リュックサックに忍ばせておいた文庫本を拾い読みするたびに、浮かびくる「コロイドの世界」
アイとユーの仲介にミラー細胞を絡ませたかのようなラブ問題は、ホンネとタテマエに揺らぎをみせる日本論のごときないよう。
第一章は「私的な私、公的な私」と題して開陳される博学の流れに立ち塞がったのが、第3章「われわれに思想はあるか」も、その半ば。
著者つまり養老孟司が同感しかつ賛意を寄せた、このくだりに留意が必要と感じた。
著書「バカの壁」が大ベストセラーとなった
「無思想の発見」から。
最近では加藤典洋が前述した「日本の無思想」(前述)という本を書いている。デス、マス調で書いてあるからやさしい本みたいだが、きわめて読み応えがある。筋の通った内容で反論すべきもない。
ただそこではっきりしていることがある。それは著者が「表現され、表に顕されなければ、思想の意味はない」と、おそらく考えていることである。
こういう人に、あるいはこういう信念に対抗しようと思えば、言葉にすることができることは、おそらく一つしかない。
その答えが、「俺には思想なんかない」という言葉なのである。さもなければ、ひたすら黙るしかない。
と、自らが意識して書き連ねたであろうその結末は、かくの如し。
「じゃーどうするのか」との最終章。
その結末は「ブッ殺せ」になる。
あるいは自分を殺す。それは単なる怠け者であると、「長くもない辛抱」を説いておわる。
その行間を読み直してみると、こうである。
身体である。
自分の身体はどう考えたって、自分で、それ以外に自分なんてありゃしないのである。もう意識の話は繰り返さない・・・。
つまり、「私の体」なのだ。
「ワ・タ・シ・ノ・カ・ラ・ダ」なのだ!!それを唯脳論てきな読みしか出来ないから、その表現を誤ってしまった。
元来ならば、そこでの止揚は生命化学と言うよりもコロイド体と言うべきであるし、今日的には「生体コロイド」と言うべきであろう。
それが素直な感想である。
じこ責任問題、あくまで参考。
野口英世博士創案の白金・バラジウム コロイド製剤
アイとユーの仲介にミラー細胞を絡ませたかのようなラブ問題は、ホンネとタテマエに揺らぎをみせる日本論のごときないよう。
第一章は「私的な私、公的な私」と題して開陳される博学の流れに立ち塞がったのが、第3章「われわれに思想はあるか」も、その半ば。
著者つまり養老孟司が同感しかつ賛意を寄せた、このくだりに留意が必要と感じた。

「無思想の発見」から。
最近では加藤典洋が前述した「日本の無思想」(前述)という本を書いている。デス、マス調で書いてあるからやさしい本みたいだが、きわめて読み応えがある。筋の通った内容で反論すべきもない。
ただそこではっきりしていることがある。それは著者が「表現され、表に顕されなければ、思想の意味はない」と、おそらく考えていることである。
こういう人に、あるいはこういう信念に対抗しようと思えば、言葉にすることができることは、おそらく一つしかない。
その答えが、「俺には思想なんかない」という言葉なのである。さもなければ、ひたすら黙るしかない。
と、自らが意識して書き連ねたであろうその結末は、かくの如し。
「じゃーどうするのか」との最終章。
その結末は「ブッ殺せ」になる。
あるいは自分を殺す。それは単なる怠け者であると、「長くもない辛抱」を説いておわる。
その行間を読み直してみると、こうである。
身体である。
自分の身体はどう考えたって、自分で、それ以外に自分なんてありゃしないのである。もう意識の話は繰り返さない・・・。
つまり、「私の体」なのだ。
「ワ・タ・シ・ノ・カ・ラ・ダ」なのだ!!それを唯脳論てきな読みしか出来ないから、その表現を誤ってしまった。
元来ならば、そこでの止揚は生命化学と言うよりもコロイド体と言うべきであるし、今日的には「生体コロイド」と言うべきであろう。
それが素直な感想である。
じこ責任問題、あくまで参考。
野口英世博士創案の白金・バラジウム コロイド製剤