其蜩庵井蛙坊

井戸の底より見たり聞いたり喋ったり

犬の道中

2008-11-30 21:07:42 | 日常雑記
近くの川を御笠川といいます。ここいらは川幅も狭く、水量は多くありません。ただ川沿いの道は、自動車の往来がありませんので、散歩には快適です。
そこで、健康増進、体重削減のため闊歩なさるご婦人方も多く見かけます。また可憐な愛犬を歩行を労わりつつ、時には懐深く抱きしめて散策なさるご老人もおいでです。
川は起点がどこかは知りませんが、末は博多湾に注いでいます。河口付近の護岸工事や浚渫工事が念入りにされました。十年近く前に人命が失われる大惨事がありましたからでしょう。
おおむね雨の日を除いては、川べりを散歩します。水深も浅く、雨の乏しい日が続くと、流れが覚束なくなることもあります。その割合に水禽も多く、例えば、シラサギ・カルガモ・マガモ・バン・アオサギ・カイツブリ、それにカワセミすら姿を見せます。鯉は放流したものですが、鮒・ハヤ・ナマズ他などがいます。外来種の亀も甲羅を干しています。いつぞやは小型のスッポンが釣り上げられていました。岸や川床には四季それぞれの植物が眼を楽しませてくれます。
ぶらぶら歩きは、四囲からの恵みを自ずと戴ただいております。歩くことで健康保持の効果など考えてもおりませんが、医療費の支出が少ないのは、有難いことだ感謝しております。
これこそ人生の余禄というべきものでしょう。

昔話と歴史

2008-11-29 20:41:27 | 歴史
地方史談というものは、存外に難しいものを含んでいるようです。
福岡県資料という本があります。復刻版を持っていましたが、必要に迫られた方にお譲りしました。
その中で、維新前後の価値変換のために、佐幕派であったために除かれた部分があるのを知りました。新撰組近藤勇はいわば京都治安を守るの警察本部長、会津藩主はその元締めであり、職務遂行ための処罰は報復としか考えら得られません。既に年月を経ていますので、ここで考え直すのには無理はあります。
地方史を読みますと、差しさわりのある事柄に出会います。例えば、戦後の自作農創設には、旧地主とその恩恵を得た方々との評価の違いがあるでしょう。また都鄙の比較による差別も謂れのないものです。耶蘇教徒(あえてカトリック教徒とは書きません)に対しても戦後ですら甚だしい差別と侮蔑がありました。観光資源として城郭も、かっての苛斂誅求の象徴であったと考えるのは、狭量でしょうか。
太陽は一日地球をひとまわりします。しかし地域では半周り、いやまったくBCのままの滞っているところさえあります。地球全域の歴史を、均一な時間経過で進んでいると考えるのは、無理があるのではないでしょうか。早い足並み国々は、その点を温かく考え直す必要はありませんか。


