goo blog サービス終了のお知らせ 

しんかがく 80

2012-09-28 08:29:10 | colloidナノ
 「これを、さしあげる」「これとよく似た薬箱を、洪庵先生ももっておられた。私は物に執着のうすい人間だが、洪庵先生の薬箱ばかりはほしいと思った。その後、江戸でもさがしたがどこにも無かった。たまたま長崎にあったので、買った。
 洪庵先生の薬箱のように美しいものではないが、それでもこれは私にとって刀より大切なものだ」

「なんのおつもりでございましょうか」

「いやな言葉だが、まあ形見だ」「私には、不要のものになった。私は医学から遠ざかってしまっている」
「とんでもない」「村田先生は、医学者でございます」


 蔵六は、だまっている。
 薬箱が、卓上にあって動かない。

 
 外輪が、潮を掻きあげている。
その音が、わずかに船窓を圧して蔵六の枕頭をひびかせていた。蔵六は小ぶりな、しかし筋肉のくろぐろとしたいっぴきのおとことしてベッドのなかにいた。
 イネも、医学の話をわすれた。イネはシーツをかぶり、顔を両手でおさえながら、おんなであることを続けていた。

 蔵六は、無言でいる。
神のように無言でいることが、イネにとって宇宙を感じさせた。イネのいる宇宙は際限もなくひろがっており、しかもおどろいたことに閃々と光り、さらには大小の戦慄をともなった。]
神聖行事に似ていた。


 蔵六が、イネに言いたかったのは、自分の寒い一生のなかで、イネの存在というただ1点だけが暖気と暖色にみちているということを言いたかったのだが、それをぬけぬけという衒気は蔵六になく、あとは闇の中で沈黙しているだけであった。

「この船は、闇夜も進んでいるのだぁ」


 情勢は、転々とした。
この慶応3年の10月、土州の坂本龍馬が立案して成功せしめた大政奉還という異常事態があり、このため武力革命の計画は一時停止した。

 蔵六は7月27日朝、東京を発った。
かれはなにか虫がしらせたのか、平素多忙のために手紙をやることもなかったのに、横浜のイネに対し、「京へゆく」と書送っている。

 イネはその場から東京に発っている。
翌未明に蔵六の仮寓所の門前に達すると、ちょうど蔵六が旅支度で門内から出てきたところであった。門人二人、若党一人をつれている。

 だまって門内にひっくりかえすと、すぐ両手に書物数冊をかかえて門前にもどってきた。外科書と産科書であり、蔵六自身のオランダ語による書込みは無数にあるという古ぼけた本であった。蔵六はこれを差しあげます、とイネに渡した。

 「-----どうして」このようなものをいまになって下さるのですか、と詰問しようとしたが、蔵六の影はそれには答えず、この書物についての説明をわずかに述べたあと、会釈もせずイネから離れ、そのまま影のように去ってしまった。


 佐久間象山は馬の前脚を斬られ、落馬したところを殺された。
蔵六のこの宿の前である。象山がこの現場で遭難したのは元治元年7月で、蔵六のこの時期とは5年のへだたりがある。わずか5年ながら、日本は一変した。維新政権が成立した。
が、相も変わらずに存在しつづけているのが、象山を殺した情念としての土俗ナショナリズムであり、この連中は幕末では草莽の志士として主として暗殺屋をつとめ、維新成立後は政権からはみ出していよいよ怨念を深くした。

 蔵六をつけねらったのはその手合いである。幕末をへて暗殺戦術も発達しており、その行動は組織的であった。時期は薄暮をえらんだ。

 蔵六は、宿に帰っていた。かれは2階の奥の間で、たまたま訪ねてきた門人の洋学者安達幸之助と長州藩大隊司令静間彦太郎と歓談していた。

 土鍋に昆布が布かれ、豆腐のほかに揚げ豆腐も入っている。蔵六はすでに銚子2本をあけて、3本目をひざもとにひきつけている。
安達が、さかんに英語の必要を論じ、静間と蔵六が、聴き役にまわっていた。そこへ突風のようの刺客がとびこんできたのである。午後6時すぎであった。

 江戸初期まで日本には刺客というのはあまり存在せず、たとえば元禄期の赤穂浪士などをも刺客に含めるとしてもかれらは堂々と自分たちの名を名乗っている。正々堂々というのは鎌倉以来の武士のモラルであったが、幕末においてそのモラルは消えた。
訪問客に偽装して偽名を名乗るというのも、かつて坂本竜馬が暗殺されたときの型である。

 「萩原俊蔵」という偽名を名乗った。坂本事件のときもそうであったように、団たちは名刺をさし出し、「大村殿にご面会したい」といった。

 階下で応接に出たのは、若党の山田善次郎である。善次郎は、疑わない。2階にあがって蔵六に取り次ぐと、蔵六もまったく疑わなかった。このとき蔵六ふうの明快な回答をあたえている。
 「いまは夜分であるから会いませぬ。その用件がもし公用ならがあす役所へ参られるように。もし私用ならがあさって参られるように。あさっては宿におります、とそう申せ」と、刺客に言うべかざる内容を簡潔にしかし明瞭にいった。

 若党の善次郎がふたたび降りてきて、その言葉どおり第一組の刺客たちにいった。
そのうちの一人が表へ出て、「いるいる」と、第二組へ合図をした。
もどると、一人がなお善次郎と押し問答をしている。善次郎が応対をうちきって奥へ入ろうとしたとたん、背後から斬られた。善次郎は即死した。
その叫びが、2階にきこえた。
2階の別室にいた兵部省作事取締吉富音之助という蔵六の門人がとびだして刺客と一人と争闘した。刺客のうち二人ないし三人が、蔵六の部屋へとびこんだ。

 蔵六は、床柱の横ですわったままでいた。(うごいても仕方がない)とおもったらしい。さらには、この闇溜まりにじっとしているほうが安全であるとおもったらしい。床板が抜けるような騒ぎである。蔵六はまっさきに右前額と右コメカミをやられ左倒しにたおれたが、まるでダルマのようにすぐすわりなおした。ついで思わず左手をあげたとき、手に微傷を負った。もういいだろうと思って立ちあがったとき、右のモモをやられた。骨には達しなかったが、この傷だけが大きかった。

 が、やった犯人が、叫びをあげて東窓から蹟へととびおりてしまった。

 蔵六はそのまま階下へ降りた。
かれは風呂場に入り、羽織を裂き、まず出血をとめようとした。消毒すべき焼酎がない。家人をよぼうとしたが、逃げているはずがなく、また声をあげれば居残っているかもっしれない刺客に気づかれるかもしれない。沈黙した。

 後日、蔵六はイネたちに、「こういう騒動は覚悟していた。そのうち兇徒らは立ちのくだろうとおもって、刀もとらず、じっとしていました」と、語った。

 このころ、蔵六は大阪に病院をたてつつあり、この時期仮りに大阪仮病院と呼称させていた。
その病院の「伝習御用」という役目で、恩師緒方洪庵の次男の「平三さん」が江戸からくだってつとめている。平三というのは幼名で、のち若くして幕府の医学所教授になる前後に洪哉と言い、その後、惟準とあらためた。

 「平三さん、よくおんぶをしてさしあげましたな」といった。
 
 平三さんの診るところ、蔵六の容体は決して楽観すべきものではなかった。すぐ大阪仮病院に移すことにした。

 かれが入院した大阪仮病院は、こんにちの大阪大学医学部の前進である。兼ねて医師養成もやっていた。
病院は緒方惟準と三瀬周三が中心になってやっている。
 
 三瀬周三は、伊予大洲の人で、蔵六の年上の親友であった二宮敬作のオイである。
シーボルトが2度目に来日したとき、敬作につれられてその門人に入り、若手ながらもっとも傑出した門人とされた。かれはイネの娘の高子が、宇和島の藩主夫人の手もとでそだっているとき、藩主夫人の声がかりで彼女をめとった。
 イネにとっては、婿になる。

 蔵六は当時医学界の若手の俊秀といわれたこの二人の医師の献身的な看護をうけた。両人とも、「われわれは村田先生の弟子のごとく子のごとき者である。先生の一命はかならずとりとめさせたい」と懸命になった。

 この病院には、緒方、三瀬のほかに、傭外国人ボードウィンが教頭職をつとめている。
ボードウィンは外科の術者としては当時日本に及ぶ者がない。というようなことで、蔵六は幕末から維新にかけて非業にたおれた無数のひとびとのなかで、負傷後の環境においては、ただ一人恵まれた幸福をもった。
 さらに蔵六の生涯をその終わりの時期において豊潤なものにしたのは、イネがきたことである。
イネへは、三瀬周三がしらせた。

 横浜から駕籠にのり、昼夜兼行で駆け、わずか8日という短時間で大阪についたというから、その間の体力の消耗は非常なものだったにちがいない。

 彼女はその後蔵六の死まで70余日間、寝食をわすれて看病した。

 イネの顔をみた第一声は、「あなたは、産科ではありませんか」ということであった。

 蔵六はどうも、ぐあいがわるく出来ている。
この男は、かりに彼の頭をどう物理的に砕いても、その分子の一つ一つはきらきら光る理性と合理主義でしかないよに見えてしまっている。
しかし一面、その分子を原子にまで還元したとき、まったく質の異なる情念でいろどらていた。かれは不幸なほど情念的ナショナリストであった。

