⑬ 物質は何故運動するのか?
私たちには、物体は何故運動するのかという第二の疑問を論ずる余裕は余りない。併しこの疑問に対する解答は、第一の疑問によって明らかにされたに
相違ない。若し私たちが何故感官印象は一定の仕方で変化するか?と言うつもりならば、---その時既に意識、知覚的能力の性質、及び近くの順序を考慮した場合のこの点に於ける知識の可能性とは何か、ということが解っているのである。
若し、感官印象物質的群を概念化する幾何学的象徴は何故一定の様式で運動するのか?と言うつもりならば、---解答は次のようである。
即ち多分推察を加えると、此等の運動の形式に依って、私たちの知覚の順序の過去を記述し、将来を推測する事が最も良く出来るということが発見されたと言うことである。
併し何人かが、運動の概念的象徴を現象化することを主張すれば、科学はこの何故に物質は運動するかと言う疑問に対し、私たちには解らないと答え得るに過ぎない。地球が実際に焦点に在る太陽の周囲を楕円を描いて運動すると仮定し、次いで其れは何故かと言うことを分析してみよう。
さて概念的にはこの運動は太陽と地球との基本的部分の一定の相対的運動から作り出されているのである。若し此等の基本的部分が、相互に存在する時一定の相対的加速度を持つとすれば、地球は太陽の周囲に一つの楕円を書くであろうと言われている。
此等の基本的部分は原子として、或いは原子の群として考えられるかも知れない。併し仮説を脱する爲め、簡単にそれらを物質の微粒子と呼ぼう。そこで二つの微粒子が相互に存在する時は、何故一定の様式で相互に相対的に運動するのであるか?引力の法則に依ると言うのでは解答にならないであろう。
その法則は、単にそれらが、どんな風に運動するかを記述するに過ぎない、---即ちそれは私たちには解らないと言うのを避けるための、形而上学的な言い方なのである。
互いにグルグル廻って踊っている二人の人を見ると、私たちは彼らが欲しているいるが故に、意思あるが故にそうしていると考える。一人が他の一人を支えているのでない限り、彼らはお互いの運動を強制しているとは言い難い。踊りをば、彼らの共通の意志に帰するのが、私たちが踊りに対して与え得る唯一の説明である。
お互いの周囲を踊っている物質の究極的微粒子を見る時、ショペンハウエルのように、意志は意識の存在を示し、意識と言うものは意識と結合した物質的感官印象の一定の形式なくしては論理的に推論され得ないが故にと言って、踊りをば踊ろうする共通の意志に帰して了うことは困難である。
このように意志は、運動の原因として何等かの意味があるとしても---意志がそうした意味を持っていないことは私たちの既に見た所であるが、---物質的微粒子の踊りに関して少しも助けとなるものではない。
科学的に言い得るすべては、その運動の原因が、その相対的位置にあるということであるが、併しこれはそうした位置にある時に、何故運動するかと言うことの何んの説明にもなるものではない。
既に充分言い尽くしたので此処で再び考察する必要はない。併し力は或る時には感官印象であると言われている---即ち私たちは力の「筋肉的感覚」を持っていると言われる。私は手を以て一つのものを押そうと思う。そしてその意志が行為となってゆくに従い、力の働きと呼ばれる「筋肉的感覚」が生ずる。併し何故にこれは運動の変化、乃至私の指先の微粒子の相対的加速度の感官印象ではなくて、力の感官印象なのであろうか?このことも、所詮力の「筋肉的感覚」は意識あるものと結合して居ると言うこと、又人の運動ある変化の主観的方面であると言うことを付加して見よ。そうしたらそれが絶対的に何故物質的微粒子が運動するかと言う理由を明らかにし得るものでないと言うことが解るのである。力は「何も客観的なものに対する名称ではない」とテイト教授は書いている。そうした矛盾に面と向かっては、運動の理由に関する何か明瞭な説明が、力の観念から抽出されると仮定するのは止めた方がよくないだろうか?
だが微粒子は二人の踊り手のやうに、手を繋、一方が他方の運動を「強制」しないものだろうか?仮に微粒子が90000000哩離れているにせよ、この手を繋ぐのは不可能だと言ってはならない。
光はエーテルの助けに依り、この90000000哩を容易に通過すると考えられるでものであるが、微粒子はエーテルと言う手段を用いて手を繋がないのだろうか?
すべての科学者は、未だ如何にしてそうなるかを考へたことがないにも不抱、兎に角、概念的に、そうであることを希望している。だが仮にエーテルを現象化し、その助けに依って、何百万哩の距離を隔てた作用を記述出来るにせよ、問題は矢張り残されるだろう。
エーテルの二個の近接した部分の相対的位置は、何故これらの部分の運動に影響するのか?
最初見ただけでは、二個の近接するエーテル要素は何故「相互に運動するか」を説明するのは、二個の隔った物質の微粒子が何故同じ運動をするかを説明するより、容易いやうに思われる。常識的哲学者は即座に一つの説明を持って待ち構えたている、それらは相互に引っぱたり、押したりするのであると。だがこの言葉は何を意味しているだろうか?
