其蜩庵井蛙坊

井戸の底より見たり聞いたり喋ったり

ピンポーン

2006-06-30 20:10:04 | 江戸随筆より
「江戸の文字を読む」の講座を拝聴しています。先日は「古法挿花会式次第  柳川通編撰」の読みを教えて戴きました。
花会を開くに当たっての場所日時の回状をはじめ、茶煙草菓子などの用意など待合の席の設け方、更には客の席次、文台の飾り、花挿しの手際の鑑賞法等々実に懇切な教示がされています。しかし客に着席前、「手水両便等は済まさせよ」との指導は丁寧さを越えて頬が緩みます。
 札幌の地下鉄ススキノ駅のトイレには、通路のセンサーが人の通るたびに感応して、テープが「ピンポーン 向かって右は男子、左が車椅子の対応身障者トイレです」とうるさくも親切にアナウンスしているそうです。
こども連れの場合駅やデパートでは、まずはトイレの所在を心得るようしました。子どもならず大人でも両便の切迫した要求には苦しむものです。うろ覚えですが、遠藤周作先生の漫筆では「おサルのカゴヤ」を心中歌いながら耐えよとありました。試みたこともありましたが、効ありとも無しとも云えません。

河豚とフノリ

2006-06-23 18:17:40 | 江戸随筆より
洗い張り板や伸子張りなどを知っている人が少なくなりました。洗い張りは物を大事にすることばかりでなく、季節感のある年中行事の一つであったように思います。糊の効いた浴衣を着せられて肌がチクつくのは好きで無かったのが偽らざる気持でした。使われていたフノリ(紅藻類フノリ科フノリ属の海藻)は近頃では刺身皿に乗っかっております。
江戸の昔、内藤新宿の旅籠屋橋本惣八宅で河豚を料理しました。その骨や内臓を裏家の仔犬と飼猫食べたところ、じきに口から泡をふき、くるくる廻って七転八倒、仔犬はそのまま昇天しました。猫は座敷によろめきながら上がってきて、その日壁や襖の腰張りため煮て盆に入れられていたトサカノリを食べました。解毒の効を知ってか知らずか食べた猫は幸いにも助かりました。記録者は畜類でさえ瞬速の間に、幸不幸の分れがあるのだと締め括っています。「兎園小説から」
フノリに河豚の解毒があるとフグサシの皿に添えられること間違いありません。

諸国巡歴日録

2006-06-20 17:29:47 | 江戸随筆より
佐賀藩士牟田高惇が書いた「諸国巡歴日録」を拾い読みしました。かれは、藩主鍋島直正の命で剣術修業のため諸国を巡ったのですが、日々まことに細かく記帳しています,宿銭や人足賃がいくらだとか、道場の造りや広さなど試合(稽古となっています)の相手をした男の器量なども書き込んでいます。また社会世相についての詳しい記録もあります。安政元年十一月四日からの江戸の大地震についても記載があります。かれはそのころ神田お玉が池の千葉道場に出かけていますが、千葉周作の次男栄次郎に散々口実を設けられて稽古を断られます。あげく栄次郎自身に病気だからと、高惇に言わせれば、逃げを打たれたます。やむなくその日稽古に来ていた門弟百人のうちの十二人と手合わせをしますが、出来るのはわずかに二人だと軽く値踏みしています。世評は甚だしく相違するとかれは憤慨しています。
 そこで、千葉道場のために、別に調べてみました。この嘉永六年に、千葉周作は、長男蘇太郎二男栄次郎共々水戸藩に出仕しています。そして、この年の十二月には、周作は死んでいます。病気だというのはあながち嘘ではなかったかもしれません。ただ、栄次郎と高惇はほぼ同年配であり、かれが江戸随一の妙技の主と言われるほどの男なら立会って然るべきだとも思いますね。江戸前が汗臭い田舎侍にどうやら気合負けしたようです。天下泰平、江戸の武芸も遊芸化していたのでしょうか。


伊万里焼の行商人

2006-06-18 13:18:27 | 江戸随筆より
天明2年5月奥州津軽山中で筑前芦屋の行商人が道に迷いました。かれは仲間とともに伊万里焼を船に積み込みし、津軽の宿を基点として行商を続けていたのです。迷ったかれは山中で奇しくも同郷の女性に出会い、一夜不思議な話を聞かされました。
わたしは芦屋の生まれ十七歳で博多に縁付きましたが不縁となり、その後庄の浦に嫁入りし一男一女を得ました。庄の浦は山鹿刑部丞様のご領地で、寿永二年山鹿城に都落ちなされた安徳天皇様が御所を構えられました。わたしら海女は磯のものをお届けしておりました。
ある年わたしは病に罹りました。田舎のことゆえ薬も無く食も進まず、日に日に痩せ衰え、子供達は心配して磯から採ってきた法螺貝の肉を食べさせてくれました。その味が良しかったのか食が進み、全快しました。その後は病ひとつせず、老いた容貌になる事もありません。法螺貝こそ不老不死の仙薬で御座いましたのでしょう。  
しかし人の命は限りあるものです。夫は世を去り、子供も喪い、孫も曾孫も玄孫もみな死に絶えました。そのときの悲嘆と苦しみに身を投げることさえありました。しかしその都度助けられ、不思議と命永らえました。それゆえ皆から、「ヤレ化生の女よ」、「ヤレ切支丹よ」と蔑まれ、住まう在所を追われるやら、国元に追い戻されるやら、終にはこのように津軽の奥山住まいとなりました(蒹葭堂雑録より)。
寿永2年(1183)から天明2年(1782)はちょうど600年の長きになります。超長命の女性が嫁いだ乙丸村庄の浦寿命谷は、現在北九州市若松区内にあり、いまも法螺貝は伝わっており、毎年4月にはほら貝祭りが行われる、と角川日本地名大辞典福岡県には記載があります。また江戸時代には、伊万里焼(有田焼)の相当量が芦屋商人によって船積みされ、筑前焼だとして関西・関東・奥羽地方に売りさばかれていたようです(伊万里焼と芦屋商人 玉井政雄)。

300万年前のルーシーちゃん

2006-06-10 12:44:59 | 科学
2,3年前の冬に転びました。年寄りは転び易いのだそうです。そこで手袋をすることにしました。ズボンのポケットに手を入れないためです。われわれの中学時代には厳しくズボンのポケットを縫い付けるよう校則で決められた学校もありました。ポケットに手を入れた横着な格好はあまり見よいものではないとはいまでも思っています。
考えれば、歩くということは微妙な運動であります。僅かな間合いではありますが、左右どちらかの足一本で体を支えつつ前へ進むのですから。
「アンヨハ上手、転ブハオ下手」の赤ん坊の歩行は、足元の覚束なさより頭の重さと身体の平衡との調節がまだ慣れていないように見えるのです。
赤ん坊は直立して人間らしくなっていくに連れ、やがては腰痛に、ヘルニヤニ、痔などに悩まねばならなくなります。直立の弊害はまだあるでしょうが、人類の進歩も凄ましいからいくらかの辛抱はやむを得ません。
なぜ人間が二本足で歩くようになったかはまだ謎とされています。手を自由に使うためだとか、上からの太陽光にあたる体表面積を少なくするためだとかの説があります。エチオピアで見つかりルーシーと名付けられた300万年前の女性は、直立して歩く骨格構造が備わっていたそうです。気の遠くなるような時間を経ても人間の骨格が四本歩行のままで二本足歩行している現状から、進化とはずいぶん長い時間の経過が必要であるものだ、と嘆息しました。
電波時計の正確さなど比べようもありませんね。