「もっともよく聞かれる、科学以外の疑問に対する答え」から、少し記しておく。
アインシュタインがもっとも賞賛した物理学者
マイケル・ファラデー、ジェームズ・クラーク・マクスウェル、アイザック・ニュートン。自分はこうしたカリスマ的な科学者たちの肩の上に立っているのだ。
アインシュタインにもっとも影響を与えた哲学者
デイヴィット・ヒューム、伝統的な常識的仮定とドグマにたいする批判のゆえに。エルンスト・マッハは、空間にかんするニュートンの考えにたいする批判のゆえに、また、ニュートン力学の批判的検討のために、そして、知的懐疑主義を鼓舞したゆえに。バルーフ(ベネデイクト・デ)スピノザは、その宗教観のために。アルトウール・ショーペンハウアーは、霊感を与えてくれる言葉、“人はしたいと欲することをすることができるが、こう欲したいと欲することはできない”のゆえに。
アインシュタインが好んだ本と著者
ガンデイーの「自伝」。ジョン・ハーシーの「アダノのための鐘」と「壁」。ソーントーン・ワイルダーの「わが町」、ドストエフスキー、トルストイ、ヘロドトス。スピノザの宗教に関する著作。
1920年にアインシュタインが推薦した科学書についての本は、ヘルマン・ワイルの「時間・空間・物質」、モーリッツ・シュリックの「今日の物理学における空間と時間」、さらに「相対性原理」と題された本である。
趣味
音楽と読書のほかに、アインシュタインが情熱を傾けていたのがセーリングだった。50歳の誕生日に友人たちが買ってくれた帆船を、ベルリンの南西、カプートの夏の家のそばハヴェル川で走らせた。この船は、マホガニーをはりめぐらした215平方フィートのデインギーで、“テユムラーTummler=イルカあるいは滑るように進むもの”と呼ばれていた。
イルゼの手紙
1918年春、アインシュタインは、エルザとの婚約を破棄することを考えていた。エルザの20歳になるかわいい娘イルゼと結婚することを検討していたのだ。
イルゼは1918年1月にカイザー・ヴィルヘルム研究所でアインスタインの秘書になっていた。このころアインシュタインはミレヴァとの離婚の最終段階にいた。
このことが公になったのは、かなり最近、「アインシュタイン全集」第8巻が1998年に刊行されたときのことだ。1918年5月22日の手紙でイルゼは、医師で反戦活動家のゲオルク・ニコライに、アインシュタインから結婚の話を切り出されたと打ち明けた。微妙な状況をどう扱えばいいか、迷っているようだった。
母は1912年からアインスタインと恋仲であり、この苦境を知っていて、イルゼのよれば、娘の幸せがかかっているのなら喜んで身を引くつもりだった。しかしイルゼは、自分にたいしてアインシュタインがいだいているように思われるのと同じような情熱を自分のほうはアインシュタインにたいしていだいていないという判断を下した。
実際、イルゼにとってアインシュタインは父親のような存在(当時38歳)で、肉体的に親しくなりたいという思いはなかった。結局イルゼはプロポーズを断った。
翌年、エルザとアインシュタインは結婚した。
「友人、科学者、その他について」
愛人であり、ソ連のスパイだったと言われる、マルガリータ・コネンコヴァについて
きみは祖国を深く愛しているので、こうして“ロシアに帰って”いなかったらやがて苦い思いをいだくようになっていたことだろう。何しろきみは私と違って、この先、何十年も活発に仕事をして生きていくのに、私のほうは、どんな点から考えても・・・・とっくに死んでしまっていておかしくないのだから。→1945.11.8手紙
最近、自分で頭を洗ったが、あまりうまくできなかった。私はきみほどは注意深くはないのだ。何を見ても、きみを思い出す。・・・・辞書、なくなったと私たちが思ったすばらしいパイプなど、私が隠遁生活をおくる小部屋にあるちょっとしたものすべて、それに私のさびしい隠れ家。→1945年11月27日手紙
人々はいま、“戦後”、前と同じように暮らしている。・・・・自分たちが対処しなければならなかった恐怖から何も学んでいないのは明らかだ。以前、自分たちの暮らしを複雑にしていたのと同じちょっとした企みにまた考えの大半を占められている。私たちは何と奇妙な種なのだろう。→1945年12月30日手紙