それは一物体が歪みを受けた場合に、その原形に戻ろうとする傾向であり、物体の諸部分の一定の相対的位置に於ける、その諸部分の一定の相対的運動に対する傾向とである。
だがこの運動は何故特殊な位置に伴われるものだろうか?今これは相対的位置というのが、大きな距離の代わりに、僅かな距離を含んだ所が違っているだけで、古い問題の蒸し返しである。
それを、媒質の弾性に帰しても、何にもならないだろう。というのは、それは、一つの事実に名称を付することに過ぎないのだから。事実、弾性の現象は概念的に記述されんと試みられたが、これは唯、近接せぬ微粒子、一定の相対的運動と結合される位置の変化から弾性ある物体を構成することに依るのみである。換言すれば、弾性の概念に訴えようとするのは、甲の「隔った作用」を、乙の「隔った作用」で「説明」せんとするに過ぎない。
エーテル要素の弾性がそうした配列の為であるにせよ、始めの運動を「説明する」には他のエーテルが必要とされ、その過程は無限に継続される可きものだろう。明らかに、エーテルの現象化は、何故物質は運動するかを説明する手段としては、絶対的に無意味である。同じ問題が、別の形態、何故エーテル要素は運動するか?でも矢張り残されているのである。そして此処では、如何なる解答も与えることが出来ない。機構を以て機構を「説明する」のでは、永久に先へ進むことは出来ない。機構の現象化を主張する人々も、究極的には、「此処からは私たちには解らない」と言わねばならず、又は同じことであるが、物質と力の中に避難しなくてはならなくなる。
パウル・ヂュ・ポア・レイモン(Paul du bois-Reymoud)に依れば、隔たった作用の問題は第三のイグノラビムスであるが、その問題は真実、エミール・ヂュ・ボア・イレイモンの第一のイグノラビムス、物質と力との性質の問題に一致しているのである。(未完)
アインシュタインのエーテルへの関心は先に触れたが、その頃の彼は毛細管現象に関して研究をしていたのだが、そこでボルツマンの気体運動論等との関連づけが閃いたと言うよりも自らの感官印象との共感を覚えたのであった。
「ドルーデの電子論とボルツマンの気体運動論は、アインシュタインにとってたまたま偶然に興味を持った二つの研究対象ではない。むしろ両者は、原子論的な考えを物理的・化学的問題へ応用した例なのである」(ユルゲン・レン)
私たちには、物体は何故運動するのかという第二の疑問を論ずる余裕は余りない。併しこの疑問に対する解答は、第一の疑問によって明らかにされたに
相違ない。若し私たちが何故感官印象は一定の仕方で変化するか?と言うつもりならば、---その時既に意識、知覚的能力の性質、及び近くの順序を考慮した場合のこの点に於ける知識の可能性とは何か、ということが解っているのである。
若し、感官印象物質的群を概念化する幾何学的象徴は何故一定の様式で運動するのか?と言うつもりならば、---解答は次のようである。
即ち多分推察を加えると、此等の運動の形式に依って、私たちの知覚の順序の過去を記述し、将来を推測する事が最も良く出来るということが発見されたと言うことである。
併し何人かが、運動の概念的象徴を現象化することを主張すれば、科学はこの何故に物質は運動するかと言う疑問に対し、私たちには解らないと答え得るに過ぎない。地球が実際に焦点に在る太陽の周囲を楕円を描いて運動すると仮定し、次いで其れは何故かと言うことを分析してみよう。
さて概念的にはこの運動は太陽と地球との基本的部分の一定の相対的運動から作り出されているのである。若し此等の基本的部分が、相互に存在する時一定の相対的加速度を持つとすれば、地球は太陽の周囲に一つの楕円を書くであろうと言われている。
此等の基本的部分は原子として、或いは原子の群として考えられるかも知れない。併し仮説を脱する爲め、簡単にそれらを物質の微粒子と呼ぼう。そこで二つの微粒子が相互に存在する時は、何故一定の様式で相互に相対的に運動するのであるか?引力の法則に依ると言うのでは解答にならないであろう。
その法則は、単にそれらが、どんな風に運動するかを記述するに過ぎない、---即ちそれは私たちには解らないと言うのを避けるための、形而上学的な言い方なのである。
互いにグルグル廻って踊っている二人の人を見ると、私たちは彼らが欲しているいるが故に、意思あるが故にそうしていると考える。一人が他の一人を支えているのでない限り、彼らはお互いの運動を強制しているとは言い難い。踊りをば、彼らの共通の意志に帰するのが、私たちが踊りに対して与え得る唯一の説明である。
お互いの周囲を踊っている物質の究極的微粒子を見る時、ショペンハウエルのように、意志は意識の存在を示し、意識と言うものは意識と結合した物質的感官印象の一定の形式なくしては論理的に推論され得ないが故にと言って、踊りをば踊ろうする共通の意志に帰して了うことは困難である。
このように意志は、運動の原因として何等かの意味があるとしても---意志がそうした意味を持っていないことは私たちの既に見た所であるが、---物質的微粒子の踊りに関して少しも助けとなるものではない。
科学的に言い得るすべては、その運動の原因が、その相対的位置にあるということであるが、併しこれはそうした位置にある時に、何故運動するかと言うことの何んの説明にもなるものではない。
既に充分言い尽くしたので此処で再び考察する必要はない。併し力は或る時には感官印象であると言われている---即ち私たちは力の「筋肉的感覚」を持っていると言われる。私は手を以て一つのものを押そうと思う。そしてその意志が行為となってゆくに従い、力の働きと呼ばれる「筋肉的感覚」が生ずる。併し何故にこれは運動の変化、乃至私の指先の微粒子の相対的加速度の感官印象ではなくて、力の感官印象なのであろうか?このことも、所詮力の「筋肉的感覚」は意識あるものと結合して居ると言うこと、又人の運動ある変化の主観的方面であると言うことを付加して見よ。そうしたらそれが絶対的に何故物質的微粒子が運動するかと言う理由を明らかにし得るものでないと言うことが解るのである。力は「何も客観的なものに対する名称ではない」とテイト教授は書いている。そうした矛盾に面と向かっては、運動の理由に関する何か明瞭な説明が、力の観念から抽出されると仮定するのは止めた方がよくないだろうか?
