沖縄あれこれ情報ブログ

沖縄の文化、歴史をメインに沖縄あれこれ情報を発信するブログです。

ウチナー(沖縄)の世界遺産・識名園その2

2006年07月21日 22時15分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

さあ、前回に引き続き識名園です。

どうぞご覧ください。

庭園から御殿を望む↓

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それでは御殿の中に入ってみましょう。

下の写真は、かつて中国からの使者、冊封使を迎えた部屋の中です。

御殿の中には一番座、二番座、三番座、台所、茶の間、前(メー)の一番座、前(メー)の二番座など15の部屋があります。

ところでウチナーグチ(沖縄方言)では「前」のことを「メー」といい、「後ろ」のことを「クサー」といいます。

例えば、前に座りなさい→メーンカイイレー、後ろに下がりなさい→クサーンカイシーケー

といった感じですね。

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台所↓ 右側奥には大きなまな板が見えます。

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勝手口↓ このアングルからは素朴さあるいは懐かしさが伝わってきたので思わずシャッターを切ってしまいました。

ウチナー(沖縄)の原風景といった感じですね。

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駕籠屋(馬と人足の休憩所)↓ これも昔のウチナー(沖縄)ではよく見かけた風景です。

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御殿の裏側↓ 王家の別邸というよりも田舎のお屋敷という感じがしますね。

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離れの部屋↓ 茶屋のような感じです。                              

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かつてはこの池に小舟を浮かべて中国からの冊封使を接待しました。

当時の琉球にとって中国は最大で最良の貿易国であり、友好国でした。

中国が経済的にも文化的にも当時の琉球に大きな影響力を持っていたのがこの識名園にも現れています。

つまり、中国風の庭園を造ることによって冊封使を最大限に歓待したワケですね~

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舟揚場↓ 

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識名園は王家の別邸ということではありますが、実は中国からの冊封使を接待するための場という目的が大きかったようです。

それは首里城をメインとすればここはサブ的な役割を持っていたようです。

つまり何らかの理由で首里城では目立つ場合、ここが目立たない場所ということで活用されたということですね。

首里城からは徒歩でも30分位の距離ですから当時としても何かと便利な位置にあったワケです。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回は最終回です。

どうぞお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・識名園その1

2006年07月17日 17時07分34秒 | 日記・エッセイ・コラム

いや~、すっかりご無沙汰してしまいました。

しばらく基地シリーズが続いたので、趣を変えて久々の世界遺産シリーズとなります。

ウチナー(沖縄)の文化は基地あり、世界遺産ありと実にバラエティーに富んでいます。

そこがウチナー(沖縄)が他府県と違う所だと思いますし、特色だと思いますね。

前回までの世界遺産はセイファーウタキから始まって首里城までいきましたが今回は首里城の近くにある識名園です。

識名園全体図(首里城は下方に位置する)

↑南 ↓北 ←東 →西

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入口

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ところで識名園とはなんだと思いますか?

ウチナーグチ(沖縄方言)では「シチナウドゥン」といいます。

シチナ→識名、 ウドゥン→御殿 の意味ですね。

御殿というと?

そうです、実はここは琉球王家最大の別邸なんですね~

ここは18世紀終わり頃に造られて国王一家の保養、外国要人の接待に使われました。

外国要人とは主に冊封使(中国国王からの使者団)のことです。

ここは位置的に首里城の南側にあるため別名「南苑」→なんえんとも呼ばれました。

正門

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さあ、それではどんどん奥へ進んでいきましょう。

真夏だというのにここは日差しが柔らかく涼しい風がそよぎ、驚くほど快適な環境です。

さすが王家別邸の名にふさわしい地です。

騒々しい那覇市内にあるというのに、ここだけは喧噪を感じさせないまさしく別世界といった感じですね。 不思議な感覚です・・・・・・・・・・・・・

御殿に至る歩道

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番屋(見張り番の詰め所)    育徳泉(井戸)

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御殿              

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廻遊式庭園

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識名園は廻遊式庭園といって池の周りを歩きながら景色の移り変わりを楽しむスタイルとなっており、池の中には中国風東屋の「六角堂」やアーチ橋が配置されています。

そして池の周りは琉球石灰岩が積まれているのです。

つまり、ここは日本庭園ではなくあくまでも琉球と中国の折衷型庭園なんですね~

御殿正面                           

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六角堂                アーチ橋          

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識名園の敷地面積は41,997平方m(約12,726坪)であり、建物の面積は643平方m(約195坪)あります。

建物の面積に比較して敷地面積がなんと65倍にもなります。

この狭いウチナー(沖縄)の地においてこれこそ王家別邸の名にふさわしいスケールとなっているワケですね・・・・・・・・・・・・

当時の識名園は第二次大戦で破壊されましたが1975年から約20年の歳月をかけて当時の姿を復活させました。

その後、2000年12月2日に世界遺産に登録され現在に至っています。

首里城からタクシーで約10分程の距離ですが、意外と知られていないかも知れませんね?

いわばここはもうひとつの琉球王国の証しなんです。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました次回も引き続き識名園です。

お楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


極東最大の基地そして安保の丘

2006年07月01日 23時49分45秒 | 日記・エッセイ・コラム

さて、ここはどこだと思いますか?

