沖縄あれこれ情報ブログ

沖縄の文化、歴史をメインに沖縄あれこれ情報を発信するブログです。

ウチナー(沖縄)の世界遺産・勝連城跡その2

2006年10月15日 21時40分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

いや~、すっかりご無沙汰してしまいました・・・・・・・・・・・・・

それでは、さっそく前回の続きです。

さて、下の写真はコンピュータグラフィックによる勝連城の復元図です↓

これは北側に位置する西原御門(ニシハラウジョウ)から見たものです。

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首里城と違うのは高台にあって要塞をイメージさせるところでしょうね。

実は当時は激動と混乱の時代であり、琉球が不安定な時代で権力争いの真っ只中にありました。

そういうことから勝連城は外敵防御型の造りとなったようです。

阿麻和利は琉球の王権奪取を目指して手始めに国王の重臣である中城城の護佐丸を1458年に滅ぼします。

そしてその後、首里城を攻めましたが無念にも戦いに敗れ滅ぼされてしまいました。

この戦いが琉球の歴史上有名な「阿麻和利の乱」です。

そしてこの阿麻和利の敗戦により、琉球王国は安定したのです。

ところで阿麻和利に嫁いだ百十踏揚は皮肉にも阿麻和利を倒した鬼大城と再婚しました。

その後クーデターにより鬼大城は権力の座を追われ、百十踏揚は沖縄南部島尻の玉城へと生き延びましたが晩年は寂しい隠居生活を余儀なくされたのです。

百十踏揚は激動と混乱の時代に生きた悲劇の王女としてその名を残しました。

その美しさゆえ、薄幸?の美女だったのかも知れません・・・・・

北側、海中道路方面を臨む↓  24560023_8 24560024_9

↓南側方面を臨む24560018_16                    

これは勝連城の守り神を祀った拝所であり、

神女(ノロ)が参拝したところである↓                            

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城郭を正面から臨む↓

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↓東側方面、太平洋               24560021_11                           24560027_10

15世紀における激動と混乱の時代を駆け抜けた英雄、阿麻和利は無念にも滅ぼされました。

しかし当時の国王に最後まで抵抗した唯一の人物として琉球の歴史にその名を残しました。

それは肝高の名と共に現在も脈々と語り継がれているのです。

気高き英雄、その名は阿麻和利・・・・・・・・・・・・

今回で勝連城跡は終わります。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・勝連城跡

2006年10月06日 01時57分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

お待たせしました!

毎度おなじみの世界遺産です。

えっ!待ってないだって?

まあ、そういわずにどうぞご覧ください・・・・・・・・

ここはウチナー(沖縄)の中部に位置する勝連半島です。  

勝連半島は太平洋側に面しており、海中道路の町としても有名です。

それから米海軍基地のホワイトビーチもあり原子力潜水艦の寄港地としても知られています。

米軍基地の中でも嘉手納空軍基地に次ぎ警戒の厳重なエリアとなっているんですね~ 

ちなみにここから北上するに従って米軍基地のレッドビーチ、ブルービーチが位置します。Photo_9 Photo_8 

ホワイトビーチが軍港として使われているのに対し、レッドビーチ、ブルービーチは主に海兵隊の海上から陸地への急襲作戦の訓練に使われているようです。

つい最近から市町村合併により勝連町がうるま市に統合されました。

この旧勝連町は肝高(きむたか)の町として有名です。

きむたかとはウチナーグチ(沖縄方言)で気高いという意味があります。

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かつれんのとよみてた(勝連の鳴り響みてだ)

ももうらとよみてた(百浦の鳴り響みてだ)

きむたかのとよみてた(肝高の勝連の鳴り響みてだ)

かつれんのいちやぐち(勝連の板口を)

きむたかのかなやくち(肝高の金口を)

かみからは てるまはま(上からは波照間浜に)

しもからは はまかはに(下からは浜川に)

これは沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」の16巻に唄われている詩です。

これは勝連の気高い按司様は百浦にとどろく按司様である。(按司→アジ→支配者)

勝連の立派な港を開け上からの舟は波照間浜に、下からの舟は浜川に着けて栄えている。

という意味です。

そしてこの気高い按司様こそ琉球における15世紀の激動と混乱の世に出現した英雄、阿麻和利だったのです。

勝連城はこの阿麻和利が住んだ城です。24560034_4 24560004_14

この阿麻和利は当時、琉球がまだ琉球王国という統一国家になる前の地方の支配者であり、当時の国王に最後まで抵抗した按司でした。

幼少のころは体が弱く山に捨てられた阿麻和利は苦労しながら成長し、たくましさと知恵を授かったのちこの勝連にたどり着いたことで人々から慕われ按司として君臨しました。

阿麻和利はその才覚によって海外貿易を行い栄えていきます。

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空撮写真↓           復元イメージ図↓24560005_12 24560002_12

当時の勝連は肝高と呼ばれ、本土の京都や鎌倉に例えられるほど繁栄し、阿麻和利に対しては「千年もこの勝連を治めよ、勝連の名高き王」と讃えられたということです。

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一の曲輪↓

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この阿麻和利の実力に脅威を持ったのが時の琉球国王・尚泰久でした。

この時期はまだ激動と混乱の時代であり、安定しない時代だったのです。

国王・尚泰久が考えたのは攻略結婚であり、なんと自分の娘、百十踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利の元に嫁がせたのです。

つまり、国王を恐れさせるほどの力を阿麻和利は持ち得たワケですね~

ここで百十踏揚の名前の由来は

百十→百に十を重ねる→いつまでも

踏揚→踏んで揚がる→秀でる→名高い

という意味であり、すなわち気高く美しいということなんですね~

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回に続きます。

お楽しみに・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


那覇市新都心

2006年10月01日 19時01分15秒 | 日記・エッセイ・コラム

さて、これは何でしょうか?

