻訳におけるように、すべての化学は「酵母の技術(maza pragma)」と同義である。
ある一つのことが限りなくそのものの内容を豊かにするようなこの複製の過程は、たしかに奇妙なものだが、自己複製するリボ核タンパク質について現在知られていることの古代での前兆であることはあまり認められていない。

おそらく、「錬金術師は現代の化学とは正反対の道を進んだが、それは、われわれが生物の過程を化学の用語で説明しようと追求しているのに対して、彼らは逆に無機の現象を生物学の用語で説明したからである」という真理を、このことが十分に例示しているのであろう。

しかし、古代および中世初期の人たちは消化と、それがきわだって低い温度で果たす重要な変化について知っていたのだから、発酵素についてもう少し述べておくことがある。
発酵と腐敗に共通したすべての現象は、消化にについてのこの人たちの考えの中に関係づけられている。つまりこの人たちは、賢者の石を熱烈に追求しているときでさえ、ときどき、ある過程を低温でゆっくりと進行させるべきだと確信していた。
発酵中の馬糞を利用して65℃の温度がかなりの期間維持できることが、中世の錬金術師の間で、たびたび利用されたことをこのことで説明できる。
宋代の中国の錬金術師が目当てとする温度に調節できるように冷却用のラセン管というきわだった工夫を思いつかせたのも、同じ先入観である。
さらに奇抜なのは、西欧の錬金術師の中で、とくに7世紀の後半のルル全集の著者たちが自分たちの容器を、身体の器官----胃、子宮、卵、----の形にする傾向で、還流蒸留(蒸留して生じた蒸気を冷却して、もとの蒸留器にもどす)の装置に用いられた当時の一対のランビキ(蒸留器)に、化学結合についての以前からの性的な含意が反映されていることである。
その後の医化学の段階でこれらのナンセンスは放逐され、有機的な生命で生じるすべての反応は、どれか一つの発酵素によって制御されているとファン・ヘルモントが断言した。
彼と彼の後継者は、病気も「なじみのない発酵素」によるものだと考え、これは、この人たちによる生命ある病原体contagium vivumの新しい考え方であった。
ファン・ヘルモントは、身体の中で(消化管内だけではなく)六種類の主要な消化を認めていて、ここでも、中国と西欧の考え方の中での隠れた相似が示されていて、それは、1624年に、ファン・ヘルモントと同時代の張介賓は、中国での当時きわめて古い考えとされていた「三つの煮沸領域」(三焦)の考えを解説した。


このような対応は今後の多くの研究を呼びかけているが、ここではこれ以上述べることはできない。
しかし、有機的な触媒(第1、2、7章)の考えが、何世紀もの間、原始化学時代、錬金術時代のすべての面とからみあって、ずっと古い時代にさかのぼるものだということを理解するのに十分だとわかる。


この国の生化学の創始者で最高位者であるSir Frederick Gowland Hopkinsフレデリック・ゴーランド・ホプキンズの後継者である。


歴史的な関心に値するこの学問に、先生の講義を聞く機会に恵まれた私たちは誰もが記憶している。
醸造工場での「悪性気体wild gas」を明らかにしたファン・ヘルモントの場合とか、壊血病の乗組員をミカンで護ったリンド提督とか、1808年に獲物のシカの筋肉から乳酸を見出したベルセーリウスとか、筋肉労働とタンパク質代謝の関係を確認しようとしてフォールホーンに登った空想的なフィックとヴィスリツエーヌスとか----すべての展望の中に位置づけられ華やかに色づけられていて、われわれの歴史の理解を広めて下さった。

みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-28 10:31:07 | アルケ・ミスト
さて、二個の中心となる概念のみが考察の対象として残されている。
それは結合Conjunctionと発酵素Fermentである。

合成反応における、反対物の結合という概念は、すでに簡単には内丹錬金術の目的として触れたが、事実、これはどこの地域でもすべての錬金術師の目的であり、またラテン世界で他のどこよりも熱心に追求された。
もちろんこれは、他の分野におけるのと同様、生化学に基本的な化学的親和性という概念に関する近代的な理念の元祖以外の何ものでもない。それでも、これの根源は、紀元前125年ごろの劉安や彼の先輩のメンデスのボルスや後輩の偽デモクリトスが共通して思い込んでいた共感と反感の概念にまで至るものである。
似たものが似たものと反応しやすいか、異なったものと反応しやすいのかは、ラボアジエの時代の以前2000年の間すべての人を悩ませてきた問題であった。
パラケルスス学派とガレノス学派の人たちは、この問題で反対側の立場をとる傾向があり、アラブの人たちも討論を重ねた。
6世紀ごろ、中国人は、生化学的に関心あるものを含めて、物質をいろいろなカテゴリー(類)に整理し、これらをまた縦に陰陽分類に配列し、その反対側に並んだ成分は必然的に反応するにちがいないと考えて、この点の知的整理に目立った前進を与えた。
しかし、これらが同一のカテゴリーに属していなければ反応はおこらない、このようなものが古代の考えの一例で、もっともいつも性的な意味が含まれていて、それらが徐々に原子価、親和性、空間的障害などのような現在のもっと正確な概念へと変わってきた。

酵素タンパク質の活性係数(第2章参照)、ホルモン分子の促進的か阻害的かは別にした作用点(第5章参照)などにさえ、このことを認めることができよう。
酵素が発酵素として知られていたのは、それほど以前のことではなく、これは、ここで考察する余裕のある最後の中心となる概念である。

