ギリシャ時代の原始化学の集大成には、何ものかの少量が、大量のものに作用してこれを貴金属に変えるという考え、後に卑金属から貴金属への変質projectionと呼ばれる過程が、すでに完全に存在していて、少量のもの(後の「賢者の石」に対応する)の作用は、酵母maza、azymonの作用に似ていると考えられる傾向があった。それで、ゾシモス(300年頃)にとっては、この変質の効果は発酵であった。
変質というこの同じ考えが、紀元前1世紀という早い時期に中国で見出せるというのは格別な、しかしほとんど知られていない事実である。
しかし、西方へ伝達されたのか、中間に共通の起源があったと考えるべきかは確かではない。
中国の文献と、ギリシャ・ビザンチンの記録から、冶金の「発酵素」の考えが、アラブの錬金術に伝えられ、そこでは、すべての記録----つまり、ジャービル全集とイブン・ウマイル、また「哲学者の群」と11世紀の「明盤と塩の書」----にこれが示されている。それから、1300年頃にケベルへ、また14世紀初期のヴィラノヴァ全集へと伝えられ、その中でマッサmassaが発酵素としての賢者の石についての普通の表現となり、そこでも金や銀がその組織の中の成分として必要だと考えられていた。
事実、語源の恣意的な解釈によれば、錬金術alchemiaはalchymum(無酵母パン、azymon)から由来するとされ、そのため偽アルベルトウスの14世紀初期のビザンチン・ギリシャの翻訳におけるように、すべての化学は「酵母の技術(maza pragma)」と同義である。
ある一つのことが限りなくそのものの内容を豊かにするようなこの複製の過程は、たしかに奇妙なものだが、自己複製するリボ核タンパク質について現在知られていることの古代での前兆であることはあまり認められていない。
おそらく、「錬金術師は現代の化学とは正反対の道を進んだが、それは、われわれが生物の過程を化学の用語で説明しようと追求しているのに対して、彼らは逆に無機の現象を生物学の用語で説明したからである」という真理を、このことが十分に例示しているのであろう。
しかし、古代および中世初期の人たちは消化と、それがきわだって低い温度で果たす重要な変化について知っていたのだから、発酵素についてもう少し述べておくことがある。
発酵と腐敗に共通したすべての現象は、消化にについてのこの人たちの考えの中に関係づけられている。つまりこの人たちは、賢者の石を熱烈に追求しているときでさえ、ときどき、ある過程を低温でゆっくりと進行させるべきだと確信していた。
発酵中の馬糞を利用して65℃の温度がかなりの期間維持できることが、中世の錬金術師の間で、たびたび利用されたことをこのことで説明できる。
宋代の中国の錬金術師が目当てとする温度に調節できるように冷却用のラセン管というきわだった工夫を思いつかせたのも、同じ先入観である。
さらに奇抜なのは、西欧の錬金術師の中で、とくに7世紀の後半のルル全集の著者たちが自分たちの容器を、身体の器官----胃、子宮、卵、----の形にする傾向で、還流蒸留(蒸留して生じた蒸気を冷却して、もとの蒸留器にもどす)の装置に用いられた当時の一対のランビキ(蒸留器)に、化学結合についての以前からの性的な含意が反映されていることである。
その後の医化学の段階でこれらのナンセンスは放逐され、有機的な生命で生じるすべての反応は、どれか一つの発酵素によって制御されているとファン・ヘルモントが断言した。
彼と彼の後継者は、病気も「なじみのない発酵素」によるものだと考え、これは、この人たちによる生命ある病原体contagium vivumの新しい考え方であった。
ファン・ヘルモントは、身体の中で(消化管内だけではなく)六種類の主要な消化を認めていて、ここでも、中国と西欧の考え方の中での隠れた相似が示されていて、それは、1624年に、ファン・ヘルモントと同時代の張介賓は、中国での当時きわめて古い考えとされていた「三つの煮沸領域」(三焦)の考えを解説した。
このような対応は今後の多くの研究を呼びかけているが、ここではこれ以上述べることはできない。
しかし、有機的な触媒(第1、2、7章)の考えが、何世紀もの間、原始化学時代、錬金術時代のすべての面とからみあって、ずっと古い時代にさかのぼるものだということを理解するのに十分だとわかる。
この国の生化学の創始者で最高位者であるSir Frederick Gowland Hopkinsフレデリック・ゴーランド・ホプキンズの後継者である。
歴史的な関心に値するこの学問に、先生の講義を聞く機会に恵まれた私たちは誰もが記憶している。
醸造工場での「悪性気体wild gas」を明らかにしたファン・ヘルモントの場合とか、壊血病の乗組員をミカンで護ったリンド提督とか、1808年に獲物のシカの筋肉から乳酸を見出したベルセーリウスとか、筋肉労働とタンパク質代謝の関係を確認しようとしてフォールホーンに登った空想的なフィックとヴィスリツエーヌスとか----すべての展望の中に位置づけられ華やかに色づけられていて、われわれの歴史の理解を広めて下さった。