ご多幸をお祈りいたします。この手紙が届いたならだが。これを盗み見るものを悪魔が連れ去るように。→1946年2月8日手紙
“モスクワの”メーデーの式典はさぞ見事だったにちがいない。でも、こういう大げさな愛国的な示威行動を見ていると心配になる。私はいつも、世界市民的で理性的で公正な考え方をすることが大切だと人々を納得させようと努めている。→1946年6月1日手紙
人間としてのミケーレについて私がもっとも敬服しているのは、こんなに長年、ひとりの女性と、ただ平穏にではなく、変わらず仲むつまじく暮らすことができたということです。
私はこうした企てに2度も惨めなまでに失敗したのです。→1955年3月21日ミケーレ・ベッソ家への悔やみ状。
2004年のはじめごろアインスタインの最後の親しい女友だちヨハンナ・ファントヴァがドイツ語で書いた日記の写しがプリンストン大学図書館で見つかった。
1953年10月16日
新しい理論“「相対論の意味」の第4版の付録として出版されたばかりの、統一理論の新たな方程式を含むもの”について質問を浴びせかけられていると不平を言った。これについてはこれ以上研究できないと確信している。
1953年11月15日
フランスの宿屋の主人から魅力的な手紙を受け取った。科学をユーモアと結びつける人たちのクラブの名誉会長にしたいというのだ。
1953年11月18日
毎日夕方の5時45分に国連のラジオ放送を聞いている。
イスラエルが、ヨルダンの村キビヤを爆撃したことで国連によって糾弾された。アインシュタインは、これは非難されても仕方がないと言う。ラジオでのアイゼンハワーの声明を注目すべきものと考えた。「軍事力によって平和に達することはできない」というものだ。米国は中国の政治に巻き込まれるべきではないというアイゼンハワーの立場に賛同した。
1953年12月22日
バートランド・ラッセルの論文「不可知論者とは何者か」を読んだ。ラッセルへの賞賛の念をあらわした。
1954年2月9日
自分を老いた革命家と呼ぶ。政治的にはなお火を噴くヴェスヴィウス山だと。
1954年3月3日
物理学者からは数学者と呼ばれ、数学者からは物理学者と呼ばれる。孤立しているように感じる。だれもが自分を“知っている”が、本当にしている人はごくわずかしかいないと。
1954年3月24日
音楽とバイオリンの演奏についてファントヴァと話した。バイオリンはきついのでもう弾かないが、ピアノはまだ毎日弾いている。ピアノのほうが即興がやりやすいという。
1954年4月24日
話題の中心はオッペンハイマーだった。オッペンハイマーは類まれな人で、才能豊かで品がよく、自分にたいしてはいつも礼儀正しくふるまっているとアインシュタインは言った。アインシュタインが歯に衣きせずものを言うのに干渉することはないと言ってくれると。
1954年5月11日
上司であるオッペンハイマーに挨拶をした。気の毒に思っている。オッペンハイマーは“政府の人事安全保障委員会”の評決を待っているのだ。聴聞は終わっている。この委員会から“危険分子”とされれば、ほかの委員会からも攻めたてられる。今日では、昔の共産主義者がしていたようにおおっぴらに危険分子であるのがいちばんなのだ。
1954年5月29日
日本のお寺の住職から、ガンデイーの後継者になったらどうかと言われたが、それだけの政治的才能も、精力も、人格もないとアインシュタインは答えた。きょうは体がだるく、ようやっと家に帰ることができた。年寄りだからしかたがない。
1954年6月3日
オッペンハイマーはとても落ち込んでおり、アインシュタインは、苦境に同情を示しに行った。オッペンハイマーがどうしてこのことをこんなに深刻に受け止めているのかわからないという。
1954年6月15日
マッカーシーは今度は自分の委員会の危険分子がいると疑っている。いまはフランス革命の最中と同じだとアインシュタインは思いをめぐらす。
先に相手を縛り首にしたほうが勝つのだ。
1954年6月29日
アインシュタインによれば、民主主義の中では模範的な人は成功しない。もっとも偉大なアテネ人たちが追放されたのと同じこと。オッペンハイマーにも同じことが言える。原子力委員会は4対1で、オッペンハイマーを安全保障上危険な人物として解任した。
1954年10月26日