生物学では、ごく少量の酵母が大量のものを発酵させるという考えは、単にビールとパンについての人間的な経験的技術からうけつがれたものである。
これは酵母の「飼育化」であり、バビロンの時代までさかのぼらなければならない。ごく初期には、肺の発生も発酵と考えられた。
筋肉、神経、血管などの複雑な器官の出現を伴った形態的な分化は、いずれかといえば単純な考え方で、チーズの熟成のときに現れるいろいろの形、色、つやと類似のものとされた。
アレキサンドリアの生物学派が絶頂に達していたちょうどその頃につくられたユダヤの知恵の書の中で、ヨブ記(第X章10節)に、「あなたは私を乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、皮と肉とを私に着せ、骨と筋とで私を編まれたではありませんか」と言わしめている。
アリストテレスは同じことを述べている----彼にとっては、経血は胎児の物質的基盤であり、子牛の胃からの凝乳剤がミルクに作用するように精液がそれに作用して、形を与える。
この考えはそれ以上ほとんど進められることはなかったが、西欧の中世を通じてふつうのこととして残り、たとえばビンゲンのヒルデガルドHildegard of Bingen、1098-1180の考えにはっきりしていて、アルベルトウス・マグヌスが「卵の湿性は酵母の湿性と同じだから、卵が胚に成長する」と言ったときに心に抱いた考えに関連がある。
この考えの流れをさらに追ってゆくと、タンパク質の性質についての最初の研究へと直接につながっている。
アレキサンドリアの原始化学者が1500年以前に卵黄と卵白について魅惑を感じたが、17世紀の半ばにノリッチの化学実験室で、トマス・ブラウンThomas Browne、1605-1682もそれと同じ感激を味わった。驚嘆に値する可能性が具わっていると思われたタンパク質性の物質についてもっと多くのことを見出そうとして、当時の化学設備と器具を用いて、そこで多数の実験を行っていた。
羊水と漿尿液についてこれと平行的な研究が1667年にウオルター・ニーダムによってなされていて、卵のタンパク質の秘密を究明しようとその後の努力が、1732年のヘルマン・ブールハーフェの「化学要論Elementa Chemiae」に長々と論じられている。

しかし、タンパク質の構造を理解するための真の突破口はは、もちろん19世紀に有機化学が発達するまでは可能ではなく、Hermann Emil Fischerエミル・フィッシャーの古典的な研究は、この発達の初めではなく終わりに近いものである。




みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-22 09:00:00 | アルケ・ミスト
宋王朝から清王朝の初期(11世紀から17世紀)まで一般的であった中国の医化学的な活動で、とくに医学的な影響のもとに、内丹の物質とでも呼んでよいものに、外丹系の錬金術の方法が適用されはじめたので、ここで円満な解決に達する。

たとえば尿の採取である。今述べた世紀の間に、中国の医化学の研究者が、われわれなら「工業生産の規模で」と呼ぶほど大量の尿を研究したことが、文献的な証拠で示されている。
これを蒸発し、加熱し、沈殿させ(サポニンを用いてすら)、再溶解し、さらに沈殿し、さらに厳密に制御された温度での昇華で終わっている。

このやり方でステロイドを調整し、今日これらが処方されるのと同じ条件で医師がこれらを用いた。
供与者の年齢と性別を選ぶことで、いろいろな結晶系薬品の混合物を得ることができた。これらの手段の全体は、経験的というよりは、準経験的と呼ばなければならないのは、現代科学の理論ではないとはいえ、その基礎にかなり知的な理論がいくつか存在しているからである。
この秋石は中国の医化学の調剤の単なる一例でしかなく、他の多くの素材についても研究がされてきていたからで、それには、胎盤、経血、睾丸、甲状腺などがある。
動物の素材がしばしば用いられた。生化学の誕生前の歴史において、もっとも偉大な成果と呼んでみたいのがこれである。

記述を完全にするために、インドでの業績についてもいくらか述べておかなければならない。
全体としては、いちばん最初からずっと、金作製と不老不死薬ラサ、rasaの考えとを結びつけた、真に錬金術的なものであったように思われる。

他方、現在述べることができるかぎりでは、中国の錬金術のことはいわないまでもギリシャ的な原始化学ほど古くはなく、その端緒には、仏教の開祖であるナーガールジュナという人物が大きく影響を落としていて、後の世代の人たちが考えたように、彼はきわだった錬金術師であったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。

この後の時期は、最初の記録のバウアー写本の頃である。しかし、中世の初期の文献はごくわずかしか残っておらず、7世紀から8世紀と推定される「ラサラトナーカラrasaratnakara」の後になってなって初めて、文献が多くなった。
インドの錬金術の解明は特に困難で、その一部はインド文化でのどの文献の時代決定も不確定だからであり、また他方、インドの図書館において豊富な写本がまだ検討されていないままだからである。
南部のタミルの文献をもっと研究すると、とくに興味深い結果が得られると期待される。
一般的に、現在のところは、インドと中国とアラビア文化圏の間の対照はきわめて密接だが、インドについては、まだこの三者の中でもっとも明確でないままだという以上のことは述べられない。


नागार्जुन Nāgārjuna仏教学者の中村元は、ナーガールジュナの同一性を疑う「複数説」を紹介している[2]。中村によると、以下の六つの人物像がナーガールジュナの名に帰せられている。

講談社発行の「人類の知的遺産⑬」『ナーガールジュナ龍樹」中村元著の「はじめに」“空”思想

大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論で空クウの観念を基礎づけた。空とはその語源は「膨れあがった」「うつろな」という意味である。

膨れ上がったものは中がうつろ(空)である。
われわれは今日数学においてゼロと呼んでいる小さな楕円形の記号は、サンスクリット語ではシューニヤ(空)と呼ばれる。それが漢訳仏典では「空」と訳されているのである。
ゼロはもともとインド人の発見したものであるが、それが西暦1150年ころにアラビア人を通じて西洋に導き入れられたのである。(アラビア数字はその起源に関するかぎり、インド数学なのであって、アラビア数字ではない)

ついでながら結語からも引用しておく。

かれは一種の錬金術を体得していた。
ところでインドでは錬金術をシヴァ教の一派の水銀派なるものが昔から行っていた。この水銀派の開祖をやはりナーガールジュナに帰せられている水銀派の諸典籍はまだ刊行されていないようであるが、それらとの対照研究は今後の課題である。