大宰府政庁はいつ

2008-11-23 20:42:45 | 歴史
都での土木事業などに使役するため、正役として、正丁に年間10日間、次丁に5日間、課する歳役があったように、政庁建設の工事には多人数の使役がなされたことと思われます。この土地に集められた人員、また稼動された牛馬や糧秣は、膨大なものであったと推測されます。それら大宰府行政府庁の記録が一片もなく、正史にないということは,不審です。
以下は年表から拾った大宰府に関係する事項です
筑紫太宰(ちくしのおおみこともち)、百済僧85人の肥後漂着を報告(紀)
663(天智2年)白村江の大敗
664(天智3年)対馬・壱岐・筑紫などに防人・烽を設置し、水城を築く
646(大化2年)改新の詔を発す。
649(大化5年)蘇我日向(石川麻呂を讒言した異母弟を筑紫太宰帥に任命、遠ざける。
661(斎明7年)天皇・中大兄・大海人那津に入港(盤瀬行宮に居す) 天皇、朝倉宮にて没す。
『斎明天皇御代某蔵 大錦上阿部比羅夫を太宰帥に任ず』
665(天智4年)百済の遺臣に、長門国の城(下関市か)、筑紫大野城・橡(基肄)城を築かせる。
669(天智8年)蘇我赤兄を筑紫率(つくしのかみ)とする。
671(天智10年)栗隈王を筑紫帥に任ず。
672(弘文元年)弘文天皇の使者佐伯男、筑紫に来り、兵を興すことを促す、筑紫太宰栗隈王、命に従わず。
675(天武3年)筑紫より唐人三十口を貢す。
676(天武4年)筑紫太宰三位屋恒王、罪に依り、土佐に流さる。
681(天武9年)新羅・高麗の使いを饗す。
685(天武13年)筑紫に遣わす防人等、海中に飄蕩し、衣服を失えるを以って、布四百五十端を筑紫に給す。
686(朱鳥元年)筑紫観世音寺に、封二百戸を施入す。
687(持統元年)筑紫大宰(おおみこともち)、新羅からの渡来人
僧俗23人を献上、武蔵国の移す。
689(持統3年)筑紫太宰栗田真人ら、隼人一百七十四人及び布・牛皮・鹿皮等を献ず。
浄広肄河内王を筑紫大宰帥に任ず。
698(文武2年)筑前国糟屋評造春米広国(かすやのこおりのみやつこつきしねのひろくに)、鐘を鋳造(妙心寺蔵)
大宰府、大野・基肄・鞠智三城を修治す。
699(文武3年)大宰府、三野・稲積の二城を修治す。
702(大宝2年)「大宝律令」を諸国に発布する
歌斐(甲斐)国、梓弓五百張を献上、大宰府の用に充てる。
信濃国、梓弓千二十張を献上、大宰府の用に充てる。
704(慶雲元年)。
信濃国、弓千四百張を献上、大宰府の用に充てる。
705(慶雲2年)大宰府に、飛駅鈴八口・伝符十枚を給う。
大納言大伴安麻呂をして大宰帥を兼ねしめ、従四位下石川宮麻呂を太宰大弐に任ず。
708(和銅元年)平城(なら)に都邑を建設する詔を出す。
709(和銅2年)観世音寺造営を急がせる。
710(和銅3年)平城京に移る。
大宰府、銅銭を献上する。
715(霊亀2年)阿部仲麻呂・吉備真備・玄(第8次遣唐使)
718(養老2年)大宰府所部の国の庸を増して諸国と同じくする。
720(養老4年)大宰府、隼人の反乱・大隈国守の殺害を奏上。
大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命する。
新羅使来朝、元明太上天皇登遐により太宰より放還さる。
723(養老7年)満誓を筑紫に派遣し、観世音寺を造営させる
729(天平元年)大宰府、調綿十万屯を貢進する。
730(天平2年)諸国の防人を停止。
太宰帥大伴旅人、筑前国守山上憶良ら太宰官人・九州諸国守を自邸に招き、観梅宴を催す。
735(天平7年)大宰府管内疫瘡大流行、府の大寺(観世音寺)などで疫病終息を祈念して読経。
大宰府で疫死者が多く、今年の貢調を止める。
736(天平8年)大宰府管内貧疫の家に賑恤し、湯薬を賜う。
738(天平10年)観世音寺に五年に限り食封百戸を施入する。
740(天平12年)太宰小弐藤原広嗣、僧正玄・吉備真備を除かんと上奏する。
藤原広嗣が反乱、大野東人を持節大将軍とし、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の軍一万七千を率いてこれを討たせる。
広嗣・綱手兄弟、斬殺さる。
742(天平14年)大宰府を廃して筑前国に併せる。
743(天平15年)筑前国に初めて鎮西府を置き、将軍以下を任命する。
745(天平17年)大宰府を復活する。
僧玄を筑紫に左遷、観世音寺を造らせる。
746(天平18年)僧玄筑紫にて没、世に伝えて藤原広嗣の霊の害する所という。
橘諸兄を太宰帥兼任として、諸道の鎮撫使を任ずる。
753(天平勝宝5年)鑑真大宰府に入る。
754(天平勝宝6年)鑑真、東大寺に戒壇を立て、太上天皇・天皇・皇太后らに戒を授ける。
755(天平勝宝7年)大宰府管内諸国から国ごとに兵衛・采女一人ずつを貢上させる。
756(天平勝宝8年)大宰大弐吉備真備に命じて怡土城を築かせる。
759(天平宝字元年)大宰府の防人には西海道七国の兵士を当てる。
758(天平宝字2年)大宰府に命じて安禄山の反乱に備えさせる
759(天平宝字3年)大宰府に行軍式を造らせ、新羅征討を計画。
760(天平宝字4年)官人を大宰府に遣わし、官人を大弐吉備真備に就いて兵法を習わせる。
762(天平宝字6年)大宰府に弩師(おおゆみのし)を置く。
764(天平宝字8年)大宰大弐吉備真備、造東大寺長官となる。
765(天平神護2年)大宰府、東国防人の再配置を請う。
768(神護景雲2年)筑前怡土城成る。
大宰府に大野・大野城・基肄・鞠智(くくち)三城を修治させる。
769(神護景雲3年)初めて大宰府に綾師(あやのし)を置く。
大宰府に『史記』『漢書』などを賜い、学問を興隆させる。
大宰府の綿二十万屯を毎年京庫に送ることとする。
780(宝亀11年)大宰府官人の任期を4年から5年に延長。
大宰府・対馬に表函を使いは入国させぬよう命じる。
785(延暦4年)大宰府管内九国百姓の浮浪するものの調庸を徴収する。
786(延暦5年)佐伯今毛人(さえきいまえみし)を太宰帥とする。
790(延暦9年)大宰府に鉄兜二千九百余作らせる。
大宰府管内の飢民八万八千余人に賑恤。
793(延暦12年)大宰府管内の郡司・百姓らがみだりに郡内の米を運びだし、売買することを禁じ、国司・官人の位禄・季禄を舂米(しょうまい)を京へ運送することを禁じる(三代格)
795(延暦14年)防人の東国からの徴発をやめて九州の兵士を充て、防人司を廃止する。
797(延暦16年)白丁より撰補する大宰府使部の定員を改める。大宰府に弩師(おおゆみのし)を廃止。
筑前国司を廃止し大宰府に属することにする。
802(延暦21年)大宰府、解由(げゆ)を得ずひそかに逃げる国司の処罰をねがう(後記)
804(延暦23年)壱岐島に配した大宰府管内六国の防人を廃止、壱岐島の兵を分番配置する。
907(大同2年)大宰府、唐より帰国した空海を入京の日まで観世音寺に滞留させる。
908(大同3年)再び筑前国司を置く。
ところが、このなかでは、大宰府政庁建設および修復などの記事は、全くみられません。
本日(2008.11.23)九州歴史資料館の「シンボジウム古代都市・大宰府の成立を考える」がありましたので、拝聴しました。しかし、記録されなかった点は、触れておられません。ただ、井上信正太宰府市教育委員会職員の扇屋敷・通古賀のお話は、想像を伸ばせる可能がありそうです。

