其蜩庵井蛙坊

井戸の底より見たり聞いたり喋ったり

観天望気

2013-12-13 16:46:16 | 日常雑記
空の状況を観察して、天気を予測すること。雲形、雲の動き、風、太陽や月の見え方などから経験的に予測する(広辞苑)。この二、三日のお天気の状況はどうやらこの手だての予測が外れも止むを得ないようです。
アメダスを毎日一度は眺めますが、それとても全てが天気予報のヒントにはなり得ません。昨日電車の車窓からの背振山脈は実に見事な夕景色でした。とうてい夜分より早朝まで激しい雨が降るなど推測できませんね。
それはそれとしてアメダス(地域気象観測所)の毎時の観測表を眺めます。ついでに府県選別画面を見て各観測所の標高も知ることが出来ます。殆ど無為なものですが。
子供の頃簡単な晴雨計を見ました。晴雨計と言うよりはお天気予測計でしょう。蓑笠と鍬を持つお百姓さんの人形が雨の予想ならば蓑笠を、晴れならば鍬を持って小舎から現れるのです。仕掛けは乾湿によって伸縮する糸で二つの人形が吊された簡単なものでした。今も同様な仕掛けが乾湿計だと想像されます。
以前の気象台に比べて事前得たデーターは数量ともに増えてはいても天気予測は短期に結果が知れるのでなかなか難儀なものだろうと思います。

江戸の犬

2013-12-12 13:29:43 | 生き物
江戸に多いものは稲荷と犬の糞とか言われます。五穀を司る倉稲(うかのみたま)を祀ったお神様と犬の糞を並べるのは罰当たりと思いますが、犬の行儀のわるさは当今と同じようです。なにも江戸に限ったことではないのですが、情報を手繰るには安直です。
当今は犬の名前は日本語で足りなければ多国籍の犬もいるようだし、マンションの名前同様好き勝手に呼ばわれています。ですが、維新以前には犬の命名はどうだったかが知りたかったのです。ふと思いついたのは南総里見八犬伝でしたが、母?八房以外は犬らしい人名です。ぐっとくだけて花咲爺の飼犬の名はポチですが、可哀想に意地悪爺に殺されます。桃太郎の家来は未だに名なし。
江戸の昔。餌を与えられて居ついてはいたが、夜になるとその家を離れ、生まれ里の飼主の家を番をする、律儀とも利口ともいえる犬がいたそうです。また捨て犬を自分産んだ仔犬同様に乳を飲ませ、併せて十数匹と一緒に暮らしている、もっともその数の内には人間が捨犬可愛さに雌犬の傍に置き去りにしたものもあったそうです。
生類哀れみのころには江戸市中の犬の分別、飼犬か野良(旅犬)か毛色性別もとより飼い主氏名などが書き出されていたのです。太田南畝の「半日閑話」の元禄八亥年犬毛付書上帳には詳しく書かれています。残念なことに犬の名前が省略されています。落語の「元いぬ」の名はシロですが、時代はいつのころでしょう。
人名にしても生まれ歳の干支にちなんで適当にといったところだったのでしょう。

大国主命

2013-12-09 16:15:30 | 地域
観世音寺のうらに鎮守の日吉神社があります。地元ではヒエ神社と呼ばれる。比叡山の日吉大社を分霊したもので平安時代末には置かれていたらしいと、案内板に書かれています。祭神は大己貴神(オオアナムチノカミ)大山昨神(オオアナムクイノカミ)となっています。実のところ二神のことが判らないのであれこれ調べてみました。
大己貴神は稲葉の白兎で有名な大国主命であり、大山昨神は山頂の境界をなす棒代の神格化です。ご存じ大黒様は少しばかり調子に乗りすぎたうさぎを助けられたように巫医の技をもお持ちであったようです。
いずれにしても日本のお神様は汚れは酷くお嫌いになりますが、外つ国のお神様のようにせっかちに道義の判断を押しつけられないのが至極結構だと思います。このおおらかさは失うには惜しいものです。
ただこのお宮には参拝者が少ないのは残念です。御利益信仰もまたよろしき哉。