名前の由来を記しておく。
ナーガ(龍)というのは次の意味をもっている。その1つが《あたかも実際の龍が海から生まれるように》真理の領域(法界)《という海》から生まれた。

そこをイメージしてみると、海の中のエイチ・ツー・オ、そのランダムなネットワークのダイナミズムな網目からの、物理化学的な止揚としての感官印象が残された、そこのちからである。

最後の言葉「中村は 5 と 6 が、1 と大分色彩を異にしており、別人ではないかと思われると、疑義を呈している。」

それはニーダムの歯切れの悪い言葉遣いと重なり合っている。

これらの読後感は、グルとして受け止められて良いというのが、いまの理解である。


みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-21 09:00:00 | アルケ・ミスト
アラビア語からラテン語への最初の翻訳はスペインでなされた。

そこはアル=マジェリテイーが1130年以降に活動していたところで、その後100年間、多数の翻訳がつづけて出された。

ヨーロッパの人たちは、人工的な金の作製とともに長寿の生化学的医術の考えに深い関心を払った。そこで、記録された化学的な知識が進歩したという点で14世紀はきわだった時期となっている。

これはゲルべによるものとされている本とともに始まるが、この本は翻訳ではなく著作で、またジャービル・イブン・ハイヤーンによる著作の以前の全集とは名前のほかには何も共通点はない。

ラテン系の名のもとに隠されている知られざる著者は、それでもアラビア錬金術をよく知っていた。その後ペルトルス・ボヌスPetrus Bonus、1330年頃とルペスキサのジョンJohn of Rupescissa、1345年頃と、またこれらに関係のある写本の重要な2件の収集がつづいた。
それはヴィラノヴァのアーノルドの名にちなんだヴィラノヴァ全集とレイモンド・ルルの名にちなんだルル全集と呼ばれるもので、14世紀後期のものである。

15世紀は在庫しらべと集大成のための独自色の少ない時期だが、16世紀の初頭には、まったく新しい時代が始まったことを見ることになる。


「科学革命」は、一般にはコペルニクス、ケプラー、ガリレオを中心に、自然現象を数学化しようとした彼らの努力とともに生じたとされるが、パラケルススParacelsus、1493-1541の業績がこれらよりも革命的でなくはないという点については、いくつものとらえ方がある。

李少君とその友人たちが紀元前2世紀につくり上げた「金製造」とマクロバイオテックスとの関係を打破したのは彼である。

このことを彼は、「錬金術の使命は金を造ることではなく医薬をつくることだ」という有名な警句で果たしたのである。

パラケルススの死の前年に、最初の近代化学者アンドレアス・リバヴィウスが生まれ、この人の1957年の「錬金術Alchemia」では、以前からの人工的な金や不老長寿薬などへの含みから解放されて、ほぼわれわれが化学物質を理解しているのと同じように、化学的な組み合わせや化学物質の性質の理解が追求されている。

彼よりも若い同時代の人J.B.ファン・ヘルモントについては、すでに述べた。
この時期は近代化学史の範囲内で、ここではこれ以上は進めることはできない。

パラケルススが導入した新しい活動は医化学iatro-chemistryという名をつけられたが、これは医学に応用された化学だからで、したがって、すべての生化学者はこの時代に特別の関心を払っている。

いろいろなものが複雑に混ざり合ったパラケルススの業績の特徴を理解する必要があるが、それは一方ではかたくなまでに新しい実験を求めていて、実際に化学における多数の新しい発見をしているのだが、同時に、それには新プラトン派的、グノーシス派的、ヘルメス的な源から導かれた世界観も含まれているからである。

このことは小宇宙と大宇宙microcosm-macrocosm、遠隔作用の原理、精神的世界と肉体的世界の統一、普遍的な共感と反感による万物の間の相互関連の考え、真の数学とか定量化ではなくて、数秘学numerologyの傾向などの考えが関係した中国の世界観と奇妙に似ている。

今までのところ、英国のパラケルスス学派の一人ロバート・フルッドが「ヴォランテイvolunty」と「ノランテイnolunty」という二つの言葉をつくり出すというところまでこの相似性が進んでいて、彼がもし陽と陰の存在について知っていたなら、容易にこれらを選ぶことができただろう。

時とともにパラケルスス派の人たちまたは「化学者chymists」は、伝統的な植物からの薬物pharmacopoeciaに固執している「ガレノス主義者」とするどく対立し合ったが、これは17世紀の終わり頃の有名な論争である。
東方の文明ではギリシャ医学がラテン時代のヨーロッパに遺贈した金属性または鉱物性の薬品に対して偏見がなかったので、この論争は生じようがなかった。

しかし、われわれにここで関心があるのは、中国でも医化学的な活動があったという事実で、ただずっと早く始まっている。
おそらく生化学の誕生前の歴史のすべての中で、もっとも重要な成果とされるものがつくり出されたのだから、ここで、もう少しこの点を述べておかなければならない。

このことを理解するためには、中国の錬金術が唐代とその後にわたって発展の道を追求していたが、二種類のまったく異なった考え方と活動を発達させたことを知っておく必要がある。

それは「外的不老不死薬=外丹」と「内的不老不死薬=内丹」とである。前者は、動物や植物からの産物ともども金属やその他の無機物質から得られた、長寿のためのすべての調剤のための標準的な用語である。後者は、外側から薬理的に人間の身体に作用しようと試みても何も重要なことは起こさせることができないと述べるようなすべての学派----この学派は多数あり、結局は数のうえでこちらのほうが多数になるのだが---のことを意味している。

この人たちの考えでは、必要とされるのは身体そのものの組織と体液から、不死への真の有機的な不老不死薬をつくり出せるようにするいろいろな特殊な修練を行うことである。
これらの手段は手の込んだものだが、本質的には精神的・生理的なもの、つまり、瞑想的なもの、呼吸の調整に関するもの、身体の鍛錬、光による治療、性的なものであった。これらはすべて「唯一の真の実験室は人間自身の身体である」という信念のもとに行われた----つまり身体とは、「反対物の結合conjunctio oppositorum」がおこる反応容器であるという考えである。

