「これを、さしあげる」「これとよく似た薬箱を、洪庵先生ももっておられた。私は物に執着のうすい人間だが、洪庵先生の薬箱ばかりはほしいと思った。その後、江戸でもさがしたがどこにも無かった。たまたま長崎にあったので、買った。
洪庵先生の薬箱のように美しいものではないが、それでもこれは私にとって刀より大切なものだ」
「なんのおつもりでございましょうか」
「いやな言葉だが、まあ形見だ」「私には、不要のものになった。私は医学から遠ざかってしまっている」
「とんでもない」「村田先生は、医学者でございます」
蔵六は、だまっている。
薬箱が、卓上にあって動かない。
外輪が、潮を掻きあげている。
その音が、わずかに船窓を圧して蔵六の枕頭をひびかせていた。蔵六は小ぶりな、しかし筋肉のくろぐろとしたいっぴきのおとことしてベッドのなかにいた。
イネも、医学の話をわすれた。イネはシーツをかぶり、顔を両手でおさえながら、おんなであることを続けていた。
蔵六は、無言でいる。
神のように無言でいることが、イネにとって宇宙を感じさせた。イネのいる宇宙は際限もなくひろがっており、しかもおどろいたことに閃々と光り、さらには大小の戦慄をともなった。]
神聖行事に似ていた。
蔵六が、イネに言いたかったのは、自分の寒い一生のなかで、イネの存在というただ1点だけが暖気と暖色にみちているということを言いたかったのだが、それをぬけぬけという衒気は蔵六になく、あとは闇の中で沈黙しているだけであった。
「この船は、闇夜も進んでいるのだぁ」
情勢は、転々とした。
この慶応3年の10月、土州の坂本龍馬が立案して成功せしめた大政奉還という異常事態があり、このため武力革命の計画は一時停止した。
蔵六は7月27日朝、東京を発った。
かれはなにか虫がしらせたのか、平素多忙のために手紙をやることもなかったのに、横浜のイネに対し、「京へゆく」と書送っている。
イネはその場から東京に発っている。
翌未明に蔵六の仮寓所の門前に達すると、ちょうど蔵六が旅支度で門内から出てきたところであった。門人二人、若党一人をつれている。
だまって門内にひっくりかえすと、すぐ両手に書物数冊をかかえて門前にもどってきた。外科書と産科書であり、蔵六自身のオランダ語による書込みは無数にあるという古ぼけた本であった。蔵六はこれを差しあげます、とイネに渡した。
「-----どうして」このようなものをいまになって下さるのですか、と詰問しようとしたが、蔵六の影はそれには答えず、この書物についての説明をわずかに述べたあと、会釈もせずイネから離れ、そのまま影のように去ってしまった。
佐久間象山は馬の前脚を斬られ、落馬したところを殺された。
蔵六のこの宿の前である。象山がこの現場で遭難したのは元治元年7月で、蔵六のこの時期とは5年のへだたりがある。わずか5年ながら、日本は一変した。維新政権が成立した。
が、相も変わらずに存在しつづけているのが、象山を殺した情念としての土俗ナショナリズムであり、この連中は幕末では草莽の志士として主として暗殺屋をつとめ、維新成立後は政権からはみ出していよいよ怨念を深くした。
蔵六をつけねらったのはその手合いである。幕末をへて暗殺戦術も発達しており、その行動は組織的であった。時期は薄暮をえらんだ。
蔵六は、宿に帰っていた。かれは2階の奥の間で、たまたま訪ねてきた門人の洋学者安達幸之助と長州藩大隊司令静間彦太郎と歓談していた。
土鍋に昆布が布かれ、豆腐のほかに揚げ豆腐も入っている。蔵六はすでに銚子2本をあけて、3本目をひざもとにひきつけている。
安達が、さかんに英語の必要を論じ、静間と蔵六が、聴き役にまわっていた。そこへ突風のようの刺客がとびこんできたのである。午後6時すぎであった。
江戸初期まで日本には刺客というのはあまり存在せず、たとえば元禄期の赤穂浪士などをも刺客に含めるとしてもかれらは堂々と自分たちの名を名乗っている。正々堂々というのは鎌倉以来の武士のモラルであったが、幕末においてそのモラルは消えた。