南北に広がる平地↓

(写真の上段は北部方面で下段は東シナ海方面)

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これこそ極東最大の空軍基地といわれる在沖アメリカ空軍・嘉手納基地です。

ここには全長3689メートルの滑走路が2本横たわっています。

ここはアジア最強の空軍基地といわれており、太平洋地域におけるキーストーン(要石)といわれているんですね~

そしてここには世界最強の制空戦闘機といわれるF15戦闘機が48機配備されているのです。

なにしろここはアメリカの国益に絡む朝鮮半島、中国、台湾に近く、かつ中近東にもアクセスが容易なため不沈空母といわしめているワケですね~

アメリカにとっての嘉手納基地は朝鮮半島およびアジア太平洋地域をカバーする中核的な戦略基地であり将来的にも手離せないまさしく 太平洋のキーストーン(要石)なんです。

その意味は嘉手納基地がというよりも正確には沖縄本島そのものが不沈空母ということかも知れません・・・・・・・

嘉手納基地の滑走路では常時、警備兵が目を光らせており飛行場内に不審者、不審車両を見つけるとすぐさまM16ライフル銃?を携帯した兵士が軍用ジープで駆けつけます。

アジア最強の空軍基地は厳重な警戒区域でもあるワケですね。

嘉手納基地空撮写真 (右上:北、左下:東シナ海)↓

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ここでは日常的に、訓練が行われているワケですがおそらく世界最強のF15戦闘機の発着訓練を目の前でみることができるのは全国でもここだけかもしれません。

ここは嘉手納基地のすぐそばにある道の駅「かでな」ですが屋上に展望台があります。 

道の駅「かでな」

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展望台

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展望台のショップ

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何を隠そう、 冒頭の展開写真は実はここから撮影したものなんですよ~

この施設は最近できたばかりであり、それまでは「安保の丘」という小高い丘が唯一嘉手納基地を展望できる場所だったのです。

現在の安保の丘は今でこそ擁壁が築かれて立派になっていますが以前は自然の丘であり何の変哲もない場所でした。

安保の丘は別名「安保の見える丘」ともよばれています。

安保の丘↓

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つまり、日本は第二次大戦の敗戦により日米安全保障条約が結ばれた結果、これらの基地が存在するワケで、戦略基地である嘉手納基地の中が見渡せることからこう呼ばれるようになったというワケですね。

皆さん機会があれば是非こちらへきて日米安保の現場をご覧になってください。

あっ、それからひとつ意外なことを話しますが世界最強のF15戦闘機はここではスクランブル(緊急発進)はしないのですよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

何故でしょうか?????

それは、あくまでもここは日本であり日本の安全は航空自衛隊が守ることになっているからです。

ですから万一、敵機が沖縄の空に不法侵入してきた場合は嘉手納基地ではなく那覇空港にある那覇基地から航空自衛隊機がスクランブルするワケです。

なんとなく敵機侵入の際は嘉手納基地のF15戦闘機がスクランブルするものという先入感があると思いますが実はそうではないのですね。

そしてもうひとつ意外な事実を話しますと前回の普天間基地が宜野湾市の面積の33%を占めていましたがここではなんと嘉手納町の面積の83%を占めているのです!!!

全国の米軍基地の75%が沖縄に集中する中でとりわけ嘉手納基地が町の面積の83%を占めるという事実は一体なにを物語っているのでしょうか???

そこにはまさしく戦略基地、不沈空母の意味が隠されているとは思いませんか???

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


沖縄戦終結・慰霊の日

2006年06月24日 00時14分30秒 | 日記・エッセイ・コラム

6月23日は慰霊の日です。

61年前の6月23日に当時の牛島司令官と長参謀長が平和記念公園内の摩文仁の丘で自決しており事実上の沖縄戦が終結したといわれているワケです。

正式には7月2日に米軍側が沖縄作戦終結宣言をしました。

その後、8月6日に広島へ原爆が投下され、さらにその3日後の8月9日に長崎へ原爆が投下されました。

そして8月15日に天皇陛下の玉音放送があり、9月2日にミズーリ号船上で降伏文書への調印がなされました。

こうして第2次大戦は沖縄、広島、長崎に大きな犠牲を払って終結したワケですがなんという悲惨で残酷な結果でしょうか・・・・・・・・・・・・・・心が痛みます。。。

数年前に初めて広島の原爆記念館に行った時はあまりの悲惨さに涙が出て止まりませんでした・・・・・・・・・・(沖縄戦とラップしてしまった)

沖縄戦の終結から61年が過ぎておりますが沖縄戦での犠牲者の霊を慰めるために毎年行われるのが慰霊の日なんですね。

これは国内では公式行事となっており事実、小泉首相は3年連続の出席となっております。

小泉首相以外にも国内の首脳陣が続々と出席されます。

これはウチナー(沖縄)独自の公休日であり、県庁、各市町村、学校関係は休みであり正午の時報と共に一斉に黙祷を捧げます。

これは沖縄独自の公休日ゆえ、地方公務員ではない国家公務員は通常通りの勤務となるようです。

そして民間企業も殆どが通常の勤務です。(休みの企業も一部ある)

・・・・・・・・・・しかし、なんか変ですよね~

ムードとしては公休日であって公休日でないといった感じですかね。

年に1回、慰霊の日だけに灯るトーチ↓

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会場となる平和記念公園                       

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出席者             小泉首相     

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平和の礎(いしじ)

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この平和の礎には沖縄戦で亡くなった日本人、外国人を合わせて239千人余の犠牲者の氏名が刻銘されています。

つまり、国籍を問わずですね・・・・・・・・・・・・

ですから遠く外国から出席される遺族の方々もおられるワケです。

そういう意味では一地方の行事というよりも国際的な行事の側面もあるかもしれませんね?