この中国の体系はヨガに似ていることがわかり、インドとの関係を指摘するのは容易だが、この伝達の方向と範囲はまだ明確ではない。
いずれにしても、中国の概念は、インドの人たちの心のどれよりも明確により唯物的で「生化学的」であったが、それは中国の人たちは不老不死薬を「自分の身体でつくられる医薬」として確実に化学的なものとして描いたからである。




備考事項内丹術
外丹には水銀化合物や砒素化合物が含まれ、強い毒性があったと考えられる。煉丹術の流行により水銀や水銀化合物を服用して逆に命を縮める人が後を絶たなかった。そのため宋代には鉱物性の丹薬を作る外丹術は衰退していき、唐代より次第に重んじられるようになった内丹術が主流となっていった。外丹術は不老長生の薬を作るという本来の目的では完全な失敗に終わったが、中国の医薬学と化学の発展に貢献した。

みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-20 09:00:00 | アルケ・ミスト
不老不死elixirという言葉の語源は、伝統的にギリシャ語のxerionからとされ、これは傷の上に振りまく薬効のある粉、または、卑金属を金に変える粉である。

しかし、現在、この言葉は中国語の起源、おそらく薬剤、ないしは液汁からということが、少なくともありそうに見受けられる。
これらの語句の最初の語は、古代の中国の発音ではkで終わっていて、それでiqsirのqが説明できる。
この点がどうであっても、中国の原始化学は、マクロバイオテックな先入観を一貫して強調しているものの中で、ずばぬけた形の最古のものであることは間違いない。

「物質不滅性」、通常の死すべきものの必要や制約に束縛されないで、いつまでも自然の美を地上で楽しみつづけることができるようにする肉体と精神の霊化という概念が中国にのみ存在していた。

ここで二つの点を強調する必要がある。
第一に、冒されることのなに金属である金の精錬とこの世の生活での消滅することのない生命の獲得との結びつきは、われわれになんらかの知識のあるもっとも初期の錬金術(厳密にそう呼んでよい)----中国では紀元2世紀----に始まった。
第二は、何世紀もの間の金と不死との想念の連関から生まれた考えで、さびて腐食するすべての他の金属は、死の定められた人間と同じ病にかかっていて、「賢者の石philosopher’s stone」と呼ばれるようになったものは金属に対してと同じように人にとっても至上の薬であるというものである。

旧世界での化学の誕生前の歴史を簡単に描こうとすると、そのまとめは次のようなものになるであろう。

約半ダースほどの地域的・時期的な段階を区別しなけてばならない。
もっとも起源に近いところから始めて、ギリシャまたはギリシャ・エジプト的な原始化学的な伝承があり、紀元1世紀から始まって、ビザンチンの文化まで続き、11世紀に終わるもので、この時期から現在のもっとも古い写本原本がわれわれに伝わっている。
少なくともこれは哲学的な記述だが、純粋に実際的な化学的・金属学的技術(つまり、金を模倣するうえでの)に関するもっと以前の写本があり、紀元3世紀のパピルスが中心となっている。
この実際的な伝承は、大きな断絶なしに750年頃ラテン語へ翻訳された「着色への合成Compositiones at tringenda」と、1000年のすぐ以前のテオフィルス・プレスビターの技術的な本を通して、11世紀までつづいた。
これらのどれも完全な意味では錬金術ではなく、それはここにはマクロバイオテックな成分が欠けているからである。ひとびとは金を模倣したり、それの人工的な形のものを造ったと信じていた。

しかし旧世界の別の端の方の遠い地域には、不老不死薬または不死への「生化学的」医薬が人工的な金製造と密接に結びつけられている別の伝承があった。
これが中国の錬金術で、これは他のすべてのものの祖先である。
ここで、すべての文明におけるこの主題に関する最初の本、紀元142年の魏伯楊による「参同契」、また後になって848年に、すべての文明における化学的な主題に関する最初の印刷された本、コウカンキの「懸解録」が生まれ、これは重金属による不老不死薬の毒作用に対する植物性の解毒剤に関するものである。
今までのところでは、中国の錬金術とギリシャ・ビザンチンの原始化学との間にある先行や平行関係についてごくわずかのことしか理解されていない。

哲学者のスウエン(B.C.300頃)がデモクリトス学派のメンデスのボルス(B.C.200頃)よりも先行しているのは、紀元前3世紀の「考工記」の金属学的な化学が3世紀の実際的なパピルスよりも先なのとちょうど同じである。

言い換えると、両者の間には密接な平行関係がある。

金と不老不死薬との間の明確な関係を最初に述べたものが李少君(B.C.133)の言葉に認められ、次の世紀の半ばにはラリッサのアナクシラウスとその一群の人たち(ユダヤ女マリア、偽クレオパトラ、コマリウスなど)の著書が現れて、化学的な器械や技術の起源としてもっとも価値が大きいものだが、基本的には無機化学への傾向が強く、「自然学と神秘学(Physika kai Mystika」は、魏伯楊のような基本的に不老不死薬に関する書物ではない。

ちょうど同じ対照が、紀元3世紀の二人の体系化した偉大な人、つまりエジプトのパノポリスのゾシモスと中国の葛洪カツコウ(抱朴子)の間にも
成立している。
また、これはその約2ないし3世紀後に活躍した人たちについても例証できることで、新プラトン派のオリンピオドロスとアレキサンドリアのステファノスで、他方は偉大な錬金術医の陶弘景と孫思バクである。

最後に、われわれのギリシャ的な原始化学についての資料が紀元1000頃の日付があるのと同じように、「道蔵」(道教の著述全集)の最初の決定的な集大成で、錬金術の多数の本のもととなるものは1019年にできて、その最初の印刷が1117年であることも、奇妙な一致がみられる。

