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「時空の旅人」

2015-06-24 09:51:14 | 「・・・ノマド」
1867年の論文。
勿論それは漱石の事ではないが彼との関係も直近の研究課題であるところのチャールズ・サンダース・パース論文である。
それを仮に「膠識」と名づけておこう。

これは今尚たんなる仮説扱いでしかないのであるから、漱石ならば「断片」として書き捨てられていたかも知れぬ。

企画とは悪巧みと喝破したのは坊主であったが、ならば仮説もまた悪巧みであろう。


ところで「夢十夜」でもないがわれわれの意識は切れ目もなく流れているのであろうか、あのロンドンの漱石でもあるかのように落ちぶれていくのは「俺!」かもと想って目を覚ますが、そうではなくてチャールズ・サンダース・パース1839年9月10日 - 1914年4月19日その人の意識が拡散しての突飛な現象であるらしいと受け止め直した。


「サンダース パースの生涯」は今でこそ公開されているから垣間見れるとも言えるけれども、それは研究されるその緒についた程度のことであると言って良い。


とは言えども漱石などの意識にのぼらなかったとは勿論言えない。
その謎めいた「記号論」などがそれである。
佐藤深雪「夏目漱石とプラグマティズム 集合的Fとは何か」などが企画されているのだから。


水面の「花」



つかれて目を逸らしてみたらドブ川の様な、無い様な膠景に気がついた。
それからしばらく行くと美しい紫、それは花ではあるが何処から何処へと流れを遡ている。




山頭火もお遍路も通ったであろう川筋に大きなその紫の花が咲いていた。




簡単なお接待として「ジャカランダ」の資料等が目に止まった。
その栽培に取り組んだのは2009年頃の事であるらしい。その詳細を極める報告書はナチュラリストを彷彿とさせるものがある。


しかしそれは間違っていた。
頂いた本をパラパラめくってみれば、来年には米寿を迎えられるけれどもかくしゃくとしておられ、今年は護国神社のお勤めとして、シベリアへの墓参を計画しておられるとも聞くし,建設などの実業家でもあられたけれどもそれを本業とは言えぬのかも知れぬ。


それゆえに、あのドームは無上の楽しみなのだと、その時に気がついた。


まんだら人生講話を拾い読みしていて感じ入ったのは、現役を退かれた今、「伊予のミニ四国」と言う企画に取り組んでおられる事である。

「小さな島の路傍にある石仏を結んだ八八ヶ所、山間を縫うようにして出来ているミニ四国。参拝者も少なくもはや忘れ去れれようとしているミニ四国等など。そこにはその地で土着し、密着して生活した先祖たちの息吹が漂っています。砥部四国、興居島四国、風早四国等など順次巡っていますが、愛媛一円のミニ四国をめぐるにはまだまだ時がかかるようです。」










      ジャカランダ水面の花や遍路みち       膠一

「雨上がり」

2015-06-21 08:16:42 | 「・・・ノマド」
流れ去る日常の膠景は日々流れ続けるニュースの如きものなれど、時には聞き耳をそば立てる事もある。

街の流れもまた同じ。

過ぎ去ってしまってからひっくり返る青蛙の如きわれもまた。

立ち止まったのは富山ナンバー、昨夜来の黄蝋等が何故かもつれあって蘇る富山。

そのバスの、正確には改造トラックの運転手は移動映画館の由来を教えてくれた。
その契機となったのがあの大震災であった。

その後は全国どこへでも無料出張して無料映画を上映している、本邦初であるらしい。


ここ松山へと参集したのは僅かなものであったが。


部分

これまた無料で開かれている「現美」50周年展はひっそりとしていた。
そこで目に止まったのは大州の熊野哲郎さん。

「物心つく前から現美にいたような気がします。そして今やっと二科で筑波風景を最後まで発表した服部総一朗のように、一途に生きたく思っています」


あの大震災における津田青風と寅彦の膠景はもとより、その直後からの膠究も蘇ってきた。


「漱石と寅彦」(志村史夫)には親鸞聖人が登場する。
『知識が殖えても心の眼は明るくならないでな』




その副題ともなている、落ち椿の師弟をもって締めくくられているのだが、寺田膠学とも言うべきその膠究方法は漱石ゆかりの、あのピアソン「科学概論」に端を発していたとみなして良い。



