寺田寅彦の孫弟子を自称するのは大沢文夫その人である。その人の自著というよりも回顧談的な語り口が印象的ですらある「飄々楽学」は親しみやすく示唆されるところが多い。
例えばコロイドに関する最初の論文が机の下に仕舞われてしまったのだが、それはリーゼガング現象を彷彿とさせたものであったけれども、それをかのプリゴジンの「構造・安定性・ゆらぎ―その熱力学的理論 」に使われている口絵を思い出させる。
つまりジャボチンスキー反応におけるようなものであるが、彼はそのような散逸構造でノーベル化学賞を授与された。
それは相対論と量子論に並び称さられるのが通例の評価である。
それから人工筋肉を作ってみたり、あのアクチンなどへと繋がっていく研究は兎から始まった。それは1953年という特異な年に期せずしてスタートしたとも言えよう。
翻って1949年は「コロイドの発見」等が刊行されたその年に湯川秀樹のノーベル賞が決まりその湯川記念館で、初の「国際理論物理学会議」を開催することとなった。
その1953年、巨大分子グループとも言えるフローリーやプリゴジンなどの5名が正座もならぬままに神妙な面持ちで、記念写真となった。
そればかりではなく、ワトソン・クリックによるDNA二重螺旋の発見や巨大分子のシュタウデンガーにノーベル化学賞が授与されもしたし、生命の起源の解明への一歩を進めたミラー等の成果は「ミクロコスモス」(L.マルグリス、D.セーガン)でも取り上げられ知られている。
もっともその講演旅行だけに限っても特記すべき事は多いけれども、若き大沢がフローリーを呼び込んだとも言える、名古屋における巨大分子の講演会は、妬みを買ったかもしれない。
それはともかくとしてその講演が戦後の復興に大いに貢献したとされ勲二等が授与されたのは他ならぬブリゴジンだけであろう。その事が何よりの自慢でもあるときく。
さて、ここで注目したいのはその様な事ではない。そこに自筆されている一言が謎めいていて、あれこれと妄想にかられて仕舞ったのだ。
それは、恰もアクチンの一分子観察を究めて見ても、何故か満たされないところのものが滲んでくるものとも読めるのだが、それが環境問題であろうとは推量に難くない。
けれども具体的には分からないと言っておく。
ヘルムホルツ層と言うよりも多分はアインシュタイン譲りの鑑識眼を持つシュテルン事であるからその論文ではあるまいかとは疑われる。
大沢を離れる前に付記しておきたいのは1998年であったかに再発見された「A-Oモデル」は疎水結合にも似て、重要な概念となる事が期待される。
さて生化学とか筋肉というべき領域はあの丸山義二の息子である、工作の「生化学の黄金時代」等であったろう、そこの図-7は印象に深く残った。
それは「ドイツにおける生理学と生理化学の正教授の変動」と題されて、年代と員数を書き込んだだけの簡単なものであるが、その生理化学の妙な歪を伴った推移は言葉だけでは表現できない何かを読者にも考えさせる、その工作とさえ思えた。
直感的にはファラデー・グラハム時代以降の問題と見て間違いなさそうだ。
ちょっと脇道へと逸れてしまうけれども粘菌等で知られる熊楠や漱石・子規等が生まれた維新前夜、つまり1867年にマイケル・ファラデーが亡くなった。
彼の所属した小さな宗派にのっとって、身内だけの簡素な葬儀が執り行われたのであるが、そこにトーマス・グラハムの姿があった。
それから二年後には、彼も世を去る。
この特異な1869年にはメンデレーエフの元素表などやアンドリュースの臨界点等でも知られている。
さて本論へと戻すと、あのプランクが師に尋ねた「物理化学の研究展望」に対して、ヨリーは「君が選んだ分野は、既にあらかた仕上げられてしまって、新しい発見を期待させる余地など最早ないのだよ」、これが1874年のことであった。
その物理化学時代、そこに逆巻くイオニスト達、ファント・ホッフ、アレニウスそれにオストワルドらが「物理化学雑誌」を創刊したのは1887年であったのだが、その功罪などは、長い長いお話でもあり割愛するけれども、ここの文脈上少しふれておかなくてはならない。
Loebの伝記作家P・Poulyに言わせれば「形而上学てきにロマンを基盤として、ひどく有害な」Ostwald観がLoebの心象を、さらには科学においても軍国主義てき民族主義てきなロマンとみなさせた。」