 蔵六は病床で、「すべて、時という力があります。蘭方は、もう去らざるを得ないかもしれないかもしれませぬ」と、幾分淋しげにイネに対して繰りかえした。

 「あのような人物を冷遇するということは、日本人が情義と眼識に欠けるということであり、国家の信用にかかわります」
「ボードウィン儀は----和蘭の名医なるのみならず、仏朗斯、プロイセンの間に於いても有名の者にして・・」と、ドイツという新時代の権威の名をもちださざるをえなかった。
 蔵六が、蘭学者としてやった最後の歴史的仕事はこの長文の手紙であったということができるであろう。同時にオランダ医学の終焉を告げる歴史的文章であるともいえなくもない。⇒三条実美宛て


 蔵六は、敗血症を併発した。
ボードウィンは右脚を切断する意見をもったが、蔵六が高官であるため、当時の慣例として勅許を得る必要があり、この勅許待ちのために手術が遅れ、結局は手遅れとなった。
白い服はボードウィン、その左には三瀬らがいる。



ここであの、いろは丸を思い出しておきたい。大州由であり、司馬作品由の話。

⇒ 長年、オランダ商人アルフォンス・ボードウィンから42,500両で購入したとされてきたが、2009年12月にポルトガル語の購入契約書が見つかり定説が覆った。また、沈没時までに大洲藩の代金支払いが済んでいなかったとの説もあったが、購入時に全額支払っていたことも判明した。
 




しんかがく 79

2012-09-27 09:01:10 | colloidナノ
 イネは宇和島へゆく。年に一度はゆく。
なぜなら宇和島にその娘たか子を住まわせていたし、それに宇和島候の夫人が、彼女の診察をうけることを好み、そのように彼女を義務づけたからである。こんど、その途中、下関に立ち寄った。
 「あれからいろいろのことがございました」と、たださえ言葉すくないイネは、蔵六と一別以来の歳月をおもうと、語るべきことの整理がつかず、つい寡黙になるらしい。
その間、最大の事件は、彼女の父のシーボルトが再来しあことであろう。その事実は、蔵六も知っていた。

 安政の開国によってオランダは幕府と通商条約をむすんだ。オランダ政府はその批准書を日本にもたらすべき外交官としてシーボルトをえらんだのだが、しかしシーボルトのほうの都合によってその職務は他の者の手で果たされた。そのあとシーボルトは、オランダ貿易会社の顧問という資格できた。

 イネは、その母親のお滝とともに、出島までゆき、シーボルトに対面した。

「さぞ、感激なされたでありましょうな」
「いっそ、会わなければよかった、とおもっています」

 イネが、この日、実父と対面しつづけた時間は、2時間ほどであった。
父が、窓の外光を背にすわっている。頭の地肌があかがねのように光り、残りすくなくなった白い髪が古い針金のように枯れちぢれている。イネの心の中にあるシーボルトは亜麻色の髪がうつくしく、顔にはひげなどはなく、するどいあごが薄い唇をひきしめて、ただ使命への意志だけがこの青年のすべてであり、そのために皮膚までが神の衣のように清らかであった。
 が、目の前の老人はどうであろう。白いひげが顔の半分を覆い、皮膚は濁り、全体からうける印象は、傲然たる老雄のたたずまいであった。(この人は、ちがう)と、混乱し、わずかに残った意志の力をあげて、自分の胸の中にある父シーボルトの像をまもろうとした。

 彼女を悲惨にしたひとつは、シーボルトの言語であった。

 犬が悲鳴をあげているようなかん高く、しかも半分も、聴きとれないのである。それに、イネが理解に苦しんだことは、老シーボルトは、13歳になる長男を連れてきていてその13才の少年と話すときは、イネにはわからぬ別の言葉で話していることであった。シーボルトは、ドイツ語で話していた。

 シーボルトによれば、知性は彫琢を経てはじめて成立するものであり、かれは人間の価値基準をそこに求めようとし、そのことはほとんど信仰のようになっている。ドイツの小都市にあって、大学教授を多く輩出した名門の出身であるシーボルトにとっては、自分の家系の一員であるイネが、その家系に恥じない存在であることに、手ばなしでよろこんだのである。

 「イネの知性が、医学によって彫琢されたことである。私はこの国に医学を残し、私のすぐれた門人たちは私の期待以上にそれを吸収してくれた。私は自分のすぐれた門人たちに医学を残すことによって、自分の娘をそだてることができた」シーボルトは、涙を浮かべた。
 このときばかりはイネはうつむき、あふれてくる涙をどう始末しようかとおもった。
この間、終始、シーボルトの椅子の左側に龍騎兵の少年兵のように立っていた13歳アレキサンデルが、胸ポケットに手をあげた。白布をとりだし、そっとイネのそばに寄って、そのひざにそれを置いた。
 イネはおどろいて顔をあげ、自分の弟であるこの異人の少年にはじめて自然な笑顔をひらいた。


 蔵六と、イネが対座している。
すでに肌寒い。障子むこうに、海峡がある。潮がいそぎはじめているらしく、その潮のにおいが、この一燭のともしびでやっと闇からまぬがれているこの部屋にまで聞こえてくる。風が、ときどき障子を鳴らし、そのつど虫の声が消えた。
「いまにして思えば、わたくしに父がなかった不幸よりも、父に再会した不幸のほうが、大きゅうございました。父に会わねばよかったとおもいます」

 「お会いしても、しなかっても、どっちでもいいことです。イネどのは、二十代のお父上を自分の夢の中で作られ、それとともに生きて来られた。それ以外に、あなたにとって真実のお父上はない。人間にとって真実とはそういうものです。
 この真実は医学をもってしてもいかんともしがない。この真実の前には、へんぺんたる事実は、波のしぶきのようにくだけては散るものです。事実とは、長崎出島で再会されたシーボルト翁のことだ。あれはたしかにシーボルト翁に相違ない。しかし事実にすぎない」
「蔵六先生は、事実を軽視なさるおつもりですか」

「それはカン違いです」と、蔵六はいった。蔵六ほど事実を冷厳な態度で尊重している人物はすくない。

 いま蔵六がいっているのはそういうことではなく、医学の踏みこめない人間の内奥のことである。蔵六にいわせれば、イネにとって20代で日本を去ったあとのシーボルトなどは、事実どころかマボロシであり、ほんとうのシーボルトは、イネの精神をそだて、いまもイネの精神のなかにいる主観的真実のシーボルト以外にない、人間というものはそういうものである。事実的存在の人間というのは大したことはない、と蔵六はいうのである。

 「しいほると様」と、あれほ自分に献身的な愛をささげてくれたお滝---イネの母親----が、31年の空白の歳月のなかで、かならずしもシーボルトの詩的世界だけに住んでいなかったことである。
 彼女は、シーボルトが去ってから他の男と同棲したこともあるし、また時次郎という行商人と結婚して男の子を生んだりした。亭主の時次郎はその後死に、こんどシーボルトが再来したとき幸いお滝はやもめの境涯にあった。が、この事実は、シーボルトが、日本へお滝へ抱いていた気持ちを暗くした。

 が、シーボルトにとっていま一つの大切な思い出である鳴滝学舎が、お滝の手で売られてしまっていることをきいたとき、彼の詩はいよいよ現実にもどらざるをえなかった。彼は、その鳴滝学舎を通じて日本にヨーロッパの洋学をもちこみ、その学舎から多くの日本の洋学者を出したことにかれは自分の生涯における最大の意義を感じていた。
 それを、お滝は売って金に代えた。もともとシーボルトは日本を去るとき、お滝の生活費とイネの養育費を十分に置いて行ったはずであった。
「油屋をひらくもとでがなかったものですから」と、お滝はその理由をのべた。

 が、シーボルトにとって最大の痛手は、お滝が再会そうそうから、金をねだったことであった。もっと金がほしい、女手ひとりで生きてゆくのは大変なのです、とほとんど纏わりつくようなしつこさで、それを要求しつづけた。

 シーボルトは、これにはもてあました。
それ以上に当惑しつづけたのは、同席していたイネであった。
 イネは何度も母親をたしなめた。が、お滝の口は鳴りやまず、結局、シーボルトがいくらかの金をわたすことによって、その唇を閉ざさざるをえなかった。
イネにとって、父親の再来は、すでにシーボルトが去ったいまもあまり思い出したくない記憶になっているのは、こういうお滝の醜態もからんでのことであった。イネも、詩を喪った。

 イネは病理学の話をはじめた。
ここ数年来の彼女のおどろきは、基礎医学の理論がヨーロッパにおいてほとんど年々歳々に変わりつつあるということだった。
シーボルトがもちこんだ病理学はポンペの病理学によっていわば否定され、ポンペが去ってのちどうやらヨーロッパにおいて重大な新説が誕生しているということも、イネは知っている。
 このイネの話は、蔵六に大きな衝撃をあたえた。かれは病理学については日本最大の人である緒方洪庵にまなび、それを誇りにしている。