海鼠の口

2013-12-07 16:28:53 | 生き物
昨日が賞味期日のためか半額(百九十八円)という赤海鼠を買いました。質量味ともに結構でした。
古事記ころに話は遡るのですが、天孫降臨の道案内役猿田彦神がアザカ(推定三重県の地名)で漁りしていたところ、ヒラブ貝に手を挟まれて溺れそうになります。助けた宇受売命は猿田彦神を本拠地送ったのち魚たちを集め「お前らは天つ神の御子に仕え申すかね」と詰問します。お仕え申すかとは早く云えば喰われてもいいかということです。皆のものはやむなく承諾します。ただ海鼠だけが黙っていると宇受売命は懐剣で口を切り裂きました。以後海鼠にも口があるのだそうです。丸ごと買って来たことがありませんが、今後機会があったら観察しましょう。前やら後やらもよく判りませんけれど。
蕪村の句に
 思ふことを いはぬさまなる 海鼠かな





海鼠

2013-12-06 13:21:10 | 日常雑記
ナマコを海鼠などと漢字で書くと妙に生々しく感じます。冬来たりなばですが、出始めはいい値がします。もつとも一寸とした酒の肴ですから大袈裟に言うほどでもありません。
現在は知りませんが茹でて干したのをイリコと言って中国へ輸出されていました。一度だけ中華料理店で食べましたが、美味くはありませんでした。先に戴いた料理の数々で満腹に近かったからでしょう。私のような食の細い者は延々時間をかけての中華風には向いていないようです。
鯣にしろイリコにしろ輸出先の中国ではどのような調理を経て卓に上るのか興味がありました。鯣は塩水に浸け戻せばよさそうです。しかし海鼠の美味は新鮮さにあるので料理上手な中国料理人の手法如何と思っています。
赤ん坊にオシャブリがあります。癖でしょうか指先をしゃぶる児がいます。海辺育ちの人に聞いたことがあります。「赤ん坊にイリコをしゃぶらせておったことがあったなぁ」一体どんな味だったんでしょうか。

靴の鋲

2013-12-05 19:18:56 | 日常雑記
終戦後軍靴が放出され、幸いに籤に当たりました。軍靴ですから重いものでしたが、バック・スキンでしたので、見場は甚だ良ろしかったのです。革が裏返しなのは着脱迅速さからと聞きました。
牛馬を見かけることが少なくなりました。戦後しばらくは貨物自動車に変わって牛車や馬車が活躍しました。牛馬が荷車に繋がれて毎日往来します。牛は藁草履を履かされていたようでした。
しかし、時には乱暴に荷車を置いて駆け出す馬もいました。口角泡を吹いて辛そうに荷車を曳いているのは役目柄とは言え駆け出したくなる衝動も仕方が無かったかしれませんね。でも当座はずいぶん怖かったです。
既に鍛冶屋も見かけるのが出来なくなりました。鋤鍬や包丁などの必要からの鍛冶屋さんは別ですが、馬蹄鍛冶は当然見かけません。
古い話ですが戦時下に小倉市住んでいましたが、商店街近くに馬蹄鍛冶屋さんの仕事場がありました。薄暗いところで温和しく繋がれた馬が馬蹄を替えてもらう作業をよく眺めていたものです。
踵に金具を打った軍靴なんぞは舗装道路で甲高く響かれてはて困ります。外国製DVDで見たお話ですが、大勢の騎馬警察官隊が馬蹄の音高々と群衆を制する場面がありました。何故かキュウンと胸押されました。