外国人犠牲者の国籍もアメリカ、イギリス、韓国・・・・・・と多彩です。

そして礎(いしじ)に我が愛する人の名前を見つけて涙する姿は胸を打ちます。

哀しみに国境はありません。

かつては敵味方で戦った当時の人達もここでは単なる一個の人間でしかありません。

国境を問わず刻銘されていることに対して外国人の方々の評価は高いようです。

そこにウチナーンチュ(沖縄人)の他人に対する分け隔てのない優しさがあるかもしれませんね。

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慰霊の日にはこの方向から日の出が拝めますが実は平和の礎の入口から先程のトーチを結ぶ線上の延長線がこの日の出に一致するようにレイアウトされているのです。

今でこそ平和な公園となっておりますが戦時中はこの崖から多くの犠牲者が身を投げました。

せめて年1回の慰霊の日に犠牲者の御霊を慰めることが今こうして平和を享受している者達の義務かもしれません・・・・・・・・・・・・・合掌

そろそろ紙面が尽きてきました。

今回は慰霊の日特別記事でした。

次回をお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


普天間基地

2006年06月16日 21時02分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

ここはウチナー(沖縄)の中部に位置する宜野湾市の公園ですが、前方に何やらUFO(未確認飛行物体)らしきものが見えます。

ちょっと興味が湧いてきますね~

さあ、それでは近づいて見ましょう・・・・・・・・・・

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これが入口です。

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お~、見えました!

階段の向こうにUFO?らしきものが・・・・・・

この階段はなんと120段もあって、おまけに結構きつい勾配ときています。

なんとか息切れしながらも昇ってみましょう・・・

しかしこれはいかにも昔流行ったテレビドラマのスポーツ根性物語にでてきそうな急勾配で長い階段ですね。(地獄の特訓?)

さて階段を昇りつめると・・・・・・・・・

そこには・・・・・・

ありました!

あのUFOが????                             

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しかしUFOにしてはちょっと変ですね~

実はこれ、展望台なんです・・・・・・・

ここは嘉数高台といって海抜100m余りに位置する格好の展望台であり、かつては第二次大戦中の激戦地だった所です。

作戦名称を第70高地と命名され自然の要塞に堅固な陣地であったため当時の米軍からは「死の罠」あるいは「忌まわしい丘」として恐れられた永代に残る歴史的な地なんですね~

そしてここはかつての日露戦争の203高地に匹敵するほどの戦跡でもあるんです。

さて、先程の展望台は地球をイメージしたものですが、展望台の先には一体何が見えるのでしょうか?

それは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

住宅街の前方に広がる平地                       

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実は住宅街の前方に広がる平地は近接する沖縄国際大学構内へのヘリコプター墜落事故で名を馳せた?

米軍海兵隊の普天間基地なんです。

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普天間飛行場全景

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市街地の真ん中の白抜き部分が普天間飛行場

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嘉数高台は左下で沖縄国際大学はその右側にある↓

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宜野湾市の総面積に対する 基地面積は33%を占める

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ご覧のように普天間基地はまさしく住宅街のど真ん中に位置する極めて危険な飛行場を有する基地なんですね。

米軍海兵隊には3つの航空団がありその内、普天間基地はヘリコプター部隊の拠点として位置付けられており有事の際には米本国から派遣される300機の航空機を収容する能力を持っています。

攻撃型ヘリコプターで有名な通称「コブラ」はここを拠点としているんですよ~

湾岸戦争においてはイラク軍から「スキニーバード(骨だらけの鳥)」として恐れられたのは有名です。

実はこれはベトナム戦争のゲリラ戦のために開発された攻撃ヘリであり細身のボディーでビルや樹木の陰から突然に敵を襲うことから「コブラ」と命名されました。

映画でも「コブラ」として上映されたのは記憶に新しいかと思います。

さて、普天間基地を眼下に見下ろす嘉数高台にはこういうものが残されていました。

トーチカ

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これは、かつての日本軍が米軍を苦しめた遺産ですが今では残骸として寂しく風雨にさらされています。

大戦終了時にはこの一帯は戦火のため一本の樹木もなく焦土と化していたそうですが、ものいわぬトーチカは普天間基地を眼下に見下ろして何かを訴えているような気がします。

1996年に当時の橋本首相が普天間基地の返還を公式発表してから早10年が過ぎました。

しかし、返還予定の2003年を過ぎた今でも代替基地の問題で返還が凍結されています。

この先、返還までにはかなりの時間がかかりそうですが嘉数高台から見下ろす風景が変わるのは果たして何年後でしょうか?

ものいわぬトーチカを見ていると何故か侘びしさがこみ上げてきます・・・・・・

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


海神祭・ハーリー(爬龍船競争)

2006年06月07日 11時38分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

昨日(6月6日)は中国の暦で二四節季の中の「芒種」でした。

ウチナー(沖縄)の、この時季はちょうど梅雨の真っ最中であり、梅雨明けは例年ですと6月23日(慰霊の日)頃となります。

ところで「芒種」のことをウチナーグチ(沖縄方言)では小満芒種と書いてスーマンボースーといいます。

この意味は→小満(草木が生い茂る時季) + 芒種(種まきの時季) となります。

ことしの梅雨は活発な梅雨前線が張り出しているためどうやらしばらくは雨続きのようですね。

さて、この時期はハーリー(爬龍船競争)の季節でもあり、毎年旧暦の5月4日に各地のウミンチュ(漁師)の町で開催されます。

そして、ハーリーのことを海神祭といいます。

つまりこれは豊漁と航海の安全を海の神様に願うウミンチュ(漁師)の行事なんですね。

それから5月4日のことをウチナーグチ(沖縄方言)ではユッカヌヒー(4日の日)といいますが、もともとは男子のお祭りの日であり、昔は年に一度おもちゃを買い与えたそうです。

