其蜩庵井蛙坊

井戸の底より見たり聞いたり喋ったり

星野村

2006-10-31 18:57:08 | 歴史
星野村
好天気続きなので、星の文化館へ出かけてみました。
途中バスの乗り継ぎに躓きがあって、凡そ一時間半ほど麓の停留所に着くのが遅れました。
登りなかほどの麻生神社で軽く昼食を取り、写生などしているうちに星の文化館はこの次と気分が変わりました。
家に戻って角川日本地名大事典(福岡県)を引いてみました。読むと星野村は、今は穏やかな山村で、玉露の生産地として全国に著名ですが、なかなか波乱な時代を潜ってきた模様です。
南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子懐良親王が征西将軍に任ぜられ九州鎮撫に奮闘され、この地でなくなられています。
また鎌倉後期には、金山が開発され、今も至る所に採掘の跡が見られるそうです。江戸時代には開山・閉山が繰り返され、明治七年ごろ再び生産が開始されたのですが、同十七年ごろには閉山となったとあります。その折、金鉱投資で資産を失った人もあったとの昔話があるそうです。
宝暦の一揆には生葉郡中では、鹿狩りと称して三百人が鉄砲をもって参集したと言いますからけっこうな過激派ですね。かねてより有馬藩から鉄砲二百丁が与えられ、鉄砲の稽古を命じられていますし、時代は下がるのですが、戊辰戦争には山筒隊として二百名が北海道まで遠征し、その功でその三十七名が士族となったそうです。

オタリアとトド

2006-10-28 20:36:54 | 生き物
 先日動物園に行きました。正門近くのトドをしばらく眺めた後、ふと動植物園イラストマップを見て、オタリアであることに驚きました。
もっともアシカ亜目アシカ科アシカ亜科までは同類、そのあとがオタリア属オタリアとトド属トドとであるから、恥をかくほどの間違いではないでしょう。英名ではサウスアメリカン・シ―ライオンとステラァズ・シ―ライオンです。
トドは1960年代に漁業関係者から有害鳥獣と目されて、航空自衛隊のF86戦闘機により機銃掃射されたそうです。しかし北海道土産に、「熊カレ―」「えぞ鹿カレ―」と並んで、「トド・カレ―」があるそうですから、両者間には和解が成立したのでしょう。
オタリア君、フテ寝をしているさまに見えたので、声を掛けますと、「あァあァ」応答し、前足を振ってくれた。さすがに三度に及ぶと三度目は無視されましたが。

天満宮の狛犬

2006-10-24 17:30:06 | 日常雑記
幾分しつこいい気はするのですが、もう一度だけ狛犬のことを書きます。狛犬の写真を並べているうちに、天満宮のそれを落しているのに気がつきました。そこで、急いで補足しました。
天満宮には、五対の狛犬があります。そのうちの一対は入り口近くの石灯篭の上にあり、見落としそうです。
うち二対の狛犬の目玉には、色つきの玉が嵌められています。材質のガラスでしょう。
拝殿前の狛犬(写真)は、奉献の年代は古くなさそうです。もう一対は鯉が泳ぐ小さな池そばあります。この狛犬はいくらか時代がかっています。そして目玉とその周囲の材質が狛犬の体躯部分とは異なっているように思えます。
変わっているのは単なる石工さんの思い付きでしょうか。



狛犬さんのつけたし

2006-10-19 21:31:57 | 日常雑記
狛犬の写真をいくつか写した後でしたが、芦田正次郎氏著「動物信仰事典」という本を図書館から借りました。そして、面白い示唆を受けました。

狛犬は、獅子(ライオン)を霊獣化した唐獅子(体毛を渦巻で表す)と習合されたこと。
 狛犬は高麗犬とも書くように犬というより、異国の犬つまり獅子(ライオン)であること。
 この狛犬には、たてがみを持つものが多く、体毛をカールさせるのは、渦巻に強い霊性を示しているとのこと。
社前に控える狛犬の前足に、紐が結ばれている例があるが、これは家出の足留めの呪いといわれている。こうすれば家出人の消息がわかったり、本人が遠くに行かないという。
などです。
江戸の昔も、近親者の家出が稀ではなく、悩ましかったようで、「節用集」にも同様の呪いめいたものが書かれています。

徒然草第二百三十六段に「狛犬」の話があります。聖海上人が兼好さんに茶化されてはいます。ただ、ちょっとばかり解せないのは、丹波出雲のお宮の狛犬は、子供の手で容易に向きを変えられる軽々しいものだったのでしょうか。

突飛な発想ですが、狛犬の根源はスフィンクスであり、中国六世紀の梁時代に有翼獅子となり、更には、新羅統一時代八世紀の慶尚北道月城郡の古墳前にある高麗犬と変化し、海を越えて当地に伝来したのでは、などと思いを馳せました。
水天宮内の水神社社前の狛犬は、造形の極みに到っていると思うのですが。
写真は飯盛神社の狛犬

可愛い狛犬

2006-10-14 22:12:13 | 地域
久留米の筑後川沿いに水天宮があります。建礼門院に仕えた伊勢が平家没落後,その霊をまつったのに由来するといわれ、久留米藩主有馬忠頼が社地・社殿を寄進したそうです。全国各地の水天宮の総本社で,安産・水難よけで信仰を集めています。その境内に水神社があり、御祭神は弥都波能売神(みずはのめのかみ)です。写真はそこの狛犬です。
筑後市水田天満宮の狛犬を写真で見ましたが、こちらもなかなか独特な風姿です。慶長十五年に、奉献されています。いずれ拝観の機会を得たいと思っています。
水神社の狛犬はユーモラスな風貌で、しかもたてがみの有ることは明瞭、製作者の石工さんの虚実を巧みにない混ぜた逸品だと思います。