 イネのいうところでは、その緒方病理学が、ポンペの来日によって古くなり、さらにポンペの病理学もいまや過去のものであるという。


 いずれにせよ、世界の科学と技術はこの蔵六やイネのこの時期前後から、奔馬のような躍動を開始するのである。日本人は世界史上のこの科学技術の奔馬的躍動期に鎖国の窓をひろくし、それに参加した。

 「5日ほど、滞留させてください」といったとき、蔵六は、どうぞといった。
蔵六はそのとき、イネからあたらしい病理学の話をききたい、5日のあいだに自分に講義してほしいといった。
イネは「わたしが師匠になるのでございますか」と笑いだしたが、蔵六は笑わなかった。

 植物にせよ動物にせよ、生物体をつくりあげているものは細胞であるということは、蔵六もおぼろげながら知っている。
細胞はそれ自体で独立した生命単位であるという説があることも蘭書を読んで知っていた。が、それが人間の病気とどんな関係があるかということについては知らない。


 たとえば、ポンペの腫瘍論である。人間の生体になぜ腫瘍ができるか、それは組織の変化である。病的物質が組織のなかに沈み、定着し、それによって腫れあがってゆくのが腫瘍である、という。ところで細胞とはなにか、これは一種の液体である。

「すべての細胞は、細胞より生ず」という有名なことばをかかげたルドルフ・ウィルヒョーであった。かれの著「細胞病理学」は、1858年に刊行された。


「その理論を、臨床に使えますか」「とても」と、イネはいった。

 学問と技術の問題である。
このことは1枚の紙の表裏でありながら、実際にはバラバラになりがちでございますね、というのである。
(イネが、そのようなことをいう)蔵六は、喜悦をおさえかねて、この男にすればめずらしく微笑がとめどもなく湧き、イネも蔵六がよろこんでくれていることがうれしくて、自分のちかごろの感想や疑問を、とめどなく蔵六に聴かせてゆくのである。


 イネは、まだ星のある時刻に、海岸の回漕問屋へ行った。そこから伊予へゆく便船が出るのである。

 蔵六は曉闇のなかでイネと別れた。イネをのせたハシケの提灯がゆれながら小さくなってゆくのを見つづけ、やがてそれが親船のむこうに側に消えたとき、「今生では、むりだ」と、この曉闇の潮風のなかでわれにもなく声を出してつぶやき、さらには蔵六にとってはばかばかしいことであったが、涙がおかしいほど流れた。今生でイネと添うことが、である。むりであろう、ということであった。

 蔵六は、間仕切りのありすぎる頭脳、もしくは精神をもっていた。
このことは蔵六をして西洋の科学的論理のすぐれた受容者にさせたのだが、同時に、間仕切りの一つ一つが絶対の空間になっていて、その妻のお琴がすわっているその間仕切り----部屋も、お琴のために絶対の空間になっている。そこにイネをすわらせることが、蔵六の考え方、というより、こっけいなことに数理観念がゆるさないのである。

























しんかがく 78

2012-09-26 12:44:34 | colloidナノ
 それやこれやの人のつながりで、江戸に出てからほんのわずかのあいだに蔵六の名は同学の連中に知られるよになり、かれが11月1日鳩居堂をひらくと、その月の16日には幕府が新設した洋学研究機関である蕃書調所の教授手伝(助教授)にあげられることになった。
この蕃書調所がのち洋書調所、開成所などと名称がかわり、さらに明治後、大学南校、ついで東京大学という名称と内容にかわってゆく。

 かれは宇和島藩出仕の身であるとともに、幕府の蕃書調所の教授手伝いでもあった。

 技術時代がきている。

その苗木の育て役といっていい蔵六ら蘭学者というものはからだがいくつあってもたりないほどの毎日であった。
蕃書調所から帰ってくると、宇和島藩入用の兵書翻訳をしなければならない。さらにそれだけでなく、加賀藩のような蘭学の点で後進藩になってしまっている藩から宇和島藩留守居役へ、----貴藩の村田先生に、ぜひこれからの兵書を翻訳してもらえまいか。と交渉があったりした。

 「藩の面目でござるゆえ、ぜひ」と、宇和島藩の上司は、蔵六にそれをむりやりにひきうけさせた。

 そのうち幕府までが、----新設の講武所の教授になってもらいたい。といってきた。
講武所では洋式兵学を講義したり、兵書翻訳をしたりするしごとである。これは正教授であった。

 蔵六はなぜ長州藩士になりたいのか。
というかれ自身が目下悩みつつある課題について、筆者の話柄がべつなほうに外れつつあるようにみえる。べつに外れているのではなく、かれのその志願の理由は、うまれつきのナショナリズムに根ざしているということをいいたかったのである。

 この心情の濃淡は知性とは無関係で、多分に気質的なものであろう。

 さらに帰国後の桂の日常は、かれの師匠にあたる吉田松陰との接触が多かった。松陰はこのころ藩の獄にいた。この時期、松陰の学塾である松下村塾の塾生たちは一様に政治活動をはじめ、過激化し、藩内における政治思想団体として成長しつつあった。

 蔵六が、この長州藩の青年政治家にもちこんだ話題というのは、日本海にうかぶ無人島のことであった。その小さな島は隠岐島から西北158キロの海上にある。
「竹島」と、漁民たちからよばれていた。


 幕末、海防が時勢の大きな課題になるや、この島の領有を明確にすることがやかましい問題になり、土佐藩士岩崎弥太郎がここへ探検に出かけたこともある。

 ところで長州藩のこの時代での特徴は、藩内からうずもれた人材を発掘することにやっきになっていることであった。伊藤博文などは父は百姓あがりで、かれは少年のころ中間のような仕事した。そのような卑賤の身から、藩士になった。

 宇和島へ入る手前が、卯之町である。ここで二宮敬作の診療所に寄った。敬作は狂ったようによろこび、早く患者の治療を片づけたいとおもった。そのため蔵六に手伝わせた。

 あとは酒である。
イネが、長崎へ帰ったという。「あの母親が、うるさいのだ」と、敬作はいった。しかしイネは江戸へゆきたいといっていたという。江戸の鳩居堂で蔵六の講義の手伝いをしたいというのである。


 蔵六が江戸へ帰ったのは6月16日であった。

 鳩居堂では、門人たちが待っていた。かれらは井伊弾圧政治についてひそひそと語りあっていたが、蔵六はなにもいわない。

 この松陰の死は、長州藩主以下をふかくいたませた。藩内の松陰の友人や門人は、せめて松陰の遺骸を請いうけようとした。

 「29日午後、小塚原回向院まで遺骸を入れた4斗樽をこっそり運んでくるから、うけとるよに」という内約が獄卒とのあいだにできた。

 この帰路、桂小五郎は、おなじ小塚原で死囚の解剖をしている村田蔵六を見るのである。
人間が人間に出あうことはこの世でもっともふしぎなことであろう。なぜならば、桂は蔵六をわすれていた。あのひとはどなたです、と人にきくと、「蕃書調所の村田蔵六先生です」といわれて、あっと思いだしたのである。
 蔵六の生涯のふしぎさの1つは、この松蔭の埋葬日に桂に見出されたことにある。

 吉田松蔭と村田蔵六という、死者と生者が小塚原刑場というおなじ場所で遭遇した。

 藩でも、桂のそういう性格や能力をよくみとめ、江戸藩邸の書生世話役をさせ一方、他藩交渉をかれをつかった。いわば桂は最初から藩外交の下級外交官といってよかった。その桂が「ぜひ、村田蔵六を長州へ」という藩内運動をした。

 この年、花が遅かった。
井伊直弼の横死のあった翌々日、蔵六は例の蘭書のことで麻布の長州藩邸にくると、いつも桜田藩邸にいる桂が、めずらしくこの麻布にいた。
「お待ちしていたのです」と、桂はいった。ご意向をうかがいたいことがあるから会読ののち門番にひとこえおかけください、という。


 桂が二階で待っていた。「ちょっと話がぶしつけにわたるかもしれません」と桂がことわって、長州藩にきてもらいたいことを語り、しかしながら薄禄である、といった。


 「ああそうですか」「すでに決めておることで、青木周弼先生に申しあげてあるはずです。拙者は長州様に参る。参るときめた以上、処遇などはご都合しだいでよろいし」と、にべもなくいった。

 鳩居堂を訪ねると、蔵六がいた。
彼女はもう冷静もどっていて、そのことはすぐに質問せず、妙に自分がおかしくなってころころ笑った。「たいそう、ご陽気ですな」蔵六も、あきれたようにイネをみている。
イネは、不意に別なことをいった。
 「長崎にポンペ先生がいらっしたことをご存じでございましょう?」
「この気持ちは、おわかりいただけないかもしれませぬ。ポンペ先生のもとに行ってお仕えしたいのは、そういう気持ちでございます」

