脳の解剖学と病理学での中間期の進歩
18世紀と19世紀初期には、脳の内部での現象についての知識に関して、直接的な進歩はほとんどなかったが、脳の解剖学上のいくつかは、脳の機能を評価するうえでいちじるしく役に立った。
つまり、脊髄の前根と後根が運動と感覚の別々の作用をもっていることの発見は、脳が身体の活動を統合するものという考えを強めた。
さらに、脳の障害の正確な観察は、結果として生じる臨床上の症候と関係づけられて、病気によって傷つけられた部分の正常の機能を明らかにすることになった。
これらの進歩のいくつかをこれから簡単に考えてみることにしよう。これらは、いちだんと速くなりもっと目ざましい19世紀後半での進歩の先ぶれとなった。
神経の栄養、運動神経と感覚神経
アレキサンダー・モンロ2世Alexander Monro、1733-1817は、スコットランドの有名な解剖学者で、神経の栄養について、みごとな実験を行った。また、脊髄神経の後根の知覚神経と、脳で脳空間の孔(モンロの孔)を発見した。
彼はこの名の三人の医学的人物(父、子、孫)の第二番目の人で、彼らは順にエジンバラの解剖学と外科の教授(1719から1859年まで)を受け継いだ。
彼の「神経系の構造と機能に関する観察」という本は、エジンバラで1783年に出版され、その中には、神経学の実験の新しい方向が記述されている。
彼はカエルの一方の側の座骨神経切断して、傷のついていない反対の側の神経と対照として用いた。
これらの実験から、彼は、別けたところから末梢の方で何の変化もないので、だから栄養分は神経を下のほうへ通ってゆくことはないと誤った結論を下した。
当時利用可能であった顕微鏡を用いては、このような結論も驚くにあたらない。
事実、彼が利用できた光学装置を用いたものとしては、彼の顕微鏡的観察はまことに注目すべきものであった。図2は筋肉へ入りこんでゆく神経繊維を彼が描いたもので、「直径を146倍に拡大できる二重顕微鏡で観察され」ている。
モンロは、神経刺激の伝達には、神経を通しての液体の通過が必要でないことを、驚くべきほど明確に理解していた。
こうして彼はデカルトの理論を捨て去った。
彼は、また、栄養が神経に沿って通ってくるというウィリスやその他の人の考えとも意見を異にしていた。
赤い色素の洋アカネは、血液から若い動物の成長中の骨の中へ通過してゆくが、神経は同じようにはこの色素を血液から吸収することがないことをモンロは示した。
この観察事実と神経の切片についての結果とから、動脈が栄養を直接に準備し分泌するので、神経が栄養補給を果たすのではないと論理的に結論した。
アウグストス・ワラーの複雑なすばらしい研究の結果、この考えが修正されるのは70年後のことである。----結局のところウィリスの考えに立ちもどることになった。
脊髄神経の後根に神経筋をモンロが発見したことによって、彼の友人のスコット・チャールズ・ベルScot Charles Bell1774-1842が、1811年に、その神経節を通らない前根のほうだけが運動作用に関係していることの発見と、フランソア・マジャンデイー1783-1855による後根の知覚作用の最終的な証明への道を開いた。
事実、チャールズ・ベル卿は、1826年の弟への手紙で、「筋肉への二つの神経が必要で、一つは活動をひき起こすためのもの、他方はその活動の知覚を伝達するためのもので・・・・」、一方は「意志を先の方へ伝え・・・・」、他方は「その状況の感覚を内の方へ伝えて・・・・、脳と筋肉との間には循環が確立されていなければならない」と書いている。
19世紀の初めの頃までに、知覚と随意運動を相互に関係づけるうえでの脳の機能は、このように、十分に認められていた。
18世紀と19世紀初期には、脳の内部での現象についての知識に関して、直接的な進歩はほとんどなかったが、脳の解剖学上のいくつかは、脳の機能を評価するうえでいちじるしく役に立った。
つまり、脊髄の前根と後根が運動と感覚の別々の作用をもっていることの発見は、脳が身体の活動を統合するものという考えを強めた。
さらに、脳の障害の正確な観察は、結果として生じる臨床上の症候と関係づけられて、病気によって傷つけられた部分の正常の機能を明らかにすることになった。
これらの進歩のいくつかをこれから簡単に考えてみることにしよう。これらは、いちだんと速くなりもっと目ざましい19世紀後半での進歩の先ぶれとなった。
神経の栄養、運動神経と感覚神経
アレキサンダー・モンロ2世Alexander Monro、1733-1817は、スコットランドの有名な解剖学者で、神経の栄養について、みごとな実験を行った。また、脊髄神経の後根の知覚神経と、脳で脳空間の孔(モンロの孔)を発見した。
彼はこの名の三人の医学的人物(父、子、孫)の第二番目の人で、彼らは順にエジンバラの解剖学と外科の教授(1719から1859年まで)を受け継いだ。
彼の「神経系の構造と機能に関する観察」という本は、エジンバラで1783年に出版され、その中には、神経学の実験の新しい方向が記述されている。
彼はカエルの一方の側の座骨神経切断して、傷のついていない反対の側の神経と対照として用いた。
これらの実験から、彼は、別けたところから末梢の方で何の変化もないので、だから栄養分は神経を下のほうへ通ってゆくことはないと誤った結論を下した。
当時利用可能であった顕微鏡を用いては、このような結論も驚くにあたらない。
事実、彼が利用できた光学装置を用いたものとしては、彼の顕微鏡的観察はまことに注目すべきものであった。図2は筋肉へ入りこんでゆく神経繊維を彼が描いたもので、「直径を146倍に拡大できる二重顕微鏡で観察され」ている。
モンロは、神経刺激の伝達には、神経を通しての液体の通過が必要でないことを、驚くべきほど明確に理解していた。
こうして彼はデカルトの理論を捨て去った。
彼は、また、栄養が神経に沿って通ってくるというウィリスやその他の人の考えとも意見を異にしていた。
赤い色素の洋アカネは、血液から若い動物の成長中の骨の中へ通過してゆくが、神経は同じようにはこの色素を血液から吸収することがないことをモンロは示した。
この観察事実と神経の切片についての結果とから、動脈が栄養を直接に準備し分泌するので、神経が栄養補給を果たすのではないと論理的に結論した。
アウグストス・ワラーの複雑なすばらしい研究の結果、この考えが修正されるのは70年後のことである。----結局のところウィリスの考えに立ちもどることになった。
脊髄神経の後根に神経筋をモンロが発見したことによって、彼の友人のスコット・チャールズ・ベルScot Charles Bell1774-1842が、1811年に、その神経節を通らない前根のほうだけが運動作用に関係していることの発見と、フランソア・マジャンデイー1783-1855による後根の知覚作用の最終的な証明への道を開いた。
事実、チャールズ・ベル卿は、1826年の弟への手紙で、「筋肉への二つの神経が必要で、一つは活動をひき起こすためのもの、他方はその活動の知覚を伝達するためのもので・・・・」、一方は「意志を先の方へ伝え・・・・」、他方は「その状況の感覚を内の方へ伝えて・・・・、脳と筋肉との間には循環が確立されていなければならない」と書いている。
19世紀の初めの頃までに、知覚と随意運動を相互に関係づけるうえでの脳の機能は、このように、十分に認められていた。