それでも、中国の錬金術の黄金時代は唐王朝(620-900年頃)の時代に対応している。これは孟? 梅彪 趙耐菴などの人たちが活躍した時代である。
アラビア文化圏の錬金術が中国から強く影響をうけたことは現在きわめて明白なので、以前考えられていたように、7、8世紀に栄えたのではなく、むしろ9、10、11世紀に栄えたという事実にさらに重要さを加えることになる。

900年ごろに、活動が急にさかんになったのは証明できることである。
ジャービル全集の多数の著作が出たのは偉大な錬金術師のアル=ラジー(al-Razi、860-925)の生涯とほぼ同時期だが、これらは彼とはまったく無関係で、むしろシンセリテイーのブレスレン(イクホワン・アル=サファー)として知られているクアルマテイアンの科学者たちに関係がある。

これは、またイブン・ウマイルの神秘的な錬金術と、ラテン語で、「哲学者の群turba philosophorum」として知られる著作の大成された時代でもある。後の本はソクラテス以前から後の期間ずっとアラビア人が知っていたすべての自然哲学者の意見のいきいきとした叙述の形をとって、空想的な国際的な1種の化学の学会である。

一世紀後に、偉大なイブン・シーナとアル=マジェリテイーの活躍があり、そしてフランク王国やラテン系の西部での真の錬金術の幕が上がる時期に近くなってくる。





みち草・・・・「生化学の歴史」

2013-01-19 09:00:00 | アルケ・ミスト
さて、みずからの努めはサイクル、より正確にはリ・サイクルより精確をきせばリ・ソースにあると見定めた。
それらの多くは取捨選択された結果として、劣化の恐れがある事は広く知られている。
心してまいりたい。


われわれの主題は、境界領域としての魅惑的な関心の的であるが、今までのところ驚くべきことにフリッツ・リーベンによるしっかりした本(Lieben、1935)が一冊あるだけである。
おそらく(ミクラシュ)タイク氏が別の一冊をわれわれに提供してくれることであろう。

ずっと以前の状況にふれることもあるかもしれないが、この本に効果的にとりあげられた主な問題ははぼ1800年以降の事件に関したものである。

それで、以下の中心的な言葉----プネウマ--元素--体液--クラシス--第5元素--不老不死--結合--酵素----について少しずつ述べてみることにしよう。

「生命の息(breath of life)」について、どれほど多くの本が書くことができるであろうか(もちろん、書かれてきている)。
呼吸を生命と、また呼吸の停止を死と結びつけるのは、歴史上のもっとも初期のころ、またそれ以前から伝わってきたもので、身体、そのすべての器官、組織の機能が、見ることのできない多数の息の動きと本性の立場から考えられてきたことは、まったくたやすく理解できることである。

このプラウマ的な原始生理学と原始生化学は、旧世界のすべての文明に共通である。というのは、ギリシャのプラウマ(pneuma)はインドのプラナ(prana)、中国の気、また後代のアラビア語のルー(ruh)に同等であることがくわしく明らかにされてきている。

この概念の普遍性から、今までのところアッシリア学者はそのための十分な証拠を見つけ出すことはできないにしても、それが肥沃な新月状の地帯に起源をもち、あらゆる方向にひろがったとの考えが信頼をもてるようになっている。

古い頃には、インド人は、5種類のプラナを、中国人はもっと多くのものを数え立て、それを定義づけようと努力した。
1500年もの間、ヨーロッパの考えでは、精気spiritについてのガレノスの説が支配的であった。

プネウマ、つまり精気は、周囲の空気から肺を通して入ってきて、肝臓の作用で食物からつくり出されるプネウマ・フュシコンpneuma physikonつまり自然精気と結合して、プネウマ・ゾーテイコンpneuma zotikonつまり生命精気をつくり出す。
自然精気は、潮の干満とともに心臓の右心室から静脈系を通して分散され、生命精気は、左心室から動脈を通してひろめられる。
同様に、脳の作用のもとに、生命精気は、プネウマ・プシュキコンpneuma psychikonつまり精神精気に変えられ、それは神経を通して身体の全部分に分配される。

ここは、もちろんアリストテレスの「霊魂」の理念と関係がある。というのは、自然精気や生命精気は植物霊魂psyche threptikeの水準にあり、動物精気は感覚霊魂psyche aisthetikeの領域にあるのであるが、理性霊魂psyche dianoetikeは、本質的に精神的なものだから、物質的な精気の世界には相当するものが存在しない。

古代中国の理念は、以前に考えられていたよりもギリシャのものにずっと似ている。というのは、アリストテレスとちょうどおなじ頃に、筍卿やその他の人たちが「霊魂の階梯」を考えたからである。
つまり、気、生、知、義が、それぞれよく似た上昇を示している。

われわれの現在の立場からすると、「霊魂」は、生命のいろいろな水準での特定の機能につけた名前でしかないことになる。しかし、今でも、卵の黄味質の極を「植物」極とといい、神経系の部分に「動物」極などという名が保存されている。

ルネッサンスとともに、硝石に似た何かが外気のプラウマとして認められ、パラケルススが推測し、メーヨーが証明した「含窒素空気粒子nitroaerial particles」が、18世紀の「プネウマ」化学の発展へと道をさし示した。
一方、ヤン=バブテイスタ・ファン・ヘルモントJohn-Baptista van Helmont、1579-1644)は、おそらく他の誰よりも近代生化学全体の父であり創始者と呼ばれるに値する人だが、彼は古代のプネウマの概念を自分のガスgasとブラスblasの2つに明確に分けた。


彼が炭酸ガスを確認した後は、道ははっきりとプリーストリー、キャヴェンデイッシュ、ブラック、そして生物体内でのガスの通過と運送、細胞自体の呼吸、その中で進行してエネルギーを供給している酸化-還元反応の本性についてのその他のすべての近代的な発見へと導かれていったのである。


