goo blog サービス終了のお知らせ 

ゆらぐしんり⑳

2012-02-26 08:39:54 | Brownナノ
ピコピコヒョイっと・・・Gyrinidae水澄まし。




 ブラウンなそれでいてゆらぎの時でもあったプリンストン高等研究所時代は、ゆらぐしんりの「統一場理論」問題は、みかん。それが何故か、ワルター没後50年を追悼しての「未完成」とも響きあい、懐かしくも新しく想えるのだ。

         

 さて、「1905年の春のことだ。アインシュタインは年来の友人ハビヒトへの手紙にこう書いた。

 君の論文を送ってくれたら、おかえしにぼくの論文を4つ送ることを約束します。・・・・

 その3番目では、熱というものを分子の運動とする考えをとれば、液体にひたした大きさ1000分の1mm程度の微粒子が、分子運動の熱運動のせいで、顕微鏡で見られるくらいの乱雑な運動をすることになるという証明をします。4番めは、動く物体の電気力学を考察して空間と時間の理論を書きあらためるものです。
 この4番めというのが、相対性理論の論文である。彼はつづけて、“そのような乱雑な運動は、生物学者たちによって実際に観測されており、ブラウン運動と呼ばれています。”
もっとも、その論文<熱の分子論から要求される、静止液体中に懸濁した粒子の運動>のほうをみると、これは慎重な書きかたになっている。“この運動がブラウン運動だというのはありうることだが、ブラウン運動について手に入る知識がすくないので、この点の判断はできない”といっているのである。
 彼は、ブラウン運動がすでに観察されていたことを知らずに理論をたてた、と書いている本もあるが、それはちがうようだ。
アインシュタインは、ブラウン運動が原子の存在をはっきり証明してくれるだろうという考えから、その研究に向かったのだった。

参考写真;左の2人は、左から順にハビヒトとソロヴィーヌ。彼らは‘オリンピア・アカデミー’と称して、しばしばあつまって物理学や哲学を議論をした。→「誰が原子をみたか」江沢洋。岩波書店
         


 彼は、水の分子の衝突により微粒子がどのように動くかを議論したのだが、その効果が、ブラウン運動と呼ばれているいるものであるとは断定していない。他にも、微粒子の運動を引き起こす原因がないかと、確信がもてなかったのであろう。データーとの比較まではしていなかったため、それについて結論を出すことを保留している。
 実際彼はブラウン運動について詳しかったわけではなく、この研究がブラウン運動と関係しうることを指摘したのは、友人のベッソーだったらしい。→「アインシュタイン26歳の奇跡3大業績」和田純夫(ペレ出版)



 アインシュタインが生活の糧にと出した家庭教師の広告に目を止めたモーリス・ソロビースは、ベルン大学を卒業したばかりのこのルーマニア人は、哲学か自然科学かその進むべき道を決定するために、とりあえず苦手な物理学の基礎知識を学ぼうとアインシュタインを訪ねたのである。

 「彼は輝かしい弁舌かではありませんでしたし、きらびやかな修辞を使おうともしませんでした。彼は問題を伸びやかな適切な声で、しかし、瞠目すべき簡明さをもって説明しました。抽象的な考えを簡単に説明するために、日常経験の世界からの例をよく使うのでした。」

 その後アインシュタインとチューリッヒ時代からの友人であるコンラッド・ハビヒトを加えて作ったのがアカデミー・オリンピアである。

 会合にはこの3人の他にアインシュタインの恋人で、後に妻となるミレヴァも加わっていたようである。

 ベルンにおけるアインシュタインの日々を、その行動範囲という視点で、もう少し詳しく見てみよう。
 彼の基本行動パターンは、昼間は特許局、夕方から夜間にかけてはアカデミー・オリンピアでの議論のためにカフェ・ボルベックで過ごしたわけだが、そのほかに彼の行きつけの場所は、①市立ギムナジウム(学校)物理学実験の場所として借りた教室のある学校。②ホテル「シュトルヒエン 「自然研究協会」の一員として加わった。③住居 ベルンにいた4年間に7回転居している。

長々と引用したのは、そのことではない。

 1905年の特殊相対性理論の論文の最後で、アインシュタインはある一人の人物に感謝の意を表している。
『最後に、ここに扱った問題を研究するに当たり、私の友人であり協力者である、ベッソー氏の忠実な援助と、彼の幾つかの貴重な議論に感謝する』

 ベッソー氏と初めて出て来る名前である。
彼はアカデミー・オリンピアの仲間ではなかったが、特許局時代に知り合って以来の、アインシュタインの生涯の親友だった。


 1905年の5月ころ、アインシュタインはベッソーの家を訪ね、彼に議論を吹っかけたことが記録に残っている。
『今日は君に戦争を持ち込んで来た。』と言ったそうである。
 その夜2人の話し合いで結論が出たわけではなかったが、次の日再びベッソーを訪ねたアインシュタインは、『ありがとう、私はもう自分の問題をすっかり解いてしまったよ』と言ったという。

 かのアカデミー・オリンピアの仲間の1人の名前もあげず、またマイケルソンの名前も論文に書かなかったアインシュタインが、論文の最後に友情というより仁義としてその名前を書かざるを得なかったからには、よほど重要なヒントを彼にもらったのだろう。
NHKスペシャル アインシュタインロマン



ミケーレ・ベッソは、特殊相対論においても、格別の働きを見せたのだ。
  Michele Besso

 
 「ミケーレは私より一足先にこの奇妙な世界を去ってしまいました。でもこのことにはなんの意味もありません。私たち、自分がたづさわる学問を深く信じるglaubige物理学者にとって、過去、現在、未来の区別は、しつこく付き纏って離れない幻想にすぎないのです。
→終生の友、ミケーレ・ベッソについて。ベッソ家への悔やみ状。1955年3月21日






 それからの「統一場理論」は、そのかたのうえに。
ニュートン・アインシュタインを超える飯田物理学(GUFP)の誕生について







 あのかたにたつ「科学・技術」でなく、そのおもいをこめたもの、わたしの「しんかがく」。 

ゆらぐしんり⑲

2012-02-23 09:16:03 | Brownナノ
「もっともよく聞かれる、科学以外の疑問に対する答え」から、少し記しておく。

アインシュタインがもっとも賞賛した物理学者
マイケル・ファラデー、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、アイザック・ニュートン。自分はこうしたカリスマ的な科学者たちの肩の上に立っているのだ。

アインシュタインにもっとも影響を与えた哲学者
デイヴィット・ヒューム、伝統的な常識的仮定とドグマにたいする批判のゆえに。エルンスト・マッハは、空間にかんするニュートンの考えにたいする批判のゆえに、また、ニュートン力学の批判的検討のために、そして、知的懐疑主義を鼓舞したゆえに。バルーフ(ベネデイクト・デ)スピノザは、その宗教観のために。アルトウール・ショーペンハウアーは、霊感を与えてくれる言葉、“人はしたいと欲することをすることができるが、こう欲したいと欲することはできない”のゆえに。

アインシュタインが好んだ本と著者
ガンデイーの「自伝」。ジョン・ハーシーの「アダノのための鐘」と「壁」。ソーントーン・ワイルダーの「わが町」、ドストエフスキー、トルストイ、ヘロドトス。スピノザの宗教に関する著作。
1920年にアインシュタインが推薦した科学書についての本は、ヘルマン・ワイルの「時間・空間・物質」、モーリッツ・シュリックの「今日の物理学における空間と時間」、さらに「相対性原理」と題された本である。

趣味
音楽と読書のほかに、アインシュタインが情熱を傾けていたのがセーリングだった。50歳の誕生日に友人たちが買ってくれた帆船を、ベルリンの南西、カプートの夏の家のそばハヴェル川で走らせた。この船は、マホガニーをはりめぐらした215平方フィートのデインギーで、“テユムラーTummler=イルカあるいは滑るように進むもの”と呼ばれていた。

イルゼの手紙
1918年春、アインシュタインは、エルザとの婚約を破棄することを考えていた。エルザの20歳になるかわいい娘イルゼと結婚することを検討していたのだ。
イルゼは1918年1月にカイザー・ヴィルヘルム研究所でアインスタインの秘書になっていた。このころアインシュタインはミレヴァとの離婚の最終段階にいた。
このことが公になったのは、かなり最近、「アインシュタイン全集」第8巻が1998年に刊行されたときのことだ。1918年5月22日の手紙でイルゼは、医師で反戦活動家のゲオルク・ニコライに、アインシュタインから結婚の話を切り出されたと打ち明けた。微妙な状況をどう扱えばいいか、迷っているようだった。
母は1912年からアインスタインと恋仲であり、この苦境を知っていて、イルゼのよれば、娘の幸せがかかっているのなら喜んで身を引くつもりだった。しかしイルゼは、自分にたいしてアインシュタインがいだいているように思われるのと同じような情熱を自分のほうはアインシュタインにたいしていだいていないという判断を下した。
実際、イルゼにとってアインシュタインは父親のような存在(当時38歳)で、肉体的に親しくなりたいという思いはなかった。結局イルゼはプロポーズを断った。
翌年、エルザとアインシュタインは結婚した。

「友人、科学者、その他について」
愛人であり、ソ連のスパイだったと言われる、マルガリータ・コネンコヴァについて

きみは祖国を深く愛しているので、こうして“ロシアに帰って”いなかったらやがて苦い思いをいだくようになっていたことだろう。何しろきみは私と違って、この先、何十年も活発に仕事をして生きていくのに、私のほうは、どんな点から考えても・・・・とっくに死んでしまっていておかしくないのだから。→1945.11.8手紙

