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懐疑的な化学者②

2011-01-29 08:32:43 | colloidナノ
大学での講義の経験にもとづく八杉龍一「図解 科学の歴史」をひもといてみるボイル像。

「元素の系譜」 前5世紀のエンペドクレス(四元素説)に次いで、17世紀のボイル(元素観でも近代化学の創始でもラヴォアジェの先駆となったイギリスの学者)

「化学の発達」 錬金術(英語alchemy、alはアラビア語の冠詞)から17世紀ごろ近代的な化学(chemistry)が生まれたことを、はじめのほうでのべた。
ボイルは重要な先駆者であった。次の世代にはラヴォアジェがあらわれ、19世紀には原子、分子の仮説が立てられ、化合、分解などの理解が進み、こうして物質の科学すなわち化学が、急速な進歩をとげ化学工業の巨大な発達が起こった。

そこで見落とされ勝ちなのが、「元素の転機がくる」
17世紀には、錬金術がもとになって近代的な化学が誕生しはじめる。話は少し先にいくのだが四元素説が崩壊していく経過を次に見よう。

かくして割愛された世紀こそが17世紀。唯物論の復活した哲学の歴史でもある。

近代自然科学の基盤の上に立った新興市民階級の唯物論的な哲学の出発(都留正雄述)
賢者の石



ここで見落とされるべきではないパラケルススの死後、30年にして出現したイアトロケミスト(医化学)。
その源流をあの大遍歴時代に吸収したとも考えられている、中国煉丹術に求める学説では精神(硫黄)霊魂(水銀)身体(塩)と三原質と考えている。
しかしW・パーゲルは組織性(硫黄)活動性(水銀)質量性(塩)との異説などもある。

懐疑的な化学者①

2011-01-27 08:02:03 | colloidナノ
ともに焦点であったのが、ロックとボイルの精神史研究。

「信仰と理性ーロックとボイル」鎌井敏和、17世紀のイギリス精神史研究の一部
「ロックの研究の源泉はボイルその人であり、彼こそつねにロックがふりかえって相談をもちかける人物だった」

ともにIatrochesteyへの興味から出発し・・・、後年ロックはボイルの遺言を受けて、空気についての彼の未完成原稿を整理、改訂、編集し『空気の一般記述』のタイトルで出版した。
サー・アイザック・ニュートン


ともに記しておこう。
芦名によれば、ボイルの遺言で創設された宗教擁護のための講演会、ボイルレクチャー。そこにニュートンも深く関わりをもっていたとされている。
その最初の講演者であるベントリンはニュートンに、直接疑問点を問い合わせがあり、それに回答した四通の書簡が残されている。

ともに「篤信の自然研究者」として「神の作品」としての自然に相対し、そこにはっきりと神意をみた。

ともに見る、17世紀は日の出を1,2時間程度後にひかえた薄明かりの時期であった。

ともに、あの“甘い眠り”からの和声、ともに真似しあい“みえない学校”の衆合智こそが、ボイルともいえる“かいぎてきなしんかがく”と言えるのであろうか?


キリスト教と近代自然科学 : ニュートンとニュートン主義を中心に

信仰と理性 : ロックとボイル 鎌井 敏和
Annual report, Faculty of Literature, Otsuma Women's University 14, 97-112, 1982-03

懐疑的な化学者

2011-01-25 08:43:38 | colloidナノ
「ヒルデ、お誕生日おめでとう!」
今、大きなターニングポイントが戸口まで迫っている。


「・・・おもだった経験主義者の哲学者はロックとバークリーとヒューム。3人ともイギリス人だ。
17世紀の合理主義を最初にとなえたのはフランスのデカルトとオランダのスピノザとドイツのライプニッツだった。
そこでよく“イギリス経験主義”と“大陸合理主義”という分け方をするよ」


ロックのいちばん重要な著作は「人間悟性論」1690年に刊行された。
この本でロックは二つの問題を解明しようとした。
第一の問題は人間はどこから観念を手に入れたか。第二の問題は、感覚が語るものを信頼していいか」

感覚と反省・・・・・整理し加工すること!(「ソフイーの世界」)

1671年頃のアシュリー邸のロックの居間で、5~6名の友人が集って、おそらくは道徳の原理や啓示宗教について議論していたとき、議論が行き詰まって「自分たちの道が間違っていた」と気付いたことから、Human Understandingみずからの探求という着想を得たらしい。