ファン・ヘルモントのブラスは、もっと精神的な精気について話す別のやり方であり、パラケルススと中国人がすべての器官の活性を統括するもの(現代的な工場の大きな広間で自動化された活動を、ガラス箱の中の器械の指示器な並んだ前に座って、高みから調節している人のようなもの)と考えたアルケイarchaeiをも含めたものである。
このようにして、彼らは巧みに、機械論者と生気論者の間の論争という哲学的な循環経路を、物質についての討論から断ち切ったのである。

19世紀初頭の自然哲学の時期、ヴェーラーによる尿素の合成のとき(この後の7章)、リービッヒとパストールの論争(第3章)、あるいはまた、肺に想定されたガス分泌活性によってひき起こされた今世紀での場合など、これらの論争はいろいろな時期に顕著になってきた。

しかし、構造の研究が複雑な分子にまでひろがり、化学的な過程が神経の活動に不可欠な基盤にまで達していいるように(第4章)、いろいろな水準での体制の普遍性が認められとともに、今日まで、この議論には以前のような厳しさはほとんど失われてしまった。



中国においても、時代とともに、気はますます物質的なものとなってゆき、(その表意文字の語源から知られるように)煮えた米から立ちのぼる湯気としてはじまったが、12世紀までに、これはどんなに大きなものも含めて、すべての種類の物質を意味することになってきた。

当時は、中国のスコラ学者たち、新儒学派が科学的な世界観をたった二つの概念にもとづいてつくり上げることができた時代である。

一つは気で、われわれなら物質エネルギーとでも呼ぶべきもの、もう一つは理で、それが現れているならどこででもすべての水準にみられる、有機的なパターンとでもいうようなものである。

気の追求は中国人に紀元1325年ごろの蒙古の医師による欠乏症の発見(第6章)などのすばらしい発見へと導いた。
この人は元の4代の皇帝に仕えた王室栄養士忽思慧コツシケイで、食事だけでどんな薬も用いないで全治できる病気、たとえばビタミンB欠乏症の末期状態などの病気があることを観察している。彼の著書「飲膳正要」は今でも保存されている。

すべてのこれらの精気の考えの遺産は、われわれの言語にも考え方にもぬぐうことのできない痕跡を残した。
こうしてここで私がこれらの言葉を書いているときにも、建築職人は、庭の壁の向う側で「元気を出して(in high spirits)」大声で歌っているし、新聞には、火星上にメタンとアンモニアが存在している----したがっておそらく「生命」も----というマリーナ7号から送られてきた証拠が述べられている。



編者Noel Joseph Terence Montgomery Needhamケンブリッジ大学で医学を専攻。在学中、ノーベル賞受賞者のホプキンス教授との邂逅をきっかけに生化学を志し、発生生化学者の権威となった。1930年代後半より中国における科学発達史に関心を持ち始め、中国に4年間滞在。以後、前人未踏の中国科学史の研究に没頭する。1965年、ニーダムはケンブリッジ大学ゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジの学寮長に選出された。

みち草・・・・サイクル

2013-01-14 07:17:30 | アルケ・ミスト
わたしの問題点は,身近なテキストに垣間見ることができる。
その1つが「生命物質」(丸山工作 NHKブックス)、その「あとがき」を記しておく。


私事にわたって恐縮であるが、文筆一本で私たちを育ててくれた父丸山義二がこの4月はじめに脳出血で倒れた。
以前、父はいつも私のいたらない文章をぶつぶついいながら直してくれたものだった。
一時快方にむかった父が、私に「NHKの本」はどうなったかなときいた。そのとき、もし親孝行ができるとしたら、この本をかいて父に校正をみてもらうことだと思った。
そこで、教室主任でかつ学生係とあわただしい日を送っていたが、寸暇をさいてなんとかかきあげた。いくぶん知力のおとろえた父は、かさばった原稿を手にとって、「よかった、よかった」と自分のことのようによろこんでくれた。
けれども、まもなく2度目の発作におそわれ、もう校正をみてもらうわけにはゆかなくなった。

本をかくことに生き甲斐をもちつづけた父に、この本を捧げたいと思う。

丸山義二略年表
1903年 2月26日 兵庫県揖保郡誉田村高馱80番地 (自作農家)丸山熊太郎-りくの長男として生まれる。

1916年      父熊太郎の急死、中学校2年で退学し、農業に従事する。その傍ら龍野物産醤油会社の給仕としてつとめる。

1919年      鶏籠詩社をおこし、同人誌「鶏籠」を創刊、発行兼編輯人となる。号を哀花とする。

1921年      上京、神田の外語学校へ通う。

1926年      萬朝報社入社、学芸部に配属。

1927年      佐竹薫三の長女喜美恵と結婚する。

1930年      「農村を語る」随筆集を処女出版。日本プロレタリア作家同盟に加盟する。
         次男工作誕生、6月。

1935年       雑誌「文学案内」の編集にたずさわる。
         四男匠誕生、5月。


1940年      「庄内平野」を出版

1942年      日本文学報国会の創立、農民文学委員会委員、大陸開拓文学委員会委員となる。

1954年      日本農民文学会設立に参加
1957年      日本農民文學会事務局長に就任。
1963年      日本農民文學会会長に就任。

1979年      心不全のため自宅にて死去。76歳。


ところで丸山工作は「父子相伝」という短文を残している。
そこで触れられていることだが、“私の名は、政治工作によって社会主義国家を打ちたてようという当時のスローガンによったとのことである。”と記されている。

その最後にはこう記されている。

生化学の研究に夢中になってからは、英文論文を別として物書きから遠ざかった。
ところが、「大学紛争」で研究が中断され、見回りや会議と新聞の切り抜き作りしかやることがなくなってしまった。しかたなく、尊敬していた生化学者の論文を読んで、人と仕事を自分なりにまとめてみた。

父は「自然」誌に連載した伝記の校正に朱筆を入れてくれた。
「どうにもこうにもなっておらん。科学者でも何をいいたいのか、読者にわかるように書かなくては!上手下手は二の次。書き手だけがわかっているのは下の下だ!」