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トーナメント表

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←競争に使われるサバニ(クリ船)

この日はあいにくの雨ですが昔から雨天決行がハーリーの伝統となっています。               

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出走

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ハーリー競争                             24560009_4

 選手交代               こども選手     24560014_824560013_7

選手控えテント                 24560025_324560020_4        

出店

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ハーリーは15世紀初めに中国から伝えられたといわれています。

そしてその由来はそもそも人命救助のために舟をだしたのが初めといわれているんですよ~

15世紀に中国から伝えられたハーリーがしっかりと現在までウチナーの伝統文化として受け継がれているワケですが、人命救助が由来だとすればこれは素晴らしいことですよね。

さすが、海洋王国琉球といったところですかね・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


沖縄本島最南端の知られざる史跡

2006年06月01日 01時42分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

ウチナー(沖縄)には世界遺産が9ヶ所ありますが、そのどれにも登録されていない知られざる史跡があります。

それでは、行って見ましょう。                                           

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ここは沖縄本島の最南端に位置する糸満市の静かな農村地帯です。

標識をまっすぐ行くと具志川城跡、左へ行くと喜屋武岬にたどり着きますが、

どちらも海に向かっており、行き止まりです。

それでは最初に具志川城跡に向かいます。

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ここが入口で、自然石のアプローチが奥に続きます。

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どんどん奥へ行くと一挙に視界が開け、その前方には小高い石垣が左右にありますが、これが城門です。

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下の写真は上2枚が東シナ海側でその下2枚が太平洋側となります。

そうです、ここは最南端に位置するために一度に東シナ海と太平洋が一望できる絶妙なロケーションとなっているワケですね~

東シナ海側

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太平洋側

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東シナ海と太平洋の中間方向                   

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城壁

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具志川城跡は久米島(離島)の具志川城主であった真金声按司(マカネクイアジ)が伊敷索按司(イシキナワアジ)の次男である真仁樽(マニクタル)に攻められて落城し、久米島から逃れてこの場所にその名も同じ具志川城として15世紀以降に築城されたようです。

ここで、按司(アジ)とは12世紀頃より現れた地域の支配者であり、その後は琉球王国の親族のことをこう呼ぶようになったということです。

そしてもともとは主(あるじ)が語源となったようですね。(あるじ→アジ)

さて、この城は喜屋武岬の先端に建てられた断崖絶壁の海城(ウミグスク)であり、国指定の史跡となっています。

二の丸は海に通ずる穴があり、本丸は海に突き出ているというまさしく自然を活かした城塞となっているんですね~

おそらくここを拠点に中国との貿易が盛んに行われたものと思われます。

まさに海洋王国琉球を彷彿とさせるロマンが広がりますよね~

さて、それでは先ほどの標識へ戻って今度は喜屋武岬へ行って見ましょう。

沖縄戦跡国定公園

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上の写真は太平洋側となっています。

当時の琉球人達はこの海を眺めその向こうに続く異国の地に想いを馳せてロマンをたぎらせていたのかも知れません・・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


巨大な鳥かご、そしてエイトマン

2006年05月27日 23時00分21秒 | 日記・エッセイ・コラム

こちらはウチナー(沖縄)の南部にある埋立地です。

そこで珍しいものを見つけました。

これです。

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なにやら巨大な鳥かごのような建物が見えます。

何でしょうか?

もっと近づいて見ますね。

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実はこれは糸満市の新庁舎なんです。

そして鳥かごのように見える外観は地方自治体としては最大級の195.6kw太陽光発電システムの太陽電池だったというワケです。

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屋根部分と南側壁面を覆っているのが太陽電池であり、庁舎で使用する電力量の12%を発電し、冷房エネルギーのなんと25%を削減しているのです。

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屋根と南面に太陽電池とセットにしたルーバーによってウチナー(沖縄)の強い日差しを和らげる仕組みとなっており風雨からも守っているワケですね~

この南面の軒下部分をウチナーグチ(沖縄方言)で「アマハジ」といいます。

あっ、それから太陽のことをウチナーグチでは「ティーダ」といいます。

そして太陽が照りつけること、つまり日差しが強いことを「ティーダカンカン」というんですよ~

この言葉の響きがなんともいえませんね・・・・・・・「ティーダカンカン」

夏の暑い日に昔の母親が子供に対してよくいった言葉は

「ティーダカンカン、ソーグトゥ、ボーシカンティ、イキヨー」

これはつまり

「日差しが強いから帽子をかぶって行きなさい」

という意味ですね。

日差しの強さがこの「ティーダカンカン」という言葉で表音文字的に伝わってくると思いませんか?

方言ってホント、いいですね~

標準語では表せない味がありますよね・・・・・・・・・・・

さて、庁舎の正面(北側)はこうなっています。

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この一帯は埋立地であり、新興住宅地域でもあります。

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糸満市は昔からウミンチュ(海人→漁師)の町であり、ハーリー(爬龍船競争)の盛んな地域であります。

毎年5月末、つまり梅雨明け頃にハーリーは開催されます。

ハーリー鉦が鳴るとウチナーの梅雨が明けると、昔から伝えられているんですね~

この糸満という地名の由来は昔、台風の嵐の海で外国船が遭難した時に自らの命もかえりみずに8人のウミンチュ(漁師)がクリ船を出して救助に出かけたそうです。

その時の8人のウミンチュの勇気を讃えて「8人の男」→「エイトマン」→「糸満」という地名になったという伝説がありますが真偽の程は定かではありません???