変質というこの同じ考えが、紀元前1世紀という早い時期に中国で見出せるというのは格別な、しかしほとんど知られていない事実である。
しかし、西方へ伝達されたのか、中間に共通の起源があったと考えるべきかは確かではない。
中国の文献と、ギリシャ・ビザンチンの記録から、冶金の「発酵素」の考えが、アラブの錬金術に伝えられ、そこでは、すべての記録----つまり、ジャービル全集とイブン・ウマイル、また「哲学者の群」と11世紀の「明盤と塩の書」----にこれが示されている。それから、1300年頃にケベルへ、また14世紀初期のヴィラノヴァ全集へと伝えられ、その中でマッサmassaが発酵素としての賢者の石についての普通の表現となり、そこでも金や銀がその組織の中の成分として必要だと考えられていた。
事実、語源の恣意的な解釈によれば、錬金術alchemiaはalchymum(無酵母パン、azymon)から由来するとされ、そのため偽アルベルトウスの14世紀初期のビザンチン・ギリシャの翻訳におけるように、すべての化学は「酵母の技術(maza pragma)」と同義である。
ある一つのことが限りなくそのものの内容を豊かにするようなこの複製の過程は、たしかに奇妙なものだが、自己複製するリボ核タンパク質について現在知られていることの古代での前兆であることはあまり認められていない。
おそらく、「錬金術師は現代の化学とは正反対の道を進んだが、それは、われわれが生物の過程を化学の用語で説明しようと追求しているのに対して、彼らは逆に無機の現象を生物学の用語で説明したからである」という真理を、このことが十分に例示しているのであろう。
しかし、古代および中世初期の人たちは消化と、それがきわだって低い温度で果たす重要な変化について知っていたのだから、発酵素についてもう少し述べておくことがある。
発酵と腐敗に共通したすべての現象は、消化にについてのこの人たちの考えの中に関係づけられている。つまりこの人たちは、賢者の石を熱烈に追求しているときでさえ、ときどき、ある過程を低温でゆっくりと進行させるべきだと確信していた。
発酵中の馬糞を利用して65℃の温度がかなりの期間維持できることが、中世の錬金術師の間で、たびたび利用されたことをこのことで説明できる。
宋代の中国の錬金術師が目当てとする温度に調節できるように冷却用のラセン管というきわだった工夫を思いつかせたのも、同じ先入観である。
さらに奇抜なのは、西欧の錬金術師の中で、とくに7世紀の後半のルル全集の著者たちが自分たちの容器を、身体の器官----胃、子宮、卵、----の形にする傾向で、還流蒸留(蒸留して生じた蒸気を冷却して、もとの蒸留器にもどす)の装置に用いられた当時の一対のランビキ(蒸留器)に、化学結合についての以前からの性的な含意が反映されていることである。
その後の医化学の段階でこれらのナンセンスは放逐され、有機的な生命で生じるすべての反応は、どれか一つの発酵素によって制御されているとファン・ヘルモントが断言した。
彼と彼の後継者は、病気も「なじみのない発酵素」によるものだと考え、これは、この人たちによる生命ある病原体contagium vivumの新しい考え方であった。
ファン・ヘルモントは、身体の中で(消化管内だけではなく)六種類の主要な消化を認めていて、ここでも、中国と西欧の考え方の中での隠れた相似が示されていて、それは、1624年に、ファン・ヘルモントと同時代の張介賓は、中国での当時きわめて古い考えとされていた「三つの煮沸領域」(三焦)の考えを解説した。
このような対応は今後の多くの研究を呼びかけているが、ここではこれ以上述べることはできない。
しかし、有機的な触媒(第1、2、7章)の考えが、何世紀もの間、原始化学時代、錬金術時代のすべての面とからみあって、ずっと古い時代にさかのぼるものだということを理解するのに十分だとわかる。
この国の生化学の創始者で最高位者であるSir Frederick Gowland Hopkinsフレデリック・ゴーランド・ホプキンズの後継者である。
歴史的な関心に値するこの学問に、先生の講義を聞く機会に恵まれた私たちは誰もが記憶している。
醸造工場での「悪性気体wild gas」を明らかにしたファン・ヘルモントの場合とか、壊血病の乗組員をミカンで護ったリンド提督とか、1808年に獲物のシカの筋肉から乳酸を見出したベルセーリウスとか、筋肉労働とタンパク質代謝の関係を確認しようとしてフォールホーンに登った空想的なフィックとヴィスリツエーヌスとか----すべての展望の中に位置づけられ華やかに色づけられていて、われわれの歴史の理解を広めて下さった。