漱石がそれを知った時の、あの悔しさを滲ませた漱石の言葉からは、いかにその時分の方法論がピアソンに似通っていたかを雄弁に物語っている。

翻ってみれば案外普遍的な推膠方であるところの統計学的な寺田膠学は正にここから始まったと言って良い。
それは中谷宇吉郎などへと受け継がれてゆく。





「雨上がり」みなもの筆ぞ「現美展」      膠一

お遍路さん

2015-05-28 06:53:24 | 「・・・ノマド」
お遍路さん


顧みる2012年5月27日には、夏目漱石等の周縁問題と取り組み始めていた。つまりそれからの3年目には造語の整理が行われんとしているのだ。

思い立って彼も歩いたであろうと思われた道を歩いてみた。そこは関所跡、小林一茶やお遍路さんも歩いた旧道であるが、当時の様子を伺うことは出来る。

結願となる88ヶ所へと降り来た時に、本当のお遍路さんと出会った。
これを会膠と言えばよいのだろうかとふと思った。




誘って海辺へと降りて行った、そこからの眺めを彼は喜んでくれた。海辺へ降りてみたかったと、
靴紐を解きズボンを捲し上げて粟井の砂浜でよせては返す小波を楽しんでいる。   


今回は37番札所からの出発で、今朝は石手寺をたって北条の太田屋での宿泊である、6月1日には埼玉へ帰る予定であるとも聞いた。

帰り際に、「勉強になりました!」と、うら道となるが海の光景を楽しめる道を、お勧めした。



さて、この新道が出来たのは漱石が14歳頃であると知れたのだから子規とここを訪れたのは、それを知っての事と思われる。当然そこの古戦場跡等は承知していたとしても不思議ではない。

それに粟井ではなくて彼は、淡井阪とも表記している事は注目されても良い。

  涼しさや馬も海向く淡井阪     子規


その日の終わりになってから、あの人の命日である事に気がついた。
東密にひかれていたのだが道半ばであったけれども、それを知る時分もまた道半ばではないかとも思っている。

勝手な言いようだが、世に言うところの舎密、余の言うところの「舎密膠学」であるからここは素直に『舎密』としておこうと思った。


 薫風にあるき遍路やあわい海      膠一

くうこう

2015-05-27 06:58:04 | 「・・・ノマド」
尋ねるべきは奥の奥




結論から言えばそこの奥の院の膠景をわれわれは見ることはできなかったのであるが、確かにそれらしきものが最近になってと言っても歴史的な遺産を認めるのであるし、時折は四国遍路の道すがら訪ねても来られるとの農夫の証言もあるが、彼によれば山頂から麓へと降りてきたのであり、今ではそこを尋ねみることはできまい!



「我住めば 四海静謐 波静か 種々の願いを かなへ 得させむ」そこに歌われたような光景は望めないのだ。
その昔は瀬戸内海航路の守り神的な存在であったのであろうと思われるが、時分が変わっていったのである。


 ほととぎすみちなきみちぞ奥の院    膠一



更には街中へと招き呼ばれてそこに読まれた歌のイメージとは全く異なったところで、広く親しまれ愛されることとなった、その傍証はあの位牌を預かっている須賀さんの語るところであろうと思われる。




 
「空膠」や来るちょうちょう奥の院      膠一

グリア細胞ナノ

2015-05-26 09:08:22 | 「・・・ノマド」
うら道


全ては日常通りに運ぶ常態であったが、坂の上からの眺望を望んだ時にはひっくり返していた。

夕刻となり思い違いの月曜日を知ったので散策にでた、うらうらの道野辺での出会い頭の犬は全く無関心なのに興味を抱いた。

その犬はフジの墓場に群れていたものを、狂犬病対策として保健所が預かり、希望者へと移譲されたその最後に残った犬であったのだが、正しく柴犬であるけれどもその立派な尻尾は違っているかも知れない。

また立派なタスキには住所電話番号等と共に「まりん」と刺繍されているのは奥さんの好みを映し出しているけれども、散歩は何故か馬が好きな主人の役割らしい。

彼は天才肌が災いしたのであろうか、その語り口は知的であり饒舌とは言えないけれども、終わることもなさそうに思えるので、長時間にわたる膠談と言うよりも膠感は終えることとしたのだが、その真言に全く触れないでおくことは彼にとっても不本意なことかもかも知れない。