なにやらしゃれたタンクですね~

Photo_5

実はこれは安里配水池といって那覇市新都心の一角にあります。

ちょうどこれは、太陽が波間から顔を出す日の出をイメージしたデザインですね~

しかし何を隠そう、ここは沖縄戦の際は最大の激戦地となったところであり、日米両軍共に多くの犠牲者を出したところなんです。

日本軍は52高地と呼び、米軍はシュガーローフヒルと呼びました。

この52高地は日本軍防衛陣地の中核拠点だったのですが、米軍の攻撃により撤退を余儀なくされました。

その後、南部の摩分仁に撤退するまで持久戦に持ち込んだ作戦は歴史の語るとおりです。(摩分仁:南部戦跡地区)

日本本土決戦の準備が整うまでの、文字通り盾となったウチナー(沖縄)は一日でも長く米軍を引き留めておく必要があったワケです。

実は当時の米軍は日本を無条件降伏させるためにマッカサー元帥らに南九州上陸作戦を指令しており、南九州への上陸を1945年11月に予定していたということです。

幸いにも本土上陸前に終戦となり、結果としてウチナー(沖縄)が盾となったことで本土決戦は免れたワケですが、広島、長崎への原爆投下による犠牲も決して忘れてはならない歴史的事実です・・・・・・・・・・・・・・

さて、那覇市新都心は市内の北西部に位置しています。

新都心はおもろまち、銘刈、安里、天久、安謝、上之屋から成り、おもろまちという名称は再開発後に付けられました。

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この地域は戦後は長いこと米軍基地であり、米人住宅地区として位置付けられていました。

米人住宅地区↓

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これはつまり、沖縄の中心地である那覇市のほぼ、ど真ん中になんと米軍基地があったワケです。

今考えると驚きですよね~

しかし、当時は当たり前のような存在でした。

そしてもったいないことに約20年以上前に返還されてからは長い間、ペンペン草の生える空き地の状態でした。

基地返還されてから再開発されるまでに通常20年はかかるらしいのですがこれはいくらなんでも長過ぎますよね~

せめて10年、いや5~6年で再開発してもらわないと広大な土地が遊んでしまうワケですからこれは経済的にも大きな損失だと思います。

そして現在20年以上を経過して都市再開発の結果、新都心として生まれ変わったワケです。24560030_7 24560031_7

手前は高架橋の天空橋↑

西方向(東シナ海側)↓   

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東方向(太平洋側)↓

右端前方は都市モノレールおもろまち駅↓

左側前方は首里城方面↓  

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まだまだ再開発の途中ですが、ウチナー(沖縄)にしてはあか抜けした地域となっています。

がしかし、以前韓国から基地跡地利用の都市再開発モデルケースとして現地視察団が来沖した際に彼らからでた意見は本土と変わらない景観にがっかりしたといわれました。

せめて米軍基地であった特色を生かすべきだという意見と沖縄らしさがないという意見があったようです。

たしかにリトル東京化してもしょうがないワケでやはり、ローカル色を活かした都市造りを行うことが大事だということでしょうね~

この新都心ができてからは確実に人の流れは変わりました。

戦後、焦土と化した地からめざましい発展を遂げて奇跡の1マイルといわれた那覇市のメインストリート・国際通りの商店街は大きな打撃を受けました。

国際通り(別名:奇跡の1マイル)↓

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しかし、いつの時代も残すべきもの、残されるものはあります。

たしかに打撃は受けたかもしれませんがプラスもあるはずです。

新都心があって国際通りがある・・・・・・・・・・

つまり、新旧が存在することでそれぞれの良さが比較体験できるワケです。

皆さん、ぜひ新都心と国際通りを訪れてそれぞれの良さを体験してみてください。

そこには思わぬ発見が・・・・・・・・・・・・・・・・???

そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


アメリカ村

2006年09月24日 23時08分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

これは郵便局です↓

一見、何の変哲もない郵便局ですが・・・・・・・・・・

近づいて見ると・・・・・・・・・・・・・・・

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ハンビー郵便局とあります↓

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はて?ハンビーって、何でしょうか?

少なくても日本語ではないですよね・・・・・・・・

実はこの一帯は北谷町ハンビー地区といって、かつては米軍の海兵隊基地だったのです。

1981年以前は当時の1号線通り(現在の国道58号線)添いに長さ1035m、幅30mのヘリコプター飛行場が横たわっていたのです。

その名もハンビー(HAMBY)飛行場といいました。

空撮写真↓中央部の縦に細長い地域がハンビー飛行場跡ですが現在は商業地帯となっています。

写真を縦断する国道58号線の右側は上から米海軍基地キャンプレスター、米海兵隊基地キャンプフォスターとなっており民間地域はちょうど海側に押し出された格好となっています。