そこには臨床医学のシデナムや物理化学のボイルとの交流などが1664年頃から始まって自然学の実験観察の方法を重視することとなる。後輩のニュートンからも大きな影響を受けた。
『ボイル』形相と質の起源(1666)
科学の名著 (第2期 8)朝日出版社
ロバート・ボイル (著), 伊東 俊太郎 , 村上 陽一郎 (編纂) 赤平清蔵、吉本秀之(解説)
赤平清蔵(翻訳)

お誕生のお祝いに、この一冊を贈ろうと思う。



国際化学年⑩

2011-01-22 08:26:41 | colloidナノ
教師の立場から見えてくる「心象スケッチ」というべきものが、硫酸ナトリウムによる実験であるところの「過冷却くずれ」である。と気付かされ見た「日本の教育」第53集。

みちなかば、知るほどに知りたくなるインターネットの世界。

『春と修羅』第一集序;
わたくしという現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんあといっしょにせはしくせはしく明滅しながらいかにもたしかにともりつづける因果交流電燈のひとつの青い照明です。(ひかりはたもちその電燈は失われ)

さらにネットの報文を読みすすめてゆくと、まるで大人の童話ともいうべき多彩にうたれる。

歴史や宗教の位置を全く変換し、との研究に背を押し出されて眼を止めたのが『自然科学からみた宮沢賢治のスケッチ』と題する一報であった。

賢次の世界を、筆者等のグループは、モノとコトに分けて解明を試みている。もちろん、現実の世界もモノによって構成されているから、賢治は、そのなかから美しいものを取り出そうとした。その典型的なものが「標本」(米地・三浦・平塚2004)である。

みちなかば、知るほどに知りたくなるインターネットの世界。

弟の静六氏が思いでの中で「おれも是非こうしたものを書かねばならない」との動機とも語られる「月光」であり「運命」。

スケッチブックというのか、心象スケッチ帖にペンシルで記された言葉。

たしかに記録されたこれらのけしきは・・・・ある程度まではみんなに共通いたします。
正しくうつされた筈のこれらの言葉が・・・・すでにはやくも、その組立てや質を変じている。

mental sketch modifiedと記されている『春と修羅』は、みずからの姿勢と情熱を、問いかけ直す“しんかがく”であろうと想う。

『春と修羅』
宮沢賢治

国際化学年⑨

2011-01-20 09:00:55 | colloidナノ
あの訳者による「高等教育研究のパラダイム」中山茂、そのには、仕事を創る力がなくなり失業の時代を予測するチャートが示されている。

深よみしていくと自家中毒てきな思考回路のようにもよみとけてゆく、パラダイムのゆきづまるところと言うわけだ。

「科学と社会の現代史」(中山茂;岩波現代新書)こそが懇親の書であろう。

「科学と客観性への疑問、クーンの影響」において、パラダイムを定義づけて「反科学と科学批判」の腑分けをしてみせる。

カール・ライムント・ポパー

それが世代的人生経験にもとづく、ミラー細胞のなせる技というべきであろうか。ポパーなどとの対比が興味深い。

主題は忽然とあらわれた1967-68年の疑念。それは今なお特定されることを拒む、因果な関係性を、デジ穴のカオス状態と言えば良いのであろうか。

ベトナム反戦運動、環境保護運動、大学闘争などと、ともにあった文化大革命。

警世の言葉、自己チェックであり予防注射とも、対症療法とも、いわれるような技術の評価それがアセスメントと言うわけだ。

その頃、コンピューター利用教育システムは科学技術会議において取り上げられていた。

よみかえして思うあとがき
「現代史は正しく、しんかがくの試金石である」、虚実のしらべ。

国際化学年⑧

2011-01-18 09:00:48 | colloidナノ
クーンに批評された教科書の現場などが如何なるものかと尋ねた「化学教育」
時代背景も似通う昭和48年10月、21巻5号には『特集;化学のふるさと』

巻頭言「化学教育と物理教育の連携」林太郎
「特集;化学のふうるさと」
①「ギーセンのリービッヒ教室」山岡望
②「その研究はどうして生まれたか」桜田一郎
③「原子論その誕生からBorh理論まで」小島 男
④「一つの石の物語」綿抜邦彦
⑤「近代的元素観と周期律の成立」野村昭之助
⑥「地球化学への私のあゆみ」細川巌
⑦「見て来たような化学」米田速水
⑧「運・鈍・根」目武雄
⑨「界面化学の源流を探る」福田清成


図4Daltonの元素記号と原子量に続けて、古代ギリシャのDemocritosによって提唱された原子説が、ルネッサンス期になってPierre Gassendi らによってリバイバルして以来、18世紀には自然哲学者たちの間で広く受け入れられたのである。