最近、自分で頭を洗ったが、あまりうまくできなかった。私はきみほどは注意深くはないのだ。何を見ても、きみを思い出す。・・・・辞書、なくなったと私たちが思ったすばらしいパイプなど、私が隠遁生活をおくる小部屋にあるちょっとしたものすべて、それに私のさびしい隠れ家。→1945年11月27日手紙

人々はいま、“戦後”、前と同じように暮らしている。・・・・自分たちが対処しなければならなかった恐怖から何も学んでいないのは明らかだ。以前、自分たちの暮らしを複雑にしていたのと同じちょっとした企みにまた考えの大半を占められている。私たちは何と奇妙な種なのだろう。→1945年12月30日手紙

ご多幸をお祈りいたします。この手紙が届いたならだが。これを盗み見るものを悪魔が連れ去るように。→1946年2月8日手紙

“モスクワの”メーデーの式典はさぞ見事だったにちがいない。でも、こういう大げさな愛国的な示威行動を見ていると心配になる。私はいつも、世界市民的で理性的で公正な考え方をすることが大切だと人々を納得させようと努めている。→1946年6月1日手紙


人間としてのミケーレについて私がもっとも敬服しているのは、こんなに長年、ひとりの女性と、ただ平穏にではなく、変わらず仲むつまじく暮らすことができたということです。
私はこうした企てに2度も惨めなまでに失敗したのです。→1955年3月21日ミケーレ・ベッソ家への悔やみ状。

2004年のはじめごろアインスタインの最後の親しい女友だちヨハンナ・ファントヴァがドイツ語で書いた日記の写しがプリンストン大学図書館で見つかった。

1953年10月16日
新しい理論“「相対論の意味」の第4版の付録として出版されたばかりの、統一理論の新たな方程式を含むもの”について質問を浴びせかけられていると不平を言った。これについてはこれ以上研究できないと確信している。

1953年11月15日
フランスの宿屋の主人から魅力的な手紙を受け取った。科学をユーモアと結びつける人たちのクラブの名誉会長にしたいというのだ。

1953年11月18日
毎日夕方の5時45分に国連のラジオ放送を聞いている。
イスラエルが、ヨルダンの村キビヤを爆撃したことで国連によって糾弾された。アインシュタインは、これは非難されても仕方がないと言う。ラジオでのアイゼンハワーの声明を注目すべきものと考えた。「軍事力によって平和に達することはできない」というものだ。米国は中国の政治に巻き込まれるべきではないというアイゼンハワーの立場に賛同した。


1953年12月22日
バートランド・ラッセルの論文「不可知論者とは何者か」を読んだ。ラッセルへの賞賛の念をあらわした。

1954年2月9日
自分を老いた革命家と呼ぶ。政治的にはなお火を噴くヴェスヴィウス山だと。

1954年3月3日
物理学者からは数学者と呼ばれ、数学者からは物理学者と呼ばれる。孤立しているように感じる。だれもが自分を“知っている”が、本当にしている人はごくわずかしかいないと。

1954年3月24日
音楽とバイオリンの演奏についてファントヴァと話した。バイオリンはきついのでもう弾かないが、ピアノはまだ毎日弾いている。ピアノのほうが即興がやりやすいという。

1954年4月24日
話題の中心はオッペンハイマーだった。オッペンハイマーは類まれな人で、才能豊かで品がよく、自分にたいしてはいつも礼儀正しくふるまっているとアインシュタインは言った。アインシュタインが歯に衣きせずものを言うのに干渉することはないと言ってくれると。

1954年5月11日
上司であるオッペンハイマーに挨拶をした。気の毒に思っている。オッペンハイマーは“政府の人事安全保障委員会”の評決を待っているのだ。聴聞は終わっている。この委員会から“危険分子”とされれば、ほかの委員会からも攻めたてられる。今日では、昔の共産主義者がしていたようにおおっぴらに危険分子であるのがいちばんなのだ。

1954年5月29日
日本のお寺の住職から、ガンデイーの後継者になったらどうかと言われたが、それだけの政治的才能も、精力も、人格もないとアインシュタインは答えた。きょうは体がだるく、ようやっと家に帰ることができた。年寄りだからしかたがない。

1954年6月3日
オッペンハイマーはとても落ち込んでおり、アインシュタインは、苦境に同情を示しに行った。オッペンハイマーがどうしてこのことをこんなに深刻に受け止めているのかわからないという。

1954年6月15日
マッカーシーは今度は自分の委員会の危険分子がいると疑っている。いまはフランス革命の最中と同じだとアインシュタインは思いをめぐらす。
先に相手を縛り首にしたほうが勝つのだ。

1954年6月29日
アインシュタインによれば、民主主義の中では模範的な人は成功しない。もっとも偉大なアテネ人たちが追放されたのと同じこと。オッペンハイマーにも同じことが言える。原子力委員会は4対1で、オッペンハイマーを安全保障上危険な人物として解任した。

1954年10月26日
アインシュタインはオッペンハイマーの本「科学と常識」を読んだ。この本は、去年イングランドでおこなったラジオ講演にもとづいている。本当に才能のある人で、頭がよく、面白い。・・・

1955年1月5日
ゆうべオッペンハイマーがラジオでしゃべった。アインシュタインは、オッペンハイマーが言ったことが気に入った。オッペンハイマーは、オルソップ兄弟によるオッペンハイマー事件についての本が出版されてから前より勇気を見せている。この本は反ストラウス提督の立場で、提督は出版を食い止めようとした。

1955年1月20日
アインシュタインとファントヴァは最終試験について議論した。大学では最終試験が行われている。試験をすることがいいことだとは思わないとアインシュタインは言う。試験は学生の興味をそいでしまう。学生が大学時代に受ける試験は2回を超えるべきではないという。自分なら、セミナーに出席することを求め、学生たちが、興味をいだいているように思われ、話を聴いてくれれば学位を与えるという。

1955年2月14日
バートランド・ラッセルから大事な手紙を受け取った。ラッセルは原子戦争を避けるために策を講じたいと言い、世界中で影響力のある人々に支持されたある種の世界政府を樹立することを唱えている。

1955年3月14日
きょうは76歳の誕生日で、アインシュタインは自分で自分を自宅監禁にしてしまった。外でテレビの記者たちが待ち構えているからだ。
バッキー夫妻が訪れ、パズルをいくつかもってきてくれたし、オッペンハイマーがレコードを何枚かもってきてくれた。それに電報と花が数多く届いた。
1955年4月10日
一日中、イスラエルのためのラジオ・メッセージを書こうと努めたが、仕上げられなかった。自分はまるでばかだと言う。ずっとそう思ってきたと。そして、ときたま何かを成し遂げられるだけだと。(→4月13日、建国7周年を迎えるイスラエルと同国国民へ寄せるラジオ放送に関する打ち合わせ後、心臓付近の痛みに倒れる(腹部動脈瘤の破裂)。

数日後、アインシュタインはプリンストン病院に入院し、4月18日の朝早くここで死んだ。延命のための手術はいっさい拒んでいた。


        アインシュタインからの手紙
アインシュタインは6歳でバイオリンを弾きはじめた。1950年にはすでにバイオリンをやめて、その代わりにピアノを楽しんでいた。自分のバイオリンを“リナLina”と呼んでおり、それを孫のベルンハルトに遺贈した。

モーツアルトのソナタをよりつづけなさい。パパも、モーツアルトのソナタを通じて音楽を知るようになったんだ。→1917年1月8日息子ハンス・アルベルトへの手紙

日本の音楽と私たちの音楽との違いは根本的なものだ。和音と建築的編曲は私たちヨーロッパ人の音楽では不可欠であるが、日本の音楽には存在しない。しかし、どちらも13個の音が1オクターブをなす。私にとって日本の音楽は、情緒を描いた絵で、驚くべき効果を即座にもたらす。・・・・人間の声に、また、鳥のさえずりや海の波の響きといった、人間の魂を揺り動かす自然の音に見い出される情緒を、様式化された形で表現することがその中心にあるという印象をいだいている。この感じは、ピッチに限らず、とくにリズム的な特徴づけに適している打楽器が大きな役割を演じているために強められている。・・・・私の考えでは、日本の音楽が偉大な芸術として受け入れるうえで最大の障害は、形式的な編曲と建築的構造が欠けていることだ。→1923年1月「改造」

音楽は研究に影響しませんが、どちらも、同じ種類の憧れに培われ、解放をもたらす点でたがいに補いあっています。→1928年10月23日パウル・プラウトへの手紙

物理学者でなかったら音楽家になっていたでしょう。私はよく音楽で考えます。音楽で白昼夢を見ます。音楽の観点から自分の人生を見ます。・・・・私は人生の喜びの大半をバイオリンから得えています。→1929年10月26日G・S・ヴィーレックによるインタビュー





1955年12月17日
追悼コンサートのプログラム
R・カサデススのピアノ、プリンストン大学オーケストラによるモーツアルトの戴冠式コンチェルト(ピアノとオーケストラのための協奏曲ニ長調)とバッハのカンタータ第106番“Actus Tragicus=哀悼行事”からのソナチネの演奏。またハイドンの交響曲第104番ニ長調と、コレッリの合奏曲第8番も・・・クリスマスという曲だが、これは、ちょうどその時期だったからだろう。