しかしそういう伝説ができるくらい、この地域のウミンチュは勇敢だったということですね。

昔の糸満漁師はクリ船ひとつで世界の海をまたにかけて遠洋漁業にいったということですからあながち伝説だけではないのかもしれませんね・・・・・・・・

さて、次回は糸満市の知られざる史跡をご紹介します。

お楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)のリサイクル工芸

2006年05月22日 22時48分47秒 | 日記・エッセイ・コラム

ウチナー(沖縄)には紅型、陶芸、漆器など数多くの伝統工芸がありますが、それらの中で最も歴史が浅い伝統工芸はなんだと思いますか?

それはこれです。

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これは県内に16ヶ所あるガラス工房の中のひとつです。

そもそもウチナー(沖縄)にガラス工芸が生まれたのは明治の中期であり、現在に至るまで、まだ100年程度の歴史なんですね~

ところで皆さん、ガラス工芸が琉球ガラスとして今日まで発展してきたのは何故だと思いますか?

それは・・・・・・・・・

なんと米軍がウチナー(沖縄)に駐留したことが大きな要因だったのです。

当時のガラス原料は米軍施設から大量に廃棄されるアメリカ製のコーラ瓶やビール瓶などが主流であり、当時のウチナーンチュは既に今でいうリサイクル産業の先端を走っていたワケですね。

もちろん、ガラス製品の供給先もなんとその60%を米国に輸出していたのです。

残りの40%が本土と県内に供給されていたワケですが、

復帰前当時は圧倒的に駐留米軍人軍属が購入していたということですね~

つまり、当時のウチナーンチュ(沖縄人)は米国産のリサイクルガラス瓶に命を吹き込み立派なガラス製品にして再び米国へ供給還元してきたワケです。

当然、それらの製品もアメリカ人好みのもの がどんどん作られていたワケですね。

ウチナーンチュのたくましさがビンビン(瓶瓶のシャレ?)伝わってくると思いませんか?

ちなみにウチナーグチ(沖縄方言)では「どんどん」とか「もっと」というのを「バンナイ」あるいは「ビンナイ」といいます。

さあ、それではさっそく製品をご覧ください。

店内の様子            スタンド

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水差し、コップ

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ビールジョッキ           置物

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風鈴                    置物                                      

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皆さん、琉球ガラス工芸は何を隠そう、実はアメリカとウチナーのチャンプルー文化だったというワケです・・・・・・・・・

もちろん、原料はアメリカ製だけど命を吹き込んだのは紛れもないウチナーンチュ(沖縄人)だったワケですね。。。

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の平和通り

2006年05月13日 20時38分30秒 | 日記・エッセイ・コラム

さて、前回に引き続き平和通りです。

ここは平和通りの一角にある食堂ですが花笠食堂というところがありました。

花笠とは歓迎式典などの華やかな席で琉球舞踊を踊る際の衣装のひとつで女性が頭にかぶるきらびやかな王冠?のようなものです。

さてメニューを覗いて見ると、ありました! ミミガー(ブタ耳の皮)、ラフティ(ブタ肉の角煮)、テビチ定食(豚足)、ポーク定食(ブタ肉加工の缶詰)・・・・・・・

そして、ブタ肉料理以外にはソーメン汁、ソーメンチャンプルー、ゴーヤチャンプルー、トーフチャンプルー、ナスミソ定食・・・・・・・・・

平和通りの食堂、 カレーうどん、ミミガー、ラフティ

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ポーク定食、ソーメン汁、ソーメンチャンプルー                24560016_3 24560013_6                

ゴーヤーチャンプルー、トーフチャンプルー

テビチ定食、ナスミソ定食

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これらの中で本土にもある共通メニューはカレーうどんにナスミソ定食くらいのものでしょうか?

さて、チャンプルーとはウチナーグチ(沖縄方言)でごちゃまぜのことですが料理の場合は炒めものを指します。

特にトーフを主体に混ぜ合わせる炒めものをチャンプルーといいます。

ある料理専門家にいわせれば厳密にはトーフが入っているのをチャンプルーというのだそうですが実際は必ずしもそうはなってないようですね。

ところでこれはなんだと思いますか?

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これはナーベーラーチャンプルーといいます。

これはナーベーラー、とうふ、ポークをミソでチャンプルーにして炒めたものです。

これこそ隠れた典型的ウチナー料理かもしれませんね。

ところでナーベーラーとは?  

それは → なんと、ヘチマのことなんですね~ 

ヘチマって、あの体を洗う、あれ?

そうです! まさしく、アカスリに使うヘチマです。

本土では食用には使わないそうですがウチナー(沖縄)では立派な食用野菜なんですね~

しかもこれは食堂でも家庭でも結構、人気メニューなんです!

本土の人が聞いたらビックリするでしょうね?

いくらなんでもアカスリが料理の人気メニューとは・・・・・・・・・・・・・・・

ところ変わればなんとやらでこういうところにもウチナー(沖縄)の独自性が発揮?されているワケですね。

あと、面白い食材にこんなのがありました。

人面タコ?             鳥ナス?

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とにかくウチナー(沖縄)のマチグアー(市場)には思いがけない発見の連続があって面白いし、楽しいです!

そこには着飾らない庶民の生活の場面が日々展開されています。

何を隠そう、この地域は実は終戦後間もない頃は闇市だったのですよ~

闇市からスタートして自然発生的に現在の商店街に発展しきたワケですね。

どおりで生活感溢れるたくましい通りなんですね・・・・・・・・・

喧噪の中にもかかわらず、そこにいるだけでホットするのはなぜでしょうか?

