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不易流『膠層』

2023-06-18 13:01:41 | 虚私
 コロイド状態とは結晶質へと変化する可能性がある物質に於ける動的な状態として定義しておこう。
つまりコロイド状態には「ENERGIA」を秘めている。新たに発見されたエネルギー状態への造語に、アリストテレスの影を認めるのは自由である。


 その含意は、結晶とか非晶質とか、そのような仮の姿や宿を問題とはしていないけれども、造語に頼って語り掛けなければならない自らの立場としては、その説明責任を果たす覚悟がいる。言うなれば比喩をもってその勤めを果たさんと、つまりリベラルアーツ、知覚問題である。

 グラファイトなどの実験等を通して結晶・非晶質にも通じていた彼がここでことさら峻別する事はない!方便として、クリスタロイドそしてコロイドと分離してみせたまでだ。

 事実その反響はアメリカの開業医ミッチェルからの第一報にはじまり、生理学者とか医化学者などから寄せられた事は彼にとっては本望ではなかったか。
 それが浸透問題へと及ぶにつれて確かな手応えを覚えていたに違いない。それがリービッヒやホフマンなどからの厳しくも優しい励ましは歴史的にも有難かったはず。とは言えその道筋が気体にも似たランダム・ウオークながらも、先人たちの叡智に頼りつつ時分を歩んできた。


小史
1859年  ベンジャミン・コリンズ・ブロディの論文「グラファイトの原子量について」 
        査読者はトーマス・グレーアム
1860年   第一回世界化学者会議 ブロディ参加。
カニッツァーロの小冊子 アボガドロの仮説とデュロン-プティの仮説を首尾一貫して用いて,物理学的データに矛盾しない原子量体系をつくりあげた.
1861年  “Liquid diffusion applied to analysis” コロイド概念を得る。
1863年  ”On the molecular mobility of gases” 満を持しての原子論を示唆。


 不可知論者ブロデイと共にあったグレーアム、あの論文はこの事実を下敷きとして読み解かれなくてはならない。実験哲学の書だけではすまない!物理・化学その境界を切り拓いたミクロコスモス。造語であるコロイド問題。つまり「COSMOSのai!」それが素朴な秩序を意味して要るわけではない。

そこからの彼は造幣局長官の重責を果たす中で、そこでの問題を終結させてゆく日々でもあったと、我々は知る。残された5年足らずにも論文を仕上げきった。振り返ればたった一本の「膠道」である。

 共にあったアンガー・スミスは、伝記作家としての役目も果たしてくれた。ギリシャ由来とかインドからの思想とかに言及しながら、それが五輪塔のような、五大の認識だと読み解ける。
つまりニュートニアンが受け継ぎ守ってきたその結果としてのパラダイム転換であった。万有引力ではない万有重力と言うべきか、


①疑問1;物体は距離をおいて光に作用し、その作用によって光の射線を曲げるのではないか。
②疑問5;物質と光は互いに作用し合うのではないか。
③疑問8;全ての不揮発性物質は、加熱させると光を放出して輝くのではないか。
⓸疑問30;粗大な物質と光は互いに転換できるのではないか
⑤Query 31 Queryのうちで最も長く最後にあるのが31である。ニュートニアンと言われる多くの人がこの問題を重要視した。その背景には『プリンキピア』の末尾での結語として書かれていたとされている。
 Dobbsにょれぽ,「ニュートンが錬金術から得ようと望んだのは,小宇宙において,物質を構成している活力のない諸粒子を組織付け活気づけるような,神の手による作用を,正確に知ることであった」のである。
つまり拡散・浸透等で語られるそれである。正に膠観である。


温故知新は対応原理である。
 父 ヴォルフガング・ヨーゼフ・パウリ(Wolfgang Josef Pauli、1869年=1955)オーストリアの医師、生化学者(コロイド化学、タンパク質化学)。彼はコロイド化学の基礎的な研究を行い、コロイドの理論を開発しました。
タンパク質の表面電荷がpH値に依存するという観察により、彼は電気泳動の基礎を提供し、カール ランドシュタイナー(ABO式血液型を発見)と一緒に電気泳動装置(タンパク質精製用の移送装置)の先駆けを開発しました。彼は、水和、膨潤、旋光性に対するタンパク質の電荷の影響を研究し、タンパク質に対する保護コロイドの効果と電離放射線の影響を研究しました。


その子、パウリと言えば排他律!? 誰もが知るその息子であり、誰もが知らない父である。
しかし親子して同じ道を棲み分けていた。古典的なコロイド化学であり、量子論的なコロイド化学の世界である。
 二元論的止揚からの「膠観」つまり相補償的なコロイド世界が彼を虜にしていた。


その息子の研究の足跡を参考に供する。1920-1938
① コロイドの純度問題 
② 電気傾瀉法によって、実質的には電解質を含まないコロイドを得た。
③ コロイド状イオウの化学的製法 非常に周到な研究により、イオウ粒子はチオ硫酸で安定化されていることを明らかにした。
⓸ 増感および安定化の現象 水酸化クロムの非常に純粋なゾルは振盪により容易に凝結する。

その彼は曰く「ハイゼンベルグは哲学的考察に欠けています!」と、ボーアに書き送る。その1年後「残念ながら私自身の哲学的立場は、全くもってはっきりしません。」とパウリへ書く。
 その彼は多くの哲学的な書を残してくれた事には注意する必要があろう。彼ら二人して「膠場」を建設したとさえ言いうる。量子化学の建設者である。

 アインシュタインの一般相対性理論が1916年に発表され、人々が競ってその解説を求めたとき、パウリは『数理科学百科事典』の一項目でそれに応えた時、21歳であった。 


①「結局、君は正しかった!この野郎!!」1932年1月22日 アインシュタイン⇒パウリ 
② 他 あの1905年、ブラウンもグレーアムも知らなかった、知らぬが仏!



