鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

巨大鎌倉城

2020年03月07日 | Weblog
「鎌倉街道 を探そう!」            2010-01-11記
を御覧いただき、ありがとうございます。
鎌倉周辺には、奈良時代に作られたであろう巨大駅路の痕跡が有るはず!!

人は、古代の道跡を見ても、その現状を見て、??っと成る訳ですが、、
目前に見えるのは鎌倉街道と呼ばれる道であったり、家が縦列に立ち並んでいたり、畑であったり、自然に晒されて侵食された切り通し状の場所に細い道があったり、、、、、
その目前の景観から、千年前の古代の道を想像する事は難しい。
目前の景観の情報を基に、その隠された裏の見えない情報を重ね合わせなければ、古代道を想像する事はない。
古道跡の裏の情報が必須です。現状の周囲の地形から風雨に浸食された分を加味し、近代、江戸、戦国、鎌倉、平安時代に人工的に加えられたであろう地形を修正して、古代道の痕跡は浮かび上がる。

古代東海道は鎌倉城という大掛かりな地形改造が鎌倉時代に行なわれた!
巨大駅路は鎌倉市内に敵の侵入を楽にする不利な構造物でした!
防衛上、故意に巨大駅路を消滅する工作がなされたと考えられる。
その様なわけで駅路を考える時、鎌倉城を考えざるおえない。
しかし、、、
これだけ武家の鎌倉と行政が唱える反面、鎌倉城という全体像の資料は無いのです。
もし、その様な鎌倉城の資料を作ったら、、、鎌倉では、埋蔵文化財の上に建物を作る事になる。
宅地造成なんて、もっての他!  な訳でして 土地開発は出来ない。
鎌倉市全体が鎌倉城!!地方の山城を数十合わせた様な巨大な痕跡を私は想定している。
きっと、、一般的に言われているのは、切通の七口が城壁程度に考えられていると思います。
しかし、、ぼ輔の考える鎌倉城は、、、
七口の切通しは、鎌倉の都市を守る城壁!
本丸、二の丸、三の丸に相当するものは有るのでしょうか?
それは、江戸時代の城と言う考えで在り、鎌倉には通用しない。
そんな城壁としての切岸や、守る為の施設や攻撃の為の施設が有る筈です。
それは、その様なモノののでしょうか? その紹介が今やっている事です。

コメント
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