それは東京の下町にも相通じるものがあるからでしょうね・・・・・・・

みなさん、ぜひ東京上野のアメ横と平和通りを比較体験してみてください。

そこにはきっと思わぬ発見が・・・・・・・・・・・・・・・

平和通りの雑貨店     平和通りの路地裏(桜坂)

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さあ、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)のアメ横

2006年05月07日 00時30分33秒 | 日記・エッセイ・コラム

前回はウチナーのブタ食文化についての記事でしたが、それに関連してウチナーのアメ横といわれる通りを紹介しますね。

アメ横って?

そう、東京上野のアメ屋横町のことです。

あの雑多な横町の庶民的な雰囲気がそっくりなんです・・・・・

それは平和通りといわれる一角ですが、この通りはウチナー最大のメインストリートといわれる国際通りのほぼ中間地点より分岐する商店街のことです。

正確にいうと国際通りから3本の通りが平行してT字型に分岐しており、それぞれ平和通り、むつみ通り、市場本通りという商店街で形成されます。

国際通りの那覇タワー24560029_4 24560028_3                

沖縄三越          24560023_1   24560001_4   三越前の平和通り入口

国際通りはその名のとおり国際色豊かな通りであり、駐留米軍人、軍属を中心にそれ以外の外国人の姿も数多く見ることができます。

雰囲気も日本であって日本ではないまるで東南アジアのような場所なんですよ~

戦後復興間もなく急速に発展したため奇跡の1マイル(約1.6km)といわれる由縁です。

さあ、それでは三越前から平和通りへ入ってみましょう。

平和通り

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むつみ通り         24560011_5      市場本通り         

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公設市場入口

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市場のことをウチナーグチ(沖縄方言)ではマチグワーといいます。

その名のとおり食料品から衣料品、雑貨など、ありとあらゆるものが売られているんですよ~

ちなみに、マチグワーに良く似た言葉でマチヤグワーとは商店とか雑貨店のことをいいます。

とにかくここは限りなく東南アジアに近い雰囲気なんですね~

ウチナー(沖縄)が亜熱帯地域であることを肌で感じることができるトロピカルゾーンなんですよ。

さあ、いよいよ市場の中に入ってみましょう。

精肉店

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ドキッ!

これこそ前回紹介したブタの頭です・・・・・・・・・

どうですか?

これはちゃんとした売り物ですよ。                 

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それからこれがチラガー(ツラの皮)と豚足です。24560008_5        

そしてこれはサングラスをかけたブタです・・・・・・・・・

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いずれも生々しいですよね~

心臓の弱い人にはちょっと刺激的でしたかね~

ショックを与えてすみません・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、こういうのもあります。

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これこそ珊瑚礁の海で獲れた極彩色の熱帯魚たちです。

魚汁にしても良し、刺身にしても良し、フライにしても良し、とにかくウチナー独特の味が楽しめること受けあいです。

トロピカルな海からはトロピカルな魚が生まれるんですね~

食べるのがもったいない???

さて、まだまだ紹介したいものはあるのですが、そろそろ紙面が尽きてきました。

ということで次回までお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)のブタ食文化

2006年04月30日 20時28分19秒 | 日記・エッセイ・コラム

いや~すっかり、ご無沙汰してしまいました。

今月は仕事が多忙で気がついたら明日から5月といった感じです。

4月のウチナー(沖縄)はシーミー(清明祭)の月ですがそれも今日で終わりです。

しかし、基本的にはそうですがゴールデンウイーク期間中にシーミーを行う家庭も実はあるんですよ~

つまりシーミーとゴールデンウイークをミックスして墓前でピクニックということですね。

これこそウチナー風合理性というべきか???

いずれにしても他府県では味わえない文化ですよね~

ところでウチナー(沖縄)では法事のことをウスーコー(御焼香)あるいはスーコー(焼香)といいます。

一般的にはスーコーは初七日から始まって四九日、百カ日、一年、三年、七年、一三年、二五年、三三回忌となります。

さて、このスーコーに欠かせないものがありますがなんだと思いますか?

これです。

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えっ?・・・・・・・・・・・・・・・・・

豚?

そう、ブタです。

ブタのことをウチナーグチ(沖縄方言)ではワー(正確にはウワー)といいます。

ウチナー(沖縄)ではブタは鳴き声以外はすべて食べてしまうといわれています。

それこそ頭の先からシッポまでですね。

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昔からブタの丸焼きは特に三三回忌の時に供えてきたようですが時代の流れと共に丸焼き→頭とシッポ→皮付き肉(三枚肉)と簡素化されてきました。

しかし、現在でも頭はチラガー(ツラの皮→頭)といって頭の部分を皮だけ剥がしたものを供えます。

ちょうどブタのかぶり面をイメージしてください。

耳の部分はミミガー(耳の皮)といって千切りにしたものを生でキュウリと和えて酢みそ風味付けで食します。

見た目にはそれがブタの耳だとはとうてい思えませんよ、これが。

コリコリしてさっぱりとした味であり珍味です。(耳の軟骨がコリコリしている)

これを何もいわないでヤマトンチュ(本土の人)に食べさせるとほとんど例外なくおいしい、おいしいといって食べます。

そうやって食べ終わる頃にブタの耳だよというと、そのリアクションが千差万別で面白いのです。

しかし一般的にはファンになる人が多いですね。

ウチナー(沖縄)の長寿県にはブタの食文化が大いに関係しているそうですよ。

つまり、鳴き声以外はすべて食するところにそのヒントがあるようです。

ブタに限らず食べ物で特に動物や魚介類は丸ごといただくのが健康にいいみたいです。

例えばエビのシッポには解毒作用があるからシッポも食べると食あたりしないとか・・・・・

ところでウチナー(沖縄)にブタの食文化が栄えたのはなぜだと思いますか?