 イネは、話を変えた。「宇和島様からお身をおひきになるそうでございますね」それが、イネにとって本題であった。

「宇和島も長州も、日本なのです」「わたくしは、村田先生が宇和島にいらっしゃるから宇和島へきたのです」と、やっといった。

「だから、ポンペ先生のもとにゆきます」

 「攘夷」が看板である裏側では、攘夷熱心な藩ほど自分の藩の産業革命化をしようとしたことであった。
もっとも例外は攘夷先唱の栄誉をになった水戸藩で、これは攘夷だけでおわり、藩の洋式化は遂げられなかった。
 薩摩藩と佐賀鍋島藩はもっとも先進的で、薩摩藩のごときはこのときすでに小規模のダムをつくり電気をおこし、銃砲をつくるための旋盤その他の工作機械ももっていた。佐賀鍋島藩では銃砲工場だけでなく造船所をもち、小さな蒸気船の製造はおろか、たいていの艦船の修理もできた。
 この点、長州藩はやや遅れた。まず、教育からはじめようとした。蔵六が長州に帰国せられたのは、そのためであった。「博習堂」と名付けられた。

 いずれしても、洋式の学問や技術が、原書によらずに日本語の教科書でおこなわれるようになったのは、おそらく蔵六がつくったこの長州博習堂が最初であったようにおもわれる。


 大阪大学微生物病研究所の藤野恒三郎教授は1970年の春、筆者がこの蔵六の話を書いている時期に、定年退官された。
「蔵六とイネとは、プラトニック・ラブだたでしょうか、どうでしょうか」と、かって、その意外なことばがこの謹厳できこえた細菌学者の口から唐突に出たとき、その意外な印象を大げさにいえば、そのあたりの空気が音をたてて裂けたようであり、そのとき当方の事情を申せば、これも不意に蔵六のことを書こうとひそかにおもった。
 このながい連載を書くにいたるモトのモトといえば、そのときからである。

 

 イネがはじめてポンペの授業内容に触れたとき、「これが本物の医学にちがいない」と、体がふるえるほどのよろこびをおぼえたという。
それまでの日本における蘭方医学は、多分に日本的であった。彼女の父のシーボルトでさえ医学をポンペのようにあらゆる科学の総合体として体系的に教えたりはしなかった。


 かれは幕府の全面的援助で、長崎にヨーロパ式の完全な病院をつくった。まだ病院ということばがなく、幕府はこれを「養生所」と名づけた。
ポンペが長崎ではじめて開講したときは学生は12人であった。いずれも幕府や諸藩から選抜されてきた秀才たちであり、すでに日本式の蘭学の素養はもっていた。やがてその学生が40人にふえたころ、イネが入ってきたのである。

 イネの就学については、江戸の蔵六が、幕府筋をうごかしてその便宜をはからった。
イネはこれによって日本最初の女子医学生というべき存在になった。
イネにとって、長崎でポンペに就学したこの期間ほど充実した歳月はなかった。彼女は、江戸の蔵六に対し、身辺におこったさまざまな変化について手紙を書き送った。
 
彼女は、オランダ語でそれを書いた。
蔵六がみても達者な文章であったが、それほどのオランダ語達者でも、皮肉なことに、「ポンペ先生のしゃべられるオランダ語がわからなくてこまります」と、言葉には閉口しきっている様子が書かれていた。
 ポンペのオランダ語には訛りはなかったが、イネたち学生の頭にあるオランダ語は、目と理屈(文法)で学んだものだけに、ポンペの言葉が口から耳へ殺到してくるとき、ぼう然とするばかりであった。

 このためポンペは、自分の同僚の海軍教師に話して、学生たちのためにオランダ語会話を教えるようたのんだ。

 その障害をのぞくための合理的な方法として、やがて別な方法がとられた。まずポンペが講義ノートをつくる。それを読みあげ、さらに口で説明を加える。
それを、学生のなかにいた司馬凌海という天才的な語学達者の男が、通訳する。学生がそれを日本語でノートをとる、という方法である。

 イネにとってもっとも記念すべき事柄は、彼女が入門して早々、長崎の本蓮寺のそばの西坂の岡の上で、ポンペの執刀による人体解剖がおこなわれたことであった。ポンペはこのことを感動的な文章で書いている。
「1859年9月9日、45名の医師諸君と、1名の女医学者(イネのこと)の面前で、私は第1回の屍体解剖を行った」



 イネは蔵六に書き送った。「なだめて、この死刑囚は人間から病気をなくすための仕事に役立っているのである。であるから、この死刑囚は特例により死罪人として葬られず、公儀の費用で僧をよび、あつく葬られる、という旨のことを大声で伝えますと、人々の声はしずまりました」

 「あなたは日本人ですから、以後日本語で手紙をお書きなさい」と、からかうような叱るような文面で書送ったが、イネはこれに対してなんの応答もせず、相からわずオランダ語で書いた。
イネの手紙が度重なるにつれ、そのオランダ語はひどく進歩をとげ、蔵六のわからない俗語をまじえたり、ちょっとした啖呵を切ったり、あるいは蔵六の固有の気質である「攘夷かたぎ」をからかったりする文章まで出現して、蔵六を面食らわせた。










しんかがく 77

2012-09-25 07:09:05 | colloidナノ
医学部図書館の開設に際して愛媛大学

一方学生の基本図書は,各国間の辞書や百科事典だらけの原案では外国語大学や文科方面をむいたものだったので,大巾に修正して歴史,文学,美術,思想などの領野で由緒ある全集を選び出し,他方医学との接点をなす生物学,心理学,看護学,医用工学などの良書を買い入れたが,これらのなかで書物のいた承方から推察すると「司馬遼太郎全集」がよく読まれているらしい。
松山の生んだ英才,秋山兄弟の生涯を生き生きと書かれている「坂の上の雲」や,また愛媛にはシーポルトが開いた長崎出島の「鳴滝塾」門下の逸才二宮敬作(西宇和郡保内町),あるいは高野長英(宇和島藩洋学の教師),シーポルトの娘に蘭学を教えた緒方洪庵「適塾」門下の村田臓六(大村益次郎),孫娘をめとり大阪医学校教官であった三瀬周三(大洲市出身)など近代医学の先覚者が県下から出ているが,これらの人々の綾なす生涯を画き出した「花神」もこの全集にある。


「適塾」という、むかし大坂の北船場にあった蘭医学の私塾が、因縁からいえば国立大阪大学の前身ということになっている。

「人間のからだというものは、初機械がみな各自に運動していて、それで生活をしている。その、原は一個の力より生ずる」と、洪庵は門生に説いた。

藤野恒三郎教授は、「大村益次郎とシーボルトの娘との関係、あれは恋でしたろうね」と、謹直な顔でいわれるのである。

「私は、恋だったと思います」と、藤野教授は、自問自答された。

村田蔵六はこの時期、備前岡山まで旅をしたことがある。用というのは、新着の蘭医書を岡山の人が手に入れたということで、------どうであろう、それを写しに行ってはくれまいか。と緒方洪庵が蔵六にたのんだのである。

女は、蔵六の前にもちの皿と土びんをおいて、ちょっと微笑をうかべながら、「このあたりはおはじめてでございますか」と、ものやわらかく問うたのである。

女が行ってしまってから、「どなたかね」と、蔵六はややぼう然とし、亭主にきいた。亭主はとてもそれどころではない様子で、また奥へひっこもうとしていた。
「お産か」蔵六は、察しがいい。

しかしお産そのものではなく、この亭主の妻がはじめてのお産で臨月をむかえてどうも様子が普通でないために、ここ数日、岡山から産科の先生にきてもらっている、という。


蔵六は、おどろいた。女で医師であるというようなことはきいたこともない。

「このあたりでは、シーボルト先生とよんでおります」


土間の右手が、患者の控え室になっており籐の畳の上に数人の男女がすわっている。その患者たちの頭上の欄間に、「和光同塵」という額がかかっている。

和光同塵とは、老子の言葉である。ソノ光ヲ和ラゲテソノ塵ヲ同ウス。光とは自分の知徳のことである。知徳がありながら俗世間(塵)にまじっている、という意味で、これはいよいようるさい人物らしい。


蔵六が大阪からもってきたみやげというのは、書物である。洪庵の病学(病理学)についての論文であった。未刊のもので、これを蔵六が書写して持参してきた。

「いずれ、この石井宗謙という町医が将軍家の奥医師にでも招かれるようなことになれば、岡山藩の連中はあわを食うだろう」
「和光同塵」と、蔵六はつぶやいた。
宗謙の和光同塵は意味が違うらしい。

そこへ不意に茶菓をもってあらわれた婦人がある。蔵六は、あやうく声をあげそうになった。きのうの昼、沼の茶屋で餅をはこんできてくれたおさ船まげの産科の女医者が、いま盆を畳の上におき、背をみせて明り障子を閉めているこの女性ではないか。

「よく渡せられました」とその女性は、きのうとは別人のようなしとやかさで、指をつき、あたまをふかぶかとさげた。
蔵六は、夢をみているような思いである。
「家内だ」と宗謙がいった。(齢がちがいすぎる)と、蔵六はおもった。亭主が50をとっくに越えているはずなのに、夫人は眉のあたりがまだ清らかで、はたちを2つかせいぜい3つばかり過ぎた若さである。

それに妙なことに、宗謙が、----家内だ。といったとき、彼女はあきらかに不快げな表情をし、「しもといね(失本イネ)でございます」と、名乗ったことである。

翌日、イネは大胆にも蔵六を宿にたずねてきた。いかに蔵六の宿が石井家のむかいであるとはいえ、この時代、夫をもつ身が、他の男をひとりでその宿をたずねるということはない。