25万画素

2008-11-17 20:04:00 | 日常雑記
たくき よしみつ著「デジカメに1000万画素はいらない」を読みました。レンズについて、根強いブランドイメージを持つメーカーがライセンス料をもらって名前を使う事を許可しているに過ぎないなどのほか、眼から鱗がいくつも落ちました。カメラはいまのところ必要もなく、当座の購入も無理ですので、お奨めのサンヨーの「eneloop」充電池付き充電器だけを求めました。
96年3月22日にCASIOの液晶デジタルカメラQV-10を買いました。もうひとつ前、似た様式のカメラが出ていたような記憶はありますが、まア先物買いだったと思います。その月の31日には、FD-10カシオ液晶デジタルカメラ専用フロッピーデスクドライヴも買いましたので、気分としては満足していたのでしょう。新製品に飛びつく軽率さが、デジタルカメラの発展向上に、いくぶん寄与していると、思うのですが。
そこころワープロは持っていましたが、PCがないので、FD-10を使っていたのですが、QV-10と繋がなければ、使えない不便さがありました。
QV-10のマニュアルの主なる仕様は、
記録媒体 内蔵メモリー  16Mbitフラッシュメモリー
記録コマ数    96枚
絞り  F2  F8マニュアル
撮像素子   1/5インチCCD(総画素数  25万画素)
電源    単3型アルカリ電池4個
外となっています。
次々と使い勝手のよい新製品が後追いしました。現在使っておりませんが、グリコのおまけでも古くなれば、価値が出るそうですから、捨てずにおります。