それは遠い昔の琉球王国時代、特に中国から訪問する使節団をもてなすためにブタの頭からシッポ、はては内臓に至るまでの多彩な料理方法が発達したのですよ~

つまり外国からの訪問客をもてなすために発達したのが現在に至るまでのウチナー(沖縄)のブタ食文化だったワケです。

どおりで、奥が深いワケです・・・・・・・・・(捨てるのは鳴き声だけ)

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回までお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


シーミー(清明祭)

2006年04月12日 13時13分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

新年度です!

4月のこの時期は本土では花見のシーズンですが、こちらウチナー(沖縄)ではシーミー(清明祭)といって各家庭でお墓参りをします。

シーミー(清明祭)とは今から約200年前に中国から伝えられた伝統行事であり、中国の暦の24節季である清明からきているんですよ~

これはつまり新春の清々しいこの時期に家族・親族でお墓参りをすることにより先祖の霊を慰める行事なワケですね~

毎年旧暦の3月(新暦4月)になると週末の土日はシーミー(清明祭)を行う人達であちこちの墓地は賑わいます。

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単に、お墓参りといっても本土のそれとはいささかイメージが違い、その様子はまるでピクニックです。

先祖が眠るお墓の真ん前で飲食を楽しみ家族あるいは親族同士が語り合います。

ヤマトンチュ(本土の人)が見たらビックリですよね~

なんせ、普段は誰もいないお墓の前に忽然としてビーチパラソルあるいはテントが開いてしかもその下にはごちそうが並べられ、和気あいあいとピクニック?を楽しんでいるワケですから・・・・・・・・

ちなみに中国ではお墓の前で飲食をすることはないようですね。

つまり、当時のウチナーンチュ(沖縄人)が中国から伝えられた伝統行事を独自の文化に創りあげたのが沖縄版清明祭ということなんですね~

いわゆる、チャンプルー(ごちゃまぜ)文化の一例といえるでしょうね。

↓これはその際の弁当のほんの一部です。

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これ以外には豚料理もありますし、かまぼこ、コンブ、サラダ、デザート・・・・・その他なんでもありです。

飲み物としてはビール、泡盛、コーラ、ジュース、・・・・・・・・これまたなんでもありですね~

なんだか楽しくなってきますよね。

そしてこれはなんだと思いますか?

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なにやら黄色い紙を燃やしていますが、これはウチカビ(打ち紙)といって実はあの世のお金なんですよ~

右側の写真は泡盛をかけて火を消しているところです。

さて、あの世にホントにお金が必要なのかどうか?

それはあの世に行ってみないと確認のしようがないワケですが

少なくても昔から現在に至るまでのウチナーンチュ(沖縄人)は必要だと思ってるワケなんですね~

このウチカビ(打ち紙)はワラやタタミなどを原料にした紙に硬貨の形をいくつも打ち込んだものであり、これを燃やすことで御先祖様にあの世に持ち帰って使ってもらうワケです。

まさしく地獄の沙汰も金次第といったところでしょうか?

これはシーミー(清明祭)だけではなくお盆の時にも使われます。

この風習はウチナー(沖縄)だけのものなのでしょうか?

あるいはこれも中国から伝わったものかも知れませんね~

そこのところは調べてみないと分かりませんがすごく興味が湧いてきますよね。

なぜならば、あの世の仕組みの一端がもしかして分かるかも知れないからです・・・・・

そう、、、、、、、、、

地獄の沙汰もなんとやら・・・・・・・・とはこのことだったのか???

なんちゃってね。。。

今回は新年度特別記事でした。

アンシェーヤ!(それでは!)


沖展(沖縄の美術工芸展覧会)

2006年04月03日 23時44分03秒 | 日記・エッセイ・コラム

みなさん、おひさしぶりです!

先日の日曜日に沖展を見てきました。

沖展とはウチナー(沖縄)の総合美術工芸展覧会のことであり、いわば沖縄版の「日展」ともいえる県内では最大の美術展覧会なんですね~

その出展内容は絵画、版画、デザイン、写真、書道、彫刻、工芸(陶芸、漆芸、染色、織物、ガラス)と総合展覧会の名に恥じず実に多彩です。

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この日はあいにくの雨にもかかわらず最終日ということもあって多くの見学者でごった返しました。

今年で第58回の開催であり、なんと戦後から数えて半世紀もの年月を重ねてきました。

第1回目の開催は戦後の1949年であり1945年に事実上の米軍統治下に置かれて以来、その4年後に創設されました。

そもそも、沖展とは敗戦後の傷跡を埋める事業として創設されたものであり、ウチナー(沖縄)の美術工芸文化の発展に大きな役割を果たしました。

・・・・・・・・実は沖展が創設される前の1945年当時、米軍の政務担当であったジェームス・ワトキンス少佐やウイラード・ハンナ大尉らが博物館を造って既に美術展覧会を開催させていたのですよ~

驚きですね~

実はこれは当時のアメリカが日本本土からウチナー(沖縄)を切り離して、いわゆる米軍政府による分断政策(占領政策)を容易にするための目論見があったワケです。

つまり、これはヤマト(日本本土)とウチナー(沖縄)の文化の違いを際立たせることによってウチナー(沖縄)は日本であって日本ではないという意図的な意識付けが米軍側にあったワケですね~

まあしかし結果的にはウチナー(沖縄)の美術工芸文化の発展に少なからず米軍が寄与したワケですからなんとも皮肉な話ではありますよね。

これこそ歴史の成せるワザ?

