鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

大鎌倉城2

2012年09月04日 | 大鎌倉城
鎌倉城は巨大な構造と高度な工作をされた事を感じます。
巨大すぎて全容を語れる人は無く、語られた事は断片的です。組織だって全容を調べた事も無い様です。
有るのはピンポイントの発掘のみで、調べる人も無く、その実態は不明のまま都市開発されるのが現状です。
俗に言われる七口を巡る峰が防衛ラインとして作られた。っと大半の語り手は、それで鎌倉城の解説は終わりです。
そんな薄っぺらい防衛ラインなら、簡単に新田義貞は正面突破出来たでしょう。
七口の防衛ラインは、、城の本丸部分です。
実態は、防衛ラインから外部に張り出した峰の総てに戦う為の仕掛けが作られた面と幅のある城と私の目に見えるのです。
新田義貞を食い止めたのは、この峰の部分と考えています。
その城壁としての切岸を系統立てて調べないと、城の概要は浮かんでこないのですが、、
残念ながら、切通しや平場、堀切御猿畑の派手な切岸等が話題になり、城構造の全容を語る人は居ない。
、、そこらの山城の工作より質は高く、決して自然の要害ではなく、自然を高度に工作して要塞化した場所です。
問題は、その自然に手を加えた工作が半端でない事です。

写真は、小坪より名越切通しに向かう道の切岸(鎌倉城東の守り)。
昔は、報国寺までこの切岸は続いて居たと云われている。
その途中に御猿畑の大石切り場がありますが、、必要以上の高さの分が石切り場の跡なのでしょうね。
これは、石切り場で切岸ではない!なんて否定するお方も居られますが、、、
鎌倉では、切岸も石を切り出し作る場所が多々あります。
朝比奈切通も採石の跡がありますが、採石の痕跡がある=採石場と言う理屈は一面正しくても、全体には不合理です。


「大鎌倉城2」は、話の内容が脱線した為に「稲村崎成干潟事序」に変更し、代わりにこの大鎌倉城3を「2」に変更します。
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