ソマリア海賊

2008-11-16 15:46:31 | 日常雑記
海賊といえば、大航海時代のロマンチックな海洋映画の雰囲気があります。アフリカ東部ソマリアの周辺海域で、海賊が暴れまわっている状況に、危惧を深めた国際社会が動き始めています。
ただ海賊集団が漁師であったこと、外国漁船が漁獲を収奪し尽くし、仕事も奪われたとの言い分には、充分な調査の必要があるのでは、と思います。
アフリカでは約2億人が魚介類を主なタンパク源としているそうです。世界的にも魚は、畜産によるタンパク資源を補うばかりでなく、漁業生活を含めると、10億人の生活を支えているといわれます。
伝統漁法とハイテク漁法の収奪の差は、歴然としています。その上輸出に好条件のものだけが目当てにされ、網にかかっても捨てられる魚も多いのです。嘗てシシャモの雄は、海に捨てられるという、噂がありました。
激減する地中海のクロマグロなどの水産資源を守るため、EU=ヨーロッパ連合は、やっと違法な操業を繰り返す域内の漁船に対して、取締りや罰則の強化を盛り込んだ規制をまとめました。
また火災事故のため、判ったのですが、名ばかりの日本船(実は台湾系資本の漁業会社「玲豊漁業」(静岡市)が所有)で、宮城県気仙沼市の気仙沼港を出港し、シンガポールを拠点にメバチマグロなどを追っていたのです。フィリピン人が20人で、中国人が4人。乗組員のうち日本人は漁労長1人でした。
輸入のおよそ7割を地中海産に頼っている日本に対しても、クロマグロの保護に取り組むべきだと呼びかけています。地中海沿岸諸国は、違法操業を一致して取り締まることが困難な事情にあるようです。
ソマリア海賊は許されない行為ですが、経済のみ重視する法規範だけでは、無くし得ない国際事情も存在しています。海には海の自然に逆らえないルールがあるはずです。海は人類のものであり、生存の共同資産であります。



世界は日の出を待っている

2008-11-12 13:45:56 | 日常雑記
グーグル・アースを眺めて、気の利いた世界地図がないものかと、図書館で探してみました。適当なものはなかったのですが、「世界地図と不思議の発見」の副題「驚きの事実が見えてくる楽しい地理の本」に惹かれて借りてきました。地理の知識を加えたことと「世界でくすぶり続ける領土・民族の紛争図」を読むと、現今のイラン・アフガンの紛争が治まったとしても、いずれどこかへ転移するのではと思いました。またボルネオ島のブルネイ王国にもナウル共和国にも、なんとも悩ましい先行きがあります。
上記本によると、日付変更線のすぐ西側にある土地が、その日のいちばんの日の出を見るということになります。1995年、キリバス共和国が、それまでの日付変更線の位置を東に移しました。日付変更線には、一国の政府の裁量で変更が可能です。
中華人民共和国は、上海や南京を通る東経120度の子午線を、基準としています。ロシアでは、同じ経度差の地域を、五つの時間帯に分けています。
いつのころでしたか「世界は日の出を待っている」という曲がありました。題名だけを記憶しています。セブンイレブのあたりが明るいだけででは、決して夜が明けたことにはなりません。