参考文献など 
①「コロイド化学」B.ヤーケンソンス M.E.ストラマニス 玉虫文一監訳

② パウリは、原子核が出す放射線(ベータ線)のエネルギー分布を研究しているとき、エネルギーがどこかへ消えてしまうことをどう説明すべきか悩みました。そしてつじつまを合わせるために立てた仮説が、「電気を帯びていなくて、知らないうちにどこかへ飛び出してしまう、幽霊のような粒子がある」というもの。フェルミは、パウリの考えた粒子について研究し、ベータ崩壊の理論を構築していました。1932年に現在のニュートロン(中性子)が発見されていたので、幽霊粒子のほうを「ニュートリノ」と名づけ直しました。
 丁度、その頃のマヨラナは「物理学と社会科学における統計的法則の価値」等を書き上げていたらしい。けれども出版する事を躊躇していた。そこにもパラダイム転換があったものと理解される!














自然は『膠然』である!

2021-06-01 10:28:03 | 虚私
自然とは『膠然』である!


 五月晴れとも言う梅雨晴れ間の朝は早い。日損村とか言われたとか聞くが五時前には既に青空が余を誘い出させる。
ご先祖様から引きづり出されたかのように臍が行く先を定めているらしい。それを背後からの力をいただくかのように、つまりジョガーが登り坂で肘鉄を食らわせてるかのように駆け上がる走りに似てくる。
 これがわたしの姿形、姿膠であるのではないか。

 お気いに入りのスポットの一つは”うみてらす”。
そこで案内される光景は、斎灘と伊予灘の狭間となる忽那諸島。寄せては返す「春の海」の調べの如きは心地よきものである。

 北条30番札所を教えてくれた女は、教えてくれ!とせがむので呟くように自然!
暫くしてから「わからない」との声を聞いたのかもしれないが。別れの挨拶も無く、一期一会であろうと思われた。
30番札所へ行っ手見た。其処からの眺めは彼女の大好きだと言う浜辺、粟井の浜辺であろうか。

 遍路さんとの出会いは何故かいつまでも記憶に新しいのは不思議である。
偶然の出会いではあるが、何故か必然であったかのように励ましを受けている。
 それが一通の手紙の交換であったりもする、その日付がそれを明瞭にしてくれたのは不思議な縁である。
出された日付は化学の日であった。それだけの事であったが。そこからの偶然が偶然を呼び出させたかのように、1111の日付で返書がきた。それらの数字がかもし出させる妙に心理を増殖させる。

 遍路さんは国道を避けて海辺の大好きなあの女のいるであろう斎灘コースをお勧めしておきたい。
振り返れば熟田津・一遍縁の浜辺や大山寺・円明寺を望む。行く先には「花へんろ」で知られる鹿島を目印に歩きたい。

 帰り道で昨日であった男とかち合わせた、朝日のつぶてを食らっていた彼には何も認識する事が出来なかったに違いない。なるほど彼は可愛い!と言われるようになったのだ。
小さな体で60キロを超えていたとは信じがたいが今では50キロくらいまで減量できたとか。整形外科医からの忠告を愚直に守っている性格だが、少し物足りなさを覚える。
パウリならば批判精神がないと書くところであろう。

 彼の出版されなかった「背景物理」は何時どの様な時分に架かれ、何時それを断念したのかを知りたいと思わぬでもないが、知りたかったのは「子の親」、つまり父としての責務を果たしていないかのような事を言われたりするのは不本意であろう。

 むしろ真逆であり立派に導いたと言うのが私の仮説である。それを裏付けてくれるのが「背景物理」には散見されていると、読む。
ここで注意を促しておきたいのは「物理化学」という用語は未だ定着していないと思われる事である。
アメリカに由来する『物理化学』には特に注意を払っておきたい。ここでは「光原子」説を思い出させるルイス、化学結合論の草分けでもある。

彼は幾つものノーベル賞を受賞していても驚かないけれども、結果として一個も受賞することもなく謎の死をもって語られているのは驚きである。

パウリの心理的な背景には「背景物理化学」と言うべき響きが、彼らしい趣と言うべきものであると理解されるであろうか。

更に言えばコロイド学者としての権威であった父を考慮するならば「背景コロイド化学」より簡潔に『背景膠学』と言われて良い。

 このような背景をもつ彼がで合った問題が、周波数とエネルギーであった。そしてその理解は中国やインドなど東洋世界へとつながりを得ながらなされた。

 ここでは心理学との自然な架橋を志しているのであるから、周波数と言うような選局をつまり個性を求めるのではなく、数多なる周波数を認識しつつ聞き流している現実は、むしろ「周波」の吟味でたりるのではなかろうか。

 繰り返し繰り返し単調に周回しているかのごとく思われるかもしれないが、私の散歩コースは数多に及ぶ。一つとして同じものはない。おなじ気分になる事も無いのは二重項ならぬ多重項と言われるスペクトル線で例えられはしないか。
 ここで簡単に表現を改めて見れば「膠周波」と言ってよかろう。

これで物理とか申す難しい学問を離れてその増殖を図れるであろうと、パウリに逆提案しておきたい。それが日常的な「膠景」なのだ。

 彼ならさほどの教養も無いと、一言あるだろうがそれは甘んじて受けたい。
つまりそれでも地球は回っている。あの頃から百年も過ぎたいま、それらは蓄積されて万人が共有して共存を模索できるまでに熟膠して参ったからだ!

最後に言っておきたい事がありはしないか?
 それが『相補償』。相補性原理ではなくむしろ補償性にこそ注視されるべきなのだ!相補的なつまり敵対的なものの調和を説くだけでは解決には程遠い。
然しながら自らの相、そこからの補償力に信を置く「膠揚」、それこそがグラハムの造語『ENERGIA』に発している、からだ。

『膠情』

2019-06-04 09:37:22 | 虚私
 少しはにかみながらも、皮肉っぽい笑みを浮かべながら「冷っとする素足」の日本人が好き!と語ってくれた。


芝草を踏みしめてきた、あの感触が今、蘇ってくる。
今では街歩きの果てなる芝草へと到る。
それが梅雨晴れ間ならば、大樹の元で風を感じられるであろう。
身繕いを済ませると、膠庭・膠導で遊ぶはラテン語・ギリシャ語に尋ねるその語源。

「時の観念とエントロピーならびにプロバヴィリテイー」その冒頭部にはラテン語らしきが認められる。

寺田は書き記している。時の前後の観念はとにかく直感的なものであって、なんらかの自然現象に関して方則を仮定する事なしに定義を下しうるべき性質のものではないと思われる。