ゆらぐしんり⑱

2012-02-22 10:25:09 | Brownナノ
「雑多な主題について」

「愛」
愛は幸せをたくさんもたらします。思い焦がれることでもたらされる苦痛よりも、愛がもたらす幸せのほうがどれだけ大きいことか。→最初のガールフレンド、マリー・ヴィンテラーへの手紙。1896.4.21

「結婚」
孤独と心の安らぎを得て心地よく過ごしています。それは、いとことのすばらしい実に楽しい関係によるところが少なくありません。この関係の安定は、結婚を避けることで保たれています。→ミケーレ・ベッソへの手紙。1915.2.12


「因果性」
私たちのすること、生きる目的すべてに原因があると信じています。しかし、それが何であるかわからないのはいいことです。→インドの神秘主義者。詩人、音楽家ラビンドラナート・タゴールとの会話。1930.8.19

「競争」
私はもう頭のいい人たちとの競争に参加しなくてもいい。(この競争に)参加するのは、カネと力への欲望に劣らず悪い、おそろしいタイプの奴隷制のようにずっと思っていました。→パウル・エーレンフェストへの手紙。1927.5.5;学者として昇進するための激しい競争に関するもの。



「女性」
私たちは、嘆かわしい、ひとに依存する生き物です。けれども、こういう女性たちにくらべれば、私たちはひとりひとりが王様です。おおむね自らの2本の脚で立っているのであり、自分の外にある何か、しがみつくべきものを持っているのではないのですから。こういう女性たちはいつも、だれかがやってくるのを待っており、そのだれかに相手の好きなように利用されるのです。そうされなかったら、ぼろぼろになってしまうのです。→ミケーレ・ベッソへの手紙。1917.7.21;妻ミレヴァについて論じるなかで。

創造的な女性はとても少ない。私なら自分の娘を、物理学を勉強しに行かせたりしないね。妻が科学をなにも知らなくてよかったよ。最初の妻は、そうじゃなかった。→エスター・サラマンが「リスナー」誌、1968.9.8号に引用。

他のあらゆる分野と同じく、科学でも女性にとっても道がなだらかであるようにすべきです。ただ、誤解されると困るのですが、どんな結果が出るかについて私は、ある程度、懐疑的です。私が言っているのは、女性の体の仕組みには、自然が与えた、ある種の制約があり、そのため男性と同じ期待度を女性に当てはめることはできないということです。→モシュコフシキー・・・79㌻に引用

女性が家にいるときには家具に執着している。・・・・いつも家具のことで騒いでいる。女性と一緒に旅行をしていると、向こうにとっては私が手近にあるただひとつの家具なので、日がな1日私のまわりを動き回って、私のどこかを直さずにはいられない。→フランク・・・126㌻に引用

「若さ」
ああ、若者よ。知っているか?
美と自由に満ちた人生に憧れたのは自分たちの世代が最初ではないことを。知っているか?先人たちもみな、同じ気持ちだった、そして苦難と憎しみの犠牲になったことを。
また、このことを知っているか?きみたちの熱烈な願いが満たされるには、人々の、そして動物、植物、星々への慈しみと理解に達することに成功し、かくして、あらゆる喜びが自分の喜びに、あらゆる苦痛が自分の苦痛にならなければならないということを。
→ドイツのカブートで!シュテルンのサイン帳に書き込んだもの。1932年


「良心」
良心に逆らうことをけっしてするな。たとえ、国家から命じられても。→1955.4.30付け「サタデー・レヴュー」死亡記事に引用



「日本と日本人」
日本人は、自分の国と同胞を愛する気持ちがほかの国民より強くもっている。・・・が、ほかの国民よりも強く外国でよそものだと感じる。・・・・欧米人にたいして日本人が遠慮深いのを理解するようになった。西洋の国々では教育はもっぱら、個人として生き抜くために奮闘することに焦点を合わせている。・・・・家族の絆は弱まり、・・・個人の孤立は、生存のための闘争で必然的に生じる帰結とみなされている。・・・・日本ではまったく違う。ここでは欧米ほど個人は孤立していない。西洋の国々より世論の力がいっそう強く、そのため家族の結合が弱まっていない。→「改造」5巻、1号、1923.1


おまけ;日本の皆さんへ
アルバート・アインシュタインからのメッセージ
「私が一ヶ月に余る日本滞在中、とくに感じた点は、地球上にも、まだ日本国民のように謙譲で篤実な国民が存在していたことを知ることが出来たことです。
世界各地を歴訪して、私にとってまたこのような純真な心持のよい国民に出会ったことはありません。
又私の接触した日本建築絵画その他の芸術や自然については、山水草木がことごとく美しく細かく日本家屋の構造も自然の理にかない、一種独特の価値があります。故に私はこの点については、日本国民がむしろ欧州に感染しないことを希望します。
又福岡では畳の上に座ってみて、味噌汁もすすってみました。そのちょっとの経験から見ても、私は日本国民の日本生活を直ちに受け入れることの出来た一人であると感じました。→大阪朝日新聞(『アインシュタイン』金子務監修、千葉透文。河出書房新社


1922年、日本知識人への影響:
“相対論の視点”の意義は、第一に、通常の感覚や常識の介入を閉め出すという事実に、また第二に、優先的視点(座標軸)の存在を否定することを 通して、絶対的関係や全般的な実在をつかもうとする事実に、それぞれ見出すことができる。こういう意義を、大正デモクラシーの日本人たちは、アインシュタ インの相対性理論に感じ取っていたのである。

ゆらぐしんり⑰

2012-02-21 09:00:00 | Brownナノ
27p 「最初の妻、Mileva Marićミレヴァ・マリッチについて」

ミレヴァはセルビア・ギリシャ系の農家の出で、アインシュタイン自身によれば、ミレヴァとは17年間結婚していたにもかかわらず、彼女のことは結局よくわからなかった。
アインシュタインは、本人の回想によれば主として“義務感から”結婚したのだという。ミレヴァがアインシュタインの子を私生児として生んでいたからかもしれない。
「私は心のうちに抵抗をかかえながら、まるで自分の力を超えることに乗り出したのだった。」
二人はスイス連邦工科大学で出会った。二人とも物理学を専攻し、アインシュタインは18歳、ミレヴァは22歳だった。5年ほどのちに結婚したときアインシュタインは知らなかったが、ミレヴァの母方の家族に精神病の遺伝があり、母娘ともにふさぎがちで、人を信用しないたちだった。それに妹ゾルカは統合失調症(分裂症)だった。また、先天的な腰のゆがみのせしで、情緒面の問題が増幅していたかもしれない。

ミレヴァは、離婚すること、またアインシュタインからしばしば無神経な扱いを受けたことに納得できずにとげとげしくなり、アインシュタインが息子たちとつきあう上で時として障害になった。アインシュタインは息子たち、とくにハンス・アルベルトに手紙を数多く書いており、そこからは、息子たちが子どもであるうちは息子たちにとって身近でいようとし、温かい面倒見のいい父親だったことがわかる。
アインシュタインは最後には、ミレヴァはいい母親だと認めた。(こうした手紙および、別居後の金銭的問題や親権問題に二人が対処しようとしたミレヴァあての手紙が「アインシュタイン全集」、第8巻に収録されている。ポポヴィッチ「アルベルトの影で」参照)
アインシュタインによれば、それでも、こうした悲劇的状況は、年老いるまで傷跡を残したのであり、こうしたことのせいでいっそう深く非個人的な活動にかかわることになったかもしれないという。(1952年3月26日と5月5日のカール・ゼーリッヒへの手紙。「アインシュタイン・アーカイヴ」39-016と39-020参照)

                 

“ママはベッドの上に身を投げ出し、枕に顔を埋めて、子どもみたいに泣いていたのです。でも、落ち着きを取り戻すと、ただちに死にものぐるいの攻撃に転じました。
「おまえは自分で自分の人生の道を閉ざしているいるのよ、せっかくの機会を駄目にしているのよ。」
「あの娘に子どもができたら、えらいことにあるのよ。」
こういう爆発はこれまでにも何度もあったのですが、今度ばかりはぼくも堪忍袋の緒が切れました。”→ミレヴァへの手紙、1900年7月29日。自分とミレヴァは結婚するつもりだと母親に話した後で、二人は、1903年1月6日にやっと結婚した。『愛の手紙』、19ページ『アインシュタイン全集』、第1巻、文書68;以下略

1900.9.13 “ぼくたちの新しい研究に取り組めるのも楽しみにしています。ご自分の研究はぜひお続けなさい。恋人がかわいい博士だなんて、どんなに誇らしいことでしょうね。ぼくときたらごく平凡な人間のままなのに!”→ミレヴァへの手紙




1900.10.3  “あなたを見つけることができたなんて、ぼくはなんて運がいいんでしょう。ぼくと対等で、ぼくに劣らず強く、自立した人間を見つけることができたなんて!” →ミレヴァへの手紙

1901.3.27  “ぼくたち二人で相対運動について研究を成功させたらどんなに幸せで誇らしい気持ちになるでしょう!”→ミレヴァへの手紙


1901.4.30  “ご自分の目でご覧になれますよ。ぼくがどんなに明るく、元気よくなったか、そして、ぼくのしかめっ面が過去のものになったのを。そして、ぼくは、前と同じようにあなたを愛しています!あなたに意地悪だったのは私がいらだっていたからにすぎません・・・。もう一度あなたに会いたくてたまりません。”→ミレヴァへの手紙