実は北谷町の面積の50~60%近くは米軍基地なんですね~

海岸線一帯↓は上部の海側に出っ張った部分が北谷町美浜地区で中央部から下部にかけてハンビー地区ですが別名アメリカ村といわれている商業地区です。

出っ張っている美浜地区は実は都市再開発時に埋め立てられてできた地区なんです。

Photo_3 そしてこの地区はなんと嘉手納空軍飛行場(上部)と普天間海兵隊飛行場(下部)の間にサンドイッチになっているのですよ~(写真には写っていない)

私の記憶では当時の1号線通り(国道58号線)を通過する時はフェンス越しに米軍の戦闘ヘリコプターが離着陸訓練をしている様子を目の前で見ることができました。

それこそホントに目の前20m位?の至近距離で軍事用ヘリコプターが訓練している様は圧巻でした。

今ではそういう光景を見るのは難しいのですが、当時は日常生活の中で当たり前の光景として映っていました。

現在、この地域は米軍基地返還後の跡地利用としては一番の成功例として取り上げられています。

1981年12月に返還されて約25年が経過した今、かつての米軍ヘリコプター飛行場がアメリカ村という商業施設として生まれ変わり毎日多くのレジャー客が訪れます。

上・観覧車  下・飲食店街

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↓ショッピング店、その名もアメリカ屋

前方に見えるのは沖縄一高い 24階建てホテル                24560007_9             24560010_10

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↓ハンビー地区のアラハビーチ(東シナ海)

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↓ビーチから北方向に美浜地区を臨む

                  24560013_18   ↓ビーチの南方向  24560014_14       

かつては米軍基地が君臨した、この海岸地区は現在は多くの訪問客を集めるレジャースポットとして名を馳せています。

そして皮肉にもこのスポットはアメリカ村(アメリカンビレッジ)として有名です。

ちなみにウチナーグチ(沖縄方言)ではアメリカ人のことをアメリカーといいます。

なんとなく英語っぽいでしょ?

それから本土の人のことを、大和人→ヤマトゥー、あるいは内地人(ナイチャー)といいます。

共通点はいずれも語尾を伸ばすことですね。(英語と同じ→語尾にerを付ける)

さて、話を戻します・・・・・・・・・

このアメリカ村が成功したのはある意味、米軍基地の跡地利用としてアメリカをキーワードにしたのが幸いだったのかも知れません・・・・・・・・・・・・・・

基地に反対しつつ、アメリカは受け入れる、そういうところにウチナーンチュ(沖縄人)の心の広さ?があるのでしょうか? 

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


沖縄県庁舎

2006年09月18日 23時46分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

祖国復帰前のウチナー(沖縄)は琉球といったほうピッタリでしょうね。

当時のウチナーはいわゆる日本でありながら日本ではない、つまり都道府県としての位置づけがなかったワケです。

ということは沖縄県という呼び方が許されていなかったワケですから、つまり県庁という存在もなかったワケですね~

ただし、県庁が存在しない代わりに琉球政府が存在しました。

沖縄政府ではなく琉球政府ですよ。

昭和51年当時の琉球政府庁舎↓

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しかし、なんか変ですよね~

県ではなくて政府ということはつまり国という位置づけですよね。

しかも沖縄政府ではなくて琉球政府だなんて、これはつまり琉球王国が政府に代わったようなものでしょうか?

実はこれは当時の米軍政府が沖縄を日本と分離するための離日政策をおこなっていたからなんですね~

沖縄に対してここは日本ではないということを意識付けるために米軍はあえて沖縄という呼び方をせずに意図的に琉球と呼んだのです。

琉球政府の敷地内には米国民政府もありましたし、今の県議会に相当する立法院もありました。

当時の沖縄は米国の属国だった?

現在の沖縄県庁舎↓

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現在の県庁舎は昭和61年に着工され平成2年に完成しました。

設計はかの有名な黒川紀章都市設計事務所です。

屋上部のアーチはもともとは直線だったようですがテレビ電波の障害になるという理由でアーチになったということです。

個人的にはかえってそのほうがデザイン的な変化があっていいと思います。

屋上のアーチ部↓

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24560007_8 県庁のカラーリングは下から上にいくに従って薄くなっています。

これは下からブラック→グレー→ホワイトというカラーリングに対して過去→現在→未来という意味付けがあるのですね~

つまり、沖縄県庁舎は未来に向かってそびえ建っているのです。

玄関                ロビー24560011_12                24560012_9

玄関から見たオフィス街(東シナ海側)・左写真

沖縄で第一号の都市再開発ビル・右写真

                  パレット久茂地↓

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議会棟↓24560002_11 24560018_14    県庁舎と議会棟の鳥瞰模型↓    

県庁前交差点24560004_13         交差点前夜景   Photo_2          

那覇市名物・人力車(乗客2人乗り)↓

これは県庁前を拠点にしており、250円程度で乗れます。

機会があれば話のネタに乗ってみてください。

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県庁舎屋上展望室から東シナ海側を望む↓

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東シナ海側・真ん中にモノレールが見えます↓

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戦前のウチナーには軽便鉄道が走っていました。

しかし、戦後は鉄道のない久しい時代が続きました。

そういうウチナーにおいて、およそ60年振りに復活した鉄道?が都市モノレールです。

モノレールは構想からなんと20年を経過して実現しました。

かつて琉球政府庁舎と呼ばれた地が沖縄県庁舎に生まれ変わり、その県庁舎からその勇姿を見ることができます。

今日のウチナーのこの凄まじい発展振りを誰が予想したでしょうか?