英語が得意であったけれども専攻は経済、その時分は半官半民的な機構で津々浦々を巡ったけれども、そのどれもが事件との因縁めいた実話で彩られてもいる例えば、神戸大学近くの金沢病院はあの大震災の当日の夢幻としての正夢であったとか、さらにもう一つの大震災とかにも逸話がるし、あのオーム事件の坂本弁護士等、気色が悪いほどの時分が「俺が!」と思わぬでもないらしい。


つまり、あの神経細胞、神細とグリアの関係のようにその現場には何時も間違いもなく星膠がそばにいるのだから犯人扱いを受けることがしばしばであるそのことは今もなお変わっていないのかもしれない。


さて、特急列車が好きだと犬を連れてくるのは彼自身の鏡であろう、確かに鋭く反応してみせる犬。


79歳市民病院では40種以上もの薬漬けは薬手帳では間に合わないから、彼自身が作成しているのだが、一向に養生しているとは思えないけれども、未だに生きているというその思いを、「死にたくはないけれども生きたくもない」とこぼす事。

質問へ答えるところの「とけること、とけないこと、2つの公式」とは、自身からの膠式の発見であろうか。

教育とは、解けることだけなのか!と、自問自答を迫られてたかもしれないと思える。


ともかく彼は「憩室」を煩い全身が蝕まれているらしいのだから、膠揺動現象といえるしその病態にあるのだから、これを「膠室」病態と略しておこうと思う。


別れ際に、喋り過ぎたと私語しながら、工事中の遍路橋方面へと行ってしまった。語り尽くせなかった多くの事柄は醗膠させる機会があるかもしれない。



  ドクダミやうらうらのみち遍路橋      膠一

道歩き

2015-05-25 07:12:50 | 「・・・ノマド」



道歩き



野草はもとより園芸種なども混在しているのが公道と言うよりも、膠道であろう。


それは人為的な手入れもあれば、それをなされてしかるべきを放棄されたかのような様相もあるけれども、その多くは近所の方々によって救済されているらしいとも知れる。


それにしても剪定だけでは済まない雑草問題があるのだが、何故にアンダーグランド問題を解決しようとはしないのか不思議ではある。
その一つは雑草つまり芝のよなものとのコンパニオン関係を研究することであろう、膠友関係である。





もっともそれではその膠景が一変してしまう恐れがないわけではない、つまりこうした発見の楽しみが少なくなるのだから。


無意識界への深更

2015-05-24 13:20:14 | 「・・・ノマド」
浸膠していく意識・無意識界。

この意識はもとより無意識な働きかけこそが、われわれを救ってきたきたもの!

あたかも目覚めゆく神経細胞、ニューロンでもあるようにその陰陽と同行二人とも言える影武者かのようなグリア、今ではそれを細胞だとして知られている群である。その1つがアストロサイトつまり星状膠細胞、略して「星膠」としておく。

それが形態からきたその連想は、正しく膠史否、膠誌というべきか。
元来それは語られるべき膠場ではないけれども、触れないで置くこともならぬのは、1843年の時分のトーマス・グラハムとかマイケル・ファラデーを思い起こせば足りる。

記憶をたどってゆく神経細胞、ニューロンには直ぐにたどりつけるものの忘却の彼方にはグリアがあるのだが病態でもあるかのよう今尚不安定でもあるのは、二元論に端を発しているのであろう。



そこで一元論を省みてみると藤田哲也「母細胞と脳の発達」と訳せる著書がその端緒を成したことは嬉しい。そこでは妊娠15週頃からの第三ステージこそが、神経と星膠の狭間にかける“しし”の有り様、接着機能などの膠着問題の現場つまり膠景である。