1901.5.9  “ぼくの幸せをいくらかでも分けてあげることができさえすれば、あなたが悲しんだり、憂いに沈んだりすることは決してないはずです。”
→ミレヴァへの手紙



新しい恋人、従姉妹のエルザ・レーヴェンータールへの手紙
1913.8   “妻が複雑な気持ちでベルリンへ行くのは、親類がこわいからです。いちばんこわいのは、あなたのことでしょう。・・・・でも、あなたとぼくが一緒にいてとても楽しくいていても、必ずしも妻が傷つくわけではありません。あなたは、妻が持っていないもの「すなわちアインシュタインの愛」は奪いようがありません。”

1913.10.16  “わが家の状況はこれまでにもましてひどいものになっています。氷のような沈黙” →エルザへの手紙

1913.12.2  “相手に罪があるという証拠なしで離婚することがそんなにやさしいと思うのですか?・・・・ぼくは妻を、首にできない雇人のように扱っている。自分の寝室を持ち、妻と二人きりになるのを避けている。・・・・このことがどうしてそんなにひどくあなたの気にさわるのですか。ぼくは完全に自分自身の主人であり、・・・・自分自身の妻でもあるのです。”→エルザへの手紙

1913.12.2  “「妻のミレヴァは」冷たくて、洒落っ気がなく、人生を楽しまず、そこにいるだけで他の人たちの生きる喜びをかき消してしまうような人間です。”→エルザへの手紙


1913.12.21 “妻はベルリンのことと親類にたいする怖れについて、ぼくにひっきりなしに泣き言をいう。・・・・母は人がいいのですが、本当に姑としては鬼のようです。母が来ていると、家中の空気はきな臭さにみちてしまいます。・・・・でも、このみじめな関係についてはどちらにも非があります。・・・・こうした事情ですから、ぼくが科学に打ち込むのも不思議はないでしょう。科学は感情をまじえずにぼくを涙の谷から平和な領域に引き上げてくれます。”→エルザへの手紙

1914.7.18ごろ “A)次のことに気をつけること。①私の服と洗濯物は整理しておく。②三食規則的に私の部屋に届ける。③私の寝室と書斎はきれいにしておき、とくに、私の机は私だけが使えるようにしておく。B)社交上の理由で必要なのでないかぎり私との個人的関係を一切解消すること。とくに①あなたといっしょに家にいること、②あなたといっしょに出かけたり、りょこうすることはあてにしないように。C)私との関係で次の点を守ること。①私に優しさを期待しないし、私にどんな提案もしない。②私が求めれば、何かについて私に向かって話すのをやめる。③私が求めれば、口答えせずに私の寝室や書斎から出て行く。D)言葉によっても行動によっても子どもたちの前で私を貶めない。”→ミレヴァへの覚書

1914.7.18ごろ“子どもたちを失いたくないし、子どもたちにぼくを失ってほしくありません。・・・・いろいろあった後で、あなたと友愛に満ちた関係をもつのは無理です。誠実で事務的な関係を保ちましょう。個人的なことは最小限にとどめなければなりません。・・・・ただ、子どもたちとともにスイスにとどまって、・・・・二週間ごとに、かわいい息子たちのことを知らせてほしいと思います。・・・・その代わり、礼儀正しくふるまうことを請合います。どんな赤の他人の女性に対してもこうふるまうというような仕方で。”→ミレヴァへの手紙

1914.7.26 “子どもとともに暮らすのは、妻が邪魔すればありがたみがないと悟りました。”→エルザへの手紙

1914.7.26 “子どもたちには中立地帯でしか会えず、私たちの‘将来の’家では会えません。父親が、母親以外の女性といっしょにいるときに子どもたちが父親に会うのは正しいことではないから、これは正当です。”→エルザへの手紙

1914.7.30 “私たちが二人きりでしゃべりあえる静かな夕べを過ごすのが、そして、いっしょに安らぎに満ちた経験をするのがどれだけ楽しみなことか。いまや熟慮と苦労の末に家でいとしくかわいい妻に慰めと安らぎで迎えてもらえるのです。・・・ミレヴァと仲睦まじく暮らすのを妨げたのは、ミレヴァの醜さではなく、頑固さ、融通のきかなさ、鈍感さでした。”→エルザへの手紙

1915.11.26 “愛情で子どもたちに結びつけられているにもかかわらず、この人とこれ以上いっしょにいることに耐えられない理由があるのだ。”→ハインリッヒ・ツアンガーへの手紙
1916.7.14 “ああいう女の持ち前の悪賢さといったらない。最後に力を奮い起こして、手もとどかず、姿も見えず、声も聞こえないところにあれを遠ざけておいてなかったら、肉体的にも精神的にもまいっていたよ。”→ミケーレ・ベッソへの手紙

1916.7.21 “心配のない暮らしをおくり、いとしい息子たちをそばに置き、すばらしい地域に住み、ひまを使って好きなことをし、責任のない側として無邪気に過ごしている。”→ミケーレ・ベッソへの手紙

1916.7.21 “ただ一つ、あれに欠けているのは、支配してくれる人です。あんなにはっきり臭うものを一生鼻に詰め込まれつづけ、しかも愛想のいい顔をする義理を果たすことに我慢できる人間がどこにいるものか。”→ミケーレ・ベッソへの手紙

1916.9.6 “これからは離婚のことであれを煩わすまい。この問題にともなう、身内との争いが起こっている。私は涙をこらえることを覚えた。”→ミケーレ・ベッソへの手紙

1916.9.8 “ミレヴァと別れることは私にとって生きるか死ぬかの問題だった。・・・だから、いまでっも息子たちを愛していながら、手放すのだ。”→ヘレネ・サヴィッチへの手紙

1916.9.8 “ミツア〔ミレヴァ〕はひとにたいしてよそよそしすぎることがあると思う。両親と妹は・・・あれの住所さえ知らない。この点で、きみは大いにあれの力になってやれる。落ち込んでいるときにそれを乗り越えるのを助けてやれるんだ。ミツアのため、そしてとくに子どもたちのためにしてくれたことすべてを心からありがたく思っている。”→ヘレネ・サヴィッチへの手紙

1918.4.23 “私は、自分が死んだらどうなるかということで頭がいっぱいだったので、まだ生きていたと気づいて驚くほどです。”→ミレヴァへの手紙

1918.7.29 “ミレヴァには、いっしょだったときはまったく耐えられませんでした。別れてみると好きになれます。ミレヴァは申し分のないように思えます。息子たちの母親としてさえ。”→ミケーレ・ベッソへの手紙

1952.5.5 “彼女は別居と離婚には最後まで甘んじませんでした。古典的なメーデイアの例を思い起こさせる気質があらわれました。このことが、私が愛情をいだいている二人の息子との関係に影を落としました。私の人生のこの悲劇的な側面は、小さくなることなく老齢になるまで続きました。”→カール・ゼーリッヒへの手紙



『二人目の妻エルザ・レーヴェンタールへ、あるいは、彼女について』割愛

“ゆらぐしんり”の過程なの!

ゆらぐしんり⑯

2012-02-20 09:00:00 | Brownナノ
“ゆらぐしんり”の過程には、秘められた何かがあるのを通例とするものだ。ましてや彼女の場合にも、その時という限界はある。
「アインシュタインは語る」

その増補新版もまた、その1つではあろう。
それの安易は抜粋は慎まなければならないのであるが、寛容をこう。

「序文」は、アインシュタインの秘書等から知りえた、その個人的な秘密を守り抜くぬくための、トラのような闘いとその顛末。ヘブライ大学へとアーカイヴが引き継がれていく過程等である。

「まえがきと謝辞」は、『アインシュタイン全集』の社内編集者と、付属する翻訳プロジェクトの管理者に任命されてからのこと。

アインシュタインの人格のさまざまな側面を反映する深みのある言葉・・・そこには、科学にたずさわる女性についての考え方なども。

だが、大急ぎで判断を下す前に、発言がなされたときのアインシュタインの年齢と彼をとりまいていた環境を、考慮に入れなければならない。

現に、アインシュタインは一生のうちに考えを変えたり、いくつかの主題について、自分の意見に修正をほどこしたりした。


「増補新版への注記」では、初版が22の言語に訳されたこと。
「一匹狼」と自認し、千年紀の変わり目に「タイム」誌によって「世紀の人」に選ばれたアインシュタインがいまなお文化的アイコンとして世界中に賞賛され、いたるところで人々が、アインシュタインについての事実情報を読みやすくまとめたものを見つけたいと思っているということだ。

アインシュタインのユーモアのセンスについて一言述べておいたほうがいい。アインシュタインはとてもおもしろおかしい人で、ユーモアを伝えようとしたとき慎重に賢明に言葉を選んだが、その言葉があまりうまく訳せないことがある。アインシュタインの言葉のなかでわりに辛辣な言葉は、冗談で、からかい、皮肉をこめて、あるいは目を輝かせながら言ったものであるということも大いにあるうる。たいていの人と同じく、何か言ったことを後悔したり、考えを変えたりすることもあったかもしれない。アインシュタインをさらによく知れば、そのユーモアもよく理解できる。