訪問客に偽装して偽名を名乗るというのも、かつて坂本竜馬が暗殺されたときの型である。
「萩原俊蔵」という偽名を名乗った。坂本事件のときもそうであったように、団たちは名刺をさし出し、「大村殿にご面会したい」といった。
階下で応接に出たのは、若党の山田善次郎である。善次郎は、疑わない。2階にあがって蔵六に取り次ぐと、蔵六もまったく疑わなかった。このとき蔵六ふうの明快な回答をあたえている。
「いまは夜分であるから会いませぬ。その用件がもし公用ならがあす役所へ参られるように。もし私用ならがあさって参られるように。あさっては宿におります、とそう申せ」と、刺客に言うべかざる内容を簡潔にしかし明瞭にいった。
若党の善次郎がふたたび降りてきて、その言葉どおり第一組の刺客たちにいった。
そのうちの一人が表へ出て、「いるいる」と、第二組へ合図をした。
もどると、一人がなお善次郎と押し問答をしている。善次郎が応対をうちきって奥へ入ろうとしたとたん、背後から斬られた。善次郎は即死した。
その叫びが、2階にきこえた。
2階の別室にいた兵部省作事取締吉富音之助という蔵六の門人がとびだして刺客と一人と争闘した。刺客のうち二人ないし三人が、蔵六の部屋へとびこんだ。
蔵六は、床柱の横ですわったままでいた。(うごいても仕方がない)とおもったらしい。さらには、この闇溜まりにじっとしているほうが安全であるとおもったらしい。床板が抜けるような騒ぎである。蔵六はまっさきに右前額と右コメカミをやられ左倒しにたおれたが、まるでダルマのようにすぐすわりなおした。ついで思わず左手をあげたとき、手に微傷を負った。もういいだろうと思って立ちあがったとき、右のモモをやられた。骨には達しなかったが、この傷だけが大きかった。
が、やった犯人が、叫びをあげて東窓から蹟へととびおりてしまった。
蔵六はそのまま階下へ降りた。
かれは風呂場に入り、羽織を裂き、まず出血をとめようとした。消毒すべき焼酎がない。家人をよぼうとしたが、逃げているはずがなく、また声をあげれば居残っているかもっしれない刺客に気づかれるかもしれない。沈黙した。
後日、蔵六はイネたちに、「こういう騒動は覚悟していた。そのうち兇徒らは立ちのくだろうとおもって、刀もとらず、じっとしていました」と、語った。
このころ、蔵六は大阪に病院をたてつつあり、この時期仮りに大阪仮病院と呼称させていた。
その病院の「伝習御用」という役目で、恩師緒方洪庵の次男の「平三さん」が江戸からくだってつとめている。平三というのは幼名で、のち若くして幕府の医学所教授になる前後に洪哉と言い、その後、惟準とあらためた。
「平三さん、よくおんぶをしてさしあげましたな」といった。
平三さんの診るところ、蔵六の容体は決して楽観すべきものではなかった。すぐ大阪仮病院に移すことにした。
かれが入院した大阪仮病院は、こんにちの大阪大学医学部の前進である。兼ねて医師養成もやっていた。
病院は緒方惟準と三瀬周三が中心になってやっている。
三瀬周三は、伊予大洲の人で、蔵六の年上の親友であった二宮敬作のオイである。
シーボルトが2度目に来日したとき、敬作につれられてその門人に入り、若手ながらもっとも傑出した門人とされた。かれはイネの娘の高子が、宇和島の藩主夫人の手もとでそだっているとき、藩主夫人の声がかりで彼女をめとった。
イネにとっては、婿になる。
蔵六は当時医学界の若手の俊秀といわれたこの二人の医師の献身的な看護をうけた。両人とも、「われわれは村田先生の弟子のごとく子のごとき者である。先生の一命はかならずとりとめさせたい」と懸命になった。
この病院には、緒方、三瀬のほかに、傭外国人ボードウィンが教頭職をつとめている。
ボードウィンは外科の術者としては当時日本に及ぶ者がない。というようなことで、蔵六は幕末から維新にかけて非業にたおれた無数のひとびとのなかで、負傷後の環境においては、ただ一人恵まれた幸福をもった。
さらに蔵六の生涯をその終わりの時期において豊潤なものにしたのは、イネがきたことである。