ところで、スミスの場合には敬慕してやまないトーマス・グラハムを偲んでの編纂作業は一編のギリシャ詩人へと化身させている。

令和元年は、トーマス・グラハムの立志200年であり没後150年となる。
身辺が、かくしてあわただしくも過ぎ去りゆく事を有り難く思う。

とは言え、素足で芝草を踏みしめる事も無くなってしまった人間の事だから、ひたすら「膠界」を想うに違いない。

「万有膠座」

2017-09-27 08:11:12 | 虚私
「化学史研究」最新号を読んでいてその気膠の変わり目を覚えていたからであろうか、「現代思想」特集号「かこさとし」で完全に触発されてしまった。

その契機をあたえたのはホフマン「現代化学における緊張関係:理論と応用、大学と産業界」である。

川島慶子の序文によれば、名古屋工業大学では、1981年度のノーベル化学賞受賞者ロアルド・ホフマン博士の自伝的戯曲『これはあなたのもの』の日本初公演を企画し、ホフマン博士を招聘下その時の活字化であるから、これの受付は2016年12月11日である。

触発されたのはアメリカにおけるその認識と著者自身の事例研究にあるが、その断片に少しだけでも触れて置く。


このACS委員の報告の中では、この一般的な注意事項のあとにいくつかの事例研究が続きます。私はこれらの助言の中に見られる「管理的な口調」を指摘したいと思います。

基礎研究はしばしば政府機関の支援の下になされます。そのため、アカデミアにいたる創意工夫に富む者たちは、何らかの商業的価値のあるものを発見した時には、身の振る舞いに注意しなければなりません。

それが法的利益問題である。


最後に提示されているのは図3「提案されている三つの規則的なベンゼンのポリマー」に関してです。

ベンゼンは百年以上にわたって、高圧化学の対象となっており、それは制御しづらいアモルファスの固体を生じます。
2014年、ペンシルバニア州立大学のジョン・バデインJohn Badding率いるグループは、非常に低速なベンゼンの加圧によって、大きさがわずか6.5Åの線状の分子からなる筋状物質を得ました。

私はあなた方に、この一連の美しい物質、すなわち今まさに形成過程にある新しいポリマーについてもっと話すこともできるでしょう。

そこから講演のテーマへと返して、様々な質問への答えを自問自答しながら、「たぶん」「きっと」とその能力への信頼を露としつつも、「そのナノ糸は丈夫だろうか、それらは他に使い道があるだろうか、それらは市販品になるだろううか」


突如として「かこさとし」その特集号が脳裏をかすめたのは、その事例研究に相応しいと感じとっていたからに違いない。

「化学者の目」以外には知らなかったのだが、そこで知ったのは「どろぼうがっこう」であった。
それが1973年、彼が突如退職したその年に出版されたその原稿は実は13年前に欠かれた論文の下書きの裏に黒と黄の二色で乱暴に走り書きした紙芝居でしたと、あとがきにある。

1960年頃からの13年間がそこに凝縮していることは特集号からだけでも直ぐに読み解けるに違いない。

ここでは若き哲学者、国分功一郎との対談からその吐露を引き出しておく。

「僕は管理職にいて、他の人のデータを見ていたのですが、それがダメだったのかもしれません。自分で研究の現場に立ってデザインができれば、いかに原子力の研究が困難で、人間の扱うに及ばぬものか、さらにはっきりわかったはずだと思っています。



再び本論へと戻せば、ホフマンが引用している名誉ある日本の膠分子こそは、正にその見事な失敗の事例であるとホフマンは知らなかったに違いない。
それは本年末をもって撤退が決まっているのだが、その失敗は単なる法的なモノだけではない筈。
それがアカデミアにいたる創意工夫に富むものたちの希望を撃ち砕かないところの、「理の法膠」問題ではないかと、遠くからではあるが見詰めてきた私は想っている。


2017年8月28日発売「現代思想」9月臨時増刊号 総特集=かこさとし(青土社)




余滴
相変わらず年表作成を心がけている。
現在は生化学を軸にしたコロイドを整理しているが、その中で気がついたのが1973年ノーベル生理医学賞であった。
動物行動学とも言うべきは、個人と社会との様々なパターンの相互関係の複雑さであるが、これもどこかの膠縁で出会ったような気がしている。


草膠『コロイドの発見』トーマス・グレーアムの時代 

2017-08-29 09:00:00 | 虚私
年表は作成して見るべし。

初めて気づく事多し。

その膠文は、付加と削除を経ていくうちに異形なる変貌を遂げつつ、始めて膠分子の如く形相を露にする。

 草膠に欠けるは多し。
 
 あい補っておくべきは沢山あるがその一つはインドであろう。

経緯はおくとしても東インド会社、その変質、ことに統治の問題は,あい争いながらも、しなやかに誘導される過程は見落とせない。

 それらはさて置くとしても、実験哲学者だからと言ってもその当時のエーテル・エネルギア、即アリストテレスと言う訳でもない。

彼等はより多くを先人、その実験哲学者の鏡とも言うべき錬金術師からより多くを学び、或る者は溺れ或る者は救われたのである。

 ファラデーを見よ!かのパラケルススその人の追試を決意し新たなる膠想を得てもいた。

それは年表からも読み解ける事ではあるが、初心へとご先祖がえりをしたにも等しい。リセットと言うべきであったに違いない。
 
 そこで新たなる解釈を導き出しえたのがあの塩化金酸の還元等で知られた実験である。

ここでは、もう一人の錬金術師ナーガールジュナのそれは空膠観とも言うべきであるが、「ゼロの発見」に同じ。

 さきの追試から見えてきたものは「しんかがく」、あの道もまた、この道の如くあったとの実感は「膠道の縁」と呼ぶべきか。不二の関係性は明らかである。新たなる眺望を得て確信をし

たのは確かである。


 ところで、思い出したのは不思議な夢を見た。

その日は、黄金の夢を見ていた。深く思うところもなく朝がきた。通常通り、午後からは出掛けたけれども、何故か郊外へと走っていた。

 そう、あの事故以来、市街地へと向かうのが妙に億劫になってしまったのだ。弱者は行き場を失っているのではないか。

その日はレイリー散乱・ミー散乱はとても望めそうもなく、ファラデー・チンダル現象を狙わざるを得ないけれども、何等の収穫もなく遂に今治市まで来てしまった。

 その入り口は菊間町、瓦の産地である。

狭い道端にそれらしい物が野曝しにされている通りであるから、直ぐに分かる。暫く行くと、何と金ぴかの鯱と思われるものが目に止まる。被写体はこれだ!