私は40歳にして文章修行を始めたが、いささか遅きに失した。下手ながらも、せめてわかりやすいようにと努めている。医学者になった息子にも同じことをくりかえしている。


たつの市と言えば「赤とんぼ」がよく知られているけれども、そこには俳句が忍び込ませてあることについては既にふれたので、ここでは割愛する。

 

みち草・・・・サイクル

2013-01-13 09:00:00 | アルケ・ミスト
穏やかな日和に誘われて、総合公園の周縁に至り腰を下ろした時に、鴨たちが一斉に移動を始めたその時、笛を吹くような音がした。
パートナーが珍しくも松山市考古館へ誘ったので立ち寄ってみた。

干支展にはあの上黒岩陰遺跡から犬の骨が展示されていた。8000年前のものである。

森閑とした館内を巡って、その奥深くひそと壁際に展示されているレプリカに見入った。

「瀬戸風峠遺跡」である。
見入ったのは木炭床。その発掘成果の報告書を開架図書に探したが見当たらなかったので、案内を乞うた。

まもなくして学芸員が現れて、絶版となった資料は県立図書館など2箇所にあると案内した上で、その概要を説明してくださった。

2、3の質問に答えるかのようにコピーサービスを申し出てくださったので有り難く、お受けさせていただいた。

驚いたことには、化学の領域に関してもコピーしておきましたと分厚い史料を作成してくださった。

その詳細はおくが、知れば知るほど、しんかして謎は深まるばかりとの感想を抱いた。


概要を記しておく。

木炭床  直径0.5~3.0センチ   長さ2~9センチ  厚さ5~8センチ
     コナラ属 クヌギ節  (クヌギ アベマキ)
     酸-アルカリ-酸洗浄 ベンゼン合成
     暦年代  630-770
植物珪酸体分析  微化石(プラントオパール)
     稲藁 ヨシ属などの茎葉などを、持ち込まれた可能性がある。

注意するべきことは、追葬がなされていたらしい。
それがプロの直感というものか。つまり羨道の入口付近の有様から推察して、その遺骸は消えてなくなっているというわけである。

勿論そこには木炭床があるわけでもないのだから、偶然というよりも必然ともいうべき比較対象実験の結果ともいえる。

まだまだこの遺跡からは多くの情報が得られるものと期待できるが、それには先立つものが必要でもある。
伸君のこぼした心境を察して余りがあったのはこの瞬間であった。

学芸員さん並びにそこに従事されたボランティアの皆さん、有難う御座いました。
  

人骨   頭蓋骨 西  焼いた形跡なし  大腿部 上腕部 前腕部これらは一箇所に集骨  そして歯
     若い男性(田中良之)追送者不明

副葬品  須恵器 土師器 耳管 勾玉など






芭蕉や蕪村の俳画などを観覧してきた。

当日は“Music in Museum by 出光”「心の風景」そこではピアノ上杉春雄による《心と行いと生活で》に含まれている演奏曲目などの熱演が印象深かった。
最後はギター鈴木大介、チェロ木越洋とともに、「いい日旅立ち」、今日のバージョンをもって締めくくられた。 

    初しらべ すみにじみいる 文人画
    


お悔やみ
韓国俳句研究院 院長 文学博士 郭 大基先生の御母堂様が昨年の末に亡くなられました。


 初しらべ みなよをさりてさびし月

みち草・・・・サイクル

2013-01-12 09:59:49 | アルケ・ミスト
わたしのテキストは問題の書である。
その一つは「俳句の世界」発生から現代まで;小西甚一著 研究社出版 1981年3月20日

専攻は日本中世文学、比較文学で、飯尾宗祇の連歌や世阿弥の能等。また、俳句研究にも造詣があり、松尾芭蕉に関するものも多い。


日本の文化について外国の人と話すとき、俳句のことを抜きにしては動きのとれない場面が、しばしば出てくる。
専門の研究者を相手にするときは、むしろ必須の話題といってよろしい。
いま欧米の大学で博士論文に取組む人たちの間でいちばん多い題目は連歌、その次が「源氏物語」、その次が能、さらにその次が俳句といったところらしいけれど、およそ日本文学を専攻しようとする人であれば、論文の題目がなんであれ、俳句についてひとわたりの知識をもつことは、むしろ当然の要件であって、こちらはどうしてもそれを上廻る知識がないとお恥ずかしい次第なのである。



昭和22年度の東京高等師範学校で講義した「俳諧史概説」であった。
昭和21年にはじめて教師となったわたくしは、その年には「万葉集」と「奥の細道」だけの担当だったが、第一時間に「月日は百代の過客にして、行きかふ人もまた旅人なり」が李白の「春夜宴諸従弟桃李園序」に基づく文章だ・・・・と説明したところ、学生が「先生!芭蕉ほどの俳人が李白の文章を横取りするとは、けしからん事ではありませんか」と質問した。
わたくしは返答に困った。それは3年生のクラスであったが、戦時中は勤労動員のため授業がなく、1年生も4年生も同じ程度の学力だったのである。
これでは話にならなにと思ったので、次の学年には、俳諧のそもそもの起こりから、馬鹿ていねいに講釈した。その講義ノートが学生文庫の原稿になったわけである。
話しことばで念を押しながら説得していく口調をところどころ入れたのは、そのときの講義の記憶をいくらかでも残したかったからである。



既に触れた芭蕉、元禄2年のことに関しては、次のように記されている。
61) 閑かさや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉
を得た。
この寺は、全山が岩であり、その上に松柏が茂ったところである。どこの院も扉を閉して、もの音ひとつ無い。その静かさは、鳴きだしたひとつの蝉声によって、いっそう静かである。その声が澄みきるとき、いつしかあたりの静寂に触けことみ(ママ)、蝉の声としては聞えない。
全山の岩も、この声でない声のなかで、大きい静寂のひとつになってゆく-----。
名句中の名句である。