イネへは、三瀬周三がしらせた。
横浜から駕籠にのり、昼夜兼行で駆け、わずか8日という短時間で大阪についたというから、その間の体力の消耗は非常なものだったにちがいない。
彼女はその後蔵六の死まで70余日間、寝食をわすれて看病した。
イネの顔をみた第一声は、「あなたは、産科ではありませんか」ということであった。
蔵六はどうも、ぐあいがわるく出来ている。
この男は、かりに彼の頭をどう物理的に砕いても、その分子の一つ一つはきらきら光る理性と合理主義でしかないよに見えてしまっている。
しかし一面、その分子を原子にまで還元したとき、まったく質の異なる情念でいろどらていた。かれは不幸なほど情念的ナショナリストであった。
蔵六は病床で、「すべて、時という力があります。蘭方は、もう去らざるを得ないかもしれないかもしれませぬ」と、幾分淋しげにイネに対して繰りかえした。
「あのような人物を冷遇するということは、日本人が情義と眼識に欠けるということであり、国家の信用にかかわります」
「ボードウィン儀は----和蘭の名医なるのみならず、仏朗斯、プロイセンの間に於いても有名の者にして・・」と、ドイツという新時代の権威の名をもちださざるをえなかった。
蔵六が、蘭学者としてやった最後の歴史的仕事はこの長文の手紙であったということができるであろう。同時にオランダ医学の終焉を告げる歴史的文章であるともいえなくもない。⇒三条実美宛て
蔵六は、敗血症を併発した。
ボードウィンは右脚を切断する意見をもったが、蔵六が高官であるため、当時の慣例として勅許を得る必要があり、この勅許待ちのために手術が遅れ、結局は手遅れとなった。
白い服はボードウィン、その左には三瀬らがいる。
ここであの、いろは丸を思い出しておきたい。大州由であり、司馬作品由の話。
⇒ 長年、オランダ商人アルフォンス・ボードウィンから42,500両で購入したとされてきたが、2009年12月にポルトガル語の購入契約書が見つかり定説が覆った。また、沈没時までに大洲藩の代金支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも判明した。
洪庵先生の薬箱のように美しいものではないが、それでもこれは私にとって刀より大切なものだ」
「なんのおつもりでございましょうか」
「いやな言葉だが、まあ形見だ」「私には、不要のものになった。私は医学から遠ざかってしまっている」
「とんでもない」「村田先生は、医学者でございます」
蔵六は、だまっている。
薬箱が、卓上にあって動かない。
外輪が、潮を掻きあげている。
その音が、わずかに船窓を圧して蔵六の枕頭をひびかせていた。蔵六は小ぶりな、しかし筋肉のくろぐろとしたいっぴきのおとことしてベッドのなかにいた。
イネも、医学の話をわすれた。イネはシーツをかぶり、顔を両手でおさえながら、おんなであることを続けていた。
蔵六は、無言でいる。
神のように無言でいることが、イネにとって宇宙を感じさせた。イネのいる宇宙は際限もなくひろがっており、しかもおどろいたことに閃々と光り、さらには大小の戦慄をともなった。]
神聖行事に似ていた。
蔵六が、イネに言いたかったのは、自分の寒い一生のなかで、イネの存在というただ1点だけが暖気と暖色にみちているということを言いたかったのだが、それをぬけぬけという衒気は蔵六になく、あとは闇の中で沈黙しているだけであった。
「この船は、闇夜も進んでいるのだぁ」
情勢は、転々とした。
この慶応3年の10月、土州の坂本龍馬が立案して成功せしめた大政奉還という異常事態があり、このため武力革命の計画は一時停止した。
蔵六は7月27日朝、東京を発った。
かれはなにか虫がしらせたのか、平素多忙のために手紙をやることもなかったのに、横浜のイネに対し、「京へゆく」と書送っている。
イネはその場から東京に発っている。
翌未明に蔵六の仮寓所の門前に達すると、ちょうど蔵六が旅支度で門内から出てきたところであった。門人二人、若党一人をつれている。