赤ちゃんの瞳

2013-12-04 11:59:15 | 日常雑記
近頃は赤ちゃん連れのお買物が多いようです。交通機関や大型店舗も便宜を計らっています。お得意様は老若を問わず女性が多いからです。
ところがお母様方は時によっては瞼に被さるほどの白い防毒マスクをお掛けですが、赤ちゃんは無防備です。大丈夫でしょうか。余り衛生環境は好いとも思えません。存外赤ちゃんには外部への抵抗力があるのかも知れませんね。
先ごろの新聞の科学欄に中央大などの研究グループの纏めた短い話が載っていました。
赤ちゃんは生後五ヶ月ごろから人の顔を認識し始めるそうです。そして白目と黒系の瞳とのコントラストで人かどうかを見分けているらしい、認識する際は脳の右側が反応するとのことです。
認識するとはいえ、個々の識別ができるわけではなく、頻繁に経験する両親と他人との違い以上の認識は考えにくいと思います。もっとも推測はここまでですが。

本屋での買物

2013-12-02 22:04:16 | 日常雑記
本屋に「世界の天然石」という箱入りのものがありました。地球が育てた、本物の天然石が三十種類という代物です。外套の釦大の綺麗な石が小さな囲いの中に治まっています。価格一二六〇円でした。
小学生のころ教材の鉱物標本を持っていました。黄銅鉱・水晶・雲母などがやはり同じように区切られた箱に入っていました。今覚えている鉱物の名はそれだけです。それに比較して天然石は色艶よろしく出身地入りの特大マップ付きであることから買うことにしました。
実はこれだけの分別あってかったのではなく、フラフラとお金を払ったといったところが実情です。右端一番目囲いにはダルメシアンジャスパー主産地インド・ブラジル・硬度65~7・化学組成式S02プラス不純物と、ジャスパーは細かい石英の結晶が集まって出来たものとの説明があります。同様に三十種類天然石「の各説明がなされています。しかし水晶と瑪瑙を除いては日本産はありません。
いらざる知恵知識かもしれませんが、ゆるりと拝見するつもりです。

鵜来島

2013-12-01 13:38:01 | 地域
先日気まぐれから、伊崎漁協の夕市のことを知り見物に出かける気になりました。お天気は曇りがちでした。しかし時季としてはさほど寒さはありません。朝市であれば時間が時間ですから思いつきもしなかったでしょう。土曜日の午後三時からとは好都合な頃合いです。
そんな安直な思案が肝心の市場所在を確かめなかった失敗につながりました。伊崎といえば海に向かって西公園の右手だと多寡を括っていたのです。福岡湾を跨ぐ高速道路を下るとすぐに伊崎バス停があります。恐らくはその周辺と見当をつけていました。
福岡生まれの梅崎春生に伊崎浜や簀の子小学校が夏になると水泳の正科があったなどの随筆があります。最後の作品は「幻花」は五十歳の作です。それについて小林秀雄氏は近来の傑作だと評しています。また山本健吉氏は戦後文学が最初に結晶させ得えた古典として長く顧みられるだろうとしています。文学譚はさておいて以前伊崎には牧場があり、浜は小学生の春生氏らの泳ぎの場所でありました。
「伊崎は漁師の町である。砂浜には漁船がずらずらと並んでいて、おじいさんが背を日に照らされながら、漁網のつくろいをしていたりする。わたしの家にもよく魚の行商人がきて、「ほら、見なっせ。これは伊崎もんのぴんぴんですばい」伊崎もんというと新鮮だというのと同義語であった。(以下略)」
そして地引き網が始まるとこどもたちは網を引く手伝いをする。手伝つたごほうびに雑魚をたくさんもらうのが実に楽しみであったと回顧されています。
伊崎漁港はとっくに福浜とへ移転し、私は見当違いの福岡県海洋スポー協会事務所へと足を向けていたのが失敗でした。しかし鵜来島先に大型だが不格好な油送船が緩慢に運行しています。砂浜に沿った鋪道を時には駆足の青年を見かけるくらいで、頭上近く煩雑な高速道路が走っているとは思えない静かな場所でした。