其蜩庵井蛙坊

井戸の底より見たり聞いたり喋ったり

20世紀の歴史

2009-04-29 21:21:04 | 歴史
近ごろは珍しくありませんが、歴史・動物・落語・地球遺産・図画などをそれぞれのテーマ一として、一週間ごとに発行された雑誌があります。発行所は(株)日本メール・オーダーの、本の題名は表記のとおりでした。
現在私が持っているのが、昭和47年7月17日発行の第2巻第8号「20世紀の歴史21」から終刊(155)までです。そのころ住んでいた近くの夫婦だけで経営していた小さな本屋さんから、毎週買っていました。読んだり、読まなかったりしているうちに、134冊が全く押入れ積まれたままの状態で重なっていました。
この本の裏表紙は、20世紀トピックスとして、写真入りで、時々の話題を醸した記事が載せられていました。そこでいまとなっては満更でない代物となりました。例えば、終刊155(昭和52年2月9日発行)「超現代の視点」には、鶴見俊輔氏の【歴史と非歴史】と題する文章があります。一部分だけですが、写してみます。
「石坂洋次郎が近ごろ『朝日新聞』につづけて書いていた随筆なかで,黒人に会うと親しめない感じがするし,そういう感じをもたないという日本人を信じられないとあった。もう一つ,この前の戟争に自分は反対だったというような人の話をきくと,その人の人格を信じられない,とあった。
 私は,戦争中,『若い人』が出たころから石坂洋次郎の小説を好んで読んできた。その好みは,戦後も,かわらなかった。 長い戦争時代に石坂の小説は決してかなきり声をあげなかったし,おだやかなたのしみを,戦時の許すかぎりえがきつづけた。そういう作品を書きつづけた人の戦後の感想としてきいてみると,胸をつかれる思いする。                    
 戦時の指導者層の掛け声にかならずしも同調することなく,日本の民衆のたのしみをともに追ってくらしてきた人の,実感とは,こういうものか。黒人にはなじめない。日本の国家をつきはなして,まっこうから批判する考え方には,なんかへんなところがある。そういうものかと思う。 このような感じが,敗戦後の今日も,日本人に共通のものとしてあるということからはじめて考えてゆかないと,現代史についての感想をのべるわけにはいかない。となっています。



とぜんなか

2009-04-28 20:26:00 | 文芸
方言は面白いと思います。日本文学の古典「徒然草」は、「とぜんそう」とも読めます。
司馬江漢の「春波楼筆記」には、徒然草に同感した箇所があります。彼はなかなか曲折した信条の主ですから、その随筆だけの部分評価はできないと思います。しかしその意味合いを含んでいるのは間違いないでしょう。
私見ですが、徒然草には世事に絡んだ、いわば処世便宜の教訓が述べられたものも散見され、江戸時代の心学にも一臂貸したのではないかと思います。無常とか世離れしたとは思えないと、独断と偏見ですが、口を挟みたい気がします。二百四十三段はいかがなものでしょうか。
絵は高師直の恋文を口述筆記している、「太平記絵巻 太平記を読む」からの引用です。史実であるか否かは別として、ありそうだなとの幻想が浮かんできます。
とぜんなか、毎日のためでしょうかか。

龍宮城を見てきた

2009-04-27 15:24:50 | 日常雑記
図書館がお休みなので、古い雑本を探していたら、昭和62年の日誌が出てきました。その中に、毎日新聞(10月21日)の切り抜きがありました。少々長いのですが、引用してみます。
【一昨年八月、新潟県刈羽郡西山附の日本海で、海水浴中行方不明になった群馬県吾妻郡那吾妻町岩井四一〇、公務員、剣持賢一さん(28)がこのほど、二年ぶりに元気な姿で自宅に戻り、家族らをびっくりさせた。剣持さんは那覇市から戻ったといい、柏崎署の事情聴取に「私がなぜ、沖縄にいたのかわからない」といっていることから、同署は剣持さんが記憶喪失にかかったとみている。生存をあきらめていた家族や同僚らは「それにしても全くのミステリ⊥と首をかしげながらも無事を喜び合った。
 剣持さんが行方不明になったのは六十年八月七日。同僚十一人と一緒に石地海水浴場で海水浴中、沖合約百㍍付近で行方がわからなくなった。同署らが付近一帯を捜索したが、当時は全く事がかりがつかめなかった。
 ところが、今月十三日になって、那覇市のホテルから剣持さんが自宅へ「帰る金を送ってくれ」と電話したことか生存が確認された。剣持さんは今年八月、県職員を「免職」の扱いになり、生命保険の支払いを申出中だっただけに父親の弘一さん(58)=同町議=ら家族はビックリ。弘一さんが那覇市に迎えに行き無事保護した。弘一さんら家族と二十日朝、同署を訪れた剣持さんは「行方不明になって以来の二年間の記憶が全くない」と話している、という。 剣持さんの話によると、今月十一日夜、沖縄県の恩納村の万座毛海岸で海水を飲み、気が付いたら脚まで海水につかりポロシャツにジーパン姿でリュックを背負っていた、という。名護市まで約二十五㌔歩いた後、バスで那覇市にたどりついた。剣持さんは十一日からの行動は鮮明に覚えているが、この二年間の行動については空白状態で、キョトンとしている。
 同署では「気を失って漂流中、船に救助されたなら届け出があるはずだが……」とキツネにつままれた様子。一方、剣持さんの実家では、家族が無事だったことを喜びながらも「現在、県職員の復職を願い出ているところ。そっとしておいて」と言葉少なく話した。】
二十二年前の記事で、その後どうなったのかは判りません。ただ一度軽い記憶喪失になった経験があったので、多分切り抜いていたのだと思います。