やがて膝の上で、ふろしきの包を解いた。皮に金文字で装丁されたオランダ医書がでてきた。

「この紙片は?」「読めないところでございます」「石井先生に読んでおもらいになれば、よいではありませんか」「あの方とは、不仲でございます」

蔵六は親切な男だが、すこし顔色をあらためて、内儀どの、といった。「イネとよんでいただきます」と、イネはうつむいて赤革の小筒から鵞ペンをとしだしつつ、つぶやいた。
「石井宗謙先生の内儀ではござらぬか」「いえ、宗謙の家内ではございません」と、あやしいことをいう。

「人間のやることというのは、どうしてこんなに滑稽なことになるのでしょう」「そうじゃありません。学問にあこがれて、できれば女の身ながら蘭学者になりたいとおもい、長崎から伊予へ、そして岡山に」「参りましたのに、やらされていることといえば産婆の実務ばかりで」
「それが、滑稽なのでしょうか」
「いいえ、それならまだしも。----自分が、お産をしてしまったのでございます」


「村田先生」と、イネは息を詰めるようにしていった。「岡山から出たいのでございます」「それは拙者の一向あずかり知らぬこと」蔵六は、こわい顔でいった。「岡山から出たいというご事情はなにやら存じませぬが、出たいというがために大坂の緒方塾を志望されるのは失礼ながらご動機が不純でありましょうな」「不純」イネは、落胆を全身にあらわした。
「世間とは、人間が生きてゆくうえでなんと不自由なものでございましよう」


運命の転機には、仲介者が要るであろう。
蔵六のばあいは、二宮敬作という人物がそれであった。すでにこの稿での蔵六とイネとのかかわりのくだりで、その名前が幾度か出てきた。イネは生涯「二宮さんのことをおもいだしますと」と言うような話題のときには、つねに胸をつまらせ、しばらく息をととのえてからでなければつぎのことばが出なかった。

「嘉永六寅ノ九月二八日、和蘭紀元一八五二年、南遊了漫遊到シ記之」と、入念に書いている。この当時、西暦をつかった例は、残っているこの蔵六の表紙以外にまずないであろう。ただし嘉永六年は一八五三年で、蔵六は1年まちがえている。
「秋の淋しきをも厭わず、足に任せて志す方へと赴きける」と、いかにもこの旅人は淋しげで、しかし一面前途の希望に心が駆られているようでもある。

宇和島城下に口碑がのこっている。「村田先生が宇和島にやって来られたときにはみすぼらしい浪人行脚の姿で、それがのち藩用で江戸へ出られるとき、若党中間、両掛人夫その他数人の供まわりを従えて大そうなものでありましたから、町のひとびとは目をみはりました」


敬作は在宅していた。玄関へとびだしてくるなり、「伊予じゅうの名医がきた」とさわぎ、藤井(道一)が蔵六を紹介すると、とびあがるようにしてよろこんだ。敬作にすれば自分が藩にすいせんした男が、はるばるやってきたのである。
その後、二宮家は夜どおし、灯がともっていた。

「村田どの、縁というものはふしぎだ。イネどのが尊公の学識におどろいてわしに手紙を送ってきたときから、わしの心に尊公のお名前がきざみつけられた。こんどはわしは宇和島藩に尊公を推挙したのだが、その遠い縁は尊公がイネどのと岡山で会ったときからできていたと申していい。いや、そうなのだ」と言いだした。


 大野昌三朗が自分の裃をむりやりに蔵六に着せ、家老の松根図書(東洋城の祖父)の屋敷へひっぱって行った。そのあと、蔵六は図書につれられて、伊達宗城の御前にまかり出た。
宗城は灰色の顔色の男で、両眼を光らせ、ながいあごを前につき出している。この男が蔵六に命じたことが、蔵六にとって意外きわまりない後半生に踏み入らせることなった。
この殿さまが蔵六に命じたことは、「蒸気でうごく軍艦1雙と、西洋式砲台を1つつくれ」ということであった。

 「三藩、相競うて、競争であの黒船をつくろうではないか、と」
薩摩どのとは島津斉彬のことであり、肥前とのとは、佐賀藩主鍋島直正(のちの閑叟)のことである。


 日暮れ前に、イネがもどってきた。格子戸をあけて土間に入ると、見世座敷に敬作と蔵六がすわっていることを発見して、まるで声をうしなったようにうごかなくなった。じっと立ち、敬作と蔵六を見つめたまま、息を詰め、目をみはったままでいる。

 「イネどの。宇和島へゆこう。長崎などで開業していても、患者あしらいが悪達者になるだけで、学問はできぬ。宇和島で蘭語と外科と産科をもう一度基礎からやるのだ」と、一挙にまくしたてた。積る思いがあるだけに、つい語調がするどくなった。
 滑稽なことに、親の仇にでもめぐりあったような勢いだった。「どうだえ」敬作は、即答をうながした。
イネはまだ土間である。そのままの姿勢で自分の運命を変えるべき返答をしなければならなかった。「行きます」というと、イネの顔にみるみる血がさしのぼってきて、まつげがあわただしく動き、涙があふれさせた。彼女自身、学問がしたかったのであろう。ところがそういう環境も師匠ももつことができず、そのことについての憂悶やら不満やらが胸につもっていたにちがいない。それがいま融けようとしている。



 さて余談ならが、この小説は大変革期というか、革命期というのか、そういう時期に登場する「技術」とはどういう意味があるかということが、主題のようなものである。
大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。日本では吉田松陰のようなものであろう。ついで戦略家の時代に入る。日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在でこれまた天寿をまっとうしない。
 三番目に登場するのが、技術者である。この技術というのは科学技術であってもいいし、法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような軍事技術であってもいい。ただし伊藤雋吉が蔵六の塾にいるこの時代は、まだ革命情勢の未熟期にあり、松陰のような存在が生命の危険を賭して思想を叫喚しているときで、戦略家の時代でさえない。まして技術者の時代がきていない。が、技術がそろそろ時代の招び出しをうけようとしていた。










しんかがく 76

2012-09-24 09:00:00 | colloidナノ
1869年7月4日付けの書簡では、「舎密局での講義が始まりました。私は現在の生活に大いに満足しています。今所有している器具で、化学の講義はそれ相応にできますが、物理学の器具がまだ不足しています。
私は至って健康です。日曜日にはいつもヨーロッパ人とともに過ごしています。ボードウィン兄弟や他のオランダ人が私のところへきたり、ことらから彼等を訪ねたりします。」


9月7日の書簡では、「ムズプラットの本が最良の状態で届きました。「インテレクチュアル・オブザーバ」は、6月17日発行の号まで来ています。今後の発行分は全部どうかムスプラットの本と同様郵送して下さい。私は前々からユトレヒトで買ったウィリアム・オドリング著、アルフォンス・オッペンハイム訳「記述理論化学便覧」第1巻、エルランゲン、フェルデイナンド・エンケ1865年版を持ってきています。もし続巻が既に発行されていましたら、それを郵送していただくと有り難く思います。

・・・夏季休暇の旅行、生野銀山の参府旅行さながらの様子を詳しく書き記している。

同じ9月の書簡、「ムスブラットの別巻を受け取りました。これは硫酸工場の建設のために私に非常に役立ちます。その建設計画は既に決定されているのですが、実施に関しては、まだなにも始まっていません。
⇒この硫酸工場は明治元年11月に舎密局から遠くない天満橋を渡った淀川右岸に設立された造幣寮に建設企画された硫酸工場と思われる。実際に造幣寮において日本最初の硫酸工場である400ポンド硫酸室が着工するのは明治3年12月であったが、それは造幣寮専属のお雇いのイギリス人ウオートルスらの尽力によった。おそらくこのウオートルスがハラタマに硫酸工場建設の相談をもちかけたものと推測される。なおこの硫酸室が竣工するのはハラタマ帰国後の明治5年2月であった。

11月15日書簡では、「このところ私はきわめて多忙です。朝8時半から午後5時まで1日中舎密局にいます。長い間何もしないで過ごしてきたのですから、現在の状況を嘆いたら罰が当たります。というよりも嘆く材料を見つけるのはが難しいくらい、今は楽しく過ごしています。・・・講義準備で、山ほど本を読まねばならぬ仕事が出てきていますので、毎夜それにかかりきりになり、私事は後に延ばさねばならなくなってきています。 

このところ日本は非常に平穏です。
勝利者側は、既成の事実に静かに乗っかっている以外に何もなすべきことは残っていないし、内戦が再び起こる心配もないと見ているようです。先頃、天皇は2人の反逆主謀者の赦免を行いました。
 世界中どこでも同じですが、この国にも、昔と同じように、惰眠を続けている方が日本にとってはよかったと考える保守派がいます。我々ヨーロッパ人達は、彼等にも努力して働いてもらおうと新しい試みを要求するのですが、かつての武士階級は、そのようなことには不慣れで、また恐ろしく嫌がります。近頃は外国人襲撃は少なくなりました。それによって加害者にも日本にも、どういう結果を生むか経験によってよくわかってきたからです。
 一方では、西欧化思想を指導する改革推進者として知られている日本の高官達の殺人や襲撃をよく耳にするようになりました。
先日ボードウィン博士は、このような襲撃の犠牲者の治療のために京都へ赴きました。ボードウィン博士は、当地では前の長崎におけるように気楽にしておられません。
 日本人がはじめ江戸に建てようとしていた大きな医学校を、当地へ変更するという方針が確定しないということが、結果として重要事がなかなか実現しないという事態をもたらしています。
ボードウィンは前に私が住んでいた寺に今でも住んでいて、この冬もそこで過ごすことになるでしょう。彼は今私が2年前に経験したのと同じ境遇におかれています。弟の領事は時々ここへ訪ねて来ます。弟の方は外国人に対して、基本的な特権が認められている神戸の居留地に住んでいます。
⇒アルベルトは兵庫においても次の出来事にも無関係とは言えないとして、神戸事件にも言及している。