祖国復帰前は復帰すればイモと裸足の時代に戻るといわれたウチナーがここまで発展できたのは先人達の苦労があったからこそだと思います。

唐(中国)の世から大和の世、大和の世からアメリカ世、アメリカ世からまた大和の世、ひるまさ(目まぐるしく)変わゆる、くぬ(この)ウチナー

さてそろそろ紙面が尽きてきました。

それでは次回をお楽しみに!

アンシェーヤ!(それでは!)


中山王陵・浦添ゆうどれ

2006年09月11日 20時38分42秒 | 日記・エッセイ・コラム

前回は中山王・浦添城跡を紹介しましたが今回はそれに続く中山王の王陵(王様の墓)を紹介しますね。

中山王の王陵は浦添城跡の北側岩壁にあり、自然の岩壁をうまく利用したお墓となっています。

これは英祖王が1265年~1274年に築いたようです。

「ようどれ」の意味は琉球語で「夕凪」のことであり、「朝凪」は「あさどれ」といいます。

全体図↓(岩壁左奥が尚寧王で右奥が英祖王の墓)

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入口・はるか前方は普天間基地です↓

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↓この涼しげな石段を下りた先が浦添ようどれです↓

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24560027_9←入口から進むと暗しん御門といって前庭から2番庭にいく通路があり、戦前は上部に自然の岩天井がありました。

この岩天井は残念ながら先の大戦で破壊され、現在は左のような青空天井となっています。

当時は真っ暗な中を通るため、まさにあの世に行くような雰囲気だったらしいですね~  

ところで、ウチナーグチ(沖縄方言)では御門のことをウジョウといいます。

24560025_4 人の名前も例えば上門→ウエジョウ、中門→ナカジョウ、下門→シモジョウといった感じです。 

本土だとそれぞれ上條、中條、下條と書きますよね?

ちなみに上門という名前の家は昔は村落の上部に位置して建てられており、他家がそれより上に家を建てるのはタブーだったということです。(宗教的いわれ?)              

↑戦前の暗しん御門(上部が岩天井となっている)

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東室・尚寧王陵↓         西室・英祖王陵24560031_524560030_6

王陵の内部↓             石厨子↓ 24560008_11  24560011_11

石厨子の彫刻・沖縄に現存する最古の仏像彫刻↓ 24560015_5

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浦添ゆうどれを築いたのは英祖王ですがこれを改修したのが浦添出身である尚寧王でした。

尚寧王は浦添家から国王に迎えられた人物でありゆうどれを改修しましたが本人もここに葬られました。

ここは琉球王国初期の王陵であり、首里城近くにある王陵の玉陵(タマウドゥン)よりも古い歴史を持ちます。

ゆうどれから見下ろす景色・前方奥は普天間基地↓

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先の大戦で米軍にゆうどれを破壊され、そして今、米軍の普天間基地を眼下に見下ろし、英祖王そして尚寧王は何を想うのでしょうか・・・・・・・・・・

アア、ワッター、リュウキュウヨ!(ああ、我らが琉球よ!)

そろそろ、紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


中山王・浦添城跡

2006年09月07日 23時49分11秒 | 日記・エッセイ・コラム

いや~、すっかりご無沙汰してしまいました。

皆さんに忘れられないうちに早速、記事をアップしますね・・・・・(苦笑)

それでは今回から浦添城跡を紹介します。

王国以前の古代の琉球は按司(アジ)といわれる各地域の支配者によって治められてきました。

浦添城跡の航空写真↓

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アジの語源は主(あるじ)からきているようです。

ウチナーグチ(沖縄方言)では主(あるじ)のことをスーといいます。

これは一家の主という意味で世帯主→父親→スー となります。

私達の父親→ワッタースー(ワッター→私達、スー→父親)といった感じですね。

ちなみに母親のことをアンマーといいます。(私達の母親→ワッターアンマー)

ちょっと脱線しましたが話を戻します・・・・・・・・・・・

王国以前は琉球を3つに分けて北山、中山、南山と称し、北山→今帰仁城、中山→浦添城、南山→島尻大里城という拠点が築かれました。

これがいわゆる琉球の歴史上、有名な三山時代といわれるものです。

これはつまり王に代わる権力者(按司)が琉球を三分割した3つの地域に存在したワケです。

浦添城跡↓

24560001_13

ここは世界遺産にこそ登録されていませんが、琉球の王国以前の歴史は浦添城抜きでは語れません。

尚巴志が三山を統一して名実共に琉球王国という統一国家を築くまでは首里城以前の中山王の城として有名です。

実はこの浦添城こそ、のちの王都となる首里城の原型だったらしいのです。

今でこそ城も城壁も当時の原型を留めていませんが、その当時の規模はかなりのものだったんですね~

琉球時代は薩摩藩の侵攻で焼き討ちに遭い、そして第2次大戦では日米両軍の戦闘によりその大部分が破壊されました。

そして現在は復元もままならず浦添大公園として存在していますが、近い将来、復元され、かつての威容?を見せてくれるはずです。

城壁                正殿跡地

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浦添城の前の碑↓

手前の石は乗馬用踏台   首里城に至る石畳道

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快晴日には碑の前方奥に首里城が見える↓

(この日は曇天日のため、霞んでいる)

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浦添の地は舜天、英祖、察度という歴史上、偉大な指導者を生んだ由緒ある地域です。