だまって門内にひっくりかえすと、すぐ両手に書物数冊をかかえて門前にもどってきた。外科書と産科書であり、蔵六自身のオランダ語による書込みは無数にあるという古ぼけた本であった。蔵六はこれを差しあげます、とイネに渡した。
「-----どうして」このようなものをいまになって下さるのですか、と詰問しようとしたが、蔵六の影はそれには答えず、この書物についての説明をわずかに述べたあと、会釈もせずイネから離れ、そのまま影のように去ってしまった。
佐久間象山は馬の前脚を斬られ、落馬したところを殺された。
蔵六のこの宿の前である。象山がこの現場で遭難したのは元治元年7月で、蔵六のこの時期とは5年のへだたりがある。わずか5年ながら、日本は一変した。維新政権が成立した。
が、相も変わらずに存在しつづけているのが、象山を殺した情念としての土俗ナショナリズムであり、この連中は幕末では草莽の志士として主として暗殺屋をつとめ、維新成立後は政権からはみ出していよいよ怨念を深くした。
蔵六をつけねらったのはその手合いである。幕末をへて暗殺戦術も発達しており、その行動は組織的であった。時期は薄暮をえらんだ。
蔵六は、宿に帰っていた。かれは2階の奥の間で、たまたま訪ねてきた門人の洋学者安達幸之助と長州藩大隊司令静間彦太郎と歓談していた。
土鍋に昆布が布かれ、豆腐のほかに揚げ豆腐も入っている。蔵六はすでに銚子2本をあけて、3本目をひざもとにひきつけている。
安達が、さかんに英語の必要を論じ、静間と蔵六が、聴き役にまわっていた。そこへ突風のようの刺客がとびこんできたのである。午後6時すぎであった。
江戸初期まで日本には刺客というのはあまり存在せず、たとえば元禄期の赤穂浪士などをも刺客に含めるとしてもかれらは堂々と自分たちの名を名乗っている。正々堂々というのは鎌倉以来の武士のモラルであったが、幕末においてそのモラルは消えた。
訪問客に偽装して偽名を名乗るというのも、かつて坂本竜馬が暗殺されたときの型である。
「萩原俊蔵」という偽名を名乗った。坂本事件のときもそうであったように、団たちは名刺をさし出し、「大村殿にご面会したい」といった。
階下で応接に出たのは、若党の山田善次郎である。善次郎は、疑わない。2階にあがって蔵六に取り次ぐと、蔵六もまったく疑わなかった。このとき蔵六ふうの明快な回答をあたえている。
「いまは夜分であるから会いませぬ。その用件がもし公用ならがあす役所へ参られるように。もし私用ならがあさって参られるように。あさっては宿におります、とそう申せ」と、刺客に言うべかざる内容を簡潔にしかし明瞭にいった。
若党の善次郎がふたたび降りてきて、その言葉どおり第一組の刺客たちにいった。
そのうちの一人が表へ出て、「いるいる」と、第二組へ合図をした。
もどると、一人がなお善次郎と押し問答をしている。善次郎が応対をうちきって奥へ入ろうとしたとたん、背後から斬られた。善次郎は即死した。
その叫びが、2階にきこえた。
2階の別室にいた兵部省作事取締吉富音之助という蔵六の門人がとびだして刺客と一人と争闘した。刺客のうち二人ないし三人が、蔵六の部屋へとびこんだ。
蔵六は、床柱の横ですわったままでいた。(うごいても仕方がない)とおもったらしい。さらには、この闇溜まりにじっとしているほうが安全であるとおもったらしい。床板が抜けるような騒ぎである。蔵六はまっさきに右前額と右コメカミをやられ左倒しにたおれたが、まるでダルマのようにすぐすわりなおした。ついで思わず左手をあげたとき、手に微傷を負った。もういいだろうと思って立ちあがったとき、右のモモをやられた。骨には達しなかったが、この傷だけが大きかった。
が、やった犯人が、叫びをあげて東窓から蹟へととびおりてしまった。
蔵六はそのまま階下へ降りた。
かれは風呂場に入り、羽織を裂き、まず出血をとめようとした。消毒すべき焼酎がない。家人をよぼうとしたが、逃げているはずがなく、また声をあげれば居残っているかもっしれない刺客に気づかれるかもしれない。沈黙した。