「年表」
1879年  3月14日、アルベルト・アインシュタイン。ドイツのウルムに生まれる。
1884年  父からコンパスをもらう。
1885年  カトリックの小学校、ただ一人のユダヤ人。バイオリンのレッスン始め。
1889-1895年  物理学、数学、哲学への関心
1896年  ドイツ市民権を放棄、無国籍の5年間
1899年  スイスの市民権を申請
1900年  工科大学卒業。ミレヴァとの結婚問題に賛成を得られず。
1901年  スイス市民になる。初論文「毛細管現象から引き出される諸結論」
1902年  ミレヴァに娘が生まれる。ベルン特許局臨時の仕事。
1903年  ミレヴァと結婚。
1904年  息子ハンス・アルベルト生まれる。特許局は終身職に変わる。
1905年  “奇跡の年”「分子の大きさの新しい決定法」「光の発生と変換に関する発見的観点について」「熱の分子運動論が要求する、静止した液体中の微小な粒子の運動について」「運動する物体の電気力学について」などなど
1906年  チューリッヒ大学博士号。特許局2級技官昇進。
1908年  ベルン大学私講師
1909年  チューリッヒ大学理論物理学の定員外教授。ジュネーブ大学名誉博士号。特許局とベルン大学を辞する。
1910年  次男生まれる。“臨界乳光と空の青さについての論文”
1911年  プラハ・ドイツ大学理論物理学研究所所長受諾。チューリッヒ大学辞す。
1912年  離婚した従姉妹エルザとの文通。結婚生活の崩壊。チューリッヒのETHの理論物理学教授を受諾。
1913年  プロイセン科学アカデミー会員、ベルリン大学研究教授職など提示される。
1914年  ベルリン着。ミレヴァは間もなくさる。第一次世界大戦
1915年  一般相対性の理論構造に研究。
1916年  「一般相対性理論の起源」。ドイツ物理学会会長
1917年  肝障害と潰瘍、エルザが世話する。宇宙論を書く。
1919年  ミレヴァと離婚。エルザと結婚(娘イルゼとマルゴット)。日食の観測に成功
1920年  反ユダヤ主義と反相対理論の論調が目につくようになる中で、ドイツに忠実
1921年  米国旅行→「相対論の意味」
1922年  日本旅行。ノーベル物理学賞
1923年  パレスチナとスペイン訪問
1924年  その母と結婚する前にアインシュタインが恋した義理の娘イルゼが結婚。
1925年  南アフリカ旅行、ガンジーと連帯し、平和主義者となる。
1928年  心臓を病む。ヘレン・ドウカス秘書となる。
1929年  ベルギーのエリザベート王妃と親交の始まり
1933年  ナチス政権。プロイセン科学アカデミー会員辞す。ドイツ市民権放棄。
「なぜ戦争か?」ジークムント・フロイト共著
1935年  プリンストン、マーサー街に移る。
1936年  エルザ死去、心臓と腎臓。
1939年  ローズベルト大統領宛の手紙に署名。第二次世界大戦始まる。
1940年  米国市民権。
1941年  米国参戦。
1945年  高等研究所教授団から退職。
1948年  ミレヴァ死去。
1950年  最後の遺言に署名。文書管理はネイサンとドウカスの死後、エルサレムのヘブライ大学に譲渡されるものとする。
1952年  イスラエル大統領職を断る。
1954年  溶血性貧血。
1955年  腹部大動脈の動脈硬化性動脈瘤破裂のため死去。最後の署名、“核兵器の放棄を促す共同声明”
Bertrand Arthur William Russellバートランド・ラッセル宛
 







ゆらぐしんり⑮

2012-02-19 11:36:41 | Brownナノ
20世紀の物理学の流れをお伝えするために、それを拓いた巨人たちという切り口を通して、ここまで、お話ししてきました。
この講座を取り上げた一人ひとりの物理学者に関する文献を読み返し、改めて深い感銘を受けました。どの人にも、心から寄り添うことができ、その人たちの人生を一緒にいきなおしたような気がしました。ほんとに幸せな経験でした。

21世紀の物理学は、従来の枠を超えて、宇宙や生命に広がっていくでしょう。たくさんの夢があります。
ビッグバン宇宙については、「いかにして(HOW)」ビッグバンが起こったかは20世紀に解明されましたが、「なぜ(WHY)」起こったかは、まだ十分にわかっていません。
時間が一方的にしか流れないことも、エントロピーの問題と関連して興味ある問題です。

第二回でお話ししましたように、重力、電磁力、核力を統一した“大統一理論”の構築も、物理学者たちの壮大な夢です。

複雑系や生物も、物理学の手段や論理を拡張して、解明を進めることができると考えられています。思えば、より単純でより基本的な要素へと、クオークまで進んだ道のりの方が、複雑系への道よりはるかにやさしかった、と言えるかもしれません。チャレンジグな問題が残されています。
これからも、物理学の、そのサイエンス全体の動きに興味を持ちつづけていただければ、とてもうれしいです。米沢富美子「真理への旅人たち」


参考文献には、アインスタイン著「自伝ノート」を初めとして、20冊近くを咀嚼してくださっている事に謝意を表しておきたい。それらの文献に基づいたおはなしではあったが、他方では彼女自身の表明ともあい、重なっているのは、明白でもあった。

例えば「生物学における要素還元」
“物理学者というのは、私を含めて、自然現象は全て物理学の言葉で理解できるし信じている傲慢な人種なのです。こういう考え方を、「物理学帝国主義」と呼ぶ人もいますが、21世紀になった今も、私はこの考えが正しいと信じています。”

複雑系の理解に新しい科学が必要なのか、既存の科学だけで説明がつくのか、という問題は未解決で、21世紀の宿題になっています。ゲルマンの主張は、物理学者にはなじみのものです。ずっと先になるかもしれないけれど、いつかはゲルマンの考え方に軍配があがるに違いない、というのが私の本音です。
             
かくして、読み直してみると気がつくのは、ブラウン運動などを取り扱った、第二回「ワープする空間」です。

⇒Alcubierreのアイデアは、直感的に表現すると船の後方で常に小規模なビッグバンを起こしつつ船の前方で常に小規模なビッグクランチを生じさせ、光より速く船を押し流すような時空の流れを生み出そうというシンプルかつダイナミックなものであった。

奇跡の年・・・・アインシュタイン26歳
三篇の論文
空間がワープする
日食観測それから“離婚の慰謝料”と続きます。

アインシュタインは22歳でスイス連邦特許局に就職したあと、大学で同級生だったミレヴァ・マリッチと結婚します。ミレヴァは、セルビアの名家に生まれ、高校まで故郷で勉強しますが、物理学への思いを断ち切りがたく、いくつものハードルをクリアして、チューリッヒ工科大学(ETH)に入学しました。ここでアインシュタインと出会うことになります。
今から百年も前に、セルビア出身の女子学生が、スイスの名門ETHで、男子学生にただ一人まじって、物理学を学んでいたという事実は、ひたすら感激ですね。民族的な差別や女性差別も今日よりはるかに厳しい時代でしたから。
アインシュタインとミレヴァはデートのとき、「エーテルの存在は仮定しなくても良いのでは」というような議論をしていたそうです。特殊相対論の成立にはミレヴァの貢献があったとも伝えられています。
結婚前に生まれた最初の子供は、スキャンダルを恐れた家族の圧力で、養子に出されました。女の子だったそうです。
結婚後、二人の息子をもうけました。特許局の役人だったアインシュタインの給料は少なく、ミレヴァは、家計のやりくりに苦労します。アインシュタインは家事には協力しませんでした。一人で家事、育児、家計のやりくりに追われて、ミレヴァは研究ができなくなります。

仕事と家庭の両立は、現在もなぜか女性だけの課題になっており、本質的な状況は変わっているとはいえません。それでも今では、この問題は、女性の普遍的なテーマとして、広く注目されています。・・・・

アインシュタインの従姉妹エルザは、1912年に二人の娘を抱えて離婚していました。エルザの離婚直後から、アインシュタインは幼なじみだったエルザとつきあいはじめ、数年にわたる不義の仲になります。

1916年、アインシュタインの方から離婚を申し出ますが、ミレヴァは断ります。・・・

ミレヴァとの離婚の翌年、アインシュタインはエルザと再婚します。以下略

これで終わることは出来ないのが、“ゆらぐしんり”の過程像!!

ゆらぐしんり⑭

2012-02-18 09:00:00 | Brownナノ
ふたあつ、ふたあつ・・・・なんでしょね?“4つ?”ではありませんよ!

