星野村
好天気続きなので、星の文化館へ出かけてみました。
途中バスの乗り継ぎに躓きがあって、凡そ一時間半ほど麓の停留所に着くのが遅れました。
登りなかほどの麻生神社で軽く昼食を取り、写生などしているうちに星の文化館はこの次と気分が変わりました。
家に戻って角川日本地名大事典(福岡県)を引いてみました。読むと星野村は、今は穏やかな山村で、玉露の生産地として全国に著名ですが、なかなか波乱な時代を潜ってきた模様です。
南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子懐良親王が征西将軍に任ぜられ九州鎮撫に奮闘され、この地でなくなられています。
また鎌倉後期には、金山が開発され、今も至る所に採掘の跡が見られるそうです。江戸時代には開山・閉山が繰り返され、明治七年ごろ再び生産が開始されたのですが、同十七年ごろには閉山となったとあります。その折、金鉱投資で資産を失った人もあったとの昔話があるそうです。
宝暦の一揆には生葉郡中では、鹿狩りと称して三百人が鉄砲をもって参集したと言いますからけっこうな過激派ですね。かねてより有馬藩から鉄砲二百丁が与えられ、鉄砲の稽古を命じられていますし、時代は下がるのですが、戊辰戦争には山筒隊として二百名が北海道まで遠征し、その功でその三十七名が士族となったそうです。
好天気続きなので、星の文化館へ出かけてみました。
途中バスの乗り継ぎに躓きがあって、凡そ一時間半ほど麓の停留所に着くのが遅れました。
登りなかほどの麻生神社で軽く昼食を取り、写生などしているうちに星の文化館はこの次と気分が変わりました。
家に戻って角川日本地名大事典(福岡県)を引いてみました。読むと星野村は、今は穏やかな山村で、玉露の生産地として全国に著名ですが、なかなか波乱な時代を潜ってきた模様です。
南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子懐良親王が征西将軍に任ぜられ九州鎮撫に奮闘され、この地でなくなられています。
また鎌倉後期には、金山が開発され、今も至る所に採掘の跡が見られるそうです。江戸時代には開山・閉山が繰り返され、明治七年ごろ再び生産が開始されたのですが、同十七年ごろには閉山となったとあります。その折、金鉱投資で資産を失った人もあったとの昔話があるそうです。
宝暦の一揆には生葉郡中では、鹿狩りと称して三百人が鉄砲をもって参集したと言いますからけっこうな過激派ですね。かねてより有馬藩から鉄砲二百丁が与えられ、鉄砲の稽古を命じられていますし、時代は下がるのですが、戊辰戦争には山筒隊として二百名が北海道まで遠征し、その功でその三十七名が士族となったそうです。