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尾張名古屋 その③

2011-05-31 07:21:55 | colloidナノ
リュックサックに忍ばせておいた文庫本を拾い読みするたびに、浮かびくる「コロイドの世界」


アイとユーの仲介にミラー細胞を絡ませたかのようなラブ問題は、ホンネとタテマエに揺らぎをみせる日本論のごときないよう。


第一章は「私的な私、公的な私」と題して開陳される博学の流れに立ち塞がったのが、第3章「われわれに思想はあるか」も、その半ば。
著者つまり養老孟司が同感しかつ賛意を寄せた、このくだりに留意が必要と感じた。
著書「バカの壁」が大ベストセラーとなった




「無思想の発見」から。
最近では加藤典洋が前述した「日本の無思想」(前述)という本を書いている。デス、マス調で書いてあるからやさしい本みたいだが、きわめて読み応えがある。筋の通った内容で反論すべきもない。
ただそこではっきりしていることがある。それは著者が「表現され、表に顕されなければ、思想の意味はない」と、おそらく考えていることである。
こういう人に、あるいはこういう信念に対抗しようと思えば、言葉にすることができることは、おそらく一つしかない。
その答えが、「俺には思想なんかない」という言葉なのである。さもなければ、ひたすら黙るしかない。

と、自らが意識して書き連ねたであろうその結末は、かくの如し。


「じゃーどうするのか」との最終章。
その結末は「ブッ殺せ」になる。
あるいは自分を殺す。それは単なる怠け者であると、「長くもない辛抱」を説いておわる。

その行間を読み直してみると、こうである。
身体である。
自分の身体はどう考えたって、自分で、それ以外に自分なんてありゃしないのである。もう意識の話は繰り返さない・・・。

つまり、「私の体」なのだ。
「ワ・タ・シ・ノ・カ・ラ・ダ」なのだ!!それを唯脳論てきな読みしか出来ないから、その表現を誤ってしまった。
元来ならば、そこでの止揚は生命化学と言うよりもコロイド体と言うべきであるし、今日的には「生体コロイド」と言うべきであろう。
それが素直な感想である。



じこ責任問題、あくまで参考。
野口英世博士創案の白金・バラジウム コロイド製剤

尾張名古屋 その②

2011-05-30 07:10:57 | colloidナノ
「召集ご通知」には「ほっとひと息」という、コラムがある。

各務ヶ原にある内藤記念くすり博物館における2011年度企画展は「病まざるものなし」


日本人を苦しめた感染症・病気そして医家である。(監修酒井シズ順天堂大学名誉教授)

江戸の医師には、僧侶のような身なりをした医師と共に、綱吉の時代になると儒者が自ら医学書を読んで勉強し、医師となる儒者もいて儒医と呼ばれる人々が現れてきた。

往診の際には大きな薬箱を持参し、診察が終わるとその場で薬を調合した。
薬箱には婦人薬に使う紅花や芍薬などの植物や鉱物や昆虫の抜け殻などを細かくしたものが収められていた。

体の仕組み「五臓六腑」という独自の理論に基づいた体の仕組みが説明された。
五臓は①肝②心③脾④肺⑤腎であり、六腑とは①胆②小腸③胃④大腸⑤膀胱それから⑥三焦、さんしょうの事です。
三焦は想像上の器官でした。①上焦如霧 ②中焦如薀 ③下焦如漬の三つであるが、それについての薀蓄はないけれども、五感からの六勘をくすぐる仕掛けかと察せられようか。



参照
膠質性結合組織などが関与する膠原病などに関する分野へも意欲的である。エーザイ株式会社

尾張名古屋 その①

2011-05-29 08:45:51 | colloidナノ
名古屋鉄道各務ヶ原沿線に学び舎はあった。

そこで化学熱力学とコロイド化学の講義をなさった。
教材には青木幸一郎編著「新編基礎物理化学」であった。


先生自身の研究業績は「油化学」第35巻第11号(1986年)総説(第20回日本油化学協会賞論文賞)『タンパク質・界面活性物質並びにそれらの間の相互作用に関する研究』に詳しい、参照してほしい。

その契機なり、語り伝えられるべき事柄に関しては、戴いた『アルブミンと共に30年』が参考になる。

昭和20年代の後半に行われた「学制改革」、これは文部省始まって以来の一大事業であったが、これは私にとっても人生をかえてしまった程の出来事であった。と筆を起こされる。

これがあったため名古屋薬専は名古屋市大となり、私には研究ができることになった。

この時から私と電気泳動とは切っても切れない関係をもつようになり、その頃から頭をもたげ出したタンパク質物理化学とも深いかかわりを持つようになった。私がライフワークのスタートを切ったのは、まさにこの時である。