芭蕉は、発句に両様の表現技法があることを述べた。
ひとつは、配合の技法。他のひとつは、黄金を打ち延べたるごとき技法である。この句は、黄金うちのべ式の代表的好例だといってよい。
さきにも引いたドナルド・キーン教授の「日本文学史」近世篇上(162ペイジ)では、この句にイの響きが6回も使用され、特殊な効果を挙げた実験的な試みだと指摘する。

さて、、芭蕉は6月3日、羽黒山にのぼる。
このとき、圖司左吉(呂丸)に会った。かれは、たいへん熱心な俳人で、芭蕉にいろいろ質問し指導を受けた。
その俳談がもとになって、呂丸は、のちに「聞書7日草」を書いた。

これは山崎喜好氏がはじめて学界に示されたもので、おもしろい資料である。
なぜなら、そのなかに、有名な不易流行説の原形になる思想が見えるからである。

呂丸によると、芭蕉は、このとき「天地固有の俳諧」とか「天地流行の俳諧」とかを説いたらしい。
山崎氏は、その「天地固有の俳諧」が不易に「天地流行の俳諧」が流行にあたるのだと解釈された。
これに対し、わたくしは、両方とも同じもので、不易にあたるのではないかと異論を提出した。

どちらが正しいかは、その後およそ30年をへたけれど、まだ学界が裁定をくだしてくれないので、わたしにもわからない。
とにかく、重要な資料であることは、確かである。
鶴岡から酒田におもむいた芭蕉は、象潟にあそび、鼠の關をこえて越後に入り、新潟を経て、7月4日、出雲崎に来た。




みち草に過ぎた。
さいげんもない芭蕉を離れるに際して記しておきたい事は、松山と言うよりは伊予にゆかりの芭蕉像である。
それが芭蕉めざめる「芭蕉はなぜ隠密になってしまったのか?「奥の細道」というミステリーが始まる。これは俗説に挑戦した、芭蕉の専門家のその嚆矢である。








みち草・・・・サイクル

2013-01-06 11:09:30 | アルケ・ミスト
お正月の楽しみも終わったけれども、楽しかった思いが反芻されてくるのは否めない。

それらの1つは茶の間のできごとであり、ともに見たテレビ番組でもあった。

「和食」を世界遺産へと意気込む、その舞台裏を垣間見た。
中でも縄文文化文明が息づいている奥松島縄文村などのからの発掘史料をもとにしての時代考証は、豊かな食材のみならずその交易を伺わせる。
海の幸と山の幸との交歓、文化文明の奥ぶかさが透けて見えてくると感じさせられた。

さらには小山修三先生自らが調理してみせた「縄文鍋」には、あの縄文土器の複製品が使われていたのだが、そこに漆加工された土器も登場した。

調理用具は煮沸用の大型甕(かめ)、個人用の小型椀。木製の漆塗り皿、杓子、スプーン(もちろん、地元の陶芸家やボランテイアが作った復元品である)。次に食材としてクリ、ナラタケ、ナメコ、ミズ(ウワバミソウ)、タケノコ(ネマガリタケ)、ヤマブドウ、アサリ、カキ(牡蠣)を用意した。これらは今も青森の市場で手に入るもので、森や草原でも注意すれば普通にある野生食である。「縄文鍋 」


我が国には、多様で豊富な旬の食材や食品、栄養バランスの取れた食事構成、食事と年中行事・人生儀礼との密接な結びつきなどといった特徴を持つ素晴らしい食文化があり、諸外国からも高い評価を受けています。

一方で、世界では自国の食に関する分野をユネスコの無形文化遺産として登録する動きがあり、フランス美食術、地中海料理、メキシコ、トルコの伝統料理が社会的慣習としてすでに登録されております。
日本の食文化については、世界的に見ても特徴的であり、これが無形文化遺産と認められることは世界の文化的多様性を豊かにすることともなり、非常に大きな意義を持ちます。
このようなことから、我が国においても日本食文化の無形文化遺産登録を目指し調査・検討を重ね、本年3月にユネスコへ登録の提案を行いました。
今後は、ユネスコの検討・審査を経て、最短で平成25年秋に可否が決定される予定です。
「日本食文化の世界遺産化プロジェクト」

ところで松島を過ぎたあたりからの芭蕉の俳句が変わったのではないかとも言われている。

そもそも、ことふりたれど、松島は扶桑第一の好風にして、およそ洞庭ドウテイ、西湖を恥じず。

云々と続けて「松島や鶴に身を借れほととぎす 曽良」

余は口を閉じて眠らんとしていねられず。
旧庵を別るる時、素堂、松島の詩あり。原安適、松が浦島の和歌を贈らる。袋を解きてこよいの友とす。かつ、杉風サンプウ・濁子ジョクシが発句あり。「おくのほそ道」(角川文庫426)

芭蕉が詠んだのは平泉

夏草や兵ツワモノどもが夢の跡

さて、問題は立石寺である。

山形領に立石寺という山寺あり。
慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとって返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉じて物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ。

         閑シズかさや岩にしみ入る蝉の声


そこでは音感から読み解かれた鬼怒先生の、ローマ字表記によるアイ、i音が特別な効果を演じているとの指摘が話題となっていた。
断るまでもないけれども鬼怒先生とは鬼怒鳴門(きーん どなるど)にほかならない。


何時の事であったかは思い出せないが、この遺産に関して拡散・浸透させた私案を投稿したので、ここではその思考停止状態をくどくどとは申し述べないでおくが、音感を大切にした芭蕉ならば「岩」をishiと読まれることを拒まないのではないか?

そのことはiの連続音効果がさらに増してくるのみならず、彼の大転換点となった蝉吟の追悼句としての色彩さえも帯びてくる事となる。

つまり、外なる世界と内なる世界の拮抗した緊張の、「内外ウチトの境内」で“さまざまなこと思い出す桜哉”とも、響きあえるような「俳句の世界」を変えてゆくように想えたのだ。

              zyukasaya shiiru semnokoe