道後「飛鳥乃湯」、その形見。


 写真を撮り始め暫くすると、人の気配を感じた。それが主で、何処からか帰ってこられたと判る。

粘土と金に話が及んだ時、さえぎって「オスツチか?メスツチか?」と、聞きなれない言葉が飛び込んできた。

 しばらく、そのお話を伺っていると、それがレオロジー問題であり、あれを揺動性つまりチキソトロピーと呼ばれているところの、その含意だと気づいていた。

そこから「夢膠」とも言うべきを展開を見せて、さらに「重膠」な目にもとまらない「膠界」を解くこととならないだろうか、との自問が始まっていた。
 
 
 そもそも語感からして多くの暗示を与えてくれるではないか。チキソトロピーその語源を尋ねれば、そっと触れるその事。

「膠道の縁」によった縁起である。固体と思われたものが超流動状態ともなり得るのだし、その逆様もまたある。

あい矛盾して見える事でもゾル-ゲル的な揺らぎを踏まえれば、ゼロの如く、空の如く。繰り返し繰り返し語られてきた歴史的な語感。

 更に語源的にさかのぼるアトムの世界をわれわれは未だ知らないとは言え、語られてきたところを理解できないわけでもない。

 余は「空膠」と書き記したが、その母なるが故に、ここでは空膠母、膠母でもなく「母膠」と命名しておこうと思う。

それが彼等の言うところの靴墨等などよりも余程優れた比喩だと思われる。

先に見た、あのオス・メスは、ここから紡ぎだされる「コロイドのai」と言われるもに近い。


 
大循環 「膠界の虚私」


参考文献など
「新しい科学史の見方」村上陽一郎 NHK人間大学 1997年
「コロイド化学」立花太郎ら 共立ライブラリー 1981年
「コロイドの発見」立入 明ら 高分子化学協会出版局 1949年
「化学史研究」43巻2号2016年 菊池好行ら
「世界大思想全集」41;ピアソン著「科学概論」平林初乃輔訳 1930年



「青空図書館」等はしばしば利用させていただくが、断りもしない。

 ところで夏目賢一氏になる博士学位論文「ファラデーの電磁気学研究における力・力能・粒子」もまた、公開されているから拝読した。

その末尾ちかく、382頁以降に付記されている時代考証に関する時分の理解を示す。

 分子とエーテルの世界観であるが、そこのエーテルは更に3種類が想定されている。

ファラデーは電子エーテルに注力してきたのだが、かの数学者達がそこに発光エーテルを読み取れると主張されるに及んで、予てからの吟味・膠察を検証して見るために、初心へと戻した。

電気もなくローソクの明かりに導かれたであろう、パラケルススの金等のコロイドをもって追試に踏み切ったのであるが、その確認と新たなる理解を信じさせたのである。

 1857年論文とは言われるがその原稿は1856年11月15日である。それが翌年2月に講演されたのだ。その反響はマクスウェルに求める事ができる。

その有名な返書が3月25日。さらに、その金曜講演「金と光の関係」は6月12日。大盛況であった。

現役最後の実験となったのは「膠雲」であったし、正に有終の美を飾るものとなったのが「金のコロイド」である。

                                               

 最後にそこに記された次元を参考に示す。
①(発光)エーテル②電子エーテル③原子エーテルそして④分子さらには⑤質量。その時代の特にファラデーの認識を問う鍵となるものである。


                                                              2017年8月29日膠一





道後温泉別館 飛鳥乃湯泉





あとがき

小人閑居して不全をなす!相済まなかった。あとがきにも書き切れないからここは「諦膠」しない。

1857年だったと思われるが、かの有名な

   I must remain plain Michel Faraday to the Last.

小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡ってまいりました。今後もやはりただの夏目なにがしで暮らしたいと希望をもっております。

我々においてはほぼ常識となった、有名な対である。


 書き終えてうたれたのは、西周。

①  Comon Science

②  Particar Science

②-① Intelectual Science

②ー② Physical Science

 成るほどこのような翻訳が1869年頃の認識であったのだ。

その頃には「molecule science]と、言われ始めていたのだが、それを『Colloids Science』と命名しておく。

草膠『コロイドの発見』トーマス・グレーアムの時代 

2017-08-25 09:00:00 | 虚私

 コロイドの礎を築く上での大恩人が亡くなって150年になるというのにと、気にかけてはいたが、これと言うネタもなく、あれやこれやと考えあぐねて黙過するうちに時は過ぎ去っていった。


 それが何故か、ある時、いわば日常的なノイズの如きに触発されていたらしい。その一つが、光ボックスをもって繋がったYOU TUBEであった。

今年創立百年とかで賑わいを見せている、その歴史に関する講演会である。

理研の歴史講演会 第1回「理化学研究所の設立と大河内正敏の経営」。講演者は斉藤憲教授である。

 そこで映し出された年表のスライドは、直ぐに消えてしまった。

そして耳朶に残ったのが、年表はこうしてスライドで見せても消えてしまうから、面倒でも板書しておくと、より理解が進むらしい。

 それでも理解してもらえない学生がいる、その苦悩は絶えないらしいとも伝わってくる所から見ると、教育者とはそこへ全神経が集中しているのであろう。

そうだ、時分の年表を作成してみよう!とは言え、俄かに何かが出来る訳でもないが、ノイズの如きであっても、そこに何かを秘めているそのような、期待がないわけでもない。

 小人閑居して不全を為す。

不全のゆえには違いないが、その時分の限界でもあるからご寛容を乞う。

 あいつき合わせ、あい補えれば「膠福」である。








  草膠『コロイドの発見』トーマス・グレーアムの時分                             膠一



1869年    トーマス・グラハム 9月16日ロンドンにて没。

(気体⇒液体⇒固体。)死のわずかに数週間前に、グレーアムはかれの友人のために小さなメダルをパラジウム水素で鋳造させた。そのメダルは一方の面に英国の女王の像を、他の面にはグレーアムの名と「パラジウム-ヒドロゲニウム、1869年」という縁文字をいれた。