後日、蔵六はイネたちに、「こういう騒動は覚悟していた。そのうち兇徒らは立ちのくだろうとおもって、刀もとらず、じっとしていました」と、語った。
このころ、蔵六は大阪に病院をたてつつあり、この時期仮りに大阪仮病院と呼称させていた。
その病院の「伝習御用」という役目で、恩師緒方洪庵の次男の「平三さん」が江戸からくだってつとめている。平三というのは幼名で、のち若くして幕府の医学所教授になる前後に洪哉と言い、その後、惟準とあらためた。
「平三さん、よくおんぶをしてさしあげましたな」といった。
平三さんの診るところ、蔵六の容体は決して楽観すべきものではなかった。すぐ大阪仮病院に移すことにした。
かれが入院した大阪仮病院は、こんにちの大阪大学医学部の前進である。兼ねて医師養成もやっていた。
病院は緒方惟準と三瀬周三が中心になってやっている。
三瀬周三は、伊予大洲の人で、蔵六の年上の親友であった二宮敬作のオイである。
シーボルトが2度目に来日したとき、敬作につれられてその門人に入り、若手ながらもっとも傑出した門人とされた。かれはイネの娘の高子が、宇和島の藩主夫人の手もとでそだっているとき、藩主夫人の声がかりで彼女をめとった。
イネにとっては、婿になる。
蔵六は当時医学界の若手の俊秀といわれたこの二人の医師の献身的な看護をうけた。両人とも、「われわれは村田先生の弟子のごとく子のごとき者である。先生の一命はかならずとりとめさせたい」と懸命になった。
この病院には、緒方、三瀬のほかに、傭外国人ボードウィンが教頭職をつとめている。
ボードウィンは外科の術者としては当時日本に及ぶ者がない。というようなことで、蔵六は幕末から維新にかけて非業にたおれた無数のひとびとのなかで、負傷後の環境においては、ただ一人恵まれた幸福をもった。
さらに蔵六の生涯をその終わりの時期において豊潤なものにしたのは、イネがきたことである。
イネへは、三瀬周三がしらせた。
横浜から駕籠にのり、昼夜兼行で駆け、わずか8日という短時間で大阪についたというから、その間の体力の消耗は非常なものだったにちがいない。
彼女はその後蔵六の死まで70余日間、寝食をわすれて看病した。
イネの顔をみた第一声は、「あなたは、産科ではありませんか」ということであった。
蔵六はどうも、ぐあいがわるく出来ている。
この男は、かりに彼の頭をどう物理的に砕いても、その分子の一つ一つはきらきら光る理性と合理主義でしかないよに見えてしまっている。
しかし一面、その分子を原子にまで還元したとき、まったく質の異なる情念でいろどらていた。かれは不幸なほど情念的ナショナリストであった。
蔵六は病床で、「すべて、時という力があります。蘭方は、もう去らざるを得ないかもしれないかもしれませぬ」と、幾分淋しげにイネに対して繰りかえした。
「あのような人物を冷遇するということは、日本人が情義と眼識に欠けるということであり、国家の信用にかかわります」
「ボードウィン儀は----和蘭の名医なるのみならず、仏朗斯、プロイセンの間に於いても有名の者にして・・」と、ドイツという新時代の権威の名をもちださざるをえなかった。
蔵六が、蘭学者としてやった最後の歴史的仕事はこの長文の手紙であったということができるであろう。同時にオランダ医学の終焉を告げる歴史的文章であるともいえなくもない。⇒三条実美宛て
蔵六は、敗血症を併発した。
ボードウィンは右脚を切断する意見をもったが、蔵六が高官であるため、当時の慣例として勅許を得る必要があり、この勅許待ちのために手術が遅れ、結局は手遅れとなった。

ここであの、いろは丸を思い出しておきたい。大州由であり、司馬作品由の話。
⇒ 長年、オランダ商人アルフォンス・ボードウィンから42,500両で購入したとされてきたが、2009年12月にポルトガル語の購入契約書が見つかり定説が覆った。また、沈没時までに大洲藩の代金支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも判明した。