当時は卵は誠に貴重品であったと念を押される語り口は、師そのものであった。

電気泳動もゲル泳動法の花盛りであったその頃に、天然高分子ゲルから合成高分子ゲルへの転換局面でもあった。

コロイドおよび界面化学部会「newaletter」へ寄稿された『コロイドと生物物理化学の接点』こそが、師として託された夢。
それが生命化学であった。より具体的には細胞膜のような境界問題と考えてよい。

コロイド展示場







マックス・プランク⑩

2011-05-22 08:16:57 | Brownナノ
長岡 半太郎らの当時における三つの原子模型は、その争点を含めて興味尽きないものがある。


その概念を定式化し洗練されたものとすることは困難なことであり、そしてときとして危険な仕事である。と、「原子の実在性」について記し始める「量子のさいころ」(L.Iポリマリョフ)

「真実は知覚の限界の外にあり、そのため言葉で表すことはできない」と、古代インドでは言われていたとも!


そこにプランクの言葉もある。
「量子力学は完璧に完成したとは見なせない」とも!
アインシュタインの言葉もある。
「量子力学が成功を収めればおさめるほど、それは馬鹿げたものに見えてくる」とも!


抽象的実在としての問題は今なお、そしてこれからも。
いわば「かいぎてき、しんかがく」なのだ!



余滴
昨夜のこと、日本原子力学会の速報が伝わったとき、いち早くTwitter 検索をかけてみた。

NHKニュースBOT@nhk_newsbot
東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、日本原子力学会は、事故後初めてとなるシンポジウムを東京で開き、辻倉米蔵会長は「原子力に関わる一員として、事故を真摯(しんし)に受け止め、教訓を学びたい」と述べました。
このシンポジウムは、日本原子力学会が、事故の教訓を広く知ってもらおうと開いたもので、会場となった東京・千代田区のホテルには、およそ500人が参加しました。はじめに辻倉会長が、「原子力に関わる一員として、今回の事故を極めて重大なものだと真摯に受け止めている。事故から教訓を学び、安全性の追究に努力を惜しまず責任を果たしたい」と述べました。また、会場から「なぜ学会は、今まで津波の危険性の議論ができなかったのか」という指摘が出ると、担当者が「リスクへの考え方が甘く、大いに反省しなければならない」と謝罪する場面もありました。シンポジウムでは、このほか、放射性物質の放出量は、最大の3月15日の1万分の1程度に減ったものの今も続いていることや、福島第一原発の周辺に残された放射性物質が付着したおそれがある「がれき」は、処理方法が決まっておらず、新たな法律が必要なことなどが報告されました。日本原子力学会は、今後も一般からの意見を求めたうえで、安全に関わる研究をまとめ、国などに提言していくことにしています。


これに対する反響です。
①”学ぶ”?”いまから”?行動指針が崩壊していることを認識していない。存在の意味すら見いだせない。
②反省して、安全な廃炉方法の研究に専念してください
学会員達のデタラメな解説のせいで、日本原子力学会は全く信用されていないことに、いまだ気がついていないとは・・・。
③日本原子力学会が政府、東電を批判。もっている情報は全て提示すべき…お、いいこと言うなと思ったら、でも原発は間違っていないと?うん、さすが原子力学会です。

そこに見えてくるのは科学観であり、科学技術の倫理観。その相補的なaiの関係性である。

マックス・プランク⑨

2011-05-21 09:00:57 | Brownナノ
ジャン・ペランで検索すれば、直ちに得られるのだが、そこでは得られないものもある。





その昔は「理化学辞典」こそが座右の書であった。
「Perein Jean Baptiste1870・9/30-19424/17 フランスの物理学者。高等師範学校を出て、物理学研究所長、コロイド溶液における沈降平衡ならびにブラウン運動の観測によってモル分子数の測定に成功し、分子の実在性を決定的に示した。化学反応などの方面にも多くの業績がある。1926年ノーベル物理学賞を受けた。1936年フランス第一次人民戦線内閣に科学研究所長官として入閣した。



「コロイド化学」共立化学ライブラリー⑲
「コロイド粒子の世界と分子の世界」では、コロイドの本性が微粒子の分散状態であるということが明らかにされつつあった同じ時期に、コロイド粒子やそれよりも大きな粒子で観察されていたブラウン運動の実態が明らかとなった。ブラウン運動が分子の熱運動と本質的に同じ性質のものであるとする理論は、Einstein(1905-1906)Smoluchowski(1906)によって発表されたが、Perinは通常の顕微鏡で見える程度の粒子について分子と同様の沈降平衡の法則の成立およびブラウン運動の理論の実態に成功した。1906年から行われていたその研究の結果は1909年に「ブラウン運動と分子の実在性」と題した論文の中にまとめられた。さらにその結果を中心とした科学書「原子」を1913年に刊行した。