1869年    ファラデー・チンダル現象  「化学線の雲」
1869年    メンデレーエフ 周期表
1869年    アンドリューズ "物質の気体状態と液体状態の連続性について”
1869年    フリードリッヒ・ミーシェル 核酸を発見
1869年     雑誌『ネイチャー』の創刊。
1868年    ホルストマン;化学熱力学事始
1867年    ウォルター・クルム5月5日没
1867年    マイケル・ファラデー 8月25日没 
グレーアム教授外一、二人会葬したばかりであった。
1867年    ミラー・W・ A 「天体物理学の発見」
1867年    トムソン・テイト「自然哲学綱要」
1867年    マクスウェルの悪魔
1867年    マルクス『資本論』
1867年    トラウベ 「人工細胞」。
1866年    メンデル「植物雑種に関する実験」
1865年    ベルナ-ル「 実験医学研究入門」
1865年    ケクレ;ベンゼン分子構造
1864年    グルベル・ボーゲル 「化学親和力に関する研究」
1864年    チンダル「気 体・蒸気による熱の吸収・輻射についての研究」
1863年    スミス「アルカリ監視官」
1863年    ウィルヘルミー・L 吊板法による表面張力の測定
1863年    ハギンズ・ Wなど5名;恒星スペクトル
1862年    ファラデー 最後の実験;光のスペクトルに及ぼす磁場の効果
1862年    G・H・クインケ 電気泳動の原因としての電気二重層の概念
1862年    ボルツマン熱力学の第2法則への挑戦はじめ。
1861年     グレーアム“On the Diffusion of Liquids,”
1861年    マクスウェル「物理的力線について」。
1861年    造語「molecular science」
1861年    アレクサンドル・ブートレロフ 物質の化学構造について
1860年    ファラデー「ロウソクの化学史」
1860年    マクスウェル「気体の動力学的理論の例示」
1860年    グレーアム コロイド化学創始
1859年    ファラデー「物質の様々な力について」
1859年    クルム;媒洗剤の老化
1858年    ウォレス-ダーウィン 進化論
1858年    クラウジウス 平均自由行程と言う概念
1858年    スタニズラオ・カニッツァーロ 「化学理論講義概要」
1858年    ネーゲリ ミセル命名;デンプン、セルローズなど
1858年    ファラデー引退
1857年    ファラデー 金コロイド  
1857年    ファラデー「力の保存について」
1856年    マクスウェル「ファラデーの力線について」
1856年    パーキン・ W・H  アニリン染料、モーブ
1855年    フィックの拡散法則
1854年    クルム;コロイドアルミナ
1854年    グレーアム: On Osmotic Force 
1854年    グレーアム Master of the Mint。
1854年    R.フィルヒョー リオトロピック液晶を発見。
1852年    トーマス・トムソン没
1851年    世界初の万国博覧会がロンドンで開催される。
1851年    グレーアム;王立造幣局の局外分析官。
1851年    ルードヴィッヒ「アルブミノイドの化学知識の進歩が遅い」
1849年     ウィリァムソン招聘
1849年    フィゾー著「光の伝播速度に関する実験について」
1849年    グレーアム「液体の拡散について」
1848年    チャドウィック「公衆衛生法」
1848年     ビユルツ「化学はフランス」
1848年    2月革命の余波は全ヨーロッパへ
1847年    物理化学的「生物観」ドイツ4人組
1846年    ストックハルト 「化学の学校」
1846年    ファラデー「光線の振動についての考察」⇒1845膠場
1846年    硫黄コロイド ヴァッケンローダー
1845年    コルベ「酢酸全合成」
1845年    ウオ―タストン「運動状態にある媒体の物理学」
1845年    ストークスなどなど  弾性固体論
1845年    セルミ プルシアンブルーなど観察研究→1850
1845年    エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』
1845年    王立化学専門学校長 ホフマン招聘。学生20人 
1844年    クルム;物理化学的「染色理論」
1844年    ボードリモン A・E 「化学原論及実験」での「特殊物質」
1843年    ベルツエリス 「emulsion」3硫化砒素の例
1842年    ファラデー等にグローブ電池を公開実験 
1841年    グレーアム初代会長 ロンドン化学会 77人の科学者
1841年    グレーアム「化学原論」
1840年    ヘスの法則
1839年    ハーゲン-ポアズイユの流れ
1839年    プルキンエ 原形質(1835年デュジャルダン)
1838年    F・M・Ascherson 「ハプトゲン膜」アルブミン
1838年    チャーチスト運動⇒1848
1837年    イギリスでヴィクトリア女王即位( - 1901年)。
1837年     ファラデーが近接媒体電磁場説を提唱。
1837年    グレーアム;ロンドン大学 化学教授 
1837年    ヒューエル「帰納的科学の歴史」
1836年    ファラデー、グレーアムのドライアイス装置の借用願い
1836年    モソッテイ 分子論
1835年    アンペール 分子
1834年    サマヴィル「物理的諸科学の結びつきについて」(ファラデー)
1834年    ロイヤルソサエテイ会員⇒1835年
1833年    グレーアム“リン酸・ヒ酸の修飾された燐酸”
1833年    ファラデーの法則  電気素量
1833年    物理的化学「細胞観」始め  シュヴァン(ミュラー)
1832年    ジェリー並びに氷等での電気分解⇒ファラデーの法則
1832年    ファラデーの予言『近接作用』 
1831年    英国協会;BAAS
1831年    (デーヴィー没)ファラデー「電気実験研究」誘導
1831年    グレーアムの法則'.
1831年    ファラデーの力線(電場;電界) 
1830年    ファラデー;気体の拡散から電磁気学へ(アンペール示唆)決断
1830年    T・トムソン「History of Chemistry 」 
1829年    グレーアム「気体拡散のエッセイ」大学医学部へ提出。
1828年    ヴェーラー「尿素の合成」
1828年    ブラウン;液体におけるmolecule(微粒子)の運動について
1827年    ブライト・ R  腎臓病
1826年    デュマ ;分子間の距離
1826年    モソッテイエーテルの抵抗によって生じる、彗星の平均運動の変動
1826年    MAの学位を授与されましたが、父からの経済支援等は断たれる。
1825年    リービッヒ「世界で最初の化学・薬学研究所」
1825年    グレーアム「液体へのガスの吸収」
1824年    Jアスプディン、ポルトランドセメント
1824年    熱力学の創始(カルノー)
1823年    デーベライナー・ランプ
1823年    ファラデーの力能(アンペール)
1823年    クルムはインジゴの精製に成功する   
1821年    ヘラパース「熱、気体、重力の原因、法則」
1820年    エールステッド;アンペールそしてビオとサバール
1819年    テオドールグロトス;光化学の第一法則
1819年    デュロン=プティ  格子比熱
1818年    クルム;T・トムソンに学ぶ
1815年    プラウトの仮説
1814年    ウィーン会議 スイス永世中立へ
1813年    ファラデー『大陸旅行』
1812年    ラプラスの悪魔  
1811年    アヴォガドロ『可秤物質の物理学』→1821
1809年    ロイス 粘土を用いて電気泳動・電気浸透発見
1808年    ドルトン自身も原子説を公表。
1808年    ゲイ=リュサック気体反応の法則
1807年    T・トムソン ドルトンの原子説紹介
1806年    グロットゥス;プロトンホッピング機構
1806年    C・A・ クーロン没、 1736 - 1806年
1806年    H・デーヴィー  電気化学仮説 
1805年    T・ヤング 毛管上昇;表面張力及び接触核の概念
1805年    ラプラス  分子間力の測定
1805年    トーマス・グレーアム、12月12日誕生
                                            