狛犬サン

2006-10-12 19:28:50 | 歴史
狛犬の表情が面白いので、写真を撮っております。近辺お宮の数はかなりあり愉しみです。ちなみに、国土地理院の地図で大字と表示されているところは、おおよそ村であったと推測していいそうですから、一村に必ず一社ありです。
ところで、狛犬は字を高麗犬と当てられているところから、昔々高麗から伝来したとばかり思っておりました。そう書かれたも辞書もあります。
しかし、世界大百科事典の記述によれば、
その起源はペルシアやインド地方にあるが、日本ではその異形な姿を犬と思い.日本犬とはちがっているので、異国の犬すなわち高麗の犬と考えたのである。したがって狛犬と獅子と形を混同したのであるが.平安時代には明確に区別されていた、
とあります。一転して高麗渡来より、スケールがぐっと広がり、またまた楽しくなりました。
後世になると二つは混同され、神社や仏寺の前に守護のために置かれた獅子は、しだいに犬の形にちかづいて(狛犬)と呼ばれるようになり、なるほどなるほど、
更には、インドの仏寺や中国の宮門、陵墓の前などにも獅子などの動物の像をならべる風習がみられ、この風習はまたエジプト、バビロニア.アッシリアなどの自然崇拝に由来するが.日本の場合もこれらの習俗にならったものであろうと、なっております。
まだ写真の数はほんの僅かですが、どの狛犬もそれなりの表情、一様ではありません。
写真の狛犬は宇美八幡宮ではルーキーでしょう。

赤とんぼ

2006-10-11 20:51:02 | 生き物
トンボという昆虫は、水のなかで生まれつき、変身しては軽々と空中を飛び廻る、思えば羨ましい身上です。

赤とんぼは種類が多くて、写真のトンボの特定できません。マエタテアカネ・ホソアカトンボ・ヒメアカネ・ナツアカネなどあるようで、軽はずみにこれだと決め兼ねています。間違いのあるのを承知で、「マユタテアカネ」ではあるまいかと推測してみました。

ウスバキトンボの姿は、もう見かけなくなりました。熱帯地方から太平洋を、油紙のように薄い四枚の羽根でやって来るのですから感心します。ひょっとして、この国が蜻蛉島(あきつしま)とも云うからでしょうか。

訂正「マユタテアカネ」ではなく「コノシメトンボ」でありました。


樹に思いあり

2006-10-10 20:02:35 | 地域
昨日甘木に行きました。帰りのバスに時間待ちがありましたので、商店街の裏あたりを歩いてみました。すると、安長寺というお寺がありました。近頃狛犬サンに関心がありますので、境内の狛犬の写真を撮りました。

狛犬はお宮にあるとばかりと認識しておりました。ここ安長寺は、甘木山安長禅寺臨済宗のお寺です。は・・はァンそうでしたか、お寺にも狛犬サンの居場所があるのですか、と思いました。

そして、拝殿の裏に廻りますと、大きな楠の樹があります。次の記述は安長寺の縁起から写したものです。

この安長寺と須賀神社の大楠は樹齢も古く、須賀社の楠の芽立ちは青芽で男楠、安長寺の方(写真ご参照)が赤芽で女楠に見立てられ、この二本の大楠は仲睦まじく、昼間は恥ずかしいので知らぬふりをして、夜ともなれば梢を伸ばして触れたり、又二本の楠を結ぶ役目を梟が取り持つと言われ、結びの楠とも言い伝えられています。
 


月が出た 出た 月が出た

2006-10-09 09:53:54 | 日常雑記
かって、炭鉱節のメロデーに始まる「炭鉱の皆さんへ 」という放送がありました。
また「農家の皆さんへ」という放送もありました。今のお昼の憩いというのがその面影を残しているようです。
しかし、炭鉱の皆さんのことは、とっくに忘れられてしまっているようだと思い込んでいました。
ところが、「ふるさとの文化遺産活用推進事業実行委員会発行」のパンフレット「ふくおか歴史彩発見」を読むと、大牟田市では、近々三池炭鉱などの近代化遺産をめぐるウォーキングなどが催されることを知りました。
今思えば資源のないお国柄として、石炭がどれほど疲弊した国力回復の原動力となったことでしょう。


坂の長崎

2006-10-05 20:14:12 | 日常雑記
先日長崎に行きました。旅に出たのは三年ぶりです。別段の理由はないのですが、思い立つだけでも億劫だったのです。しかしこのたびはご近所のお誘い、身ひとつで連なりました。
長崎は今度で三度目ですが、宿泊の宿のせいもあって坂の長崎をつくづく実感しました。
ところで帰ってきてのことですが、江戸時代の「旅行心得」がありましたので読んでみました。

一、 途中より道づれを同道の体にて泊まり給うべからざること。
一、 良薬なりとも人に与ふべからず、人より貰いし薬も用ゆべからず。
一、 近道決して通るべからず。
一、 女を道連れにいたすべからす。
一、 大酒、遊女ぐるい、喧嘩口論、国所自慢、諸勝負無用。
一、 宿役人宿帳、名前いつわりを申さず、国所よく記し申すこと。
一、 旅籠屋に着いては第一に火の用心、戸締り、湯に入るとき金銀人に預け申すまじく、また座敷の方角を覚えておくべきこと。
一、 脇差荷物は主人に相預け申すべきこと。

なるほど昔も今もと合点しました。
それにしても長崎のお方は、さぞや足腰ご丈夫だろうな、と思いました。