「第一回ソルベイ会議報告;輻射熱の理論と量子」P.Langerin、M.de Broglis編 小川和成訳(東海大学出版会)
 『分子の実在性の証明(乳濁液の特殊研究)』は、正にコロイドの教科書と称えられるべきであろう。



硫化砒素や水酸化第二鉄などのコロイド溶液からは、何の成果も得られなかったが、二つの樹脂がつくる乳濁液を利用することができた。

それを数ヶ月かけて、十分に一様と思われるブラウン粒子とすることができた道程・・・

密度を求め、質量をさだめてゆき、それらを拡張させながら観察もし粒子の数を数えて、統計的な平均を調べていく。

多分、十三種もの異なる原理を駆使しながら真理へと迫った、その事例。

①気体の粘性率(ファンデルワールス力)
②ブラウン運動(粒子の分布、並進運動、回転運動、拡散など)
③分子の不規則な分布(空の青、臨界光など)
④小球の電荷
⑤放射能(α粒子の電荷、生成ヘリウム質量、消失ラジウム質量、放射されたエネルギーなど)
⑥黒体スペクトルなど

ここにはスモルコフスキーの揺らぎ、臨界光などやミリカンの油滴実験なども動員されている。

それらの要約は、完全気体の法則は乳濁液にもあるゆる細部まで適用される。このことは分子理論に堅固な実験的基礎を与えることとなる。

つまり決定的証明を簡潔に言えば『乳濁液は重さをもった大気のミニチュアである!!それを巨大分子からなる大気である!!』とも表現している。



あのプランク、アインシュタインが内包するところの諸概念は、ここに証明された。

マックス・プランク⑧

2011-05-17 08:15:08 | Brownナノ
量子(中性子)状態からの、化学観を熱力学第3法則つまり、凝集相における自由エネルギーなどの問題としても見てとれた。
Ernest Solvay, 1838年4月16日 – 1922年5月26日


そのネルンストが、アンモニアソーダ法などで知られるエルネスト・ソルベーを口説いて、世に知られるソルベイ会議の開催に漕ぎつけたのは1911年、ラザフォードの助手であったハンス・ガイガー等によって原子核が存在すると推論できた、その年であった。

希望となったプランクの仮説は、当時の気体運動論からのブラウン運動論への発展が期待されていた頃である。

1911年10月30日から11月3日までベルギーで開催されたそのテーマは「輻射の理論と量子」であった。
プランクを始めとしてローレンツ、ぺリン、ランジュバン、アインシュタインらの報告があった。そこにはネルンストもあった。

「もしも、量子仮説を・・・エネルギーが何時も平衡位置のまわりの振動ばかりでなく質量の勝手な回転の場合にも、決まった量子に吸収されるというように一般化するならば、私達は古い理論の矛盾を説明することのできる、もっと進んだ結論に達するだろう」と述べていたのだ。

その彼の示唆はソルベイ会議で議長を務めたローレンツやアインシュタインらによって好意的に受けいられた。

会議自体は、量子論をめぐって激しい討論が行われた結果、古典物理学の限界が明らかとなり、量子論が広く認知されることとなったのだが。

マックス・プランク⑦

2011-05-14 08:25:41 | Brownナノ

Walther Hermann Nernst, 1864年6月25日 – 1941年11月18日


「20世紀の物理学」①丸善株式会社
・・・20世紀に至り物理学者の物の見方は根本的に変わってしまった。
それが原子構造論、量子論、相対性理論であった。

注意すべきは、古典物理学はより一般的な概念に包括されて今なお有用である。つまり日常の出来事やデバイスなどは古典物理学だけで、うまく記述できる。(ハイテクを除いて)

量子力学の概念は直ちに、原子構造論だけでなく原理的には化学結合の起源を説明することができることがわかったのだ。

1906年ゲッチンゲンからベルリンに移ったネルンストは「熱測定に基づく化学平衡の計算について」という、一つの論文を発表した。これが熱力学第3法則のその歴史の書き出しである。


ネルンストは問題の核心が絶対零度の挙動にあると気づいていた。気体相については意味のある結論を得るのはむずかしかったが、ネルンストは当時の化学者があまり関心を向けていなかった凝集相の方に注目したのだ。

彼は量子論にふれずして、すべての比熱が絶対零度でも等分配則に従い、古典的な値をとるものと仮定した。ここに彼の卓見がある。→絶対零度への到達可能性の法則


仕事はフランツ・シモンへと引き継がれ 「熱力学的内部平衡にある1つの系のどんな状態の間でもエントロピー差はゼロである」を得た。


ネルンストもまた、何もないところから何かを生み出したわけではない。先人たちと同様に、織物のほつれを見出し、どう直せばよいか考えて、新たに現れた美しさを楽しんだのだ。