ご注意
・ここでの主役はWalter Crum(1796-1867そしてMichael Faraday FRS ( 1791 – 1867)その御両人である。
・日本(華岡青洲など)アメリカでは(ギブズなど)等は割愛した。ここではヨーロッパ、特にイギリスに偏重されてもいる。


「e-膠界」

2016-09-16 11:40:50 | 虚私
「物理学は終った!というような時代は、ほかにもあったのですか」
立花隆の質問にこたえて、米沢富美子は、ジョリーとプランクのあのエピソードを紹介してから、それがマイアーやジュール更にはヘルムホルツの名前を挙げた上で、エネルギーの保存則が確立されていく頃であったと語る。



その頃とは、ファラデーと親交を結んでいたダニエルやグローブを思い出しておければ好都合である。

彼らは科学者と言う造語が生まれていた頃の人であったから、科学者と言われる事を喜びとはしなかった人たちである。
因みにグローブは王室弁理人、高等民事裁判所判事等を歴任している事で知られているけれども、その余技としての科学研究を楽しんだと解る。
その彼がファラデーに書簡を送り公開実験へと招待したのに応えて、数年来体調不良を訴えていたファラデーは数人の人と共に、それに立ち会ったのである。

公開された実験は驚くべきものであった。
それは水の完全なる再循環、つまり電気分解された酸素、水素を再び水へと戻して見せたのである。それからの出来事は全てが上手くいった事を物語っている。

暫くしてファラデーは復帰して目覚しい活躍を見せるのであるが、その旅立ちを救ったのが、15年程前に断念したプロジェクト「光学ガラス」であった。


それがファラデー効果として知られている。
その直後には反磁性の普遍性を明らかとした。そのころの彼が残した言葉。

『自然界の知識を愛する他の多くの人々も私と同じ意見だと思うが・・・それらは全部に共通した一つの起源をもっているという考えである』
『それはあらゆる物質に影響を与え、電気・熱・化学作用・光・結晶化と極めて密接な関係をもち、凝集力とも関係することが分かった、そこで現在はこれを重力とも結びつくのではないかと考え、これを明らかとする努力をしたい』
だが、その夢はかなわなかった。

その頃であったろうか、コロイドと言う言葉が生まれ出た。
1861年には、コロイド②がうまれた。トーマス・グラーハムの有名な論文をさしている。
だがコロイド③では立ち止まって見なくてはならなかった。

それはシリカコロイド由来の事と解るけれども、1864年論文ではない。
そこではコロイドの四態を説いている、その三態はよいとしても、四態の“Amorphous”とは何か。
そのヒントは輝石にあると読めるのだが、それは地球を含意している宇宙的な視座からの話であろう。

そこのシリカコロイドとは、縄文土器にも認められるであろう釉薬の如く融けだしたもの、ガラスである。

ここでは「三四郎」の“光線の圧力”が思い出せれば好都合である。
「雲母か何かで、十六武蔵位の大きさの薄い円盤を作って、水晶の糸で釣るして真空の中に置いて、此円盤の面へ孤光灯の光を直角にあてると、此円盤が光に圧されて動く、と言うのである。」
ここでの水晶とは、古来伝えらてきた水晶玉、つまりガラス玉であろう。

グローブ氏による酸素水素燃料電池の実験は、そこに出てくる、「酸水素吹管の焔で溶かして置いて、両方の手で、左右へ引っ張ると細い糸が出来るのです。」

その時の温度は2400℃以上とも言われている、そのエネルギーがそっくりと電気エネルギーへと再循環された事が、あの公開実験の内容であった。
燃料電池の祖である。そこにはコロイド白金、つまり白金黒が触媒として使われていた、と言う事はコロイドの祖と行って良い。

漱石が亡くなって丁度100年である。
その頃の寺田虎彦は胃潰瘍に苦しんでいたが、それは何かを吐露したくても吐露できない苦しみであったものと読める。

つまり「物理学の基礎」とか石原純宛の書簡等は、彼が克服しなければならない当面の矛盾を止揚するために避けては通れないものであった筈。彼は漱石と共に苦しんでいたのである。

未完に終ったけれどもその眼目は明らかにされている。
「化学者はもはや電子の運動に無関係な議論をするのは工合が悪い。かくのごとく物理化学の領域は相和して一つの体系に包括さるべき運命となったのである」

物理化学とは、トーマス・グラーハムにおいては「e-粒子化学」というほどのものであったろうし、自由エネルギーとは彼の造語「ENERGIA」なのだと思われる。
ここで思い出されて良いのは、1840年のヘスの法則であろう。


ところで先の認識が注目されるのは、伊藤博文等と共に語られるところのウィリアムソンのその弔辞である。
彼はトーマス・グラーハム(1805-1869;9月16日)の後継者と看做されているけれども、ここまでの理解には至っていなかったのは明らかであり、止むを得ないと言うべきかも知れない。

然しながら、ドイツから来たホフマンは全く違っていた。
彼はトーマス・グラーハムその人を知り、その業績を知りかつ、その深い思いをも膠察して時分の見識をも明らかとする見事な弔辞を捧げた。