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会場内は撮影禁止のため、こちらから→ネット観覧してくださいね。

多くの素晴らしい作品の中で特にウチナー(沖縄)を表現した写真はこれです→Brue Sky(ブルースカイ)

紺碧の海と真っ青な空にカモメの群れが飛び立つサマが実に絶妙なシャッターチャンスで表現されています。

まるで絵のような美しさですね~

これこそウチナー(沖縄)を表現している傑作でしょう?

実物の写真はその大きさが見る者を圧倒します。

さて、ネット観覧はいかがでしたか?

機会があればぜひウチナー(沖縄)へメンソーレ!(いらっしゃいませ!)

毎年3月中旬から4月初旬の約2週間にわたって開催されます。

会場外の出店↓

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今回は沖展特別企画でした。

次回までお楽しみに・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


復帰前のウチナーにタイムスリップ

2006年03月25日 14時39分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

先日、今から約40年前の本土復帰前のウチナー(沖縄)に行ってきました。

それはここです↓

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これは「ゆいまーる通り」という通りの入口ですが、

「ゆいまーる」とはウチナーグチ(沖縄方言)で「助け合い」という意味です。

ウチナー風な発音では「いーまーるー」といいます。

ゆい→結い(結合、協同)、 まーる→順番(廻る?)

つまり、昔の人達は例えば農作業や住宅の建築工事などにおいて無償の労働を順番に提供してお互いに助け合ってきたワケです。

現在ではそういう習慣は廃れていますが、今でも田舎へいけばまだそれに近いことは行われているようです。

24560002_2 さあ、それでは奥に進んでみましょうね

この、~しましょうねというのは典型的なウチナー的表現です。

英語でいえば、Let's→一緒に~しましょう という意味になりますが、ウチナーンチュ(沖縄人)はひとりでの行動でも、相手に対して一緒に行動を促すような表現をするのでヤマトンチュ(本土の人)がしばしばとまどう結果となります。

例えば、会社からひとりで帰る場合にもウチナーンチュは「帰りましょうね」といいます。

いわれた相手(ヤマトンチュ)は自分も一緒に帰らなくてはいけないのかと思うワケですね~

しかし、当の本人は決してそういうつもりで言ってるワケではないのです。

ですから、あなた(ヤマトンチュ)は、特に異性(ウチナーンチュ)からそういわれた時は決して自分にアプローチしているとは思わないことですね・・・・・。。。

さて、奥に進みます。

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そこへ足を踏み込むといきなり夜になりました。

そしてなにやら昔懐かしいムードが漂っていますね~ 

白熱電球に木の電柱・・・・・ああ、懐かしい・・・・・     24560005_1

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↑いちゃりばとは出会えばという意味であり、ウチナー(沖縄)の有名な言葉に「イチャリバチョーデー」という言葉がありますがこれは「出会えば兄弟」、つまり、同義語としては

「袖すりあうも人の縁」とか「人類みな兄弟」的な意味合いですね。

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そしてこちらはなんともアメリカンチックな町並みですね~

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おや、映画館もありますよ! いや~ホントに懐かしい・・・・・

そしていかにも場末のバーといった感じのプールバー、さびれた写真屋に理容室・・・・・・・・・・・

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さて、こちらは↓昔のウチナー(沖縄)にはあちこちにあった雑貨店です。

まちや→雑貨店(商店)の意味です。

今ではすっかり廃れてしまったのですが復帰前はどこの通りにも普通に存在していました。

復帰前は通貨がアメリカドルでしたので、ドルの最小単位である1セントを当時の子供達は握りしめてよく通ったものです。(もちろん私も、です・・・古い年代?)

日本の銭とアメリカのセントは語感が似ているため1セントのことを当時は1セン、といっていました→「お母さん、1センちょうだい。」という感じでね。

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さて、面白いのがこれです。

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「おばさん買おう」に対して「おばさんは売ってない」

典型的なウチナーヤマトグチ(沖縄的日本語)のひとつですね。

子供が何かを買いにきていう言葉ですね・・・・

それに対して「おばさんは売り物ではないよ」というギャグなんですね~

そして「コーラーこーら」これは「コーラを買おう」といっているのですが

「買おう」のことをウチナーグチでは「コーラ」というのですよ。

単なるギャグですが日常生活で使われているウチナーグチ(沖縄方言)は大体こんな感じです???

さあ、ずいぶん写真を見てきましたがこれら復帰前のウチナー(沖縄)は一体どこにあると思いますか?

実はここです。 えっ!どこだか分からないって?

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失礼しました・・・・・   はい、ここです↓

なにを隠そう、ここは県内では売場面積で1,2位を争う某ショッピングセンターでした。

あなたも機会があれば是非、復帰前のウチナー(沖縄)にタイムスリップしてみてください。

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あっ、それから前回の記事、米軍ビジネスフェアでご紹介しました気になる美女は実は(有)アンテナの社長さんである石原地江さんでした。 

このアンテナという会社は沖縄県の活性化のために那覇市から業務委託を受けてビジネスフェアなどを企画運営している有望企業です。

私もいつもお世話になっておりますのでよろしくお願いしますね。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

ということで、次回までお楽しみに・・・・・・・・・・

アンンシェーヤ!(それでは!)