勿論いまでは参勤交代の行列など眺めることは来ませんが、「鞠と殿様」という唱歌では、なかなか華やかだったろうと思えます。
唐津のお殿様がお國帰りをなさった折り、大阪大和屋の人夫雇頭の手代が人足四十人を連れて行列に加わりました。島原のお殿様からも御道中人足の御用を承りましたので、ご城下に逗留することになりました。手代は惣次郎と言い、彼の見聞によれば、次の通りです。
そんなわけで、寛政四年(一七九二年)四月一日の雲仙岳の爆発による大地震に遭遇し、どうやら九死に一生でした。
わたしは地震が激しいのでどうにも堪えきらず、宿を出たときには、既に家屋は倒壊し、往来の水嵩は腰を越すし、東西南北いずれの方も分からぬありさま、男も女も泣き喚くし、山津波から吹き出し泥熱湯が一つになって押し寄せます。わたし外三名はどうやら命を取り留めたが、残る三七名は行方不明となりました。
城下は一面全く砂原となり、眼も当てられぬ惨たる光景です。湾内には船影などは見えず、帆柱ばかりが海上の処々にあるのみで、海には新しい山が出来ているのが見えました。
唐津のおくんち近くなったので、大田南畝の随筆を思い出しました。
唐津のお殿様がお國帰りをなさった折り、大阪大和屋の人夫雇頭の手代が人足四十人を連れて行列に加わりました。島原のお殿様からも御道中人足の御用を承りましたので、ご城下に逗留することになりました。手代は惣次郎と言い、彼の見聞によれば、次の通りです。
そんなわけで、寛政四年(一七九二年)四月一日の雲仙岳の爆発による大地震に遭遇し、どうやら九死に一生でした。
わたしは地震が激しいのでどうにも堪えきらず、宿を出たときには、既に家屋は倒壊し、往来の水嵩は腰を越すし、東西南北いずれの方も分からぬありさま、男も女も泣き喚くし、山津波から吹き出し泥熱湯が一つになって押し寄せます。わたし外三名はどうやら命を取り留めたが、残る三七名は行方不明となりました。
城下は一面全く砂原となり、眼も当てられぬ惨たる光景です。湾内には船影などは見えず、帆柱ばかりが海上の処々にあるのみで、海には新しい山が出来ているのが見えました。
唐津のおくんち近くなったので、大田南畝の随筆を思い出しました。