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「漱石と寅彦」

2014-02-23 12:36:32 | colloidナノ
⑨ 「完全な流体」、「完全なジェリー」としてのエーテル

読者は確かに流動的であり、弾性的であると粗雑に記述されるような知覚的物体の二つの形式をよく知って居られる。此等二つの形式の見本として、水とジェリーとをとってみよう。
実体として水とジェリーとは、或点では著しく一致していると共に、又在る点に於いては著しく相違して居るのである。若し水とジェリーとをシリンダーの中の底部に近づけて入れ、重量のあるピストンの助けに依ってそれらを圧搾しようとすれば、その圧搾は知覚できないか、出来たにせよ、事実頗る僅かな量のものであるということが解るであろう。
精巧な装置を用いて注意深く試験してみると、これらの実体は圧搾され得るものではあるが、その圧搾の量はかりに測定されるにせよ、例えば空気が同じ重量のもので圧搾される時の量と比較して、遥かに微小なものであることが解るのである。
この結果は、水とジェリーとは共に歪み、即ち大きさの変化の一形態に対して大きな抵抗を現すと言うふうに言い表されるのである。
私たちの知覚的経験の働く限り、すべての大きさの変化に絶対的に抵抗する実体、即ち大きさの変化がそれに対して不可能であるような実在は存在していないのである。故に圧搾され得ない実体と言うものは単に、現象の世界にはその等価物を持たないが、知覚の裡に発した過程(或いは圧搾される物体の分類)を無限に押し進めることに依って概念の裡に於いて到達されるような概念的限界であるに過ぎない。

この水とジェリーとの一致した点から、両者の相違した点に転ずると、木片、又はナイフの刃をジェリーの上に当てて下に押したとすると、ジェリーを二つの部分に切り、分かつ為には、幾らかの力が必要であるが、之に反して水は何等感覚的な抵抗を受けることなく木片で分たれると言われるのである、さて此の場合関係してくる形の変化と言うのは本来ズレであり、水はズレる歪みに対して何等抵抗を示さぬが、ジェリーは相当な抵抗を示すと言われるのである。
此処で再び抵抗の量の問題が関係してくる。私たちの知覚的経験の働く限り、すべての流体は相互にその諸部分のズレに対し僅かであるとは言え幾分の抵抗を現すものである。
圧搾に対しては絶対的な抵抗を現し、しかもその諸部分---即ち互いに何等摩擦的作用の性質なく相互にズレあうような諸部分---のズレには絶対に何の抵抗も現さぬような流体は、唯概念的な限界である。そのような流体が完全な流体と呼ばれる。
之に反して、圧搾することの出来ないジェリーの場合に反対の限界の進むことに依って、即ち其れはズレによる形の変化に絶対的に抵抗すると仮定することに依って、圧搾に依っても、又ズレに依っても、其の形態を変化することの出来ない一物体が得られ、かくして概念的限界、即ち剛体に到達するのである。若し圧搾に対しては絶対的な抵抗を、又ズレに対しては部分的な抵抗を仮定すれば、恐らく完全なジェリーとして記述されるような媒質が概念の裡に持たれるようになるのである。

そこでエーテルに戻ってみると、物理学者はエーテルを圧搾できないものと考え、しかも或る目的の為にはエーテルを完全な流体として取り扱っているように思われる、又他の目的の為には完全なジェリーとして取り扱っているように思われることが解る。
このことは最初一見した所では概念の矛盾、衝突のように思われ、又疑いなくそれは現在物理学者が徹底的に克服し切っていないような困難さを含んでいるものである。
若しエーテルが純粋に概念的なものだと考えられれば、異なる状態の現象を記述する為には、確かにそれは、或る性質のものであり、次にその他の性質のもと先ず自由に考えられる可きなのである。しかしそうすることには、現象の二つの状態を同時に摘要し、しかも、二つの状態が同じ研究の下に於いて取り扱わるべきでないとしても、論理的矛盾に導き入れられないような、もっと広い概念の為の余地が残されているというのは明らかなことである。

かくして完全な流体としてのエーテルの運動形式から原子が記述され、又完全なジェリーとしてのエーテルから光の放射が記述されるとすれば、原子が発光の源泉として取り扱われる場合、エーテルが同時に完全な流体であり、そして又完全なジェリーであると言う概念に依って私たちが重大な混乱に陥るのは明瞭なことである。


事実私たちはこれら二つの概念の間に何等かの調和を見出そうと努めざるをえない。
一つの暗示として知覚的経験に目を転ずるならば、水がジェリーの根本成分であり、そして、多少膠状の物質を加えたならば、幾分抵抗あるジェリーになる程に硬くなり得ると言うことが解るのである。
同様の方法に依って、ズレに対するその抵抗に従って分類される、完全な流体から出来ている一系列の完全なジェリーを考えることが出来るのだが、それはあらゆる粘着の諸段階を通って完全な剛体に迄なるのである。
そこでこの系列のジェリーの中からその一つを選び出すことが出来るが、それは一定の大きさのズレの歪みにとっては感官的に完全な流体であり、他方もっと小さな歪みの場合には、発光の理論の中に含まれているような、完全なジェリーとして働く所のものである。

これは一八四五年、サアー・ジヨージ・ジ・ストークス(Sir George G. Stokes)に依って提起された解決であり、『エーテルの膠質理論』と呼ばれるものであろう。

エーテルの膠質理論は疑いなく沢山の物理的現象に関する私たちの概念を、単純化する価値あるものであるが、しかしそれは端初原子の基礎として未だ研究を要する或るエーテル運動の体系と、果たしてどこの程度迄調和し得るものであろうか?

ここでは私は唯一寸と簡単にしか言及し得ないような別の可能性がある。---即ちエーテルは完全な流体として考えられるべきであるが、このエーテルの運動に一定形式が原子に対応すると同じように、運動の諸形式はエーテルを硬くする為、乃至エーテルに弾性的な剛性を与える為に用いられるということである。
エーテルは完全な流体であるかも知れない。しかし、その運動が紛糾しているが故に、一定目的の為には完全な膠質として働き得るのである。この仮定は、端初原子が構成されているかも知れぬエーテル運動に就いてもう少し説明すれば、更に良く理解されるであろう。




ところで、ストークスは友人のケルビンとは恰も棲み分けるかのように電磁気などを避けて、縮まない液体の解析に専念していた。あの「膠質理論」の時分は誠に豊かな収穫の時分であったことか。
その一つの例はファラデーであろう。彼もまたあのグラハムとは棲み分けるかのようにあった事は時分の花と言うべきか。
それらは別の機会に譲ろうと思う。





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