彼の生涯は凡事徹底、阿吽の一呼吸の如く表現できる。
その始まりは、190年前 “On the Absoption of Gas by Liquids”1826年
その終わりは、150年前 “On the Abusorption and Dialytic Separation of Gas by Colloid Septa”1866年

この似て似ざる言葉の使い方は単なる偶然ではない。生命、そのものをにらんでいるとの理解でよい。

ここで注意しておきたいのは、40年余の研究生活と誤解してはならないその事。


ロンドン化学界を創設したのは彼自身の想いでもあったし、ダニエルもまた熱烈な賛同をしたであろう、それからの彼等は多忙を極め、殊に1850年頃から忙殺されたのは造幣局長官という公務、ニュートンも勤め上げた職責が彼自身のものとなってしまったからである。

それを指摘して未完に終わった凡事究明を、惜しむ歴史家がいる。

顧みてその時分を演出する事となった、発火現象のエピソードにも簡単に触れて置く。
知る人ぞ知るデーベライナーが1823年に見出したその現象は瞬く間に世界へと広がった、と同時に彼は化学者なのだと誰もが認める事となった。
その一報を伝え聞いたその時、ファラデーも直ちに追試をして発表したが、それ以上の自由は与えられていなかったけれども、その自由を得たときに真っ先に念頭によみがえった。しかし、その頃にはトーマス・グレーアムの法則等をもって先行していたのだから、苦渋の棲み分けを選択して、電磁気学へと踏み込んでいくこととなる。
それからの彼等は、表裏一体の状態が生涯のものとなった。

その情報の連鎖反応は興味深いネットワークを浮き彫りにしてくれるけれども割愛する。


トーマス・グレーハムを写真付きで著したオストワルドになるコロイドを翻訳した生理学者であるMartin H. Fischer等は、寺田虎彦と同時代の人である。

その巻頭で、“Crystalloid behavior is the exception、colloid behavior the rule、in the cosmos ”
これはコロイド④としての有力な候補かも知れないが、この時分は数多くのコロイド概念が生まれでた。



参考文献
The Oxford English Dictionary Second Edition 

推奨文献 
『エントロピーと秩序』ピーター・W・アトキンス 米沢富美子/森弘之訳 日経サイエンス社  特に8章「物をつくりだすカオス」




「化学事始」

2016-06-03 09:02:08 | 虚私
 青地林宗の墓


薄暑とは上手く言ったものだ!
小さいながらも山頂を二、三度行ったり来たりしただけなのだが息は切れ汗ばむ、少し休ませてもらおうと思って近所にあるの史跡公園、山頭火へ立ち寄った。

御幸山を背にした城山を眺めて落ち着ける山頭火、お気に入りの場所であった。


暫くするとご婦人方があらわれ写真を撮ってくれと頼まれ、その背景を巡ってあれやこれやがあって、そこへ入れ替わるように車椅子のご婦人が声を掛けてくださった。

山頭火が好きだと言う。
お前も好きかと問われたのであろうが、生憎、好きな者はあるけれどもと、濁す。

やがて彼女は、私の知らない世界を熱心に語り始められたのには戸惑ったけれども、馬耳東風。


ところが、突然見透かしたように「聴いていた!そうでしょう!」と、同意を求めてきたから驚いた。


姉妹だか従姉妹、はとこかは知らないけれども、たぶんは赤裸々に語られたに違いない。しかし余の与り知らない世界である。

ましてや、お金が土地がとか貧乏だとか何だとか言われたところで、智恵も無ければ力も無い余である。


炎天下で聞いているだけで、疲れを覚えているのだが・・・・貴女は車椅子。


何気なく、目の前の句碑へと移動したところで目にとまったのが、あの句であった。


濁れる水の流れつつ澄む   山頭火


彼女もその説明文を読んでいるらしい。その句が生まれたのは、東京オリンピックが幻と消えた皇紀二千六百年、昭和15年の事であった。



ここは余の知るところ、先生にもお伺いできる事柄である。
しかも貴女がお尋ねになる諸々の事柄にも実に丁寧なご案内を期待できるのであろう。


心のうちは斯様に蠢いたのであろう。


知らぬ同士がチャンチキおけさ!


ここに真の対話が始まったものと考えられる。


その途端に、理解したらしいのには驚いた。


それが山頭火の功徳であろうか。



先生の「気海観瀾」をもってすれば、その句は実に豊穣なものへと一変してしまう。


その青地家は断絶してしまったけれども、三女秀子が嫁いだ川本幸民の子孫が再興することとなる。


彼は、「気海観瀾」を正に「広義」して、その名を広める事にも成功したし、あの「化学新書」は明治となり教科書的な機能を高く買われた
事でも知られている。

明治は正に「蘭学」をもって語られるべきなのだ。


例えば、福沢諭吉もまた感涙に咽んで無言に終るを常とした「蘭学事始」は誰も知る杉田玄白、83歳。
遺書の如きものであるが、その前史にはも驚くべき事があったのだが、それは置く。



ここではあの「解体新書」の構想が完成したその頃に、彼は遅まきながらも結婚した、その相手が安東登恵であった。
彼女は大洲、つまり愛媛に縁のある人なのだ。


戻して明治時代には「舎蜜」・「化学」を巡る論争がありそれは桜井等の主導で危機を乗り越えたけれども「蘭学」の根強い事を明らかにここにも見て取れる。


青地林宗の「時間」等も明治時代には定着した。つまり・・・秒とか・・・分とかの記述として加速度などの概念を与えるあの記述である。


とまれ、あの句は青地林宗の「気海観瀾」をもって豊かに語り出せるものと信じられようけれども、その場ではないのだから、時間の無駄だ。



彼にとって、最も重要な「幕府天文方」にも触れないで澄ませている。


大慌てで、彼の編集した意図に思いを馳せてみよう。
それが「宇宙生命論」を睨んだマクロコスモス。
医者であるかれは病「気」、ミクロコスモスよりは「気」海を重要視しているに違いない。



いま正に、我々の居間の興味は、地球外生命なのかもしれない。
その観点から読み説いていけば彼の編集目的も自ずと明らかとなろう。









膠果腺

2016-04-03 09:28:46 | 虚私
「一言でお願いします!」
しばしばお伺いする言葉ではあるが、正に二元論を引きだすだけのインタヴューの如く感じられるけれども、お役目のご苦労を思えば断り難く、ゼロ回答ともいかない。




二元論でしばしば引用される、あのデカルトの松果腺を「膠果腺」と言い直してみれば、あるいは常識も自ずから変るかもしれない。




新学期が始まりその第一回を拝聴していたら万葉集の熟田津の歌が短く引用された。

ところがそこには間違いが幾つか散見されて驚いてしまった。


講義は復習レベルであるから確りしたものではあるが、その門外漢とは言えるけれども教科書的な機能を有するが故に、危ない!