20世紀の物理学革命を支えた理論は、相対論と量子論であることを、最初にお話しましたが、もうひとつ大切な考え方がありました。それは“要素還元論”と呼ばれる方法論です。
自然現象の見かけの複雑さに惑わされることなく、ものごとに単純な本質を見い出していこうというのが、物理学の大方針でした。



デカルト「良識(bon sens)はこの世で最も公平に配分されているものである」




20世紀の物理学は、マクロな物質→原子→原子核と電子→中性子と陽子→クオークへと、ひたすら要素還元を進めることによって、大きな勝利を収めてきたのです。

かたや壮大な宇宙の始まりや宇宙の果てを明らかにし、かたや究極の素粒子クオークを予言・発見しあのが、20世紀の物理学です。宇宙とクオークの大きさは、44桁の違いがあります。

クオークを見つけ、要素還元論の旗手の立場にあった(マレイ)ゲルマンは、後に、要素還元とは正反対の極にある複雑系研究のために、世界最初の研究所を設立します。
複雑系の研究は、生物学などの複雑なシステムの解明を目指して、現在も活発に進められています。

陽子や中性子が、実はもっと基本的な粒子からできていることを、対象性に関する考察からゲルマンは理論的に予言します。現在、究極の素粒子と呼ばれているクオークが、その基本的な構成要素です。

ゲルマンは最初、クオークは3種類あると考えました。その点を考慮にいれて、(ジェイムズ)ジョイスの本から、「(水兵たちの)点呼に三つのクオーク」という節を選びます。クオークというのは、“クワックワッ”というカモメの鳴き声を表す英語です。
鳴き声からカモメが3羽いるとわかった、3つのクオークも目には見えないけれど、声によって存在が確認される。そしてこのクオークによって陽子などの粒子が組み立てられる、という意味が込められています。

ゲルマンはまた、クオークの特性を“フレーバー”とか“カラー”と名づけ、それによってクオークを分類します。→フレーバーは“アップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、トップ、ビューテイー”の6種類。色と呼ばれる量子数は“赤、青、緑”の3原色が当てられている。


素粒子物理学は曲がり角に来ていました。新しい理論を検証するために、次第に大きな加速器が必要になっていたのです。ゲルマンはそろそろ方向転換して、新しい領域を目指すべき時がきたと考え始めていました。

こうして、クオークとは対極にある複雑系に真剣に目を向けます。生物の細胞も臓器も、つきつめればクオークからできている。そしてその生物が生態系を作り上げ、生物の一員である人間が経済や文化を生み出している。こういう系(システム)を複雑系と呼ぶようになります。

これらの複雑系を研究するには、要素還元論はまだまだ未熟だとゲルマンは考えます。
人間の脳は、原理的には神経細胞間の電気的流れで記述され、その神経細胞はクオークの物理学で理解されるはずのものです。したがって、生き物も他の複雑系も、つまるところはクオークから解明するのが正しい道だと、ゲルマンは考えます。しかし、現在の物理学は、それが可能になる状況からはほど遠いのです。
このへんの事情を考慮して、とりあずは複雑な現象を単純な部分に還元せず、「そのまま全体として眺める」ことが必要だと、ゲルマンは信じるようになります。

生物学、心理学、言語学、経済学など、考え得る全ての学問分野で、このような複雑系を見つけることができるので、複雑系の研究を進めるには、学問間の壁をなくした研究所が必要だと、ゲルマンは考えます。

ちょうど同じ頃、ロスアラモスの研究者たちも同じようなことを話し合っていました。その昔、原爆が製造されたこの研究所は、当時、強力なコンピューターを駆使して、非線形現象のような複雑な問題を、シミュレーションによって研究し、成果をあげていました。


コバンに招かれてロスアラモス研究所を訪れたゲルマンは、異なる分野の協力が大きな成功を収めた例はこれまでにもあるとし、ダーウィンの進化論、DNAへと開花した生物物理学、そして近いところでは素粒子物理学と宇宙論との合体などについて、熱弁を振るいます。
こうしてゲルマンは、サンタフェ研究所の設立に尽力し、1986年の創立とともに所長に就任します。
クオークを提案し、要素還元論の旗手であったゲルマンが、要素還元論とは反対の極に位置する複雑系研究の誕生に大きな貢献をしたのは、興味深い話です。


単純なものから複雑なものへ、たとえば、素粒子→原子核→原子→分子→高分子→生きた細胞→臓器→生物個体へと階層があり、下の階層にはなかった性質が上の階層では現れます。
たとえば、素粒子や原子という無機的な要素にはなかった生命が、生きた細胞には宿っています。さらに、生きた細胞には見られなかった知能が、生物個体には存在します。

このように、階層が上がることによって出現する性質を説明するために、既存の科学とは異なる新しい科学が必要だと主張する研究者が多くいます。一方ゲルマンは、右にも述べましたように、新しい科学など必要ない、最終的には既存の科学だけで説明できる、と考えています。

この見解の相違は、ゲルマンと他の研究者たちとの間に軋轢を生みます。研究所の使命についてグループで話し合っているとき、誰かが“研究所の主目的は、複雑系の科学を研究することにある”というたびに、ゲルマンは全く反射的に、“そして複雑系を構成している基本的な原理について研究することである”と、必ずバシッと口をはさみます。普段は控えめなコバンがたまりかねて、ゲルマンがこういう態度を続けるなら、自分は辞めさせてもらいますというくらいでした。

複雑系を理解するには“自己組織化”の概念が不可欠だとするスチュアート・カウフマンの主張に対しても、ゲルマンは強い反対を唱え、意地悪なものの言い方をするので、カウフマンも腹を立てました。

複雑系の理解に新しい科学が必要なのか、既存の科学だけで説明がつくのか、という問題は未解決で、21世紀の宿題になっています。ゲルマンの主張は、物理学者にはなじみのものです。
ずっと先になるかもしれないけれど、いつかはゲルマンの考え方に軍配があがるに違いない、というのが私(米沢富美子)の本音です。

          
クォークとジャガー―たゆみなく進化する複雑系




1994年、ゲルマンは「クオークとジャガー」という表題の本を書きました。ジャガーというのは、ネコ科の動物で、豹に似た斑点をもち、虎のような顔をしているものです。
複雑な系の比喩としてゲルマンはジャガーを置き、クオークはもちろん、最も単純な基本粒子です。






ゆらぐしんり⑬

2012-02-18 09:00:00 | Brownナノ
残りは、ふたあつ。

ジョン・バーデイーンの情報化社会の開拓者を読んでいて、残った印象。

ふたあつ ふたあつ なんでしょね /お目々がいちに ふたつでしょ /お耳もほらね ふたつでしょ ・・・

ここでの主題はダブル受賞とも,言いたげな著者の心境ではなかろうかと察す。

マリー・キュリー「放射能の研究」「ラジウムおよびポロニウムの発見」
ライナス・ポーリング「化学結合と複雑な分子の研究」「平和運動」

バーデイーンは、トランジスター発明と超伝導理論のそれぞれに対してノーベル賞を授与されました。

1933年にはペンシルベニア大学数学科の大学院に入って、ユウジン・ウィグナーの下で学び、物性物理学に出会います。
学位取得後、技術の現場を希望しますが、不況で就職口がなく、ハーバード大学のフェローとして、ジョン・ヴァン・ヴレックと共同研究をします。

こうして優れた物理学者たちとの出会いが、バーデイーンのキャリアに大きな影響を与えました。
特に、問題解決のための方法論としてのウィグナーから学んだことが、後に超伝導の問題を解く際に重要なキーになりました。

口数の少ないバーデイーンでしたが、チームでの共同研究を組織することにかけては、抜群の才能がありました。トランジスターの発明も超伝導の理論的解明も、バーデイーンの見事なチーム作りの才が開花したものです。


ベル研にスカウトされたウィリアム・ショックレーが、1945年今度はバーデイーンをスカウトしてベル研に招きます。
‘真空管のように真空の中の電子を考えるのではなく、結晶の中の電子を考えようというのが、ショックレーたちの考えでした。’しかし、十年余りのショックレーの実験はどれも良い結果に結びつきません。相談を受けたバーデイーンは、量子力学的な考察から、結晶の表面で電子が特別な振る舞いをするのではないかと助言します。
ショックレーは後々、バーデイーンのこの助言ほど適切で有用なものはなかったと、何度も言っていたそうです。

バーデイーンは、同室の実験家ウオルター・ブラッテンと一緒に、表面状態についての深い洞察と慎重な実験を重ねて、ついに1947年12月に整流効果を発見します。夢の素材ができた歴史的瞬間です。バーデイーンが理論家としてアイデアを出し、ブラッテンが実験を行うという見事なチームワークでした。

バーデイーンらの結果を参考にして、ショックレーはさらに工夫を進めます。・・・
新しい素材の名前として、表面状態増幅器とか結晶三極真空管などが提案されましたが、ベル研所員の投票で圧倒的支持を得たのは、バーデイーンたちの同僚ジョン・ピアスが考えた“トランジスタtransistor”でした。トランジスタというのはトランスファー(運ぶという意味のラテン語に由来する動詞)とレジスター(抵抗器)の合成語です。最後に‘or’のつく言葉がおしゃれだとバーデイーンは考えていたのでした。

半導体は、「半分電気が流れる」だけではなくて、温度の上昇や不純物の増加に伴って電気が流れやすくなるなど、従来の常識から外れた性質を示しており、これらについては、量子力学が完成されて初めて理論的に解明されたのでした。

1956年、トランジスタ発明から9年、まだ工業化のめどが十分立っていない段階で、ノーベル物理学賞授与だ発表されます。この発表を聞いたとき、バーデイーンは朝食の準備で目玉焼きを作っていました。妻のジェーンが夏に病気になって完全には治っていなかったので、家族の朝食はバーデイーンがつくっていたのでした。
ニュースを聞いてバーデイーンは、驚きのあまりフライパンを取り落としました。

それまでは、自然の真理を発見するなどの研究に対してノーベル賞が与えられることが多かったので、こういう技術的なことでノーベル賞をもらっていいのか、という思いがバーデイーンの中にありました。
バーデイーンの指導者だったウィグナーやヴァン・ヴィレックが受賞していないのに、自分がもらうことにも戸惑いがありました。この2人はその後、それぞれにノーベル賞を受賞することになるのです。

ふたあつ目は、超伝導。
超伝導体には、‘電気抵抗ゼロ’という性質の他に、磁場を完全に排除する‘完全反磁性’という重要な性質を持っている。

1953年には「ハントブーフ・デア・フィジーク」に超伝導のレビューを書くように頼まれ、超伝導関係の実験および理論の論文を山のように読みます。翌年には、100㌻におよぶレビューを書くのですが、その過程で、超伝導解明のために、すでにどういう仕事がなされているのか、まだ足りない部分はどこなのか、などを総括し、新しいアイデアの種をバーデイーンは次第に頭の中に構築していきます。