Newtonを尊敬していたDaltonが粒子説をとったのは当然ともいえるが、彼の原子説は直接には気象学の研究から出てきたとされている。

Daltonはいわゆる“最大単純性の原則”は、非常に有効な仮定ではあるが、合理的な根拠のあるものではない。

それらが正しい値に訂正されるためには、Gay-Lussacが発見した“気体反応の法則”や、Avogadroが提出し、後にCannizzroが修正再提出した“Avogadroの法則”など、多くの化学者たちのその後数十年にわたる努力が必要であった。
その間の時代には原子量の値に混乱が見られたので元素の化合比という概念のみを用いる化学者もあった。

今日でも用いられている“化学当量;Chemical equivalent 、equivalent weight”という概念はこの時代にW・H・Wollastonによって提出されたものである。

「元素の周期律」
Lavoisierの元素理論と、Daltonの原子説とが組み合わされて近代化学の骨組みができ上がるわけであるが、それを整理するためには、Mendeleefによって発見された元素の周期律が必要であった。

1957年の認識は“近代化学が体系化、定量化されるには、元素概念と元素の周期律が確立ならびに原子説に基づく化学結合の理論および反応熱や化学親和力を理論づけるエネルギー論の確立が必要であった”


国際化学年⑦

2011-01-18 09:00:40 | colloidナノ
トーマス・クーンの科学革命論のタームを借りれば、化学史の歴史記述が「科学革命」に寄与したファクターという観点に偏り、それ以前の「通常科学」の営みが正面から捉えられていないと評することもできよう。

シリーズ:18世紀の化学の諸相『18世紀ドイツの化学』;歴史記述の問題
化学史研究VOL36(2009)pp225~235  吉本秀之

いきなり結論;化学の独自性をクーンのものよりはっきりと打ち出すべきである。いきなり略す

この点に関してクラインの次の結論が現時点でもっともよい見通しを与えてくれる。
「大学で教育を受けた哲学者や学者に比べた場合、技術実践者が17世紀から19世紀にかけての実験科学の発展において果たした役割は、長らく科学史家のあいだで議論の対象となってきた。
物理学史家は本を著すことと実験的手仕事を区別する古代の慣習が18世紀を越えて生き延びてきたと論じました。

・・・この見解は、化学を考慮するときには変更を迫られる。17世紀から18世紀の化学においては、薬剤師は、ただ技術実践者としてだけでなく、化学教科書の書き手として、科学学会やアカデミーの会員として、公開講演者や技術学校や大学における教師として、重要な役目を果たした。そうした役割は学者(後の科学者)に相応しい。しかし18世紀のドイツの薬剤師は同時に原則として徒弟修業という職人のシステムで訓練された。そして化学者として有名になった薬剤師でさえも、薬剤製造や薬局の経営に平行して化学の実験を遂行したのである。」

クーンの所説に戻ろう。通常科学を分析する視点(科学者共同体、学会、専門雑誌、専門家養成組織、教科書等)はクーンが提供した。
そしてクーンは、化学を科学(学問)のなかでは、物理的諸科学のなかのベーコン主義的実験的科学のひとつとして位置づけた。
しかし、現実には、化学をベーコン主義的実験的科学としても例外として扱うしかなかった。

以上の我々の論述から、化学は、クーンのものより広い扱いを必要とすると結論づけてよいだろう。
クーンのような上(学者と科学=学問)からのアプローチだけでは不十分であり、化学を十全に理解するためには、下からのアプローチ、すなわち身分としては職人層の側から、知識としては技術知の側からのアプローチが必要とされるのである。



より一層radicalでなければならない。

国際化学年⑥

2011-01-15 08:15:51 | colloidナノ
新造語disciplinary-matrixが未だに定着する兆しはない。

トーマス・クーン「科学革命の構造」は、パラダイムと言う言葉に何を託そうとしたのか、もう一度読みなおしてみよう。

第5章「パラダイムの優先」は、ルール・パラダイム・通常科学の間の関係を見い出すために、まずこれまで一定のルールの受け入れとして描いてきた特定の立場;位置を歴史家がいかに分離して取り出すかを考えてみよう、と始まる。

その最後のにもう一度、引用されるのが化学である。
「有名な物理学者と化学者に、ヘリウム原子は分子であるのか、ないのかと聞いたとしよう。
二人とも躊躇なく答えたが、その答えは同じではなかった。