ほとぎ

2009-04-26 10:50:31 | 地域
昨日の新聞に缶文雄氏の芦森工業新社長に就任記事にありました。勿論かなが振ってなければ読めなかったのですが、早速「大漢和語林」を引いて見ました。
缶詰の缶は英語Canの音訳で、本来の意味からは遠いようです。かめ・素焼きの器のことで、酒などを入れる。昔はこれを叩いて歌の拍子をとったとあります。ほとぎへんの漢字は二十ほどあり、知恵を得ました。
人名・地名のヨミは難しいもので、カワノかコウノかなど銀行の窓口に氏名にかなを振るようにとの注意書きを見たこともあります。住んでいたので、読めますが、長崎県の調川なども頭を捻ります。伊達もそうですね。
これは漢字のヨミとは違いますが、町名には土地の人の愛着も有ります。福岡市の町名も新規になってしまいました。いまは天神町の「の」の字は省きますが、以前はテンジノチョウと言いました。雁林町・浜町・魚町・養巴町・土手町など同様です。

時は金なり

2009-04-24 18:16:55 | 日常雑記
わたしたちが日常の談話において、時間ほどわたしたちの身に近い熟知されたものとして、語るものがあるであろうか。そしてわたしたちは時間について語るとき、それを理解しているのであり、また、他人が時間について語るのを聞くときにもそれを理解している。これは、聖アウグッスチィヌスの時間についての告白と(「とき」の地域史)に書いてあります。予々より時間というものについて、分別がつかないのです。
わたしが理解している時間の観念は、小学生のころは一週間の学習時間割のそれであり、汽車通学のころは列車時刻表のそれであります。具体的即物的なものでした。歴史的時間の経過も切実なものではありますが、昨日勤皇明日は佐幕と昨日今日と変わらねばならない身分では有りません。
今時分になってカレンダーを買ったのは、うかつに日にちと曜日を取り違える老化現象が頻々となったからです。差し替え万年カレンダーであってもよろしかったのです。熊のプーさんの見ても楽しいものが僅かの100円です。・裏に糊がついた「09年の元旦から天皇誕生日」まで小さな添付符がついています。もっとも、大安・仏滅・先勝・友引等々まではありません。
一日が時間の集合ならば、刻々の時間にも吉凶があるのでは、思うのですが、如何でしょう。


鶯籠

2009-04-20 20:21:09 | 歴史
四月十一日のブログに「鶯の鳴き較べ」の話を書きましたが、泰平な江戸時代ならでは、と思っていました。ところが、太平記を読むと、佐々木道譽配流の場面に、見送る参百騎の若党が手毎に鶯籠を持っていたと有ります。南北朝時代は、武士も公家も内々の都合で、相互に何時蹴落とされるか、身内の離反さえ定かでない世情に、鶯を飼い、鳴き声を競い合う遊びに熱中する日常があった、とは考えさせられます。
佐々木道譽の配流の原因は、京都妙法院を焼き払ったという乱暴狼藉です。けれども世阿弥に経済的援助するなど、連歌・能楽・茶道・華道の興隆に力があり、それら全ての家元だった、とさえ言われております。
1950年以降は、野鳥は飼育禁止、許可なしでは鶯も飼えないようになりました。鶯に限らず、野鳥の餌付けは根気と熟練の知恵が要るようです。こんな手業も伝統芸に加えられないのでしょうか。