旧幕府領に新設された兵庫県の知事には、兵庫裁判所にいた道後ゆかりの伊藤博文であった。伊藤が朝廷から兵庫の責任者に任命されたのは2月20日頃であった。尚明治41年7月10日勲2等を授与されたトーマス・グラバーは伊藤について、こう言っている。「伊藤さんに逢った時には自分の全力を尽くした。」自らは「徳川政府の謀反人の中では、自分が最も大きな謀反人だと思った」

『本立而道生  博文 春畝』(論語、学而)備考 林宇一⇒俊介⇒春畝(明治元年2月以降)
尚、『非恩非賢 非仏非儒 真個書生』等も知られている。絶筆は「見聞皆是真学問」(明治42年10月25日)

⇒第1回の居留地会議の会合は、東税関近くの屋敷に置かれていた英国領事館で開かれた。出席者は伊藤知事、各国領事および外国人社会の代表として選出された3名の行事であった。
居留地会議主席としてオランダ領事ボードウィンが議長席につき、民間代表の3名の行事を知事に紹介した。「ジャパン・クロニクル紙ジュピリーナンバー 神戸外国人居留地」堀博・小出石史郎共訳 土居晴夫解説 神戸新聞総合出版センター 1993)  

しんかがく 75

2012-09-21 09:00:00 | colloidナノ
「大阪舎密局の史的展開」(京都大学の源流)藤田英夫著;思文閣出版

第3章 化学史からの大阪舎密局その②「大阪舎密局の授業と化学教育」からの引用。

 舎密局の授業は、明治2年5月8日午前10時にはじまった。ハラタマが理化総論の講義をし、三崎が通訳として生徒に伝えた。生徒の学力を考慮して、この講義は筆録され、後日出版された。

 しかし、出版されたのは、第1巻の総論、第2巻の理学各般性論、第3巻の化学各般性論と第4巻の化学原質製錬学だけであり、残りの5巻は未刊のままである。

 ハラタマは大阪では多忙な日々を送ったようであるが、その講義を類推すると、基礎知識の伝授を急ぐ余り、その系統性にいくぶん難があった。

 開校後2ヶ月の明治2年7月からは、毎日午後にはハラタマによる化学試験が、また翌3年正月からは化学試験伝習稽古がそれぞれ開始された。

 舎密局は開校後一年の間に生徒数も増加し、その南側にあった鈴木町に開設された大阪医学校の生徒が舎密局のハラタマの講義を聴講するようになった。明治4年1月から5月の間に医学校から舎密局への聴講生の数は59名に達している。

 また、明治3年3月29日付けの医学校から舎密局および洋学校宛の伺い書に「加州藩高峰譲吉17才、右者当校入寮生に候。英会話伝習被致度旨申立候間差出申上云々」とある。
 高峰はその後、明治6年に医学修業の志をかえて、東京大学工学部の前身である工部学校に入学し、化学の道を歩みだした。
のちにアドレナリンおよびタカジアスターゼの発見、そして理化学研究所創設の功労者として明治時代の代表的な化学者となった。


 ハラタマは舎密局の理化学実験教育のために、オランダから多くの器具、薬品を取り寄せていた。

 その内容は化学器具類557点、物理機械類376点、薬品類1500余瓶を数え、書籍については蘭書370冊、独書140冊、仏書165冊である。
 化学器具類についてみると天秤10種類28基、3ツ口洗気瓶85点、試験管1780本、陶器製坩堝約800筒、白金坩堝15筒、蓄電池約60点、顕微鏡10基などである。試薬品については、まず量が少なくても種類が多いのに驚くのである。大部分が外国製品である。


 ハラタマは舎密局での講義とは別に、造幣寮のために金銀貨幣の分析法の講義も行った。・・・和蘭ハラタマ口授「官版金銀精分」として大阪開成学校から明治5年春に発刊された。

 また常にハラタマの傍を離れず、講義の通訳を担当していた三崎嘯輔には、「試薬用法」全2巻、「薬品雑物試験表」「化学器械図説」「試験階梯」「定性試験桝屋」等。
このほかに三崎には明治6年刊行の『新式近世化学』がある。これは舎密局退官後、その経験をもとにした私塾での講義を辻岡精輔が集録したものであり、日本人としてはじめて分子仮説を採用した貴重な著作である。

 ところで、舎密局は洋学校および医学校を含めて大阪の地における総合大学の観を呈していたが、その舎密局が本来の学問伝授のほかに広く校外一般にもその機能を公開していたことは注目できる。
 たとえば理学校時代の記録をたどると、石墨の鑑定、有馬温泉の成分分析、糖菓着色料中の有毒成分検査、1円銀貨などの各種貨幣の分析、滋賀県蒲生郡日野山産出石炭の分析及び竹生島の鳥糞の分析などにも応じている。
 またハラタマは生野銀山の調査なども行っている。
Jean Francisque Coignet、ジャン・フランソワ・コワニエの誘いによって生野銀山見学の旅にでた。

 「8月15日から31日までヨーロッパ流に舎密局は夏季休暇となり、私はこの機会に国内旅行をして大いに楽しみました。この旅行計画は既に前から立てていましたが、肝心の点が欠けていました。それは時間と政府からの許可でした。それでまず休暇によって時間を作り、それから政府に申請しました。ところが実に驚いたことに即座に許可が下りました。
今回の旅行の目的は大阪から4日間の旅程で行く銀と銅の鉱山の視察でした。以前に寺町で私の近くに住んでいたフランス人技師が、今ここの開発主任になっています。政府は学校の事務長と私の門弟二人と下男二人を私に同行させ、さらに私は自分の馬丁と馬と召使を連れて行きましたので、一行は8人となりました。それに荷物全部とヨーロッパの食料、飲物は当地で苦力と呼ばれる者達によって運搬されますので、総勢はいつも20名に上りました。旅は日本風の無蓋船で大阪から神戸へ向かう夜行の海路で始まりました。船は大層大きく私の馬も乗せる場所がありました。

 まず最初に大名の領地へ入って行きました。私はどこでも天皇の役人に対する待遇をもって迎えられました。

 鉱山では実に多くの興味深い事物を見学しました。ここに3日間滞在するうちに、私は日本の鉱物の潤沢さについて考えさせられました。

 帰路の旅も往路と同じように進みました。この旅費について私の支払額を尋ねるまで、政府はそれについて無頓着のようでした。結局全額政府が支払いました。










しんかがく 74

2012-09-20 09:00:00 | colloidナノ
 ハラタマが江戸の開成所で新しい理化学校の開校を待ちあぐんでいる間に、日本の政局は雪崩の如く、転変の道を突き進んで行った。
1867年10月には、大政奉還、翌年1月には鳥羽伏見の戦いに続いて、ついに新政府軍は4月に江戸に攻め上ってきて、5月には上野の戦争が始まった。

 ハラタマは江戸を脱出して横浜のオランダ領事宅に難をのがれた。それは家財道具も書籍も江戸の住居に置いたままの緊急避難であった。

 ついに幕府は崩壊した。
ハラタマは1867年2月1日から始まる3年間の雇用契約を幕府と結んでいたことは前に述べた。したがって幕府に取って代わった明治政府がこの契約を引き継ぐ立場にあった。
 同年6月に新政府の外国副知事小松帯刀と同参事兼大阪府知事、後藤象二郎が連名で、右大臣三条実美に理化二学は日本の国の富強の基をなすために必要であると建言した。その結果幕府の開成所内に設立予定であった理化学校を大阪に移すことが決まった。
 これが大阪舎密局である。

⇒緒方次郎説 パリ万博において洪庵縁者の田中芳男、緒方惟準、松本太三名が落ち合わせた際、母国の危急なこと、ハラタマの理化校、ボードウィンの医学校をどのように運ぶかについて協議が行われた、これにより田中が帰国後開成所内をリードして、その大阪疎開を推進したというわけである。(「化学」⑩1988椎原庸)

 新政府の大久保利通は、都を京都から大阪へ移すことを唱えていた。
この大阪遷都実現のため1868年4月に明治天皇は大阪へ行幸され、大阪に病院取建の沙汰書を下されている。これが舎密局と併立して設立される大阪医学校の発端である。

 ハラタマに再び希望の時が巡ってきた。
この年の夏、ハラタマは三崎らとともに横浜から船で大阪入りした。ボードウィンよりハラタマが先に大阪に着いたので、舎密局の建設が医学校に先行することになった。

