⑥個性は実験に於ける同一性を示さない
個々の原子は破壊されない、又不加入的なものであるという仮説は、原子から構成されている物体の一定の物理的、化学的性質を私たちが説明するに充分なものである。
併し物理的変化に際しての原子の連続的存在と、化学的結合の分解の際のその個有性の再成とは、個々の原子の不破壊性、不加入性以外の、他の仮説からも導かれ得るものであろう。
そのことは時を異にし、且つ場所を異にし、時には連続的にすら感官印象の同じ群を経験するが故にという論理的必然性、又此等の感官印象の基礎の上に、全く同じ物があるに違いないという論理的必然性は伴わないのである。
一つの例が読者に、私が何を言っているかを明瞭に示すであろうし、同時に、原子の不破壊性と不加入性とが、仮説としてはどんなに有用であるにせよ、矢張りそれは絶対的に必要な概念でもないということを証明するであろう。それによってよし原子が現象世界の知覚することの出来ないものに投射されるにせよ、感官印象の恒久的群の基礎的要素としては、何時、また如何なる場所に於いても変化することのない個々の在る物があるに違いないと言うことにはならないであろう。
現象的物体の恒久性と同一性とは感官印象の個々の群の中に存しているのであり、概念から現象に投射された、知覚することの出来ない在る物の同一性の中に存して居るのであろう。
海面の波の例を引用しよう。波は私たちにとって感官印象の群を作るものであり、私たちは波を、一個のものであるかの如く眺めたり、又話したりするのである。略
さて私は、この波の例を二つの理由から引用したのである。
先ずその例に依って原子が原子によって突き抜けられ、且つその実体が一瞬間一瞬間変化しつつあると考えることが出来、而も同時にそれは化学的結合をした後、その物理的恒久性と、個々の再生の可能性とを妨げるものではないと言うことも全く考えられることであり、その場合は私たちには明らかに第一に特殊な概念を実在的現象の世界に投射する権利もなければ、従って又それ自身突き抜けられる物質はその究極的要素、即ち原子に於いて不加入的であると強硬に主張する権利もないのである。明らかに不加入性なるものは、知覚に於いてもまた概念に於いても、感官印象の物質的群の欠くべかざる要素ではない。
また更に、さうした群の恒久性と、同一性とは、必ずしも恒久の概念、及び、群に対する同一実体を含むものではない。
この波の例を引用した私の第二の理由とする所は、「物質とは運動するものである」という言葉に含まれている可能性を明らかにする点にある。
波は一瞬間液を構成する実体中の特殊な運動形態から出来ている。この運動形態それ自身は、水の面に沿って運動する。それゆえに私たちは、実体の他に、何か或ものが運動していると考えられる、即ち運動の形態が考へ得られるということが解るのである。
結局の所、若し運動しつつあるものとしての物質が、運動の形態ということで最も良く概念の中に表され得るとすれば、運動とは何であるか、そしてこの場合にもその実体が同一であるろうか、どうだろうか?この提議については、その結果が特に得る所が多い故を以て、後にそれに戻るであろう。
波路はるかなる動向を、東京化學会誌が速報している。
1それが913年11月号「1912年に於ける物理化学の進歩」である。その一部を参考までに記しておく。
・イオンの移動速度の測定
ここで注目されるのはノイス及び加藤与五郎である。
彼は膠質、つまりコロイドに関しても造詣が深く日本では先駆者と言える。それは何れ取り上げることとなろう。
・吸着に関係ある他の研究など
ここでは寺田寅彦との関係において記憶も新たとなろう。それがフロイドリッヒ等の紹介である。
・晶態と膠態との関係
そこにはハーデイーの名も見える。
余滴
数日前の夜分にSTAP細胞の速報を聞いた時に、直ちに脳裏を過ぎったのは、丁度100年程前のJacques Loeb( 1859年4月7日 - 1924年2月11日)が、あのオストワルド親子鷹の詰問に応えるためにの、苦渋の決断をもってバイオコロイド研究へと転じた事が蘇っていた。