これから先も、この種のパラダイムの違いがいかにして現れるか論じよう。」

そこでは量子力学が投げかけた造影の興味深い問題を扱っているのだ。

希ガス化合物



『岩波 理化学辞典』の「希ガス」;貴ガス、不活性ガスともいう。周期表の十八族元素のヘリウム、ネオン、アルゴン、クリプトン、キセノン、ラドンの六元素の総称。略
普通の状態では電子の授受や電子の共有が行なわれないためである。しかし最もイオン化エネルギーの低いキセノンは電子親和力が大きいフッ素などと作用してキセノン化合物をつくる。

『化学辞典』「希ガス化合物」;ファンデルワールス力による弱い結合しかもたない化合物としては、クラスレート化合物、ごく不安定な二原子分子がある。略
通常の意味での化合物は、1962年にカナダのN・Bartlettらによって偶然XePtF6がつくりだされるまで存在しないと思われていた。略

正しく執拗低音こそが化学であり、“しんかがく”なのである。

国際化学年⑤

2011-01-13 09:00:40 | colloidナノ
残る3章は割愛することも許されよう。

11章は教科書問題であり12章は学閥的なことである。最終章は研究課題としての進化論というべきか。

元素観とか原子論は避けて通れない骨組みであってみればドルトンやボイルを落とすことはならない。
その記述を云々するよりは学びとる姿勢を問い質すべきであろう。

一言で言ってしまえば温故知新をもって、ことは終る。
ひいては進化の問題であり、何時どのような情況で目覚めるのかは個々の生き方に重なりあうものではないかと思われる。

歴史としては、教科書に現れたようなボイルの業績は、全く誤りである。少し引用しよう“ボイルによれば、彼の元素の「定義」は、伝統的な科学概念を言い直しただけのことである。確かに彼の言うところは正しい。
ボイルは、化学元素と言うようなものは存在しないことを論じるためにのみ、それを持ち出したのである。”

Robert Boyle、1627年1月 - 1691年12月


別の歴史にはその時代の空気が漲っている。
“内乱の時代に(サミュエル)ハートリプは(フランシスコ)ベーコン流の大学の創設の可能性を検討したが、これについてはジョン・イブリン1620~1706、ウィリアム・ベテイ1623~1697、そしてロバート・ボイル1627~1691も関心をもった。
1647年ハートリブは工人のための大学を創設し、産業誌をつくろうというペッテイの提案についてボイルに交渉した。
 当時これと考えを同じくする一団の人たちが、ロンドンのグレシャム・カレッジに集っており、冒険事業の機はすでに熟したように思われた。”略

参考文献 「技術の歴史:化学」筑摩書房


その他に参考資料として「化学史研究」37巻4号2010年
①教育シリーズ;科学リテラシーの観点から考える「教養教育としての科学教育」高等教育における物理・化学教育の事例をもとに
②広場;化学教育と博物館に携わって:日本化学会化学教育賞を受賞して 

国際化学年④

2011-01-11 08:34:02 | colloidナノ
執拗低音も第10章に至って、正しく主題となった「世界観の変革としての革命」である。

化学者がドルトンから得たものは、新しい実験法則ではなくて化学の新しいやり方であった(彼自身、それを「化学哲学の新しい体系」と呼んだ)

彼がかの有名な化学原子論に至った研究を手がけた。けれどもその研究の最後に至までドルトンは化学者ではなかったし、化学にも興味を持っていなかったらしい。

彼は気象学者であり、彼にとっては物理的と思われた水による気体の吸収や大気による水の吸収の問題を研究していた。

一つには彼の素養が畑違いであったからまた、いま一つには畑違いの分野で仕事をしていたからこそ、当時の化学者が持つものとは違ったパラダイムで問題に立ち向かったとも言える。

特に彼は、気体の混合物や水による気体の吸収を物理現象と見て、そこでは親和力は何も働かないと考えたのである。


親和力理論は化学的化合物と物理的混合物との間に一線を画していたが、そのやり方ではドルトンの仕事とはうまく合わなかったのだ。
18世紀の化学者は二種類の作用を認めていた。混合して熱や光や沸騰やその種のことから生じると、化学結合が行なわれているとみていた。


最後に、またまたブルーストを引き合いに出してドルトンのパラダイムをもって吟味することによって、すでによく知られていた化合物の構成比さえもが、違った値になっていった。
つまりデータ自体が生まれ変わったのである。

これが科学革命後、科学者が違った世界に住むことになったと言いたい意味の最後のものである。
少し補っておきたい。
デモクリトスなど古代ギリシャからの粒子説はボイルやニュートンに受け継がれただけではなく、ラボアジェ以降もメンデレーエフの周期律に結実したのであるが、その1869年になくなった、あのトーマス・グレアムを忘れるわけにはいかない。