中山王の拠点である浦添城は13世紀の英祖王から始まり14世紀の察度で最盛期を迎えました。

英祖は太陽の申し子として生まれたという伝説があり、太陽の子をウチナーグチ(沖縄方言)では太陽→ティーダということから、太陽の子→ティーダの子→てだこ、となり

現在、浦添の別名である「てだこの街」の語源となっているワケです。

そして英祖の後の察度王は琉球の歴史上初めて中国・明との貿易を実現させ、琉球と中国との貿易により、その後500年におよぶ琉球王国繁栄の基礎を固めた偉大な人物なんですね~

そういうことで当時の浦添はその権力の大きさから津々浦々を襲う(支配する)土地という意味でうらおそいと呼ばれそれが転じて現在の浦添という地名になりました。

津々浦々を襲う→うらおそい→浦添

なるほど、歴史というのは面白いですね~

さて、かように隆盛を極めた中山王の察度王統も1406年には尚巴志に滅ぼされるワケですが王宮が首里に移ったあとの浦添城は浦添按司家の館として使われました。

その後、琉球王国第4代目の尚寧王が浦添城から首里城までの道を石畳に改修しました。

浦添城跡から晴れた日には、くっきりと首里城を望むことができます。

なぜだか感動しますね・・・・・・・・・・・・・・・・・

歴史ある浦添城跡からこれまた歴史ある首里城を視野に収めることができるということにとてつもないロマンを感じるのは私だけでしょうか・・・・・・・・・・・・

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


終戦後・復帰前のウチナー(沖縄)その2

2006年08月27日 22時03分16秒 | 日記・エッセイ・コラム

第2次大戦終戦後のウチナー(沖縄)は1945年から1972年の26年間に渡って米軍政府の統治下にありました。

その当時、占領国のアメリカからは高等弁務官なる軍事司令官が派遣されたのですね~

歴代高等弁務官は6人ですが、その中でひときわ有名な弁務官がキャラウェイ高等弁務官でした。

第3代高等弁務官ポール・W・キャラウェイ中将         

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当時の高等弁務官は占領国の現地軍事司令官として絶大な権限を持ち、行政、司法、立法に対してその権限を行使することができたのです。

キャラウェイ高等弁務官はその強硬な施政と個性で「キャラウェイ旋風」と呼ばれるほどの波乱を招きウチナーの離日政策を進めました。

つまり、ウチナーは日本から独立すべきだという政策ですね。

ウチナーは独自の文化と歴史を持っている琉球国であり、日本とは違うのだということを強烈に打ち出したワケです。

ですから意図的に沖縄という言葉を使わずに沖縄→琉球、沖縄人→琉球人、という呼び方をしたワケです。

当時のウチナーンチュ(沖縄人)としては複雑な心境だったに違いありません。

なにしろ占領国からウチナー文化と歴史を高く評価され、祖国である日本からは独立すべきだといわれれば複雑ですよね・・・・・・・・・

実はアメリカ側の真意はウチナーンチュの独立心を煽ることによって脱日本からアメリカ寄りになることで占領政策を容易にする意図があったようです。

当時の米人住宅街

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基地労働者による芝刈り作業

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当時の祖国復帰闘争      ゼネラルストライキ

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沖縄返還決定の報道       祖国復帰当時の報道24560036_1                                24560037_1 

当時の佐藤首相は「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終わらない」という名言を残しました。

ウチナーが祖国復帰して33年が経過しましたが果たして戦後は終わったのでしょうか?

そして、いまだに戦争の遺産を背負っているウチナーに真の平和が訪れるのはいつでしょうか?

残念ながら写真のアップはできませんが、平和記念資料館の展示品を目にする度に心が痛み涙が流れます。

平和記念資料館(手前は旧日本海軍の魚雷艇)

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資料館から見下ろす平和の石礎(いしじ)

24560044_3 

前回の1960年代のウチナーは平和記念資料館で再現されていますので是非ご覧になってください。

資料館展示のむすびの言葉↓

沖縄戦の実相にふれるたびに

戦争というものは

これほど残忍で、これほど汚辱にまみれたものはない

と思うのです

このなまなましい体験の前では

いかなる人でも

戦争を肯定し美化することはできないはずです

戦争を起こすのはたしかに人間です

しかし それ以上に

戦争を許さない努力のできるのも

私たち人間ではないでしょうか

戦後このかた 私たちは

あらゆる戦争を憎み

平和な島を建設せねばと思いつづけてきました

これが

あまりにも大きすぎた代償を払って得た

ゆずることのできない

私たちの信条なのです

(以上、原文のまま)

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


終戦後・復帰前のウチナー(沖縄)

2006年08月20日 22時47分55秒 | 日記・エッセイ・コラム

8月15日は終戦記念日でした。

その終戦記念日にちなみ、復帰前のウチナー(沖縄)にいってきました。

こちらは1960年代のウチナーの街並みです。

手前がおみやげ品店で奥がAサインバーです。          

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Aサインバーとは当時の米軍が地元のバーに米兵相手の営業許可を与えたAランクのバーという意味なんですね~

米軍の機関により特に衛生面などを厳しくチェックされた店のみがその資格を許可されました。

Aサインバー↓

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米兵相手ですから日本人は入れないワケでこれらの店は米軍のペイデー(給料日)には多くの米兵で溢れました。

もっとも、復帰後はAサインバーは姿を消し、日本人相手のバーに変わりましたがね・・・・・

そして当時の歓楽街は白人街と黒人街に分かれており白人と黒人の乱闘が耐えなかったのです。

今ではそういうことはありませんが昔は米軍にも人種差別が残っていたということでしょうね・・・・・・・・・・・・

おみやげ品店↓ 24560027_8        洋服店↓

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実はここは基地の街で有名なコザ市(現在は沖縄市)であり全てが横文字の街でした。

現在でもその名残はまだ残っています。

さて、これは↓なんだと思いますか?