このアイデアの中から、バーデイーンは多体問題の新しい方法論が必要だと見抜きま
す。当時、多体問題といえば、原子核構造に関する研究で広く扱われていました。バーデイーンは、プリンストン高等研究所で素粒子や原子核の理論的研究をしているチェンニン・ヤン教授に電話して、誰か良い人はいないかと尋ねます。

1954年、バーデイーンはプリンストン高等研究所を訪れて、ヤン教授に推薦されたレオン・クーパーに会います。
最新の理論的な方法論を身につけた24歳のクーパーは、「私は超伝導については何も知りません」と言います。バーデイーンは、「そんなことは問題ではない。超伝導のことは私が教えてあげる。私は、最新の場の理論に関する手法に詳しい人を探しているのです」と答えます。
クーパーは2,3ヶ月考えて、翌年にバーデイーンのところに助手として移ることを決めます。

ロバート・シュリーファーは、1953年からバーデイーンの研究室で大学院生として勉強していましたが、55年に学位論文のテーマについてバーデイーンに相談に行きます。
バーデイーンは机の引き出しから十くらいのテーマを書いた紙をだして、シュリーファーに見せます。リストの一番下に書かれた“超伝導”を指差して、バーデイーンは「これを考えてみませんか」と言いました。

バーデイーンはまずクーパーに、場の理論についてセミナーの形で話すように頼みます。こうして3人の勉強会が始まります。

バーデイーンは、昔ウィグナーから学んだアプローチを、このチームでも強調します。むつかしい問題をいきなり解こうとするのではなく、複雑な大問題を小さな部分に分けて、その部分部分の小さな問題を解き、最後にそれらをつなぎ合わせて全体を解決するという方法です。


勉強会を数ヶ月余り続けた1956年の3月、クーパーは二つの電子がペア(対)を組むことができれば超伝導状態を実現できることに気づきます。
普通の状況では電子は反発しあうのでペアを作ることはないのですが、結晶格子を構成しているイオンと電子との相互作用を考慮すると、それが可能になります。


これは“クーパー・ペア”自然法則と不変性

リクエスト内容
”Symmetries and Reflections: Scientific Essays” by Eugene P. Wigner, 1967 の全訳。
量子力学を中心とした物理学の一般向け解説本であり、講演録・論文集といった体裁。
特に、この本に納められた「自然科学において数学がおかしなほど有効であることについて(The Unreasonable Effectiveness of Mathematics in the Natural Sciences)」は、数学と物理学との関係にそれほどの必然性がないのではないかとする、科学とは何かを問う必読の名文。


絶版になって久しく、古書市場にも殆どなく入手難。 著者個人の主観的意見も多いが、理論物理学者の科学に対する認識を理解するための格好の材料であり、科学史研究では外せない名著。 訳が現代的ではないので、新訳・註解付きで再版を希望する。価格面から文庫が希望。 (2010/06/20)

よも、未読。

ゆらぐしんり⑫

2012-02-17 09:00:00 | Brownナノ
2002年は、小柴昌俊博士のノーベル物理学賞と田中耕一氏のノーベル化学賞というダブル受賞があり、日本全体が喜びに沸きました。

日本最初の“ふたり”の受賞とは、1949年の湯川秀樹博士、1965年には二人目の朝永振一郎博士が、ともにノーベル物理学賞を受賞なさいました。

1906年生まれの朝永振一郎博士と1907年生まれの湯川秀樹博士は、中学は京都一中で同じ、高校は三高で同級生、大学は京大理学部でやはり同級で、ともに物理学を専攻して同じ研究室に入りました。卒業後もその研究室に副手として残って、二、三年、机を並べて研究を進めます。
まるで何もかもがおそろいのような学歴です。
このような形の同級生がふたりながらにノーベル賞を受けたのは、世界でも他に例がないでしょう。
おふたりは、お生まれはとうきょうであること、父君の京大着任で京都へ越されたことなども、不思議と符合しています。朝永博士の父君は有名な哲学者三十朗氏、湯川博士の父君小川琢冶氏は世界的に活躍した地理・地質学者でした。

似た背景を持ち、ずっと同級生として勉強されたおふたりは、学生時代もその後の人生においても、得がたい同行者、理解ある批判者、良きライバルとして、切磋琢磨しながら研究をお進めになりました。

日本の物理学者の育成や平和運動に関しても、協力して指導的役割を果たされました。

湯川博士のノーベル賞受賞50周年を記念して、『映像評伝 湯川秀樹』と題した60分のビデオが2年前に作られました。この映像評伝は、1958年、湯川博士51歳の年に、朝日新聞に連載された湯川秀樹著の自伝『旅人 ある物理学者の回想』を下敷きにしています。

湯川博士は、5年制の旧制中学を4年ですませて16歳で三高に入学。最初、三高の図書館で熱心に読んだのは、哲学の書物でした。
老荘の哲学から西洋の哲学までを読み、カント、ベルグソンなどもあったが、当時の多くの青年と同じように西田哲学に最もひかれた、と書いています。しかしやがて、「科学概論」や「最近の自然科学」を通して、20世紀の物理学に興味を持つようになります。
丸善でフィリッツ・ライヘ著「量子論」の英語版を見つけて入手します。1900年にプランクが提唱した「自然の不連続性」に始まる量子論を取り上げた本で、新しい物理学はいまだ混沌の状態にあると記されていました。この本は「これまでに読んだどの小説よりも面白かった」「今日までの50年を通して、一冊の書物からこれほど大きな刺激、大きな激励を受けたことはなかった。」と博士は書いていらっしゃいます。
さらにドイツ語のプランク著「理論物理学第一巻」を本屋で見つけて購入。本屋からの帰途の足取りも急がれ、家に着くやいなやすぐに読む、思いのほかよくわかる、と自伝にあります。わずか17歳やそこらで、英語やドイツ語で書かれた物理学の原書を顔色ひとつ変えずに読んだのです。5歳で四書五経を修めると、世の中怖いものはなくなるのでしょうか。

「年齢的に不足はなかった。当時、量子力学の建設発展に貢献した理論物理学者の大多数はまだ二十代であった。私より五、六年の年長者が多かった。ハイゼンベルグ、デイラック、パウリ、フェルミという4人の代表的な学者はいずれも、1900年から1901年にかけて前後して生まれている。そして二十三,四歳の頃には、すでに大きな仕事をしているのである」と湯川博士の自伝に書かれています。

湯川博士は後に、「未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である」と書いていられます。目的地もわからないし、ましてや道などはついていない。模索の五年でしたが、後から振り返ると、最も充実した五年でもあったのです。

湯川博士が京大の講師に着任した1932年には、中性子が発見されました。右に述べたように、原子の構造としては、中心に原子核があり、そのまわりを電子が存在していることがわかっていました。原子核は、新しく発見された中性子と、すでに存在が確かめられていた陽子とから構成されていることも明らかになっていましたが、中性子や陽子を結びつけている力(核力と呼ばれます)の起源がわかりません。
それまでに知られていた力は、万有引力と電磁力だけでしたが、核力はそのいずれとも異なります。

湯川博士は、核力が未知の素粒子で媒介されていると推測し、その素粒子の質量を理論的に計算して、電子と陽子の中間の質量をもつと予測しました。中間子という名前は、「中間の質量」からつけられました。
中間子論誕生は1934年、湯川博士27歳でした。この論文は翌年、「素粒子の相互作用について」と題して「日本数学物理学会記事」に発表されました。

3年後(1937年)に宇宙線のなかに発見された新粒子は、湯川博士の予言した中間子ではないか、という指摘をオッペンハイマーがして、湯川博士のこの論文が一躍世界の注目を浴びたことは、すでにふれた。


1937年に発見された中間子は後に、“ミュー中間子”と呼ばれるようになりまさしたが、中間子には2種類あることが1947年の宇宙線実験から発見され、湯川博士は中間子は“パイ中間子”と名づけられました。翌1948年には、カリフォルニア大学の大加速器で中間子人工的につくられます。

湯川博士はその年、オッペンハイマーの招きでプリンストン高等研究所客員教授になり、翌1949年にはコロンビア大学教授となって、ニューヨークに移ります。そしてこの年に、湯川博士へのノーベル物理学賞授与が発表されたのです。

朝永先生のノーベル賞受賞の対象となったお仕事は、「くりこみ理論」と呼ばれています。電子などの素粒子のエネルギーを理論的に計算していると、近似の仕方によっては理論の値が無限大になることがあります。これは素粒子のまわりに生じる場の効果によるものです。朝永先生のお仕事は、たとえば素粒子の質量や電荷にその効果を‘くりこむ’ことによって、意味のある有限の結果が得られることを示したものです。

1943年、戦局厳しく、暖房も物資もない耐乏生活の中から、‘くりこみ理論’の基礎となる考えを発表し、戦後その理論を高く評価したオッペンハイマーに招かれ、1949年8月から1年間、プリンストン高等研究所に滞在しておられます。

1965年、東京教育大で朝永先生のノーベル賞受賞祝賀会に出席した翌年、私は京大基礎物理学研究所の助手として採用していただきました。この研究所は、湯川先生のノーベル賞受賞を記念して1953年に設立されたもので、以来ずっと湯川先生が所長を務めておられました。
私は結局、1966年の8月から70年の9月までの4年余りを助手として、さらに1976年10月から81年8月までの5年ほどを助教授として、この研究所で研究するという幸せなめぐり合わせになりました。