講師は天文学こそが科学の始まりとの自信を胸に秘めて確りとその勤めを果たされている。ここでは潮汐との関係を論じたいのであるからその恰好の例示となると万葉集からの引用をされたのであろう。

そこで、ここでは敢えて常識的な事柄を記しておこうと思い立ったのである。


従って、それらは広く公開されているからその借用をもって済ませられるものは済ます。



◆熟田津に船乗りせむと月待てぱ 
伊豫の海を照らす万葉の月も,今宵,ハウステンボスに照る月も,月は天地創造の時以来,一定の軌道を巡り続けてきたのだろうか、天空を何物とも触れ合うことなく運動する月は,摩擦とは無縁のように思える.

さにあるず!

万物は流転する 。
宇宙というほぼ完全な真空中を、何物とも触れ合うことなく運動する月は、摩擦とは一切無縁のように思える。しかし、潮汐による海水と海底との摩擦は地球の自転を遅らせるのみならず、地球から遥か38万㎞の彼方を運動する月に影響を及ぼし、僅かずつながら、その軌道を変えているのである。
 月を愛で、花を眺めて歌を詠む、万葉歌人の風雅を解するとともに、森羅万象の背後に潜む単純で美しい自然の摂理に触れたとき、新たな感動とさらなる喜びがあろう。後藤信行〈長崎大教養〉


ところで!

逸文『伊予風土記 』によると、この地にはかって景行とその后、仲哀とその后神功皇后、聖徳太子についで、欽明とその后、斉明とその二皇子、天智・天武が相ともに熟田津に赴いたのと合わせて五たびの行幸のあったことがしるされている。白川静「初期万葉集」



もっともそこでは飽田津との記載がなされているが、決して熱田津とは記載されてはいないのだ。



更に言えばその所在地に関しても論争はあるけれども、決して大阪などではありえない。
松原等の書籍を参照されても良いが、私の信ずるところは和気・堀江説が最近の考古資料等からも有力である。
因みにその風景印は堀江局で扱っている。


以上をもって多少は原典へ馴染みやすくはなったものと考える、あとは皆様のご健闘を期待したい。





さてデカルトの原典へと迫るには更に充分な注意が必要である。


彼が充分に注意しながらも、その矛盾を敢えて克服しようと紡ぎ出さんとしている言葉遣いが良くわかる。

例えば“松明からでる焔の粒子と同様”等の件は、別の言葉遣いで言い直せば、エーテル的なそのものを更に①自然的な精気②生命的な精気③精神的な精気等と細やかな扱いを一言で、動物精気と表現をしていたのであろうと推察される。


居間の話題で言うならばニュートリノとか重力などが解明されつつあるそのように、更に研究されて良い「膠観」をそこに期待したい。






    月待てばみちみち来る花ぞ雲     膠一


「膠響楽」

2016-03-16 11:08:35 | 虚私
貧民の墓に眠っている、あの「膠祖」を未だに尋ねられないのは無念ではあるが、昨今ではその再発見が私を喜ばせてくれる。



の墓地で片山の圭子(85)さんに出会った。
昨秋に主人を亡くしたのだ。長い長い読経をささげた。



ここからの眺めは素敵でしょう!

それが実感される伊予の小富士に連なる、島並みである。



ここは四国初とも言われている隠れキリシタンの里でもあったらしい。
後に先生と言われた中学生が発見し移設したのが、圭子さんの叔父さん重太郎である。





「聖カタリナ大学の先生方が、ドイツ?外国人3人が来てからさらに探索がなされてた結果、十字架石、教会石そして五輪等がっ揃っての三位一体が構築されたのだ」と語る。



しかし器用な重太郎は近所の瓦屋から粘土を貰い受けてそれを焼いてもらったと語たった。



こうして三位一体は四位一体となって土地の神様となったのだろう。




さて、その時分とは正に科学革命、あのロイヤル・ソサエテイの構想が種子として宿った頃の事であった。そこからのボイルでありニュートンが育っていく肥沃な土壌となっていったのであった。





その直接的な契機となったのが、今では教育史などで広く知られているあのコメニウスを、イギリスのハートリブ等から招かれての長期滞在となった。

その詳細は割愛するけれども何故彼らの琴線がコメニウスと触れ会うことと鳴ったのかったのか?
その淵源を探りあてたのが『16-17世紀における種子の概念についての新発見』(平井 浩)であり、広く公開されている参照いただきたい。




かくのごとく歴史研究の醍醐味は様々なミッシングリンクを裏付けてまいることでもあろう。



その一つがヘルモントでありガッサンデイなどに求めえる。
その微妙な“茨と蔓に囲まれたジャングルの中の墓石”とは圭子さんの言葉だが、その表裏一体の入れ子の鏡には、融和される希望がある。


パラケルススの医化学は「しんかがく」、つまりe-科学であり且つわたしの「膠学」でもある。





さて居間の話題でへと戻す。
あの錬金術にあやかって、と言うわけでもないけれども「新錬金術入門」(大槻真一郎;ガイアブックス)からの抜書き。

先ず「読者のみなさんへ」からのチンキ!

「幸い、つい先ほどの冒頭部分でも取りあげたばかりですが、例の錬金術百科を世に出す段取りは出来かかっております。しかし、ただ私のひとつの願いは、宇宙万物、光も宇宙線も、元素も石も植物・動物・人間も、生きとし生けるものすべての錬金術的共鳴・調和の全交響楽的な世界像を、できるだけ多くの人たちに広められるようにすることです。」

 

ついでに「あとがき」からのチンキ!
『心の清く欲なき清貧なる者は幸いなり』真一郎が選んだのはこの言葉であった。





  
            深き余味「御塩」の瀬戸や五輪塔             膠一