⑦ 硬さは物質の特性ではない
さて、私たちには通俗にとされている物質に属している他の特性、即ち硬さを取り扱うことが残されている。
或る人達は、物質の性質に関する人々の無知がもちだされと、人は物質の存在と性質とを有効に証明するには、その頭を石の壁にぶっつけて見さえすればよいと言って満足して居る。
さてこの言葉に何等かの価値ありとすれば、唯単に硬さの感官印象なるものが、それらの人達の考えの中では物質の存在の本質的証明だると言うことを意味し得るに過ぎない。併し私たちの中の何人も、硬さの感官印象の存在が、他の一定の恒久的群の感官印象に結合して居ることを疑うものはないのである。
私たちはそのことを子供の時代から知っているし、今更その存在が試験的に証明されることを要求しはしない。
それは、後に説明するように、科学に依って私たちの肉体と外部の物体の一定部分との相対的加速度という言葉で記述されると考えられ筋肉的感官印象の一つなのである。
しかし硬さの感官印象が何故、柔らかさの感官印象に依って説明されると考えられる以上に、物質の性質に関して説明し得るかということを把握するのは困難である。
一般に物質と呼ばれ、しかも確かに硬くないものが沢山あるのは明らかである。又更に運動するもの、或いは空間を満たすものとしての物質の限定は満足させるが、事実硬さ、又は柔らかさという性質の或る感官印象を生ずるにはいささか隔たって居るようなものである。
又私たちが物質とは重いものだると言えば、その定義は満足されないにせよ、重さは確かに感官印象の物質的な群として、硬さよりも広く普遍的な要素である。
太陽と遊星との間に、物体の原子の間に、物理学者はエーテルが存在すると考えて居り、そのエーテルはその振動に依り、電磁的、光学的エネルギーが一物体から他の物体へと移動する手段となる道路を構成する媒質なのである。
第一にエーテルとは、その助けを借りて概念的空間に種々なる運動が互いに関係される純粋概念である。
これらの運動は、種々なる現象の群の間に知覚される連繋、及び関係を、私たちが簡単に記述する記号である。
このようにエーテルとは私たちの知覚的経験に投射し、その実在的存在を主張するのである。
この主張は、実在的実体、即ち物質は感官印象の群の背後にあると言う仮定同様、論理的でもある、又論理的でもないと言うのが正しいと思われる、両方ともに現在では形而上学的な言葉である。
だがエーテルは硬いか、重たかに考へられねばならず、しかもそれは引き伸ばされたり、又その諸部分が相対的な運動をなしうると言うことの何等それ以上の証拠となるものはないである。
更にテイト教授の見地を以てすれば、それは空間を専有すると言う。故に物質を硬さと重さに結合させる人達は、エーテルが物質である、と言うことを拒否するか、さもなければそれを非物質と呼んで満足せねばならんぬ。
それと同時に形而上学者連が---よし空間と、感官印象の恒久的実体との両者の現象的存在を主張する唯物論者であて、又或いは私たちに頭を石の壁にぶっつけるように言う「常識的」哲学者であれ、---物質とは運動するものであり、空間を専有するものであり、硬さと重さとを有する物であると言う時に、絶望的に相反した結果に到達するのは、少しの価値もあるものではないのである。
ところで、「ニュートン力学」とわれわれのその意識とは随分違っている。と改めて気づいて見るのも興味深いことであろう。
それはおよそ300年という時空を省みることとなるのだが、つまり1713年の「プリンキピア」の一般的注解等がそれである。
これまで天空とわれわれの海に起こる諸現象を重力によって説明してきたのですが、重力の原因を指定することはしませんでした。
事実この力はある原因から生ぜられるのです。・・・・けれどもわたしは仮説を立てません。
要するに、重力の成因ないし絡繰りについては好きなように解釈してもらえば良いと言うことで、さしあたってこのかぎりでは---ということは数学原理の範囲内では----ニュートンにとって万有引力とは数学的関係にすぎず、それ以上の存在論的意味を問うところではない。
つまり彼は、力が「HOW」如何に作用するのかのみを考え、「WHY」何故作用するのかを問おうとはしなかったのである。
このニュートンの方法論こそが18世紀そして19世紀のみならず、漱石の時代にも生き続けていたのである。