主婦の店

2009-04-19 12:00:50 | 日常雑記
昨日近頃出来たイオンモールを見物しました。本来ジャスコと店舗が集合する場所ですから、客は買物が目的でしょうが、見物に終始することになりました。
書籍文具売り場には、夥しい数の商品が並んでいます。自己主張の激しい書籍の表題は、「一犬虚を吠ゆれば、万犬吠ゆ」でありす。また、漫画本も書棚に、肩を並べて競っています。漫画本もひとかどの書籍でしょう。
ペット及び飼育用品の売り場もかなり広く、商品の仔犬が所在なげにしておりました。犬猫の食料品は贅を極めており、美麗な缶詰は人間様用に紛れる虞すらあります。
昭和30年代の初め,わが国の小売商業は明確に二重構造化していたそうです。零細小売商人層は,わが国の保守政治支配の社会的基礎の1つでありました。だから彼らの社会的地位を保障するために百貨店の営業には法的規制が加えられていたのです(二〇世紀の歴史による)。
ところが、昭和33年12月に神戸三宮に「主婦の店ダイエー」が開店し、翌年には西友が、以後の経過は周知の通りです。そのころ福岡市渡辺通りにも、同じようなスーパー方式の店が開店はしておりました。

郷党意識

2009-04-18 20:41:25 | 歴史
時期は少し遅れていますが、先ごろ春の選抜高校野球が終わりました。地元高校出身だとうっかり肩入れしたところ、「選手は他所者ばかりじゃ」と苦い顔をされました。それでも満更ではない雰囲気でしたから、なまじなことは口にすべきでないようです。
村内でしかも同じ小学校生徒でありながら、住まいが川を隔てているため、何かといがみ合うことがあった話を聞きました。時には、川を挟んで双方対峙し、小粒でしょうが、石の礫を投げ合って気勢を挙げたことすらあったようです。
偶々その土地の郷土史を読みました。同じ村内ではありますが、合間を流れる川が藩境です。そこで、両藩双方で井堰紛争が絶えませんでした。
けれども、昭和に至っても、小学生にすら妙な対抗意識が残っていたのは、どう考えればいいのでしょうか。

幼児の顔

2009-04-17 21:25:39 | 日常雑記
当市の毎月の広報には、「おめでとう1さい」と赤ちゃんの写真を載せています。親御さんの工夫もあってか、なかなかいい写真が並んでいます。そして命名にも、それぞれの思案があるように見受けられます。
毎朝洗顔の折には、嫌でもおのれの顔を眺めねばなりません。年頃の亡父の顔に似てきたなとは思いますが、格付けすると当方が落ちるようです。これはあながち私のみの現象でなく、世間の通例のようです。較べる資料を多く持ちません。そこで、勢い政治家経済界のお偉方など、新聞雑誌記載の写真などから類推しているのですが。
近ごろ中世南北朝時代の歴史の本を幾冊か読みました。小学生のころ教え込まれた知識や時代認識とは異なるのは当然です。そのころから七十年の歳月が流れています。学問としての新しい知見も当然増えていることでしょう。
当時の登場人物の肖像画では、「バサラ大名」佐々木道誉の面構えは、時代が生んだ怪傑らしくて業績を首肯させます。人品骨柄と言いますが、面構えは人物を分別するいい材料ですね。

青葉繁れる

2009-04-14 15:03:13 | 日常雑記
観世音寺や近くの公園に大きな楠樹があり、いま盛んに枯葉が舞い落ちています。落葉はこの時季の景物なのですが、あまり俳句などに詠まれていないようです。落葉を指先で摘んでみると、揮発性のいい香りがします。
先日『桜井の訣別』の六番までの歌詞を、教えて戴きました。小学生のころ頻りと唄わされたものです。青葉若葉のころ、野山を歩きながら唄っていると、何故かしっくり来ます。ことさらに忠臣大楠公親子を偲んでではなく、通常の父と子の分れの心情が惻惻として伝わってきます。
そのせいもあって、『太平記』を読んでみました。なにしろかなりの量ありますので、「日本の古典をよむ16(長谷川端)小学館」で読みました。触りが纏めてあり、原文も併せてあり、大変便宜でした。
文部省唱歌では、後醍醐天皇に拝顔の機会を得られなかった児嶋高徳が、お宿の庭に在った桜樹の幹を削り、「天勾践を空しうする莫れ」と書き付けたと記憶していました。ところが、「太平記」では桜ではなく、柳となっています。桜と柳では詩情としていくらか違いがあるようですね。