24560017_8 これはPAWNという英語です。

PAWN???

つまり質屋という意味ですね。

復帰前はPAWNの看板が至るところにありました。

現在ではなかなかお目にかかれなくなりましたが、米兵相手の店は一部残っているようです。

そして当時のウチナー(沖縄)の典型的な雑貨店がこれです。

マチヤグワー(雑貨店、商店)   

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木造建てのレトロな雰囲気ですよね・・・・・・・

現在のウチナーでは木造建てがコンクリート造りに変わっていますが時代の流れを感じます。

あと、珍しい光景としては以下のようなものがありました。

当時の求人広告張り紙      露天商          

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少女の行商              少年のクツ磨き

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アングラ風?な劇場↓24560005_9      劇場の案内板24560022_10    

                 

 

琉球政府の電柱公告

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  当時は沖縄県ではなくて琉球政府というアメリカの属国?だったワケですね。

つまり復帰前の沖縄は日本であって日本ではなかったワケです。

日本政府の統治ではなくアメリカ政府(米軍政府)の統治下にあった沖縄は沖縄県と呼ぶことを許されず、占領軍の元で琉球王国ならぬ琉球政府という、いわば属国であったワケですね~

ですから、全ての公的機関は例えば沖縄県立●●ではなくて、琉球政府立●●といった具合ですね。

復帰前当時の米軍基地の警告板

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当時の米兵ガードマン

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現在の警告板

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沖縄上陸後、占領した沖縄の土地を銃剣とブルドーザーで一方的に奪い取った米軍は先程の警告板を各基地に貼り付けたワケですが、ただでさえ狭い沖縄がますます狭くなりました。

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こんごも半永久的にウチナー(沖縄)の基地は存続すると思いますが、ウチナーに本当の意味の平和が訪れるのは果たしていつの日でしょうか?

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回をお楽しみに・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


旧盆エイサー(念仏踊り)

2006年08月12日 19時44分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

8月6日~8月8日はウチナー(沖縄)のお盆でした。

ウチナーのお盆は旧暦の7月13日~7月15日に行う旧盆です。

そういうことでウチナーグチ(沖縄方言)では旧盆のことをシチガチ(7月)といいます。

シチ→7 ガチ→月 ですが、ガチの発音は正式にはグワチと発音します。

そしてウチナーグチでは、お迎えをウンケー、中日をナカヌヒー、御送りをウークイというんですね~

ウークイは同じウチナーでも地域によって1日遅れのところがありますがこれは祖先との別れを惜しむことからそうしているようです。

エイサーは念仏踊りの一種であり、ウンケーからウークイにかけておこないます。

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エイサーの起源は今から500年以上も前に人が死ぬと念仏僧が家に呼ばれ念仏を唱えながら鉦や太鼓を打ち鳴らしたことから始まっているようです。

そしてエイサーの言葉の意味はおもろそうし説と囃子説がありますが確定はされていません。

エイサーは旗頭、太鼓踊り、手踊り、チョンダラー(京太郎)、地唄から構成され大太鼓、締太鼓、パーランクーを使います。

チョンダラーとは道化師(ピエロ)みたいなもので全体の盛り立て役なんですね~

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チョンダラー↓

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手踊り↓

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こどもエイサー↓

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盆踊り↓          24560001_11      出店     

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←旗頭

エイサーはかつては念仏僧が死者を弔う踊りでしたが今や若者がその持てるエネルギーを発散させるパフォーマンス的な年中行事となっています。

毎年、沖縄全島のエイサー大会が行われ、沖縄一を競う競技にも発展しました。

各地の青年会が中心となって若者が地域を盛り上げるさまは頼もしい限りです。

その豪快で勇壮な踊りは見る者を圧倒します。

もはや、念仏踊りというよりも若者パワー踊りといったほうがいいのかもしれません。

エイサー♪、エイサー♪、ヒヤルガエイサー♪、サーサ♪、ハイ♪、ハイ♪・・・・・・・・・・・

さあ、そろそろ紙面が尽きてきました。

今回は旧盆特別記事でした。

次回をお楽しみに・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・座喜味城跡(最終回)

2006年08月08日 14時56分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

前回に引き続き座喜味城跡です。

優れた築城家であった護佐丸は随所に特色のある工法を取り入れました。

中でもアーチ石門は琉球最初で最古のものといわれています。

アーチ石門↓

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そして、アーチ部の真ん中にくさび石がありますが、他の城跡には見られない手法となっています。

アーチ部のくさび石↓

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あと、城壁は屏風のような曲線状となっていますがこれは外観の美的形状とは別に構造上の強度と実戦上の戦術が隠されているのですね~

構造上のそれはこの地はもともと地盤が柔らかいために城壁が容易に崩れないように曲線を有した屏風型としているワケです。

そして実戦上のそれは敵が侵入してきた時に城壁の上から応戦する際に敵を欺く構造になっているワケです。

つまり、美と、強と、防がこの城壁には兼ね備わっているということなんですね~

城壁↓

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本丸跡↓

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ところで興味あることとして、この地からは瓦などが出土していないことからどうも本丸の屋根は板葺きか茅葺きだったと推定されるとのことです。

これが事実だとすれば、何か意外だと思いませんか?