個々の原子は破壊されない、又不加入的なものであるという仮説は、原子から構成されている物体の一定の物理的、化学的性質を私たちが説明するに充分なものである。
併し物理的変化に際しての原子の連続的存在と、化学的結合の分解の際のその個有性の再成とは、個々の原子の不破壊性、不加入性以外の、他の仮説からも導かれ得るものであろう。
そのことは時を異にし、且つ場所を異にし、時には連続的にすら感官印象の同じ群を経験するが故にという論理的必然性、又此等の感官印象の基礎の上に、全く同じ物があるに違いないという論理的必然性は伴わないのである。
一つの例が読者に、私が何を言っているかを明瞭に示すであろうし、同時に、原子の不破壊性と不加入性とが、仮説としてはどんなに有用であるにせよ、矢張りそれは絶対的に必要な概念でもないということを証明するであろう。それによってよし原子が現象世界の知覚することの出来ないものに投射されるにせよ、感官印象の恒久的群の基礎的要素としては、何時、また如何なる場所に於いても変化することのない個々の在る物があるに違いないと言うことにはならないであろう。
現象的物体の恒久性と同一性とは感官印象の個々の群の中に存しているのであり、概念から現象に投射された、知覚することの出来ない在る物の同一性の中に存して居るのであろう。
海面の波の例を引用しよう。波は私たちにとって感官印象の群を作るものであり、私たちは波を、一個のものであるかの如く眺めたり、又話したりするのである。略
さて私は、この波の例を二つの理由から引用したのである。
先ずその例に依って原子が原子によって突き抜けられ、且つその実体が一瞬間一瞬間変化しつつあると考えることが出来、而も同時にそれは化学的結合をした後、その物理的恒久性と、個々の再生の可能性とを妨げるものではないと言うことも全く考えられることであり、その場合は私たちには明らかに第一に特殊な概念を実在的現象の世界に投射する権利もなければ、従って又それ自身突き抜けられる物質はその究極的要素、即ち原子に於いて不加入的であると強硬に主張する権利もないのである。明らかに不加入性なるものは、知覚に於いてもまた概念に於いても、感官印象の物質的群の欠くべかざる要素ではない。
また更に、さうした群の恒久性と、同一性とは、必ずしも恒久の概念、及び、群に対する同一実体を含むものではない。
この波の例を引用した私の第二の理由とする所は、「物質とは運動するものである」という言葉に含まれている可能性を明らかにする点にある。
波は一瞬間液を構成する実体中の特殊な運動形態から出来ている。この運動形態それ自身は、水の面に沿って運動する。それゆえに私たちは、実体の他に、何か或ものが運動していると考えられる、即ち運動の形態が考へ得られるということが解るのである。
結局の所、若し運動しつつあるものとしての物質が、運動の形態ということで最も良く概念の中に表され得るとすれば、運動とは何であるか、そしてこの場合にもその実体が同一であるろうか、どうだろうか?この提議については、その結果が特に得る所が多い故を以て、後にそれに戻るであろう。
波路はるかなる動向を、東京化學会誌が速報している。
1それが913年11月号「1912年に於ける物理化学の進歩」である。その一部を参考までに記しておく。
・イオンの移動速度の測定
ここで注目されるのはノイス及び加藤与五郎である。
彼は膠質、つまりコロイドに関しても造詣が深く日本では先駆者と言える。それは何れ取り上げることとなろう。
・吸着に関係ある他の研究など
ここでは寺田寅彦との関係において記憶も新たとなろう。それがフロイドリッヒ等の紹介である。
・晶態と膠態との関係
そこにはハーデイーの名も見える。
余滴
数日前の夜分にSTAP細胞の速報を聞いた時に、直ちに脳裏を過ぎったのは、丁度100年程前のJacques Loeb( 1859年4月7日 - 1924年2月11日)が、あのオストワルド親子鷹の詰問に応えるためにの、苦渋の決断をもってバイオコロイド研究へと転じた事が蘇っていた。