アインシュタインはオッペンハイマーの本「科学と常識」を読んだ。この本は、去年イングランドでおこなったラジオ講演にもとづいている。本当に才能のある人で、頭がよく、面白い。・・・
1955年1月5日
ゆうべオッペンハイマーがラジオでしゃべった。アインシュタインは、オッペンハイマーが言ったことが気に入った。オッペンハイマーは、オルソップ兄弟によるオッペンハイマー事件についての本が出版されてから前より勇気を見せている。この本は反ストラウス提督の立場で、提督は出版を食い止めようとした。
1955年1月20日
アインシュタインとファントヴァは最終試験について議論した。大学では最終試験が行われている。試験をすることがいいことだとは思わないとアインシュタインは言う。試験は学生の興味をそいでしまう。学生が大学時代に受ける試験は2回を超えるべきではないという。自分なら、セミナーに出席することを求め、学生たちが、興味をいだいているように思われ、話を聴いてくれれば学位を与えるという。
1955年2月14日
バートランド・ラッセルから大事な手紙を受け取った。ラッセルは原子戦争を避けるために策を講じたいと言い、世界中で影響力のある人々に支持されたある種の世界政府を樹立することを唱えている。
1955年3月14日
きょうは76歳の誕生日で、アインシュタインは自分で自分を自宅監禁にしてしまった。外でテレビの記者たちが待ち構えているからだ。
バッキー夫妻が訪れ、パズルをいくつかもってきてくれたし、オッペンハイマーがレコードを何枚かもってきてくれた。それに電報と花が数多く届いた。
1955年4月10日
一日中、イスラエルのためのラジオ・メッセージを書こうと努めたが、仕上げられなかった。自分はまるでばかだと言う。ずっとそう思ってきたと。そして、ときたま何かを成し遂げられるだけだと。(→4月13日、建国7周年を迎えるイスラエルと同国国民へ寄せるラジオ放送に関する打ち合わせ後、心臓付近の痛みに倒れる(腹部動脈瘤の破裂)。
数日後、アインシュタインはプリンストン病院に入院し、4月18日の朝早くここで死んだ。延命のための手術はいっさい拒んでいた。

アインシュタインからの手紙
アインシュタインは6歳で
バイオリンを弾きはじめた。1950年にはすでにバイオリンをやめて、その代わりにピアノを楽しんでいた。自分のバイオリンを“リナLina”と呼んでおり、それを孫のベルンハルトに遺贈した。
モーツアルトのソナタをよりつづけなさい。パパも、モーツアルトのソナタを通じて音楽を知るようになったんだ。→1917年1月8日息子ハンス・アルベルトへの手紙
日本の音楽と私たちの音楽との違いは根本的なものだ。和音と建築的編曲は私たちヨーロッパ人の音楽では不可欠であるが、日本の音楽には存在しない。しかし、どちらも13個の音が1オクターブをなす。私にとって日本の音楽は、情緒を描いた絵で、驚くべき効果を即座にもたらす。・・・・人間の声に、また、鳥のさえずりや海の波の響きといった、人間の魂を揺り動かす自然の音に見い出される情緒を、様式化された形で表現することがその中心にあるという印象をいだいている。この感じは、ピッチに限らず、とくにリズム的な特徴づけに適している打楽器が大きな役割を演じているために強められている。・・・・私の考えでは、日本の音楽が偉大な芸術として受け入れるうえで最大の障害は、形式的な編曲と建築的構造が欠けていることだ。→1923年1月「改造」
音楽は研究に影響しませんが、どちらも、同じ種類の憧れに培われ、解放をもたらす点でたがいに補いあっています。→1928年10月23日パウル・プラウトへの手紙
物理学者でなかったら音楽家になっていたでしょう。私はよく音楽で考えます。音楽で白昼夢を見ます。音楽の観点から自分の人生を見ます。・・・・私は人生の喜びの大半をバイオリンから得えています。→1929年10月26日G・S・ヴィーレックによるインタビュー
1955年12月17日
追悼コンサートのプログラム
R・カサデススのピアノ、プリンストン大学オーケストラによる
モーツアルトの戴冠式コンチェルト(ピアノとオーケストラのための協奏曲ニ長調)とバッハの
カンタータ第106番“Actus Tragicus=哀悼行事”からのソナチネの演奏。またハイドンの交響曲第104番ニ長調と、コレッリの合奏曲第8番も・・・クリスマスという曲だが、これは、ちょうどその時期だったからだろう。