例えば、そのキャッチコピー的な「The World of Neglected Dimensions;忘れられた次元の世界」(1914年)、等をもってアメリカ・カナダ大陸講演旅行を終えたのだが、コロイド観と言うよりは「Middle Europe」の自己防衛を主張するドイツと重なって思えてきたらしい。
時まさに戦時、ドイツ至上主義的なヨーロッパ統一観と映ったというわけだ。今で言うところのドナウ・ヨーロッパ、ウクライナとかハンガリー等などの諸国家を指しているのである。
アメリカのコロイドは“the dark age of biocolloidy”と表現された、この中世の比喩をもって語られてもいる。そこでLoebがターゲットとされた背景は割愛するが、一元論というよりもより正確には神がかり的な事件であった事は、オストワルド自らが科学を捨てて哲学者を選び取った一事をもってしてもわかるし、事実、彼の科学は全く行き詰まっていたと言って良い。
お陰で静謐さが破らたLoebが著した小著がある「生物学と戦争」、それは1917年の事となる。
ところで「ミハエリス教授と日本」との関係などに関して、あのダイヤグラムに落としてみれば、その苦難の時代にあってコロイド化学を生化学へと先駆けて導入に努めたその重要な働きを成し遂げたのだと再確認しておけるであろうか。
ここでメンテン女史に触れていおきたいけれども、よす。その名を残す1913年ころの「ミハエリスーメンテンの式」とは、酵素つまり触媒の反応速度に関して、今もその指標を授けてくれる。
ミハエリスとロナは数多くの論文を著したが、それらには血清アルブミンの等電点や吸着性、マルターゼやインベルターゼの作用、血糖やレシチンの化学、乳汁のカルシュウム定量などの多岐にわたるている。
1919年12月、ハンガリー人の青年がミハエリスの一部屋だけの研究室に水素イオン指数のことを学びにやってきた。
遍歴時代の二六歳、アルバート・セント=ジェルジであった。
生化学の泰斗的な存在であり、アクチンはシュトラウブの手柄とされている。ここで注意されるのはカルシュウムイオンとマグネシウムイオンの複雑な相関関係である。
ミハエリスをアメリカへと招待したのがLoebであったが、その夏休みの講演旅行を待たずして彼は帰らぬ人となった。
その頃の彼は親水コロイド・疎水コロイド等の膜電位(ドナン-ギブス)とか表面電位、拡散電位等に関心を抱いていたらしい。
その講演を済ませ、再びミハエリスはアメリカへと渡ることとなるのだが割愛しておこう。
ところで西川正治先生記念講演会において、江橋節朗が書き残した図は面白くもあり饒舌にも感じられる。
図-13「細胞内外の無機イオン分布を示す模式図」は、海島模様でその大海に、つまり塩素イオン、ナトリウムイオン、小さく書かれたカリイオンそれからカルシウムイオン、マグネシウムイオンを配し、その内側には小文字で塩素イオン、ナトリウムイオン、大文字でカリイオン、何故か消え入ったようなカルシウムイオンの痕跡、それからマグネシウムイオンが副えられている。
図-14「生命現象の基盤にある3つの柱」①(刺激)応答(狭義の機能)は[膜-無機イオン] ②ATPエネルギー代謝 [酵素-基質]最後に③自己再生(遺伝)[核酸-アミノ酸]
問題はカルシウムイオンである。それも③の自己再生産との関係を(?)で表しているのだ。
止まれ、最も肝要なのはアクチンの構造変化等を縷々と述べてきているのであるが、それが振り出しに戻ったとの認識を示した江橋は述懐する。
知識を持たない方が良いと言い放つのだ、その驚くような言葉遣いは多角的多面的な虚心を求めているものであろうか真意は不明である。
この言葉は何処かで聞いた覚えがある!!それが「コロイド化学 その新しい展開」(立花太郎など)にあった。
『・・・それにつけてもコロイド化学者に期待されるのは、コロイドとは何かを身をもって示してきた人たちが共通してもっていたnaturalistの精神と、既成の専門の枠にとらわれずに新しい対象を見出してきた一種のamateurismである。寺田寅彦は随筆「物理学圏外の物理的現象」の中で次のように述べている。・・・」
これを私は「しんかがく」つまり『膠学』と名づけておきたいけれども、そこの静謐さは難しと言える、革命なのだ。が、立花太郎の史観は参考となろうか。
現象論的段階⇒実体論的段階⇒構造論的段階⇒理論的段階
黙過のリアリティが問われている。
余滴 江橋の言葉であったと思われるが、無機と有機の戦い!
