いや~、すっかりご無沙汰してしまいました・・・・・・・・・・・・・
それでは、さっそく前回の続きです。
さて、下の写真はコンピュータグラフィックによる勝連城の復元図です↓
これは北側に位置する西原御門(ニシハラウジョウ)から見たものです。
首里城と違うのは高台にあって要塞をイメージさせるところでしょうね。
実は当時は激動と混乱の時代であり、琉球が不安定な時代で権力争いの真っ只中にありました。
そういうことから勝連城は外敵防御型の造りとなったようです。
阿麻和利は琉球の王権奪取を目指して手始めに国王の重臣である中城城の護佐丸を1458年に滅ぼします。
そしてその後、首里城を攻めましたが無念にも戦いに敗れ滅ぼされてしまいました。
この戦いが琉球の歴史上有名な「阿麻和利の乱」です。
そしてこの阿麻和利の敗戦により、琉球王国は安定したのです。
ところで阿麻和利に嫁いだ百十踏揚は皮肉にも阿麻和利を倒した鬼大城と再婚しました。
その後クーデターにより鬼大城は権力の座を追われ、百十踏揚は沖縄南部島尻の玉城へと生き延びましたが晩年は寂しい隠居生活を余儀なくされたのです。
百十踏揚は激動と混乱の時代に生きた悲劇の王女としてその名を残しました。
その美しさゆえ、薄幸?の美女だったのかも知れません・・・・・
これは勝連城の守り神を祀った拝所であり、
神女(ノロ)が参拝したところである↓
城郭を正面から臨む↓
15世紀における激動と混乱の時代を駆け抜けた英雄、阿麻和利は無念にも滅ぼされました。
しかし当時の国王に最後まで抵抗した唯一の人物として琉球の歴史にその名を残しました。
それは肝高の名と共に現在も脈々と語り継がれているのです。
気高き英雄、その名は阿麻和利・・・・・・・・・・・・
今回で勝連城跡は終わります。
次回をお楽しみに・・・・・・・・・・・・・・・・
アンシェーヤ!(それでは!)