 建設工事は用地選定直後の10月4日に起工し、11月18日に上棟式が終わり、翌年1月には完工予定であった。


 しかしそれより前の7月に東京遷都の方針がきまり、大阪遷都の夢は消え去った。
新政府は東京における新首都建設に忙殺されて、大阪における学校建設は宙に浮き、せっかく始まった舎密局建設工事も12月には中断の憂き目を見、予定の寄宿寮新築や庭園造築は絶望となった。

 ハラタマはまたもや期待を裏切られて、仮の宿舎の上本町4丁目の大福寺で待機を強いられた。


 1869年2月25日に至って、ようやく舎密局建設に関する事業は、大阪府管轄となって再開されることが決まり、中断されていた建設工事も再び始まって、3月末には舎密局本館とハラタマ居宅が完成した。

 しかし、舎密局の開校に漕ぎつけるには、まだ難関が待ち構えていた。
開校を目前にして、大隈重信大蔵大輔は舎密局には当分の間、理化学の実験、研究は行わせず、算学、測量学の実学の講義に止めるべきであることを申し入れてきた。

 これに対し、ハラタマは理科教育における実験の重要性を強く説いてやまず、ついに大隈説を斥けることができた。

 1869年6月10日に舎密局は開講の日を迎えた。

 試みに東方の人、1たび西洋に行き、直ちに火輪船、火輪車、電報機の妙用、且つ数千万人力に代ふる所の技倆及び海陸二途の難事を容易にする諸局等、概して之を謂ヘハ、万物の力を資投シエキし生計の道を増補する事件を目撃せバ、西洋各国の繁盛、全く万物自然の学を詳識するに在るに識るべし。

近代西洋の学問には、万物自然学と理化学の二学がある。諸物体の変化を扱い、性質変化を論ずる学を化学という。昔は化学は理学の一部であったが、最近では両者は分離して、むしろ化学は理学を圧倒するに至っている。
また化学はかつて分析学と呼ばれたが、この名はこの学問の一部を表すに過ぎず、現在では合成もこの化学の範疇に属している。したがって物質に関する学術としては、この理化二学を学ばねばならない。

自分はこれからこの理化二学の講義を行うのであるが、これを聴く者のなかに、あるいはその内容を単に思索の結果と思う者がいるかもしれぬ。しかし実はそれらは、すべて実験でもって証明されているのである。

今では化学は鉱物類、新薬、染料、陶磁器、酒類、その他百般の日常生活に関わる化合物の製造によって大いに世に鴻益している。
化学には無機と有機の別があるが、最近20年間は特に有機化学の発展が目ざましい。昨今は動植物成分も化学合成によって作ることができるようになった。たとえばキニーネは非常に貴重で高価であるが、いつの日にか化学合成の方法が進歩すれば、廉価な植物成分から容易に類似化合物を誘導することが可能になるであろう。

 以上の講話に由り、諸君正に理化二学ハ古人に関せずして漸く文明開化に及ぶ人民に在りてハ不可欠の学術にして、是れに由りて万民開闡に赴くことを知るべし。故に開化の人ハ大いに此学を嗜好す。何となれバ、人民を開拓するは此学徳に在るを識れバなり。
 今此学校を設け、既に大成す。翼コイネガハくハこの二字を洽く布行し、辺境と雖ども其理拠を暁らんことを。是予が渇望する所なり。故に阪府総督より以下此處に列する人、予微意を助け苦心焦思昔日に倍し、協力一心、此学を開かバ、実に天下の大幸なり。


ハラタマ講演が終わって、その日の午後、舎密局開校を記念して撮影が行われた。
 そのときの同じ写真2枚が、オランダのと日本(愛媛県大州市立博物館)に残っている。日本に残っている写真は、ボードウィン医がもらったものを、医学校側通訳の三瀬諸淵が彼の出身地の大州にもち帰ったものであろう。







しんかがく 73

2012-09-19 09:00:00 | colloidナノ
 この手紙の差出し場所、「開成所」については、あなたは多分まだ何も御存知ないでしょう。これは漢字で“開かれた場所”という意味です。しかし驚かないで下さい。これは何も人体を開いて解剖するということではなく、精神を啓発するという意味です。
・・・ここではこれまでに特にヨーロッパの言語と化学の教育が行われていまして、洋式印刷所や書籍、鉱石、昆虫などのちょっとした収集所の他に植物園も付置されていますが、どれもまだ初歩的な段階のものです。

 数年前まではこの学校は蕃書調所、すなわち野蛮人の書物を調べる所という別名で呼ばれていました。・・・

図4 開成所内ハラタマ住居(ハラタマのスケッチ)

 塀の外の隣接地には15人の日本兵が見張っていて、私が散歩や乗馬で外出する時には、その番兵の中の何人かが私に付き添ってきます。幕府は攘夷派の襲撃を恐れて二重の塀で警戒にあたり、増大する事件に備えるなど平穏ではありません。私自身も連発ピストルと連発銃を用意しまして、不時に備えた予防手段をとっています。・・1867年6月9日書簡


 私は単身で江戸へ来まして、マンスフェルトは長崎に留まっています。
長崎の学校は2部より構成され、1部は醫學準備教育、2部は医学本科と定められています。マンスフェルトは、後者の教育を任され、同時に病院業務も担当しています。予備教育は主として、物理学及び化学から成り立っていますが、後には、植物学や鉱物学も加えられました。この準備教育部門はボードウィン博士の発想にかかるものです。

 当初から既に江戸に化学、物理学およびその応用科学を、“それ自身のために”教えることを目的とした学校を設立する話がありました。日本のお役所仕事の常で事態はきわめてゆっくりとしか進みません。この理化学校を開設するという通知が、江戸からやっと届いたのが12月11日のことでした。1867年8月24日書簡



ところで今日は9月19日!!獺祭忌

9月1日の愛媛新聞からの抜粋

カワウソ(獺、川獺))このため明治期までは広範域に生息していたが、60年代を境に急激に減少。79年に高知県須崎市で、県内では75年に宇和島市九島で確認されて以来、記録がない。
 今回の絶滅宣言は、高知県のデータなどを基に行われたとされるが、愛媛県内の調査は不十分なままだ。南予の海岸部や島しょ部などに生息の可能性がある地域が残る。いまだに手つかずの地域も多く「空白地帯」のままだ。


 ここで紐解いたのが子規居士の写生。
それは自ら省みての月並みからの訣別の過程から生まれたと言える。

 なんとかこのあきあきしてきたものから、何とか新しい方向を見出したいとの焦りから、自然を詳細に観察し発見を心がけたのだ。
それは恰も科学者が顕微鏡上の新発見を楽しむように何等かの新しい現象を掴みたかったのでろう。

「客観句にも尚ほ主観が働く」

ある僧の月も待たずに帰りけり

という俳句、並びに

瓶にさす藤の花房短ければ畳の上に届かざりけり


という和歌に就いても今少し考えてみよう。

 ある僧の月も待たずに帰った、という句は観月会の席上の或る出来事を作者が何の主観をも交えずに唯其の儘を写生したものである。
然しながら之をかく句にしたのはこの事を面白いと感じた作者の主観が土台となっているのである。多くの人は観月会に来たのであるからと其の観月会という名前に拘泥して、ひたすら月の出を待っていた。
 ところが此僧は観月会に参列して置きながら月の出も待たずに帰ったのである。その理由はたとひ法事の打ち合わせに此寺に来て、其序でに一寸席上に顔を見せたものであろうとも、又他の理由でそこそこ帰ったのであろうとも、兎も角月の出も待たずに帰ったという事がふと子規居士の主観に強い印象を與えて爰に句になったのである。

 併し乍らも句の上には唯其事実だけが平坦に叙されていて、何等子規居士の主観の躍動は描写されていない。爰に次の如き結論に到達する。
即ち客観のみを叙した句であっても、其句の背後には作者の主観が働いている。


「藤の花」の歌の方にしても同様である。

 斯の如く客観句客観歌というと雖も矢張り主観が働いて出来るものであり、自然のそのままを描写するという子規居士の主張も些くとも選択ということが行わるることによって不合理なこととなる。
 斯かれば厳密に之を言えば客観写生句というものは曖昧になって来る。客観写生句を攻撃する人が1人として此事に言及したもののないのは不思議千万である。

 私は一般俳句を学ぶ人をして、月並み調に陥し、若しくは奇怪なる俳句を作らしめない為に、又其人をして俳句の道に入る順序を踏ましめん為に、又俳句の道に入れる人にして愈々力強く俳句の表現を得せしめん為に、仮に、善功方便として、所詮客観写生句を作れと称導するのである。
厳密に言って客観写生句なるものは存在しないにしても、斯く呼ばるるところのものを作ろうと志すことが、俳人をして比較的誤ざらる方向に進ます道と信ずるが故に敢えて称導するのである。参考文献 「正岡子規」高浜虚子著(甲鳥書林)  『写生といふこと』


清が逝ったのも同じ日であった。   
   つき天心 のぼるきよしも獺祭忌

しんかがく 72

2012-09-18 09:00:00 | colloidナノ
 トーマス・グラハムの没後144年も過ぎた。
彼の偉業はただ単に拡散しただけではなく、そこからの質実は格段の深化を見せた。