だが微粒子は二人の踊り手のやうに、手を繋、一方が他方の運動を「強制」しないものだろうか?仮に微粒子が90000000哩離れているにせよ、この手を繋ぐのは不可能だと言ってはならない。
光はエーテルの助けに依り、この90000000哩を容易に通過すると考えられるでものであるが、微粒子はエーテルと言う手段を用いて手を繋がないのだろうか?
すべての科学者は、未だ如何にしてそうなるかを考へたことがないにも不抱、兎に角、概念的に、そうであることを希望している。だが仮にエーテルを現象化し、その助けに依って、何百万哩の距離を隔てた作用を記述出来るにせよ、問題は矢張り残されるだろう。
エーテルの二個の近接した部分の相対的位置は、何故これらの部分の運動に影響するのか?
最初見ただけでは、二個の近接するエーテル要素は何故「相互に運動するか」を説明するのは、二個の隔った物質の微粒子が何故同じ運動をするかを説明するより、容易いやうに思われる。常識的哲学者は即座に一つの説明を持って待ち構えたている、それらは相互に引っぱたり、押したりするのであると。だがこの言葉は何を意味しているだろうか?
それは一物体が歪みを受けた場合に、その原形に戻ろうとする傾向であり、物体の諸部分の一定の相対的位置に於ける、その諸部分の一定の相対的運動に対する傾向とである。
だがこの運動は何故特殊な位置に伴われるものだろうか?今これは相対的位置というのが、大きな距離の代わりに、僅かな距離を含んだ所が違っているだけで、古い問題の蒸し返しである。
それを、媒質の弾性に帰しても、何にもならないだろう。というのは、それは、一つの事実に名称を付することに過ぎないのだから。事実、弾性の現象は概念的に記述されんと試みられたが、これは唯、近接せぬ微粒子、一定の相対的運動と結合される位置の変化から弾性ある物体を構成することに依るのみである。換言すれば、弾性の概念に訴えようとするのは、甲の「隔った作用」を、乙の「隔った作用」で「説明」せんとするに過ぎない。
エーテル要素の弾性がそうした配列の為であるにせよ、始めの運動を「説明する」には他のエーテルが必要とされ、その過程は無限に継続される可きものだろう。明らかに、エーテルの現象化は、何故物質は運動するかを説明する手段としては、絶対的に無意味である。同じ問題が、別の形態、何故エーテル要素は運動するか?でも矢張り残されているのである。そして此処では、如何なる解答も与えることが出来ない。機構を以て機構を「説明する」のでは、永久に先へ進むことは出来ない。機構の現象化を主張する人々も、究極的には、「此処からは私たちには解らない」と言わねばならず、又は同じことであるが、物質と力の中に避難しなくてはならなくなる。
パウル・ヂュ・ポア・レイモン(Paul du bois-Reymoud)に依れば、隔たった作用の問題は第三のイグノラビムスであるが、その問題は真実、エミール・ヂュ・ボア・イレイモンの第一のイグノラビムス、物質と力との性質の問題に一致しているのである。(未完)
アインシュタインのエーテルへの関心は先に触れたが、その頃の彼は毛細管現象に関して研究をしていたのだが、そこでボルツマンの気体運動論等との関連づけが閃いたと言うよりも自らの感官印象との共感を覚えたのであった。
「ドルーデの電子論とボルツマンの気体運動論は、アインシュタインにとってたまたま偶然に興味を持った二つの研究対象ではない。むしろ両者は、原子論的な考えを物理的・化学的問題へ応用した例なのである」(ユルゲン・レン)