マックス・プランク⑥

2011-05-11 09:00:32 | Brownナノ
ケルヴィン卿と言うよりもジュール=トムソン効果などの方が通りがよいかも知れない。
彼が1901年4月に語った「熱と光の動力学理論をおおう19世紀の暗雲」、それが例のリュッカー教授による「原子説論争」とも相通じる関係にある。

寺田寅彦は1909年5月から1911年6月までの2年余りをベルリン大学などに学んだが、その一つがプランクの『物理学の全系統』であった。

1912年から1913年まで学んだのは石原純であった。
「理論物理学の世界に名高いプランク教授らが、若い実験物理学には(ハインリヒ・)ルーベンス教授があって多くの学生を集めていた・・・」

「プランク量子百年」高田誠二の記すところでは「実験家ルーベンスは国立研の客員も兼ねて熱放射実験を推進し、プランクと親密な交際を続けていたが、この高専と国立研とは徒歩5分の距離だし、熱放射実験は国立研の部屋で実施していたのだから、両機関の連携はほとんど二所帯同居的なものだったと言える。
正に地の利、人の和をもっての成果と読める。
ソルベー会議
暗雲が正に霧散し始めたのは第1回ソルベー会議(放射理論と量子)であった。
そこに古典物理の屋台骨が軋むのをはっきりと見たに違いない。

「絶望の行為」とプランクが認識していたことはウッド宛の手紙に見て取れる。
プランクの弟子ツエルメロが(ボルツマンの)統計的手法を批判した論文の出版に賛意を表したことは痛恨の極みとなる。

プランクはやがてマッハを批判したし、かのネルンストは師であるオストワルドから離脱してボルツマンの原子論を支持してゆくこととなる。

マックス・プランク⑤

2011-05-08 07:24:50 | Brownナノ
1944年7月以降は、米英軍の空爆を前に完全に無力化していくドイツ。

「ハイゼンベルグの追憶」非政治的人間の政治的生産(エリザベート・ハイゼンベルグ著)
山崎和夫訳


1944年7月18日 水曜会はハイゼンベルグの当番でダーレムのハーナックハウスも集まりました。その後ハイゼンベルグはヘッヒンゲンの彼の研究室へ帰ることにしていましたが、その前に週末をウワフェルドの家族の所で過ごすことにしました。
7月20日、私たちはラジオでヒトラーを暗殺する計画が失敗し、そして指導的人物全員が死亡するか逮捕されたことを知りました。・・・
ハイゼンベルグのように自分が革命に参与せず、ただ接触人物であったに過ぎないシュプラングラーも逮捕されました。しかしハイゼンベルグは免れることができました。
山崎氏の注釈は本当に素晴らしい

「日本で幸い好評を博している『部分と全体』と共に、ある意味でそれを相補的な関係にある本書によって、愛する夫、ハイゼンベルグの人間像を日本の皆さんにも知ってもらいたい」との伝言である。


「ハイゼンベルクとゲーテ」 山崎和夫 モルフォロギア: ゲーテと自然科学 Vol.2004 , No.26(2004)pp.15-25
ハイゼンベルク先生と私
当時ハイゼンベルク先生が所長を勤めておられたマックス・プランク物理学研究所(当時はゲッティンゲンにあった) へ、私がフンボルト奨学生として留学したのは、一九五七年一〇月のことだった。
翌週から翌年の二月頃までが最初のハイゼンベルク先生との濃密な出会いであり、その頃、宇宙方程式の名で一時世に知られるようになったハイゼンベルク・パウリの「素粒子の統一場理論」に、幸運なことに私は早々からその最も有力な一員として深く協力することができた。それが一〇年以上に及ぶものになろうとは、当初は全く思ってもいなかったが。
私がはじめの頃下宿していたF ・ナンゼン・ハウスとハイゼンベルク先生のご自宅とが近かったので、研究所長室での対話以外にも研究所からの帰路で何度か偶然同道して物理学についての突っ込んだ話をしながら、三〇分足らずの距離を歩いたことがあった。そのころはまだ言葉はもちろん英語であった。一二月頃であったか、素粒子の統一場理論にひとつのかなり本質的な点で寄与することができ、そのためハイゼンベルク先生の信用を獲得することができた。
彼はいつも対話によって研究を進めるが、その協力者のプラス面を努めて評価し、マイナス面にはほとんど目をつぶられるという、指導者として本当にありがたい方であった。

マックス・プランクは正しく「量子力学の父」と呼ばれるに相応しい人格者であった。
それがドイツ教養市民を代表するものなのであろうと思う。
「法を敬い、体制的制度を信じ、義務を遵守し、絶対的誠実で、ときに遠慮しすぎる。これがマックス・プランクの性格の顕著な特徴」
そして同じ鋳型とされるのがハイゼンベルグであった。



マックス・プランクの別なる後継者はエルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーである。
彼はプランクの後を受けてベルリン大学の理論物理学教授に就任した。