通常、お城というと瓦葺きの立派な建物を想像しますが、板葺きあるいは茅葺き屋根のお城といわれても、ピンとこないですよね・・・・・・・・・・

残念ながら証拠となるものが残されていないため確定的なことは分からないワケですがいずれにしても興味の尽きないことではありますね。

夕暮れの東シナ海を望む↓

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この城跡は高所というその立地条件から第2次大戦中は日本軍の高射砲陣地が築かれ、そして戦後は米軍のレーダー基地が築かれました。

城壁からは南部の那覇、首里、慶良間諸島、久米島、北部の本部半島、伊江島、伊平屋諸島が展望できます。

戦術的には格好の場所だったワケですね。

さて、上の写真ですが前方に巨大な構造物が見えます。

これはなんだと思いますか?

実はこれこそ、かの有名な米軍のスパイ電波受信施設といわれている通称「象のオリ」なんです。

琉球時代の城壁と米軍の電波受信施設の組み合わせが何ともアンバランスな構図ですが、まさしく現在のウチナー(沖縄)の現実を物語っている風景ですね・・・・・・・・・・

あの世の護佐丸は一体どういう心境で眺めているのでしょうか???

さて、これで世界遺産・座喜味城跡は終わります。

次回はさて?

お楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・座喜味城跡(その1)

2006年08月06日 00時13分49秒 | 日記・エッセイ・コラム

さあ、世界遺産シリーズ第4弾です。

ウチナー(沖縄)の世界遺産において城跡の城は首里城のみが復元されており、それ以外は城壁のみとなっています。

今帰仁城跡、座喜味城跡、勝連城跡、中城城跡、の4ヶ所がそうです。

今回は沖縄本島中部の読谷村にある座喜味城跡を紹介します。

実は前回の残波岬も読谷村にあるのです。

座喜味城跡全体                        

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城跡は標高125mに位置しており本島北部の本部半島、恩納岳を始め西は東シナ海を展望でき、南側は本島中部地域を展望できる、城としては最適の立地条件を満たしているんですね~

東シナ海を望む(これは城壁の下から見た風景)↓

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さあ、中へ進んでみましょう・・・・・・・・

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静かな松並木をしばらく歩くと、城壁がその姿を現しました。

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座喜味城は15世紀初めに読谷山按司(ユンタンザアジ)であり築城家としても名高い護佐丸(ごさまる)によって築かれたとされています。

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城内へのアーチ門

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14世紀初めは琉球が3つに分かれて支配されていた時代であり、これを琉球の歴史上、三山時代といわれています。

琉球は北山(今帰仁城)、中山(浦添城)、南山(島尻大里城)の3つの権力に分割されていましたが、これを南山の尚巴志が1406年に中山王・武寧を滅ぼし、1416年に北山を滅ぼしました。

実はこの北山を滅ぼす時に護佐丸は尚巴志と共に参戦したのです。

護佐丸の祖先はもともと北山の今帰仁按司であったのですが当時の権力争いにより今帰仁の地を追われたという歴史があったワケです。

そもそも座喜味城は北山征伐後の旧勢力ににらみを効かすために造られたものとされています。

その後、1422年に中山王となった尚巴司が1429年に南山を滅ぼします。

これが琉球の歴史上で最も有名な尚巴司の三山統一です。

この意味は三山統一によって琉球王国という統一国家が誕生したというワケです。

つまり、護佐丸は琉球の統一国家成立という歴史上、重要な役割を果たした人物ということなんですね~

当時はウチナーグチ(沖縄方言)で「護佐丸ガ、チューンドー!」→「護佐丸が来るぞー!」というと、

泣く子も黙ったといい伝えられているほどの権力者だったということです。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回に続きます。

お楽しみに・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


残波岬(最終回)

2006年08月01日 21時14分54秒 | 日記・エッセイ・コラム

残波岬は今回で最終回です。

前回のウチナー(沖縄)の海はいかがでしたか?

下の写真は灯台の灯頂部から撮った東シナ海です。

前回と違って単に青い空と海があるだけのシンプルな構図ですが遠くに見える水平線が何となく地球が丸いということを感じさせてくれる一枚だとは思いませんか?

紺碧の海と入道雲のかかった夏の海です。。。 

東シナ海↓        

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残波岬灯台↓

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実はこの灯台は沖縄一、高い灯台なんですよ~

地上から灯台灯頂部までの高さが31mあります。

残波岬灯台は本土復帰後の昭和48年に建設着工し、昭和49年(1974年)3月30日より点灯しています。

灯台入口↓            灯頂部への階段↓

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灯頂部↓

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この灯台は誰でも灯頂部まで昇ることができます。

ただし地上31mの階段を歩いて昇らなくちゃいけません。

エレベータに慣れた現代人にはかなり堪えます。

しかし、苦労して昇った先にはダイナミックな展望が待っているのです。

360度の視界には一切の障害物はなく、そこには真っ青な空と紺碧の海、そして2kmにおよぶ隆起珊瑚の絶壁が延々と広がるだけです・・・・・・・・・・・・・・・

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機会があれば皆さんも是非この爽快さを味わってみてください。  

それにしてもここがかつて米軍の実弾演習場だったとはこの平和な風景からは想像もつきません。 

本土復帰してホントに良かったと思います。

同じ危険でも実弾の危険よりは自然の危険のほうがまだマシ???                     