その一端を伺うには元素表へと落としてみると解る。
酸素、炭素、水素、窒素、カルシウム、リンの6種で98.5%、タンパク質・核酸・糖類・脂肪等はこれらだ。
残りの1%足らずを硫黄、カリ、ナトリウム、塩素、マグネシウム等11種類。その残り1%未満を超微量元素として鉄、フッ素、硫黄、亜鉛、銅等など更に必須微量元素とかコンタミ等など。
論より証拠。無機と有機の戦いは「一対のBA!!」
例えばコロイドに関する最初の論文が机の下に仕舞われてしまったのだが、それはリーゼガング現象を彷彿とさせたものであったけれども、それをかのプリゴジンの「構造・安定性・ゆらぎ―その熱力学的理論 」に使われている口絵を思い出させる。
つまりジャボチンスキー反応におけるようなものであるが、彼はそのような散逸構造でノーベル化学賞を授与された。
それは相対論と量子論に並び称さられるのが通例の評価である。
それから人工筋肉を作ってみたり、あのアクチンなどへと繋がっていく研究は兎から始まった。それは1953年という特異な年に期せずしてスタートしたとも言えよう。
翻って1949年は「コロイドの発見」等が刊行されたその年に湯川秀樹のノーベル賞が決まりその湯川記念館で、初の「国際理論物理学会議」を開催することとなった。
その1953年、巨大分子グループとも言えるフローリーやプリゴジンなどの5名が正座もならぬままに神妙な面持ちで、記念写真となった。
そればかりではなく、ワトソン・クリックによるDNA二重螺旋の発見や巨大分子のシュタウデンガーにノーベル化学賞が授与されもしたし、生命の起源の解明への一歩を進めたミラー等の成果は「ミクロコスモス」(L.マルグリス、D.セーガン)でも取り上げられ知られている。
もっともその講演旅行だけに限っても特記すべき事は多いけれども、若き大沢がフローリーを呼び込んだとも言える、名古屋における巨大分子の講演会は、妬みを買ったかもしれない。
それはともかくとしてその講演が戦後の復興に大いに貢献したとされ勲二等が授与されたのは他ならぬブリゴジンだけであろう。その事が何よりの自慢でもあるときく。
さて、ここで注目したいのはその様な事ではない。そこに自筆されている一言が謎めいていて、あれこれと妄想にかられて仕舞ったのだ。
それは、恰もアクチンの一分子観察を究めて見ても、何故か満たされないところのものが滲んでくるものとも読めるのだが、それが環境問題であろうとは推量に難くない。
けれども具体的には分からないと言っておく。
ヘルムホルツ層と言うよりも多分はアインシュタイン譲りの鑑識眼を持つシュテルン事であるからその論文ではあるまいかとは疑われる。
大沢を離れる前に付記しておきたいのは1998年であったかに再発見された「A-Oモデル」は疎水結合にも似て、重要な概念となる事が期待される。
さて生化学とか筋肉というべき領域はあの丸山義二の息子である、工作の「生化学の黄金時代」等であったろう、そこの図-7は印象に深く残った。
それは「ドイツにおける生理学と生理化学の正教授の変動」と題されて、年代と員数を書き込んだだけの簡単なものであるが、その生理化学の妙な歪を伴った推移は言葉だけでは表現できない何かを読者にも考えさせる、その工作とさえ思えた。
直感的にはファラデー・グラハム時代以降の問題と見て間違いなさそうだ。
ちょっと脇道へと逸れてしまうけれども粘菌等で知られる熊楠や漱石・子規等が生まれた維新前夜、つまり1867年にマイケル・ファラデーが亡くなった。
彼の所属した小さな宗派にのっとって、身内だけの簡素な葬儀が執り行われたのであるが、そこにトーマス・グラハムの姿があった。
それから二年後には、彼も世を去る。
この特異な1869年にはメンデレーエフの元素表などやアンドリュースの臨界点等でも知られている。
さて本論へと戻すと、あのプランクが師に尋ねた「物理化学の研究展望」に対して、ヨリーは「君が選んだ分野は、既にあらかた仕上げられてしまって、新しい発見を期待させる余地など最早ないのだよ」、これが1874年のことであった。
その物理化学時代、そこに逆巻くイオニスト達、ファント・ホッフ、アレニウスそれにオストワルドらが「物理化学雑誌」を創刊したのは1887年であったのだが、その功罪などは、長い長いお話でもあり割愛するけれども、ここの文脈上少しふれておかなくてはならない。
Loebの伝記作家P・Poulyに言わせれば「形而上学てきにロマンを基盤として、ひどく有害な」Ostwald観がLoebの心象を、さらには科学においても軍国主義てき民族主義てきなロマンとみなさせた。」
例えば、そのキャッチコピー的な「The World of Neglected Dimensions;忘れられた次元の世界」(1914年)、等をもってアメリカ・カナダ大陸講演旅行を終えたのだが、コロイド観と言うよりは「Middle Europe」の自己防衛を主張するドイツと重なって思えてきたらしい。