さて、私たちには通俗にとされている物質に属している他の特性、即ち硬さを取り扱うことが残されている。
或る人達は、物質の性質に関する人々の無知がもちだされと、人は物質の存在と性質とを有効に証明するには、その頭を石の壁にぶっつけて見さえすればよいと言って満足して居る。
さてこの言葉に何等かの価値ありとすれば、唯単に硬さの感官印象なるものが、それらの人達の考えの中では物質の存在の本質的証明だると言うことを意味し得るに過ぎない。併し私たちの中の何人も、硬さの感官印象の存在が、他の一定の恒久的群の感官印象に結合して居ることを疑うものはないのである。
私たちはそのことを子供の時代から知っているし、今更その存在が試験的に証明されることを要求しはしない。
それは、後に説明するように、科学に依って私たちの肉体と外部の物体の一定部分との相対的加速度という言葉で記述されると考えられ筋肉的感官印象の一つなのである。
しかし硬さの感官印象が何故、柔らかさの感官印象に依って説明されると考えられる以上に、物質の性質に関して説明し得るかということを把握するのは困難である。
一般に物質と呼ばれ、しかも確かに硬くないものが沢山あるのは明らかである。又更に運動するもの、或いは空間を満たすものとしての物質の限定は満足させるが、事実硬さ、又は柔らかさという性質の或る感官印象を生ずるにはいささか隔たって居るようなものである。
又私たちが物質とは重いものだると言えば、その定義は満足されないにせよ、重さは確かに感官印象の物質的な群として、硬さよりも広く普遍的な要素である。
太陽と遊星との間に、物体の原子の間に、物理学者はエーテルが存在すると考えて居り、そのエーテルはその振動に依り、電磁的、光学的エネルギーが一物体から他の物体へと移動する手段となる道路を構成する媒質なのである。
第一にエーテルとは、その助けを借りて概念的空間に種々なる運動が互いに関係される純粋概念である。
これらの運動は、種々なる現象の群の間に知覚される連繋、及び関係を、私たちが簡単に記述する記号である。
このようにエーテルとは私たちの知覚的経験に投射し、その実在的存在を主張するのである。
この主張は、実在的実体、即ち物質は感官印象の群の背後にあると言う仮定同様、論理的でもある、又論理的でもないと言うのが正しいと思われる、両方ともに現在では形而上学的な言葉である。
だがエーテルは硬いか、重たかに考へられねばならず、しかもそれは引き伸ばされたり、又その諸部分が相対的な運動をなしうると言うことの何等それ以上の証拠となるものはないである。
更にテイト教授の見地を以てすれば、それは空間を専有すると言う。故に物質を硬さと重さに結合させる人達は、エーテルが物質である、と言うことを拒否するか、さもなければそれを非物質と呼んで満足せねばならんぬ。
それと同時に形而上学者連が---よし空間と、感官印象の恒久的実体との両者の現象的存在を主張する唯物論者であて、又或いは私たちに頭を石の壁にぶっつけるように言う「常識的」哲学者であれ、---物質とは運動するものであり、空間を専有するものであり、硬さと重さとを有する物であると言う時に、絶望的に相反した結果に到達するのは、少しの価値もあるものではないのである。
ところで、「ニュートン力学」とわれわれのその意識とは随分違っている。と改めて気づいて見るのも興味深いことであろう。
それはおよそ300年という時空を省みることとなるのだが、つまり1713年の「プリンキピア」の一般的注解等がそれである。
これまで天空とわれわれの海に起こる諸現象を重力によって説明してきたのですが、重力の原因を指定することはしませんでした。
事実この力はある原因から生ぜられるのです。・・・・けれどもわたしは仮説を立てません。
要するに、重力の成因ないし絡繰りについては好きなように解釈してもらえば良いと言うことで、さしあたってこのかぎりでは---ということは数学原理の範囲内では----ニュートンにとって万有引力とは数学的関係にすぎず、それ以上の存在論的意味を問うところではない。
つまり彼は、力が「HOW」如何に作用するのかのみを考え、「WHY」何故作用するのかを問おうとはしなかったのである。
このニュートンの方法論こそが18世紀そして19世紀のみならず、漱石の時代にも生き続けていたのである。