鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

東山道相模路1

2010年08月09日 | 東山道~鎌倉
東山道相模路、、この名はこのブログ限定の名称です。
公的には存在を無視された、東山道武蔵路の武蔵国府より鎌倉までの東山道です。
鎌倉時代の古文書には「武蔵大路」の名で登場する路です。
しかし、「武蔵大路」の名は在っても 場所が不明瞭な為に存在を無視された中路幅の駅路です。
中路規格の路面9mは十分に大路と呼ばれても問題の無い幅です
鎌倉時代に作られた道幅は鎌倉周辺で3.3m程度で、それ以上の道幅は不要で、軍事的にも攻め込まれる危険等あり、鎌倉時代には広い道幅は作られなかった。
その様な広い道幅があるとすれば、平安時代かそれ以前の時代に作られた道と考えられます。
 東山道でも古代東海道でも、官路は何度かルートを変える事が実証されています。
ですから、この路が正規な駅路や官路とか、を考えるのは当たらない。
いつの時期に使われたかを問われるべきと思います。
言える事は、
古代初期の官路,駅路は道幅が広く直線的であった。
 
さて、、
この事を踏まえて、ぼ輔に衝撃的な情報が判明した。
それは、無視されている鎌倉街道の存在です。
太平洋戦争に遡る話ですが、
神奈川県横浜市瀬谷区に日本海軍が作った「海軍道路」と言うのが在ります。
直線が3kmある道路です。
東の上遺跡(※1)から、旧国鉄中央鉄道学園跡遺構(※2)に直線を引き、その延長を伸ばすと、、
この「海軍道路」の直線道路にノルのです。
それ以前の明治時代に横須賀港に水道を引こうと水道管を敷設した場所も、敷設した関係者に話を聞くと、以前に道路として使われた痕跡があると言う話が在り、実体を調べることも無く想定伝路の名前になった。
偶然の一致でしょうか?
 土地の接収のし易さ、土地の境であったり、青地と呼ばれた場所で地主とのトラブルの少ない場所を選定した結果ではなかったのか?
 
地図は、国土地理院 1/20万 東京 昭和59年発行
地図は長すぎて、前半と後半に分けます。
地図は、東の上遺跡から旧国鉄中央鉄道学園跡遺構を緑の直線ラインを引きました。
その延長は、画面の容量が表示目一杯で後半を次回に「海軍道路」まで表示します。
(※1)埼玉県所沢市久米
(※2)東京都国分寺市泉町2丁目
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