当時この研究所には、素粒子論が二講座、原理核と物性がそれぞれ一講座ずつあり、各講座は教授、助教授、助手の三つのポストから構成されていました。したがって、所員は合計12人という小さな研究所でした。

湯川先生は、世界平和のための活動にも情熱を傾けられ、ノーベル賞受賞者たちによる核兵器反対署名への署名、世界平和アピール7人委員会の結成、科学者京都会議など、あゆまぬ努力を続けられました。

研究所では昼、湯川先生の応接室に所員や訪問中の研究者たちが集まって一緒に食事をします。・・・物理の話から、政治、社会、文化などあらゆることが食卓の話題でした。湯川先生はいつも雄弁でよく笑われ、子供のころ寡黙だったという話が信じられないくらいです。

「荘子」に出てくる‘混沌’の話をよくなさいました。
混沌は、目も鼻もない‘のっぺらぼう’だということです。どの学問でも道ができてしまうと面白くない、海のものとも山のものともつかない混沌の時代が一番面白いのだという主張でした。
「混沌会」という集まりを作り、新しい研究の話を楽しんでお聞きになって、未踏の学問分野の開拓を奨励されました。そして、天文物理学、生物物理学、宇宙物理学などの新しい境界領域の育成に貢献されました。

二人目の老子にも触れなくてはならないのだが、割愛させていただきい。

ゆらぐしんり⑪

2012-02-16 09:00:00 | Brownナノ
のぞこうと思ったのだが、思い直してチラッと「宇宙の果てを覗く」ことにする。

ハップルがシカゴ大学に入学したとき、天文学部の学部長は、天文学研究のパイオニアであるジョージ・ヘイルでした。シカゴ大学に世界最大の望遠鏡を設置したのは、このヘイル教授でした。
さらに、シカゴ大学の教授陣には、著名な天文学者フォレスト・モールトン、アメリカ初のノーベル物理学者アルバート・マイケルソン、有名な物理学者ロバート・ミリカンらがいました。
マイケルソンは、光速が一定であることを実験的に示し、アインスタインの特殊相対論の根拠をつくった人です。ミリカンは電子の電荷量を精密に測定するための油滴法を導入し、やはりノーベル物理学賞を受賞しています。

しかしハップルはそのまま天文学の道に入ったわけではありませんでした。父の希望をいれて、卒業後は奨学金でイギリスに渡り、オックスフォード大学で法律を学びました。帰国後は弁護士の試験に合格しましたが、気が変わって高校の教師になるなど、紆余曲折を経た後、やはり天文学が自分の天職だと気づき、シカゴ大学の大学院に戻ります。

ヘイルはシカゴ大学で、ハップルの学部時代からその優秀さに注目していました。それで、ウィルソン天文台をスタートさせるときには、ハップルに研究員としてくるよに招聘の手紙を書きました。
ところが、愛国心の強いハップルは、この上もなく名誉なこの申し出を断って、第一次世界大戦にみずから入隊しヨーロッパに行ってしまいます。・・・

ハップルは戦争で軽い傷を負いますが、1919年に無事帰国します。ヘイルに連絡し、ウィルソン天文台の研究員として大歓迎で迎えられて、本格的な研究を始めます。・・

当時、渦巻き型のアンドロメダ星雲が私たちの銀河系(天の川)の内部にあるのか外部にあるのかについて、天文学界を二分した論争が繰りひろげられていました。ハップルはこの問題の答えを得るために、星までの距離を測ります。

一光年だけでも大変な距離なのに、何十万光年とか何百万光年とかいわると、もう目がまわりそうになりますね。今、私たちが見ているアンドロメダ星雲の光は、実は230万年前にアンドロメダを出発した光なのです。
ちなみに、太陽から地球まで光が届く時間は8分くらいですから、アンドロメダがどんなに遠くにあるかがわかります。
アンドロメダまでの距離が私たちの銀河系・天の川が宇宙のすべてだと考えていたそれまでの見方を否定し、『天の川の外に銀河がある』ことを発見したことになります。
この発見に対してハップルは1923年までに十分な確証を得ていましたが、発表には慎重でした。

1924年11月24日のニューヨーク・タイムスの見出しに「渦巻き星雲は星の集まりだった。それは『独立の宇宙』だという見方をハップル博士が確認」という文字が躍りました。
私たちの宇宙以外に、別の宇宙がある。当時の人たちにとってこれは、地動説に匹敵する驚きでした。人類の世界観を根底から覆す発見です。
当時「宇宙」と呼んでいたものは、いま私たちが「銀河」と呼んでいたものです。

ハップルはさらに、アンドロメダ星雲がわれわれの銀河系に一番近い銀河であること、銀河が集まって銀河団を作り、宇宙にはそのような銀河団がいくつもあることなど、宇宙の構造を実験的に証明しました。
いま「宇宙」というとき、それはすべての銀河団を含めた「この世の存在の一切」を指しています。

2002年4月1日発行の「アストロフィジカル・ジャーナル・レターズ」によれば、153億光年という途方もない彼方にある銀河が見つかったそうです。

ハップルはアンドロメダなどの銀河の発見後も、天体観測を続けていました。ちょうどその頃、アメリカの天文学者スライファーは、45個の銀河を調べて、ほとんどの銀河が地球から遠ざかっていることを見つけました。ハップルは、ウィルソン天文台の2.5メートルの大口径望遠鏡を駆使して、観測をします。
特に、「銀河までの距離」と「銀河が遠ざかる速度」との関係に注目します。そして、遠くにある銀河ほど速いスピードで遠ざかっており、距離と速度は比例関係にあることを、1929年に発見しました。これはその後、「ハップルの法則」と呼ばれるようになります。
ハップルが発見したこの事実は、宇宙が一様かつ等方的に膨張していることを意味しています。
私たちの銀河系・天の川の外側に、同じような銀河がたくさんあるという発見だけでも大変なことでした。それに加えてさらに、宇宙全体が膨張していると言い出すとは!

相対論が時間の伸縮や空間の湾曲(ワープ)結論し、量子論が粒子-波動の二重性を主張したことも、確かに革命的なことでした。でもそれは、私たちの生活と隔絶した世界のことだと感覚が、どこかにありました。
それに対して、私たちの住んでいるこの宇宙が現に膨張し続けているという事実は、相対論や量子論の結論を超えた、もっとはるかに途方もないことです。

宇宙が膨張しているという事実は、昔は今より宇宙が小さかったことを意味します。それが正しいなら、ずっとずっと昔にさかのぼっていくと、最初は宇宙が点のように小さかったという結論に行き着きます。点のように小さい宇宙が大爆発を起こして広がり出したというのが“ビッグバン”のイメージです。
ビッグバンは宇宙膨張の必然の帰結です。ハップルが“ビッグマンの発見者”と呼ばれているのは、そのためです。

実際、量子力学的見地から、私たちの宇宙と並行に同時進行している宇宙(パラレル宇宙)があるはずだ、という主張がなされています。これも、実験的に把握することはできません。

ところで、アインシュタインの一般相対論の式は、宇宙は膨張しているか収縮しているかのいずれかだと示唆していました。しかし、アインシュタインは、宇宙が膨張したり収縮したりという考えかたには耐えられなくて、一般相対論の式に余分な項を作為的につけ加え、式の上で膨張収縮が起こらないようにしました。
この項は宇宙項と呼ばれています。結果的に宇宙項は、一般相対論の式の美しさを著しく損ないました。

ところがハップルの膨張宇宙の発見で、アインシュタインの宇宙項が不要であったことが示されました。アインスタインはハップルの発見を知って、宇宙項を作為的に導入したことを、「わが人生最大の失策」と口惜しがりました。
ちなみに、アインシュタインの宇宙項については、ハップルの発見からはぼ70年後の1998年に、新しい実験事実が報告されて、もう一度「どんでん返し」が起こりました。
ハップルの膨張宇宙では、膨張速度が一定と考えられてきたのですが、新しい実験は「宇宙膨張の速度が増加している」証拠を示しています。アインシュタインの宇宙項を、膨張速度増加の説明に使えるという考えも出されました。アインシュタインの意図とは異なる使い道で、宇宙項が役に立つ可能性があるというのも、面白いことですね。

1929年に「宇宙は膨張している」というハップルの論文が発表されてから、アインシュタインは一,二年落ち込んでいましたが、招待されて1931年にカリフォルニア工科大学(カルテック)を訪れる機会がありました。アインシュタインは、わざわざウィルソン山に登って天文台にまで出向き、ハップルに敬意を表します。一般相対論を実験的に裏付けてくれたことに,厚く礼を述べました。

「星の一生」


落とし文!にきづいて声をかけたが、届かなかった。

丁寧に折り畳まれた紙片を開いてみるとについて、書き記された答案用紙であった。

「星の一生は、原子星から主系列星、そして赤色巨星になるまでは共通だが、その後質量が太陽程度の星ではゆっくりしぼんで白色矮星になるが、それよりずっと重い星では急激にしぼんで超新星爆発を起こす。⇒10点

元素合成のシナリオについて、①リチウム元素はビッグバンで作られ、②鉄Feは太陽の15倍ほどの質量を持った、星の内部で作られた③スロープロセスと呼ばれる重たい元素を作る場所は、太陽の8倍ほどの星が赤色巨星になった、その内部で行われた。
④ウランなどの重たい元素は超新星爆発によって作られた。⇒40点

100点満点と思われるが、彼女の得点は50点であった。