時まさに戦時、ドイツ至上主義的なヨーロッパ統一観と映ったというわけだ。今で言うところのドナウ・ヨーロッパ、ウクライナとかハンガリー等などの諸国家を指しているのである。
アメリカのコロイドは“the dark age of biocolloidy”と表現された、この中世の比喩をもって語られてもいる。そこでLoebがターゲットとされた背景は割愛するが、一元論というよりもより正確には神がかり的な事件であった事は、オストワルド自らが科学を捨てて哲学者を選び取った一事をもってしてもわかるし、事実、彼の科学は全く行き詰まっていたと言って良い。
お陰で静謐さが破らたLoebが著した小著がある「生物学と戦争」、それは1917年の事となる。
ところで「ミハエリス教授と日本」との関係などに関して、あのダイヤグラムに落としてみれば、その苦難の時代にあってコロイド化学を生化学へと先駆けて導入に努めたその重要な働きを成し遂げたのだと再確認しておけるであろうか。
ここでメンテン女史に触れていおきたいけれども、よす。その名を残す1913年ころの「ミハエリスーメンテンの式」とは、酵素つまり触媒の反応速度に関して、今もその指標を授けてくれる。
ミハエリスとロナは数多くの論文を著したが、それらには血清アルブミンの等電点や吸着性、マルターゼやインベルターゼの作用、血糖やレシチンの化学、乳汁のカルシュウム定量などの多岐にわたるている。
1919年12月、ハンガリー人の青年がミハエリスの一部屋だけの研究室に水素イオン指数のことを学びにやってきた。
遍歴時代の二六歳、アルバート・セント=ジェルジであった。
生化学の泰斗的な存在であり、アクチンはシュトラウブの手柄とされている。ここで注意されるのはカルシュウムイオンとマグネシウムイオンの複雑な相関関係である。
ミハエリスをアメリカへと招待したのがLoebであったが、その夏休みの講演旅行を待たずして彼は帰らぬ人となった。
その頃の彼は親水コロイド・疎水コロイド等の膜電位(ドナン-ギブス)とか表面電位、拡散電位等に関心を抱いていたらしい。
その講演を済ませ、再びミハエリスはアメリカへと渡ることとなるのだが割愛しておこう。
ところで西川正治先生記念講演会において、江橋節朗が書き残した図は面白くもあり饒舌にも感じられる。
図-13「細胞内外の無機イオン分布を示す模式図」は、海島模様でその大海に、つまり塩素イオン、ナトリウムイオン、小さく書かれたカリイオンそれからカルシウムイオン、マグネシウムイオンを配し、その内側には小文字で塩素イオン、ナトリウムイオン、大文字でカリイオン、何故か消え入ったようなカルシウムイオンの痕跡、それからマグネシウムイオンが副えられている。
図-14「生命現象の基盤にある3つの柱」①(刺激)応答(狭義の機能)は[膜-無機イオン] ②ATPエネルギー代謝 [酵素-基質]最後に③自己再生(遺伝)[核酸-アミノ酸]
問題はカルシウムイオンである。それも③の自己再生産との関係を(?)で表しているのだ。
止まれ、最も肝要なのはアクチンの構造変化等を縷々と述べてきているのであるが、それが振り出しに戻ったとの認識を示した江橋は述懐する。
知識を持たない方が良いと言い放つのだ、その驚くような言葉遣いは多角的多面的な虚心を求めているものであろうか真意は不明である。
この言葉は何処かで聞いた覚えがある!!それが「コロイド化学 その新しい展開」(立花太郎など)にあった。
『・・・それにつけてもコロイド化学者に期待されるのは、コロイドとは何かを身をもって示してきた人たちが共通してもっていたnaturalistの精神と、既成の専門の枠にとらわれずに新しい対象を見出してきた一種のamateurismである。寺田寅彦は随筆「物理学圏外の物理的現象」の中で次のように述べている。・・・」
これを私は「しんかがく」つまり『膠学』と名づけておきたいけれども、そこの静謐さは難しと言える、革命なのだ。が、立花太郎の史観は参考となろうか。
現象論的段階⇒実体論的段階⇒構造論的段階⇒理論的段階
黙過のリアリティが問われている。
余滴 江橋の言葉であったと思われるが、無機と有機の戦い!
その一端を伺うには元素表へと落としてみると解る。
酸素、炭素、水素、窒素、カルシウム、リンの6種で98.5%、タンパク質・核酸・糖類・脂肪等はこれらだ。
残りの1%足らずを硫黄、カリ、ナトリウム、塩素、マグネシウム等11種類。その残り1%未満を超微量元素として鉄、フッ素、硫黄、亜鉛、銅等など更に必須微量元素とかコンタミ等など。
論より証拠。無機と有機の戦いは「一対のBA!!」