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出店

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帰る頃には夕日が東シナ海の水平線に沈みかけていました。

ホントは真っ赤な夕日を撮りたかったのですが残念ながら時間がなくて・・・・・・

そろそろ紙面が尽きてきました。

さて、次回は?

・・・・・お楽しみに。。。

アンシェーヤ!(それでは!)


残波岬その1

2006年07月29日 22時30分24秒 | 日記・エッセイ・コラム

ここはウチナー(沖縄)の西海岸にある恩納村の万座毛付近 ですが珊瑚礁が美しいエメラルドの海です。

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この美しい海から南へ下ると読谷村という所に残波岬という景勝地があります。

この一帯は海岸そのものが国定公園に指定されているんですね~

             残波岬

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ここは高さ30~40mの隆起珊瑚の絶壁が2kmに渡って 延々と続く海岸線であり、風光明媚な景勝地となっています。

ダイビングスポット、釣りのスポット、海水浴場、としても有名であり岬そのものが公園となっているため、夏には多くのレジャー客が押し寄せます。

残波岬全体写真 (灯台から撮影)↓

  ←北                      南→   

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残波岬公園空撮写真↓    ←南  北→

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岬突端から陸地側を望む↓

左側の大岩は台風が運んだもの        

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これは大岩のアップです。↓

(高さ約2.5m、幅約5m、重量約94t)       

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実は今から16年前の1990年10月6日に台風21号が襲来し、残波岬一帯を大波が飲み込んでしまったのです。

その際に台風のエネルギーを秘めた大波はこの大岩以外にも85t と 50t の大岩も同時に動かしてしまったのです。

皆さん、ここの絶壁は30~40mの高さがあるのですよ!

にもかかわらず、それを乗り越えて大波が襲ったワケです。

自然のパワー、恐るべし! ですね。

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東シナ海             絶壁下の海         

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絶壁の端に立つと真っ青な海に吸い込まれそうになって、長いことは立ってられません。

残波岬は、紺碧の大海原に木の枝のように突き出しているため、古代においては「崎枝」と呼ばれていたのですね~

そして今でこそ公園になって人々が自由に訪れていますが戦後から本土復帰までは米軍が実弾演習場として使用していたため、一般人は立入禁止地域だったのです。

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ここはダイビングスポットとして有名であり、多くのダイバーが訪れますが、昔から航海の難所として知られ波が荒いことからこれまでに多くのダイバーが波に呑まれ犠牲となっています。

復帰前は一般人立入禁止の看板が立っていたのに今ではこの警告板が立っているワケですね。

さて、そろそろ紙面が尽きてきました。

次回に続きます。

お楽しみに・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)


ウチナー(沖縄)の世界遺産・識名園(最終回)

2006年07月25日 22時28分18秒 | 日記・エッセイ・コラム

さて、世界遺産シリーズの識名園も今回が最終回となります。

さあ、御殿をあとにしてどんどん奥へ進んでみましょう。

こういう静かな散歩道を歩いていくと・・・・・・・・・・・・・  

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24560039_1 おや? 草むらに何かありますね~

何でしょうか?

それではアップしてみましょう・・・・・

どアップ↓↓↓

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皆さん、これこそまさしくウチナー(沖縄)的風景なんですね~

ちょっと草むらに入ろうものならそこにはハブが潜んでいるのです。

こういう看板はここだけではなくて観光地のあちこちにあるんですね~

ちょうどこの時期はハブの出没する季節ですので油断は禁物ということですね。

それからしばらくいくとこういうのが・・・・・・・

バナナ園               竹林

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これは当時から存在していたらしいですよ。

もちろん現在のそれは植え替えられたものですがね・・・・・

さあ、さらに奥に進んでいきます。

しばらく行くとそこは行き止まりになっていてなにやら展望台のような小屋があります。

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それでは展望台から覗いてみましょう。。。

そこからは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

雄大な景色が一望できました。

はるか向こうは太平洋方面ですがなぜかここからは地平線しか望めないのです。

←東                          西→

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ここは御殿とは正反対の方角に位置しており、御殿から最も離れた場所なんです。

実はここは勧耕台といって沖縄本島南部方面を一望できる展望台であり、当時の海洋王国琉球時代から現在まで、なんと海を見ることができない大陸的景色となっているのです。

今でこそ建物が密集していますが当時の琉球は田畑が一面に広がる地域であり中国からの冊封使が手入れの行き届いた田畑を見て琉球の王様が人々を励ましていると讃えたことに由来しています。

皆さん、実は当時の琉球人は意図的に海が見えないように設定していたのですよ。

・・・・・・・・・・・それはなぜか???

それは島国琉球が大陸国・中国と対等に渡り合うために琉球はいかにも中国と同じような大陸なんだと思わせるための策略だったワケです。

今でこそ飛行機が空を飛び上空からどこでもその広さを確認できるワケですが当時は飛行機がない時代ですからこういうことが可能だったということですね。

それにしても当時の琉球人がいかに大陸国・中国との外交に力を注いでいたかをうかがい知ることができる一端ではありますね・・・・・・・・・・・・・・・

島国琉球は立派に大陸国・中国との国交を重ねてきたワケですが当時のことを想像するだけですごく胸が躍るのは私だけでしょうか???

さあ、これで世界遺産シリーズ・識名園は最終回です。

次回はさて?

お楽しみに・・・・・・・・・・・・・・

アンシェーヤ!(それでは!)