われわれがその光景から得るべきを得て捨てるべきを捨てるかのように膠換はひび練り直されてもいる。この陰陽の狭間問題。


さてその神膠と星膠のあいだにはブラウン運動の振膠がある、それが膠動、膠象と言って良い、つまりこれは「膠人」そのものの表象となり得るようい思われる。



水道工事

「膠圧」

2015-05-22 20:35:43 | 「・・・ノマド」
スクラップ&ビルド


「膠圧」とは見慣れないのかも知れない。
高圧ではなくてその真逆のイメージ、つまり膠質浸透圧を略しての造語である、誤解されやすい。

兎も角、枯渇状態における生命力の膠源とも言えるあのエントロピー由来のちからである。

その膠政とも言うべきへの抵膠とも言えないが膠圧的な膠策が、ここにある無料シャトルバス

余一人の貸切であったが、接客にも向いている運転手さん。



さて余談であるが、何故に誤解されやすい造語をとは思わぬでもないが、いつの頃からか膠噴状態になってしまったのだ。

それが加速度的に拡散してきたので凝膠できないとの諦観、正しくは膠観にいたったからなのだ。

この問題を整理するべき時膠は近いと当初は思われたけれども、残念ながらと言うべきか、未だに新たな造語が生まれ出る状態なので、今しばらくは流膠にまかせることとする。




モッタイナイけれども、これもまたスクラップ&ビルド
膠場の代理人はすまなさそうに言葉も少なかった、これも膠圧の賜物、尽膠の結果であろうと思われる。
 


草膠だけでもと、推膠をしている日々。


「剪膠」とも「選膠」とも?

2015-05-22 09:11:25 | 「・・・ノマド」
剪定、「剪膠」とも言えるのか?





剪定とは大胆不敵な細断とも言えるのはその樹木の立場からの味方であるがゆえにであろう、つまり時分自身の望みなどしるよしもないかのようにそこの日陰を奪い去るのであるから、「物凄い破砕機が数台」お供しているのである。





七変化狭間なるししオノマトペ    膠一

人膠史観

2015-05-21 09:25:47 | 「・・・ノマド」
今朝のトップ記事
「大戦の結果ロシア領」根拠ない…菅長官が反論 2015年05月20日 21時11分

 菅官房長官は20日の記者会見で、ロシアのラブロフ外相が北方領土が第2次大戦の結果としてロシア(旧ソ連)領になったと述べたことについて、「日露間において第2次世界大戦の結果は確定しておらず、ロシア側の主張に根拠はない。米国も日本の立場を支持しており、北方領土に対する日本の主張を認めていると認識している」と不快感を示した。

まるで昨日の事のように蘇る、そこにあった切り抜き記事。


日ソ開戦の秘話である。
その見出しは「日本異例の『軟弱外交』 低姿勢の駐ソ大使 ;条約違反指摘せず」とある。日付は2004年8月8日であろう。

「モスクワ7日時事」第二次世界大戦で日本の敗戦を決定付けた旧ソ連の対日参戦で、当時のモロトフ・ソ連外相が1945年8月8日、佐藤尚武駐ソ大使に開戦を通告した際のソ連側の会談議事録が、7日までに初めて明らかになった。以下略


同じく8月10日には「ソ連、日本の開戦暗号解読 米国より1ヶ月早く?」



驚くべきことでもないのかも知れないが、同じく、8月16日付けでは「日本空襲生々しく ロシアで航空写真発見 米軍がスターリンに提供」

公文書館の専門家は「米軍が日本本土を空襲で破壊していることを示して力を誇示するとともに、参戦するソ連軍の不安を解消する狙いではないか」と指摘している。(モスクワ時事)


その前後ではなかったか、「新しい歴史教科書」(扶桑社)問題が表面化したのは、その1つではこう記述されている。

1945年2月。ソ連のクリミヤ半島にある保養地ヤルタに、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相が集まり、連合国側の戦後処理を話し合った(ヤルタ会談)
ルーズベルトは、ドイツとの戦争が終わってから3ヶ月以内に、ソ連が対日参戦することをスターリンに求めた。
このように対日戦争の犠牲の一部をソ連に負担させる代償として、ルーズベルトは、大西洋憲章の領土不拡大方針に違反して、ソ連に日本側の南樺太と千島列島を与え、満州における権益も認めると約束した。
これら極東に関する内容は、秘密とされた。以下略


単なる歴史だけではなく、そこに背景となる膠景をも史膠にくわえていくと、その膠察は自から異なった様相を見せてくれるものだ。

そこが凝縮された「人膠史観」とも言える、前夜の物語である。