 その始めを1867年の人工細胞(M・Traube)に現れとみることも出来るであろう。
10年後には半透膜の膨圧からファント・ホッフ、アインシュタイン(サザーランド)と受け継がれてのペランの「原子」へといたる道筋に見て取れるのだが、稿を改めて触れらることもあろうか。

 ところでハラタマの書簡に見る1867年とは12月14日、開成所から出されたヤン兄への手紙がその時をよく映している。

 私がまだ長崎にいた頃、万事が余りにも緩慢すぎると愚痴をこぼすと、7年間日本にいたボードイン領事は「辛抱、辛抱さえ続けていれば、日本ではすべてうまく事が運ぶ」と云っていたのをよく耳にしました。

 私は江戸でまだ一度も講義をしていませんので、目標はだんだん近づいてきています。皆、研究所建設に一生懸命働いてくれていますので、2月の終わりには完成すると思います。

 自然がいっぱいで浮世の憂さを忘れる散歩にちょうどよい小さな庭のある私の家、書物との対話、やがて始まる理化学校での講義準備の仕事、そして横浜行きや時たまの近郊の村への遠出、隣人のフランス人の家でのトランプ遊びの夕べ、これがここでの私の生活です。


 1867年はまたたく間に過ぎ去って行きました。私はテイタスよりも大声で叫ばねばなりません。今年は私にとっては、日本人のおかげで全く無駄に過ぎ去って行ったと。⇒Titusエルサレムを最服したローマ皇帝

 閑暇の時を黙過するに忍びず回顧される「ハラタマ来日の背景」

 キリスト教の国内伝播を防ぐことを目的とした徳川鎖国政策は、15世紀の初めに家康がオランダに通商許可を与えた1609年ごろから強化されたが、1720年になり将軍吉宗により日本にとって有益な書物、たとえば医術、薬草を中心とした植物学、天文学などの書物に限り、長崎商館を通じての輸入が許可された。

 江戸時代の化学は、化学といっても現在のイメージからほど遠く、生薬、古典的洋式医薬、あるいは黒色火薬やキャノン砲の材質の分析など、もっぱら実用的見地のみからの知識導入であった。

“蘭学事始”の年1774年あたりから、蘭学者の蘭書を解読する語学の実力が急速に上昇し、訳書の出版も意欲的に行われ、西洋科学文明の導入が盛んになった。

(宇田川榕庵「舎密開宗」、川本幸民「化学新書」)実験こそほとんど伴わなかったが、化学を知識として受け入れる素地は整いつつあったのである。
この時代、化学の直接伝授役は本ではなく、商館長随伴の医師たちであり、シーボルト(1823-1829)モーニック(1848-1853)ブルック(1853-1857)ポンペ(1857-1862)ボードイン(1862-1871)それからハラタマ(1866-1871)と概観できるのだが、そこに流れるモノに引っかかってしまった。

 モノとは自然科学と言うよりも、医化学という方が判然とするのかもしれないが、その分離拡散していく様が興味を惹いたのである。

 長崎から撤退した英国の轍を踏まないためにも、日蘭貿易のための日本研究は疎かには出来ない。その使命を担ってのシーボルトの後継者たちも医化学者たちであったが、そこから化学が分離拡散しながら、浸透していくのだ。

 それは西洋科学が細分化していく道筋に重なって見える。化学の独立であり物理化学の誕生へとつながっていく。

 それがシーボルトからのモーニック、ブルックそしてポンペとかA・Fボードウィンの医化学からの分科がハラタマにて完結したともいえる。
その表象となる「舎密局」と、みておこう。

しんかがく 71

2012-09-14 09:00:00 | colloidナノ
第4章 「動乱の時代へ」

1866年4月28日
重役会は68年元旦に私が大阪の事務所を開設することを期待することを期待すると思います。・・・



ハラタマが到着しました。もう働き始めています。彼の黒い帽子には腹を抱えて笑いました。日本全国どこを捜しても、誰一人こんな代物をかぶっていませんよ。日本旅行をする時はこんな長物はデ・グロート商店の店頭にそっくりそのまま残してくるべきですね。
2,3日間上海のクルース夫人宅で厄介になりますが、今から狂喜しています。

1866年6月12日
 
日本の蒸気船で長崎から23日間もかかる航海を経て、7日に当地に到着しました。すばらしく快適なポルスブルック総領事の美邸に逗留しています。大きな庭園には苺が豊かに生っています。味を忘れかけていた、このおいしい果物を心ゆくまで貪りました。

前回来た時に比べると、横浜はまったく変貌してしまいました。かっての小村が今では町になりました。この港を現在のように発展させたのは生糸の取引でした。古い港町長崎はこの点非常に遅れています。しかし最近ヨーロッパから伝えられるオーストリアとプロイセン間の緊迫した情報が影響して、景気がよかった取引が下落しています。・・

勝手な理由でヨーロッパに発砲したフォン・ビスマルク氏は、平和攪乱罪で絞首刑になるには、ちょうどうまい具合に爛熟したところではないでしょうか。
もう今ではこの戦争は大衆の支持を失っていると思います。オーストリアも責任がないとは言えません。しかし罰金を支払う金はもう持っていないでしょう。

⇒ドイツ統一をめぐって対立した両国は、1866年6月15日に開戦し、プロイセンが大勝して、Deutscher Krieg普墺戦争は7週間後に終結した。

1866年9月23日
ハラタマとトーンは連れ立って出発しましたが、ハラタマの方が一足先に戻ってくるはずです。トーンは大阪に滞留する必要がなくなって、江戸へ向かいました。

今日本では動乱の時代に差しかかりました。
ひとまず情勢が落ち着くまでは、長崎から一歩も出ない方が利口でしよう。この状況が半年で終わるものか、1年続くものか、予測できる者はいません。すべて時が解決してくれるはずです。私は変事が起きたら、整理中の仕事をそのままに残して、日本を退去するのもいといません。

⇒同行したハラタマの1866年9月9日と10月16日の書翰によると、2人は8日間江戸に滞在してから、残りは横浜で過ごしたことになっている。
江戸ではヨーロッパ人としてはじめて、老中から江戸城外苑拝観許可が与えられた。/二人は長崎を「外国人が提灯祭と呼ぶ千灯篭祭の夜(8月25日)に出発して、瀬戸内海を通航し、兵庫で2,3日滞在してから、2日間の航海を経て、横浜に到着した。翌日直ぐに7時間乗馬で江戸のオランダ総領事館に向かった。全行程は5週間かかり、ハラタマは10月2日に長崎に戻った。
ボードウィンはは行動を別にして、後便で帰還している。/松本良順自伝によると、将軍家茂の症状を侍医たちは脚気と診断していたが、ボードウィンは心臓内炎と推測した。将軍の病が重くなり、ボードウィンを急使で長崎から召致したが、彼が神戸に着いた日に家茂は逝去した。松本は神戸に赴いて、ボードウィンに会い、遠来の労を謝したあと、上陸して大阪城に入る危険を告げて、将軍の死を2,3ヶ月黙秘するように頼んだ。/ボードウィンの後任にファン・マンスフェルト

1866年10月18日
トーンはまだ不在ですが、江戸からの次の船便で帰宅するでしょう。「その時はすでに11月1日が訪れていたのである」というような気障な言い回しが、トーンの動静を表現するのに最もふさわしいのですが、テニウス(トーン)の舌が辛辣なので、私は遠慮して控えているのです。

ハラタマとマンスフェルト両人は健在で、ピンピンしています。

1866年11月5日
1866年がすべての人に凶年であったように、来年がすべての人に幸運をもたらす年であってくれるとよいですね。

トーンは現在利子生活者の気軽な身分です。
万事をマンスフェルトとハラタマに引き継ぎました。2週間後に豪勢なロシア軍艦ワリアーグ号でバタヴィアへ出発します。ルント艦長は私たちの友人で、トーンをこの航海に招待してくれたのです。艦上には軍楽隊も乗っていて、船室も素敵です。テニウス(トーン)がこれより快適な船旅のチャンスに巡り合えるとは考えられません。
 彼はジャワから日本に引き返し、出島からサンフランシスコ経由で帰国します。来年の5月か6月にオランダに入国する予定です。


1866年12月12日
横浜はむごたらしい災害に見舞われました。
去る11月26日月曜日午前8時、日本町から火事が発生しました。南西から暴風が吹き荒んだ日だったので、消火は思いもよらない状態だたのです。炎は外人居留地に襲いかかり、その3分の1と日本町の半分以上を焼き尽くしました。



 「面目ない」との想いを抱いての胎教も、今は臨月を迎えんとしている夏目千枝なのだ。
こうして生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。それが金之助と名付けられた由来である。
 さらに付記すればこの年は江戸でも大阪でも打ち壊しが起こり、人心の不安はさらに激化していく。
そしてあの「ええじゃないか」が三河から拡散波及して東は江戸、西は安芸国の範囲で流行した。
 幕府倒壊前後という正に時代の節目で、世直しを願う民衆は、新しい時代への不安や日常生活の不満を、ええじゃないか、ええじゃないかと踊りこんだのである。

                柳田国男「故郷70年」であったか、“母が北条に祖父を訪ねたのは丁度「ええじゃないか」が踊られている夜だった。祖父はせっかく訪れた娘に「今夜は用件で行くところがある」と手拭いをもって、そわそわと姿を消した”とあったと記されている。