
執拗低音でもあるかのごとく纏わりついた拡散の、そのみちのべにコロイドの世界があった。
Thomas Graham は1869年9月16日に、その幽冥界を異としたのであったが、その同じ年の2月17日に、ドミトリ・イヴァノヴィチ・メンデレーエフがあのperiodic table周期表を閃きその日のうちに仕上げる事に成功した。

世界化学年というべき年を定めるとすれば、1869年を置いて他にはないと信じて好い。
さて「かこさんのようになる!」って、一体どう言う事だったの?
あの⑨章は「化学のカレンダーをつくった青い鋭い目---ドミトリ・メンデレエフ」である。
君たちは少なくとも月に1度は床屋にいくだろうが、ドミトリ・イワノビッチ・メンデレエフときたら、年に1度しか散髪をしない人だった。しかし、その長くのびたかみと広いひたいの下には、青くすんだ鋭い目があった。
ぼうぼうのびたあごひげは、がっしりした肩や胸にたれていた。その眼光や体つきのようにメンデレエフは、物質のもとになる性質をズバリと見ぬき「化学のカレンダー」といわれる元素の周期表をみごごにまとめあげた大科学者であった。
どんなふうにしてそんな大科学者になったのだろうか?「化学のカレンダー」とはどんなものなんだろうか?
ドミトリは1834年シベリアのトポルスクで14人もの兄弟の末っ子として生まれた。父は高等学校の校長先生だったが、ドミトリが生まれた年、目の病気がもとで盲メクラとなってしまった。
気丈な母は、古いガラス工場をゆずりうけ、それを経営して大勢の家族をやしないながら、子どもたち一人ひとりを熱心に教育した。しかもそのなかで小さな教会をたて、日曜学校をひらいて村人のためにも力をつくした。
メンデレエフはペテルスブルグ大学を卒業し、やがてそこの先生になったとき、大きな厚い化学の本をかくことになった。その原稿をねりながらどんな順序にかいたらいいかまよっていた。
地球上の物質をこまかくわけてゆくと、当時約60の元素からなりたっているのがわかっていた。
たとえば、よく知られいる元素には水素・炭素・酸素とかがある。それを化学者は共通の記号H・C・Oなどであらわしている。しかしそれらの性質は、軽いもの、重いもの、臭いもの、はげしいものなどまちまちである。
なにかもっと整然として規則的な並べ方はないだろうか-----メンデレエフは考えた。そしてそれまでの学説と新しい実験結果をもとに、1869年ロシア化学会で一つの論文を発表した。その内容はこうであった。
①元素を原子量とよぶ重さの順に並べて表にすると、おなじような化学的性質・物理的性質のくりかえしがあらわれる。
②この表によって、いままで発表された原子量のまちがいを正しくすることができる。
③表のいくつかの空白のところはまだ発見されない元素で、その性質をくわしく予言できる。
このメンデレエフの考えにもとづいてまとめられたのが、「化学のカレンダー」とよばれている元素の「周期表」である。
その後元素の数は百以上になったが、
①でメンデレエフがしめした元素のくりかえしの性質はいまも変わらず、ますますその正しさがはっきりすてきている。
②の原子量の訂正は、白金の197が198、ウラニウム120が240など、数十をしめし、そのいずれも正しかった。
③の予言は十元素におよび、とくにエカボロン、エカアルミ、エカシリコンと仮にメンデレエフが名づけて予言した性質は、その後スカンジウム、ガリウム、ゲルメニウムとして発見されたとき、だれの目にもこの「化学のカレンダー」周期表のすばらしさがわかるほどぴったりあっていた。
カレンダーを見ながら、君たちが教科書の準備や休日の計画をねるように、この「化学のカレンダー」である周期表のおかげで、研究者や技術者たちはいろんな化学反応を考えたり、未知の化合物をつくる手がかりを見つけることができるようになった。
しかもこの周期表にしめされている元素のくりかえしあらわれる性質は、化学だけでなく自然科学全体の考え方にも大きな影響をあたえることとなったのである。
こうして1907年、73歳でなくなったこの青い目の大科学者を記念して、101番目の元素はメンデレビウムと名づけられている。

あの1869年には大坂舎蜜局が開校された。